LOGIN黒木お爺さんは上座に腰を下ろし、綾子と拓司は隣り合わせに座っていた。普段はきびきびとしている綾子も、この時ばかりは目を赤くして涙を止めることができず、ぽろぽろと零れ落ちていた。牧野が担架で運ばれてくるのを見た瞬間、綾子の顔には驚きと疑念が広がり、すぐに尋ねた。「牧野さん、どうしちゃったの?」牧野は担架にうつ伏せになったまま顔を上げ、隣にいる拓司を見た。自分が殴られたことをすぐには話さず、呼ばれた理由をまず確認するように尋ねた。「奥様、おじい様、何かご用でお呼びになったのですか?」黒木お爺さんが口を開いた。怒気が抑えきれずに声に滲む。「啓司はなぜ開頭手術を受けたのか?そしてなぜ今、あのような狂気じみた姿になったのか」牧野は一瞬、呆然とした。「狂気じみた姿……ですか?」拓司は立ち上がり、冷ややかに言った。「牧野さん、これは君の仕業だろう」そう言って、先ほど撮影した動画を牧野に突きつける。牧野は、異常な行動を取る啓司の姿を映像で見て、目を大きく見開き、衝撃に打ち震えながら小さくつぶやいた。「まさか……まさかこんなことになるとは。やはり手術は失敗だったのか……」拓司の目は冷たかった。「僕が兄さんを見つけていなければ、また別の不幸に見舞われていたんじゃないか?」問いかける際、拓司は和彦の名前をわざと出さなかった。澤村家は黒木家と深い関係があり、敵に回すのは得策ではなかったのだ。牧野は動画の啓司を見つめ、胸の奥に沈みゆく思いを感じた。もはや隠すことはできない。ゆっくりと口を開く。「社長の頭蓋内にガラスの破片が残っていることが判明しました。それが原因で、時折、記憶が混乱する状態に陥ります。社長は手術で破片を取り除き、脳を正常に戻そうと考えていましたが、この手術には後遺症があり、術後に知的障害が残る可能性がありました」牧野は、手術が啓司の目の治療でもあったことは意図的に伏せた。心の奥で、啓司がいつか回復する日をまだ願っていたからだ。その場にいた三人は、牧野の説明を聞き終え、沈黙に包まれた。一瞬、何を言うべきか分からなかった。最初に我に返ったのは綾子だった。目を赤くし、声を震わせて尋ねる。「そんな重大な後遺症がある手術だったのなら、なぜ手術前に私たちに連絡しなかったの?」牧野は正直に話
啓司の今の状況を案じ、胸の奥が締めつけられるような思いでいる紗枝に、拓司は立ち止まり、「だめだ」と短く言った。「まず、兄さんの状態は極めて不安定で、君や二人の子どもを傷つけかねない。次に、ここには整った医療環境があり、兄さんの回復にはこの場所が最も適している。そして三つ目に、君たちはすでに離婚している。兄さんが君のところへ行けば、黒木家の人間は決して納得しないだろう」その言葉を聞き、紗枝は自分の願いが軽率だったことを悟った。啓司の背後には、莫大な力を持つ黒木家が控えている。治療を受けるなら、ここに残るほうが賢明だと頭では理解していた。「……わかったわ。じゃあ、彼のことをお願いね」「面倒なんて思ってないさ」拓司は柔らかく答えた。「実の兄だ。僕が誰よりも心配している」本来、拓司は紗枝を家まで送るつもりでいたが、彼女は会社の近くで降ろしてほしいと言った。迎えの運転手が来る手はずになっていたからだ。自分との間に、どうしても距離を置こうとする紗枝の態度に、拓司の胸の奥ではやるせない思いが渦を巻いたが、口にすることはできなかった。紗枝が車に乗り込むのを見届けたあと、拓司は車をUターンさせ、再び啓司の住む屋敷へと向かった。到着すると使用人を呼び、「今日の兄さんの様子は?」と尋ねた。「啓司様は日中ずっとお休みになっていて、午後三時ごろにようやくお目覚めになりました。目を覚まされてからは物を壊し始め、つい先ほどようやく落ち着かれて、またお休みになられました」拓司は黙ってその報告を聞き、奥の部屋へと足を進めた。啓司は案の定、深く眠っていた。入浴もしていないのか、体は泥で汚れ、かつてビジネス界で辣腕を振るった男の面影はどこにもなかった。「もう下がっていい」「はい」使用人は小さく頭を下げ、静かにドアを閉めて出ていった。拓司は手を伸ばし、兄の腕にそっと触れた。「兄さん」その呼びかけにも啓司は目を覚まさず、眠りの深みに沈んでいる。「兄さん」もう一度、今度は少し強く揺さぶる。啓司ははっと目を開け、咄嗟に拓司の手を振り払うと、「出てけ……出てけ!こっちに来るな!」と叫び、部屋の隅にうずくまった。拓司はその様子を見ながら、静かにスマートフォンを取り出して録画を始めた。「兄さん、怖がらないで。僕だよ、弟の拓司だ
紗枝はその問いに、静かに首を横に振った。「実はね、ずっと彼は私のことを愛していないと思ってたの。でも、何度も自分の身を顧みずに私を助けてくれるのを見て、初めて気づいたの。彼の中にも、確かに私への想いがあるんだって。最初は子どものために一緒にいようと思ってただけなのに、いつの間にか……だんだん彼のことが好きになってたみたい」拓司はその言葉を黙って聞いていた。穏やかな瞳の奥には、誰にも読み取れない感情が揺れている。紗枝の言葉は、長く共に過ごせば情が生まれる──そんな単純で、けれど残酷な真理を示していた。そのとき、拓司が突然激しく咳き込み始めた。「大丈夫?病院に行かなくていいの?」紗枝は慌てて身を乗り出す。拓司は手を軽く振り、咳が収まるのを待ってから、手元の魔法瓶を取り、温かい水を一口含んだ。「大丈夫。昔からの持病なんだ」そう話しているうちに、車は屋敷の敷地内へと入っていった。人里離れた静かな場所に建つこの屋敷は、常に人の目が光り、わずかな物音でも拓司が察知できるようになっている。「着いたよ。降りようか」「うん」二人は車を降り、並んで建物へと向かった。屋敷は煌々と明かりに包まれ、夜気の中で不気味なほど静まり返っていた。だが、その静寂を破るように──遠くから物が壊れる音と、叫び声が響いた。「家に帰る!家に……帰してくれ!」紗枝の神経が一瞬で張り詰める。拓司が低く告げた。「心の準備をしておいて。兄さんはもう、まともじゃない」「……『まともじゃない』って、どういう意味?」その答えを理解したのは、部屋のドアが開かれた瞬間だった。広いリビングには家具や小物が散乱し、啓司は着崩れた服に泥だらけの姿で、物を掴んでは次々と外へ投げつけていた。髪は乱れ、目は焦点を失い、狂気が全身を覆っていた。使用人たちは怯え、壁際で息を潜めている。紗枝は目を見開き、事態を理解する前に、花瓶が彼女の方へ飛んできた。「お前ら、みんな悪者だ!出て行け!来るな!」怒声とともに、ガラスの破裂音が部屋に響く。拓司は咄嗟に紗枝を抱き寄せた。カシャーン!花瓶が床に叩きつけられ、陶器の破片が床一面に散った。もし拓司が一歩遅れていたら、花瓶は紗枝の頭を直撃していたかもしれない。「兄さん!よく見てくれ
「わかりました、すぐ行きます」紗枝はそう答えた。彼女が万崎のあとに続いて二階へ向かうと、背後で夢美が小声で毒を吐いた。「恥知らずな女。拓司が啓司の弟だってこと、とっくに忘れてるんじゃないの」すかさず鈴が寄り添い、同調するように言った。「夢美さん、あんな女に腹を立てるだけ無駄ですよ。あの人、もう恥も外聞も捨ててるんですから」鈴の言葉に気をよくした夢美は、彼女に微笑みかけた。「安心して。近いうちにおじい様の前であなたのことをよく言っておくわ。啓司も離婚したばかりだし、そばには家を守る女性が必要よ」鈴の瞳に感謝の色が浮かぶ。「ありがとうございます、夢美さん!」このときの彼女は、心から喜んでいた。だがその喜びが、やがて取り返しのつかない後悔へと変わることを、まだ知らなかった。最上階、社長室。紗枝はノックして許可を得ると、静かにドアを開けた。拓司はパソコンの画面に向かっていたが、物音に気づくと顔を上げ、彼女に視線を向けた。簡素な服に、化粧気のない顔。整った顔立ちは変わらないが、右頬の傷跡が痛々しく浮かんでいる。「座って」拓司の低い声に、紗枝は一歩進み出てソファに腰を下ろした。「社長、私をお呼びとのことですが、何かご用でしょうか」拓司はパソコンの電源を落とし、ゆっくりと口を開いた。「話す前に、心の準備をしておいてほしい」紗枝は彼の真剣な表情を見つめ、静かに頷いた。「はい」「啓司が……最近手術を受けたんだが、残念ながら……手術は失敗した」拓司の言葉が一語ずつ胸に突き刺さる。「……え?」頭の中で何かが弾け、紗枝の全身が硬直した。思考が真っ白になり、次の言葉が出てこない。「じゃあ、彼は今……」言葉を終える前に、身体の力が抜け、座っていられなくなりそうだった。拓司は彼女の様子を見つめ、喉を詰まらせながら続けた。「状況はかなり悪い」「彼は今どこにいるんですか」紗枝は拳を握りしめ、爪が手のひらに深く食い込んだ。やはり、啓司が理由もなく離婚を切り出すはずがなかった。でも、どうして何も言ってくれなかったの。「静かな屋敷に一時的に移して、療養させている。もし今夜時間があるなら、一緒に様子を見に行かないか」「今からでも行けますか」紗枝の声には焦りが滲んでいた。
啓司が連れ去られたあと、和彦と牧野は必死に探し回った。しかし、拓司の影すら見つけられない。しかも、二人とも深手を負っており、自力では動けず、部下たちに人探しを任せるしかなかった。「啓司さんに何かあったら……一生、自分を許せない!」和彦は自責の念に押し潰され、あの時もっと警戒していなかった自分を呪った。傲慢すぎたのだ。牧野は彼よりは幾分冷静で、痛みに顔をしかめながらも言葉を絞り出した。「和彦さん、今のところ社長に関する悪い知らせは届いていません。多分、社長はまだ無事です」「どうして、そう言い切れる?」和彦が苛立った声で問う。「もし私が拓司なら、本気で社長を殺したいと思っていたら、すぐに我々のせいにしますよ。こんなに引き延ばしたりはしません」牧野の分析は冷静だったが、そこには焦りも滲んでいた。二人の体はひどく痛み、短い会話ですら息が詰まるほどだった。数言交わしただけで、再び沈黙が訪れる。そんな中、牧野のスマートフォンが何度も鳴り続けた。着信表示に「梓」の名前が光っているのを見て、彼は一瞬ためらう。怪我のことを知られれば、彼女を心配させるに決まっている。和彦が重いまぶたを開け、不機嫌そうに言い放った。「うるさいな……出ろよ、もう!」啓司を失った今、二人は否応なく同じ立場だった。そうでなければ、同じ病室で過ごすことなどありえない。牧野は仕方なく、部下にスマホを耳元まで持ってこさせ、小声で「梓」と呼んだ。「なんで今になって出るの?」梓の声には怒りと不安が混ざっていた。「最近どうしてるの?連絡もくれないし、電話も出ないし……まさか他に女でもできたんじゃないでしょうね?」牧野は慌てて声を低め、弁解する。「そんなわけないだろ。最近、残業が多くてさ……あと数日したら落ち着くから。そしたら毎日会いに行くよ、ね?」「ふん」梓はわざと拗ねたように返したが、すぐに真剣な声に変わった。「そういえば、啓司さんはどうしてるの?紗枝がこのところずっと元気なくて……たぶん、啓司さんと何か関係あるんだと思う」牧野の胸に、重いものが落ちた。彼自身も社長の安否を知らない。だから、あいまいな言葉で逃げるしかなかった。「梓……この件には関わらないでくれ。いずれ分かるから」「わかった」梓の声は少し柔らぎ、甘
拓司の手に、ゆっくりと力がこもっていく。いまここで啓司が息を引き取れば、和彦や牧野が密かに手を下し、不適切な処置をしたせいで命を落としたと、いくらでも嘘をでっち上げることができる。「兄さん、僕を恨むなよ。恨むなら、何でもかんでも僕と張り合おうとした自分を恨め」拓司は啓司の口と鼻を覆い、怨嗟を滲ませた声で吐き出した。「紗枝に最初に出会ったのは僕だった。ようやく、あんたにないものを手に入れたと思ったのに……結局、あんたは紗枝まで奪っていった。奪っただけならまだしも、僕を解放しようともしなかった!毎日、二人が一緒にいるのを見て、紗枝があんたの子を宿していると知ったときの、僕の苦しみが分かるか?」その目元が、わずかに赤く染まる。「これでせいせいする。あんたがこの世から消えれば、義姉さんのことは僕が責任をもって面倒を見てやる」拓司は「義姉さん」という言葉をわざと強調した。それは、意識のない啓司への侮辱のようでありながら、同時に彼自身の優越を確かめるための挑発でもあった。しかし、そのとき。窒息の苦しさに反応するように、啓司の瞼がかすかに震え、ゆっくりと手が持ち上がる。次の瞬間、拓司の手首をがっしりと掴んだ。拓司の顔色が変わった。覚悟を決め、さらに力を込めようとするが、もとより力の弱い彼に、目を覚ました啓司を押さえ込めるはずもない。「誰か来い!」拓司は車外に向かって怒鳴った。車が急停車し、数人の屈強な男たちがドアを開けて乗り込んできた。「拓司様」拓司が命じようとしたその瞬間、啓司がぱっちりと目を開け、車内を見渡した。その確かな眼差しを見て、拓司は冷笑した。「兄さん、ずっと狸寝入りしてたのか?」啓司は答えず、ただ静かに彼を見つめた。「芝居だろうが何だろうが、今日、お前には死んでもらう」拓司がそう言い放つと、啓司は怪訝そうに首をかしげた。「あなたは……誰?おうちに帰りたい」拓司は思わず凍りついた。「なんだと?」「おうちに帰して。お腹すいた……すごくすいた」啓司は身を起こし、車内を手探りしながら呟いた。「何か食べるもの探さなきゃ。お腹ペコペコだよ」その姿を前に、拓司は全身に衝撃を受けたように動けなくなった。「啓司様……気が触れられたのでは?」と部下の一人が小声でつぶやく。もう一人が続







