工場の共同管理を担当する副工場長は、工員を避難させるための措置をとる中で火傷を負っていた。 紀美子が来ると、彼はベッドから急いで起き上がり、「入江社長、いらっしゃいましたか」と言った。 副工場長の妻も立ち上がり、椅子を譲りながら「入江社長、どうぞお座りください」と言った。 紀美子は笑みを浮かべ、後ろのボディーガードに目をやって果物を置くように指示した。 そして彼女は椅子に座り、「副工場長、警察が既に調書を取ったが、細かい点についてはまだ聞きたいことがあるの」と言った。 副工場長は「もちろんです。こちらの管理不行き届きで、ご迷惑をおかけしました」と答えた。 「お金のことは些細な問題で、皆さんに大きな問題がなかったことが一番重要よ」と紀美子は柔らかく答えた。 副工場長は「入江社長はやはり私たちのことを第一に考えてくださっているんですね。正直言って、工場がどうして火事になったのか、私にも全く見当がつきません。 火が出たのは布地を保管している倉庫からでしたが、毎日念入りに点検をしており、火の元になるようなものは見つかりませんでした」と説明した。 紀美子は「ええ、警察もそう言っていた。放火の可能性も否定できないと言っている」と言った。 副工場長は憤然として、「それは間違いありません!倉庫は閉鎖されているにもかかわらず、警報が鳴りませんでした!そのとき、誰も警報音を聞かなかったんです!」と言った。 副工場長の妻も同意して、「そうです。私たちが作業しているときには、何の異変も感じませんでした。「気づいた時には、もう火が広がっていました。すべてが絹と綿だったので、燃えるのも早かったです」と付け加えた。「その日、何か怪しい人物はいなかった?今は思い出せなくても構わないけど、後で何か思い出したら、ぜひ教えて」紀美子は言った。「入江社長、もし何か思い出したら必ずご報告します」副工場長は答えた。紀美子は彼らと少し話をした後、病室を出た。階段を降りようとしたとき、携帯が鳴った。紀美子は携帯を手に取り、佳世子からの電話だと確認し、電話に出た。佳世子の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、ニュースは見たわよ。昨日忙しかったみたいだから、今電話してるの」「分かってるわ」と紀美子は力なくエレベーターのボタンを押しながら答え
「もちろんいいよ!晴犬が嫌なら、今度は晴わんこって呼んであげるわ!どう?気に入った?」佳世子は言った。 携帯の向こう側の晴は口元を引き締めた。「晴犬でいいよ。それで、何の話?」 「ちょっと分析してほしいことがあるの。私の頭がフリーズしちゃったみたいで」佳世子は言った。 「酒を奢ってくれるか?」晴が尋ねた。 「そんなの簡単よ!でも、紀美子の誕生日の準備でほとんどお金が残ってないから、高級な場所は勘弁してね!」佳世子は言った。 「へえ、それなら思いっきり君にご馳走してもらわないとな」晴は笑みを浮かべながら言った。 「クソ野郎が!」 午後、紀美子は楠子と一緒に短期間で協力してくれる服装工場を探しに行った。 しかし、五つの工場を訪ねたが、どれも紀美子の要求に合わなかった。 なぜなら、彼らが注文を受けるのは数か月後になってしまうからだ。 「入江社長、まだ二つ工場がありますけど、行ってみますか?」楠子は言った。 「どの工場?」紀美子は尋ねた。 「MK社の工場と……」 「行かなくていい!」紀美子は遮った。「他の工場がそんなに忙しいなら、MKなんてもっと忙しいに決まってる」 そうなると、他の都市で工場を探すしかないですね」楠子が注意を促した。 「うん……」紀美子はこめかみを揉みながら、声をさらに低くした。「今日のキャンセル数はどれくらい?」 「四千着以上ですね。多くのレビューがGの作品を目当てに待っていると言っています。 「このGって一体何者なんですか?どうして私たちの会社と関係があるんでしょう?」楠子は不思議そうに言った。 楠子の言葉が渦のように紀美子を飲み込んでいった。 会社の下で車が止まると同時に、紀美子の視界が暗くなり、彼女はそのまま座席に倒れ込んだ。 MK。 晋太郎は会議を終えたばかりで、杉本が駆け寄ってきた。「森川様、入江さんが病院に運ばれました!」 晋太郎の心臓が一瞬締め付けられ、杉本を見つめた。「どの病院だ?」 「東恒病院です。行きますか?」 「行く!車を準備しろ!」 二十分後、晋太郎は急診室に到着し、紀美子の姿を探していたが、翔太が病室のベッドに座っているのを見つけた。 晋太郎は足を止め、唇に自嘲の笑みを浮かべた。 彼はほとんど忘れていたが、紀美子と翔太の
夜。 晴は杉本の電話を受け、晋太郎の意図を理解した後、バーに入った。 入口を入ると、個室に座っている佳世子を見つけた。 佳世子のそばに歩み寄ると、彼女は彼を叱りつけた。「晴犬、あんたは本当に犬ね!」 晴は驚き、笑いながらコートを脱いだ。「たった30分多く待たせただけで、そんなに怒るとは?」 佳世子は彼を睨みつけた。「私は時間を守らない人が一番嫌いなんだから!」 「わかった、わかった、気を静めて。今夜は俺が奢るよ、いいか?」晴はなだめるように言った。 「いいわよ!」佳世子はすぐに態度を180度変え、笑顔で応じた。 「本題に入ろう、何を聞きたいんだ?」 佳世子はグラスを取り、酒を注ぎながら言った。「紀美子の工場のことなんだけど、どうもおかしいと思ってるのよ、わかるでしょ?「まずは朔也のことは除外するとして…」 「ちょっと待って!」晴は話を遮った。「朔也を除外するってどういうことだ?」 佳世子は目をパチパチさせた。「朔也は工場にいないでしょ?海外にいるのに手を伸ばせるわけがないじゃない。「しかも紀美子は彼に恩があるんだから、そんなことをするはずがないわ」「君たちは本当に人間を信じやすいな」晴は言った。「それで、続けて」佳世子は続いた。「大胆な推測だけど、紀美子の会社には静恵が送り込んだスパイがいるに違いないのよ! 「静恵が会社を立ち上げた途端に、紀美子の会社で問題が発生したなんて、これは彼女にとって絶好のチャンスじゃない?「そのスパイが誰かっていうと、私は紀美子の秘書だと思う。「あの小林楠子が最も怪しい。「彼女はまず助けるフリをして、紀美子の信頼を得た。「そして朔也がいなくなった後、彼女は工場に留まり、しかも工場で食事もしているんだから、手を出すには絶好の機会だったのよ!」「君、阿呆探偵ドラマを見すぎなんじゃないか?」晴は苦笑しながら尋ねた。「どうしてそう言うのよ?」佳世子は怒って、グラスを晴の前にガンッと置いた。「朔也がいたとき、紀美子の会社は順調そのもので、何の問題もなかった。「朔也がいなくなって、楠子を工場に配置したら、たったこれだけの時間で問題が起こったのよ。「監視カメラには怪しい人物の姿は映っていないし、毎日倉庫の在庫をチェックするのは副工場長と楠子だけだった。
晴は話題を変えた。「一つ聞きたいことがあるんだけど」 「何よ?」佳世子は酒を一口飲んで尋ねた。 「紀美子が工場と協力しようとしてるんじゃない?」晴が尋ねた。 「聞かなくてもわかるでしょ。彼女、急いで仕事を進めなきゃいけないんだから」佳世子は答えた。 「彼女と会う時間を取ってくれ」晴は言った。 佳世子は疑わしげに彼を見つめ、「何の話か早く言いなさいよ!もったいぶってないで!」 「俺の工場を彼女に貸してあげるよ」 「早く言えばいいのに!」佳世子は愚痴をこぼし、「明日、時間を取ってあげる!」 夜、八時。 紀美子は弱々しく目を開けると、翔太が声を抑えて電話している姿が目に入った。 紀美子が目を覚ましたのを見て、翔太は一瞬驚いたが、すぐに電話に向かって「お母さんが来たから、代わるね」と言った。 そう言って、翔太は電話を紀美子の耳元に持ってきて、「子供たちからの電話だよ」と言った。 紀美子は驚きながら電話を受け取った。「もしもし?」 「ママ!」ゆみの明るい声が電話から聞こえてきた。「私と兄ちゃんはもう家に着いたよ。ママはいつ帰ってくるの?」 紀美子は軽く咳払いし、元気を出して、「帰ってきたか?いつ帰ってきたの?」と尋ねた。 「午前中に帰ったよ。兄ちゃんと一日中ママを待ってたの」ゆみは答えた。 紀美子の唇に微笑みが浮かび、「わかった、ママはすぐに帰るから」と言った。 「うん、兄ちゃんと一緒にママを待ってるね!」 電話を切った後、紀美子はすぐにベッドから起き上がった。 翔太は紀美子が急いで帰りたがっているのを理解し、彼女を支えながらベッドから降りるように促し、「ゆっくり、焦らないで」と言った。 紀美子はコートを羽織り、「わかってるよ、心配しないで、兄さん」と答えた。 「心配しないって言われても…」翔太はため息をつき、「次から何かあったら先に俺に言ってくれよ、一人で抱え込むな」と言った。 紀美子は苦笑して、「私がそんなに頼りないと思う?」と返した。 翔太は愛を込めて紀美子の頭を撫で、「君が有能なのはわかってるけど、俺は兄さんだからな」と言った。 「誰だって鉄人じゃないんだよ。兄さんがどれだけ忙しいか、私はちゃんとわかってるから」紀美子は答えた。 翔太も自分の妹が強い意志を持っているこ
翌日。入江紀美子が子供達を送ったあと、杉浦佳世子から電話がかかってきた。佳世子は単刀直入に田中晴が会って服装工場の話をしたがっていると言った。紀美子は10分後に会社のビルの下で会うと約束した。会社についてから、紀美子はアフターサービス部と短い会議をして、松沢楠子を呼んでコーヒーショップへ向った。コーヒーショップに入ると、佳世子と晴は既に席に座って待っていた。楠子を見て、二人は目を合わせた。晴は佳世子に近づき、低い声で彼女に注意した。「相手を疑ってもいいけど、あまり露骨すぎないように。でないと一旦疑われたら、また彼女から情報を聞き出すのが難しくなる」佳世子は歯を見せて笑い、「私がそんなバカな真似をすると思う?」晴は驚いたふりをして佳世子を見て、「おや、自明してるじゃない!」佳世子は絶句した。彼女はいっそのこと目の前の毒舌男を嚙み殺そうとした!しかし紀美子が既に近くまできたので、彼女はテーブルの下で思い切り晴の太ももを摘みながら、笑顔で紀美子に挨拶した。「紀美子、アメリカンコーヒーを頼んでおいてあげたよ!」「ありがとう」紀美子は座って晴に挨拶しようとしたが、彼が顔を真っ赤にして隅で変な顔になっていたのに気づいた。「田中さん、最近は十分休みをとれていないの?」紀美子は戸惑って尋ねた。佳世子は面白そうなふりをして晴を見て、「うひゃ、晴犬、いつも酒はほどほどにと注意したのに。ほら、表情筋が麻痺しちゃったんじゃない?」それを聞いた紀美子は、目線をテーブルの下に垂れた佳世子の手に落とし、一瞬で彼女が何をしていたかが分かった。紀美子は見て見ぬふりをして、メニューを楠子に渡し、「好きなのを頼んで」と言った。楠子は無表情に、「ありがとうございます、私は喉が渇いていませんので」と断った。紀美子は頷き、顔色が大分良くなった晴に、「田中さん、話にあった服装工場はあなたの会社のものなの?」晴は太ももを揉みながら、「俺のだけど、設備が整ったばかりで君のことを聞いたので、協力しないか聞きたいところだ」紀美子「私が知っている限り、田中グループはまだ服装業界に業務を展開していないようだけど、その工場は……?」「確かに業務は展開していないけど、俺は金があり余ってるから工場を作ってみたいってのはダメ?」晴は笑
松沢楠子は顔色を変えずに、「はい」と返事した。杉浦佳世子「……」それ以外の返事はないの?「はい」一つで終わり?もっと楠子の話を聞いて突破口を探そうとしたのに!用心深くて、流石だ!田中晴は絶句して、先ほど彼女に注意したばかりなのに、またその話を持ち出した!どうなってんだ、この女の記憶力は?!入江紀美子は佳世子の話に乗じ、楠子を見て、「朔也とは連絡が取れた?」と尋ねた。楠子「いいえ、まだです」佳世子は驚いて、「朔也がどうかしたの?」と聞いた。紀美子は、「彼の携帯は事件の日からずっと携帯の電源が落ちて、未だに音信不通だわ」と説明した。佳世子は目を大きくした!なに?!まさか本当に露間朔也だった?!でないと何であいつの電話が繋がらなかったのよ!晴は嘲笑いながら佳世子を見て、目の中は皮肉で一杯だった。この馬鹿女はまさかまた朔也のことを疑ってるのか?紀美子は明らかにわざとそう聞いてるのに、彼女はなぜ分からないのだろう。晴は紀美子の話に沿って言った。「往々にして一番身近な人の素性が最も推測しにくいものだ」「確かに」紀美子はそう言いながら、契約書に自分の名前を書いて、晴に渡した。「田中さん、一式二部よ。私はまだ仕事が残ってるので先に失礼するわ。これからは宜しくね!」晴は頷き、佳世子は慌てて合わせた。「紀美子、時間があればまた会いにいくから!」紀美子「うん、わかった」二人が帰ったあと、佳世子は晴に睨んで文句を言った。「高いよ!もう少し負けてあげられなかったの?!」晴「それはもう十分すぎるぐらい安かったんだぞ、信じられないならあの工場の敷地面積を見てくるか?」佳世子は口をゆがめ、「もういいわ、私だって混乱してるし、これ以上細かく聞いてられないわ!」「どうした?君はまた朔也を疑ってるのか?」晴は口元に笑みを浮かべて聞いた。「そうだよ!」佳世子はため息をついて、「みんなが疑わしいのよ!わかんないよ!」と言った。晴は笑って何も言わなかった。午後、MK社にて。晴は契約書を森川晋太郎に渡して、「ほら、契約を結んできたよ」晋太郎は「ああ」と返事して、契約書をめくっていったが、読めば読むほど、彼の顔が曇ってきた。「協力期間中、在職社員の給与は乙方が支払う、だと?半年の借用レンタ
森川晋太郎のその落ち込んだ顔をみて、田中晴は笑いを堪えきれなかった。晴はできるだけ晋太郎を刺激して、彼に勇気をつけてもらい、自分の女を取り戻してもらいたかった。晋太郎は契約書を握りしめ、俊美な顔は埃が被ったかのようだった。もし渡辺翔太の手元にも服装工場があったら、入江紀美子はまったく自分の好意を受け入れようとしなかったのか?自分はいつから人の第二選択肢になった?そこまで考えると、彼は思い切り契約書を笑いを堪えていた晴の顔に叩きつけた。……午後。紀美子が新工場に行こうとした時、松沢楠子が入ってきた。楠子「社長、下に4人あなたに会いたい人がいて、あなたの親戚だと自称しています」紀美子は戸惑い、「親戚?」と確認した。楠子「その人達は、あなたの父親の茂さんの故郷の親戚だと言っています」急にその名前を聞くと、紀美子はめまいがした。養父には故郷に妹がいることは、以前母から聞いたことがある。しかし母はあの家の人たちは皆面倒くさい人だと言い、これまで彼女に接触させようとしなかった。彼らは今更何をしに訪ねてきたのだろう。紀美子はなんとなく悪い予感がした。そして彼女はきっぱりと断った。「会わない!」「はい」楠子は部屋を出ようとしたら、紀美子の机の上の電話が鳴り出した。繋がると、電話の向こうから受付の声が聞こえた。「社長!こちらにあなたに会いたいと騒いでいる人が……」受付の話がまだ終わっていないうち、電話は誰かに奪われた。そしてすぐ、尖り切った中年女性の声が響きた。「もしもし、紀美子か?!」紀美子「いいえ、違います」「絶対あなたでしょ!」中年女性は紀美子を脅かした。「上がらせてくれないと、記者たちを呼んでくるから!あなたは自分の父を監獄送りにしたことを忘れたの?」紀美子は拳を握りしめ、「一体何がしたいんです?」と聞いた。「怖気着いた?ならば会ってから話そうじゃない!」紀美子は深呼吸をして、怒りを押さえながら楠子に、「上がらせて」と指示した。「はい、社長」5分もしないうちに、男が二人に女一人、そして七、八歳の女の子が一人紀美子の前に来た。外観的には男は30代前半で、身の上は社会をさまようチンピラそのものだった。もう一人の男は凡そ50代だった。二人は先に入って
「私たちは親しい親戚だったの?」入江紀美子は怒りを通り越して呆れた。紀美子に問い詰められた入江世津子はいきなり尖った声で叫び出した。「あぁ、お兄ちゃん!あんたは本当に無様な死に方をしたわ!あんたの娘は今お金持ちになったら、こちらを知らないふりをしはじめたわ!お母さん、お兄ちゃん、一体誰が助けてくれるの、もう生きていけない、いっそのこと死んでしまいたいよ……」紀美子は手をゆっくりと握りしめ、真っ青な顔で暴れていた世津子を見た。彼女には分からなかった、以前父がギャンブルの借金に追われていた頃、一切連絡してこなかった親戚達がなぜこの時急に訪ねてきたのだろう。彼女は必死に考えていた最中に、耳元にはっきりとした物が割れた音が聞こえた。紀美子は音の方向を見てみると、会社の開業式の時、兄の渡辺翔太がくれたウサギの飾り物が入江億実によって地面に叩きつけられた。「ちょっと落としただけで割れるなんて、ガラクタじゃない」億実は嫌そうに口元を歪め、また手を展示棚のもう一つの物に伸ばした。今度彼女が3層目にあった花瓶だが、手が届かなかったので、入江邦夫が彼女を抱き上げて取らせた。「いい加減にしてくれない?」我慢できなくなった紀美子は立ち上がり、冷たい目線で彼らを見渡して言った。「あなた達がちゃんと話してくれれば、私も落ち着いて接してあげるけど、出来ない、或いはうちの物を壊したり、うちの社員の仕事の邪魔をしたりしたら、暴力的な手段で止めるから!」「おや?」入江万両は胸を押さえながらチンピラのように笑った。「こええ、俺マジで怖いわ」そう言いながら、彼は紀美子の前にきて、見下ろして聞いた。「暴力的な手段でうちを止めると言ったな?」万両が近づきすぎて、彼の臭い息で紀美子は窒息しそうだった。彼女は吐き気を堪えながら、冷たい目線で万両を睨みつけた。「そうよ!」「やってみろ!」万両はそう言いながら携帯のカメラを立ち上げ、紀美子の顔に向けて動画を取り始めた。「殴ってみろよ、人を遣って殴らせてみろよ!全部撮ってやるわ、いい気になるんじゃねえよ!」紀美子は怒りを抑えきれず、手で万両の携帯を振り払って、そして思い切り彼の顔にビンタした。「いい加減にしなさい!」世津子の泣き声がいきなり止まり、飛びかかってきて万両の顔の隅々までチェ
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪
悟は唇を強く結んだ。「ほら、私が提案したって無駄でしょ?あんたの結末はもう決まってるわ」「それでも、紀美子を諦めない」悟は立ち上がった。「三日あれば、全てを整えて彼女を連れていける。たとえ手下はいなくとも、金さえあれば何とかなる!」その最後の言葉に、佳世子の背筋が凍った。悟は、三日もあれば莫大な資金で逃亡経路を確保できる!「目を覚ましてよ!あんたに紀美子を連れ出せるはずがない!」佳世子は叫んだ。「道は二つだけだろ?」悟は、そう言い残すとドアを開けて出て行った。佳世子は急いでベッドから飛び降り悟を追いかけようとしたが、屈強な男に阻まれた。力づくでは無理だと悟ると、彼女は不貞腐れてベッドに戻った。一方、別の部屋では——悟はまだ眠っている紀美子の寝室に入った。ベッドの縁に座り、悟は彼女の整った顔に見入った。彼は手を伸ばし、そっと頬に触れて髪をかきあげた。「紀美子」悟は嗄れた声で呼びかけ、目に優しい眼差しを浮かべた。「五年前と何も変わっていないな。もしもっと早くこの気持ちに気づいていたら、全てが違っていただろうか?一歩踏み出していれば、今頃君は私のものになっていただろうか?」悟は声が震え出した。「負けを認めたくないが、これが現実だ。私は全てを失ってもいい。ただ……側にいてくれないか?」涙が紀美子の手の甲に落ちたのを見て、悟は慌てて拭いた。彼女には、まだ目覚めてほしくなかった。ただ静かに傍にいてくれればいい。冷たい言葉を浴びせなければいい。そう考えると胸がさらに締め付けられ、悟は涙を堪えれなかった。彼は手を引くと、シーツを強く握りしめた。その時突然、ドアがノックされた。悟は急いで涙を拭い、深く息を吸って顔を上げた。「入れ」「社長、我々のIDが特定されました!ここは時期に探知されます!」大河が慌てた様子でタブレットを持って入ってきた。「静かに」悟は唇に指を立て、紀美子の方を見た。「起こすな」大河は眠っている紀美子、そして悟の赤い目に気づいた。「社長、なぜこんな女のために危険を冒すのですか?馬鹿げています!」「お前も愛する女ができたら、きっとこの気持ちがわかるだろう」悟は静かに言った。大河には、今逃げなければ終わりだという
「馬鹿な真似はよしてよ!」佳世子は再び激怒した。「晋太郎が逃がしてくれると思う?寝言は寝てから言って」「不可能だと分かっているからこそ、君に頼んでいるんだ」悟は静かに答えた。「何で私が親友を裏切り、あんたのような悪者を助けなきゃいけないの?私の両親の命でもかけて脅すつもりなの?バカバカしい。あんたに手を貸す人なんて、もう誰もいないわ!」佳世子の言葉に、悟は無力感を感じた。「ああ、今の私には、もう紀美子しか残っていない」声を落として彼は言った。「そんな情に訴えても無駄よ。あんたは紀美子を撃ったのよ。忘れたの?彼女は、あんたの卑劣な手口のせいで飛び降り自殺しそうにもなったよね?」「嫌だ、死んでも絶対に協力しないわ!」「こうなることは分かっていた」悟は前かがみになり、肘を膝につけてうつむいた。「私は完全に敗北した。しかしまだ生きたいんだ」「生き延びてどうすんの?あんたのような悪魔は早く地獄に落ちてくれればいいのに」佳世子は罵った。「今の私が生きる唯一の希望は、紀美子の人生を見届けることだ」悟は言った。「何それ?」佳世子は問い詰めた。「好きな人を利用して、自分の人生の心残りを埋めようとしてるの?」悟は黙り込んだ。複雑な感情が佳世子の胸をよぎった。悟は確かに悪だが、その境遇は憐れでもあった。だが、そんな感情で人を傷つける権利などない!「もしあんたにまだ良心が残ってるなら、私と紀美子を帰しなさい。あんたはもう昔の力を完全に失ったのよ。それに、紀美子の子供たちがどれほど優秀かも知ってるでしょ?ここもいつか必ず晋太郎に見つかるし、その時のあんたの末路は言うまでもないわ」「一度始めたことはもう引き返せない」悟は目を上げて断言した。「死ぬか、紀美子を連れて行くかだ」「どうしてそんな極端な考え方しかできないの?」佳世子は眉をひそめた。「私に他に道があると思うか?」悟は自嘲的に笑った。「捕まれば獄死、見つかれば殺される。そうだろう?」それを聞いて、佳世子の胸は苦しくなった。昔仲が良かった頃のことを思えば思うほど、言葉は重くのしかかった。「悟、本当のことを教えて」佳世子は真剣な眼差しで悟を見つめた。「後悔しているかどうか聞きたいんだろう」
「念江がファイアウォールを突破したIDを特定してからでないと追跡できない」佑樹は小さな眉をひそめて説明した。「30分くれ。長くても30分で特定できる!」念江は言った。30分は長くないが、今は一分一秒が耐えがたいほど長く感じた。十数分経った頃、念江は極度の緊張で鼻血を出してしまった。周りの者は皆、念江の様子に胸を締め付けられた。だが念江は気に留めずに手で鼻血を拭うと、再びハッキングに集中した。「心配しないで。お医者さんに、回復期に時々鼻血が出るのは正常だと言われてるんだ。お母さんが見つかったら少し休めばいい」念江の説明を聞いて、皆はやや安心した。ちょうど29分経った時、念江はエンターキーを叩いた。「よし、IDを特定した。佑樹、後は任せた」「君は休んでおいて。残りは僕がやる」念江は青白い顔でうなずき、椅子にもたれかかった。晋太郎は彼の小さな体を抱き上げた。「父さん、大丈夫…」念江は疲れた目を開いた。「暫く休め。何かあればすぐ知らせる」晋太郎は息子をベッドに運びながら言った。「うん…」わずか数時間で、晴の顔には疲労の色が濃く出ていた。「何だか最近、自分が子供たちにすら及ばないのではないかと不安になるんだ」晋太郎が寝室から出てくると、晴は自嘲気味に笑った。「お前が役に立ったことなどあったか?」晋太郎は冷たく見下ろした。「まあ……そうだな」晴は言葉に詰まった。「唯一の長所は一途なことだな」晋太郎は軽く一言を付け加えた。「確かにその通りだ。俺の心には佳世子しかいない」晴は頭をかいた。一方、別の場所では——悟は、意識を失っている紀美子を以前滞在していた民宿に連れ込んだ。そこのボディガードは既に全員が撤収しており、最も安全な場所だった。佳世子は紀美子とは別の部屋に閉じ込められていた。悟は紀美子の布団を整えてから、佳世子の部屋に向かった。佳世子のベッドの横に座ると、悟は彼女の手を掴み、特定のツボを強く押した。すると、佳世子はパッと目を開いて、そして反射的に手を引っ込めた。見慣れない景色を見て彼女は慌てて起き上がり、ようやく隣に人が座っていることに気付いた。悟と目が合うと、佳世子は眉をひそめた。「悟!やはりあんただったのね!」
その時、晋太郎もボディガードからの連絡を受け取った。隅々まで探したが、結局紀美子と佳世子の姿は見つからなかった。警察もすぐに到着し、ホテル全体を捜索し始めた。それでも、二人が見つかることはなかった。その報告を聞いた晋太郎は、怒りで窓ガラスに拳を叩きつけた!ガラスの割れる大きな音に、佑樹と念江は体を震わせた。二人はそのまま、手から血を流しながら震える父を驚いた表情で見つめた。父に何を言っても無駄だということも分かっていたため、ただ歯を食いしばった。「悟の仕業だ」晋太郎は険しい表情で窓際に立った。ここまで完璧に痕跡を消せるのは、奴しかいない!今、彼を悩ませているのは、悟が紀美子たちをどこに隠したかということだ。奴の勢力はもう完全に潰したはずだが、今最も恐れているのは、奴が紀美子を連れて完全に姿を消すことだった。そうなると、大海原で針を探すようなもので、手がかりすらつかめないだろう。晴が事情聴取を終え警察署から戻ってきても、子供たちはまだパソコンを操作していた。晴はソファに崩れ落ち、頭を抱えてうなだれた。「くそっ!!!絶対に悟だ!!あいつに違いない!!晋太郎、何とかして二人を助けてくれ!悟は紀美子を傷つけないかもしれないが、佳世子は殺されるかもしれない!」晴は晋太郎に助けを求めた。「分かってる!既にあの辺りに配置していたボディガードを引き上げさせた。これからは山と町内を徹底的に調べさせる!美月も動き出している!」晋太郎は歯を食いしばりながら言った。「お父さん、相手の車のナンバーは分かる?正確な情報があれば、もっと早く調べられる!」突然、佑樹が振り返って言った。晋太郎は直ちに美月に電話をかけた。通話が繋がると、美月が話す前に佑樹が切り出した。「美月さん、悟たちの車のナンバーって分かる?」「分かるわ」美月は答えた。「9000だけど、あっちの技術者が、通った場所の監視カメラの録画データを全て消してるわ」佑樹は念江を見た。「念江、ダメなら先生に頼ろう!できるだけ早く母さんと佳世子さんを見つけないと」「わかった、今電話する!」念江は言った。隆久はすぐ電話に出た。念江が状況を説明しようとした時、電話の向こう側からマウスボタンのクリック音が聞こえてきた。
晴の言葉には耳を貸さず、晋太郎はドアを勢いよく開け、再び佳世子の携帯に電話をかけた。晴が後を追うと、廊下のどこかから佳世子の着信音が聞こえてきた。晋太郎の張り詰めた雰囲気に飲み込まれていた晴だったが、この音を聞いた途端、緊張が一気に和らいだ。彼は晋太郎の腕を軽く小突きながら、冗談めかして言った。「ほら!着信音が聞こえるじゃないか!二人はここにいるに決まってる!まったく、悪戯に引っかかるところだったぜ!見つけたらこっぴどく叱ってやるからな!」しかし、晋太郎の表情は微動だにしなかった。むしろ、その冷たさが次第に険しさへと変わりつつあった。彼は着信音の方向を追い、エレベーターの前で静かに地面に落ちている携帯を見つけた。派手な黄色いケース、それは、佳世子がずっと使っていたものだった。晋太郎が大股でエレベーター前に進むと、まだ状況を把握していない晴もついてきた。着信音が近づくにつれ、晋太郎が身をかがめて携帯を拾い上げると、晴は雷に打たれたように固まった。「佳世子の……携帯!?」晴は慌ててそれを掴んだ。「なぜここに!?」晋太郎は危険な光を宿した目を細めた。「お前はフロントに行け、紀美子と佳世子を見た者がいないか確認しろ。俺は子供たちの元へ行く」晴は事態の深刻さを悟り、すぐにエレベーターのボタンを押して下に向かった。ロビー階に着くと、晴は真っ先にフロントに駆け込み、カウンターに立つ二人のスタッフに尋ねた。「さっき、ポニテールと黒髪カールの女二人が来なかった?二人とも一六八センチくらいで……20分以内のことだよ!それとも誰かが彼女達を連れ出しているの見なかったか!?」スタッフは顔を見合わせた。「お客様、落ち着いてください。何が起こったので……」「時間がないんだ!!」晴は叫んだ。「監視カメラを確認しろ!人が消えたんだ!何が起こったかわかるだろ!?」スタッフは急いで監視カメラの映像を調べ始めた。だが、画面が真っ黒になっているのを見た瞬間、スタッフは硬直し、ゆっくりと立ち上がった。「……監視カメラが、全部ブラックアウトしています……」「クソッ!」晴は怒りに任せてカウンターを拳で叩きつけた。「今すぐ早く通報しろ!」「お客様!」もう一人の男性スタッフが割って入った。
紀美子は思わず額に手を当てた。佳世子のこの仕草は、もうメールを送ったと認めるようなものだった……「送ってようが送ってまいが、今日は二人とも我々について来てもらう」二人は恐怖で目を見開いた。「あんたたち何者!?」紀美子は素早く佳世子を背後に引き寄せた。「ここは監視カメラがあるわ。賢いなら手出しはよしなさい!」「監視カメラって、これかい?」細身の男が不意に携帯を掲げた。その画面には、ちょうどエレベーター内にいる四人の姿が映し出されていた。すぐに、画面が一瞬フラッシュして、監視映像は真っ暗になった。佳世子の足は震えが止まらなかった。「お二人さん、誘拐なんて考えないで!お金ならいくらでも出すわ!倍でも!3倍でもいいから!」「金はいらん」細身の男が言った。「ただ命令に従っているだけだ」「命令……」紀美子の脳裏にある人物が浮かび、慌てた表情が徐々に冷静さを取り戻した。「悟なのね?」細身の男は薄笑いを浮かべた。「誰かは、入江さんが眠った後でゆっくり考えてくださいな」ちょうどその時、エレベーターが「チーン」と音を立てて到着した。ドアが開くやいなや、紀美子は佳世子の手首を強く握り、外へ飛び出そうとした。しかし、がっしりとした男は一瞬で腕を伸ばし、紀美子の襟首を掴んだ。紀美子は必死でもがき、廊下に向かって叫んだ。「晋太郎!助けてっ!んっ……」佳世子もすでに細身の男に掴まれ、口を塞がれて全く声を出せなかった。顔にかけられたハンカチが、二人の意識を徐々に曖昧にし、身体も次第に力を失っていった。その頃、客室の中で。晴が晋太郎の部屋のソファーにだらしなく寝転がり、あくびをしながらぼやいていた。「佳世子たち、まだ戻ってこないのかよ……女ってどうしてこんなに元気なんだ……」晋太郎は腕時計をちらりと見て、顔を引き締めた。「もう一度電話してみろ」「お前がかけろよ……」「俺がお前の妻に電話するのが妥当だと思うか?」晋太郎が眉をひそめた。晴は慌てて起き上がった。「俺はかけないぞ!佳世子が買い物中に電話すると、帰ってきてから延々説教されるんだ。特に紀美子と一緒の時は!」晋太郎が不満げに睨みつけた。「俺がどれだけメール送ったかわかってるのか?」「だから
紀美子は驚いた表情で彼女を見つめて尋ねた。「何を見たの?そんなに驚いて?」佳世子は携帯を紀美子に向けた。「森川社長、あなたが見つからないから私にメッセージを大量に送ってきていたわ。20通以上も送ってきて、私から返信が来ないから、最後に電話してきたのよ」紀美子は画面をじっと見つめ、やがて「ぷっ」と笑いだした。「我慢できなくなって電話してきたってこと?」佳世子は眉を跳ね上げた。「あら、二人仲良くやってるみたいね」「ええ!」紀美子は率直に認めた。「彼、記憶を取り戻したの」「彼が言ったの!?」佳世子は驚きの声を上げた。「いつのことよ?」紀美子は微笑みながら首を振った。「言わなかったけど、きっと気付かずに口を滑らせたのよ。昨日のことだったわ」「まさか……」佳世子は手で口を覆いながら驚いた。「もしかして私たちの昨日の会話を聞かれて、男の本性に火がついたとか?」紀美子は耳元がほんのりピンクになった。「多分……そうかもね……」「よかったわ、紀美子!」佳世子は本当に嬉しそうに言った。「でも彼は自分からはまだ言ってないから、あなたも黙ってて。どれだけ我慢できるか見てみましょう!」「わかってる」紀美子はふと、晋太郎が時々本当に子供っぽいと感じた。1時間後。紀美子と佳世子が再び山頂に到着すると、車が停まる前にまたもや紀美子のまぶたが痙攣し始めた。彼女はドアを開ける手を止め、左目を押さえた。佳世子が身を乗り出した。「どうしたの?どこか具合悪いの?」紀美子は指でまぶたを押さえながら言った。「大丈夫、またまぶたがピクピクしてるだけ」「左目……」佳世子は考え込み、舌打ちした。「それ、不吉よ!」紀美子は呆れたように彼女を見て言った。「佳世子、そんなこと言わないで、余計に怖くなるから」「きっと寝不足なのよ。早く部屋に上がって寝ましょう」「ええ」二人は車を降り、ロビーへ向かって歩き出した。車内から紀美子と佳世子の姿を目撃していた悟の視線は、紀美子の後ろ姿に釘付けになっていた。あの優しげな眼差しは、今や紀美子に対してだけに注がれていた。大河が振り向いて尋ねた。「悟様、あちらです。どういたしましょうか?」「周辺の地形は確認済みか?
車はくねくねとした山道を下っていた。佳世子は真っ暗な周囲を見回しながら言った。「紀美子、この山道街灯ひとつないわよ。怖くない?」紀美子は軽く笑った。「大丈夫よ。ボディーガードも同乗してるんだから、何か出てくるわけないでしょ?」佳世子は自分の腕をさすった。「こういう環境苦手なの。空気は確かに美味しいけど、わざわざこんな高い所まで来て休暇を過ごそうなんて思わないわ」紀美子はカバンから子供たちのために準備していたプリンを取り出し、佳世子に手渡した。「このホテル、評判が結構いいし、有名人もたくさん来る場所だよ。嫌だと思ってるのは多分あなただけ。甘いものでも食べて気分を落ち着けて。生理のせいで気分が悪いんじゃない?」佳世子がそれを受け取り、包装を開けて食べようとした瞬間、目の前に白いヘッドライトが飛び込んできた。次の瞬間、対向車が彼らの車の横を疾走し過ぎ去っていった。佳世子はその車を見送りながら呟いた。「こんな夜中の三時とかに、誰が山に上がるのよ……」紀美子は何気なく言った。「日の出を見に来たんでしょう。ここは撮影スポットとしても有名だし」「私なら睡眠時間削ってまで日の出なんて見ないわ。仕事でクタクタなのに」紀美子が笑いかけたその時、まぶたがぴくっと痙攣した。胸の奥を一瞬、不安がかすめた。儚く消え去ったが、それでもどこか気味の悪さを感じずにはいられなかった。紀美子は他のことを考えることなく、運転手に向かって言った。「少しスピードを落として、カーブが多いし、道も暗いから、安全第一で」「わかりました」速度が緩むと、紀美子はようやく少し落ち着いた。20分後、紀美子と佳世子は山のふもとに到着した。佳世子と一緒に生理用ナプキンを買い終わった後、紀美子は急いで山に戻るつもりはなかった。町の携帯電話店が開店するのを待って、そこで携帯を買ってから戻るつもりだった。そして、せっかくの機会なので、地元の朝食を試してみることにした。朝の6時半。紀美子と佳世子は小さな町をひと回りして、ようやく気に入った朝食店を見つけ、腰を下ろした。食事を終え、紀美子は店主に尋ねた。「すみません、この辺りに早く開く携帯電話店ってありますか?」「携帯を買うのか?」店主はお好み焼きを焼きながら言