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第8話

そう言って、彼を振り返ることもなく立ち去った。

伊藤瑾也はあの後ろ姿を見つめ、初めて見知らぬ人のように感じた。あれはいつもの美咲ではなかった。

彼女はいつも控えめで、無口で、目立たない人だった。

彼が彼女と結婚したのは、高橋蘭子との別れがあったこともあるが、彼女の穏やかな佇まいに心惹かれたからでもあった。

離婚後、私は団体旅行に参加し、日本中を旅して回った。

共通の知人から事情を聞かれても、何も話さなかった。

ただ相性が合わなかっただけと答え、離婚後も誰の悪口は言わなかった。

伊藤瑾也が何をしたとしても、幸せな時もあった。私も本当に愛していた。

一緒に暮らさなくなっただけで、憎み合う必要はないと思った。

高橋蘭子は伊藤瑾也の家に住むようになり、間もなく二人は結婚した。

藤瑾言和は表向きは何も言わなかったが、内心では複雑な思いがあったようだ。

高橋蘭子はまだ五十歳で、妊娠の可能性もないわけではなかったから。

私は一ヶ月以上も旅を続けた。以前は旅行に行きたくても、いつも遠慮があった。

結婚後は伊藤瑾也の都合を気にし、出産後は伊藤言和の世話があった。

結果として二十年以上、どこにも行けなかった。

まるで井の中の蛙のように。だから伊藤言和が父親に、なぜ裕福な家なのに母は世間知らずなのかと聞いていたのも納得できる。

その時、伊藤瑾也はこう答えたそうだ。

「だから近づくな。愚かさが移るぞ」

それ以来、伊藤言和は送り迎えも勉強の相談も避けるようになった。

「ママは頭が悪いから、近づいちゃダメなんだ。僕も馬鹿になったら、パパに嫌われちゃう」と言った。

なんて皮肉なことだろう。

今は、私の方が彼らと距離を置くことを選んだ。

絵画の腕も上がり、SNSでフォロワーも増えた。

時々依頼も来るようになり、受けている。

穏やかな日々を送りながら、カルチャーセンターの仲間たちとボランティア活動もしている。

山間部の子供たちに支援物資を届けたり。微力だと分かっていても、何もしないよりはいいと思っている。

山から戻ると、マンションの前で伊藤言和が待っていた。

ちらりと見ると、山田優子のお腹が少し大きくなっていた。妊娠しているようだった。

二人を部屋に通すと、伊藤言和は複雑な表情で私を見つめた。

しばらくして、やっと口を開いた。「母さん、どこに
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