西也の心の中には、確かに好きな女性がいた。しかし、本当に好きだったのは若子だった。ただ、それを彼女に正直に伝える勇気がなく、嘘をついてしまったのだ。 美咲は何かを思い出したように、少し困惑した表情を浮かべながら尋ねた。 「松本さん、あなたは私が彼の好きな人だと言いましたけど、あなたたちは夫婦ですよね。それなのに、嫉妬とかしないんですか?」 若子は少しばつが悪そうに微笑んで答えた。 「高橋さん、実は私と西也の結婚って、すごく複雑なんです。私たち、愛し合って結婚したわけじゃないんです。だから......」 若子は少し言葉を詰まらせた後、続けた。 「でも、高橋さん、信じてください。私と西也の関係は、あなたが想像しているようなものではありません。結婚した理由も、その......」 若子は自分が話をまとめきれないことに気づき、ため息をついた。 「もういいです、正直に言いますね」 そう言って、若子は事情を美咲にざっくりと説明した。 それを聞いた美咲は、一瞬その場に座り込みたくなるほどの衝撃を受けた。 「つまり、彼を助けるために結婚したんですか?」 若子は静かに頷いた。 「そうです。本当は、西也が高橋さんのことを好きだって聞いて、彼が高橋さんを追いかけて、結婚できたら一番いいと思っていました。でも、彼が言ったんです。『美咲に断られた』って。だから、私も仕方がなかったんです」 美咲は困ったように微笑んだ。 「なるほど、そういうことだったんですね」 どうやら西也は若子に対して多くの嘘をついていたようだ。そして、そんな彼が一体何を考えているのか、さっぱりわからない。好きなら正直に告白すればいいのに、なぜわざわざ好きでもない女性の名前を挙げて嘘をつくのだろう。 けれど、結局のところ、彼は好きな女性と結婚しているのだから、この話はなんとも複雑だった。 若子は真剣な表情で言った。 「高橋さん、お願いです。この話は、他の誰にも言わないでいただけますか?」 美咲は軽く頷いた。 「安心してください。誰にも言いません。松本さんが私に話してくれたのは、私を信じてくれているからですよね」 「ええ、そうです」と若子は微笑んで言った。 「だって、西也が好きになった女性が悪い人なわけがないと思うんです。彼が選ぶ相手なら
雅子は辺りを一巡し、角から若子がサービススタッフと一緒に歩いてくるのを目にした。 慌てて近くの柱の陰に身を隠し、二人の様子を伺う。どうやら何か話しているようだが、会話はすでに終わったところだった。 若子はそのまま別の方向へ歩き去り、代わりに美咲がこちらに向かってくる。 雅子はその場を動かず、直接美咲に声をかけた。 「ちょっと、あなたたち二人で何をこそこそ話してたの?」 美咲は冷静に答えた。 「何かご用ですか?」 雅子は美咲を上から下まで値踏みするように見た。 「あんたと松本ってどういう知り合いなの?」 美咲は落ち着いた声で答える。 「失礼ですが、あなたは......?」 「私、桜井雅子。あと二日でSKグループの総裁夫人になる予定のね」 雅子は得意げに自分の肩書きを宣言した。 美咲は丁寧に微笑みながら言った。 「桜井さん、松本さんとは以前食事をご一緒したことがあるだけで、それほど親しいわけではありません」 「本当に?それで、どうして彼女の夫を『遠藤総裁』なんて呼ぶの?あの人、ただのサービススタッフでしょう」 「遠藤総裁」という言葉に、雅子は嫌悪感を露わにした。 美咲は軽く首を傾げて答えた。 「サービススタッフ?桜井さん、それは誤解されていますよ。彼は雲天グループの総裁です」 「雲天グループの総裁?」 雅子の頭にまるで雷が落ちたようだった。 「それって、あの国際的なグループのこと?」 雅子は震える声で聞いた。 美咲は静かに頷いた。 「ええ、そうです」 雅子の心臓は激しく高鳴り、パニック寸前だった。 そんな馬鹿な!若子が雲天グループの総裁と結婚しているなんて、ありえない! いや、絶対に間違いだ。だって以前、山荘で西也を見かけた時、彼は確かにサービススタッフの制服を着ていた。それが総裁だなんて、信じられるわけがない。 でも......もし本当に彼が雲天グループの総裁だとしたら?つまり、若子は修と別れた後、すぐにまた巨額の資産家を捕まえたということ? 「桜井さん、大丈夫ですか?」 美咲は雅子の顔が真っ青になっているのを見て、少し愉快な気分になっていた。 「あんた、本当に松本と親しくないの?」 雅子は疑いの目で問い詰めた。 「桜井さん、それはあなた
修は左思右考しながら、ついに口を開いた。 「若子をちゃんと検査に連れて行ったのか?」 どうしても心配だった。もし西也が若子を病院に連れて行ってくれるなら、それでも構わない。 西也は少し眉をひそめながら答えた。 「普通に元気じゃないか。それをなんで聞く?」 修は静かに言った。 「若子とは離婚したけど、何年も一緒に過ごした仲だ。兄妹みたいなものだろう?心配するのは普通だ」 その言葉に、西也は冷たく鼻で笑った。 「お前が彼女を妹だと思ってても、若子はお前を兄だと思ってるか?ただのクズな元夫のくせに」 修の表情が険しくなった。 「遠藤西也、お前、そんなに得意げな顔してられるか?若子がお前と結婚したのは、愛してるからじゃないだろう」 西也は膝の上に置いていた拳をゆっくりと握り締めた。 「じゃあ、彼女はお前を愛してるのか?愛してたなら、なんでとっくに復縁してないんだよ?どうして俺と結婚してるんだ?俺が得意げになるべきじゃないのはわかってる。でもな、いい加減自覚しろよ。兄妹みたいな顔してるお前を、若子は気にもかけてない」 修は口元を引きつらせながら言い返した。 「お前、若子の顔を立ててやってるだけだ。俺が本気を出せば、とっくにお前なんか消してる」 西也は静かに立ち上がり、スーツを整えると、窓の外を眺めながら冷笑した。 「じゃあ、俺が襲撃されて、死にかけたのは全部お前の仕業ってことか?」 西也の堂々たる非難の言葉に、修はテーブルを勢いよく叩き、立ち上がった。 「証拠でもあるのか?証拠もなしに俺を貶めるな」 「じゃあ、お前は無実ってことか?」 西也は冷笑を浮かべた。 「無実なら、なんでそんなに怒る?心当たりがあるからだろう?」 修は大股で西也の背後に立つと、肩を掴んで強引に振り向かせた。 「わざと俺を怒らせてるのか?」 「怒らせるつもりなんてない。ただ、お前が怒っただけだろう」 西也の声は冷え冷えとしていた。 「藤沢、俺は多くのことを忘れた。お前のことも忘れた。でもな、お前って本当に哀れだよな」 修は目を細め、その瞳に鋭い光を宿らせた。 「遠藤、知ってるか?若子はずっと俺にお前を傷つけるなって頼んでたんだ」 そう言うと、修はスマートフォンを取り出し、若子から送られてきた
西也は拳を強く握りしめ、吐き捨てるように言った。 「お前、何を得意になってるんだ?たかが一通のメッセージだろ。それがどうした?むしろこれで、若子が俺のことをお前より気にかけてる証拠だ」 「そりゃそうだろうな」修は笑いながら答えた。 「お前、今はすっかり弱っちいからな。毎日若子に世話を焼いてもらわなきゃ生きていけない。大の男が情けない話だな。自分の身すら守れず、ボロボロになって死にかけたくせに、記憶喪失までして、今じゃ女に守られてるなんてな。前に立たれて風よけになってもらってるお前、滑稽だよ」 「藤沢!」 西也は勢いよく修に詰め寄り、その胸元を掴んだ。 「お前、何を偉そうに!若子が俺に言ったんだ。お前が他の女のために彼女と離婚したってな!お前なんてただのクズ野郎だろうが。今さら手に入らないからって、俺を怒らせようとしても無駄だ。若子は俺の女だ。永遠にな。毎晩彼女は俺の腕の中で眠る。彼女を抱ける男は俺だけだ。お前じゃない。この先もずっと、お前には無理だ!」 修の瞳には怒りの炎が燃え上がり、今にも西也に拳を振り下ろしそうだった。だが、若子が懇願するように見せたあの表情を思い出し、その怒りを必死で押し殺した。 修は強く握りしめていた拳をゆっくりと解き、西也の手首をがっしりと掴むと冷たく言った。 「遠藤、俺は若子に約束したんだ。お前をいじめないってな。でも今のお前はこのざまだ。俺の相手になるわけがない。俺は弱者をいじめる趣味はない。けどな、回復したら喜んで相手してやるよ」 そう言って、西也の手を乱暴に振り払うと、修は一歩後ろに下がった。 西也はまるで怒り狂った獅子のように胸の中に炎を抱え、次の瞬間には修を殴り飛ばそうと動き出したが、そのとき、遠くから人影が近づいてくるのが目に入った。 西也の目が一瞬狡猾に輝き、修に近づくと突然手を振り上げた。 修はその動きを見逃さず、西也の手を素早く掴むと低い声で言った。 「やる気か?」 「どうした、怖じ気づいたのか?」 西也は挑発するように笑った。 修は目を細めながら冷たく言った。 「若子との約束だ。お前には手を出さない」 そう言って、西也の手を放し、その場を離れようとしたその瞬間だった。 西也は急に後ろへ数歩下がり、派手な音を立てて壁に頭をぶつけながら倒れ込ん
若子はそっと手を伸ばし、西也の額に触れながら優しく尋ねた。 「痛くない?」 西也の額には赤みが残っていたが、彼は小さく首を振り答えた。 「大丈夫だよ、若子。俺が悪いんだ。しっかり立てなかった俺のせいだ」 「そんなことないよ。全部見てたから」 若子はそう言いながら修の方を振り返り、怒りを露わにした目で睨みつけた。 「藤沢修!西也の今の状態がわかってて、なんで手を出すの?わざとやったんでしょ?もし西也に何かあったら、私、あなたを許さない!」 最後の言葉はほとんど叫び声だった。その一言一言が鋭い刃となり、修の心を切り刻み、深い傷を残した。 修は呆然と若子を見つめていた。西也をかばう若子の姿を目にした瞬間、彼の魂は抜け落ちたかのように感じた。残ったのはただの空っぽな殻だった。 「若子、お前......」 雅子が何かを言おうとしたが、修は彼女の腕を掴んで強く押しのけた。 「お前には関係ない。どけ」 「でも、修、彼女が......」 「どけって言ってるだろう!」 修が怒りの目で睨みつけると、雅子は怖気づいて口を閉じた。 この男、本当に狂ってる......! 心の中で毒づきながらも、雅子はそれ以上何も言えなかった。 一方で、若子は西也を支えながらゆっくり立たせた。 「西也、大丈夫?体はどう?」 西也は首を横に振り、小さな声で答えた。 「平気だよ。若子、怒らないで。俺が体調悪くてちゃんと立てなかっただけだ。それに、藤沢もそんなに強く押したわけじゃない。多分、彼も少しカッとなってただけだよ」 彼の言葉は一見自分を責めていないように聞こえるが、その内容は明らかに修が彼を押したことをほのめかしていた。 それを聞いた若子の怒りはさらに燃え上がった。 「修!何で西也に手を出したの?彼があなたに何をしたっていうの?もし私が原因なら、私に怒ればいい。私を責めて、私を殴ればいい!桜井さんと結婚するために私と離婚したのに、それでも私が許さなかったから?あなたが『愛してる』なんて言ったときに、私が復縁しなかったから?その上、私が西也と結婚したから?全部私が悪いんでしょ?じゃあ、私を殴ればいい。なんで西也をいじめるのよ! いつも私の言葉を聞き流して、私のお願いを一切無視して。いつだって自分勝手で、自分が正しい
修の瞳に浮かぶ怨みと哀しみを見て、若子は一瞬動揺した。 その表情は、彼女の心に一抹の迷いを呼び起こした。もしかして、本当に修を誤解しているのだろうか? 彼の姿はどこか無実で、絶望的に見える。まるでかつて修が若子を誤解した時のようだった。若子がどれだけ真実を訴えても、修は耳を貸さず、雅子の言葉だけを信じた。雅子がいつも哀れなふりをしていたからだ。 しかし、その考えが頭をよぎると同時に、若子は自分に怒りを覚えた。なぜそんなことを考えたのか。修はこれまでに何度も彼女を騙してきたのだ。しかも相手は雅子。彼女のような人と西也を比べるのは馬鹿げている。 「信じるわ」若子は静かに言った。 その言葉を聞いて、修は一瞬呆然とし、信じられないような表情を浮かべた。彼は若子の瞳に、ほんの少しでも信頼の光を探そうとした。しかし、耳に届いたのは錯覚のような言葉だけだった。 若子の目に映っていたのは、冷たさと皮肉だけだった。「信じる」という言葉が、修には皮肉にしか聞こえなかった。むしろ、彼女が「信じない」と言うよりも、心に突き刺さった。 西也の眉がかすかに動き、不安げな光がその瞳をよぎった。 若子は本当に修を信じたのか? 場の空気が凍りつく中、修だけが若子の言葉の裏に隠された刺々しさを感じ取っていた。 若子は続けた。 「修、あなたは何も間違ってない。すべて他人が悪いのよね。あなたはいつだって正しい。この世界の誰もがあなたを信じるべきなんでしょう?」 そう言いながら、若子は西也の腕をそっと取り、柔らかく言った。 「西也、行きましょう」 修は拳を強く握りしめ、静かに言った。 「若子、俺が約束したことは絶対に守る。俺は彼をいじめたりなんてしてない」 「ええ、そうね。あなたはいじめたりなんてしてないわよね」若子の声は怒りに満ちていた。 あなたみたいな偉大な藤沢総裁が誰かをいじめるなんてあるわけがないもの。争いなんて一度もしたことがないし、手なんて絶対に出さないわよね」 若子は皮肉げに笑いながら続けた。 「本当に滑稽だわ、修。少なくとも昔のあなたは、自分がやったことを認める勇気があった。でも今はその勇気さえない。ただの臆病者よ!」 「そうだ、俺は臆病者だ!」修は叫ぶように言った。 「もし俺が臆病者じゃなかったら、どんなこ
西也は心配そうな顔をしながら、若子の手をしっかりと握りしめた。 「若子、怒らないで。大丈夫だから。俺は平気だよ。彼もきっとわざとじゃなかったんだ」 彼の言葉には勝利の確信があった。どんな状況でも、若子は自分の味方だった。自分こそが若子の夫であり、修はどこまで行っても若子に捨てられた過去の男にすぎない。 西也は心の中で強く決意していた。この男が再び若子を奪うことは決して許さない。どんな代償を払ってでも、若子を離さないと誓っていた。 一方、修はそんな西也を見つめ、眉間に深いしわを刻んだ。表情を次々と変える西也―陰険な一面と、哀れみを誘う弱々しい一面―そのどちらも修には到底信じられなかった。 若子がこんな男と暮らしているなんて......どうなるんだ? 修は心の中で考えた。西也が本当に記憶喪失でこうなったのか、それともこれが彼の本性なのかはわからない。だが、一つだけ確かなことがあった―この男は危険だ。 「西也、行きましょう。病院に行って診てもらったほうがいいわ」 若子は心配そうに言った。西也の状態はもともと良くないのに、頭を打ったことでさらに悪化する可能性があると考えていた。 修は拳を強く握りしめ、その骨が鳴る音が聞こえるほどだった。そして突如として若子の腕を掴み、彼女を自分の方へ振り向かせた。 「若子!彼はお前を騙してるんだ!見てわからないのか?あれは自分でわざと倒れて、お前を騙そうとしてるんだ!」 「放して!」若子は必死で腕を振りほどこうとした。 その様子を見るやいなや、西也が声を荒げて叫んだ。 「放せ!」 だが、修は若子を抱き寄せると、そのまま数歩後退して西也の手の届かないところへ避けた。 「お前みたいな男、本当に見苦しいな」修は冷たく嘲笑した。 「そんな卑劣な手段を使うなんて、呆れたよ。俺は若子が幸せならそれでいいと思ってた。少なくともお前が彼女を傷つけないならな。でも今は違う。若子をお前のような男の手に渡すわけにはいかない。お前には彼女を守る資格なんてない!」 「修、あなた、正気じゃないの?」若子は怒りを露わにしながら言った。 「放して!桜井さんもここにいるのよ!彼女を怒らせるつもり?」 「どうでもいい!」修は一切の迷いもなく叫んだ。その言葉に、雅子は心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を覚
若子は急いで西也のそばに駆け寄り、その手首を掴んで連れて行った。 西也は歩きながら振り返り、修を一瞥すると、口元に得意げな笑みを浮かべた。そして若子の腰に手を回し、親密に寄り添う。 「若子!」修は追いかけようと数歩進んだが、途中で急に立ち止まった。 ダメだ。このまま衝動的に追いかけても、また言い争いになるだけだ。前のように無駄に揉め続けるだけで、問題は一つも解決しない。むしろ、状況はどんどん悪くなるばかりだ。 若子は今、自分が西也を傷つけたと信じ込んでいる。しかも、今の状況では西也の方が完全に優勢だ。それは修も認めざるを得なかった。 このまま追いかけても、何も得るものはない。むしろ若子の自分への嫌悪感をさらに煽るだけだ。 どうする?どうすればいい? そうだ、一人、頼れる相手がいる。彼なら― 修は思い切ったように玄関の方へ向かって歩き出した。 「修、どこに行くの?」 雅子が追いかける。 修は振り返りもせずに言った。 「ここで待ってろ。迎えを呼ぶから。俺は用事がある」 「修、修!」 修の歩みは速く、雅子はどうしても止めることができない。その場で悔しそうに足を踏み鳴らした。 「松本のせいよ......!全部彼女が悪いんだから!」 その様子を少し離れた場所から見つめる一人の男性。サービススタッフのような装いをしているが、その目には冷笑が浮かんでいた。 男はポケットからスマホを取り出し、雅子に電話をかける。 スマホの着信音に気づいた雅子はバッグから取り出し、耳に当てた。 「もしもし」 「雅子、やっぱり君は役に立たないな。藤沢を繋ぎ止めることもできないなんて」 「あんた......!」雅子はすぐに問い詰めるように言った。 「今どこにいるの?お願いだから助けて。松本を殺してくれない?彼女さえいなくなれば......あなたの望むこと、何だってするから!」 「今まで君のためにいろいろしてきたけど、君は何一つ結果を出してないよ。それなのに情敵を始末しろなんて。俺は君の道具じゃない」 「じゃあ、どうすればいいの?交換条件が必要なら教えて。私たちは仲間でしょう?」 「本当は君に頼みたいことがいくつかあったんだが、時間が経つにつれて、君はどんどん使えないと分かってきた。修だってもう君を気にして
美咲はわずかに口元を引きつらせながら、静かに尋ねた。 「本当にそう思うんですか?」 若子はすぐに頷いて答えた。 「ええ、本当にそう思います」 「......嫉妬とかしないんですか?あなたは彼の奥さんなんでしょう?たとえ、お二人が......」 若子は軽く笑いながら言った。 「私が何を嫉妬するんですか?心配しないでください。嫉妬なんてしませんよ。だって私と彼は本当の夫婦じゃありませんし、むしろ彼が自分にぴったりの女性を見つけてくれることを願っています。高橋さん、あなたは本当に彼にふさわしいと思いますよ。彼があなたをそんなに好きなのも分かる気がします。以前、彼が私にあなたの話をしたとき、本当に嬉しそうで、それと同時に少し悲しそうでもあって......きっと彼にとって、あなたの存在は特別なんでしょうね。誰かを好きになるって、そういうものなんだと思います」 その言葉を聞いて、美咲は心の中で少し気まずさを覚えた。どう答えていいか分からず、視線をそらす。 ―本当にこの子は、どうしてこんなに鈍いのだろう。遠藤さんが好きなのはあなただというのに、どうして気づかない?もし彼が本当に私を好きだったなら、私は絶対に彼を拒まない。それだけ魅力的な人だもの。拒絶できるのは、あなただけよ、この鈍感さん...... 若子が少し首を傾げて尋ねた。 「高橋さん、どうしましたか?何か気になることがあれば教えてください。私で力になれることなら何でもします。それとも、どこか具合が悪いとか?」 「いえ、そうではなくて......」美咲は言葉を選びながら答えた。 「ただ、私はお二人がすごくお似合いだと思うんです。もしかして......彼はあなたが思っているほど私のことを好きじゃないのかもしれませんよ。むしろ、あなたと一緒にいる方が幸せなんじゃないですか?」 その言葉に若子は一瞬動揺したようで、微笑みが少し引きつった。 「高橋さん、誤解しないでください。私と西也はただの―」 美咲は少し真剣な声で遮るように言った。 「松本さん、正直に答えてほしいんです。彼があなたと一緒にいるのを好きだと思いませんか?」 若子は小さく息をついて答えた。 「確かに彼は私にとても優しいです。でも、西也は記憶を失っていますから......それで、私に対して依存してい
遠くからその様子を見ていた若子は、ほっと息をつくと、ゆっくりと二人の元へ歩み寄りながら言った。 「ごめんなさい、友達から電話があって、久しぶりに話し込んじゃったの。すごく楽しそうに話してたみたいね」 「そうだよ。高橋さんって、本当に話してて面白い人だ。彼女と話してると、気持ちがすごく楽になるんだ」 西也がそう言いながら柔らかな笑みを浮かべると、それを見た若子も自然と微笑んだ。 若子は西也の隣に腰を下ろし、その明るい表情を見て、今日は高橋さんと西也を二人きりにして正解だったと感じた。 やっぱり好きな女性の前だと違うんだな、と彼女は心の中で思った。西也は美咲と一緒にいると、本当にリラックスしている。二人は案外お似合いかもしれない。 夕食の間、若子は頻繁に席を外した。トイレに行ったり、ちょっと用事があると言ったりして、ほとんどの時間を二人だけで過ごさせた。その結果、この夕食はずいぶんと長引いた。 食事が終わっても、若子は美咲をすぐには帰そうとせず、彼女を引き止めて会話を続けた。 そして時折、話題を二人に振り、自分はそっと会話の輪から外れて静かにしていた。 西也が美咲と話している様子は、若子にとってはとても微笑ましく映った。西也が美咲に本当に心を開いているのか、それとも若子の気持ちを気遣って、あえて美咲と話を合わせているのかは分からなかった。それでも、二人の会話が弾んでいるのは確かだった。 そんな様子を見て、若子は思った。もしかして高橋さんも西也を気に入っているのではないか?高橋さんが彼をきっぱり拒絶したなんて、本当だろうか?どこかに誤解があるのでは......? 気づけば、夜はすっかり更けていた。美咲ははっと我に返り、驚いた。気づけば西也とこんなにも長い時間話し込んでしまっていた。しかも、彼の妻である若子がすぐそばにいる状況で― それどころか、この状況そのものが若子によって意図的に作られたものだと考えると、改めて妙に滑稽に思えてしまう。 美咲はちらりと時計を確認し、口を開いた。 「もう遅いので、そろそろ失礼します」 「もう帰りますか?」若子は少し残念そうに尋ねた。 「ええ、さすがにもう遅いので、そろそろ失礼します」 若子も時計を見てうなずいた。 「確かに遅いですね。本当にごめんなさい、こんなに引き止め
「ありがとう、高橋さん。お前は本当にいい人だと思う。俺の嘘のせいで巻き込んでしまったことを謝りたい」 西也は礼儀正しくも誠実で、全く偉そうな態度を見せない。 「気にしないでください。別にわざとじゃないですし」 美咲も柔らかい笑みを浮かべながら答える。彼女の中で西也への印象は悪くない。それどころか、失われた記憶の前でも今でも、彼の品の良さや魅力が自然と女性を惹きつけるのだと感じていた。 「とはいえ、やっぱり迷惑をかけたのは事実だ。今日お前がこうして話してくれて、俺の疑問もいくつか解けたよ。だから、何か俺にできることがあれば教えてくれ。お礼をしたいんだ」 その誠実な態度を前に、美咲はふと頭に浮かぶことがあった。 彼女が少し考え込む様子を見て、西也が尋ねる。 「どうした?何か言いたいことがあるなら、遠慮なく話してくれ」 「実は......一つだけ気になったことがあります。今日の昼、レストランで食事していた時のことですが......あなたたち四人の間、なんだか変な雰囲気でした。それに、あの桜井という女性―最初、あなたのことを普通の人と見ているようで、少し見下している感じがありました」 西也は頷きながら言う。 「ああ、俺も感じた。あいつには妙な優越感があった。俺を下に見ているような態度だったな。でも、お前がそう言うなら、ますます確信が持てた」 美咲は話を続けた。 「でも、私が『遠藤総裁』って言った後、彼女が私のところに来て、あなたがどういう人なのか尋ねてきました。それで、あなたが雲天グループの総裁だと伝えたら、すごく驚いていました」 西也は薄く笑みを浮かべる。 「あの女、見るからに俗っぽい奴だな。お前に何か嫌がらせとかされなかったか?」 美咲は少し気まずそうに笑いながら答えた。 「直接的に何かされたわけじゃないです。ただ、たぶん彼女が店長に頼んで、私を解雇させたんだと思います。昼食が終わった後、店長から急に辞めてくれと言われましたから」 西也の表情が険しくなる。 「それ、桜井がやったんだな?」 「多分、他に思い当たる人はいません。私は普段から真面目に仕事をしてきましたし、店長もお客さんのせいだとは明言しなかったけど、状況的にそうだと思います」 西也は冷たい目で呟く。 「陰湿な女だな......
西也の頭には何も記憶がなかった。記憶を失っているとはいえ、美咲に対しては一切の感情が湧かない。 若子に関する記憶もなくなっていたが、彼女への「想い」だけは鮮明に残っていた。もし本当に美咲を好きだったなら、記憶がなくなったとしても感情まで消えてしまうものだろうか? いや、たとえその感情が薄れていたとしても、実際に彼女に会ったときに何も感じないなんてことがあり得るだろうか? 西也が困惑した表情を浮かべているのを見て、美咲が口を開いた。 「あなたは彼女を騙しているんです。本当は私のことなんて好きじゃない。本当は彼女が好きなのに、それを言えなくて、代わりに『高橋美咲が好き』って言いましたよ。そして偶然、私の名前が高橋美咲です」 美咲は続ける。 「以前、松本さんはあなたの好きな人に会いたいと言っていたんだと思います。それであなたの妹さんが私を代役として連れて行ったのでしょう。私もあの時は本当に何が起きているのか分からず、ただ困惑していました。でも、よく考えると、多分そういうことだったんだろうと今になって思います」 美咲の話を聞き終えた西也は、しばらく黙り込んだ。腕を組み、椅子の背もたれに寄りかかると、じっと美咲を見つめる。眉間には深い皺が刻まれ、その顔は真剣そのものだった。 美咲はその沈黙に不安を覚え、慌てて言い足した。 「これはあくまで私の推測です。絶対に正しいとは言い切れません。だから、あまり真に受けないでください。あなたが記憶を取り戻せば、自然とすべて分かるはずですから」 西也は少し考え込み、ようやく口を開いた。 「お前の推測、当たってると思う。そういうことなんだろうな。ようやく分かったよ―どうして今日、若子が俺たちを二人きりにしたがっていたのか。きっとお前が俺の記憶を取り戻す手助けをしてくれると思ったからだろう。彼女は俺が本当にお前を好きだと信じているから」 西也は苦い笑みを浮かべ、首を振った。 「若子ったら、全然分かってない。確かに彼女のことを覚えてないけど、彼女に対する気持ちだけは忘れてないのに」 そして彼はうつむき、力なく呟いた。 「いや......分かっているんだ、きっと。だけど逃げてるんだろうな。ちょうど俺が『好きな人がいる』なんて嘘をついたから、彼女もそれを都合良く受け入れて、俺から距離を取る口実
西也が口を開いた。 「食事はお口に合ったか?」 美咲はうなずきながら答えた。 「とても美味しいです。ごちそうさまでした」 「お前は若子の友人だ。つまり俺の友人でもあるからな。もちろん、ちゃんと招待するのが筋だ。ただ......」 西也が「ただ」と言いながら言葉を切った。 美咲は少し首を傾げて尋ねる。 「ただ、何ですか?」 西也は箸を置き、真剣な表情で続けた。 「高橋さん、率直に言うけど、どうもお前がここに来た時から、若子が俺たちを二人きりにしようとしている気がするんだ。まるで、俺たちが以前から親しい間柄だったみたいに......俺たちって、以前会ったことがあるのか?」 その言葉に戸惑った美咲は、一瞬、本当のことを伝えるべきか迷った。けれども、若子のことを考えると、どうにも言葉が出なかった。 西也は、記憶を失っていながらも持ち前の鋭さで何かを感じ取ったのか、さらに問いかけた。 「高橋さん、何か言いたいことがあるなら、隠さずに教えてほしい。お前も分かるだろ、今の俺の状況を。俺は本当にすべてを知りたいんだ」 「松本さんは全部教えてないんですか?」美咲は驚いたように聞き返した。 西也は苦笑いを浮かべながら答える。 「少しは話してくれたけど、完全じゃない。きっと俺を気遣ってくれてるんだろうけど、それが逆に俺を過保護にしてる気がするんだ。正直、過保護にされるのは好きじゃないんだ。だから、高橋さん、もし知ってることがあれば教えてくれないか?」 美咲はちらりとドアの方を見やった。若子がまだ近くにいるかもしれないと思ったからだ。 美咲のためらいに気づいた西也は立ち上がり、 「ちょっと待って」と言うと、ダイニングを出ていった。 わずか一分も経たないうちに戻ってきた西也は、笑いながら言った。 「高橋さん、確認したけど、若子は裏庭に行ったよ。お前も分かるだろ、彼女はまた俺たちを二人きりにしようとしてるんだ。俺には本当に分からない。俺の妻である彼女が、どうしてこんなにも俺たちを安心して放っておけるのか......」 西也は苦笑いを浮かべたが、その胸中では自分が何を知っているのかを確信していた。若子との結婚が偽物だということ―あの日、彼女と成之の会話を盗み聞きしてしまったのだ。それは西也にとって晴天の霹靂だった
若子の言葉を聞いた西也は、ふと胸に罪悪感のようなものを覚えた。そして修が言っていたことを思い出す。 もしかして自分は今、若子に守られているだけの存在になってしまったのか? それに今日やったこと―修をちょっと懲らしめて、彼の鼻っ柱を折りたかっただけのつもりだったけど、かえって逆効果になったんじゃないか? 修は自分の行動のせいで、若子を奪い返したい気持ちをさらに強めてしまったのだろうか......? 西也はあの時、ただ修に一発お見舞いして、大人しくさせたかっただけだ。彼のあの傲慢な態度をどうにかしたくて。けど、もし今回の件が裏目に出てしまったら、自分にとっても何一つ良いことはない。 若子は西也がぼんやりしているのを見て、慌てて声をかけた。 「西也、どこか他に痛むところがあるの?何でもいいから言って」 「いや、そうじゃない」西也は首を振った。「ただ、あいつが俺の想像と違っただけだ」 「どういうふうに違うの?」若子が尋ねると、西也はこう答えた。 「俺にとって、あいつはただの他人だ。これまでのことは何も覚えていないし、今日が初対面みたいなものだ。でも、俺の中ではあいつは最低な男だと思ってたんだ。実際に会うまではね。だけど、あいつを見た時、全然違ってた。認めたくないけど、あいつは優秀な男だ。スーツ姿も様になるし、女が寄ってくるのも分かる」 「西也、そんなこと言わないで。どんなに見た目が良くても意味がないでしょ?私はもう離婚してるの」 「違う、俺が言いたいのはそれじゃない」西也は少し焦ったように続ける。 「俺が思ってたのは、あいつはただのクズで、浮気を繰り返してお前を裏切ったような奴だってこと。でも、今日会ってみて、あいつがお前に対して特別な感情を持ってるように感じたんだ。俺の想像してたみたいに、お前を軽く見てるわけじゃない。むしろ、お前を取り戻そうとしてるように見えた......それが愛情なのか、それともただの所有欲なのかは分からないけど」 西也の目に不安の色が浮かんでいるのを見て、若子は急いで言った。 「西也、そんなことないわ。気にしないで。彼が私を取り戻すなんて絶対にあり得ない。それに私も彼のところには戻らない」 「本当に?お前、本当に心が揺れたりしないのか?たとえ、あいつが頭を下げて頼んでも」 「実際に頼まれ
若子は急いで西也のそばに駆け寄り、その手首を掴んで連れて行った。 西也は歩きながら振り返り、修を一瞥すると、口元に得意げな笑みを浮かべた。そして若子の腰に手を回し、親密に寄り添う。 「若子!」修は追いかけようと数歩進んだが、途中で急に立ち止まった。 ダメだ。このまま衝動的に追いかけても、また言い争いになるだけだ。前のように無駄に揉め続けるだけで、問題は一つも解決しない。むしろ、状況はどんどん悪くなるばかりだ。 若子は今、自分が西也を傷つけたと信じ込んでいる。しかも、今の状況では西也の方が完全に優勢だ。それは修も認めざるを得なかった。 このまま追いかけても、何も得るものはない。むしろ若子の自分への嫌悪感をさらに煽るだけだ。 どうする?どうすればいい? そうだ、一人、頼れる相手がいる。彼なら― 修は思い切ったように玄関の方へ向かって歩き出した。 「修、どこに行くの?」 雅子が追いかける。 修は振り返りもせずに言った。 「ここで待ってろ。迎えを呼ぶから。俺は用事がある」 「修、修!」 修の歩みは速く、雅子はどうしても止めることができない。その場で悔しそうに足を踏み鳴らした。 「松本のせいよ......!全部彼女が悪いんだから!」 その様子を少し離れた場所から見つめる一人の男性。サービススタッフのような装いをしているが、その目には冷笑が浮かんでいた。 男はポケットからスマホを取り出し、雅子に電話をかける。 スマホの着信音に気づいた雅子はバッグから取り出し、耳に当てた。 「もしもし」 「雅子、やっぱり君は役に立たないな。藤沢を繋ぎ止めることもできないなんて」 「あんた......!」雅子はすぐに問い詰めるように言った。 「今どこにいるの?お願いだから助けて。松本を殺してくれない?彼女さえいなくなれば......あなたの望むこと、何だってするから!」 「今まで君のためにいろいろしてきたけど、君は何一つ結果を出してないよ。それなのに情敵を始末しろなんて。俺は君の道具じゃない」 「じゃあ、どうすればいいの?交換条件が必要なら教えて。私たちは仲間でしょう?」 「本当は君に頼みたいことがいくつかあったんだが、時間が経つにつれて、君はどんどん使えないと分かってきた。修だってもう君を気にして
西也は心配そうな顔をしながら、若子の手をしっかりと握りしめた。 「若子、怒らないで。大丈夫だから。俺は平気だよ。彼もきっとわざとじゃなかったんだ」 彼の言葉には勝利の確信があった。どんな状況でも、若子は自分の味方だった。自分こそが若子の夫であり、修はどこまで行っても若子に捨てられた過去の男にすぎない。 西也は心の中で強く決意していた。この男が再び若子を奪うことは決して許さない。どんな代償を払ってでも、若子を離さないと誓っていた。 一方、修はそんな西也を見つめ、眉間に深いしわを刻んだ。表情を次々と変える西也―陰険な一面と、哀れみを誘う弱々しい一面―そのどちらも修には到底信じられなかった。 若子がこんな男と暮らしているなんて......どうなるんだ? 修は心の中で考えた。西也が本当に記憶喪失でこうなったのか、それともこれが彼の本性なのかはわからない。だが、一つだけ確かなことがあった―この男は危険だ。 「西也、行きましょう。病院に行って診てもらったほうがいいわ」 若子は心配そうに言った。西也の状態はもともと良くないのに、頭を打ったことでさらに悪化する可能性があると考えていた。 修は拳を強く握りしめ、その骨が鳴る音が聞こえるほどだった。そして突如として若子の腕を掴み、彼女を自分の方へ振り向かせた。 「若子!彼はお前を騙してるんだ!見てわからないのか?あれは自分でわざと倒れて、お前を騙そうとしてるんだ!」 「放して!」若子は必死で腕を振りほどこうとした。 その様子を見るやいなや、西也が声を荒げて叫んだ。 「放せ!」 だが、修は若子を抱き寄せると、そのまま数歩後退して西也の手の届かないところへ避けた。 「お前みたいな男、本当に見苦しいな」修は冷たく嘲笑した。 「そんな卑劣な手段を使うなんて、呆れたよ。俺は若子が幸せならそれでいいと思ってた。少なくともお前が彼女を傷つけないならな。でも今は違う。若子をお前のような男の手に渡すわけにはいかない。お前には彼女を守る資格なんてない!」 「修、あなた、正気じゃないの?」若子は怒りを露わにしながら言った。 「放して!桜井さんもここにいるのよ!彼女を怒らせるつもり?」 「どうでもいい!」修は一切の迷いもなく叫んだ。その言葉に、雅子は心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を覚
修の瞳に浮かぶ怨みと哀しみを見て、若子は一瞬動揺した。 その表情は、彼女の心に一抹の迷いを呼び起こした。もしかして、本当に修を誤解しているのだろうか? 彼の姿はどこか無実で、絶望的に見える。まるでかつて修が若子を誤解した時のようだった。若子がどれだけ真実を訴えても、修は耳を貸さず、雅子の言葉だけを信じた。雅子がいつも哀れなふりをしていたからだ。 しかし、その考えが頭をよぎると同時に、若子は自分に怒りを覚えた。なぜそんなことを考えたのか。修はこれまでに何度も彼女を騙してきたのだ。しかも相手は雅子。彼女のような人と西也を比べるのは馬鹿げている。 「信じるわ」若子は静かに言った。 その言葉を聞いて、修は一瞬呆然とし、信じられないような表情を浮かべた。彼は若子の瞳に、ほんの少しでも信頼の光を探そうとした。しかし、耳に届いたのは錯覚のような言葉だけだった。 若子の目に映っていたのは、冷たさと皮肉だけだった。「信じる」という言葉が、修には皮肉にしか聞こえなかった。むしろ、彼女が「信じない」と言うよりも、心に突き刺さった。 西也の眉がかすかに動き、不安げな光がその瞳をよぎった。 若子は本当に修を信じたのか? 場の空気が凍りつく中、修だけが若子の言葉の裏に隠された刺々しさを感じ取っていた。 若子は続けた。 「修、あなたは何も間違ってない。すべて他人が悪いのよね。あなたはいつだって正しい。この世界の誰もがあなたを信じるべきなんでしょう?」 そう言いながら、若子は西也の腕をそっと取り、柔らかく言った。 「西也、行きましょう」 修は拳を強く握りしめ、静かに言った。 「若子、俺が約束したことは絶対に守る。俺は彼をいじめたりなんてしてない」 「ええ、そうね。あなたはいじめたりなんてしてないわよね」若子の声は怒りに満ちていた。 あなたみたいな偉大な藤沢総裁が誰かをいじめるなんてあるわけがないもの。争いなんて一度もしたことがないし、手なんて絶対に出さないわよね」 若子は皮肉げに笑いながら続けた。 「本当に滑稽だわ、修。少なくとも昔のあなたは、自分がやったことを認める勇気があった。でも今はその勇気さえない。ただの臆病者よ!」 「そうだ、俺は臆病者だ!」修は叫ぶように言った。 「もし俺が臆病者じゃなかったら、どんなこ