「誰かに見られたら大変、だと?」啓司の唇から冷笑が漏れる。運転手は背筋が凍り、額に冷や汗を滲ませた。「病院へ行け」啓司の声は氷のように冷たかった。「は、はい」病院では、逸之が食事を拒んで騒いでいた。「ママに会いたい!どうしてママは来てくれないの?ママ……」家政婦は途方に暮れていた。「逸ちゃん、お願い。いつもはいい子なのに。ね?」普段なら家政婦の言うことを聞く逸之も、今はママのことで頭が一杯で、言うことを聞く気になれなかった。「食べない!ママを呼んで!」家政婦は困り果てた。奥様の連絡先すら持っていないのだ。突然、病室のドアが開く音が響いた。啓司の姿が現れる。「社長様」家政婦は慌てて立ち上がった。「下がっていい」啓司の声が響く。家政婦は食器を置くと部屋を出て行き、ボディーガードがドアを閉めた。部屋には逸之と啓司だけが残された。逸之は不機嫌そうな顔をした父親を見つめ、何が起きているのか理解できなかった。「啓司おじさん、ママはどこ?」啓司は椅子を引き、腰を下ろした。「もう一度言わせるのか?『パパ』と呼べ」その声には冷たい威圧感が滲んでいた。逸之は理由も分からぬまま頬を赤らめた。辰夫パパとは気軽に呼べても、本当の父親となると……声が出なかった。「フン、パパなんかじゃない」「DNA鑑定の結果を見せようか?」啓司は言い放った。逸之は知らないふりをした。「DNA鑑定って何?分かんないし、知りたくもない」啓司は紗枝のような甘い相手ではない。景之と同じように、この子も並外れて賢いと知っている。「一つ聞きたい。母さんは俺のことを、酷い男だと言っていたか?」突然、啓司が尋ねた。逸之は不思議に思った。海外にいた頃、ママは啓司のことをほとんど口にしなかった。ただ、テレビやニュースで啓司の姿を見かけた時、ママの様子が急に変わるのを覚えている。その時から気になり始め、兄に調べてもらった。啓司とママが結婚していたことを知り、少しずつ糸を紐解いていくうちに、自分たちが啓司の子供だと分かった。「ママは人の悪口なんて言わないよ」逸之は隙のない答え方をした。啓司はその返答に黙り込んだ。「ママはどこに行ったの?」逸之は追及した。「大スターと食事だ」啓司は不機嫌そうに答えた。
逸之は、やっぱりヤキモチを焼いているんだと確信した。わざと指を折って数え始める。「一人、二人、三人……うーん、少なくとも十何人のおじさんかな。みんなかっこいいよ」十数人……その言葉は啓司の想像を遥かに超えていた。結婚していた頃、紗枝の周りには殆ど男性がいなかったはずなのに。今や十数人もの男が彼女を追いかけている?「それで……彼女は誰かを受け入れたのか?」逸之はベッドに寝転び、満腹の腹を撫でながら、意地悪そうに答えた。「さあ、分かんないよ。ずっとママと一緒にいたわけじゃないし」啓司は立ち上がった。「よく休め」その様子を見た逸之は、咄嗟に啓司の手を掴んだ。大きくて長い指に触れた瞬間、逸之は生まれて初めて、父親の手の温もりを感じた。「啓司おじさん、どこに行くの?」啓司は答える代わりに問い返した。「他に用か?」逸之はもう十分からかったと思い、誤解させるのは良くないと考え直した。「知ってる?僕、前にテレビのニュースで見たことあるよ」「ママね、テレビにあなたが出てくると、ぼーっと見つめてたの」その言葉に、啓司の胸に複雑な感情が渦巻いた。「もう寝ろ」「うん」逸之は素直に目を閉じた。廊下に出た啓司は、ボディーガードに時刻を尋ねた。「もう九時です」九時――まだ戻っていない。啓司は病院を離れず、逸之の特別室に併設された客室で待つことにした。一方。紗枝とエイリーは曲の違和感のある箇所について話し合い、彼女は黙々とメモを取りながら、後で修正しようと心に留めた。「逸ちゃんと景ちゃんは?最近どう?一緒に来なかったね」子供の話題に、紗枝は簡潔に答えた。逸之が入院していること、景之は友達の家にいることを。食事を終え、二人がレストランを出ると、エイリーが車のドアを開けた。「送っていくよ」前回、牡丹別荘まで送った後、ネットで調べてみて驚いた。あの別荘は元黒木グループ社長、黒木啓司の私邸だった。紗枝が「夫の家」と言っていたなら……彼女の夫は啓司なのか?エイリーは更に啓司の妻について検索すると、確かに紗枝という名前が出てきた。「ううん、近くの病院までだから、歩いて行けるわ」「じゃあ、散歩がてら一緒に行こう」エイリーは即座に提案した。こんな遅い時間なら人通りも少ないし、たとえ誰
啓司の長身の姿が、玄関前の大樹の下に佇んでいた。目は見えないものの、ボディーガードから紗枝がエイリーと一緒に来たことは既に知らされていた。紗枝は啓司の姿を一瞥すると、足を止めた。エイリーの前に立ち、余計な面倒は避けたいと思った。「私はここまでよ。お先に」エイリーは頷いた。「ああ、また今度」静かに寄せてきた車にエイリーが乗り込むのを見送ってから、紗枝は病院の中へと歩を進めた。啓司の前まで来て、紗枝は静かに口を開いた。「逸ちゃんに会わせてくれる?」啓司の凛とした横顔からは、何の感情も読み取れなかった。「この時間、子供は既に寝ている」冷ややかな声が返ってきた。紗枝が携帯を確認すると、もう22時を回っていた。エイリーと曲の打ち合わせに没頭するあまり、時間を忘れてしまっていた。「そう。じゃあ、明日にするわ」その言葉を聞くや否や、啓司は紗枝の腕を掴んだ。「子供のことを本当に心配しているのか、それとも演技か?」紗枝の指が強張る。「どういう意味?」「分かっているはずだ」啓司は紗枝の傍らを通り過ぎていった。紗枝はその場に立ち尽くした。また何かの気紛れなの?息子に会わせないだけでも十分なのに、何が本気だの演技だのって。苦労して産み育てた子供のことを、演技なわけないでしょ。啓司との言い争いに疲れた紗枝は、病院の付添い部屋に戻った。明日の朝、逸之に会えることを願いながら。逸之の隣の病室には黒木明一が入院していた。一日余りの治療を経て、ようやく元気を取り戻した明一の姿があった。「ママ、パパ、あの野良児のせいだよ」声が出せるようになるなり、明一は両親に訴えかけた。夢美は息子の手を握りしめながら「明一、ママに話して。いったい何があったの?」これまでは紗枝と逸之からの話しか聞いていなかった。明一の口から直接聞くのは初めてだった。この件は、まだ終わっていない!「あの野良児が僕をだましたの。築山の裏に連れて行かれて、道に迷っちゃったんだ」明一は涙をポロポロこぼしながら話した。夢美の目が一瞬で冷たく変わった。「この私生児が!」低く呪むような声を漏らし、昂司の方を見上げた。「聞いたでしょう?明一は被害者なのよ」「あんな小さな子が、どうして自分から明一を築山に誘うなんてことができるの?
「たかが一朝の時間も待てないのか?何か急ぎの用でもあるのか?」啓司の声には皮肉が滲んでいた。紗枝は啓司の意地の悪い物言いに眉をひそめた。「啓司さん、あんまりよ。私は逸ちゃんの母親なの。会う権利があるわ」「権利?」啓司の声が一気に冷たくなった。「じゃあ、四年以上も俺から子供を引き離していたお前は、どうなんだ?」紗枝は胸を突かれたような痛みを覚えた。一歩後ずさりながら「分かったわ。お昼に来るわ」啓司が前に進み出て、冷たい声で言い放った。「昼には、実家に連れて帰る」実家?紗枝は一昨日、黒木おお爺さんと綾子との会話を思い出した。「ダメよ。逸ちゃんは私と一緒に住むの」「お前と?他の男と恋仲になるところを見せつけるためか?」啓司の言葉は容赦なかった。紗枝は呆然とした。恋仲?いつ誰と恋仲になったというの?「何を言ってるの?」「俺と話している暇があるなら、ネットニュースでも見たらどうだ」啓司は仕事があるため、これ以上の口論は避け、足早に立ち去った。紗枝は逸之に会うことばかり考えて、携帯も開いていなかった。やっと携帯を開くと、唯からLINEが届いていた。「紗枝ちゃん、エイリーと知り合いだったの!?」「きゃー、二人並んで立ってるの似合いすぎ!彼の方が年下なの?年下王子じゃんっ!私も好きー……」紗枝は首を傾げた。ブラウザを開くと、トレンド入りした写真が目に飛び込んできた。一枚はレストランの入口で会話している様子、もう一枚は病院へ向かう途中、並んで歩く二人の姿が写っていた。メディアは大げさな見出しを打っていた:『人気アーティスト、衝撃の熱愛発覚!?既婚女性と深夜デート、お相手の正体に驚愕』記事を開くと、エイリーと紗枝の交際疑惑が書かれ、さらに紗枝が黒木啓司の妻で、まだ離婚していない可能性があると報じていた。紗枝は絶句した。ただの友人との食事で曲の打ち合わせをしただけなのに、こんな風に歪曲されるなんて。ネット上のコメントは荒れていた。「エイリー様どうしちゃったの?なんで既婚者なんかと……」「絶対あの女が誘ったに決まってる!エイリー様みたいなイケメン天才が好きになるわけない!」「黒木啓司の奥さんだってよ。スリル求めてんじゃない?」「......」一夜にして、右肩上がりだっ
「そんなに払わないといけないの?」エイリーは信じられない様子で言った。「当たり前でしょ!あなたのお金といえば、寄付するか遊びに使うかで、今は支払える状態じゃないわ」マネージャーは溜息をついた。計算してみると、今の家を売らない限り違約金を払えないことが分かった。「じゃあ、家を売ればいい」エイリーにとって、家や車といった財産は大した価値を持たなかった。「冗談じゃないわ!」マネージャーは彼を無視し、以前話のあった提携先に連絡を取り始めた。しかし各社もニュースを知っており、エイリーの炎上を懸念して、問題が解決するまで契約は保留という返事ばかりだった。ようやく、IMグループに連絡を取った時、異なる反応が返ってきた。「三年契約で、エイリーさんのネガティブな報道すべてに対応させていただきます」牧野が直接電話に出た。マネージャーはエイリーに相談せず、契約を了承した。IMを調べてみると、最近急成長している有望な事務所だった。エイリーはIMの背後に黒木啓司がいることを知らず、マネージャーが決めた以上、仕方なく受け入れるしかなかった。「今日にでもIMに行ってみましょう」「ああ」エイリーは興味なさそうに頷いた。一方、IMグループの社長室では。牧野は啓司に、三年契約での合意が取れたことを報告していた。つまり、あのイケメン歌手は今後三年間、自分の会社で働くことになる。社長である啓司の部下として。啓司は冷徹な表情で手元の書類を閉じた。「いつ来る?」「本日午後です」「やるべきことは分かっているな?」啓司の声は低く響いた。牧野は頷いた。「はい」奥様と噂を立てられるような記事を書かれるとは。命知らずもいいところだ。これから仕事をする上で、たっぷりと苦しめてやろうと考えていた。その時、病院では紗枝がエイリーに電話をかけ、自分から説明する必要はないかと尋ねていた。「大丈夫です。芸能人なら噂は付きもの。すぐに新しいニュースが出てきて、こんな些細なことはすぐ忘れられますよ」エイリーは彼女を安心させようとした。紗枝は馬鹿じゃない。これだけの影響がある報道が、簡単に収まるはずがない。「私から説明が必要なときは、必ず言ってください」「分かりました。仕事がありますので。また」「ええ」紗枝は電話を
紗枝は慌てて音量を下げようとしたが、スマホを取り落としてしまい、シートの下に滑り込んでしまった。あろうことか、唯からの音声メッセージが立て続けに再生されていく。「もし付き合うことになったら、絶対教えてよ!私も会ってみたい!」「初恋も経験してないって噂だよ。そんなピュアな年下王子なら、黒木啓司なんかと比べものにならないわよね……」紗枝は必死でスマホを拾おうとしたが、シートの下で取れない。顔が真っ赤になっていた。運転手は後部座席の様子を確認しようとチラリと目を向けたが、誤解を招きそうな雰囲気に気付き、すぐに視線を戻してパーティションを下ろした。紗枝はようやくスマホを取り出し、音声メッセージを止めた。啓司の表情が凍りついた。「普通の仕事の話じゃなかったのか? 若い子が好みなのか?」「だから、誤解だって言ってるでしょ」紗枝は急いで唯にメッセージを送った。「エイリーさんとは仕事の関係よ。昨日は曲の話だけ。それ以外は何もないわ」唯はようやく余計な詮索を諦めたようだった。車内の空気は重苦しかった。窓の外を流れる景色に目をやると、紗枝は黒木本邸への道ではなく、牡丹別荘に向かっていることに気付いた。「本邸じゃないの?」啓司は薄い唇を開いた。「牡丹別荘だ」「これからは医師を手配して逸ちゃんの治療を続ける。家庭教師も付けよう」紗枝は頷いた。「ええ」仕事と逸之の体調のせいで、この数年、息子を学校にも通わせられなかった。そう思うと、紗枝の胸に後ろめたさが込み上げた。ようやく牡丹別荘に到着すると、逸之がもう一台の車から降り、紗枝の元へ駆け寄ってきた。「ママ!」紗枝は逸之を抱きしめ、頭を優しく撫でた。「どう?どこか具合悪くない?」逸之は首を振った。「大丈夫」「よかった」少し離れた場所に立つ啓司は、母子の会話を聞きながら、どこか心の中で妬ましさを覚えていた。その時、電話が鳴り、穏やかな空気が破られた。啓司が出ると、黒木おお爺さんからだった。「紗枝と逸ちゃんを連れてこい」命令口調だった。啓司は眉を寄せた。「何かあったのか?」「明一の祖父母が来ている。説明を求めているんだ。明一の話では、逸ちゃんが故意に裏山に誘い込んだそうだ。とにかく、早く連れて来い」黒木おお爺さんは言った。逸之
夢美は逸之を見るなり、母親に小声で囁いた。「ママ、あの子よ。小さく見えても、腹黒いのよ」その言葉を聞いた夢美の母は、鋭い視線を逸之に向けた。「あなたね、うちの明一をこんな目に遭わせたの?」明一は母親の隣に座り、今日は自分の味方がいることを知って、得意げに逸之を見つめた。ふん、黒木家の跡取りになりたいなんて、まだまだ甘いんだ。昨夜、夢美は息子に教えていた。紗枝には後ろ盾がない、だから黒木家は今後も明一のものだと。紗枝は逸之の手を握りしめた。「一昨日の夜、私の説明が足りなかったでしょうか?」「おじいさま、もう一度お話しした方がよろしいですか?」黒木おお爺さんは紗枝の高慢な態度が気に入らなかった。「紗枝、一昨日の夜、明一は意識が朦朧としていた。お前の言い分は逸之側の一方的な主張だ。今日、明一が話してくれたが、逸之を殴るつもりなど全くなかったそうだ」「じゃあ、牡丹別荘まで来たのは何のため?まさか逸ちゃんと遊びに来たっておっしゃるんですか?」紗枝は明一たちが作り上げるであろう嘘を先回りして暴いた。夢美たちの表情が一瞬で曇った。黒木おお爺さんは明一を庇うように言った。「子供に深い恨みなどあるはずがない。友達と一緒に逸之と遊びたかっただけだ。まさか逸之に築山に誘い込まれて、道に迷うことになるとは」紗枝は今やっと理解した。話し合いの場などではなかった。ただ純粋に明一を守るためだけの場だったのだ。紗枝には分かった。黒木おお爺さんがなぜここまで偏るのか。幼い頃から側で育った曾孫と、つい最近知った曾孫。その重みの違いは一目瞭然だった。「黒木おお爺様、ご覧になってください。もう言い訳もできないようですわ」夢美の母は皆の沈黙を見て、すかさず責任追及に入った。「明一のために、けじめをつけていただかないと」その言葉が終わらぬうちに、啓司が口を開いた。「どうすれば納得されるのですか?」「うちの明一は凍え死にそうになったのよ。あの子を外に出して、跪いて謝らせなさい」外は雪景色。白血病を患う逸之を雪の中で土下座させるなど、死ねと言うのと同じではないか。紗枝の手に力が入った。逸之が声を上げた。「おじいさま、あまりにも不公平です」「どうして僕の言葉は信じてくれないのに、彼の言葉は全部信じるんですか?」黒木おお爺
続いて逸之の声が響いた。「僕に言ってるの?なんで君の言うことなんか聞かなきゃいけないの?」「この野良児が!にらみつけるなんて!」「明一くん、勝負したいなら、一人で入って来れるの?」「怖くなんかないね」数秒の録音で、その日の出来事の真相が明らかになった。明一は逸之が録音していたとは思いもよらず、夢美たちも完全に想定外だった。「嘘だよ、全部嘘……」明一は涙目で黒木おお爺さんを見上げた。「おじいさま、この野良児が騙してるんです」野良児……録音の中の言葉と全く同じ。黒木おお爺さんはもはや贔屓をする理由も見つからなかった。「ご親族の皆様、お聞きになりましたね。明一が先に仕掛けたことです」夢美の両親は孫のために正義を求めに来たのだ。こんな結果は受け入れられなかった。夢美の父は冷ややかに鼻を鳴らした。「たかがこんな録音で何が証明できる?あの子が明一にわざとそう言わせて、録音したんでしょう。そう考えると、よほどの策士だということが分かりますよ!」夢美家の面々は物事を白から黒に変える名手だった。紗枝は、理不尽な人々との対質に来たことを後悔し始めていた。「四歳の子供が録音を捏造したって……あまりにも滑稽じゃありませんか」紗枝は冷たく言い放った。「ママに教わったんでしょうね」夢美が即座に切り返した。今や逸之だけでなく、紗枝までもが中傷の的となっていた。紗枝がまだ反論しようとした時、啓司が制した。そこへ、ボディーガードがUSBメモリを持って現れた。映像が再生されると、その日の別荘玄関での一部始終が映し出され、音声も鮮明に記録されていた。逸之の腕時計の録音と完全に一致する内容だった。だが、それは序章に過ぎなかった。啓司は続いて、その日の運転手と夢美の通話記録を再生させた。夢美は明らかに、明一が数人の生徒と逸之を殴りに行くことを知っていた。それを止めるどころか、むしろ煽っていたのだ。すべての記録が終わると、部屋は静寂に包まれた。「まだ何か言い分はありますか?」啓司の静かな声が、その場の全員の心を震わせた。鉄壁の証拠の前で、夢美の両親はもはや一言も発することができなかった。誰も声を上げないのを確認すると、啓司は続けた。「では、先ほど外で跪くと約束した人は?」明一は瞬時に部屋の隅に逃げ込み、
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ
そこへ追い打ちをかけるように、紗枝から新しい通達が出た。園児の送迎時の駐車場の使用方法から、その他の諸々の規則まで、全面的な見直しを行うという内容だった。「明らかに私への報復じゃない!」夢美は歯ぎしりしながら、紗枝にメッセージを送った。「明一は黒木家の長孫よ。私のことはいいけど、明一に何かしたら、黒木家が黙ってないわよ」紗枝は苦笑しながら返信した。「あなたが私の子供をいじめていた時は、彼も黒木家の人間だって考えなかったでしょう?」夢美は不安に駆られた。このまま他のクラスメートが明一を避けるようになったらどうしよう……「紗枝さん、あなたは明一の叔母なのよ。あまりみっともないことはしないで」紗枝は夢美の身勝手な言い分を見て、もう返信する気にもなれなかった。人をいじめる時は平気で、自分が不利になると途端に「みっともない」だなんて。紗枝は前から言っていた。誰であれ、自分の子供に手を出せば、必ず百倍にして返すと。それに、子供が間違ったことをしたなら、叱らなければならない。明一の親でもない自分が、なぜ彼の我儘を許さなければならないのか。紗枝は早速、最近自分に取り入ろうとしていたママたちにメッセージを送った。要するに、以前景ちゃんに対してしたことと同じように、明一くんにも接するようにと。ママたちは今、夢美に対して激しい憤りを感じていた。多額の損失を出し、夫の実家でも顔が上げられなくなったのは、全て彼女のせいだと。明一は景之ほど精神的に強くなかった。幼稚園で遊び時間になっても、誰も相手にしてくれず、半日も経たないうちに心が折れてしまった。この時になって、やっと景之をいじめたことが間違いだったと身をもって知ることになった。帰宅後、夢美は息子を諭した。「今は勉強が一番大事なの。成績が良くなれば、お爺様ももっと可愛がってくれるわ。そうすれば欲しいものだって何でも手に入るのよ」「遊び相手がいないくらい、大したことじゃないでしょう?」明一は反論できなかった。でも、自分は絶対に景之には及ばないことを知っていた。だって景之は桃洲市の算数オリンピックのチャンピオンなのに、自分は問題の意味さえ分からないのだから。夢美には言えず、ただ黙って頷くしかなかった。幼稚園での戦いがこうして決着すると、紗枝は夏目美希との裁判
「それで、どう返事したの?」紗枝が尋ねた。「『お義姉さん、私に紗枝さんと付き合うなって言ったの、あなたでしょう?もう私、紗枝ちゃんをブロックしちゃったから連絡取れないんです』って答えたわ」唯は得意げに話した。「うん、上手な対応ね」紗枝は頷いた。「でしょう?私だってバカじゃないもの。投資で損した金額を他人に頼んで取り戻せるなんて、甘すぎる考えよね」「いい勉強になったでしょうね」唯は親戚たちの本質を見抜いていた。結局、自分のことなど何とも思っていないのだ。それならば、なぜ自分が彼女たちのことを考える必要があるだろうか。「そうそう、紗枝ちゃん。澤村お爺さまが話したいことがあるって」「じゃあ、かわって」紗枝は即座に応じた。電話を受け取った澤村お爺さんは、無駄話抜きで本題に入った。「紗枝や、保護者会の会長に立候補したそうだな?」紗枝と夢美の保護者会会長争いは幼稚園のママたちの間で大きな話題となっており、澤村お爺さんも老人仲間との話の中で耳にしたのだった。景之のことだけに、特に気にかかったようだ。「はい……でも選ばれませんでした」紗枝は少し気まずそうに答えた。「なぜ私に相談してくれなかったんだ?」老人の声は慈愛に満ちていた。「会長の席など、私が一言いえば済む話だ。任せておきなさい」「お爺さま、そんな……」紗枝は慌てて断ろうとした。澤村お爺さんが景之を可愛がっているがゆえの申し出だということは分かっていた。「遠慮することはないよ。私が若かった頃は、お前の祖父とも親しかったのだからな」澤村お爺さんはそう付け加えた。紗枝には祖父の記憶がほとんどなかった。生まれてすぐに出雲おばさんに預けられ、三歳の時には祖父は他界してしまっていたのだから。「お爺さま、もう保護者会の会長選は終わってしまいましたから……」「なに、もう一度選び直せばいい。お前が選ばれるまでな」澤村お爺さんは断固とした口調で告げ、紗枝の返事も待たずに電話を切ると、すぐさま行動に移った。この件で最も難しいのは、黒木おお爺さんの説得だった。しかし、澤村お爺さんが一本の電話を入れると、間もなく園長から通達が出された。前回の保護者会会長選出に公平性を欠く点があったため、本日午後にオンラインで記名投票による再選挙を行うという。マ
紗枝は足早に出てきたせいで、啓司に体が寄りかかりそうになった。啓司は手を伸ばし、紗枝を支えた。「ありがとう」お礼を言った後、紗枝は尋ねた。「逸ちゃんに会いに来たの?」「ああ」「早く行ってあげて。もうすぐ寝る時間だから」紗枝は声を潜めて言った。その吐息が啓司の喉仏に触れる。啓司の喉仏が微かに動き、声が低く沈んだ。「分かった」しばらくして紗枝が身支度を整え、部屋に戻ろうとした時、逸之が泣き叫ぶ声が聞こえてきた。「ママと一緒に寝たい!」逸之は涙声で訴えた。「幼稚園では我慢して一人で寝てたけど、お家に帰ってきたら、パパとママと一緒がいい!」紗枝は諦めて逸之の横に横たわり、啓司は反対側に寝た。三人で寝ることになった逸之は、両親の手を一本ずつ握り、自分の胸の上で重ねると、「ママ、パパ、手を繋いでよ」とねだった。紗枝は首を傾げた。「どうして手を繋ぐの?」「幼稚園のみんなのパパとママは手を繋いでるの。でも、僕のパパとママは一緒にいても手を繋がないよね。お願い、繋いで?」紗枝は頬を赤らめながら「でも、手を繋がないパパとママだっているわよ……」と言いかけたが、啓司はすでに紗枝の手を掴んでいた。逸之はさらに「パパ、指を絡めてやって!」とせがんだ。指を絡める……啓司は息子の願いを叶えるべく、紗枝の指と自分の指をしっかりと組み合わせた。紗枝は啓司に握られた手を見つめながら、頬が熱くなるのを感じていた。啓司にもう興味はないはずなのに。たぶん、あの整った顔立ちのせいね、と自分に言い聞かせた。夜、紗枝の心は少しざわめいていた。翌朝、目を覚ますと、なんと啓司の腕の中にいた。紗枝がぼんやりと目を開けると、啓司の端正な顔が目に飛び込んできた。少し身動ぎした時、啓司に強く抱きしめられていることに気付き、横を見ると逸之の姿はなかった。「啓司さん」思わず声が出た。啓司は声に反応し、ゆっくりと目を開けた。まるで今気づいたかのように「なぜ俺の腕の中で寝てるんだ?」と尋ねた。紗枝は本気で彼を殴りたくなった。よくもそんな厚かましいことが。「あなたが抱きしめていたんでしょう。夜中にこっそり抱きついてきたんじゃないの?」「むしろ、自分から俺の方に転がり込んできたんじゃないのか」紗枝は彼の厚顔無恥
綾子は夢美の母の前に立ちはだかった。「先日、私が外出している間に、逸ちゃんに明一への土下座を要求したそうですね?」夢美の母は綾子の威圧的な雰囲気に、思わず一歩後ずさりした。「ふん」綾子は冷ややかに笑った。「親戚だからと多少の面子は立ててきたつもり。それを良いことに、私の頭上で踊るおつもり?私の孫に土下座?あなたたち程度の身分で?」「仮に逸ちゃんが明一に何かしたとしても、それがどうだというの?」木村家の面々は、夢美も昂司も、一言も返せなかった。逸之は元々綾子が好きではなかったが、今の様子を見て驚きを隠せない。この祖母は、本当に自分のために声を上げてくれているのだ。綾子は更に続けた。「最近の経営不振で、拓司に融資や仕入れの支援を求めに来たのでしょう?」木村夫婦の目が泳いだ。「はっきり申し上げましょう。それは無理です」「この会社は私の二人の息子が一から築き上げたもの。なぜあなたたちの尻拭いをしなければならないの?息子か婿に頼りなさい」結局、木村夫婦は夕食も取らずに、綾子の痛烈な言葉に追い返される形となった。黒木おお爺さんは綾子に、あまり激しい物言いは控えるようにと軽く諭しただけで、それ以上は何も言わなかった。昂司と夢美も息子を連れて、しょんぼりと屋敷を後にした。夕食の席で、綾子は逸之の好物を次々と運ばせた。「逸之、これからお腹が空いたら、いつでも来なさい。おばあちゃんが手作りで作ってあげるわ」逸之の態度は少し和らいだものの、ほんの僅かだった。「いいです。ママが作ってくれますから」その言葉に、綾子の目に落胆の色が浮かんだ。紗枝も息子が綾子に対して、どことなく反感を持っているのを感じ取っていた。夕食後、綾子は紗枝を呼び止めて二人きりになった。「あなた、子供たちに私と親しくするなと言ってるんじゃないの?」「私は子供たちの祖母よ。それでいいと思ってるの?」紗枝は心当たりがなかった。これまで子供たちに祖母の話題を出したことすらない。「そんなことしていません。信じられないなら、啓司さんに聞いてください」「啓司は今やあなたなしでは生きていけないのよ。きっとあなたの味方をするわ」紗枝は言葉を失ったが、冷静に答えた。「綾子さんが逸ちゃんと景ちゃんを本当に可愛がってくれているのは分かります。ご
黒木おお爺さんは彼らの突然の来訪に少し驚いたものの、軽く頷いて啓司に尋ねた。「啓司、どうして景ちゃんを連れてこなかったんだ?」もう一人の曾孫にも会いたかったのだ。側近たちの報告によると、景之は並外れて賢く、前回の危機的状況でも冷静さを保ち続けた。まるで啓司そのものだという。「景ちゃんは今、澤村家にいる。数日中には戻る」啓司は淡々と答えた。「まだあそこにいるのか。あの澤村の爺め、自分に曾孫がいないからって、私の曾孫にべったりとは」黒木おお爺さんはそう言いながらも、目に明らかな誇らしさを滲ませていた。その時、遠く離れた別の区に住む澤村お爺さんがくしゃみをした。黒木おお爺さんは啓司たちに向かって言った。「座りなさい。これから一緒に食事だ」「はい」一家は応接間に腰を下ろした。この状況では、木村夫婦も金の無心も支援の要請もできなくなった。夢美は焦りを隠せず、昂司の袖を引っ張った。昂司は渋々話を続けた。「お爺様、夢美の両親のことですが……」黒木おお爺さんはようやく思い出したという顔をした。「拓司が来たら、彼に相談しなさい。私はもう年だから、経営には口出ししない」確かに明一を溺愛してはいた。幼い頃から側で育った曾孫だからだ。だが黒木おお爺さんは愚かではない。木村家は所詮よそ者だ。軽々しく援助を約束して、万が一黒木グループに悪影響が出たら取り返しがつかない。木村夫婦の顔が更に強ばる中、逸之が突然口を開いた。「ひいおじいちゃん、お金借りに来たの?」黒木おお爺さんが答える前に、逸之は大きな瞳を木村夫婦に向け、過去の確執など忘れたかのような無邪気な表情で言った。「おじいさん、おばあさん、僕の貯金箱にまだ数千円あるよ。必要だったら、貸してあげるけど」木村夫婦の顔が一瞬にして真っ赤に染まった。たかが数千円など、彼らの求めているものではなかった。夢美の母は意地の悪い口調で言い放った。「うちの明一の玩具一つの方が、その貯金箱より高価よ」啓司が静かに口を開いた。「ということは、お金を借りに来たわけではないと」夢美の母は言葉を詰まらせた。紗枝は、なぜ啓司が自分たちをここへ連れてきたのか、やっと理解した。啓司から連絡を受けていた綾子は、孫が来ると知って早めに屋敷を訪れていた。夢美の母が孫を皮
本家での夕食と聞いて、紗枝は首を傾げた。「急なのね」「食事ついでに、面白い芝居でも見られそうだ」啓司はそれ以上の説明はしなかった。紗枝もそれ以上は詮索せず、逸之の服を着替えさせると、三人で車に乗り込み黒木本家へと向かった。本家の黒木おお爺さんの居間では、おお爺さんが上座に座り、ただならぬ不機嫌な表情を浮かべていた。曾孫の明一が傍にいなければ、とっくに昂司を殴っていただろう。広間には、昂司の義父母が両脇に座り、昂司夫婦が立ったまま叱責を受けている。「お爺様、あのIMという会社が私の足を引っ張ってきたんです。あれさえなければ、とっくに桃洲市の市場の大半を掌握できていたはずです」昂司は相変わらず大言壮語を並べ立てる。黒木おお爺さんは抜け目のない人物だ。数百億円の損失と負債を知るや否や、すぐに調査を命じた。新しい共同購入事業だと?革新的なビジネスモデルと謳っているが、保証も何もない。ただ金を注ぎ込むだけの愚策だった。「啓司が黒木グループを率いていた時も、桃洲市の企業は総出で足を引っ張ろうとした。それでも破産申請なんてしなかっただろう。結局、お前に器量がないということだ」黒木おお爺さんは昂司に容赦ない言葉を浴びせた。昂司は顔を歪めた。啓司がどれほど優秀だったところで、今は目が見えない身だ。盲目の人間に何ができる?誰が目の見えない者に企業グループの運営を任せるというのか?「お爺様、損失を出したのは私だけじゃありません。拓司だって、グループを継いでからは表向き順調に見えても、IMに押され気味なはずです」昂司は道連れを作るつもりで言い放った。十年以上も経営から退いている黒木おお爺さんは、この言葉に眉を寄せた。「拓司は就任してまだ半年も経っていない。これまでの社員たちを纏められているだけでも十分だ。お前とは立場が違う。何年も現場で揉まれてきたんだろう?」昂司は再び言い返す言葉を失った。「今後はグループ内の一部長として働け。分社化などという無駄な真似は二度とするな。恥さらしだ」黒木おお爺さんの言葉は厳しかった。部長とは名ばかりの平社員同然。昂司夫婦がこれで納得するはずもない。夢美は明一に目配せした。明一は黒木おお爺さんの手を握りながら、「ひいおじいちゃん、怒らないで。明一が大きくなったら、き