All Chapters of 見えない世界で出会った二人の約束: Chapter 1 - Chapter 10

18 Chapters

第一夜

朝の光が薄いカーテン越しに差し込んできた。私はそのまぶしさに顔をしかめながら、ぼんやりと瞳を開いた。体が重く、頭がぐらぐらする。この感覚は…酒のせいだとすぐに分かった。昨夜、相当飲んだんだな、と自分に呆れながら体を起こそうとした瞬間、隣に誰かがいることに気づいて、心臓が止まるかと思った。「え…?」ベッドの中、私の隣に見知らぬ男性が寝ている。背が高く、広い肩が布団の下から覗いているのが見えた。混乱した頭の中で必死に昨夜の記憶をたどろうとするが、アルコールのせいか、細部がぼやけている。なんで私、こんなところにいるの?混乱する中でふと、彼の首元に目が留まった。そこには、見覚えのあるチェーンがぶら下がっている。それは…私の祖母の形見の指輪。昨夜、私は酔った勢いでこの人にそれを渡してしまったのだ。思い出して、冷や汗がじわりと出る。「やばい…」その指輪を取ろうと、彼に手を伸ばすと気配を感じたのか、彼が寝返りを打った。私は慌ててベッドから抜け出し、できるだけ静かに服を手に取った。ドアの方に向かおうとするけど、頭の中では昨夜の出来事が断片的にフラッシュバックしてくる。彼とは確か、バーで出会った…。「お待たせしました、ジントニックです。」カウンター越しに低い声が聞こえ、私は顔を上げた。サングラスをかけたバーテンダーが、グラスをそっと私の前に置く。背が高くて、スーツ姿がよく似合う彼に、私はいつも目を奪われてしまう。サングラスをかけているせいで、表情はよくわからないけど、どこか寡黙でクールな雰囲気がある。何度か来たことのある、会社の近くのバー。店内は明かりが落とされていて落ち着く空間だ。彼と一緒に、もう一人同じぐらいの男性がいるこの店。私もいつもは誰かと来るため、あまり気にしていなかったが、今日は訳あって一人。アルコールも手伝って声をかけていた。「ありがとうございます。でも…なんでサングラス?」私は、つい好奇心でそんなことを聞いてしまった。だって、室内なのにサングラスって普通じゃない。彼は静かに口を開いた。「視力が弱くて」一瞬、私は何も言えなくなった。気まずくて、どう返事をすればいいかわからない。無意識に、グラスを口元に運びながら、私は彼をちらりと見た。彼は気にする様子もなく、穏やかに立っていた。「ごめんなさい…そんなつもりじゃなかったの。」「
last updateLast Updated : 2024-10-07
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第二夜

部屋を出た私は、冷たい朝の空気を吸い込みながら、昨夜の出来事を振り返っていた。どうしてあんなことをしてしまったんだろう。思わず顔を覆いたくなるような後悔が、胸の奥でじわじわと広がる。指輪を彼に渡してしまったことも、今になってようやく重くのしかかってきた。あれは、私にとって祖母からの大切な形見だったのに。酔いがさめた今、その重大さが痛いほど感じられる。「私、どうかしてた…」呟くと同時に、ふと昨夜の彼の優しい声が耳に蘇る。私の愚痴を黙って聞いてくれて、どんなに酔っても優しく対応してくれた彼。目が見えないのに、まるで私の心の中まで見透かすような、そんな不思議な感覚があった。Side 陽介半年前、俺は事故で視力を失った。突然訪れた暗闇の中で、生きる意味も自信も失ったような気がした。自分がこれまで築いてきたものが、すべて手の届かない場所へと消えていくような感覚だった。それでも、どうにか立ち直ろうと決意し、今はバーテンダーとして働いている。店のカウンター越しに、彼女――名前も知らない女性がどんな人なのかをぼんやりと想像していた。いつも通り、声や気配から客の様子を察してきたが、彼女の声にはどこか疲れや寂しさが滲んでいた。酒の匂い、重く響く愚痴、そして時折漏れるため息。「家が厳しいんだよね…お見合いだって、恋も結婚も好きに選べないし。っていっても、恋なんてしたことないんだけどね」彼女は自分の悩みを打ち明けるように語り続けた。俺はあえて黙って聞いていた。バーテンダーとして、人の話を受け止めるのは慣れている。客の感情を聞き流すのも仕事の一部だと思っていたからだ。けれど、彼女の声には何か特別なものを感じていた。心の奥に触れるような、そんな響きがあった。気づけば、俺は彼女のことをもっと知りたいと思っていた。しかし、それが俺自身の感情なのか、それとも彼女の孤独が自分に投影されているだけなのかは、まだわからなかった。「自由になりたいだけなのに、恋もしてみたい…」彼女の声が震えた。その瞬間、俺は自分もかつて同じような感情を抱いていたことを思い出した。目が見えなくなった時、自分の自由も奪われたように感じた。だからこそ、彼女の言葉に共感してしまったのかもしれない。「そんな時もあるよ。自分を責めない方がいい。」そう声をかけた時、彼女がどんな反応をしたのかは見えなかったが、
last updateLast Updated : 2024-10-07
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第三夜

「どうしよう…」あの日、妊娠がわかった瞬間、私は頭の中が真っ白になった。まさか、こんなことになるなんて――あの一夜の出来事を後悔しても、もう遅かった。でも、心のどこかでは、子どもを産みたいという思いが強く残っていた。どうしようもない不安と恐怖の中で、私は一つの決断を下した。「私は、この子を産む。」そう思った瞬間、まるで自分が新しい人生を背負ったような感覚に襲われた。だけど、それと同時に、私の人生も大きく変わることを理解していた。家に戻り、両親にそのことを告げたとき、ふたりの顔が凍りついたのを今でも覚えている。「美優、お前、大切な見合いだといってあったのに……」父が今まで見たことないほど、怒りに震えているのを見て、自分のしでかしたことがどれほど罪深いことかを悟った。でも……。「勘当だ。もう二度と帰ってくるな。」その言葉と少ない荷物だけで、私は家を追い出された。あの一夜がすべてを変えてしまった。だけど、私はこの子を諦めることはできなかった。 四年後ーー 妊婦で身寄りもない人間を雇う会社などほとんどない。私がなんとか見つけた仕事は、清掃員の派遣だった。息子の当麻が一歳半になるまでは、なんとか蓄えと、内職などで食いつないでいたが、そのころには難しくなった。それ以来、この仕事をしている。派遣先は変わっていくが、基本仕事内容は変わらない。今の職場は一カ月前ほどからだ。「ママ、早く!」息子の当麻の声に、私はキッチンでバタバタと朝ごはんの片付けをしていた。三歳の当麻は、最近保育園に通うのが楽しいらしく、毎朝私を急かしてくる。「ちょっと待って、当麻。あと少しで準備終わるから!」私は慌てて最後の食器を流しに置き、急いで当麻のリュックに必要なものを詰め込んだ。朝の忙しさに追われながらも、当麻の笑顔を見ていると、どんなに大変でも頑張れる気がする。「はい、行こう!今日は先生に何を見せるの?」「今日は、お絵描き!」当麻は自信満々にリュックを背負い、玄関へと駆け出した。私も急いで靴を履き、家を出る。保育園まではほんの数分の道のり。当麻を送り届けた後、城崎ホールディングスのビルへ向かう。そして、何度見てもそのビルの大きさに驚いてしまう。(どれだけの高さがあるの……)このビルは、オフィス棟、商業棟とあり、百貨店やホテル、飲食店はもちろん、企業も大手ばかりはい
last updateLast Updated : 2024-10-08
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第四夜

「おはようございます」ギリギリだ……。朝は本当に戦争のようだ。今日は10分寝坊してしまったのがまずかった。更衣室のロッカーを開けて、扉の裏についた小さな鏡に映る自分を見てため息が零れる。髪は振り乱れ、ほとんどノーメイク。確かにこの会社にいる煌びやかな女性たちから見たら、地味とか言われるのも仕方がない気もする。心の中で盛大にため息を吐いて従業員の事務所に行くと、この会社の清掃員たちのリーダーを務めている三宅さんが私を呼ぶ。「今日、CEOの部屋の担当のみどりちゃんがお休みなの。代わってくれる?」「CEOの部屋ですか? 私なんかでいいんですか?」CEOの部屋は厳重にセキュリティも施されていて、入れるスタッフも限られている。昨日ちらりと見た彼を思い出して尋ねると、三宅さんは苦笑した。「あなた以外、適任がいないのよ。ここの職場は短いけど、この仕事の歴は長いし、丁寧で完璧って社長からも聞いてるから」素直に自分の仕事を評価してもらったことは嬉しい。「わかりました」そう答えると、私はセキュリティキーとCEOのスケジュールを預かり、事務所を後にした。CEOの部屋があるフロアはエレベーターを降りた瞬間から違っていた。ふかふかの絨毯に、大きな会社のゴールドのロゴ。その向こうにはすりガラスになった扉。なんとなく場違いな気がしてしまって、安請け合いをしてしまった自分に後悔をする。しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。そう思いつつ、私はセキュリティカードをかざした。「失礼します……」スケジュールから、CEOは会議だとわかっていたが、小声でそう言い部屋へと足を踏み入れる。広々とした部屋は、ピカピカに磨かれたデスクや大きな窓から見える都会の景色が、まるで別世界のように感じさせる。「掃除するところある?」独り言ちながら、私は部屋全体を見回した。しかしいくら綺麗でも仕事だ。掃除機をかけたり、机を拭いたりといつも通りに仕事を始めた。「あっ、意外にここ汚れてる……」立派なチェアの足が汚れていると気づき、そこを重点的に拭いている時だった。「冗談だろ?」冷たく、本当に嫌そうな声音が聞こえて、私は思わずビクッとして起き上がると、上にあった机に思いっきり頭をぶつけた。「痛っ!!」つい声が漏れてしまい、慌てて口を覆った。しかし時はすでに遅かった。「誰だ!!」
last updateLast Updated : 2024-10-09
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第五夜

「あの、今何をおっしゃいましたか?」私の声は少し震えていた。それでも、なんとか冷静を装おうと必死だった。目の前の男性、CEOは、私の問いには一切答えず、スマホを耳に当てて誰かに短く指示を飛ばしていた。その間、私は足元から冷たい空気が這い上がるような感覚を覚えていた。ドアが開き、一人の男性が入ってきた。整ったスーツ姿で、無駄のない動作でCEOにタブレットを渡す。CEOはそれを受け取ると、画面を操作しながら口を開いた。「シングルマザー……」それだけの言葉を呟くと、彼は視線をタブレットから外さずに続けた。「だから何でしょうか」 私は冷たい声で言い返した。心臓は早鐘のように鳴っていたが、それを悟られるわけにはいかなかった。「仕事はきちんとしています。それに、私がどんな立場であろうと、あなたには関係ありません」その言葉に、彼の手が一瞬止まるのが見えた。だが次の瞬間、彼の低く落ち着いた声が耳を打った。「でも、あなたはお金に困っているのではないですか」心臓がギュッと掴まれるような気がした。その通りだ。私は息子のために必死で働いているが、それでも十分とは到底いえない。貯蓄が底をついた今、その現実を、この男に突きつけられるのは屈辱だった。「確かに裕福ではありません。でも、それがどうしました? 私は施しを受けるためにここにいるわけではありません」自分の言葉が少し震えているのを感じながらも、私は彼を睨みつけた。その時、不意にどこかで会ったような記憶がよみがえる。サングラスで瞳は見えなかったが、なんとなく面影が……。そこまで思い出して、それが四年前、一夜をともにしたバーテンダーだと悟る。しかし、この人ははっきりと目が見えているし、アルコールのせいで記憶も曖昧だ。気のせいだろう。そう思い直す。「仕事の提案です」そんな私をよそに、CEOは冷たい視線を向けた。彼の目は鋭く、そこに一切の情けも感情も感じられなかった。「私と結婚してください」「さっきの演技は彼女を断るためですよね」驚きすぎて声が裏返った。耳が聞き間違えたのかと思ったが、彼は表情一つ変えずに続けた。「形式上の結婚です。お互いの利害を一致させるための契約だと思ってください」「……何を言ってるんですか」意味がわからない。いや、わかりたくないと思った。私がどれほど努力して生きてきたか、この人には
last updateLast Updated : 2024-11-22
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第六夜

帰りに答えを聞くと言われても、彼の連絡先すら知らないし、そもそも私は保育園に息子を迎えに行かなければならない。そんなことを考えながら、私はそのまま帰ろうとしていた。特に何も問題なく保育園に到着し、いつものように保育士さんたちに挨拶をする。玄関の奥から、子どもたちの笑い声が響いていた。園庭には滑り台やブランコ、カラフルな砂場があり、数人の子どもたちがまだ遊んでいる。滑り台の上で順番を待つ子や、砂場で一生懸命シャベルを動かす子の姿が目に入った。夕方の光が、遊具や子どもたちを柔らかく照らしている。その中に、保育士さんに手を引かれて歩く小さな背中が見えた。息子だ。私を見つけると、少し立ち止まり、保育士さんの手を離してこちらへ走ってくる。「お待たせ、当麻。帰ろうね」 ふと視線を動かすと、園庭の端で父親に抱き上げられ、笑い声をあげている子どもが目に入った。父親の腕にすっぽり収まったその子を当麻が見ていることに気づく。 父親がいないことを、三歳になった当麻はそろそろ理解するはずだ。それに、祖父もいない当麻はあまり男の人と関わってきていない。 どう思っているのだろう、そう思ったとき、小さな手が無意識にぎゅっと握られているのがわかった。「さ、帰ろう」 切ない気持ちを隠しつつ、私は笑って当麻に声をかけた。「うん」 手を繋いで保育園を出ようとしたとき、一台の車が目に入った。車体はぴかぴかに磨かれていて、明らかにここには不釣り合いな高級車だ。車体にはブランドのエンブレムが輝いている。もちろん、私には関係ないよね。 そう思って歩き出そうとしたそのとき、運転席のドアが開き、一人の男性が降りてきた。どうしてここにーー!? 現れたCEOを見て、私は呆然として足を止めた。一瞬、頭の中が真っ白になる。いるはずのない人がいる現実に理解が追いつかず、私はその場に立ち尽くした。しかし、周囲から聞こえきた声に我に返る。「ねえ、あの素敵な人、誰のパパ?」 「見たことないわよね」確実に私に用事があって来たのだろうが、この状況で何をどうするつもりなのかわからない。 確かに、返事は帰りと言われていた。だからと言って、どうしてこんなところに来るのよ……。 文句を言いたい気持ちは山々だったが、この場でそんなことはできるはずもない。息子の手をぎゅっと握り、何も見なかったふりをして
last updateLast Updated : 2024-11-23
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第七夜

城崎ホールディングスは、世界を股に掛ける商社だ。ありとあらゆる分野に進出しており、私の父も彼の父には頭が上がらなかった。だからこそ、「失礼はないように」そう何度も言われたものだ。その時出会った彼は、私と三つしか年が変わらず、まだ十歳にもなっていなかったと思う。名前は城崎陽介といっただろうか。もちろん話すことなどしないし、遠くから見ただけだったが、凛として大人びた印象があり、笑った顔も見た記憶はない。父はやたらと挨拶をするようにと言っていたが、結局、私はただ萎縮してその場をやり過ごしただけだった。やはり、あの頃から父は、娘の私を政略結婚の駒としか考えていなかったのかもしれない。母だって、父の言いなりで、私が妊娠を告げた時も、助ける気はさらさらなかった。父はきっと城崎ホールディングスの御曹司との結婚話がきたら、飛びついただろう。それが叶わなかったから、私を二十も年上の離婚歴のある男に嫁がせようとしたのだ。父が願って仕方がなかった縁談が今目の前にある。その事実だけを見れば、なんとなく皮肉な気がした。しかし、今はもう実家とは縁を切られ、私には何の関係もない。だからこそ、こんなことに巻き込まれるのはごめんだ。「城崎の御曹司なら、どんな令嬢でも選べるでしょう。私なんかでは、ご両親が反対するでしょう?」少し皮肉めいて言うと、彼はあっさりと「そうだな」と答えた。「じゃあどうして?」「だからだよ」「え?」ますます訳が分からなくて、私は毒気を抜かれて問いかけた。「今から契約書を用意する。君たち親子にも悪いようにはしない」「だから、結婚しないって言ってますよね?」ついムキになって言い返したとき、彼の車は大きな門をくぐって中へと入って行った。そこは、都心とは思えないほどの緑の木々が広がっていた。車が止まったのは、広大な敷地に立つ大きな屋敷だった。目の前にそびえるその建物に、一瞬言葉を失う。大理石の階段、手入れの行き届いた庭園、磨き抜かれた窓ガラス、すべてが現実離れしていて、まるで映画の中に迷い込んだようだった。「中で話そう」「どうしてこんなところで話をする必要があるんですか?」「ここが一番セキュリティに問題がない。それだけだ」何とも冷たい返答に、私はそれ以上何も言えなくなり、車を降りると、仕方なく彼について行った。玄関をくぐると、執事と家政婦が出迎
last updateLast Updated : 2024-11-26
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第八夜

一か月が経っても、彼がこの家に姿を現すことはなかった。婚姻届にはサインをしたし、彼の秘書が派遣先などの手続きを全て済ませたことも知っている。それでも、彼との接点はまるでなく、彼の存在すら薄れるほど静かな日々だった。一方で、会社では別の噂が広がっていた。「CEO、結婚したらしいよ」 「え、本当? 誰が相手なの?」 「わからない。でも、派手なパーティーもないし、なんか不自然だよね」そんな声がオフィスの中で飛び交い、私の耳にも嫌でも入ってくる。CEO室に近い場所で仕事をしている清掃員の私に、好奇心旺盛な社員たちの視線が時折向けられるのを感じた。まるで「何か知らないか」と言いたげに。もちろん、私は聞こえないふりをして黙々と掃除を続けるだけだった。私がその「結婚相手」だとは誰も思っていないし、私からその事実を明かすつもりもない。もしもそんなことを知られたら、会社中がパニックになるだろう。家では相変わらず穏やかな時間が流れていた。広々とした静かな家にすぐ馴染んだ当麻は、家政婦の安田さんともすっかり打ち解けている。彼女はとても気さくで、優しい笑顔を絶やさない女性だ。当麻のことを自分の孫のように接してくれるその姿に、私は何度も救われた。ときどき二人が笑い合う声を聞くだけで、この結婚が悪い選択ではなかったと思うこともある。ただ、どうして彼が結婚を提案したのかという疑問だけは消えない。それを考え始めると、また頭がぐるぐると働き出しそうになるので、私は自分に言い聞かせた。(考えたところで、何も変わらない)そう割り切って、私はいつも通りの生活を続けていた。清掃の仕事も変わらず、CEO室に行くこともなければ、彼に会うこともない。彼との結婚は、私の生活にほとんど影響を与えない形になっていた。そして迎えた土曜日、久しぶりに当麻と一日をゆっくり過ごせる日だった。「今日は何しようか?」 朝食を片付けながら当麻に話しかける。彼はスプーンを手にしたまま、楽しげに「公園に行きたい!」と元気よく答えた。「じゃあ、お弁当を作って出かけようか」 そう提案した瞬間、安田さんが少し慌てた様子で入ってきた。「奥様、少しよろしいでしょうか」「どうしたの?」「お客様が……」お客様? 誰だろう、と訝しむ間もなく、背後からヒールの音が近づいてきた。その音に振り向くと、そこにいたの
last updateLast Updated : 2024-11-30
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第九夜

重い静寂が広がる――勝手知ったと言わんばかりの様子で、二人はドカッとソファに座り、私を睨みつけた。「こんな人が陽介の妻なんて……あの子も何を考えているのかしら。綾香さんの方が数倍いいのに」一人は、陽介の母親――城崎家の奥様。冷たく厳格な眼差しで、私をジロリと見た後、神崎さんに笑いかける。「お母様、私も陽介さんにそう言ったんですけど……彼は私が一度お断りしたことを根に持っているんですかね」彼が神崎さんに断られた。確かにその可能性はゼロではないし、それが悔しくて、彼女とは全くタイプの違う私と契約結婚したというのも理解できる。それが本当だとしたら、私にとっていい迷惑だ。しかし、当麻は今の生活に慣れているし、私が働きづめで寂しい思いをしていたときよりもとても明るくなった気がする。(今は私が我慢をすれば平穏な生活ができる……)私は胸の中で苦い思いを抱きながら、視線を逸らした。この結婚をした日、私も彼についても調べなおした。もちろん、名門の家の生まれということは知っていた。しかし、彼は成長してからの経歴もエリートそのものだった。国内外の名門大学を卒業し、数々のプロジェクトを成功させ、若くしてCEOに就任している。彼が優秀であることは疑いようがない。しかし、その華々しい経歴の中に空白の数年間の時間などもあり、わからないことも多いし、この人たちの関係性もわからない。いらないことを言うのは危険だろう。「今日は彼は仕事ですが」厳密に言えば、彼がこの家に来ることはほとんどないし、彼が今どこにいるのかも知らない。それが事実だった。「ここは城崎家の持ち家よ。私が来ることに何か問題があるのかしら? あの子がここに帰ってきていないことを知らないとでも?」勝ち誇ったようなお母様に、そこまで知ったうえでここに来たことを悟る。「ねえ、お茶ぐらい入れれないの?」神崎さんが、ソファに座り私に蔑んだ視線を向ける。「わかりました。少しお待ちください」安田さんに、子守をお願いしたから彼女はいない。ここが自分の家だというなら、自分でやればいいのに。そんなことを思ってしまうが、何かを言うのも得策じゃないだろう。そう思いつつ、私は部屋を後にした。私は盆にお茶を載せてリビングへ戻った。足元に視線を落としながら歩くたびに、微かに茶器が触れ合う音が響く。扉を開けると、神崎さんと義母
last updateLast Updated : 2024-12-02
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第十夜

閑話 ーーー 佐和子(陽介義母)綾香さんが奥に引っ込んでいった美優を睨みつけながら、苛立ちを隠せずにいる。そんな彼女に私は声をかけた。「綾香さん、そんなに感情的にならないで」 私は努めて優しい声を出し、ソファに腰を下ろした彼女をなだめる。「だって、あんな女が奥様だなんて信じられません! それに陽介さんだって、どうしてあの人を選んだのか……」 「分かっているわ、綾香さん」 そう言いながら、私は彼女に向かって小さく微笑んだ。その表情は、彼女を慰めるためのものではない。むしろ、私は彼女を操るための糸を丁寧に引いている最中だ。感情的で短絡的な思考を持つ彼女は、陽介を壊すにはもってこいの人物だ。「あなたほどの女性が、こんなにも陽介を想ってくれているなんて……あの子も幸せ者ね」 わざと感嘆するように言葉を続ける。綾香の頬が少しだけ赤く染まるのを見て、私は心の中でほくそ笑んだ。「本当に陽介さんのためを思っているだけなんです」 彼女はそう言いながら拳を握りしめる。その情熱が本物であればあるほど、私には都合が良い。「ええ、わかるわ。でも、陽介のためにどうすればいいのかを考えるべきじゃないかしら? あなたができることがあるはずよ」 私は彼女にそう語りかけ、わざと考える間を与えた。彼女の頭の中には、私の言葉が渦を巻き始めているはずだ。「……たとえば、あの女を追い出す、ということですか?」 綾香が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめる。その目には、彼女自身も気づいていない危うい光が宿っている。「まあ、そう急がなくてもいいわ」 私は柔らかく否定しながらも、彼女に希望を持たせる言い方をする。 「何事もタイミングが大事よ。まずは、陽介にとって本当に必要な人間が誰なのかを、周囲に理解してもらわないと」「それって……」 綾香の目が期待に輝く。彼女はまんまと私の言葉に引き込まれている。「ええ、綾香さん。あなたの美しさも賢さも、周りに認められるべきだと思うの。もちろん、陽介にもね」 私は彼女を褒め称えながら、同時に彼女の中に野心の炎を再び燃え上がらせた。私にとって、彼女が暴走してくれるほど、計画はうまく進むのだ。(陽介があの娘を庇うようなら、それはそれでいいわ。それが周囲にどう映るか……どちらに転んでも私たちに利がある) 心の中でそう呟きながら、私はもう一度綾香に
last updateLast Updated : 2024-12-09
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