田中刑事は何も答えず、続きを聞くよう促した。鈴木力也の供述は続いた。彼によると、その時私は夫と高橋月子のことについて話を聞き、お茶を入れ、果物まで出して彼をもてなした。そして話をしているうちに、彼はうとうとと眠くなってしまった。目が覚めたら、夫と高橋月子が血まみれで死んでいて、彼の手には血のついた果物ナイフが握られていたという。取調室で頭を抱え、顔を歪めながら必死に言い訳を続ける鈴木力也を見て、私は眉をひそめている田中刑事に目を向けた。「これって名誉毀損じゃないですか?」田中刑事が言った。「犯人の供述はあくまで一方的なものだ。捜査は全て証拠に基づいて行う」その言葉を聞いて、私は少し気持ちが落ち着いた。まだ取調官と口論している鈴木力也を一瞥し、もうこれ以上見る必要はないと思い、田中刑事に先に帰ることを申し出た。田中刑事はそれを承諾し、私を警察署の前まで送ってくれた。車に乗り込もうとしたその時、彼が突然尋ねた。「川村さん、その目元の泣きぼくろはどこの美容院で取ったのか?」私は数秒間呆然とし、不思議そうに彼を見つめた。「どうしてそんなこと聞くんですか?」「実はうちの妻にも同じようなほくろがあってね。君のほくろがきれいに取れているから、妻にも勧めたいと思って」その言葉を聞いて、私は頷き、美容院の名前を教えた。ホテルへ戻る道中、私の頭にはずっと田中刑事の表情が浮かんでいた。彼の鋭い鷹のような眼差しが、私に不安感を抱かせた。
鈴木力也の事件はすぐに解決した。彼がどれだけ言い逃れしようとも、科学技術の前では無力だった。ある機器による分析や現場に残された数々の痕跡から、鈴木力也は真実を白状した。佐々木健一と高橋月子は確かに彼によって殺されたのだ。事件当日、彼が現場に着いた時、大門は施錠されておらず、中に入ると二人がベッドで寝ているところだった。それを見て激怒した鈴木力也は台所から果物ナイフを持ち出し、そのまま二人を殺害した。鈴木力也は犯行の一部始終を話し出した。ただ一点だけ、彼は譲らなかった。それは事件当日、自分が私と会ったということだ。さらに、その時私自身が「例の手紙」を彼に渡したとまで言っていた。これらは全て付き添いの女性警官から聞いた話だった。しかし、この件について私は即座に鈴木力也の主張を覆す証拠を提示できた。なぜなら事件当日、私はすでに飛行機で大阪空港に到着していたからだ。事件は解決した。しかし奇妙なことに、それ以来田中刑事は姿を見せなくなった。鈴木力也に死刑執行猶予の判決が下された日、一ヶ月以上も姿を消していた田中刑事が突然私を訪ねてきた。「さぞ満足だろうね。全てが君の思い通りになったわけだから」私は一瞬言葉を失った。「それってどういう意味ですか?」田中刑事は答えず、テレビの方へ歩み寄り、壁に掛かったウェディング写真をじっと見つめた。「川村澪と呼ぶべきか、それとも川村美鈴と呼ぶべきか」彼は急に振り向き、鋭い眼差しで私を見据えた。「君は川村美鈴さんだよね」「申し訳ありませんが、何のお話かわかりません」私は首を振った。田中刑事は笑みを浮かべた。「わからないなら、私から説明しようか」
1996年10月9日、ある夫婦に双子の女の子が生まれた。そして15年後、その夫婦は離婚した。田中刑事は続けた。「双子の姉は父親の川村楽陽と暮らし、妹は母親の伊藤紅丸と共に北海道へ。両親がそれぞれ新しい家庭を築いてからは、姉妹も別々の人生を歩むことになった。姉の川村澪は継母から虐待を受け、次第に臆病で弱気な性格になっていった。学校ではいじめられ、家では義弟の嫌がらせに遭い、結婚後は夫からの暴力に苦しめられた。そんな理不尽な境遇に、川村澪はただ耐えることしかできず、時折、妹にだけ胸の内を明かしていた。一方、妹の川村美鈴は母親の再婚家庭で、義父に子供ができない事情から、まるで宝石のように大切に育てられた。姉とは対照的に、芯の強い女性に育った。姉の苦境を知った川村美鈴は、福岡へ向かい......」私は笑いながら、田中刑事の言葉を遮った。「面白い創作ですね。編集者にでもなられたら?警察官は勿体ないですよ」
黙り込む田中隊長を見つめながら、私は言葉を継いだ。「そんな話をどこでお聞きになったのか分かりませんが、私は川村澪です。妹も姉もおりません」「そう簡単に否定しないでくれ」田中刑事は意味深な笑みを浮かべた。「この一ヶ月余り、私が何をしていたと思う?」私が答える間もなく、田中刑事はカバンから書類を取り出し、テーブルの上に広げた。「これが君たち川村姉妹の出生証明書だ。実家の戸籍謄本に、再婚後の戸籍謄本。身分証明書のコピーもある。この件を調べるために、私は北海道まで足を運んで、川村さんの義父にも会ってきた。こんな証拠がなければ、ここまで踏み込んで来るわけがないだろう」書類を目にした私の瞳が、かすかに揺れた。「いつから疑っていたんですか?」「認めるということかな?」私が黙り込むと、田中刑事は続けた。「君が通報に来た日だ。あの結婚写真を見た時から違和感があった。単なる直感だったが、鈴木力也が逮捕され、事件当日に君と会ったという証言を聞いた時、確信に変わった」「だから私が帰る時、泣きぼくろのことを聞いたんですね」「それで美容院を調べ、私たち姉妹の素性まで探ったというわけですね」田中刑事が頷くのを見て、私は小さく笑った。「随分と手間のかかる捜査でしたね」「ああ」田中刑事も笑みを浮かべた。「でも、その価値は十分にあった」私は眉を上げた。「どういう意味ですか?」
「これらの証拠から、君の犯行の経緯が見えてきたんだ」「そうなんですか?」私は皮肉めいた興味を示した。田中刑事は分析を始めた。「6月30日、君が福岡に着いた時、川村澪は駅まで迎えに来なかった。違うかな?」私は黙って頷いた。確かにあの日、姉は駅で待ち合わせるはずだった。でも30分待っても姿を見せず、電話も繋がらなかった。仕方なく、自分でみどり団地まで向かうしかなかった。「その日はちょうど鈴木力也が佐々木健一のところへ借金取りに来ていたのだ」田中刑事は私の言葉を遮って続けた。「そして君が到着した時、佐々木健一が借金の代償として妻を差し出そうとしている場面を目撃したんだな?」
私の瞳孔が一瞬縮んだ。「鈴木力也の証言なんですか?」田中刑事は頷いた。「ああ。それに私自身も病院へ行って、当日の記録を確認している」田中刑事の言葉で、私の心の奥底に封印していた記憶が蘇ってきた。6月30日、姉が約束を破ったことで、私は不吉な予感がした。駅を出るなり、すぐにタクシーを拾ってみどり団地へ向かった。私たち姉妹は長年離れて暮らしていたが、何でも打ち明けられる関係だった。姉が合鍵を隠す場所さえ知っていた。姉のマンションに着き、靴箱から鍵を取り出した。しかし、ドアを開けた瞬間、目にした光景に私は凍りついた。姉は手足を縛られ、二人の男に辱められていた。皮肉なことに、その一人は夫の佐々木健一だった。「もう一人は鈴木力也か?」私は黙って頷いた。その二人の人でなしを追い払った後、姉を長い時間かけて慰めた。ようやく落ち着きを取り戻した姉を病院へ連れて行った。入院中、姉は少しずつ立ち直っていった。彼女から全てを聞かされた時、私はその二人を即座に殺してやりたいと思った。こんな人でなしがこの世に存在するなんて信じられなかった。借金の返済のために自分の妻を差し出すなんて。彼は姉を人間とすら思っていなかった。だから平気で暴力を振るえたんだ。さらに許せないのは、姉が妊娠中でさえ、佐々木健一はその残虐な性格を改めなかったことだ。些細なことで暴力を振るい続け、結果として姉は流産してしまった。「なぜ警察に通報しなかった?」
私は冷ややかに田中刑事を見た。「こんなことが広まったら、姉はどう生きていけばいいんですか?それに、証拠もなかった」佐々木健一と鈴木力也は明らかに計画的だった。暴行の間、鈴木力也は手袋をして一切の証拠を残さなかった。法的に彼らを罰することは不可能だった。それに姉のことを考えれば、警察沙汰にはできなかった。「だから姉の復讐のために、二人を殺す計画を立てたというわけか」私は黙って微笑んだだけだった。田中刑事は私をしばらく見つめた後、続けた。「認めなくても構わない。私から説明しよう」
数日後、川村澪が退院してから、君たちは入れ替わった。だから会社の同僚が『澪さんが別人のように変わった』と証言していたんだ。彼らの言う通りだ。その時の川村澪は、実は川村美鈴だった。本物の川村澪は北海道にいた。だから義父も『一度帰省してから、随分大人になった』と話していた。同じ顔、同じ体格。誰にも気付かれなかった。もしこれがビッグデータの時代じゃない80年代なら、完璧な計画だったかもしれないな」私は田中刑事の推理を遮った。「仮にそれが全て事実だとしても、何か問題があるんですか?姉妹で入れ替わって生活してみただけです。それ自体は違法ではないはずです」
薬の効果で、高橋月子は一時的に体力を取り戻した。計画通り、彼女は佐々木健一に近づき始めた。計画初日から、私は佐々木健一の食事に薬を混ぜ続けた。その目的はただ一つ、あの人でなしが高橋月子に触れられないようにするためだった。7月18日。高橋月子と佐々木健一の初めてのデートの日。その日、佐々木健一は私から二十万円を持ち出した。私は鈴子ちゃんの世話をするため、上の階の部屋を借りていた。その部屋が後にこれほど重要な役割を果たすとは、当時は想像もしていなかった。7月20日。突然、会社から28日に大阪出張の指示が来た。一度は仕事を手放すことも考えた。しかし、何年もかけて築き上げたこのポジション。新しい職場を見つけても、また一からのスタートを強いられる。そうなれば鈴子ちゃんの将来は?出張を受けるにしても、計画と日程が重なってしまう。数日間、決断できずにいた。7月25日。妹が突然訪ねてきたことで、新たな案が浮かんだ。この件を妹に任せることにし、細かい手順を伝えた後、大阪への出張に向かった。出発前に、化粧品店で泣きぼくろシールを購入し、顔に貼った。8月2日。戻ってきた時、計画は完璧に遂行されていた。ただ一つ、予想外だったのは高橋月子の死だった。彼女が命を懸けるとは思わなかった。その遺体を目にした瞬間、私は涙が止まらなかった。犯行の経緯は、確かに鈴木力也の証言通りだった。妹は廊下で彼と出くわし、意図的に彼の怒りを煽った。激高した男の理性を完全に奪うのは、意外なほど容易いことだった。「あなたの妻が今、佐々木健一とやっている」という一言で十分だった。妹の証言によれば、彼は家に入るなり台所へ直行し、包丁を手にしたという。実は、たとえ鈴木力也が動かなくても、高橋月子が計画を完遂するはずだった。彼女こそが、私の計画における第二の切り札だったのだから。これが事件の全容だ。私が田中刑事に唯一偽ったのは、佐々木健一と鈴木力也に辱められた人物が私だと証言した点だけ。この真実を知る者は、私と妹、そして既に他界した二人だけ。出所の日、私たち三人——私と妹、そして鈴子ちゃんは、遅ればせながら新年の祝い膳を囲んだ。そして、新しい人生の一歩を踏み出した。
あの時の光景は、今でも鮮明に覚えている。私がその言葉を告げた瞬間、高橋月子は私の手を握りしめ、声を押し殺して泣き崩れた。だからこそ、計画を打ち明けた時、彼女は一瞬の躊躇いもなく承諾した。私は彼女を入院させ、一週間の休養を取らせた。その間、鈴子ちゃんの面倒は妹の川村美鈴が見てくれて、会社の方も私の代わりに出勤してくれていた。しかし、不測の事態で妹が巻き込まれることだけは避けたかった。7月5日、妹の必死の反対を押し切って、新潟行きの新幹線に乗せた。7月10日。高橋月子は計画の全てを理解していたはずだったが、それでも退院の日に『聖杯と剣』を手渡した。彼女は微笑みながら言った。「結婚して六年、初めてもらった贈り物です」その言葉に胸が締め付けられた。私にはまだ、わずかでも温もりを感じられる日々があった。でも彼女は、毎日が生き地獄のようだった。
病床で横たわる彼女は、中絶手術を終えたばかりだと告げた。そして、子宮頸がんの診断も受けたという。その話を聞いて、私の中で鈴木力也への憎しみが沸き上がった。だが、こんな事態を警察に訴えても何も変わらないことは分かっていた。「鈴木力也のことを、憎いですか?」彼女の弱々しい性格を考えると、説得には相当な時間がかかるだろうと思っていた。しかし、予想に反して高橋月子は即座に頷いた。「ええ、地獄へ道連れにしたいくらい」彼女の声は震えていた。「でも今の私には、それだけの力もない。ただ鈴子のことだけが心配で......私がいなくなったら、この子はどうなるんでしょう」女の子を蔑む鈴木力也が、実の娘である鈴子の面倒を見るはずがない。それは私も、高橋月子も痛いほど分かっていた。女児だと分かるたびに、彼女の体など考えもせず、執拗に中絶を迫ってきた彼の行為が、それを何より証明していた。「鈴子ちゃんのことは、私が必ず引き取ります。実の娘として大切に育てさせてください」私はそう約束した。
7月3日。退院後、すぐには家には戻らなかった。私たち姉妹は身なりを変え、あるホテルに身を寄せた。部屋に置かれていた『聖杯と剣』という本が、私たちに新たな着想を与えてくれた。そして同時に、鈴木力也の妻・高橋月子のことが頭をよぎった。午前中をかけて、私たち姉妹は佐々木健一を誘惑する計画を物語として紡ぎ上げた。その後、妹は原稿と『聖杯と剣』を持って出版社へ向かった。私は特に原稿を残すよう指示した。もし計画が失敗した時、全ての責任を私一人で背負うためだった。一方、私は高橋月子に会いに向かった。彼女との出会いは、鈴木力也が初めて佐々木健一から取り立てに来た時まで遡る。最初の返済金は、鈴木力也の指示で高橋月子の口座に振り込んでいた。それ以来、私たちは時折連絡を取り合うようになっていた。彼女の境遇を知っていたからこそ、私は彼女に目をつけた。しかし、事前に用意していた言葉は、彼女と対面した瞬間に全て意味を失った。
それは私たち姉妹にとって、最も暗い日々だった。しかし、互いを支え合い、姉妹の絆を頼りに、少しずつ闇から抜け出していった。7月2日の夜。一晩中考え抜いた末、私は二人に報いを与える計画を思いついた。夜が明けるまで妹と話し合い、全ての段取りを決めていった。
もし妹の体の傷跡に気付かなければ、彼女は私に何も話すつもりはなかった。真相を知った私は即座に警察に通報しようとしたが、妹は最後に動画まで撮られていたと告白した。その時、私は確信した。佐々木健一は最初から妹が私ではないと分かっていたはずなのだ。恋愛から結婚まで4年間、互いの体を知り尽くしていた私たちだ。たとえ最初は人違いだったとしても、触れた瞬間に気付いたはずなのに、彼は行為を止めなかった。それどころか、承知の上で犯行に及んだのだ。私は通報を諦めた。事件が公になれば、未婚の妹の人生に取り返しのつかない傷を残すことになるからだ。
病院で目覚めた時、医師からその事実を告げられ、死にたいと思った。妹の川村美鈴が現れなければ、私はその絶望から抜け出せなかったかもしれない。入院中、佐々木健一は一度も見舞いに来なかった。私は完全に彼への未練を断ち切った。そして7月1日、妹が着替えを取りに自宅へ行った時のことだった。たまたま佐々木健一と、彼から取り立てに来ていた鈴木力也に出くわした。佐々木健一は妹を私と勘違いし、金を要求してきた。義兄の佐々木健一を心底憎んでいた妹が金を渡すはずもなく、激高した佐々木健一は罵声を浴びせかけた。そこへ鈴木力也が悪意に満ちた言葉を投げかけ、佐々木健一は妻を借金の担保に差し出すという卑劣な考えを抱くに至った。その日、私の妹は二人の人でなしに辱められた。
6月29日の夜。父親になると知れば、きっと更生してくれるはずだと、淡い期待を抱いていた。彼が嫌がっていた泣きぼくろさえ、わざわざ取ってもらった。その夜、彼が帰宅したのは深夜1時を回っていた。ソファで待ち続けて眠っていた私は、彼の物音で目が覚めた。酒の臭いを漂わせる彼を見て、思わず口を滑らせてしまった。「いい加減にして。いつも友達と飲んでばかりで、まともな生活できないの?」その一言が、全てを狂わせた。彼は私を殴り倒し、容赦なく暴力を振るい続けた。妊娠していることを必死で訴えても、獣と化した彼の暴力は止まることはなかった。そして私は、赤ちゃんを失った。
DVに「最初で最後」はない。一度始まれば、それは止めどなく繰り返される。私は離婚を考え始めていた。しかし6月25日、妊娠が分かった。数日間悩んだ末、離婚の考えを諦め、佐々木健一にもう一度だけチャンスを与えることにした。