雅子は辺りを一巡し、角から若子がサービススタッフと一緒に歩いてくるのを目にした。 慌てて近くの柱の陰に身を隠し、二人の様子を伺う。どうやら何か話しているようだが、会話はすでに終わったところだった。 若子はそのまま別の方向へ歩き去り、代わりに美咲がこちらに向かってくる。 雅子はその場を動かず、直接美咲に声をかけた。 「ちょっと、あなたたち二人で何をこそこそ話してたの?」 美咲は冷静に答えた。 「何かご用ですか?」 雅子は美咲を上から下まで値踏みするように見た。 「あんたと松本ってどういう知り合いなの?」 美咲は落ち着いた声で答える。 「失礼ですが、あなたは......?」 「私、桜井雅子。あと二日でSKグループの総裁夫人になる予定のね」 雅子は得意げに自分の肩書きを宣言した。 美咲は丁寧に微笑みながら言った。 「桜井さん、松本さんとは以前食事をご一緒したことがあるだけで、それほど親しいわけではありません」 「本当に?それで、どうして彼女の夫を『遠藤総裁』なんて呼ぶの?あの人、ただのサービススタッフでしょう」 「遠藤総裁」という言葉に、雅子は嫌悪感を露わにした。 美咲は軽く首を傾げて答えた。 「サービススタッフ?桜井さん、それは誤解されていますよ。彼は雲天グループの総裁です」 「雲天グループの総裁?」 雅子の頭にまるで雷が落ちたようだった。 「それって、あの国際的なグループのこと?」 雅子は震える声で聞いた。 美咲は静かに頷いた。 「ええ、そうです」 雅子の心臓は激しく高鳴り、パニック寸前だった。 そんな馬鹿な!若子が雲天グループの総裁と結婚しているなんて、ありえない! いや、絶対に間違いだ。だって以前、山荘で西也を見かけた時、彼は確かにサービススタッフの制服を着ていた。それが総裁だなんて、信じられるわけがない。 でも......もし本当に彼が雲天グループの総裁だとしたら?つまり、若子は修と別れた後、すぐにまた巨額の資産家を捕まえたということ? 「桜井さん、大丈夫ですか?」 美咲は雅子の顔が真っ青になっているのを見て、少し愉快な気分になっていた。 「あんた、本当に松本と親しくないの?」 雅子は疑いの目で問い詰めた。 「桜井さん、それはあなた
修は左思右考しながら、ついに口を開いた。 「若子をちゃんと検査に連れて行ったのか?」 どうしても心配だった。もし西也が若子を病院に連れて行ってくれるなら、それでも構わない。 西也は少し眉をひそめながら答えた。 「普通に元気じゃないか。それをなんで聞く?」 修は静かに言った。 「若子とは離婚したけど、何年も一緒に過ごした仲だ。兄妹みたいなものだろう?心配するのは普通だ」 その言葉に、西也は冷たく鼻で笑った。 「お前が彼女を妹だと思ってても、若子はお前を兄だと思ってるか?ただのクズな元夫のくせに」 修の表情が険しくなった。 「遠藤西也、お前、そんなに得意げな顔してられるか?若子がお前と結婚したのは、愛してるからじゃないだろう」 西也は膝の上に置いていた拳をゆっくりと握り締めた。 「じゃあ、彼女はお前を愛してるのか?愛してたなら、なんでとっくに復縁してないんだよ?どうして俺と結婚してるんだ?俺が得意げになるべきじゃないのはわかってる。でもな、いい加減自覚しろよ。兄妹みたいな顔してるお前を、若子は気にもかけてない」 修は口元を引きつらせながら言い返した。 「お前、若子の顔を立ててやってるだけだ。俺が本気を出せば、とっくにお前なんか消してる」 西也は静かに立ち上がり、スーツを整えると、窓の外を眺めながら冷笑した。 「じゃあ、俺が襲撃されて、死にかけたのは全部お前の仕業ってことか?」 西也の堂々たる非難の言葉に、修はテーブルを勢いよく叩き、立ち上がった。 「証拠でもあるのか?証拠もなしに俺を貶めるな」 「じゃあ、お前は無実ってことか?」 西也は冷笑を浮かべた。 「無実なら、なんでそんなに怒る?心当たりがあるからだろう?」 修は大股で西也の背後に立つと、肩を掴んで強引に振り向かせた。 「わざと俺を怒らせてるのか?」 「怒らせるつもりなんてない。ただ、お前が怒っただけだろう」 西也の声は冷え冷えとしていた。 「藤沢、俺は多くのことを忘れた。お前のことも忘れた。でもな、お前って本当に哀れだよな」 修は目を細め、その瞳に鋭い光を宿らせた。 「遠藤、知ってるか?若子はずっと俺にお前を傷つけるなって頼んでたんだ」 そう言うと、修はスマートフォンを取り出し、若子から送られてきた
西也は拳を強く握りしめ、吐き捨てるように言った。 「お前、何を得意になってるんだ?たかが一通のメッセージだろ。それがどうした?むしろこれで、若子が俺のことをお前より気にかけてる証拠だ」 「そりゃそうだろうな」修は笑いながら答えた。 「お前、今はすっかり弱っちいからな。毎日若子に世話を焼いてもらわなきゃ生きていけない。大の男が情けない話だな。自分の身すら守れず、ボロボロになって死にかけたくせに、記憶喪失までして、今じゃ女に守られてるなんてな。前に立たれて風よけになってもらってるお前、滑稽だよ」 「藤沢!」 西也は勢いよく修に詰め寄り、その胸元を掴んだ。 「お前、何を偉そうに!若子が俺に言ったんだ。お前が他の女のために彼女と離婚したってな!お前なんてただのクズ野郎だろうが。今さら手に入らないからって、俺を怒らせようとしても無駄だ。若子は俺の女だ。永遠にな。毎晩彼女は俺の腕の中で眠る。彼女を抱ける男は俺だけだ。お前じゃない。この先もずっと、お前には無理だ!」 修の瞳には怒りの炎が燃え上がり、今にも西也に拳を振り下ろしそうだった。だが、若子が懇願するように見せたあの表情を思い出し、その怒りを必死で押し殺した。 修は強く握りしめていた拳をゆっくりと解き、西也の手首をがっしりと掴むと冷たく言った。 「遠藤、俺は若子に約束したんだ。お前をいじめないってな。でも今のお前はこのざまだ。俺の相手になるわけがない。俺は弱者をいじめる趣味はない。けどな、回復したら喜んで相手してやるよ」 そう言って、西也の手を乱暴に振り払うと、修は一歩後ろに下がった。 西也はまるで怒り狂った獅子のように胸の中に炎を抱え、次の瞬間には修を殴り飛ばそうと動き出したが、そのとき、遠くから人影が近づいてくるのが目に入った。 西也の目が一瞬狡猾に輝き、修に近づくと突然手を振り上げた。 修はその動きを見逃さず、西也の手を素早く掴むと低い声で言った。 「やる気か?」 「どうした、怖じ気づいたのか?」 西也は挑発するように笑った。 修は目を細めながら冷たく言った。 「若子との約束だ。お前には手を出さない」 そう言って、西也の手を放し、その場を離れようとしたその瞬間だった。 西也は急に後ろへ数歩下がり、派手な音を立てて壁に頭をぶつけながら倒れ込ん
若子はそっと手を伸ばし、西也の額に触れながら優しく尋ねた。 「痛くない?」 西也の額には赤みが残っていたが、彼は小さく首を振り答えた。 「大丈夫だよ、若子。俺が悪いんだ。しっかり立てなかった俺のせいだ」 「そんなことないよ。全部見てたから」 若子はそう言いながら修の方を振り返り、怒りを露わにした目で睨みつけた。 「藤沢修!西也の今の状態がわかってて、なんで手を出すの?わざとやったんでしょ?もし西也に何かあったら、私、あなたを許さない!」 最後の言葉はほとんど叫び声だった。その一言一言が鋭い刃となり、修の心を切り刻み、深い傷を残した。 修は呆然と若子を見つめていた。西也をかばう若子の姿を目にした瞬間、彼の魂は抜け落ちたかのように感じた。残ったのはただの空っぽな殻だった。 「若子、お前......」 雅子が何かを言おうとしたが、修は彼女の腕を掴んで強く押しのけた。 「お前には関係ない。どけ」 「でも、修、彼女が......」 「どけって言ってるだろう!」 修が怒りの目で睨みつけると、雅子は怖気づいて口を閉じた。 この男、本当に狂ってる......! 心の中で毒づきながらも、雅子はそれ以上何も言えなかった。 一方で、若子は西也を支えながらゆっくり立たせた。 「西也、大丈夫?体はどう?」 西也は首を横に振り、小さな声で答えた。 「平気だよ。若子、怒らないで。俺が体調悪くてちゃんと立てなかっただけだ。それに、藤沢もそんなに強く押したわけじゃない。多分、彼も少しカッとなってただけだよ」 彼の言葉は一見自分を責めていないように聞こえるが、その内容は明らかに修が彼を押したことをほのめかしていた。 それを聞いた若子の怒りはさらに燃え上がった。 「修!何で西也に手を出したの?彼があなたに何をしたっていうの?もし私が原因なら、私に怒ればいい。私を責めて、私を殴ればいい!桜井さんと結婚するために私と離婚したのに、それでも私が許さなかったから?あなたが『愛してる』なんて言ったときに、私が復縁しなかったから?その上、私が西也と結婚したから?全部私が悪いんでしょ?じゃあ、私を殴ればいい。なんで西也をいじめるのよ! いつも私の言葉を聞き流して、私のお願いを一切無視して。いつだって自分勝手で、自分が正しい
修の瞳に浮かぶ怨みと哀しみを見て、若子は一瞬動揺した。 その表情は、彼女の心に一抹の迷いを呼び起こした。もしかして、本当に修を誤解しているのだろうか? 彼の姿はどこか無実で、絶望的に見える。まるでかつて修が若子を誤解した時のようだった。若子がどれだけ真実を訴えても、修は耳を貸さず、雅子の言葉だけを信じた。雅子がいつも哀れなふりをしていたからだ。 しかし、その考えが頭をよぎると同時に、若子は自分に怒りを覚えた。なぜそんなことを考えたのか。修はこれまでに何度も彼女を騙してきたのだ。しかも相手は雅子。彼女のような人と西也を比べるのは馬鹿げている。 「信じるわ」若子は静かに言った。 その言葉を聞いて、修は一瞬呆然とし、信じられないような表情を浮かべた。彼は若子の瞳に、ほんの少しでも信頼の光を探そうとした。しかし、耳に届いたのは錯覚のような言葉だけだった。 若子の目に映っていたのは、冷たさと皮肉だけだった。「信じる」という言葉が、修には皮肉にしか聞こえなかった。むしろ、彼女が「信じない」と言うよりも、心に突き刺さった。 西也の眉がかすかに動き、不安げな光がその瞳をよぎった。 若子は本当に修を信じたのか? 場の空気が凍りつく中、修だけが若子の言葉の裏に隠された刺々しさを感じ取っていた。 若子は続けた。 「修、あなたは何も間違ってない。すべて他人が悪いのよね。あなたはいつだって正しい。この世界の誰もがあなたを信じるべきなんでしょう?」 そう言いながら、若子は西也の腕をそっと取り、柔らかく言った。 「西也、行きましょう」 修は拳を強く握りしめ、静かに言った。 「若子、俺が約束したことは絶対に守る。俺は彼をいじめたりなんてしてない」 「ええ、そうね。あなたはいじめたりなんてしてないわよね」若子の声は怒りに満ちていた。 あなたみたいな偉大な藤沢総裁が誰かをいじめるなんてあるわけがないもの。争いなんて一度もしたことがないし、手なんて絶対に出さないわよね」 若子は皮肉げに笑いながら続けた。 「本当に滑稽だわ、修。少なくとも昔のあなたは、自分がやったことを認める勇気があった。でも今はその勇気さえない。ただの臆病者よ!」 「そうだ、俺は臆病者だ!」修は叫ぶように言った。 「もし俺が臆病者じゃなかったら、どんなこ
西也は心配そうな顔をしながら、若子の手をしっかりと握りしめた。 「若子、怒らないで。大丈夫だから。俺は平気だよ。彼もきっとわざとじゃなかったんだ」 彼の言葉には勝利の確信があった。どんな状況でも、若子は自分の味方だった。自分こそが若子の夫であり、修はどこまで行っても若子に捨てられた過去の男にすぎない。 西也は心の中で強く決意していた。この男が再び若子を奪うことは決して許さない。どんな代償を払ってでも、若子を離さないと誓っていた。 一方、修はそんな西也を見つめ、眉間に深いしわを刻んだ。表情を次々と変える西也―陰険な一面と、哀れみを誘う弱々しい一面―そのどちらも修には到底信じられなかった。 若子がこんな男と暮らしているなんて......どうなるんだ? 修は心の中で考えた。西也が本当に記憶喪失でこうなったのか、それともこれが彼の本性なのかはわからない。だが、一つだけ確かなことがあった―この男は危険だ。 「西也、行きましょう。病院に行って診てもらったほうがいいわ」 若子は心配そうに言った。西也の状態はもともと良くないのに、頭を打ったことでさらに悪化する可能性があると考えていた。 修は拳を強く握りしめ、その骨が鳴る音が聞こえるほどだった。そして突如として若子の腕を掴み、彼女を自分の方へ振り向かせた。 「若子!彼はお前を騙してるんだ!見てわからないのか?あれは自分でわざと倒れて、お前を騙そうとしてるんだ!」 「放して!」若子は必死で腕を振りほどこうとした。 その様子を見るやいなや、西也が声を荒げて叫んだ。 「放せ!」 だが、修は若子を抱き寄せると、そのまま数歩後退して西也の手の届かないところへ避けた。 「お前みたいな男、本当に見苦しいな」修は冷たく嘲笑した。 「そんな卑劣な手段を使うなんて、呆れたよ。俺は若子が幸せならそれでいいと思ってた。少なくともお前が彼女を傷つけないならな。でも今は違う。若子をお前のような男の手に渡すわけにはいかない。お前には彼女を守る資格なんてない!」 「修、あなた、正気じゃないの?」若子は怒りを露わにしながら言った。 「放して!桜井さんもここにいるのよ!彼女を怒らせるつもり?」 「どうでもいい!」修は一切の迷いもなく叫んだ。その言葉に、雅子は心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を覚
若子は急いで西也のそばに駆け寄り、その手首を掴んで連れて行った。 西也は歩きながら振り返り、修を一瞥すると、口元に得意げな笑みを浮かべた。そして若子の腰に手を回し、親密に寄り添う。 「若子!」修は追いかけようと数歩進んだが、途中で急に立ち止まった。 ダメだ。このまま衝動的に追いかけても、また言い争いになるだけだ。前のように無駄に揉め続けるだけで、問題は一つも解決しない。むしろ、状況はどんどん悪くなるばかりだ。 若子は今、自分が西也を傷つけたと信じ込んでいる。しかも、今の状況では西也の方が完全に優勢だ。それは修も認めざるを得なかった。 このまま追いかけても、何も得るものはない。むしろ若子の自分への嫌悪感をさらに煽るだけだ。 どうする?どうすればいい? そうだ、一人、頼れる相手がいる。彼なら― 修は思い切ったように玄関の方へ向かって歩き出した。 「修、どこに行くの?」 雅子が追いかける。 修は振り返りもせずに言った。 「ここで待ってろ。迎えを呼ぶから。俺は用事がある」 「修、修!」 修の歩みは速く、雅子はどうしても止めることができない。その場で悔しそうに足を踏み鳴らした。 「松本のせいよ......!全部彼女が悪いんだから!」 その様子を少し離れた場所から見つめる一人の男性。サービススタッフのような装いをしているが、その目には冷笑が浮かんでいた。 男はポケットからスマホを取り出し、雅子に電話をかける。 スマホの着信音に気づいた雅子はバッグから取り出し、耳に当てた。 「もしもし」 「雅子、やっぱり君は役に立たないな。藤沢を繋ぎ止めることもできないなんて」 「あんた......!」雅子はすぐに問い詰めるように言った。 「今どこにいるの?お願いだから助けて。松本を殺してくれない?彼女さえいなくなれば......あなたの望むこと、何だってするから!」 「今まで君のためにいろいろしてきたけど、君は何一つ結果を出してないよ。それなのに情敵を始末しろなんて。俺は君の道具じゃない」 「じゃあ、どうすればいいの?交換条件が必要なら教えて。私たちは仲間でしょう?」 「本当は君に頼みたいことがいくつかあったんだが、時間が経つにつれて、君はどんどん使えないと分かってきた。修だってもう君を気にして
若子の言葉を聞いた西也は、ふと胸に罪悪感のようなものを覚えた。そして修が言っていたことを思い出す。 もしかして自分は今、若子に守られているだけの存在になってしまったのか? それに今日やったこと―修をちょっと懲らしめて、彼の鼻っ柱を折りたかっただけのつもりだったけど、かえって逆効果になったんじゃないか? 修は自分の行動のせいで、若子を奪い返したい気持ちをさらに強めてしまったのだろうか......? 西也はあの時、ただ修に一発お見舞いして、大人しくさせたかっただけだ。彼のあの傲慢な態度をどうにかしたくて。けど、もし今回の件が裏目に出てしまったら、自分にとっても何一つ良いことはない。 若子は西也がぼんやりしているのを見て、慌てて声をかけた。 「西也、どこか他に痛むところがあるの?何でもいいから言って」 「いや、そうじゃない」西也は首を振った。「ただ、あいつが俺の想像と違っただけだ」 「どういうふうに違うの?」若子が尋ねると、西也はこう答えた。 「俺にとって、あいつはただの他人だ。これまでのことは何も覚えていないし、今日が初対面みたいなものだ。でも、俺の中ではあいつは最低な男だと思ってたんだ。実際に会うまではね。だけど、あいつを見た時、全然違ってた。認めたくないけど、あいつは優秀な男だ。スーツ姿も様になるし、女が寄ってくるのも分かる」 「西也、そんなこと言わないで。どんなに見た目が良くても意味がないでしょ?私はもう離婚してるの」 「違う、俺が言いたいのはそれじゃない」西也は少し焦ったように続ける。 「俺が思ってたのは、あいつはただのクズで、浮気を繰り返してお前を裏切ったような奴だってこと。でも、今日会ってみて、あいつがお前に対して特別な感情を持ってるように感じたんだ。俺の想像してたみたいに、お前を軽く見てるわけじゃない。むしろ、お前を取り戻そうとしてるように見えた......それが愛情なのか、それともただの所有欲なのかは分からないけど」 西也の目に不安の色が浮かんでいるのを見て、若子は急いで言った。 「西也、そんなことないわ。気にしないで。彼が私を取り戻すなんて絶対にあり得ない。それに私も彼のところには戻らない」 「本当に?お前、本当に心が揺れたりしないのか?たとえ、あいつが頭を下げて頼んでも」 「実際に頼まれ
「つまり、私の母親のせいで、あんたたちは私をこんなにも嫌うの?私の母が桜井夫人を死なせたと考えて、その怒りを全部私に向けてるってこと?」 「私たちがあんたを嫌う理由は、あんたが母親とそっくりだからよ」絵理沙は冷たい目で言った。「雅子、あんたは子供の頃から欲深い。自分のものでもないものまで全部欲しがる。そして自分の力で手に入れられないと分かると、卑怯な手を使う。父が私に買ってくれた高価で美しいドレスに嫉妬して、こっそり台無しにしたこともあったわね。あんたは自分勝手で、身の程を知らない。家の使用人たちをまるで奴隷みたいに扱って、桜井家の次女という立場を盾にして好き放題してきた。そのくせ、後で何食わぬ顔をするのよ。結局、父が最後には許してくれたけど、私たちは全部見てたわ」 絵理沙の声は冷たさを増していく。「これまでに色んなことがあったわ。すべてがあんたの人となりを物語ってる。それでも、あんたのやったことの一部は、私たちの想像を超えるものだった。例えば、茅野さん。彼女は幼い頃から私を世話してくれた人よ。でも、あんたは彼女が私を『桜井家唯一の後継者』だと言ったからって、彼女を階段から突き落としたわ」 「それは私じゃない!彼女が自分で落ちただけで、私には関係ない!」雅子は必死に否定した。 「一億よ」絵理沙は冷静に言った。「桜井家は茅野さんの家族に一億円を渡して、この件を片付けたの。だから、桜井家があんたに何かを欠けたなんて言う資格はないわ。それに、無実を装うのもやめたら?本当のことはあんた自身が一番分かってるはず。桜井家はあんたに十分以上の情けをかけてきたのよ」 雅子の顔は怒りで真っ赤になった。 「藤沢修と結婚したからって、私たちが急に態度を変えて、頭を下げて笑顔で迎えると思ったの?そんなわけないでしょ!」 絵理沙は嘲笑を浮かべ、目を細めて言った。「そうね、藤沢夫人とは立派な肩書きだわ。あんたがどんな手を使ったのか知らないけど、覚えておいて。桜井家がどうなるかなんて、あんたには決められない。もしあんたが、桜井家が藤沢修の名前を利用して彼と仕事をすると思ってるなら、それは完全な勘違いよ。私たちは実力でやってきた。縁故でどうこうするつもりはないわ。たとえ父がそうしたくても、私は絶対に認めない。桜井家のことはすべて私が決めてるの。彼があんたのために桜井家と
雅子がたとえ修と結婚したとしても、宗一郎の彼女への態度は変わらなかった。どこか冷淡で距離を保ったままだった。宗一郎が部屋を出て行くと、雅子がふと口を開いた。「姉さん、私の部屋、まだ残ってる?」「あるわよ。誰も使ってないから。ついてきて」絵理沙は振り返ると階段を上がっていった。雅子はその後に続いた。部屋に入ると、そこは以前のままだった。定期的に使用人が掃除しているらしく、家具や装飾もそのまま残っていた。「見ての通り、誰もあんたの部屋に手をつけてないわ」雅子は一息ついて言った。「よかった。私がいなくなった後、他の誰かに使われてるかと思ったわ」「この家には部屋がたくさんあるのよ。誰もあんたの部屋を取ったりしないわ。みんながあんたをいじめてるとか、あんたの物を横取りしようとしてるとか、そんな風に思い込むのは勝手だけど、実際には誰もそんなことしないの。桜井家では、あんたに与えられた物はきちんと残してあるわ。ただ、それ以上を欲しがるなら、それはただの欲張りよ」雅子は眉をひそめながら言い返した。「姉さん、私がどんな立場にいるか知ってるわよね。私、明日修と結婚するの。そうなれば私は藤沢家の人間、藤沢修の妻なのよ。姉さん、同じ母親じゃないとしても、もう少し私に対する態度を改めるべきじゃない?」絵理沙は近くの椅子に腰掛けながら、「あんた、私があんたに冷たいのは母親が違うからだと思ってるの?」と静かに問いかけた。「そうじゃないの?」雅子が反論する。絵理沙は薄く笑った。「私たち三人、私もあんたも弟の誠も、みんな母親が違うのよ。確かに私の母は正妻で、桜井家の『桜井夫人』だけど、あんたと誠の母親は愛人だったわね」「やっぱり認めるのね」雅子は冷たく笑いながら続けた。「それで、あんたは私を見下してるわけよね。私の母が愛人で、私が私生児だからって」「弟の誠だって私生児よ。でも、私は彼をちゃんと弟として見てる。私生児なんて珍しくないわ。こういう家では、男たちが外で好き放題して、そのせいで生まれる子がたくさんいるんだから。でもそれで家の女たちが苛立つのも仕方ないことよね。それにしても、うちの父が外で作った子供はまだ他にもいそうね」「だったら、どうしてあんたは私を嫌うの?」雅子は目を細めて尋ねた。「私があんたの地位を脅かすとでも思ってるの?」「私
雅子が黙っているのを見て、宗一郎が口を開いた。「お前が外で誰を捕まえてきたのかは知らんが、桜井家の顔に泥を塗るような真似はするな。仮にどうしようもない男を選んだとしても、それはお前の勝手だ。ただし、桜井家に迷惑をかけるなよ」 父の言葉を聞いて、雅子は怒りで胸が熱くなった。無意識に拳を握りしめながら、必死に怒りを抑えて言い返した。「あんたたち、私がそんなダメ男しか選べないって思ってるの?そんなに私を馬鹿にするなんて」 「雅子、誰もあんたを馬鹿にはしてないわよ」絵理沙が冷たい笑みを浮かべながら言った。「あんたは小さい頃から頭が良かったもの。むしろ良すぎたくらいね。この家にいる誰もが一度はあんたにしてやられた。だから私たちはあんたを侮るつもりはないのよ」 絵理沙の皮肉たっぷりの口調に、雅子は冷たい鼻笑いを返すとこう言い放った。「そうね、侮らないで正解よ。私、明日藤沢修と結婚するから」 「藤沢修」という名前を聞いた瞬間、宗一郎と絵理沙は目を見合わせた。その名前には聞き覚えがあったが、どこか信じられないような気持ちだった。 「藤沢修?お前が言ってるのは、あの藤沢修か?」 「他に誰がいるのよ?」雅子は一歩前に出て得意げに微笑んだ。「この名前、聞き覚えがあるでしょ?SKグループの総裁、藤沢修よ」 「藤沢修はもう結婚してるだろう」宗一郎が疑いの目を向けながら言った。「まさかお前、不倫相手か?それを自慢げに話すつもりか?」 「結婚するって言ってるのに、どうして私が不倫相手になるのよ?」雅子は反論した。「明日、私たちは結婚式を挙げた後、すぐに婚姻届を出す予定よ。いくらあんたたちが私を嫌ってても、桜井家の一員である私の結婚式には来るべきでしょ?」 雅子は明日の結婚式に誰も来ないのではないかと心配していた。家族が一人も参列しないとなれば、周囲に見下されるのではないかと不安だったのだ。 「だったら証拠を見せてちょうだい」絵理沙が言った。「本当に藤沢修と結婚するって証拠を。でなければ、あんたの口先だけの話なんて信じられるわけないでしょ?」 雅子はポケットからスマホを取り出すと、修に電話をかけた。数秒後、電話が繋がる。 「雅子、何かあった?」修の声が電話越しに聞こえた。 「修、私、今家にいるの。父と姉に明日結婚するって伝えたけど、二人とも信じて
雅子は居心地悪そうに言った。「あんたたち、証拠もないのに適当なこと言わないでよ。私は何もしてないから」「証拠?」絵理沙は冷笑を浮かべた。「雅子、あんたがやってないって言うなら、警察が来た時にどうして逃げたの?」「警察が証拠を見つけたの?」雅子が問い返す。「もし証拠がないなら、それは濡れ衣だってことでしょ」「もういいから、言い訳はやめろ」宗一郎が苛立った声で言った。「お前がやったかどうかは自分が一番よく分かってるはずだ。桜井家の人間だってことで、これまで誰もお前を追い詰めなかっただけだ。それなのに文句を言うなんて、よくそんな口がきけるな。もし俺たちが本気で連絡してたら、お前、戻ってくる度胸なんかあったのか?今さら何も言わずに帰ってきて、何を企んでるんだ?」「ここは私の家でしょ。私が帰ってきちゃいけないわけ?」雅子は椅子を引いて座り込むと、強い口調で続けた。「あんたたち、私がこの2年間、外でどんな目に遭ってきたか知ってる?肺の移植手術と心臓の移植手術を受けたのよ。そのたびに命を落としかけたんだから!」「お前の体は健康そのものだったじゃないか。なんでそんな手術を受けることになったんだ?」絵理沙が疑わしそうに尋ねた。「桜井家にいた頃は毎年健康診断を受けてたけど、どこも悪いところなんてなかっただろ。それが家を出た途端、手術だなんておかしいんじゃない?」「病気っていうのは突然やってくるものよ。健康診断で見つからないことだってあるの。私が病気だってわかった時にはもう手遅れだった。肺の移植手術が必要だったんだけど、手術中のトラブルでうまくいかなくて、そのせいで肺だけじゃなくて心臓まで悪くしたのよ。それで最近、心臓の移植手術をしたの。昨日退院したばかり」雅子が話し終えると、父と姉の疑わしい視線に気づき、ため息をつきながら服を引っ張った。そして胸に残る手術の傷跡を見せる。「これが証拠よ。こんなもの、偽物なわけないでしょ?」「どうやら本当みたいだな」絵理沙は肩をすくめた。「でも、だから何?病気だったなら、なんで家族に知らせなかったの?コソコソ治療して、今さら元気になったからって戻ってきて、何を企んでるわけ?」彼女の目は鋭く、隙を見せない。桜井家の長女である絵理沙は、家業のほとんどを取り仕切り、この家で最も権力を持つ人物だった。「姉さん、そんな言い方
車内。 光莉は電話で修と話していた。 「今日、若子に会ったわ。それに遠藤西也にも」 「母さん、若子は何か言ってた?話、聞いてくれた?」 「話を聞いてくれた?まるで私が何か命令でもしたみたいね。私は彼女の本当の母親じゃないのよ。私が無理に遠藤西也と別れろなんて言ったって、聞くわけないでしょ」 「でも遠藤西也はやばい奴だろ?母さん、若子にそいつの危険さをちゃんと伝えた?」 「危険なのはあなただけにとってよ」光莉は静かに言った。「若子にとっては、そこまで重大なことじゃないわ」 「これが重大じゃないって言うのか?遠藤西也みたいな奴が......」 「遠藤西也がなんだって?」光莉は彼の言葉を遮った。「どうであれ、彼が若子を大切に思っているのは本物よ。彼は若子を傷つけたりしない。それだけでも、あなたよりはマシだわ。数えてみなさいよ。あんたと桜井雅子のことで、若子を何度傷つけたか」 「俺と雅子の関係は......」修は言葉を途切れさせた。どう説明すればいいのか分からなかった。 「どうだって言うの?言い訳できないんでしょう?若子が言ってたわ。あなたたち、明日結婚するんですって?こんなタイミングでその女と結婚するなんて、若子があなたを離れたのは正解だったわね。彼女が遠藤西也と結婚した方が、あなたといるよりずっとマシよ」 「もう若子と一緒になることは無理なのはわかってる。でも、それでも遠藤から引き離したいんだ。ただ俺が若子を取り戻したいからじゃなくて、あいつが若子を傷つけるのが怖いんだ。それに雅子のことだって......何度も結婚を約束したから、これ以上裏切れない。でもはっきり伝えたんだ。俺が本当に愛してるのは誰かって」 光莉はため息をつき、呆れた声で言った。「母親として、何を言えばいいのか、もうわからないわ。何を言ったって無駄でしょうし、若子を取り戻すのを手伝うつもりもない。自分で蒔いた種の責任は自分で取りなさい。それと桜井とのことも、どうするか自分で考えなさい。私は忙しいの。じゃあね」 修が何か言おうとしたその時、光莉は電話を切った。 一方、桜井雅子。 雅子は目の前の屋敷を見上げていた。 この家を訪れるのは何年ぶりだろうか。家族は誰一人として彼女を歓迎しない。たとえ家を離れていても、誰も彼女を探しに来ないし、連絡もない
「お母さん、私のことを心配してくれてるのはわかります。でも、西也は本当に私に良くしてくれているんです。私たちは色々なことを一緒に乗り越えてきました。それは、お母さんが関わっていないことだから、知らないのも無理ないんですけど......」 「もういいわ」光莉が若子の言葉を遮った。「あなたの言う通り、私は何も知らないし、口を出す権利もない。ただ、ちょっと気をつけてほしいだけ。私の話が正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。どっちにせよ、私が言ったことはすべて本当よ。西也がどんな人かわからなくても、彼のお父さんがどんな人かは知ってるはずよね」 そう言って光莉は若子の肩を軽く叩いた。「じゃあ、私は行くわね」 光莉が車のドアを開けて乗り込もうとしたとき、若子がその背中に向かって言った。「お母さん、私は西也を信じています。彼のお父さんがどんな人でも、西也はいい人です」 光莉は微かに笑った。「あなたにとっては、彼がいい人なだけよ」 「お母さん、もし本当にお母さんの言う通りで、彼のお父さんが私を人質にしてお母さんを脅しているのだとしたら、絶対に私のために無理をしないで。私は大丈夫です。西也が私を守ってくれますから」 光莉は振り返って静かに言った。「わかったわ」 そう言い残して、光莉は車に乗り込み、そのまま去っていった。 若子は彼女の車が遠ざかるのを見届けてから、ゆっくりと屋敷の中へ戻っていく。 そこへ西也が歩いてきた。「若子、何を話してたの?なんだか顔色がよくないみたいだけど」 彼は内心、光莉が二人の間を引き裂こうとしていないか心配していた。 若子は首を振った。「何でもないわ。西也、お母さんは直情的なところがあるの。悪気はないんだけど、ちょっと言葉がきついことがあるのよ。だから、気にしないでね」 西也は優しく微笑んだ。「気にしないよ。むしろ、お前と彼女の息子が離婚したのに、お前を気にかけて会いに来るなんて、彼女はお前のことを本当に娘のように思っているんだね。それだけで俺は彼女を尊敬するよ」 西也のどこまでも隙のない言葉に、若子は少し戸惑いを覚えた。 一方には優しい西也がいて、もう一方には光莉の警告がある。その板挟みの中で、若子の心は揺れていた。 彼女は西也を信じてきた。昨日、彼がレストランで行ったことを知るまでは。
昼食が終わった後、光莉は「用事があるから」と席を立った。若子は彼女を玄関まで送っていく。そこで光莉が「少し二人きりで話がしたい」と言うので、西也は遠くで待つことにした。「お母さん、何を話したいんですか?」若子が尋ねた。「大したことじゃないわ。ただ、あなたと西也、すごく仲が良さそうね。彼を信じてるのよね?」若子は頷いた。「はい。彼はとても良くしてくれています」「昨日のレストランのこと、もう聞いてるのよ」光莉が言った。「あなたはもう彼を許したの?」「修があなたに話したんですか?」若子が問い返す。光莉は小さく頷いた。「それで、修が私を説得するように頼んだんですね?」「彼は若子のことが心配だっただけよ。それで様子を見に来ただけ。他に深い意味はないわ」「お母さん、どんな理由があろうと、私はもう新しい生活を始めているんです。だから彼にはもう干渉しないでほしい。彼にこう伝えてください。これからの私の人生は、たとえどんな結果になろうとも、私自身の選択なんです。たとえ間違った選択だったとしても、それは私が受け入れるべきことです」光莉は若子の腹をそっと撫でた。「それで、この子はどうするの?もし彼が自分の子供だと知ったら、そしてその子が将来苦しむことになったら、彼はどれだけ苦しむと思う?」「彼が桜井さんと明日結婚するって、知ってますか?」若子は静かに答えた。「昨日、レストランで彼がそう言ったんです。それに、これから彼は桜井さんとの子供で精一杯で、この子のことなんてきっと構ってられないでしょう」光莉は重い表情で目を閉じ、深いため息をついてから、ゆっくりと目を開けた。「あなたに話しておきたいことがあるの」「何ですか?」若子が眉をひそめる。「あなたは考えたことがある?どうしてあの遠藤高峯が、あなたが彼の息子の妻になることを認めたのか。それに、彼は最初からあなたが妊娠していることを知ってた。それが彼の息子の子供じゃないことも」若子は驚いた。「私が妊娠していることを知っていたなんて、私は全然気づいていませんでした。どうしてそんなことを?」「私が17歳のとき、遠藤高峯と付き合ってたの。でもその後、彼はあるお嬢様と結婚するために私を捨てたのよ。この間、彼があなたを通して私に会おうとしたのは、融資のことなんて関係なかったのよ。これでわか
「西也、あなたもあなたのお父さんと同じで卑劣ね。親子揃って本当に吐き気がするわ」 光莉は冷たく言い放った。彼女の目的は、わざと西也を挑発してその本性を引き出すことだった。 西也はわずかに目を細め、拳を軽く握りしめた。「申し訳ないけど、僕、自分の父親のことも忘れちゃってるんですよ。どんな人だったか覚えてません。でも、もしも僕が父さんと同じで卑劣だっていうなら、仕方ないですね。それにしても、初対面でそんな結論を下されるなんて、ちょっと残念です。もしかして、伊藤さんは僕の父さんに何か恨みでもあるんですか?そのせいで僕まで目障りに感じるとか」 西也は礼儀正しく微笑みながら続けた。「それとも、父さんと何かあったんですか?僕にはわかりませんが、伊藤さんの目には憎しみが見えます」 光莉は思わず認めざるを得なかった。この男は一筋縄ではいかない。記憶を失ったというのは本当なのだろうか。もし演技ならば、彼は恐ろしいほどの策士だし、本当に記憶喪失だとしても、これほどまでに賢く冷静でいられるのはやはり異常だった。 「卑劣な小僧ね。本当に感心するわ。そりゃあうちの息子があなたに敵わないのも納得だわ」 西也は肩をすくめ、無力そうに首を振った。「それは残念ですね。でも、僕がそんなにすごいわけじゃなくて、ただ息子さんがあまりにも弱いだけなんじゃないですか。負けて泣きながら母親に助けを求めるなんて、小学生みたいですね。喧嘩で負けたからって親を呼ぶなんて」 「私は修のために来たんじゃないわ」光莉は毅然と言った。「若子のために来たのよ。それに、あなたに会っておきたかったから。ずっと噂には聞いてたけどね。修が負けたとか、何か悔しい思いをしたのは、確かに自業自得。でも、あなたが喜ぶのはまだ早いわ。この世の中には、序盤で有利に見えても、後で惨敗する人がたくさんいるの。特に、卑劣な人間はね。そういう連中は正面からの勝負に弱いから、一度戦ったら下手をするとすべてを失うわよ」 「伊藤さん」西也は落ち着いた口調で、「卑劣な人間だと思われて光栄です。そういう評価、結構好きですよ。言ってることも正しいと思います。でも、ひとつだけ覚えておいてほしいんです。この世界で最後まで生き残るのは、卑劣な人間なんですよ。正面から戦う人間は、真っ先に倒れるものです。信じられないなら若子に聞いてみてください
若子は口元を引きつらせながら、控えめに笑った。「大丈夫です、別に悪い話というわけでもありませんから」 「そう?いやあ、私って思ったことをすぐ口にしちゃうタイプだけど、悪気は全然ないのよ。あなたたちが気にしないって言ってくれるなら、もう本当に嬉しいわ」 光莉は昼食を美味しそうに楽しんでいたが、若子と西也はどこか静かだった。そのせいで、まるで光莉が場の空気を微妙にしているような雰囲気になっていた。 食べている途中で、若子がふと立ち上がった。「ちょっとお手洗いに行ってきます。先に食べていてください」 彼女が席を外すと、西也はホストとしての役割を果たそうと、丁寧に話しかけた。「伊藤さん、若子のことを大事に思ってくださっているのはわかります。安心してください。僕は彼女を幸せにします」 光莉は冷たい視線を送りながら返した。「でも、あなたは記憶をなくしたんでしょう?過去のことを全部忘れているのに、どうやって彼女を幸せにするつもりなの?」 西也の表情が一瞬こわばったが、不機嫌な様子は見せなかった。ただ、その目にはどこか影があった。「彼女は僕の妻です。たとえ記憶を失っても、彼女を大切にすることは忘れません。僕たちは新しい記憶を作っていくつもりです」 「新しい記憶?」光莉は薄く笑った。「例えば昨日、レストランで私の息子を陥れて、若子に心配させたこと?確かに忘れられない記憶ね」 その瞬間、西也の顔は冷たくなった。光莉がここまで直接的に言うのなら、彼も飾るつもりはなかった。彼は箸を置き、冷静な声で問いかける。「伊藤さん、つまり今回は、僕を責めるために来たんですか?」 怒りを抑えつつも「伊藤さん」と呼び続けたのは、ただ若子のためだった。 「責めに来たわけじゃないわ。ただ、あなたのことを感心してるだけよ。遠藤高峯の息子だけあって、本当にすごいわ。少なくとも修には及ばないと思ってたけど、彼が直接的なやり方で相手を傷つけるとしたら、あなたは見えないところでやるのね。修にも見習わせたいわ。どうやったらそんな風に柔らかい刃を使えるのか」 西也は薄く笑った。「伊藤さん、そこまで褒めてくれるなら正直に言いますけど、息子さんには学ぶべきことがたくさんありますよ。例えば、自分の妻をどう大切にするか、とかね」 「妻の扱いなんて、あなたが心配することじゃないわ」光莉