「おはようございます」
ギリギリだ……。朝は本当に戦争のようだ。今日は10分寝坊してしまったのがまずかった。
更衣室のロッカーを開けて、扉の裏についた小さな鏡に映る自分を見てため息が零れる。
髪は振り乱れ、ほとんどノーメイク。確かにこの会社にいる煌びやかな女性たちから見たら、地味とか言われるのも仕方がない気もする。
心の中で盛大にため息を吐いて従業員の事務所に行くと、この会社の清掃員たちのリーダーを務めている三宅さんが私を呼ぶ。
「今日、CEOの部屋の担当のみどりちゃんがお休みなの。代わってくれる?」
「CEOの部屋ですか? 私なんかでいいんですか?」
CEOの部屋は厳重にセキュリティも施されていて、入れるスタッフも限られている。昨日ちらりと見た彼を思い出して尋ねると、三宅さんは苦笑した。
「あなた以外、適任がいないのよ。ここの職場は短いけど、この仕事の歴は長いし、丁寧で完璧って社長からも聞いてるから」
素直に自分の仕事を評価してもらったことは嬉しい。
「わかりました」
そう答えると、私はセキュリティキーとCEOのスケジュールを預かり、事務所を後にした。
CEOの部屋があるフロアはエレベーターを降りた瞬間から違っていた。ふかふかの絨毯に、大きな会社のゴールドのロゴ。その向こうにはすりガラスになった扉。
なんとなく場違いな気がしてしまって、安請け合いをしてしまった自分に後悔をする。
しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。そう思いつつ、私はセキュリティカードをかざした。
「失礼します……」
スケジュールから、CEOは会議だとわかっていたが、小声でそう言い部屋へと足を踏み入れる。
広々とした部屋は、ピカピカに磨かれたデスクや大きな窓から見える都会の景色が、まるで別世界のように感じさせる。
「掃除するところある?」
独り言ちながら、私は部屋全体を見回した。しかしいくら綺麗でも仕事だ。掃除機をかけたり、机を拭いたりといつも通りに仕事を始めた。
「あっ、意外にここ汚れてる……」
立派なチェアの足が汚れていると気づき、そこを重点的に拭いている時だった。
「冗談だろ?」
冷たく、本当に嫌そうな声音が聞こえて、私は思わずビクッとして起き上がると、上にあった机に思いっきり頭をぶつけた。
「痛っ!!」
つい声が漏れてしまい、慌てて口を覆った。しかし時はすでに遅かった。
「誰だ!!」
かなり大きな声で怒鳴られ、私はそろそろと立ち上がり頭を下げた。
「申し訳ありません。予定ではあと三十分はお戻りにならないと思っていたので」
私の格好から彼はすぐに誰かわかったようだが、いた場所が悪かった。
「俺の机で何をしてた?」
低く冷たい視線を向けられ、完全に疑われたとわかったが、私は掃除しかしていない。
「掃除です」
そう答えても、なおもCEOは疑いの眼差しで私に一歩一歩近づいてくる。
「いつもの人とは違うようだが?」
「それは急遽休みを……ですので私が代わりでして……誓って、何もしてません! 本当です!」
三十㎝ぐらいの距離で見下ろされて、私は首だけにはなりたくないと勢いよく頭を下げると、彼の身体がすぐそばにあった。
もう何やってるのよ……。
「あの、お仕事の邪魔だと思いますので、これでお暇……」
もう逃げるしかない、そう思った時だった。
「CEO失礼します!」
どこか甘さを含んだ、媚びを売るような声がして、私は慌てて一歩下がると、そこにチェアの足がありバランスを崩す。
倒れる!!
完全に後ろに傾いた身体が、支えられその瞬間彼の唇が私のそれに当たった。
「え……?」
その声を発したのは、今入ってきた人だった。私はあまりの出来事に声すらでなかった。
すぐにCEOから距離をとり、窓を拭く真似をした私だったが、もう何が何だかわからない。
入ってきた人は、あの、私に毒づいていた女性だった。噂話できいたところによると、この会社の社員であり、令嬢でCEOの婚約者候補の神崎綾香さんというらしい。
「神崎さん、どうした?」
さすがと言うべきか、今のことなどなかったようにCEOは椅子に座り彼女に問いかける。
「あの、先ほどの会議のことだったんですが……」
ちらりと彼女をみると、今日も高級なスーツに身を包み、完璧なメイクを施した顔。しかし、その表情は今のことを見てしまったからか笑っていない。そして、大きなため息を吐いた。
「今のは何ですか? 私たちに結婚のお話が出ているのがわかっていての行動ですか?」
彼女を見てから、同僚に話を聞いたところ、彼女の父は大手企業の社長で、父親同士が繋がっていて、二人の結婚を望んでいるという噂らしい。
「何の話だ?」
今の事故のことは知らないふりをするようだが、私もきっと彼女も心中穏やかではない。
私は黙って雑巾を動かし続けたが、二人の会話に耳を傾けてしまっていた。
「CEOのお父様やお母様も、私たちの結婚を望んでいます。それはもうご存じでしょう?家族ぐるみで進めているのですから、そろそろ遊びはやめていただかないと」
その瞬間、部屋の空気がピリッと張り詰めた。私は思わず手を止め、息を呑んだ。
確実に今の遊びというのは、相手が私なのだろう。後ろを向いているのに、睨みつけられているような気がする。
「そうだな」
「よかった、じゃあお父様にご報告を……」
「いや、君との結婚は無理だとはっきりさせる」
その一言に、綾香さんの顔が一瞬固まる。そして、彼女の笑顔が消え、目の奥に怒りが宿った。
「無理って、どういうことですか?」
神崎さんの声は鋭く、詰め寄るようにCEOに問いかけている。
ここはもうこの場から逃げるべきだ。そう思い、ゆっくりとその場を離れようとした時だった。
不意に、私は肩を抱かれて引き寄せられていた。
「遊びじゃないんだ。彼女と結婚する」
「えっ…?」
その言葉が耳に入ると同時に、私は固まってしまった。信じられない。私が?どうして?唖然とする私の前で、神崎さんは驚きなのか怒りなのかわからない表情を浮かべた後、すぐに冷たい笑みを浮かべた。
「この掃除婦が…?」
神崎さんはまるで私を値踏みするかのようにじっと見つめ、嘲笑うように微笑んだ。
「冗談でしょう。こんな人があなたの結婚相手だなんて、ありえない」
私はその言葉に言い返すこともできず、抱き寄せられたままになっていた。
「本当だ」
そう言うと、CEOは蕩けそうな微笑みを私に浮かべた。
どうして??何が起こってるの?
さっきまで、私のことを情報を盗もうとしたとか責めていた人とは、まるで同一人物だと思えないほどの微笑み。
しかし、それはどこかで見たことがある気もして、私は彼を見つめ返してしまった。
「認めないわ!!」
神崎さんはそう叫ぶと、部屋を出て行ってしまった。
「あの、今何をおっしゃいましたか?」私の声は少し震えていた。それでも、なんとか冷静を装おうと必死だった。目の前の男性、CEOは、私の問いには一切答えず、スマホを耳に当てて誰かに短く指示を飛ばしていた。その間、私は足元から冷たい空気が這い上がるような感覚を覚えていた。ドアが開き、一人の男性が入ってきた。整ったスーツ姿で、無駄のない動作でCEOにタブレットを渡す。CEOはそれを受け取ると、画面を操作しながら口を開いた。「シングルマザー……」それだけの言葉を呟くと、彼は視線をタブレットから外さずに続けた。「だから何でしょうか」 私は冷たい声で言い返した。心臓は早鐘のように鳴っていたが、それを悟られるわけにはいかなかった。「仕事はきちんとしています。それに、私がどんな立場であろうと、あなたには関係ありません」その言葉に、彼の手が一瞬止まるのが見えた。だが次の瞬間、彼の低く落ち着いた声が耳を打った。「でも、あなたはお金に困っているのではないですか」心臓がギュッと掴まれるような気がした。その通りだ。私は息子のために必死で働いているが、それでも十分とは到底いえない。貯蓄が底をついた今、その現実を、この男に突きつけられるのは屈辱だった。「確かに裕福ではありません。でも、それがどうしました? 私は施しを受けるためにここにいるわけではありません」自分の言葉が少し震えているのを感じながらも、私は彼を睨みつけた。その時、不意にどこかで会ったような記憶がよみがえる。サングラスで瞳は見えなかったが、なんとなく面影が……。そこまで思い出して、それが四年前、一夜をともにしたバーテンダーだと悟る。しかし、この人ははっきりと目が見えているし、アルコールのせいで記憶も曖昧だ。気のせいだろう。そう思い直す。「仕事の提案です」そんな私をよそに、CEOは冷たい視線を向けた。彼の目は鋭く、そこに一切の情けも感情も感じられなかった。「私と結婚してください」「さっきの演技は彼女を断るためですよね」驚きすぎて声が裏返った。耳が聞き間違えたのかと思ったが、彼は表情一つ変えずに続けた。「形式上の結婚です。お互いの利害を一致させるための契約だと思ってください」「……何を言ってるんですか」意味がわからない。いや、わかりたくないと思った。私がどれほど努力して生きてきたか、この人には
帰りに答えを聞くと言われても、彼の連絡先すら知らないし、そもそも私は保育園に息子を迎えに行かなければならない。そんなことを考えながら、私はそのまま帰ろうとしていた。特に何も問題なく保育園に到着し、いつものように保育士さんたちに挨拶をする。玄関の奥から、子どもたちの笑い声が響いていた。園庭には滑り台やブランコ、カラフルな砂場があり、数人の子どもたちがまだ遊んでいる。滑り台の上で順番を待つ子や、砂場で一生懸命シャベルを動かす子の姿が目に入った。夕方の光が、遊具や子どもたちを柔らかく照らしている。その中に、保育士さんに手を引かれて歩く小さな背中が見えた。息子だ。私を見つけると、少し立ち止まり、保育士さんの手を離してこちらへ走ってくる。「お待たせ、当麻。帰ろうね」 ふと視線を動かすと、園庭の端で父親に抱き上げられ、笑い声をあげている子どもが目に入った。父親の腕にすっぽり収まったその子を当麻が見ていることに気づく。 父親がいないことを、三歳になった当麻はそろそろ理解するはずだ。それに、祖父もいない当麻はあまり男の人と関わってきていない。 どう思っているのだろう、そう思ったとき、小さな手が無意識にぎゅっと握られているのがわかった。「さ、帰ろう」 切ない気持ちを隠しつつ、私は笑って当麻に声をかけた。「うん」 手を繋いで保育園を出ようとしたとき、一台の車が目に入った。車体はぴかぴかに磨かれていて、明らかにここには不釣り合いな高級車だ。車体にはブランドのエンブレムが輝いている。もちろん、私には関係ないよね。 そう思って歩き出そうとしたそのとき、運転席のドアが開き、一人の男性が降りてきた。どうしてここにーー!? 現れたCEOを見て、私は呆然として足を止めた。一瞬、頭の中が真っ白になる。いるはずのない人がいる現実に理解が追いつかず、私はその場に立ち尽くした。しかし、周囲から聞こえきた声に我に返る。「ねえ、あの素敵な人、誰のパパ?」 「見たことないわよね」確実に私に用事があって来たのだろうが、この状況で何をどうするつもりなのかわからない。 確かに、返事は帰りと言われていた。だからと言って、どうしてこんなところに来るのよ……。 文句を言いたい気持ちは山々だったが、この場でそんなことはできるはずもない。息子の手をぎゅっと握り、何も見なかったふりをして
城崎ホールディングスは、世界を股に掛ける商社だ。ありとあらゆる分野に進出しており、私の父も彼の父には頭が上がらなかった。だからこそ、「失礼はないように」そう何度も言われたものだ。その時出会った彼は、私と三つしか年が変わらず、まだ十歳にもなっていなかったと思う。名前は城崎陽介といっただろうか。もちろん話すことなどしないし、遠くから見ただけだったが、凛として大人びた印象があり、笑った顔も見た記憶はない。父はやたらと挨拶をするようにと言っていたが、結局、私はただ萎縮してその場をやり過ごしただけだった。やはり、あの頃から父は、娘の私を政略結婚の駒としか考えていなかったのかもしれない。母だって、父の言いなりで、私が妊娠を告げた時も、助ける気はさらさらなかった。父はきっと城崎ホールディングスの御曹司との結婚話がきたら、飛びついただろう。それが叶わなかったから、私を二十も年上の離婚歴のある男に嫁がせようとしたのだ。父が願って仕方がなかった縁談が今目の前にある。その事実だけを見れば、なんとなく皮肉な気がした。しかし、今はもう実家とは縁を切られ、私には何の関係もない。だからこそ、こんなことに巻き込まれるのはごめんだ。「城崎の御曹司なら、どんな令嬢でも選べるでしょう。私なんかでは、ご両親が反対するでしょう?」少し皮肉めいて言うと、彼はあっさりと「そうだな」と答えた。「じゃあどうして?」「だからだよ」「え?」ますます訳が分からなくて、私は毒気を抜かれて問いかけた。「今から契約書を用意する。君たち親子にも悪いようにはしない」「だから、結婚しないって言ってますよね?」ついムキになって言い返したとき、彼の車は大きな門をくぐって中へと入って行った。そこは、都心とは思えないほどの緑の木々が広がっていた。車が止まったのは、広大な敷地に立つ大きな屋敷だった。目の前にそびえるその建物に、一瞬言葉を失う。大理石の階段、手入れの行き届いた庭園、磨き抜かれた窓ガラス、すべてが現実離れしていて、まるで映画の中に迷い込んだようだった。「中で話そう」「どうしてこんなところで話をする必要があるんですか?」「ここが一番セキュリティに問題がない。それだけだ」何とも冷たい返答に、私はそれ以上何も言えなくなり、車を降りると、仕方なく彼について行った。玄関をくぐると、執事と家政婦が出迎
一か月が経っても、彼がこの家に姿を現すことはなかった。婚姻届にはサインをしたし、彼の秘書が派遣先などの手続きを全て済ませたことも知っている。それでも、彼との接点はまるでなく、彼の存在すら薄れるほど静かな日々だった。一方で、会社では別の噂が広がっていた。「CEO、結婚したらしいよ」 「え、本当? 誰が相手なの?」 「わからない。でも、派手なパーティーもないし、なんか不自然だよね」そんな声がオフィスの中で飛び交い、私の耳にも嫌でも入ってくる。CEO室に近い場所で仕事をしている清掃員の私に、好奇心旺盛な社員たちの視線が時折向けられるのを感じた。まるで「何か知らないか」と言いたげに。もちろん、私は聞こえないふりをして黙々と掃除を続けるだけだった。私がその「結婚相手」だとは誰も思っていないし、私からその事実を明かすつもりもない。もしもそんなことを知られたら、会社中がパニックになるだろう。家では相変わらず穏やかな時間が流れていた。広々とした静かな家にすぐ馴染んだ当麻は、家政婦の安田さんともすっかり打ち解けている。彼女はとても気さくで、優しい笑顔を絶やさない女性だ。当麻のことを自分の孫のように接してくれるその姿に、私は何度も救われた。ときどき二人が笑い合う声を聞くだけで、この結婚が悪い選択ではなかったと思うこともある。ただ、どうして彼が結婚を提案したのかという疑問だけは消えない。それを考え始めると、また頭がぐるぐると働き出しそうになるので、私は自分に言い聞かせた。(考えたところで、何も変わらない)そう割り切って、私はいつも通りの生活を続けていた。清掃の仕事も変わらず、CEO室に行くこともなければ、彼に会うこともない。彼との結婚は、私の生活にほとんど影響を与えない形になっていた。そして迎えた土曜日、久しぶりに当麻と一日をゆっくり過ごせる日だった。「今日は何しようか?」 朝食を片付けながら当麻に話しかける。彼はスプーンを手にしたまま、楽しげに「公園に行きたい!」と元気よく答えた。「じゃあ、お弁当を作って出かけようか」 そう提案した瞬間、安田さんが少し慌てた様子で入ってきた。「奥様、少しよろしいでしょうか」「どうしたの?」「お客様が……」お客様? 誰だろう、と訝しむ間もなく、背後からヒールの音が近づいてきた。その音に振り向くと、そこにいたの
重い静寂が広がる――勝手知ったと言わんばかりの様子で、二人はドカッとソファに座り、私を睨みつけた。「こんな人が陽介の妻なんて……あの子も何を考えているのかしら。綾香さんの方が数倍いいのに」一人は、陽介の母親――城崎家の奥様。冷たく厳格な眼差しで、私をジロリと見た後、神崎さんに笑いかける。「お母様、私も陽介さんにそう言ったんですけど……彼は私が一度お断りしたことを根に持っているんですかね」彼が神崎さんに断られた。確かにその可能性はゼロではないし、それが悔しくて、彼女とは全くタイプの違う私と契約結婚したというのも理解できる。それが本当だとしたら、私にとっていい迷惑だ。しかし、当麻は今の生活に慣れているし、私が働きづめで寂しい思いをしていたときよりもとても明るくなった気がする。(今は私が我慢をすれば平穏な生活ができる……)私は胸の中で苦い思いを抱きながら、視線を逸らした。この結婚をした日、私も彼についても調べなおした。もちろん、名門の家の生まれということは知っていた。しかし、彼は成長してからの経歴もエリートそのものだった。国内外の名門大学を卒業し、数々のプロジェクトを成功させ、若くしてCEOに就任している。彼が優秀であることは疑いようがない。しかし、その華々しい経歴の中に空白の数年間の時間などもあり、わからないことも多いし、この人たちの関係性もわからない。いらないことを言うのは危険だろう。「今日は彼は仕事ですが」厳密に言えば、彼がこの家に来ることはほとんどないし、彼が今どこにいるのかも知らない。それが事実だった。「ここは城崎家の持ち家よ。私が来ることに何か問題があるのかしら? あの子がここに帰ってきていないことを知らないとでも?」勝ち誇ったようなお母様に、そこまで知ったうえでここに来たことを悟る。「ねえ、お茶ぐらい入れれないの?」神崎さんが、ソファに座り私に蔑んだ視線を向ける。「わかりました。少しお待ちください」安田さんに、子守をお願いしたから彼女はいない。ここが自分の家だというなら、自分でやればいいのに。そんなことを思ってしまうが、何かを言うのも得策じゃないだろう。そう思いつつ、私は部屋を後にした。私は盆にお茶を載せてリビングへ戻った。足元に視線を落としながら歩くたびに、微かに茶器が触れ合う音が響く。扉を開けると、神崎さんと義母
閑話 ーーー 佐和子(陽介義母)綾香さんが奥に引っ込んでいった美優を睨みつけながら、苛立ちを隠せずにいる。そんな彼女に私は声をかけた。「綾香さん、そんなに感情的にならないで」 私は努めて優しい声を出し、ソファに腰を下ろした彼女をなだめる。「だって、あんな女が奥様だなんて信じられません! それに陽介さんだって、どうしてあの人を選んだのか……」 「分かっているわ、綾香さん」 そう言いながら、私は彼女に向かって小さく微笑んだ。その表情は、彼女を慰めるためのものではない。むしろ、私は彼女を操るための糸を丁寧に引いている最中だ。感情的で短絡的な思考を持つ彼女は、陽介を壊すにはもってこいの人物だ。「あなたほどの女性が、こんなにも陽介を想ってくれているなんて……あの子も幸せ者ね」 わざと感嘆するように言葉を続ける。綾香の頬が少しだけ赤く染まるのを見て、私は心の中でほくそ笑んだ。「本当に陽介さんのためを思っているだけなんです」 彼女はそう言いながら拳を握りしめる。その情熱が本物であればあるほど、私には都合が良い。「ええ、わかるわ。でも、陽介のためにどうすればいいのかを考えるべきじゃないかしら? あなたができることがあるはずよ」 私は彼女にそう語りかけ、わざと考える間を与えた。彼女の頭の中には、私の言葉が渦を巻き始めているはずだ。「……たとえば、あの女を追い出す、ということですか?」 綾香が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめる。その目には、彼女自身も気づいていない危うい光が宿っている。「まあ、そう急がなくてもいいわ」 私は柔らかく否定しながらも、彼女に希望を持たせる言い方をする。 「何事もタイミングが大事よ。まずは、陽介にとって本当に必要な人間が誰なのかを、周囲に理解してもらわないと」「それって……」 綾香の目が期待に輝く。彼女はまんまと私の言葉に引き込まれている。「ええ、綾香さん。あなたの美しさも賢さも、周りに認められるべきだと思うの。もちろん、陽介にもね」 私は彼女を褒め称えながら、同時に彼女の中に野心の炎を再び燃え上がらせた。私にとって、彼女が暴走してくれるほど、計画はうまく進むのだ。(陽介があの娘を庇うようなら、それはそれでいいわ。それが周囲にどう映るか……どちらに転んでも私たちに利がある) 心の中でそう呟きながら、私はもう一度綾香に
それからというもの、神崎さんは頻繁に家を訪れるようになった。来るたびに私を追い出そうとするような態度をとり、嫌味や冷笑を浴びせてくる。言葉の一つひとつが、私を試しているかのようだった。「本当にここに居続けるつもりなの? 自分の立場、分かってる?」神崎さんはリビングの高級ソファに深く腰を掛けながら、私を睨みつけるように言った。(どうしてこの人は……)心の中で呟いても、答えは出てこない。彼女に反論したい気持ちはあったが、何を言っても通じないだろうと思うと、言葉が喉に詰まったままだった。それでも、家の中では穏やかな時間が流れていた。当麻は変わらず安田さんに懐いていて、新しい環境にも馴染んでいる。それを見るたびに、私は「ここで我慢しよう」と自分に言い聞かせていた。そんなある日、会社でCEOの部屋の掃除を任されることになった。(嫌だな……)そう思わないわけがない。けれど、仕事だと割り切って、掃除道具を片手に彼の部屋に向かった。廊下を歩いていると、女子社員の噂話が聞こえてきた。「ねえ、聞いた? CEOが結婚したんだって」「えっ、本当? 誰と?」「それが分からないのよ」その言葉を聞いて、足が止まった。まさか、自分がその結婚相手だとは誰も思っていないだろう。そう思う一方で、神崎さんがそのうち誰かに話すのではないかという不安が胸をよぎる。(やっぱり彼のような立場の人との結婚なんてするんじゃなかった……)そう思いながら掃除を始めた。CEOの部屋はとても片付いていて掃除をする必要があるのか疑問に思うほどだ。それでも手を動かしながら、彼のデスクに目をやる。デスクには昔見たことのある封筒があった。日本でも有数の商社であるセントラル商事の創立記念パーティー。いつもホテルで盛大に行われるものだ。昔、何度か私も行ったことがある。クリスマスシーズンだった記憶があるが、もうその招待状が送られているのだろう。今の私にはまったく関係ないが、かなり大切なものだろう。そう思い、それに触れることなく掃除を終えた。掃除道具を手にして廊下に出た瞬間だった。背後から複数のヒールの音が響いてきた。振り返ると、そこにいたのは神崎さんと彼女の取り巻きだった。嫌な予感しかしないが、頭を下げて廊下を通りすぎるのを待っていた。しかし、ピタリと私の前で足音が止まる。やっぱり――。このま
Side 陽介俺はデスクに散らばる書類に目を通しながら、机に肘をついていた。表面上は冷静を装っていたが、内心では苛立ちを抑えるのに必死だった。さきほどの美優たちとのやり取りが頭から離れない。冷たい言葉を投げかけた自分を思い返し、ほんの少し胸が痛む。(大事なものを置いておくように言った俺が悪いのに……)あのときの、彼女の呆然とした顔が頭に浮かぶ。そのとき、控えめなノック音がデスクの沈黙を破った。「どうぞ」短く応えると、扉がゆっくり開いた。その先に立っていたのは継母の佐和子だった。「久しぶりね、陽介」彼女の口調は柔らかく、まるで本当の母親のようだ。けれど、その笑みの奥に潜む冷たさを、俺はよく知っている。「何かご用でしょうか」デスクから目を離さずに問いかける。その態度に気分を害した様子もなく、継母はソファに腰を下ろした。「ええ、少し挨拶をしようと思って。あなた、いいお嫁さんをもらったわね」継母の言葉に、俺は眉一つ動かさず応じた。「そうでしょう? だから僕のことは気にしないでもらえると助かります」その返答に、継母はクスクスと楽しげに笑う。「まあ、私はただ、あなたのことが心配なだけよ」俺は視線を上げ、冷静な表情で継母を見据えた。その目には一切の感情が宿っていない。「それはありがとうございます」心にもないことを言い合うこの時間ほど無駄なものはない。そんな思いを微塵も見せずお礼を口にした。「そう言えば、今度のコンペ、あなたも参加するのかしら?」継母はさらりと話題を変える。その一言に込められた意図を、俺はすぐに理解した。「いいえ、あれは悠馬が出るのでしょう? 僕は遠慮しますよ」出ると言えば、全力で潰しにくるのは目に見えている。今日はそのことを確認しに来たのだろう。「そう。あなたはいつでも今の座を降りても構わないと言ってるものね。本心かは分からないけど」言葉に隠された挑発に、俺はまっすぐに彼女を見据えた。(あなたに殺されかけて、失明し、いろいろなものを見た。その結果、もう地位や名誉に執着するのはやめたんですよ)心の中でそう呟きながらも、それを言葉にするつもりはなかった。継母が何を狙っているのかは明白だ。弟・悠馬を次期代表にするため、自分を引きずり下ろそうとしている。それを阻止するために動く自分の姿を見せるわけにはいかなかった。「
「弟さんのことを大切にしてるんですね」私の言葉に、陽介さんは一瞬だけ目を伏せた。「向こうはそうは思っていないだろうけどな」少し悲しげな表情を浮かべながら、彼は苦笑する。その顔には、どこか諦めが滲んでいた。「俺と弟は母親が違うんだ」その言葉に、私は小さく息を飲む。なんとなくそんな気がしていたが、やはりそうなのかと確信に変わる。義母――彼のお母様の言動や態度からも、何かしら考えがあるのだろうと薄々感じていた。「お母様は、神崎さんとのご結婚を望んでいらっしゃったんですよね?」彼は無言のまま、視線を遠くに投げる。「でも、それはどうして……」私は勇気を振り絞って問いかける。彼と神崎さんの結婚が望まれていたのなら、なぜ私のような存在を選んだのか、その理由をどうしても知りたかった。陽介さんは少し間を置いてから、低い声で答えた。「母にとって、神崎は都合が良かったんだろう。彼女なら自分の思い通りにできると思ってる」確かに、神崎さんはお母様の言いなりのように見える部分もあった。「それはたしかに……」「もしかして母もここに来たのか?」その話をしていなかったなと思いつつ、「初めのころに」それだけ答えると、陽介さんは髪をかきあげて大きく気を吐いた。「すまない」その言葉には、冷たさの中にどこか悔しさのような感情が垣間見えた。彼の母親――義母が、陽介さんの人生にどれほどの影響を及ぼしてきたのかを想像すると、胸が締め付けられる思いだった。「じゃあ、神崎さんとの結婚を拒むために、私を……?」私の問いに、陽介さんは初めて正面から私を見つめた。その瞳には、冷静さの奥に隠された迷いが映っていた。「そうだと言ったら、君はどう思う?」なんとなく彼の瞳は揺れていて、後悔が滲んでいるようにも見えた。私はつとめて明るく言葉を発する。「その理由なら、他の女性でもよかったんじゃないですか? いくらでも利益になる方はいますよね?」思わずそう問いかけた私に、陽介さんは少し驚いたように目を細めた。しかし、気を悪くすることもなく、むしろアルコールが入っているせいか柔らかな雰囲気のまま、申し訳なさそうに言葉を続けた。「自意識過剰だと思うかもしれないが……みんな、なんだかんだ俺にいろいろ求めたり、本当の結婚にしたがるんだ」その言葉に、私は一瞬言葉を失った。彼のような人だからこそ、
あの日から、なぜか陽介さんは家へ帰ってくるようになった。最初は理由が分からず戸惑っていたが、何度か神崎さんが来た際、陽介さんが冷たく対応してくれているのを見て、彼が私の状況を察してくれているのだと気づいた。仕事を終え、今日は特に変わったこともなく普通に帰宅した陽介さんに、私はお礼を言おうと決意した。キッチンで飲み物を手にしている彼に向かって、そっと頭を下げる。「あの、ありがとうございます」突然の言葉に、陽介さんは少し驚いた様子で私を見た。何のことかと尋ねるような視線を送ってくるが、すぐに意味を理解したのだろう。一瞬、バツの悪そうな表情を浮かべる。「俺が持ち掛けた話だからな」そう短く答える声は素っ気なくも、どこか優しさが含まれているように感じられた。その時、当麻が小さな声で「ね、いっしょにごはん?」と陽介さんを見上げながら言った。「こら、当麻。わがまま言わないの」私は慌てて当麻をたしなめる。この結婚はあくまで形だけのものであり、彼に気安く接していい立場ではない。そう思っているのに。「いいよ、一緒に食べよう」陽介さんは意外なほどあっさりと了承した。私にはどこか距離を保っている彼が、当麻には驚くほど柔らかい表情を見せている。その様子が妙に温かくて、胸がくすぐったくなる。食卓を囲み、まるで本当の家族のように食事をする時間。私は陽介さんと当麻のやりとりをそっと見守りつつ、料理に視線を落とす。「水、飲めるか?」優しい声色に、当麻が頷いた……。(……どこかでこの声を聞いた気がする)曖昧な記憶が脳裏をよぎる。あの夜――バーで過ごしたあの夜、酔った私に同じような優しい声をかけてくれたバーテンダーの彼。(でも、あの人は目が見えないはず……それに、もうこの世にはいないかもしれない)妊娠が分かったあと、私は一度だけあのバーを訪れたことがあった。しかし、そこにいた別の男性に、「彼はもういない」と告げられた。その言葉が何を意味するのか、聞き返す勇気もなかった。だから当麻の父親はわからいままだ。当麻が大きくなったら、あの指輪を渡そう。あの日の気持ちのまま交換した指輪。どこかで、彼も形見の指輪を大切にしてくれているといい。そんな考えを抱えながら、目の前で笑顔を見せる陽介さんと当麻の姿をぼんやりと見つめていた。「ママ!」当麻の明るい声が、私のぼんやり
それからというもの、陽介さんはなぜか家に帰ってくるようになった。その理由は分からない。ただの形式的な結婚だと思っていた私には、彼のその行動がまったく理解できなかった。当麻はというと、初めは少し緊張した様子を見せていたけれど、驚くほど早く陽介さんに懐き始めた。それが何よりも私には不思議でならなかった。意外だったのは、会社で見せる冷淡で感情を感じさせない表情とは違い、当麻に向けて柔らかい表情を見せることがあることだ。その姿に、私の中にある彼への印象が少しずつ揺れ始めていた。「ねえねえ、陽介さん!」当麻が声を張り上げて、陽介さんの袖を引っ張る。私は止めようとしたが、彼は困ったように眉を下げただけで、声を荒らげることもなく応じた。「どうした?」「これ見て!」当麻は手に持っていたおもちゃの車をテーブルの上で動かして見せた。陽介さんはそれに目を向け、ほんの少し微笑む。「かっこいいな。それはパトカーか?」「うん! ママが買ってくれたんだよ!」「そうか。ママは優しいな」その短いやり取りに、私はなんとも言えない気持ちになった。普段から見せる陽介さんの無表情が、当麻の前では少しだけ和らぐ。それが少し意外だった。しかし、陽介さんの変化に驚く一方で、私は気づいてしまったことがある。リビングや廊下で、ふと目をやると、彼が額に手を当てて目の上を押さえる仕草をしている。まるで頭痛に耐えているかのように見えた。(何か余計なことかもしれないけど……)放っておけない性分の私は、頭痛に効果があるというハーブティーを淹れて、彼の部屋に持って行くことにした。ノックをして部屋に入ると、陽介さんはデスクに向かって何かの資料に目を通していた。「お茶をお持ちしました」そう声をかけると、彼は視線だけをこちらに向けた。「そこに置いておいてくれ」指示通り、そっとデスクの隅にカップを置こうとしたとき、ふと目に入った資料の一部に心臓が跳ねた。そこには、弟である悠馬さんが担当している案件の資料が並べられていた。(これは……)一つの会社名が目に飛び込み、つい声に出してしまった。「これ……」その小さな呟きに、陽介さんは怪訝そうな目で私を見上げる。「なんだ?」その鋭い問いに、慌てて首を横に振る。「いえ……」掃除婦が余計な口を挟むべきではないと思いつつ、口が勝手に動いてしまった。
朝日が差し込むリビングに足を踏み入れた瞬間、私は思わず立ち止まった。そこで見たのは、普段は顔を合わせることもないCEOが、静かに朝食をとっている姿だった。「……どうして?」思わず呟いた言葉が彼の耳に届いたのか、彼は顔を上げることもなく、冷静に答えた。「ここは俺の家だ」当たり前のように返され、私は一瞬、言葉を失った。この結婚は形式的なもの。彼がこの家にいることは何もおかしくないはず――頭では分かっているのに、胸の奥がざわつく。今まで顔すら見せなかったのに。当麻が「ママ、何してるの?」と小さな手を引っ張る。その無邪気な声にハッとして、私は慌てて考えを切り替えた。「当麻、旦那様がお食事中だから、少し待とうね。あとで一緒に食べよう」CEOの食事の時間を邪魔をしないようにしようとしたつもりだった。しかし、次の瞬間、不意に彼の声が聞こえる。「それは嫌味?」低く鋭い問いかけに、驚いた私は思わず彼を見つめた。そんなつもりは全くなく、慌てて首を横に振る。「いえ、まったくそんなことは……」「じゃあ、早く席について。当麻、だったよな?」CEOが当麻に向けて、少しだけ表情を柔らかくしながら問いかける。普段の冷たい印象が少し和らいで見えたのは、気のせいだろうか。「うん! 当麻だよ!」当麻が笑顔で応じると、CEOは軽く頷き、隣の席を指差した。「ここに座ればいい」その言葉に私は戸惑った。彼と同じテーブルで食事をするなんて――。「でも……」「いいから」短く言い切るCEOに、これ以上の反論はできなかった。私は当麻の手を引いて席につき、心臓の鼓動が早まるのを感じながら椅子に座った。すると、タイミングよく安田さんがにこやかに現れる。「奥様、当麻ちゃん、おはようございます」「安田さん、おはようございます」いつもと変わらない彼女の姿に、少しだけ緊張が解けて、私は挨拶を返した。「食事すぐに準備しますね」「あっ、私やります」「今日はいいですよ、私に任せてくださいな」安田さんが楽しそうにそう言ってくれる。きっと、CEOがいるから私が気を遣っているのを感じ取ったのだろう。内心、感謝しながらも当麻に視線を向けた。いきなり知らない男性がいたら緊張するだろう、と思っていたが、意外にも当麻はCEOに対してにこにこしている。「あの……CEO……」「家でその呼び方は
そんな気持ちを引きずりながら迎えた週末。朝から何か嫌な予感がしていた。 午後から当麻と遊びに出かけようと思い立ったが、その判断は遅すぎた。 神崎さんが家に現れたのは午後のことだった。安田さんが当麻を連れて別室に行ってくれたことだけが、せめてもの救いだった。「まだいたのね。あんなにCEOに呆れられても懲りないなんて」 リビングの高級ソファに堂々と座りながら、神崎さんは冷たい視線を向けてきた。「それはあなたが仕組んだことですよね?」 溜まっていた思いが抑えきれず、つい口にしてしまった。「なっ……!」 顔を真っ赤にして神崎さんが睨み返してくる。「本当に往生際が悪いわね。あなたみたいな人が彼の妻でいるなんて、あり得ない」「それは彼に言ってください。私は彼に望まれてここにいるんですから」 ずっと我慢してきたが、あまりにも幼稚で身勝手な行動に、苛立ちが抑えられなかった。「ねえ、誰にものを言ってるのよ? 本来なら、あなたと私は会話すらできない立場なのよ」「どうしてですか? 今こうして話しているじゃないですか」 身分や家柄を振りかざすなんて、なんてくだらない人なんだろう。そんなことでしか人を評価できないなんて、哀れにすら思えた。「いい加減にしなさい!」 彼女の手が振り上げられるのを見て、叩かれる――そう覚悟した瞬間だった。突然、リビングのドアが開く音が響いた。「何をしている?」冷ややかな声がリビングに広がる。振り返ると、そこにはCEOが立っていた。鋭い視線が神崎さんと私を交互に捉えた瞬間、空気が一変した。「CEO!」 驚いた神崎さんの声。普段の傲慢な態度は消え失せ、まるで別人のようにしおらしい様子に呆れを覚える。「いえ、あの……奥様と少しお話をしていただけで――」「話……ね」 短く言い放つと、CEOは私に視線を向けた。どうなのか、と無言で問いかけられているようだった。しかし、私が答えようとするより早く、神崎さんが彼の腕に縋るような仕草を見せた。「本当です。奥様が私を誤解しているみたいで……」「誤解?」 つい口に出してしまい、神崎さんを見据える。「それはどういう誤解なんだ?」 CEOの冷静な声が神崎さんを追い詰めるようだった。「それは、えっと……」 もちろん、彼女が嫌がらせをしていることや、先日の件を話せるわけがない。「
朝の日差しがダイニングテーブルを照らし、穏やかな空気が流れていた。当麻はいつものように元気いっぱいで、スプーンを持ちながら笑顔を見せる。 今朝の朝食は、オムレツにケチャップで顔を描いてみた。「これ、ママがかいたの?」 「うん、ニコニコの顔」当麻はその顔を崩さないように、慎重にスプーンを運んでいる。その無邪気な姿に思わず私も笑顔になる。しかし、すぐにあの日のことがよみがえる。招待状を私は捨てていない。きっと神崎さんがわざとやったことだろう。それをきちんとCEOに弁明するべきじゃなかったのか。今でもそう思ってしまう。彼からあんな瞳を向けられる理由はなかったのに……。しかし、あの場で何かを言ってもきっとどうにもならなかったような気もする。 きっとCEOも役立たずだと思っているだろう。それなのに。「安田さん、またクローゼットに新しい洋服が入っていたんだけど知ってますか? それにあれも……」 リビングの隅に用意されたキッズコーナー。男の子が好きそうな電車や車のおもちゃはもちろん、床にはクッション材が敷かれているそこに視線を向ける。「ああ、旦那様からの依頼ということで、昨日百貨店の外商の方が持ってきたんですよ。何か足りないものはありましたか?」当たり前のように言う安田さんに、私は苦笑する。便宜上結婚した私たちのことなど放置しておけばいいのに。 招待状の件にしても、使えない人間を妻にしてしまった。それぐらいにしか思っていないと思っていた。 なのに、こんな気遣いをされるなんて。複雑な思いになりつつ、安田さんに視線を向ける。「まさか。私たちには十分すぎるなって」 「いいんですよ。旦那様は忙しい忙しいって何も夫らしいことしてないんですから」少し怒りつつそう言ってくれる彼女に、心が温かくなった。「ママ、きょうもがんばってね」 そう言いながら、小さな口でご飯をモグモグと食べている息子の姿を見て、私は自然と微笑んだ。「ありがとう」正直なところ、神崎さんが初めて来たころは契約を破って、この会社から離れたいと考えたこともある。それでも、今の仕事を無責任に放り出すのも許されない気がして、結局は行動に移せずにいた。(それに、会社を辞めたとしても、あの家には義母も神崎さんも自由に出入りしている。状況は変わらないのかもしれない)一人でため息をつきながら、私
Side 陽介俺はデスクに散らばる書類に目を通しながら、机に肘をついていた。表面上は冷静を装っていたが、内心では苛立ちを抑えるのに必死だった。さきほどの美優たちとのやり取りが頭から離れない。冷たい言葉を投げかけた自分を思い返し、ほんの少し胸が痛む。(大事なものを置いておくように言った俺が悪いのに……)あのときの、彼女の呆然とした顔が頭に浮かぶ。そのとき、控えめなノック音がデスクの沈黙を破った。「どうぞ」短く応えると、扉がゆっくり開いた。その先に立っていたのは継母の佐和子だった。「久しぶりね、陽介」彼女の口調は柔らかく、まるで本当の母親のようだ。けれど、その笑みの奥に潜む冷たさを、俺はよく知っている。「何かご用でしょうか」デスクから目を離さずに問いかける。その態度に気分を害した様子もなく、継母はソファに腰を下ろした。「ええ、少し挨拶をしようと思って。あなた、いいお嫁さんをもらったわね」継母の言葉に、俺は眉一つ動かさず応じた。「そうでしょう? だから僕のことは気にしないでもらえると助かります」その返答に、継母はクスクスと楽しげに笑う。「まあ、私はただ、あなたのことが心配なだけよ」俺は視線を上げ、冷静な表情で継母を見据えた。その目には一切の感情が宿っていない。「それはありがとうございます」心にもないことを言い合うこの時間ほど無駄なものはない。そんな思いを微塵も見せずお礼を口にした。「そう言えば、今度のコンペ、あなたも参加するのかしら?」継母はさらりと話題を変える。その一言に込められた意図を、俺はすぐに理解した。「いいえ、あれは悠馬が出るのでしょう? 僕は遠慮しますよ」出ると言えば、全力で潰しにくるのは目に見えている。今日はそのことを確認しに来たのだろう。「そう。あなたはいつでも今の座を降りても構わないと言ってるものね。本心かは分からないけど」言葉に隠された挑発に、俺はまっすぐに彼女を見据えた。(あなたに殺されかけて、失明し、いろいろなものを見た。その結果、もう地位や名誉に執着するのはやめたんですよ)心の中でそう呟きながらも、それを言葉にするつもりはなかった。継母が何を狙っているのかは明白だ。弟・悠馬を次期代表にするため、自分を引きずり下ろそうとしている。それを阻止するために動く自分の姿を見せるわけにはいかなかった。「
それからというもの、神崎さんは頻繁に家を訪れるようになった。来るたびに私を追い出そうとするような態度をとり、嫌味や冷笑を浴びせてくる。言葉の一つひとつが、私を試しているかのようだった。「本当にここに居続けるつもりなの? 自分の立場、分かってる?」神崎さんはリビングの高級ソファに深く腰を掛けながら、私を睨みつけるように言った。(どうしてこの人は……)心の中で呟いても、答えは出てこない。彼女に反論したい気持ちはあったが、何を言っても通じないだろうと思うと、言葉が喉に詰まったままだった。それでも、家の中では穏やかな時間が流れていた。当麻は変わらず安田さんに懐いていて、新しい環境にも馴染んでいる。それを見るたびに、私は「ここで我慢しよう」と自分に言い聞かせていた。そんなある日、会社でCEOの部屋の掃除を任されることになった。(嫌だな……)そう思わないわけがない。けれど、仕事だと割り切って、掃除道具を片手に彼の部屋に向かった。廊下を歩いていると、女子社員の噂話が聞こえてきた。「ねえ、聞いた? CEOが結婚したんだって」「えっ、本当? 誰と?」「それが分からないのよ」その言葉を聞いて、足が止まった。まさか、自分がその結婚相手だとは誰も思っていないだろう。そう思う一方で、神崎さんがそのうち誰かに話すのではないかという不安が胸をよぎる。(やっぱり彼のような立場の人との結婚なんてするんじゃなかった……)そう思いながら掃除を始めた。CEOの部屋はとても片付いていて掃除をする必要があるのか疑問に思うほどだ。それでも手を動かしながら、彼のデスクに目をやる。デスクには昔見たことのある封筒があった。日本でも有数の商社であるセントラル商事の創立記念パーティー。いつもホテルで盛大に行われるものだ。昔、何度か私も行ったことがある。クリスマスシーズンだった記憶があるが、もうその招待状が送られているのだろう。今の私にはまったく関係ないが、かなり大切なものだろう。そう思い、それに触れることなく掃除を終えた。掃除道具を手にして廊下に出た瞬間だった。背後から複数のヒールの音が響いてきた。振り返ると、そこにいたのは神崎さんと彼女の取り巻きだった。嫌な予感しかしないが、頭を下げて廊下を通りすぎるのを待っていた。しかし、ピタリと私の前で足音が止まる。やっぱり――。このま
閑話 ーーー 佐和子(陽介義母)綾香さんが奥に引っ込んでいった美優を睨みつけながら、苛立ちを隠せずにいる。そんな彼女に私は声をかけた。「綾香さん、そんなに感情的にならないで」 私は努めて優しい声を出し、ソファに腰を下ろした彼女をなだめる。「だって、あんな女が奥様だなんて信じられません! それに陽介さんだって、どうしてあの人を選んだのか……」 「分かっているわ、綾香さん」 そう言いながら、私は彼女に向かって小さく微笑んだ。その表情は、彼女を慰めるためのものではない。むしろ、私は彼女を操るための糸を丁寧に引いている最中だ。感情的で短絡的な思考を持つ彼女は、陽介を壊すにはもってこいの人物だ。「あなたほどの女性が、こんなにも陽介を想ってくれているなんて……あの子も幸せ者ね」 わざと感嘆するように言葉を続ける。綾香の頬が少しだけ赤く染まるのを見て、私は心の中でほくそ笑んだ。「本当に陽介さんのためを思っているだけなんです」 彼女はそう言いながら拳を握りしめる。その情熱が本物であればあるほど、私には都合が良い。「ええ、わかるわ。でも、陽介のためにどうすればいいのかを考えるべきじゃないかしら? あなたができることがあるはずよ」 私は彼女にそう語りかけ、わざと考える間を与えた。彼女の頭の中には、私の言葉が渦を巻き始めているはずだ。「……たとえば、あの女を追い出す、ということですか?」 綾香が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめる。その目には、彼女自身も気づいていない危うい光が宿っている。「まあ、そう急がなくてもいいわ」 私は柔らかく否定しながらも、彼女に希望を持たせる言い方をする。 「何事もタイミングが大事よ。まずは、陽介にとって本当に必要な人間が誰なのかを、周囲に理解してもらわないと」「それって……」 綾香の目が期待に輝く。彼女はまんまと私の言葉に引き込まれている。「ええ、綾香さん。あなたの美しさも賢さも、周りに認められるべきだと思うの。もちろん、陽介にもね」 私は彼女を褒め称えながら、同時に彼女の中に野心の炎を再び燃え上がらせた。私にとって、彼女が暴走してくれるほど、計画はうまく進むのだ。(陽介があの娘を庇うようなら、それはそれでいいわ。それが周囲にどう映るか……どちらに転んでも私たちに利がある) 心の中でそう呟きながら、私はもう一度綾香に