会場に到着すると、煌びやかな装飾とシャンデリアの明かりが目に飛び込んできた。ハイクラスなホテルの宴会場は、どこを見ても洗練された雰囲気が漂い、訪れた人々もまた、その場に相応しい服装で会話を楽しんでいる。「緊張する?」陽介さんが隣でさりげなく声をかけてくれた。「いえ、大丈夫です」思った以上に自然な答えが出たのは、自分でも驚きだった。昔の私なら、このような場に慣れていたからだろう。今の生活とはかけ離れているけれど、身体に染み付いた感覚は意外にも残っているものだ。受付で名前を告げ、会場内に進むと、すぐに陽介さんに声をかける人物が現れた。取引先の社長だろうか、年配の男性が陽介さんと笑顔で握手を交わす。「奥様ですね。お美しい方だ」その言葉に思わず頬が熱くなるが、陽介さんがさらりとフォローしてくれる。「ええ、彼女にはとても感謝しています」そう言う陽介さんの表情から本心はわかるわけはない。しばらくすると、場の空気が少しざわつき始めた。会場の中央に一人の男性が現れ、周囲の人々と挨拶を交わしている。彼こそがフランスの外交官であり、今回のパーティーの主賓だと聞いていた。「初めまして」男性が陽介さんに近づき、流暢なフランス語で話しかけてきた。その瞬間、陽介さんが一瞬だけ眉をひそめるのが分かった。フランス語を理解しているものの、流暢に話せるほどではないのかもしれない。普通であれば外交官ならば、英語で会話と彼も思っていたのだろう。いつのまに来ていたのかわからないが、いきなり神崎さんがここぞとばかりに間に割り込んできた。「私にお任せください!」自信たっぷりにそう言う神崎さんが英語で話すと、もちろん彼も英語で答えたが、少しだけ言葉選びに迷いがある気がする。きっとフランス語の方が堪能で、詳しい話はそちらでしたいのかもしれない。その様子を見た私は、自然と口を開いていた。「Monsieur, je suis enchantée de faire votre connaissance. Laissez-moi vous aider si besoin est.」(お会いできて光栄です。必要でしたら私がお手伝いします。)完璧な発音でフランス語を話した私に、外交官は驚いたような表情を見せ、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。「Ah, vous parlez fran
そんな中、目の前の老夫婦の女性が、グラスのワインを零してしまったのが見えた。咄嗟にすぐに駆け寄ると、すぐに彼女の和服についたワインを拭き少し会話をする。「お嬢さん、ありがとう。助かったわ」「いいえ、素敵なお着物ですね。小紋が見事です」着物も一通りしつけられ、純粋にその見事な柄に笑顔になる。少しだけ会話をして彼の元に戻ると、陽介さんが私をみて少し眉を寄せた。「何者?」陽介さんが冗談めかして言う。「……何を今さら。あなたの妻で、あなたの会社の清掃員ですよ」私は軽く微笑んで返したが、その瞳には冗談ではない色が混じっていた。「ふーん」それだけの単語からは、彼の意図はわからない。こんなふうに男性から見つめられることなんて経験のない私は、なんとなくあの日の夜のサングラスの奥の瞳を思い出してしまう。なんで今あの日のことを。落ち着かない気持ちをどうにかしようとしていたところで、「そろそろペアダンスの時間にな
朝の光が薄いカーテン越しに差し込んできた。私はそのまぶしさに顔をしかめながら、ぼんやりと瞳を開いた。体が重く、頭がぐらぐらする。この感覚は…酒のせいだとすぐに分かった。昨夜、相当飲んだんだな、と自分に呆れながら体を起こそうとした瞬間、隣に誰かがいることに気づいて、心臓が止まるかと思った。「え…?」ベッドの中、私の隣に見知らぬ男性が寝ている。背が高く、広い肩が布団の下から覗いているのが見えた。混乱した頭の中で必死に昨夜の記憶をたどろうとするが、アルコールのせいか、細部がぼやけている。なんで私、こんなところにいるの?混乱する中でふと、彼の首元に目が留まった。そこには、見覚えのあるチェーンがぶら下がっている。それは…私の祖母の形見の指輪。昨夜、私は酔った勢いでこの人にそれを渡してしまったのだ。思い出して、冷や汗がじわりと出る。「やばい…」その指輪を取ろうと、彼に手を伸ばすと気配を感じたのか、彼が寝返りを打った。私は慌ててベッドから抜け出し、できるだけ静かに服を手に取った。ドアの方に向かおうとするけど、頭の中では昨夜の出来事が断片的にフラッシュバックしてくる。彼とは確か、バーで出会った…。「お待たせしました、ジントニックです。」カウンター越しに低い声が聞こえ、私は顔を上げた。サングラスをかけたバーテンダーが、グラスをそっと私の前に置く。背が高くて、スーツ姿がよく似合う彼に、私はいつも目を奪われてしまう。サングラスをかけているせいで、表情はよくわからないけど、どこか寡黙でクールな雰囲気がある。何度か来たことのある、会社の近くのバー。店内は明かりが落とされていて落ち着く空間だ。彼と一緒に、もう一人同じぐらいの男性がいるこの店。私もいつもは誰かと来るため、あまり気にしていなかったが、今日は訳あって一人。アルコールも手伝って声をかけていた。「ありがとうございます。でも…なんでサングラス?」私は、つい好奇心でそんなことを聞いてしまった。だって、室内なのにサングラスって普通じゃない。彼は静かに口を開いた。「視力が弱くて」一瞬、私は何も言えなくなった。気まずくて、どう返事をすればいいかわからない。無意識に、グラスを口元に運びながら、私は彼をちらりと見た。彼は気にする様子もなく、穏やかに立っていた。「ごめんなさい…そんなつもりじゃなかったの。」「
部屋を出た私は、冷たい朝の空気を吸い込みながら、昨夜の出来事を振り返っていた。どうしてあんなことをしてしまったんだろう。思わず顔を覆いたくなるような後悔が、胸の奥でじわじわと広がる。指輪を彼に渡してしまったことも、今になってようやく重くのしかかってきた。あれは、私にとって祖母からの大切な形見だったのに。酔いがさめた今、その重大さが痛いほど感じられる。「私、どうかしてた…」呟くと同時に、ふと昨夜の彼の優しい声が耳に蘇る。私の愚痴を黙って聞いてくれて、どんなに酔っても優しく対応してくれた彼。目が見えないのに、まるで私の心の中まで見透かすような、そんな不思議な感覚があった。Side 陽介半年前、俺は事故で視力を失った。突然訪れた暗闇の中で、生きる意味も自信も失ったような気がした。自分がこれまで築いてきたものが、すべて手の届かない場所へと消えていくような感覚だった。それでも、どうにか立ち直ろうと決意し、今はバーテンダーとして働いている。店のカウンター越しに、彼女――名前も知らない女性がどんな人なのかをぼんやりと想像していた。いつも通り、声や気配から客の様子を察してきたが、彼女の声にはどこか疲れや寂しさが滲んでいた。酒の匂い、重く響く愚痴、そして時折漏れるため息。「家が厳しいんだよね…お見合いだって、恋も結婚も好きに選べないし。っていっても、恋なんてしたことないんだけどね」彼女は自分の悩みを打ち明けるように語り続けた。俺はあえて黙って聞いていた。バーテンダーとして、人の話を受け止めるのは慣れている。客の感情を聞き流すのも仕事の一部だと思っていたからだ。けれど、彼女の声には何か特別なものを感じていた。心の奥に触れるような、そんな響きがあった。気づけば、俺は彼女のことをもっと知りたいと思っていた。しかし、それが俺自身の感情なのか、それとも彼女の孤独が自分に投影されているだけなのかは、まだわからなかった。「自由になりたいだけなのに、恋もしてみたい…」彼女の声が震えた。その瞬間、俺は自分もかつて同じような感情を抱いていたことを思い出した。目が見えなくなった時、自分の自由も奪われたように感じた。だからこそ、彼女の言葉に共感してしまったのかもしれない。「そんな時もあるよ。自分を責めない方がいい。」そう声をかけた時、彼女がどんな反応をしたのかは見えなかったが、
「どうしよう…」あの日、妊娠がわかった瞬間、私は頭の中が真っ白になった。まさか、こんなことになるなんて――あの一夜の出来事を後悔しても、もう遅かった。でも、心のどこかでは、子どもを産みたいという思いが強く残っていた。どうしようもない不安と恐怖の中で、私は一つの決断を下した。「私は、この子を産む。」そう思った瞬間、まるで自分が新しい人生を背負ったような感覚に襲われた。だけど、それと同時に、私の人生も大きく変わることを理解していた。家に戻り、両親にそのことを告げたとき、ふたりの顔が凍りついたのを今でも覚えている。「美優、お前、大切な見合いだといってあったのに……」父が今まで見たことないほど、怒りに震えているのを見て、自分のしでかしたことがどれほど罪深いことかを悟った。でも……。「勘当だ。もう二度と帰ってくるな。」その言葉と少ない荷物だけで、私は家を追い出された。あの一夜がすべてを変えてしまった。だけど、私はこの子を諦めることはできなかった。 四年後ーー 妊婦で身寄りもない人間を雇う会社などほとんどない。私がなんとか見つけた仕事は、清掃員の派遣だった。息子の当麻が一歳半になるまでは、なんとか蓄えと、内職などで食いつないでいたが、そのころには難しくなった。それ以来、この仕事をしている。派遣先は変わっていくが、基本仕事内容は変わらない。今の職場は一カ月前ほどからだ。「ママ、早く!」息子の当麻の声に、私はキッチンでバタバタと朝ごはんの片付けをしていた。三歳の当麻は、最近保育園に通うのが楽しいらしく、毎朝私を急かしてくる。「ちょっと待って、当麻。あと少しで準備終わるから!」私は慌てて最後の食器を流しに置き、急いで当麻のリュックに必要なものを詰め込んだ。朝の忙しさに追われながらも、当麻の笑顔を見ていると、どんなに大変でも頑張れる気がする。「はい、行こう!今日は先生に何を見せるの?」「今日は、お絵描き!」当麻は自信満々にリュックを背負い、玄関へと駆け出した。私も急いで靴を履き、家を出る。保育園まではほんの数分の道のり。当麻を送り届けた後、城崎ホールディングスのビルへ向かう。そして、何度見てもそのビルの大きさに驚いてしまう。(どれだけの高さがあるの……)このビルは、オフィス棟、商業棟とあり、百貨店やホテル、飲食店はもちろん、企業も大手ばかりはい
「おはようございます」ギリギリだ……。朝は本当に戦争のようだ。今日は10分寝坊してしまったのがまずかった。更衣室のロッカーを開けて、扉の裏についた小さな鏡に映る自分を見てため息が零れる。髪は振り乱れ、ほとんどノーメイク。確かにこの会社にいる煌びやかな女性たちから見たら、地味とか言われるのも仕方がない気もする。心の中で盛大にため息を吐いて従業員の事務所に行くと、この会社の清掃員たちのリーダーを務めている三宅さんが私を呼ぶ。「今日、CEOの部屋の担当のみどりちゃんがお休みなの。代わってくれる?」「CEOの部屋ですか? 私なんかでいいんですか?」CEOの部屋は厳重にセキュリティも施されていて、入れるスタッフも限られている。昨日ちらりと見た彼を思い出して尋ねると、三宅さんは苦笑した。「あなた以外、適任がいないのよ。ここの職場は短いけど、この仕事の歴は長いし、丁寧で完璧って社長からも聞いてるから」素直に自分の仕事を評価してもらったことは嬉しい。「わかりました」そう答えると、私はセキュリティキーとCEOのスケジュールを預かり、事務所を後にした。CEOの部屋があるフロアはエレベーターを降りた瞬間から違っていた。ふかふかの絨毯に、大きな会社のゴールドのロゴ。その向こうにはすりガラスになった扉。なんとなく場違いな気がしてしまって、安請け合いをしてしまった自分に後悔をする。しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。そう思いつつ、私はセキュリティカードをかざした。「失礼します……」スケジュールから、CEOは会議だとわかっていたが、小声でそう言い部屋へと足を踏み入れる。広々とした部屋は、ピカピカに磨かれたデスクや大きな窓から見える都会の景色が、まるで別世界のように感じさせる。「掃除するところある?」独り言ちながら、私は部屋全体を見回した。しかしいくら綺麗でも仕事だ。掃除機をかけたり、机を拭いたりといつも通りに仕事を始めた。「あっ、意外にここ汚れてる……」立派なチェアの足が汚れていると気づき、そこを重点的に拭いている時だった。「冗談だろ?」冷たく、本当に嫌そうな声音が聞こえて、私は思わずビクッとして起き上がると、上にあった机に思いっきり頭をぶつけた。「痛っ!!」つい声が漏れてしまい、慌てて口を覆った。しかし時はすでに遅かった。「誰だ!!」
「あの、今何をおっしゃいましたか?」私の声は少し震えていた。それでも、なんとか冷静を装おうと必死だった。目の前の男性、CEOは、私の問いには一切答えず、スマホを耳に当てて誰かに短く指示を飛ばしていた。その間、私は足元から冷たい空気が這い上がるような感覚を覚えていた。ドアが開き、一人の男性が入ってきた。整ったスーツ姿で、無駄のない動作でCEOにタブレットを渡す。CEOはそれを受け取ると、画面を操作しながら口を開いた。「シングルマザー……」それだけの言葉を呟くと、彼は視線をタブレットから外さずに続けた。「だから何でしょうか」 私は冷たい声で言い返した。心臓は早鐘のように鳴っていたが、それを悟られるわけにはいかなかった。「仕事はきちんとしています。それに、私がどんな立場であろうと、あなたには関係ありません」その言葉に、彼の手が一瞬止まるのが見えた。だが次の瞬間、彼の低く落ち着いた声が耳を打った。「でも、あなたはお金に困っているのではないですか」心臓がギュッと掴まれるような気がした。その通りだ。私は息子のために必死で働いているが、それでも十分とは到底いえない。貯蓄が底をついた今、その現実を、この男に突きつけられるのは屈辱だった。「確かに裕福ではありません。でも、それがどうしました? 私は施しを受けるためにここにいるわけではありません」自分の言葉が少し震えているのを感じながらも、私は彼を睨みつけた。その時、不意にどこかで会ったような記憶がよみがえる。サングラスで瞳は見えなかったが、なんとなく面影が……。そこまで思い出して、それが四年前、一夜をともにしたバーテンダーだと悟る。しかし、この人ははっきりと目が見えているし、アルコールのせいで記憶も曖昧だ。気のせいだろう。そう思い直す。「仕事の提案です」そんな私をよそに、CEOは冷たい視線を向けた。彼の目は鋭く、そこに一切の情けも感情も感じられなかった。「私と結婚してください」「さっきの演技は彼女を断るためですよね」驚きすぎて声が裏返った。耳が聞き間違えたのかと思ったが、彼は表情一つ変えずに続けた。「形式上の結婚です。お互いの利害を一致させるための契約だと思ってください」「……何を言ってるんですか」意味がわからない。いや、わかりたくないと思った。私がどれほど努力して生きてきたか、この人には
帰りに答えを聞くと言われても、彼の連絡先すら知らないし、そもそも私は保育園に息子を迎えに行かなければならない。そんなことを考えながら、私はそのまま帰ろうとしていた。特に何も問題なく保育園に到着し、いつものように保育士さんたちに挨拶をする。玄関の奥から、子どもたちの笑い声が響いていた。園庭には滑り台やブランコ、カラフルな砂場があり、数人の子どもたちがまだ遊んでいる。滑り台の上で順番を待つ子や、砂場で一生懸命シャベルを動かす子の姿が目に入った。夕方の光が、遊具や子どもたちを柔らかく照らしている。その中に、保育士さんに手を引かれて歩く小さな背中が見えた。息子だ。私を見つけると、少し立ち止まり、保育士さんの手を離してこちらへ走ってくる。「お待たせ、当麻。帰ろうね」 ふと視線を動かすと、園庭の端で父親に抱き上げられ、笑い声をあげている子どもが目に入った。父親の腕にすっぽり収まったその子を当麻が見ていることに気づく。 父親がいないことを、三歳になった当麻はそろそろ理解するはずだ。それに、祖父もいない当麻はあまり男の人と関わってきていない。 どう思っているのだろう、そう思ったとき、小さな手が無意識にぎゅっと握られているのがわかった。「さ、帰ろう」 切ない気持ちを隠しつつ、私は笑って当麻に声をかけた。「うん」 手を繋いで保育園を出ようとしたとき、一台の車が目に入った。車体はぴかぴかに磨かれていて、明らかにここには不釣り合いな高級車だ。車体にはブランドのエンブレムが輝いている。もちろん、私には関係ないよね。 そう思って歩き出そうとしたそのとき、運転席のドアが開き、一人の男性が降りてきた。どうしてここにーー!? 現れたCEOを見て、私は呆然として足を止めた。一瞬、頭の中が真っ白になる。いるはずのない人がいる現実に理解が追いつかず、私はその場に立ち尽くした。しかし、周囲から聞こえきた声に我に返る。「ねえ、あの素敵な人、誰のパパ?」 「見たことないわよね」確実に私に用事があって来たのだろうが、この状況で何をどうするつもりなのかわからない。 確かに、返事は帰りと言われていた。だからと言って、どうしてこんなところに来るのよ……。 文句を言いたい気持ちは山々だったが、この場でそんなことはできるはずもない。息子の手をぎゅっと握り、何も見なかったふりをして
そんな中、目の前の老夫婦の女性が、グラスのワインを零してしまったのが見えた。咄嗟にすぐに駆け寄ると、すぐに彼女の和服についたワインを拭き少し会話をする。「お嬢さん、ありがとう。助かったわ」「いいえ、素敵なお着物ですね。小紋が見事です」着物も一通りしつけられ、純粋にその見事な柄に笑顔になる。少しだけ会話をして彼の元に戻ると、陽介さんが私をみて少し眉を寄せた。「何者?」陽介さんが冗談めかして言う。「……何を今さら。あなたの妻で、あなたの会社の清掃員ですよ」私は軽く微笑んで返したが、その瞳には冗談ではない色が混じっていた。「ふーん」それだけの単語からは、彼の意図はわからない。こんなふうに男性から見つめられることなんて経験のない私は、なんとなくあの日の夜のサングラスの奥の瞳を思い出してしまう。なんで今あの日のことを。落ち着かない気持ちをどうにかしようとしていたところで、「そろそろペアダンスの時間にな
会場に到着すると、煌びやかな装飾とシャンデリアの明かりが目に飛び込んできた。ハイクラスなホテルの宴会場は、どこを見ても洗練された雰囲気が漂い、訪れた人々もまた、その場に相応しい服装で会話を楽しんでいる。「緊張する?」陽介さんが隣でさりげなく声をかけてくれた。「いえ、大丈夫です」思った以上に自然な答えが出たのは、自分でも驚きだった。昔の私なら、このような場に慣れていたからだろう。今の生活とはかけ離れているけれど、身体に染み付いた感覚は意外にも残っているものだ。受付で名前を告げ、会場内に進むと、すぐに陽介さんに声をかける人物が現れた。取引先の社長だろうか、年配の男性が陽介さんと笑顔で握手を交わす。「奥様ですね。お美しい方だ」その言葉に思わず頬が熱くなるが、陽介さんがさらりとフォローしてくれる。「ええ、彼女にはとても感謝しています」そう言う陽介さんの表情から本心はわかるわけはない。しばらくすると、場の空気が少しざわつき始めた。会場の中央に一人の男性が現れ、周囲の人々と挨拶を交わしている。彼こそがフランスの外交官であり、今回のパーティーの主賓だと聞いていた。「初めまして」男性が陽介さんに近づき、流暢なフランス語で話しかけてきた。その瞬間、陽介さんが一瞬だけ眉をひそめるのが分かった。フランス語を理解しているものの、流暢に話せるほどではないのかもしれない。普通であれば外交官ならば、英語で会話と彼も思っていたのだろう。いつのまに来ていたのかわからないが、いきなり神崎さんがここぞとばかりに間に割り込んできた。「私にお任せください!」自信たっぷりにそう言う神崎さんが英語で話すと、もちろん彼も英語で答えたが、少しだけ言葉選びに迷いがある気がする。きっとフランス語の方が堪能で、詳しい話はそちらでしたいのかもしれない。その様子を見た私は、自然と口を開いていた。「Monsieur, je suis enchantée de faire votre connaissance. Laissez-moi vous aider si besoin est.」(お会いできて光栄です。必要でしたら私がお手伝いします。)完璧な発音でフランス語を話した私に、外交官は驚いたような表情を見せ、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。「Ah, vous parlez fran
パーティー当日の夕刻が近づくころ、届けてもらったドレスに袖を通して鏡の前に立った。ネイビーのロングドレスは、滑らかな生地が肌に馴染み、クリスタルの装飾が光を受けて繊細に輝く。ヘアメイクを呼ぶ余裕はなかったが、昔を思い出して、自分でメイクを施し、髪もハーフアップに整えた。軽く巻いた髪が肩にかかり、鏡越しに少し昔の自分が蘇ったような気がした。アクセサリー類をどうしようかと悩んだが、実家から持ってきたものはないし、今さらどうにもならない。まあ、ないならないで、問題ないだろうと自分に言い聞かせる。そのとき、ドア越しに陽介さんの声が聞こえた。「準備できたか?」息を吐いて心を落ち着けると、私はドアに向かいその扉を開けた。「お待たせしました」そう言って彼の前に立つと、目の前の陽介さんが一瞬動きを止めた。驚いたような表情で私を見つめている。「……あの、陽介さん?」不安になってもう一度自分に目を落とす。ドレスは綺麗に整っているし、メイクもそれほどおかしくはないはず。何か問題があるのだろうかと心がざわつく。「いや……」陽介さんは一度目を伏せ、軽く息をついたあと、ゆっくりと口を開いた。「本当は俺がドレスとかを手配すべきだったんだ。そう気づいたんだが、忙しさにかまけてつい……でも、その心配は無用だったな。完璧だ」予想外の言葉に、私は少しだけ照れてしまった。「私が大丈夫だと言ったので、気にしないでください。ただ、少しお金は使わせてもらいました」途中で「どこか紹介しようか?」と彼が提案してくれたのを断ったことを思い出す。既に依頼済みだったので必要なかったのだが、こうして彼が気にしてくれたのは少し意外だった。「でも、これなら無駄にはならなさそうだ」そう言って、陽介さんは手にしていた箱を開けた。中には、美しいネックレスとイヤリングのセットが収められていた。シンプルながらも繊細なデザインで、ドレスの装飾にぴったり合いそうだ。クリスタルの輝きが、ドレスの装飾と呼応するかのように揺らめいている。「これ……」一瞬、言葉を失った私を見て、陽介さんが少し照れたように微笑む。「昨日、急いで用意したんだ。君に合うものかどうか心配だったが、これで正解だったみたいだな」足りないと思っていたものが、目の前に完璧な形で現れる。胸がじんわりと温かくなるのを感じながら、私はゆっくり
あの話を聞いてから、私は詳しい出席メンバーを聞いて、心の中でため息を吐いていた。それほど大きくはない、そう彼は言ったが、出席メンバーはとてもVIPばかりだった。参加することは問題はないのだが、それにふさわしいドレスは必要だ。陽介さんから「金額は気にしなくていい」と言われ、さらに「フランスの外交官も出席する」と聞いた以上、手を抜くわけにはいかない。ブラックカードを渡されてはいるが、無駄遣いをするのは気が引けた。だが、場違いな恰好をして彼に恥をかかせる方が問題だろう。スマホを取り出し、昔お世話になっていた銀座のブランド店の担当者の連絡先を表示する。父に見つかる可能性がある場所だが、今の私のことなど気にも留めていないはずだ。それに、このことを父に知られないよう店長にお願いすれば問題ない。少し緊張しながら電話をかけると、電話越しに懐かしい声が聞こえた。「美優お嬢様! お久しぶりです。本当にご無沙汰しておりますね」 「ご無沙汰しております。突然の連絡で申し訳ありません」懐かしい声に少しだけほっとしながら、私は要件を伝えた。店長は快く歓迎してくれ、早速お店に来るよう促してくれた。安田さんに当麻の世話をお願いして、私は久しぶりに銀座の路面店へと向かった。店の前に立った瞬間、記憶が鮮明に蘇る。父とともに訪れた何度もの場面が頭に浮かんだ。ドアを開けると、店内の上品な香りとともに、変わらない温かな雰囲気が迎えてくれた。奥から現れた店長が、にこやかに出迎えてくれる。「美優お嬢様、本当にお久しぶりです」 「ご無沙汰しております。突然伺ってすみません」 軽く頭を下げると、店長は微笑みを浮かべた。「いろいろ事情がありまして……私がここに来たことは内密にしていただけますか?」 そう頼むと、店長は「もちろんです」とプロフェッショナルな微笑みで頷いてくれた。簡単にパーティーの内容を説明すると、店長は奥からいくつかのドレスを持ってきてくれた。「こちらはいかがでしょうか?」目の前に広げられたのは、まるで星空を切り取ったような、ネイビーのロングドレス。シルクの艶やかな生地に、小さなクリスタルが散りばめられており、動くたびに繊細に輝く。肩の部分はシースルーのレースが使われ、上品さと華やかさを兼ね備えている。「美優お嬢様にはこちらがとてもお似合いになるかと存じます。クラ
閑話 陽介美優と当麻が寝静まった夜。リビングの静けさが、まるでこの家全体を包み込んでいるようだった。俺は一人、仕事用の資料を広げたまま、傍らに置いたグラスを手に取る。ワインの赤が照明に揺れているのを見つめながら、口に含んだ。柔らかな酸味が喉を通り抜け、じんわりと体に染み込む。「本当に、これでよかったのか……」独り言のように呟いた言葉が、静まり返った部屋の中に溶けていった。目の前には終わっていない仕事が山積みだが、どうしても集中できない。頭の中を占めるのは、あの夜の記憶と、今目の前にあるこの生活の温かさの間に揺れる自分自身のことだった。あの夜のことを忘れたことは一度もない。俺の人生で唯一、心から救われた夜だった。失明して何もかもを失ったと思い込んでいた俺に、たった一人、寄り添ってくれた彼女。彼女の手から伝わる温かさ、彼女の声が紡ぐ優しさ。そのすべてが、俺にもう一度前を向く力を与えてくれた。俺はあの時の彼女を探し続けてきたつもりだし、今でもその気持ちは変わっていない——そのはずだった。それでも、今。美優と当麻と暮らす日々の中で、俺は初めて家庭というものの温かさを知った気がする。命を狙われる危険にさらされ、財産や後継者争いに巻き込まれる。そんな殺伐とした環境が当たり前だった俺にとって、この穏やかな時間は異質で、どこか戸惑いを覚えるほどだ。当麻が無邪気に笑いかけてくれるたびに、胸の奥が温かくなる。この家で、美優が忙しそうに動き回りながらも俺に気を配る姿を見るたびに、落ち着かない気持ちと同じぐらい温かくなる。俺は何をしているんだろう…。あの夜の彼女への気持ちは今でも変わらない。それでも、美優と当麻と過ごすうちに、この二人を守りたいと思う自分がいる。それが義務感だけではないことも、薄々気づいている。一方で、悠馬のことも気がかりだ。俺たちは異母兄弟だが、兄弟として育ってきたことに変わりはない。母が悠馬をCEOにするために何を考えているのかは、だいたい分かっている。三条の会社と手を組んでいるのも、その一環なのだろう。母が悠馬を利用している——それは間違いない。だが、もしかすると母自身も騙されているのかもしれない。父に相手にされなくなった今、母は追い詰められていて、必死なのかもしれない。それにしても、今の俺がいくら三条の会社の危険性を説明しても、悠馬には
あの日から二週間、なんとなく穏やかな生活が始まった。もちろん愛など恋などという関係ではないが、仕事と割り切ったことで、私も彼に接することができていると思う。「掃除の前にこの場所は使うのかな……」掃除用具を手に、ほとんど使われていなさそうな小さな会議室横の倉庫を掃除していると、隣の会議室から低い声が聞こえてきた。扉が少しだけ開いていて、中の様子は見えないが、声の主は義母と悠馬COOだとすぐに分かった。「このことは、あなた一人で進めるべきよ」「でも、母さん。金額が大きいし、本当にこの会社の技術が実用化できるのかは――」悠馬COOの声に、義母が遮るように語気を強める。「お母さんを信じなさい。この会社の後ろ盾があれば、あなたは間違いなく次期CEOよ」私は手を止め、息を潜めて耳を澄ませた。話を聞いていると、義母の声には確信があるように聞こえるが、その内容はどうも引っかかる。融資額の桁外れの大きさと、技術の詳細について語られているのを聞くうちに、私の胸の奥に不安が広がった。(そんな話、怪しすぎる……。)話を聞き続けていると、義母が続ける。「日にちはパーティーの日。別室で内密に契約をすることになってるわ」「……でも、陽介兄さんが気づいたらどうする?」「大丈夫よ。陽介は知る術がないもの。それにグローバルネクサス社の三条さんからの直接のお話なのよ」私は背筋に冷たいものを感じた。三条の紹介なんて、裏があるに決まっている。悠馬COOが被害を被るどころか、会社全体が危機に陥る可能性すらある。(何とかして止めなきゃ……)そう思った瞬間、持っていたモップが手から滑り落ち、床に軽い音を立てた。「誰だ?」悠馬の声が近づいてくる。私は慌ててモップを拾い上げ、あたかも倉庫内で掃除していたかのように振る舞った。扉が開き、悠馬COOが覗き込む。その時、彼のスマホが音を立てて、彼はそのままそれに出ると、扉を閉めて出て行った。(あぶなかった……)ようやく大きく呼吸すると、掃除を再開した。あの翌日、私は陽介さんから予想もしなかった言葉をかけられた。「週末、パーティーに同伴してほしい」その申し出に、一瞬どう答えるべきか迷った。会社のパーティーなら、妻として出席するのも仕事の一環だとは思う。でも、私たちの結婚は形式的なもの。それを思い出すたび、胸の奥に小さな違和感が
「弟さんのことを大切にしてるんですね」私の言葉に、陽介さんは一瞬だけ目を伏せた。「向こうはそうは思っていないだろうけどな」少し悲しげな表情を浮かべながら、彼は苦笑する。その顔には、どこか諦めが滲んでいた。「俺と弟は母親が違うんだ」その言葉に、私は小さく息を飲む。なんとなくそんな気がしていたが、やはりそうなのかと確信に変わる。義母――彼のお母様の言動や態度からも、何かしら考えがあるのだろうと薄々感じていた。「お母様は、神崎さんとのご結婚を望んでいらっしゃったんですよね?」彼は無言のまま、視線を遠くに投げる。「でも、それはどうして……」私は勇気を振り絞って問いかける。彼と神崎さんの結婚が望まれていたのなら、なぜ私のような存在を選んだのか、その理由をどうしても知りたかった。陽介さんは少し間を置いてから、低い声で答えた。「母にとって、神崎は都合が良かったんだろう。彼女なら自分の思い通りにできると思ってる」確かに、神崎さんはお母様の言いなりのように見える部分もあった。「それはたしかに……」「もしかして母もここに来たのか?」その話をしていなかったなと思いつつ、「初めのころに」それだけ答えると、陽介さんは髪をかきあげて大きく気を吐いた。「すまない」その言葉には、冷たさの中にどこか悔しさのような感情が垣間見えた。彼の母親――義母が、陽介さんの人生にどれほどの影響を及ぼしてきたのかを想像すると、胸が締め付けられる思いだった。「じゃあ、神崎さんとの結婚を拒むために、私を……?」私の問いに、陽介さんは初めて正面から私を見つめた。その瞳には、冷静さの奥に隠された迷いが映っていた。「そうだと言ったら、君はどう思う?」なんとなく彼の瞳は揺れていて、後悔が滲んでいるようにも見えた。私はつとめて明るく言葉を発する。「その理由なら、他の女性でもよかったんじゃないですか? いくらでも利益になる方はいますよね?」思わずそう問いかけた私に、陽介さんは少し驚いたように目を細めた。しかし、気を悪くすることもなく、むしろアルコールが入っているせいか柔らかな雰囲気のまま、申し訳なさそうに言葉を続けた。「自意識過剰だと思うかもしれないが……みんな、なんだかんだ俺にいろいろ求めたり、本当の結婚にしたがるんだ」その言葉に、私は一瞬言葉を失った。彼のような人だからこそ、
あの日から、なぜか陽介さんは家へ帰ってくるようになった。最初は理由が分からず戸惑っていたが、何度か神崎さんが来た際、陽介さんが冷たく対応してくれているのを見て、彼が私の状況を察してくれているのだと気づいた。仕事を終え、今日は特に変わったこともなく普通に帰宅した陽介さんに、私はお礼を言おうと決意した。キッチンで飲み物を手にしている彼に向かって、そっと頭を下げる。「あの、ありがとうございます」突然の言葉に、陽介さんは少し驚いた様子で私を見た。何のことかと尋ねるような視線を送ってくるが、すぐに意味を理解したのだろう。一瞬、バツの悪そうな表情を浮かべる。「俺が持ち掛けた話だからな」そう短く答える声は素っ気なくも、どこか優しさが含まれているように感じられた。その時、当麻が小さな声で「ね、いっしょにごはん?」と陽介さんを見上げながら言った。「こら、当麻。わがまま言わないの」私は慌てて当麻をたしなめる。この結婚はあくまで形だけのものであり、彼に気安く接していい立場ではない。そう思っているのに。「いいよ、一緒に食べよう」陽介さんは意外なほどあっさりと了承した。私にはどこか距離を保っている彼が、当麻には驚くほど柔らかい表情を見せている。その様子が妙に温かくて、胸がくすぐったくなる。食卓を囲み、まるで本当の家族のように食事をする時間。私は陽介さんと当麻のやりとりをそっと見守りつつ、料理に視線を落とす。「水、飲めるか?」優しい声色に、当麻が頷いた……。(……どこかでこの声を聞いた気がする)曖昧な記憶が脳裏をよぎる。あの夜――バーで過ごしたあの夜、酔った私に同じような優しい声をかけてくれたバーテンダーの彼。(でも、あの人は目が見えないはず……それに、もうこの世にはいないかもしれない)妊娠が分かったあと、私は一度だけあのバーを訪れたことがあった。しかし、そこにいた別の男性に、「彼はもういない」と告げられた。その言葉が何を意味するのか、聞き返す勇気もなかった。だから当麻の父親はわからいままだ。当麻が大きくなったら、あの指輪を渡そう。あの日の気持ちのまま交換した指輪。どこかで、彼も形見の指輪を大切にしてくれているといい。そんな考えを抱えながら、目の前で笑顔を見せる陽介さんと当麻の姿をぼんやりと見つめていた。「ママ!」当麻の明るい声が、私のぼんやり
それからというもの、陽介さんはなぜか家に帰ってくるようになった。その理由は分からない。ただの形式的な結婚だと思っていた私には、彼のその行動がまったく理解できなかった。当麻はというと、初めは少し緊張した様子を見せていたけれど、驚くほど早く陽介さんに懐き始めた。それが何よりも私には不思議でならなかった。意外だったのは、会社で見せる冷淡で感情を感じさせない表情とは違い、当麻に向けて柔らかい表情を見せることがあることだ。その姿に、私の中にある彼への印象が少しずつ揺れ始めていた。「ねえねえ、陽介さん!」当麻が声を張り上げて、陽介さんの袖を引っ張る。私は止めようとしたが、彼は困ったように眉を下げただけで、声を荒らげることもなく応じた。「どうした?」「これ見て!」当麻は手に持っていたおもちゃの車をテーブルの上で動かして見せた。陽介さんはそれに目を向け、ほんの少し微笑む。「かっこいいな。それはパトカーか?」「うん! ママが買ってくれたんだよ!」「そうか。ママは優しいな」その短いやり取りに、私はなんとも言えない気持ちになった。普段から見せる陽介さんの無表情が、当麻の前では少しだけ和らぐ。それが少し意外だった。しかし、陽介さんの変化に驚く一方で、私は気づいてしまったことがある。リビングや廊下で、ふと目をやると、彼が額に手を当てて目の上を押さえる仕草をしている。まるで頭痛に耐えているかのように見えた。(何か余計なことかもしれないけど……)放っておけない性分の私は、頭痛に効果があるというハーブティーを淹れて、彼の部屋に持って行くことにした。ノックをして部屋に入ると、陽介さんはデスクに向かって何かの資料に目を通していた。「お茶をお持ちしました」そう声をかけると、彼は視線だけをこちらに向けた。「そこに置いておいてくれ」指示通り、そっとデスクの隅にカップを置こうとしたとき、ふと目に入った資料の一部に心臓が跳ねた。そこには、弟である悠馬さんが担当している案件の資料が並べられていた。(これは……)一つの会社名が目に飛び込み、つい声に出してしまった。「これ……」その小さな呟きに、陽介さんは怪訝そうな目で私を見上げる。「なんだ?」その鋭い問いに、慌てて首を横に振る。「いえ……」掃除婦が余計な口を挟むべきではないと思いつつ、口が勝手に動いてしまった。