泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜 のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

81 チャプター

好きな気持ち-03

「あ、白ご飯も食べるよね? お茶も持ってくるね」「かいともおてつだいするー」紗良と海斗はキッチンへパタパタと駆けていく。 そんな様子を見た母親は人知れずクスクスと笑った。まったく我が娘ながら、杏介に対してこんなにも初心な表情をするなんて――。「お口に合ってよかったわぁ」「はい、どれも美味しいし、どれから食べていいか迷いますね。実はおせち料理を食べるのは初めてで……」「あら、そうなの? まあ、一人暮らししてると食べないわよねぇ」「それもそうなんですけど、お恥ずかしながらあまり家族と仲が良くなくて。だからこうしてお正月に集まってご飯を食べることが新鮮で嬉しいというか。あの、本当にありがとうございます」「あら、じゃあご実家には帰ってないの?」「帰ってないですね」「だったらこれからも家に来たらいいわよ。紗良も海斗も喜ぶし。もちろん私も、ね」「ありがとうございます」「あ、でもご両親に申し訳ないかしら? 杏介くん独占して」「そんなことはないです。本当にありがたい話です」ぽろっと零れてしまった杏介の家族の話。 不穏な空気を感じながらも、紗良の母親はそれ以上深く聞くことはなかった。 杏介もそれ以上語るつもりもなく、何事もなかったかのように和やかに空気が流れる。「せんせー、おちゃもってきたー」「海斗、こぼれてるこぼれてる!」「あら海ちゃん、新年早々お着替え?」「わー! 海斗ー!」急に慌ただしく大人たちが騒ぐ中、海斗はコントのようにお茶をこぼしまくり、全員の初笑いを持って行った。紗良にとっても杏介にとっても、とても心穏やかなお正月だった。
last update最終更新日 : 2025-01-07
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好きな気持ち-04

◇休みボケもそこそこに、仕事も保育園も始まり慌ただしい日々が戻ってきた。朝の渋滞を抜けダッシュで出勤するのもいつも通りだ。「紗良ちゃん、あけおめー」「依美ちゃん、今年もよろしくね」「ねえねえ、去年の忘年会でさ、彼氏できちゃった」「えっ! すごい、おめでとう」依美は秋ごろ、彼氏が浮気しているからもう別れると宣言していた。そしてもっといい男をゲットすると意気込んでもいた。それがこんなにも早く彼氏ができるとは、驚きと共に積極的な依美らしいなと紗良は思った。「たまたま別部署の人たちも同じお店でね、合同忘年会になったわけ。で、色々話してたら彼と意気投合してさ~」「すごい、そんな偶然あるんだね」「ね、びっくりだよね。運命感じちゃうよ」「うんうん、本当にそうだよね」依美はとても楽しそうで休み前に会った時より生き生きとしている。彼氏と別れると言っていた依美は少し落ち込んでいるように見えていたので、短期間での依美の行動力には脱帽だ。「ねえ、紗良ちゃんはプールの先生とどうなったの?」ドキリと胸がざわめく。どう、かと言われれば、告白されて断った事実がある。けれどお正月には家に呼んで一緒にお節を食べたというなんとも不思議な関係が続いている。それを表現するには難しく、ぐるりと考えた挙句、紗良はいたって平静に答えた。「……どうもなってないけど?」「そうなんだ? じゃあさ、 誰か紹介してあげようか?」「え?」「彼氏の部署男だらけらしくって、彼女募集中の人いるみたいよ。飲みに行くだけでも行ってみたらどう? 楽しいよ」「いやいや、私には海斗がいるから」「またすぐそうやって子供を出す。最近は子持ちだって敬遠されないってば」 「別にいいんだって。彼氏欲しいだなんて思ってないし」「事情があって育ててるのはわかるけどさ、何か自己犠牲に酔ってない? そんなことじゃ子どもが大きくなって手が離れたときに何も残らないよ。だって紗良ちゃんまだ若いんだし」「……海斗が無事に育ってくれたらそれで十分だよ」笑ってやり過ごすも、急に得も知れぬ不安に襲われた。(……それで十分だよね?)ドクンと心臓が変な音を立てる。
last update最終更新日 : 2025-01-07
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好きな気持ち-05

大学を卒業後、企業に就職が決まっていたけれど、そこは残業も転勤も有り得る仕事だった。 入社直後から育児勤務を使えるわけもなく、子供を育てながらバリバリ働くのは無理だと判断して辞退することにした。残業がなくて時間固定で家から近くて――。そんな条件を叶えてくれるのは登録型の派遣社員だった。 正社員に比べたら、ボーナスも昇級もなく給料は低め。 それでも無駄遣いさえしなければきっとやっていけるだろうと思って決断した。 だが実際働き始めて、やはりそれだけじゃ心もとない気がして週末はアルバイトも始めた。 それが今の紗良の生活スタイルだ。すべて海斗のため。 海斗が不自由なく暮らしていくため。そう思っていたのだけれど。(海斗が手を離れたら……?)依美に言われるまで気がつかなかった。 というより、目先のことでいっぱいでそんな先のことまで考える余裕はなかった。海斗が成長し紗良の手を離れたら、いったい自分には何が残るというのだろう。十年、いや二十年後、そんなころにはもう紗良だって若くない。 再就職も難しくなってくる。 それに、いつまでもかけもちのバイトはつらいだろう。(私、ちゃんと考えてなかったのかも……)それは仕方のないことかもしれない。 なにより海斗を育てるということがイレギュラーな出来事だったのだ。目先のことばかりで自分の未来をちゃんと考えていなかったのは、当然といえば当然といえよう。(……杏介さん)脳裏に一瞬浮かんだ杏介の顔に、紗良は人知れず心を揺らした。
last update最終更新日 : 2025-01-08
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好きな気持ち-06

海斗と買物に出かけたある日、スーパーの一角にはすっかりとお正月商品はなくなり、代わりにカラフルで目を引くたくさんのチョコがズラリと並んでいた。「そっか、もうそんな季節かぁ」「さらねえちゃん、チョコほしーい」海斗が目をキラキラさせながら商品棚に駆け寄る。子ども向けのキャラクターが付いたチョコに釘付けだ。「じゃあバレンタインだから一個買ってあげるね」「ばえんたいんってなに?」「好きな人とかいつもお世話になってる人に、ありがとうってチョコを渡す日だよ」「かいともわたしたい!」「誰に渡したいの?」「さらねえちゃん!」まっすぐな瞳で見つめられ、胸がきゅんとなる。海斗の素直な気持ちが嬉しくて紗良は目頭が熱くなり、そっと海斗の頭を撫でる。いつの間にこんな気の利いたことを言うようになったのだろうか。「ありがとね、その気持ちで十分よ」「えー。あげたいのにー。あ! あとせんせーにもあげたい」「本当に海斗は滝本先生が好きよね」「うん、だいすき。さらねえちゃんもせんせーのこと、すきでしょ?」「え、う、うん」別に深い意味はないのだというのに、そんなことを言われたら胸がざわっと揺れる。いちいち動揺してしまうなんて、どうかしている。紗良は思わず熱を帯びそうになった頬を慌てて両手で押さえた。「じゃあ、さらねえちゃんもわたしたら?」「そう……よね?」紗良は商品をぐるりと見渡す。杏介は甘いものが好きだったかどうだったか。よくわからないけれど、とりあえず小さめのチョコを買っておくことにした。(そう、これは海斗が杏介さんに渡したいって言ったから。 だから買ったのよ。 いつもありがとうございますって感謝の気持ちなんだから)などと自分自身に言い訳をして。杏介には「好き」だと伝えているのだから、別に堂々と渡せばいいだけのはずなのに、どうにも恥ずかしい気持ちが先行してしまい自分の気持ちがついて行かない。(……バイトのとき、渡せたらいいな)そんな淡い希望を抱いて、チョコをそっとカバンに忍ばせた。
last update最終更新日 : 2025-01-08
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好きな気持ち-07

土曜日のプール教室は他の曜日に比べて生徒数が多く、レッスン数も多い。 故に、杏介たちインストラクターはレッスン修了後の事務所にてそれぞれがだらりと休憩をしていた。杏介がコーヒーを飲みながら物思いに耽っていると、同じくコーヒーを飲みながら航太がニヤニヤと隣に座る。「杏介、今年も何個かもらったんだろ、チョコ」その言葉に即座に反応したのはおしゃべり好きなリカだ。「えっ。 もしかしてママたちからですか?」「いや、子供から。 断りたいけど、子供から手渡しされるとさすがにもらうしかないんだよね」「へぇ~、滝本先輩モテモテですね」「どうせ子どもにかこつけてママたちからも何個か入ってるんだろ?」「うわー、マジですか。さすがイケメンは違いますねー」リカは大げさに驚きチラリと航太を見る。「……リカちゃん、今俺のこと可哀そうな目で見ただろ」「あ、バレました? 小野先輩かわいそー。もらえないなんてー」「そう思うなら俺にくれよぉ」「私がですか?  嫌ですよ。滝本先輩にならあげてもいいけど」「何だとっ! もう少し俺を労わってくれよ。杏介も何か言ってくれ」「あー、うん、二人とも仲いいよね」「「仲良くないっ!」」杏介の嫌みのないツッコミに、航太とリカの叫びがハモる。 バツの悪くなった航太はコホンと咳払いをして話題を変えた。
last update最終更新日 : 2025-01-09
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好きな気持ち-08

「ああ、そんなことより杏介は本命の彼女からちゃんともらったのか?」「えっ、先輩、彼女いるんですか?」「え、ああ、いや、まあ……」「いるんだなー。しかも子持ち」「やだっ不倫?」「違う違う」「じゃあバツイチ?」杏介が口を挟む間もなく、航太とリカは盛り上がる。航太とは日頃からお互いに何でも話すような仲ではあるが、まさかリカに対してもベラベラしゃべるやつだったとは、杏介は苦笑いだ。「未婚の母なんだよな? 杏介も物好きだよなー」「そうかな? 好きになった人にたまたま子供がいただけで――」と弁明を図ろうとしたのだが、険しい顔をしたリカがずずいと詰め寄る。「先輩、その考えは危険ですって。先輩まだ若いんだから子持ちなんてリスク背負わない方がいいですよ。自分の子じゃないのに愛せますか? 彼女が好きだから愛せるって思うかもしれないけど、恋愛期間は盲目になってるだけかもしれないですよ。ぜったい考え直した方がいいですよ。現実見てください」「……リカちゃんがまともなこと言ってる」「私はいつもまともです。小野先輩は茶化さないでください。その彼女、滝本先輩に子供のお父さんになってほしいだけじゃないです? あと経済的支援目的とか」「いや、そんなことはないと思うけど」と言いつつも、ダブルワークしている紗良はもしかして経済的に安定していないのかもしれない。だからといって杏介に対して経済的支援を求めているようには感じられないが。「とにかく、先輩早まっちゃダメです」「ありがとう、心しておくよ」リカの剣幕にとりあえずは頷いておく。決して紗良がそんなことを考えているとは思いたくない。というか、まったく思えない。「ずいぶん熱心だけど、もしかしてリカちゃん杏介のこと好きなんじゃ……」「バカなんですか、小野先輩」「ちょ、俺への当たりきつくない?」「まあ、自業自得なんじゃないか?」デリカシーのない航太にフォローなどいらないだろうと、杏介もリカ同様冷たく突き放す。「二人してひどいー」と泣き真似までする航太にリカはまたツッコミを入れ、なんだかんだ仲が良いなと杏介は一人笑った。
last update最終更新日 : 2025-01-09
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好きな気持ち-09

紗良はカバンに突っ込んだまま息を潜めているチョコの存在を気にして、一日中ソワソワしていた。土曜日の海斗のプール教室、渡す暇などないだろうし、渡す機会があったとしてもさすがに人が多すぎて目立ってしまうと考えつつも、チョコはカバンの中。結局いつも通りレッスンが終了して、何人かの子供が「滝本先生~」と甘い声をかけているのを横目にそそくさと帰ってしまった。(あんなところで渡せるわけないじゃない)しかも、子供とはいえ女子たちの乙女な顔ときたら、きっとチョコを渡す子もいるんだろうなと想像して知らず知らずモヤッとしてしまって見ていられなかった。まさか小学生に嫉妬してしまうなんて……。(どうかしてるわ、私)紗良は深いため息をつく。やはりタイミングはアルバイト時かと思いつつ、何をそんなにも緊張することがあるのだと自分を落ち着かせる。学生の時だってこんなにドキドキしたことがあっただろうか。 過去の自分を振り返ってみても、小学生のときに先生にチョコを渡した記憶しかよみがえってこない。 確かにあの時も相当ドキドキしていたけれど。 そんな記憶は遠い彼方だ。結局心が落ち着くことはなく、ソワソワしたままアルバイトに出掛けたのだった。
last update最終更新日 : 2025-01-10
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好きな気持ち-10

最近の杏介は、毎週とはいかないまでも、土曜の夜まで仕事がある日は必ず紗良の働くラーメン店へ出向いていた。その頻度は前とさほど変わらないけれど、紗良の仕事終わりに隣のコンビニで待ち合わせをして、少しだけおしゃべりをして別れるというのがいつの間にか日課になっている。「杏介さん、これ……あげますっ」満を持してカバンから取り出したチョコはぶっきらぼうに杏介の目の前へ差し出され、紗良は不自然に視線を泳がす。「……もしかしてバレンタイン?」「うん。……海斗がぜひにとも」「えっ? 海斗から?」「……いや、えっと、私から……です。迷惑じゃなかったら……」変に語尾がごにょごにょと小さくなっていく。紗良のあまりの照れように、杏介まで照れくさくなって頬を掻いた。昼間プール教室で散々生徒からチョコを貰ったが、比べものにならないくらいに嬉しい。「迷惑だなんて思うわけないだろ。ありがとう。じゃあ、ホワイトデーにはどこかデートでもしようか?」「あ、お返しなんてお構いなく、なんだけど……。うん、デートしたい……です」「どこか行きたいところある? 何か買いたいものとか」「うーん、そうだなぁ。海斗が四月から年長さんだから、新しいスモックと上靴と、あとTシャツを買いに行きたい」「紗良、それってデートなの?」「はっ!」「紗良って時々天然だよね。面白い」「いや、ごめんなさい。そうだよね、デート、デート、……デートかぁ」「いいよ、ショッピングもデートのうちだろ。どこでも付き合うよ」くっくと笑う杏介は優しく紗良の頭を撫でる。その柔らかな手つきも紗良に向ける笑顔も、すべてが愛おしく思えて胸がぎゅっとなった。
last update最終更新日 : 2025-01-10
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お互いのこと-01

四月、海斗は年長へ進級し、プール教室もクラス替えになった。 顔付けや潜ることができるようになった海斗はひとつ上のクラスになり、担当の先生も新しくなった。海斗は担当の先生が杏介でなくなり残念そうにしていたが、子供の順応性とは高いものですぐに馴染んで楽しそうにしている。そのことについて全く問題はないというのに、なぜだか紗良の方が残念な気持ちになっている。心のどこかで海斗は杏介じゃないとだめだと思っていたのだろうか? それとも海斗をダシに杏介に近づこうと思っていたのだろうか?いずれにせよ、妙な喪失感に襲われている。きっとこれは四月だから。 年度がかわっていろいろなことに忙しいから。 だから心が弱くなっているのだと、紗良は無理やり結論づけた。そうやって慌ただしく四月が過ぎていき、あっという間にゴールデンウィークになった。休みの日は杏介に会いたいなと思っていた紗良だが、どうやら短期プール教室があるらしく杏介は出勤の日々の様子。「一日くらいどこか行こうか?」「でも杏介さんはその日しかお休みないんでしょう? お出かけしたら疲れちゃうよ」「紗良と海斗に会えるなら疲れも吹き飛ぶよ」「海斗、ますますわんぱくになってるから相手するの大変だよ」「だったら毎日海斗の相手してる紗良こそ、少しはゆっくりしないと。というわけで、お出かけ決定な」そうやって少々強引に予定が決まっていく。 甘やかされている気がして、嬉しい気持ちが大きく膨らんでいくようだ。(海斗よりも喜んでいるんじゃないだろうか、私)張り切って朝からおにぎりを握り、卵焼きとタコさんウインナーとほうれん草のおひたしをこしらえる。デザートにはパイナップルに可愛いピックを刺して。それらをしっかりとリュックに詰め込んで。「あらあら、朝から張り切ってるわねぇ」紗良の張り切り具合に母がニヤニヤと覗きに来る。「か、海斗がタコさんウインナー好きだから」「はいはい、杏介くん喜んでくれるといいわね」「うっ……うん」なにもかもお見通しのようで妙に気恥ずかしい。 言い訳をすればしただけ、自分の首を絞めるようだ。
last update最終更新日 : 2025-01-11
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お互いのこと-02

杏介のお迎えに、海斗はジュニアシート持参で意気揚々と助手席に乗り込む。海斗はいつも助手席に乗りたがり杏介も快く受け入れている。そんな二人のやり取りを、紗良はぼんやりと後部座席から眺める。今まではそれがとても好きだったし、それでいいよと思っていた。それなのに、最近紗良と杏介二人で出かけることが増えたせいか、紗良も助手席に座りたいと海斗に対抗心が芽生えていることに気付いてそわそわと落ち着かなくなっている。(こんなの大人げないわ)そう、頭ではわかっているのだ。「海斗、この席は順番だぞ。行きは海斗が座ってもいいけど帰りは紗良姉ちゃんと交代な。わかったか?」「わかったー!」まるで紗良の心を見透かしたかのようでドキリとする。杏介は上手く海斗を説得するが、海斗は本当にわかっているのかどうなのか、空返事だ。けれどこうやって配慮してくれることが嬉しくて、いつの間にか紗良の心は落ち着いている。一喜一憂してしまう自分はなんて単純なのだろうと、紗良は人知れず笑った。やってきた動物園はウサギの餌やり、モルモットの餌やり、鯉の餌やり、と様々な体験ができる施設だ。餌を手にした海斗は目をキラキラさせて夢中になった。小さな動物は口も小さくモシャモシャと食べる姿が可愛らしい。海斗もモルモットを膝の上にのせてご機嫌だ。「さらねえちゃん、うまがいるー! みてー!」「わ、ほんとだ……きゃっ」ブルルンと鳴いて今にも柵から飛び出してきそうな勢いの馬たち。海斗は意気揚々とニンジンを手に持って餌やりする気満々だ。海斗がそっと手を出すと、ぎょろりとした目をした馬が興奮気味に口を開ける。ベロンとニンジンが持っていかれ、海斗はきょとんとした後なにが可笑しかったのか大笑いし始めた。「あはは! おもしろーい! さらねえちゃんもやってみて!」「いや、お姉ちゃんは無理だから」「えーなんでー」と海斗とやり取りをしている間に、右手にかかるあたたかい何か。嫌な予感がしてギギギと首を捻ってみれば、至近距離に馬の顔があり今にも紗良の手を舐める勢いだ。「ひっ、ひぃぃぃぃ――」卒倒しそうになる紗良を杏介が慌てて受け止める。「おっと!」「さらねえちゃん、しなないでー!」海斗が冗談なのか本気なのかよくわからない煽り方をして、理不尽にもあとでこっぴどく叱られたのだった。
last update最終更新日 : 2025-01-11
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