All Chapters of Once more with you もう一度あなたと: Chapter 21 - Chapter 30

39 Chapters

第二十一話

朝のオフィス。出社してすぐ、私は呼ばれて大会議室に向かった。そこには三十人ほどの社員が集まっていた。営業、開発、マーケティング、法務――会社の中核を担うであろう多方面の部署から選ばれた面々。その中で、一番前に座る彼の姿が目に入った。日向――。動物園で見た、ラフで穏やかな雰囲気の日向とはまるで別人だった。高級感漂う濃紺のスリーピースを身にまとい、胸元にはシンプルながらも品のあるシルバーのポケットチーフが添えられている。その姿は、どんな場に出ても恥じることのない完璧さだった。髪もいつも以上に整えられ、背筋をピンと伸ばした彼からは、揺るぎないオーラが放たれている。彼の隣に座る役員たちでさえ、どこか緊張感を漂わせているように見える。先日、動物園で瑠香を抱き上げ、優しい微笑みを浮かべていた同じ人間だとは思えない。「では、始めましょう」日向の低く通る声が静かに響き、会議室内のざわめきがピタリと止んだ。次にモニターに映し出されたのは、スーツ姿の男性だった。「本日、我々河和グループが手掛ける次期プロジェクトを発表します。このプロジェクトは、グローバル市場における競争力をさらに高めるための重要な試みです」画面越しに映るのは、河和グループのトップ――河和社長。その存在感には、相変わらず圧倒される。彼が会社を率いる姿を見るのは、社員である私にとって珍しくはないことだ。けれど、「彼が日向の父親なんだ」という事実を改めて意識すると、不思議と居心地の悪さを感じる。日向とはあまりにも雰囲気が違う。冷徹で威厳に満ちた眼差し――その姿が、この会社を支える柱であることを如実に物語っていた。社長は続ける。「新たなプロジェクト『グローバルコネクト』は、海外パートナー企業と連携し、最先端のAIプラットフォームを構築するものだ。これは、我々の企業の技術力を世界に示すだけでなく、新たな成長の柱となるはずだ」モニターに映し出される資料には、海外の有名企業名がいくつも並んでいた。すべて、このプロジェクトのパートナー企業らしい。「このプロジェクトには、河和日向副社長をトップに据え、我々が誇る精鋭たちがチームを組む。全員の協力を期待している」そう言って社長が一度目を細めた。その視線は画面越しでも冷たく感じられた。一瞬モニターが消え、会議室内がざわつく。私も、こんな大きなプロジェクトに
last updateLast Updated : 2025-01-20
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第二十二話

近くのテーブルから漏れ聞こえてきた噂話。 「副社長が本社に戻ったのは、高木さんと結婚するため」――その言葉が、私の心を乱していた。フォークを握る手が止まったまま動かない。頭の中では、「そんなことあるわけがない」と否定する声と、「もし本当だったら?」という不安がせめぎ合っていた。"日向が、この会社に戻った理由が……高木さんとの結婚のため?" 噂の真偽なんてわからない。それでも、さっきの会議で見た日向の堂々とした姿と、その隣に立つ高木さんの姿が頭に浮かんでしまう。美しくて品があって、自信に満ち溢れた高木さん。彼女こそ、日向の隣にふさわしい存在に見える。 それに比べて私は――ただの平凡な営業アシスタントで、シングルマザー……。そんな時だった。急に聞こえた声に顔を上げると、食堂の入り口付近がざわついているのが見えた。スーツ姿の役員たちが数人、視察のために入ってきたのだ。その中には、日向の姿もあった。濃紺のスリーピースに身を包んだ彼は、先ほど会議で見たときと同じく、誰にも負けない存在感を放っている。まっすぐ前を見つめ、落ち着いた足取りで食堂内を歩いている。周囲の社員たちも、彼の姿に気づいてさざめいている。その注目を一身に集めながら、彼は役員たちとともに奥のテーブルへと進んでいった。しかし――その隣には、高木さんの姿もあった。彼女は日向の隣を歩きながら、時折親しげに彼に話しかけている。日向の仕事用の表情からは、彼女をどう思っているかはわからない。でも、もし「会社の未来」のために、彼女との結婚が決定事項だったら、高木さんを無下に扱うことなどできないのは当然だ。日向は、自分の感情だけで動けるような立場ではないのだから。"じゃあ……私が今、彼とこうして一緒に過ごしていることは、正しいのだろうか?"昨日の動物園のことが頭をよぎる。日向と瑠香が笑い合っている姿。それは、まるで本当の家族のように見えた。だけど――。"もし、瑠香のことが知られたら?"私は息を呑んだ。もしあの時のことが公になり、瑠香の存在が日向のものだと知られたら――。それは、日向にとって大きなスキャンダルになるはずだ。彼の立場や、彼が背負うものを考えれば、その影響は計り知れない。彼のそばにいていいのだろうか?「どうした?」神代さんの声に、私はハッとして顔を上げた。気づけば、私の表
last updateLast Updated : 2025-01-21
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第二十三話

会議室に案内され、ドアが閉まると、そこはまるで別世界のように静まり返っていた。自分の心臓の音がうるさくて仕方がない。席に座るよう促され、彼女もその対面に優雅に腰を下ろす。テーブルを挟んで向き合うと、彼女の美しさに圧倒される。こんな人が日向と結婚したがっている。それほどの人だということを思い知らされるだけだった。「東雲さん、最近副社長とよく一緒にいらっしゃいますよね?」穏やかな声。しかし、その言葉にはどこか棘がある。「え……? いえ、私はただ、プロジェクトの一員として業務を――」言い訳じみた声が自分でもわかる。それを遮るように、彼女は微笑みながら首を横に振った。「お気になさらないで。もちろん、あなたが仕事をしているだけだってわかっています。ただ……少しだけ気になったの」「気になった、とは……?」恐る恐る尋ねる私に、彼女は肩をすくめるようにして、淡々と続けた。「副社長は河和グループの後継者です。彼の立場の重要さは、あなたも理解しているはずよね?」「それは……もちろんです」「だったら、わかるでしょう? 私が何も知らないと思っているの?」微笑みながらも、そのセリフに、嫌な汗が流れる。「わかる、とは……」絞り出すように尋ねると、彼女は少しだけため息をつき、椅子に背を預けた。「東雲さん、あなたにはきっとわからないでしょうけど、日向さんがどれだけ大きな責任を背負っているか。彼には会社を支える未来があって、そのために私の家族もずっと助けてきたの」「それは……」何かを言おうとしたけれど、いったい私に何が言えるというのだ。日向が自分を犠牲にして守ってきたのはこの会社であるのは明らかだ。だからこそ、隣のあの家を出て、必死に今の地位に上り詰めたのだろう。そんな彼に私は何ができる?自問自答してしまえば、何もないことを痛感するだけだ。「最近、彼の近くにいるあなたを見て、少し気になったの。幼いころからの知り合いを妹のように面倒をみているのはわかっているけど、世間はそうはみないわ」一番痛いところを付かれた気がした。日向にとって私はいまだ小さいころと一緒で庇護するべき存在なのだろう。それに加えて、あの夜の負い目……。一番悪いのは自分のような気がしてきてしまう。「私は、会社の一員として……」何とか言葉を絞り出すと、彼女はまたも柔らかな微笑みを浮かべ
last updateLast Updated : 2025-01-24
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第二十四話

その時、スマホが震えた。神代さんからの着信だと気づき、ハッと我に返る。とっくに戻らなければいけない時間だと気づき、慌てて電話に出た。「お前、今どこだ?」神代さんの少し低めの声が耳に飛び込んでくる。「あ……えっと、あの、少し知り合いに頼まれごとをされて……」情けないと思いながらも、なんとか言い訳をひねり出す。だけど、正直に今いる場所を伝えなければならない。私は小声で今いる会議室の場所を告げた。「そこにいろ」突然の指示に、思わず「え?」と声が漏れる。数分後、会議室のドアが軽くノックされる音がした。神代さんだとすぐにわかった。「東雲、入るぞ」ドアを開けて現れた神代さんの姿を見た瞬間、妙な安心感が胸を満たす。それと同時に、どこか申し訳なさが湧き上がってくる。「お前、こんなところでどうしたんだ?」神代さんはドアを閉めながら問いかける。「お前、大丈夫か?」神代さんの声は穏やかで、優しい響きだった。その言葉に救われたくなる気持ちと、答えるのが怖い気持ちが胸の中で交錯する。「あ、はい……大丈夫です」嘘だ。本当は何も大丈夫なんかじゃないのに。けれど、その言葉しか出てこなかった。神代さんは、私の正面にある椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。その動きには、こちらを追い詰めるような圧はまるでなく、ただ私が話しやすいようにと気を遣っているのが伝わってきた。「何かあったなら、俺に話してほしい」そう言いながら、彼は視線を私に合わせる。その目はまっすぐで、私の心を覗き込むような優しさに満ちていた。「いえ、本当に大したことじゃないんです。ただ……少し考え事をしていただけで」曖昧な言葉で誤魔化そうとする私に、神代さんは微かに眉をひそめた。「無理をするなよ。お前が何を抱えてるのか、全部わかるとは言えないけど……俺はいつでもお前の味方だ。だからさ、ちゃんと頼ってほしい」その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。神代さんの優しさは、いつも変わらない。彼が私を気遣ってくれていることは痛いほど伝わってくる。「ありがとうございます……でも、本当に大丈夫ですから」そう答えると、彼は少しだけ残念そうな表情を浮かべた。けれど、それ以上追及することなく、小さく頷いてくれる。「わかった。でも、無理をするなよ。何かあったら、すぐ言え」神代さんのその言葉が、今の私には救いのようだ
last updateLast Updated : 2025-01-29
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第二十五話

それから私は、極力、日向を避けるようになった。会議では視線を合わせないようにし、必要最低限の言葉だけを交わす。 社内ですれ違いそうになれば、さりげなくルートを変え、誰かと一緒に行動することで、できるだけ二人きりにならないようにした。仕事の話なら、すべてメールかチャットで済ませる。 どうしても直接話さなければいけないときも、他のメンバーを巻き込んだりと徹底した。「最近、東雲さん仕事すごく集中してるよね」周囲の同僚たちも、私の変化に気づいていた。 日向を避けるためのことが、自分の評価を上げることにつながるという事実に、複雑な気持ちになる。でも、これでいい。そう自分に言い聞かせる。 私は、日向のために離れなければならない。 本当は話したいし、もっと彼のそばにいたい。だけど――。「……東雲」ある日、オフィスの廊下で日向に名前を呼ばれ、立ち止まりそうになる足をぐっとこらえる。「はい」努めて冷静な表情で彼に返事をすると、日向は少し表情を険しくした。「話…できないか?」伺うように聞く日向に、ギュッと心臓が押しつぶされるような気持ちになる。 あれほど再会してから私と瑠香に優しくしてくれた日向。 急にこんな態度をとった私に、怒るのは当然だ。「すみません、これからミーティングなので失礼します」しかし、ここでまた日向と前みたいに戻ってしまえば、私は欲張りにも日向とずっと一緒にいたくなってしまう。私の自分勝手な思いで、日向の努力を無駄にできないし、彼の邪魔にはなりたくない。振り返らず、足早に立ち去る。胸の奥が締めつけられるのを感じながらも、私はただ前だけを見ていた。「瑠香、おやすみ」お風呂の後、寝かしつけた瑠香の寝顔を見ながら、私はふっとため息をつく。――眠れない。目を閉じると、日向の顔が浮かぶ。「どうして避ける?」そう日向の瞳が言っていたのは、すぐにわかった。 でも、理由を話せるわけもない。いつか瑠香のことまで調べられてしまえば、必ず迷惑をかける。「慣れ合う必要はないでしょう?」そんなことを言ったら、優しい日向はどんな気持ちになるのだろう。布団の中で身を縮め、何度も寝返りを打った。眠れないまま、朝が来る。朝、瑠香が小さな手でパンを持ち上げ、嬉しそうに笑う。「ちゃんともぐもぐしてね」私はできるだけ優しく微笑みな
last updateLast Updated : 2025-02-03
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第二十六話

会議が終わると、社員たちは次々に席を立ち、会議室を出ていった。「東雲さん、片づけはお任せして大丈夫ですか?」「はい、大丈夫です」同僚の問いに私は淡々と答え、会議で使った資料やパソコンのケーブルを片づける。早く終わらせて、ここから出よう。そう思った瞬間、視界がふっと揺らいだ。――あれ?さっきも体調が悪いと思っていたが、やっぱり駄目だったのかもしれない。いまさらそう思っても遅く、指先から力が抜け、持っていたファイルがテーブルの上に落ちる。「……っ」体がふらつく。立っていられない。「東雲!」その言葉と一緒に神代さんが私に手を伸ばすのが見えたと思ったが、最後まで届く前にふいに別の影が視界に入った。そして、落ち着く香りに包まれた。日向?目を開くことができなくて身体は動かないが、そのぬくもりに安堵して力が抜ける。「副社長」神代さんが何か言いかけたけれど、日向の手は迷いなく私の体を支え、次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。抱き上げられたことに気づき、思わず弱々しく抵抗しようとする。さすがにこれはまずい。遠くなる意識の中でそう思ったが、もちろん男の人の力にかなうわけもない。「だ、大丈夫……です、自分で……」なんとか目を開けてそう口にするが、すぐにそれを制される。「黙ってろ」短く、けれど強い声音に、私はそれ以上何も言えなくなる。腕の中の温もりがやけに心地よくて、もう考える余裕もなく、遠ざかっていく会議室のざわめきだけが、耳の奥に残った。次に目を開けると、白い天井があった。消毒液の匂いが鼻をかすめる。ぼんやりとした意識の中で、ここが病室だということを理解するのに時間はかからなかった。でも――そんな場合じゃない。「瑠香!」反射的に叫ぶと同時に、私は勢いよく体を起こそうとした。しかし、その瞬間、誰かの手が肩を押さえ、静かに制される。「まだ起き上がるな」落ち着いた低い声が、すぐそばから聞こえた。「日向……」つい、その単語だけが零れ落ちた。ずっとわざと避けていたのに。それなのに、結局、気にして悩んで眠れなくなって、倒れて、こうして迷惑をかけている。自分が情けなくて、涙がこぼれそうになる。「迷惑をかけてすみません。でも、私、お迎えに行かないと」こんなところで眠っているわけにいかないと、もう一度体を起こしてベッドを降りようとした
last updateLast Updated : 2025-02-04
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第二十七話

「私が悪いの。自己管理ができてなかっただけ」仕事と家庭が忙しいという理由じゃないなら、いったいどうして、そう尋ねられるのはわかっていたが、日向にそんなことを思っていてほしくなかった。そう言いながら、ふと周囲を見渡した。白を基調とした落ち着いた内装。カーテンではなく扉のついた仕切り、備え付けのソファとテーブルにテレ部に冷蔵庫。普通の病室にしては、妙に設備が整っている。わざわざ日向が特別室を手配してくれたのだろう。申し訳なさでいっぱいになっていると、日向は何かを思案するように、押し黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。「それは、俺を避けてたことに……。いや、こんな体調の時にやめ……」日向がそう言いかけたところに、病室のノックの音が聞こえて、白衣を着た医師が入ってきた。「点滴が終わったら帰れるぞ」落ち着いた低い声が静かな部屋に響き、私は思わずそちらへ視線を向ける。「ああ、ありがとう」日向もまた、ごく自然にそう返す。この短いやり取りだけで、私はこの医師が日向の知り合いなのだとすぐに理解した。「医師の瀬尾です。日向とは大学の友人です」丁寧にあいさつをしてくれる瀬尾先生に、私もお礼を伝える。ふと枕元の時計に目をやると、長針と短針はすでに23時を回っている。とっくに瑠香も両親も眠っているはずで、こんな時間に突然帰宅すれば、母を起こしてしまうのは明らかだった。タクシーを手配し、できるだけ静かに帰ろう――そう考えたものの、日向の性格を考えれば、そんな勝手な行動を許すはずがないと思い直し、私は結局何も言わずに点滴の残量を見つめた。「あと十五分ってところだな」瀬尾先生が慣れた手つきで点滴の残りを確認しながら淡々と告げる。「日向、じゃあな」「おう、悪かったな」瀬尾先生は軽く片手を挙げると、そのまま部屋を出ていった。なんとなく意味ありげな言い方に聞こえたのは気のせいだろうか――そう思いながらも、「ありがとうございました」と頭を下げる。扉が閉まると同時に、病室には再び静かになる。その沈黙を破るように、日向がゆっくりと口を開いた。「点滴が終わったら……俺の家でもいいか?」「え?」思わぬ提案に、私は意味を理解できず、反射的に問い返してしまう。「おばさんには入院だと思っていたし、俺が見ると伝えた。こんな時間に帰るのも迷惑だろう。瑠香ちゃんもすでに眠
last updateLast Updated : 2025-02-04
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第二十八話

点滴が外れた腕を軽くさすりながら、私はそっとベッドの端に腰掛けた。まだ少しふらつく感覚はあるものの、立てないほどではない。「歩けそうか?」日向が私の様子を見ながら静かに問いかける。「大丈夫」そう答えながら立ち上がったものの、一瞬視界が揺れた。足元がふらついたその瞬間、日向は反射的に手を伸ばした。けれど、私の腕に触れる直前で、その手はわずかに宙で止まり迷うように引っ込められた。その行動をさせたのは、最近避けていた私なのかもしれない。「行こうか」そう言う日向の声は、いつもと変わらない落ち着いたものになっていて、私は何も言わず、その後ろをついて歩く。エレベーターで一階へ降り、人気のない廊下を抜けると、病院のエントランスに出た。時間も時間ということで、シーンと静まっていて無言の時間が気まずくて仕方がない。「座って待ってて」日向がそう言いながら、入り口近くのベンチを指し示す。その一言を残し、彼は駐車場へと向かっていった。私は言われるがままにベンチへ腰を下ろし、遠ざかる日向の背中を見送りながら大きく息を吐いた。――何やってるんだろう。いつもなら、とっくに眠っている時間だ。日向から離れなければ、そう思うのにここ数日、私は日向のことを考えない日はなかった。考えまいとするほど、思い出してしまう。忘れようとして、避けて、それなのに結局こうして彼に迷惑をかけている。こんなふうに、少しでも優しくされると、心が揺れる。――ダメだ。私は瑠香の母親であり、何も持っていない。日向のそばにいられるような立場じゃない。夜の静けさが、そんな思いをより鮮明にさせる。――でも、もし私が素直になったら日向はどうする?そんなことをふと考えてしまった自分に気づき、私は慌てて視線を落とした。やっぱり、日向の家に行くなど間違っている。もし、誰かに見られたりしたら、それこそ取り返しがつかない。このまま帰ってしまおうか……。そう思った時、近くで車のエンジン音が聞こえた。車のライトが静かに私の足元を照らし、その光の先に、運転席から降りた日向の姿が浮かび上がる。彼は無言のまま助手席側へと回り、ドアを開けると、私をじっと見つめながら待っていた。逃げるなら今しかない。そう思ったはずなのに、日向の姿を見た途端、先ほどまでの決心などどこかに消え去り、気づけば私は立ち上がってい
last updateLast Updated : 2025-02-09
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第二十九話

「生活感ないだろ?」日向がそう言いながら、苦笑して「寝るだけだから」と付け加えた。言葉どおり、ただ眠るための場所。高級なレジデンスも、きっと彼にとってはさほど意味をなさないのかもしれない。小さな家でも両親がいて、瑠香がいて、毎日笑い声が響く――そんな暮らしを送る私は、心が満たされていた。だからこそ、この無機質で静まり返った空間が、どこか寂しく感じられて胸がきゅっと締めつけられた。「部屋に案内する」そう言うと日向は私をゲストルームへと案内してくれた。もしかしたら、彼の部屋とは別の場所にあるのかもしれない。そんなことを思ったが、予想は外れリビングの奥にゲストルームはあった。そこは、まるでホテルの一室のような空間だった。広々としたベッドに柔らかな照明、奥には個室のバスルームまで備えられている。「何か食べるもの買ってくるから、眠ってて」「そんなのいいよ」「でも、何も夕飯食べてないだろ?」そう言われてふと考える。確かに今日はほとんど何も食べていない。そして気づけばもうこんな時間だった。日向も夕飯は食べていないはず――そう思い、私は言い返す。「それは日向もでしょう」すると、日向はふっと笑い肩をすくめた。「じゃあ、俺が食べたいから買ってくる。彩華も何かいる?」「……うーん」何を食べたいのかすぐに浮かばず考えていると、日向は少し懐かしそうに目を細める。「ヨーグルトとか? 彩華、小さいころ、りんごの入ったやつ好きだったよな」遠い記憶を引き出すような、その優しい声に一瞬だけ胸が温かくなった。「うん、今も好きだよ。瑠香もね」「そっか、瑠香ちゃんも。俺も好きだな」何気ない会話なのに、妙に切なくなり私はそっと目を伏せる。「悪い、体調悪いよな。横になれよ」私が俯いたのを日向は体調が悪いせいだと勘違いしたのか、少し慌てたように言った。「アメニティとかも揃ってると思うけど、足りないものがあったら言って。シャワーも使っていいから」それだけ言い残し、日向は「じゃ、行ってくる」と短く告げて部屋を出ていった。扉が閉まると、途端に静寂が広がる。――今、日向の家にいるんだ。その事実を改めて自覚し、そわそわと落ち着かなくなる。眠ってしまおう。そう思ったが、仕事用の服のままベッドに入るのも申し訳なく、部屋着だけ借りることにした。クローゼットを開ける
last updateLast Updated : 2025-02-11
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第三十話

すぐそばにある食品ストアに、どれくらいぶりかわからないほど久しぶりに足を踏み入れた。入口近くに並ぶ買い物かごを手に取ると、少しだけ場違いな気がした。自分も食べる――そう言ったものの、食欲はそれほどない。それよりも、体調の悪い彩華に、何を買うべきかそれだけを考えながら店内を歩く。広い売り場には、肉や魚をはじめ、惣菜や飲み物など、あらゆる商品が並んでいる。だが、普段こういった店に来ることがないせいで、どこに何があるのかすらわからない。生活能力は低いよな……。そんな自分に呆れながら、俺は小さく息を吐いた。商品棚を見渡しながら歩き、ようやくヨーグルトコーナーにたどり着く。しかし、そこに並ぶ商品の多さに驚かされた。ヨーグルトだけで、こんなに種類があるのか――。迷いながら視線を巡らせていると、ふと見覚えのあるパッケージが目に入った。昔、彩華がよく食べていたものだ。手に取ると、なぜか懐かしさが込み上げてくる。あの頃、俺たちはまだ子どもで、何も考えずにただ笑い合っていた。ヨーグルトをかごに入れたあと、おにぎりやおかゆのレトルト、スポーツ飲料など、体調を崩しているときに食べやすいものを適当に見繕う。それらを買い揃え、足早に店を後にした。車に乗り込み、運転しながら考える。あの日、三人で出かけたとき――。あのときは、確かに彩華との距離が少し縮まったと思った。瑠香ちゃんも俺になついてくれたし、彩華も、昔のように笑ってくれた気がする。なのに、どうして――。最近は、はっきりと避けられているのはわかっている。やっぱり、俺の過去の行いを思い出して、許せないのだろうか。それでも仕方がない。どんなに時間がかかっても、俺は彩華に許しを請うつもりだ。しかし、俺と同じように、彼女を想っている神代の存在が俺を焦らせているのも事実だった。「ダサいな……俺」車内に、苦笑混じりの独り言が落ちる。地位や名誉や金、そんなものでは買えないものがあることなんて、小さいころから理解していた。だからこそ、努力して、それらを手に入れることで埋めようとしてきた。でも――。彩華のことになると、昔からうまくできない。今日だって、てっきり入院すると思っていたから、彩華の母親に「俺が面倒を見る」と伝えた。しかし、俺のことを知っている瀬尾は、気を利かせて退院させたのだろう。駐車場
last updateLast Updated : 2025-02-15
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