里香は豚骨とトウモロコシ、それにいくつかの野菜を買って帰り、早速スープの仕込みを始めた。ソファに座ってスマホを取り出し、かおるにメッセージを送る。里香:【家、売っちゃったから、しばらく泊めて】かおる:【全然OK!しばらくどころか、ずっと住んでてもいいよ!】里香:【いつ帰ってくるの?】かおる:【こっちはもうちょっとかかりそう。桐島の景色がめっちゃ綺麗だから、帰ったらお土産持って帰るね】里香:【楽しみにしてるよ。待ってるね】かおるとのやり取りを終えたその瞬間、雅之から電話がかかってきた。冷めた声で「何?」と出ると、雅之は「いつ帰ってくるんだ?」と問いかける。「帰るって、どこに?」「碧浦の別荘だよ。僕、ずっとここに住んでるんだから」「それが私に何の関係があるの?」電話越しに雅之の息遣いが重くなるのがわかった。彼の苛立ちが伝わってくる。「里香、僕たちまだ離婚してないんだぞ」「はっ!」と冷笑し、里香は冷たく返す。「離婚してないからって、一緒に住まなきゃいけないなんて、どこの法律に書いてあるの?」雅之:「......」里香はさらに冷たく言い放つ。「用がないなら、もう電話してこないで」電話を切ろうとしたが、ふと思いついて「離婚の話なら別だけどね」と一言加えた。言い終わると、里香はスマホを横に置き、煮込んでいたスープの様子を見にキッチンへ向かった。その一方、冷たい雰囲気が漂うオフィスでは、雅之が切れた電話を見つめ、顔を曇らせていた。里香の居場所は把握している。だが、無理に連れ戻せば、確実に反発される。下手をすれば、二人の関係はさらにこじれるだろう。いや、もう既に氷点下まで冷え切っているのだが。ちょうどその時、桜井が部屋に入ってきた。「社長、夏実さんをお呼びしました」雅之は冷たく命じる。「先に監禁しておけ」桜井は「かしこまりました」と頷きながら、内心ではため息をついていた。昔なら、雅之がこんな冷酷な態度を取るとは想像できなかった。今回は夏実がやりすぎたに違いない。夕方、里香は食べ物の詰まった食箱を手に病院へ向かう。彼女が病室に入った瞬間、その動きは雅之のスマホに通知されていた。雅之は冷たく「病院へ行く」と言い、部下に指示を出した。病室では、祐介がベッドに寄りかかり、里香が小さなテーブルを整え、
雅之は祐介を冷ややかに一瞥し、皮肉っぽく「お前がまだ生きてるか見に来ただけだよ」と言った。祐介は少し笑みを引きつらせながら、「それなら残念だったな」と返した。雅之は気にせず、「次はもう少し本気でやれば、期待に応えられるかもな」と言い、椅子を引き寄せて座り、遠慮なく食器を手に取って食べ始めた。里香はすぐに、「それ、あんたのじゃないから!」と文句を言ったが、雅之は眉をひそめて、「料理は食べるためにあるんだろ?」と平然と答えた。「あんたってほんと......」里香は呆れたようにため息をついた。何なの、この人?わざわざ病院まで来て、祐介と食べ物を取り合うなんて!恥ずかしくないの?雅之は全く気にする様子もなく、むしろ楽しんでいるかのように食べ続け、祐介も負けじと食べ始めた結果、二人であっという間に一人分の食事を平らげてしまった。里香は呆れるばかり。雅之は箸を置いて、ナプキンで優雅に口元を拭いながら「なかなか美味かった」とだけ言い残し、立ち去った。本当にこの人、頭おかしいんじゃない?里香は祐介に向き直って申し訳なさそうに、「ごめんね。あんなのが来るなんて思わなかった。足りなかったら、家に戻ってまた持ってくるから」と言った。祐介は優しく笑って、「いや、大丈夫。十分食べたから」と答えたが、里香は眉をひそめて、「本当に?全然面倒じゃないから持ってくるよ」と気遣った。すると祐介は少し困ったように、「でも、君が戻ったらまたあいつが来るかもしれないだろ?」と指摘した。里香は言葉を失った。確かに、雅之がこんな形でここに来るなんて、全く予想外だった。祐介は苦笑いしながら、「あいつは、君が俺に料理を作ってくれるのが面白くないんだろうな」と舌打ちした。里香は食器を片付けながら、「私が誰に料理を作ろうが、私の自由でしょ。彼がどう思おうが関係ないわ」と強気に言った。「それもそうだな」祐介は感心したように頷き、狐のような目で微笑んで彼女を見つめた。里香が食器を片付け終わると、「祐介兄ちゃん、何か食べたいものがあれば言ってね」と提案した。祐介は驚きつつ、「本当に?」と尋ねると、里香はキラリと輝いた目で「何でもリクエストしていいよ。作ってあげるから」と自信満々に答えた。祐介は顎に手を当てて考え込み、「じゃあ、ちょっと試させてもらおう
祐介は「君はまだ若いんだし、何か仕事を見つけて自分を忙しくした方がいいよ。毎日ぼんやりしてると、精神的にしんどくなるかもしれないからさ」と優しく言った。里香は「うん、考えておくね」と軽く返事をした。すると祐介はすかさず「じゃあ、俺の会社に来るのはどう?今、人手が足りなくてさ」と提案した。里香は笑って、「冗談でしょ?私、そんなスキルないし、失敗したらどうするの?」と軽く返す。それでも祐介は真剣な表情で彼女を見つめ、「大丈夫だよ。君がミスしても、俺が全部フォローするからさ」と自信満々に言った。里香は一瞬黙り込み、何か言おうとしたその時、病室のドアがまた開いて、蘭が入ってきた。「また来たの?」と祐介が驚いて聞いた。蘭は最初、笑顔だったが、里香を見るなりその笑みが消え、目つきが一気に警戒心を帯びた。急いで歩み寄り、「結婚してるんだから、祐介兄ちゃんに会いに来るのやめて。彼、まだ独身なんだし、誤解されたらどうするの?」と強い口調で言った。「蘭!」祐介は彼女が突然来たことに驚いたが、すぐに気付いた。誰かが彼女を呼んだんだろうと。その「誰か」は、祐介と里香が一緒にいるのが気に入らない人だ。蘭は祐介の言葉を無視して、里香に向かい「さっさと帰って。もう来ないでね。祐介兄ちゃんが既婚者と絡んでる姿なんて見たくないの」と言い放った。里香の瞳にはほんの少し冷ややかな色が浮かび、「あなた、誰?」と静かに尋ねた。蘭は顎を上げて「北村蘭よ」と答える。「祐介兄ちゃんとどういう関係?」と里香が続けて聞くと、蘭は一瞬驚いたが、すぐに怒りに変わり、「祐介兄ちゃんとの関係がどうだろうと、あなたには関係ないでしょ!」と声を荒げた。里香は眉を上げて、「さっき、祐介兄ちゃんは独身って言ってたよね?だったら、私に指図する権利はないんじゃない?」と冷静に返した。「この......!」 蘭の顔がさらに険しくなる。それでも里香は続けて、「私は祐介兄ちゃんの友達よ。それに、あなたが彼と親しいのはわかるけど、彼の周りに女性がいるたびにこんな態度取るの、ちょっと失礼だと思わない?」と穏やかに言った。蘭の顔は真っ赤になり、「私に説教するつもり!?何様なのよ!?」と叫んだ。里香は冷静に、「別に説教じゃないわ。ただのアドバイスよ」と微笑んだ。その後、里香
蘭はそう言うと、振り返って足早に部屋を出ていった。祐介は蘭が置いていったピンクの可愛らしい食箱に一瞬目をやったが、すぐに視線を逸らし、手をつけようとはしなかった。里香はマンションに戻り、階段を上っていた。かすかにタバコの匂いが漂ってきたが、特に気に留めなかった。階段で誰かがタバコを吸っているのは、珍しいことではないからだ。自分のフロアに着き、パスワードを入力して玄関を開けた。その瞬間、ドアを閉めようとしたところ、突然誰かがドアを強く引っ張り開け、彼女は勢いよく中に押し込まれた。「バン!」ドアが勢いよく閉まる音に、里香は驚いて目を見開いた。「雅之、何してるの?」雅之は大きな体で彼女を壁に押し付け、その太い腕でしっかりと腰を掴んでいた。軽く力を加えるだけで、彼女の体は靴箱の上に持ち上がった。彼の顔は里香の鼻先まで近づき、低い声で囁いた。「他の男に料理作って慰めてる妻がいる。どうするべきだと思う?」雅之の手がさらに強く彼女の腰を締め付け、まるでそのまま折りそうな勢いだった。「その男を殺すか、それとも......」 そう言うが早いか、雅之は里香の唇に強引にキスをした。タバコの残り香が彼の唇から漂い、その煙の匂いが彼女の呼吸を支配していった。「んっ!」里香は必死に抵抗し、彼を押し返そうとしたが、雅之は彼女の首筋へとキスを移し、そのまま鎖骨へとたどり着き、軽く噛みついた。里香の体がびくりと震え、呼吸が荒くなっていく。彼女は雅之の肩を叩き、力を込めて押し返しながら「やめて!離して!」と叫んだ。だが、雅之は再び彼女の唇にキスをし、「もっと押してみろよ。ここで抱いてやるぞ」と囁いた。その言葉に、里香は呼吸を乱しながらも、怒りが込み上げてきた。里香は冷静になろうと努め、毅然とした声で言った。「ここは私の友達の家よ。こんなところで馬鹿な真似しないで!」雅之は唇を彼女に触れたまま、「だったら僕と出かけよう。他で抱いてやる」と低く囁いた。この無礼者!里香は心の中で雅之を罵り、深く息を吸って「もういい、離して。そんな気分じゃない」と冷たく言った。雅之は眉を上げ、「ふざけてるわけじゃない。本気で言ってるんだ」と言った。里香は眉をひそめ、「これが本気だって?」と問い返すと、雅之は薄笑いを浮かべながら「お前を抱
里香の指がかすかに震え、胸の中に一瞬恐怖が走った。雅之の手が彼女の服に触れ、少し力を入れればすぐにでも裂けそうなほどだった。「ここでそんなことしたら、一生恨むからね!」里香は羞恥と怒りを込めて叫んだ。雅之の動きが一瞬止まる。手に握った布は柔らかく、ほんの少し力を加えれば破けそうだった。しかし、涙ぐんだ彼女の瞳を見て、なぜか苛立ちがこみ上げてきた。夫婦なのに、どうしてそんなに嫌がるんだ?別に満足させていないわけじゃないのに。雅之はタバコを取り出し、唇にくわえた。ライターを取り出し火をつけようとしたが、ふと里香の震えるまつげに目を留め、ふっと笑みを浮かべた。「火、つけてくれよ」彼女の手にライターを押し付け、その目は半分細められ、どこかからかうような光を帯びていた。里香はライターを顔に投げつけたくなったが、彼が落ち着いた様子だったので、それを壊さないようにした。「カチッ」と音を立てて火をつけ、彼に差し出す。小さな炎が雅之の顔を照らし、その目は深く、まるで炎を宿しているかのように見つめてきた。雅之は大きく一口吸い込み、里香の顔に向かって煙を吹きかけた。「ゴホッ......!」里香は咳き込み、彼を思い切り押し返した。雅之は低く笑いながらも、彼女が押し返すのを大人しく受け入れ、再びタバコを口にくわえた。里香は窓辺に向かい、窓を開けた。外の空気が一気に流れ込み、部屋にこもった煙を押し出した。「で、何しに来たの?」里香は冷たく尋ねる。雅之は「夫婦の時間を過ごしに来た」と無表情に答える。「......」話が全く噛み合わない。里香は彼を無視し、部屋の灯りをつけると、キッチンから温めていた料理をテーブルに運んだ。まだ食事をしていない。祐介に先に届けたせいで、今は空腹が募っていた。雅之は、彼女がスープをすする様子をじっと見て、低い声で「今後、祐介に食事を持って行くのはやめろ」と言い放った。里香は冷たく彼を一瞥し、「あなたが彼を殴らなければ、食事を届ける必要なんてなかったのに」と返した。雅之の顔が一瞬歪んだ。この女、俺を責めるつもりか?雅之は鋭い目つきで彼女を睨みつけたが、里香はそんな彼を無視して、淡々と食事を続けた。雅之は黙ってタバコを消し、ゴミ箱に投げ込むと、再びテーブルに近づき、勝手に食器を手に取っ
病院ですでに祐介と食事の取り合いをしていたのに、またここでも自分と奪い合うことになるとは!この男、まるで飢え死にから蘇ったかのようじゃないか?食卓には、見えない緊張が漂っていた。最後の一切れのスペアリブを、里香が素早く手を伸ばして取ろうとしたが、雅之の方が早かった。彼はその肉をさっとつまみ上げ、眉を上げて彼女を見つめた。「食べていいよ、毒仕込んであるけどね」里香がそう言うと、雅之はじっと彼女を見たまま、ためらいなくスペアリブを口に運んだ。全然怖がってない。里香は唇を噛みしめた。そういえば、以前彼に作った料理で食中毒を起こした時、彼が真っ先に疑ったのは自分だった。でも、今は「毒を入れた」とはっきり言っても、まばたきひとつせずに食べている。毒を入れてないと確信してるのか、それとも死ぬ覚悟でいるのか?ふと里香は尋ねた。「雅之、本当に毒入れてたら、怖くないの?」雅之は淡々と答えた。「死ぬ前に、お前を先に殺す。黄泉の国でも一緒に行けるだろ」里香は無表情のまま立ち上がり、歩き出した。雅之は彼女をじっと見送り、里香が寝室のドアの向こうに姿を消すまで視線を外さなかった。彼はゆっくり箸を置き、しばらく黙っていた後、食器を片付け始めた。一方、里香は寝室で座り込み、イライラしていた。雅之が帰らないと、どうすればいい?本当にここに住むつもりなのか?ここはかおるの家だし、自分が勝手に決めるわけにはいかない。かおるは雅之をあんなに嫌っているのに、彼が泊まったことを知ったら、帰ってきた途端に全部の物を捨てかねない。「はあ......」里香はため息をつき、ドアを開けて外に出た。「ねえ、あんた......」そう言いかけた瞬間、すでに雅之の姿は部屋から消えていた。一瞬、里香は驚いた。彼、帰ったの?テーブルを見ると、すっかり片付いていて、食器も洗ってあった。里香は少し唇を噛み、玄関に向かってドアをしっかりと施錠した。帰ってくれてよかった。これで、追い出す手間も省ける。翌朝、里香は朝食を作って病院に向かった。だが、病室に入るやいなや、すぐ後ろから誰かが一緒に入ってきた。それに気づいた祐介は、目を細めてその二人を見た。「雅之、ついに人間に戻る気か?」祐介は皮肉を込めた笑みを浮かべて雅之に話しかけたが、雅之は彼の言
雅之は自分の空っぽの手を見つめて、突然言った。「どうしてもう手を繋がない?」「え?」里香は耳を疑った。「手を繋ごうって言ってるんだよ」と雅之が繰り返した。呆れた里香は「あなた、二宮家の坊ちゃんでしょ?DKグループの社長なんだから、こんな子供じみたこと、やめてよ」とため息をついた。ようやく雅之の視線が彼女に向けられたが、その目は暗く、その端正な顔は冷たかった。彼が何を考えているのか、全く読めない。里香は眉をひそめたが、彼の考えを知る気もなく、そのまま振り返って歩き出す。病院なんていなくてもいい。祐介ならご飯ぐらい自分で食べられるはずだ。「一緒にある場所へ行こう」と雅之が突然言った。「行かない」里香は即答した。雅之はじっと彼女を見つめて、「行かないなら、今夜またお前のところに行く」と低く脅すように言った。その言葉に、里香は足を止めて、鋭い目つきで彼を睨む。「どこに行くの?」雅之は薄く笑い、無言で車へ向かって歩き出した。里香は彼の高い背中を見つめ、心の中で「もし視線で人を殺せるなら、今頃あの背中は穴だらけよ」と思った。車に乗ると、里香はできるだけ雅之から離れ、ドアに体をくっつけるように身を縮めた。雅之は彼女を横目で見て、「車の上に行きたいか?」とぼそっと言ったが、里香は無視した。しばらくすると、突然手を握られた。何度か振りほどこうとしたが、結局諦めた。手を握るくらいなら、彼が暴走しなければそれでいい。しかし、雅之は眉をひそめる。何かが違う。手は同じ、白くて柔らかいはずなのに、違和感がある。彼の唇は硬く結ばれ、車内の空気が重くなり始めた。里香はその空気を感じたが、気にしなかった。雅之の気分なんていつも不安定で、生理でも来ているのかと思うくらい。自分の方がまだ安定しているくらいだ。車がスムーズに進み、見覚えのある街並みが目に入ると、里香は眉をひそめて雅之を見た。「なんでここに来たの?」碧浦の別荘。前にもここに無理やり連れてこられて、外に出してもらえなかったことがある。また監禁されるのか?里香の不安そうな顔を見て、雅之は「ここ、綺麗だろ?僕たちが住むのにぴったりだと思うけど?」と軽く言った。「思わないし、好きじゃない。あなたと一緒に住む気なんてないから」と冷たく言い放つ。雅之の顔が険しく
里香がもう限界に近づいたその時、雅之は突然視線を外し、碧浦の別荘へと歩き出した。「ついてこい」冷たく一言だけを残し、里香を一瞥もしなかった。雅之は里香が逃げることを心配していない。里香には力も権力もないため、彼の手のひらから逃げ出せるはずがなかった。里香は拳を握りしめ、選択肢がなく、仕方なく雅之の後に続いたが、雅之は別荘の中に入るのではなく、庭の方へと歩いていった。里香の目に疑問の色が浮かんだ。なぜそっちへ? この男はいったい何をしようとしているの?その疑問の答えはすぐにわかった。庭の一番奥には、二階建ての小さな建物があり、その入り口には数人のボディーガードが守っていた。「雅之様」ボディーガードたちは雅之を見て、敬意を込めて頭を下げた。雅之は冷たく言った。「開けろ」ボディーガードの一人が鍵を取り出し、その小さな建物のドアを開けた。里香は少し離れたところから、眉をひそめてその様子を見ていた。建物の中は真っ暗だったが、椅子に座っている人の姿が見えた。突然の光が差し込んだため、中の人は眩しそうに手で顔を覆った。光に慣れると、すぐに立ち上がり走り出した。しかしボディーガードがすぐに彼女を阻んだ。里香は今度こそ、その中にいた人物が夏実であることに気づいた。雅之が彼女を閉じ込めていたなんて!夏実は彼の恩人ではなかったのか? 恩人に対して、こんなことをするなんて。二日間閉じ込められていた夏実の顔色は蒼白で、痩せ細っており、まるで一陣の風が吹けば倒れてしまいそうなほどだった。「雅之、あなた私を閉じ込めるなんて!」夏実は雅之を見るなり、涙ぐんだ目で叫んだ。雅之は冷ややかな表情で、「楽しかったか?」とだけ返した。夏実は怒りで体が震え、「どうしてこんなことができるの? たとえあなたが私を好きじゃなくても、あの時、私がいなければあなたはとっくに車に轢かれて死んでいたはずよ! 私があなたを救ったのに、どうしてこんな仕打ちを!」と声を震わせた。捕らわれたとき、夏実は信じられない思いだった。かつて自分のために里香と離婚まで考えた雅之が、自分を閉じ込めるなんて!二日間、一度も光を見ることができなかった。完全な暗闇はまるで地獄のように包み込まれて、叫んでも誰も答えてくれなかった。夏実はぐらりとよろめき、義足が際立って目に
月宮家の人々がこの知らせを聞いたとき、皆が怒り狂いそうになった。だが、月宮家には綾人という一人息子しかおらず、本当に彼を見捨てるわけにもいかないため、仕方なくかおるを受け入れることになった。そして今、月宮家では婚礼の準備が進められている。月宮はすべてを管理し、少しでも気に入らないところがあればすぐに修正させていた。かおるへの想いは日増しに強くなり、夢中になっているようだった。そのかおるの顔に浮かぶ甘い笑顔を無視して、里香は聞いた。「雅之を見かけた?」かおるは首を振った。「いないよ、会場にはいなかったの?でもさ、最近、雅之の存在感めっちゃ薄くない?里香のお父さんもお兄さんたちも毎日ずっとあんたの周りにいるし、雅之は入る隙ないんじゃない?」毎回、疎外されるような雅之の姿を思い出し、かおるはつい笑った。里香も笑いながら言った。「たぶん今は自分のことで忙しいんだろうね。落ち着いたらきっと会いに来てくれるよ」冬木。二宮系列の病院の病室内。正光が緊急処置を受けていた。雅之が駆けつけ、状況を尋ねた。付き添いの看護師が答えた。「先ほど若い男性が訪ねてきて、先生がその人と会ってから情緒が激しく不安定になったんです」雅之は眉をひそめた。「若い男性?顔は見たのか?」看護師は頷いた。「監視カメラに映っているはずです。いま映像を確認します」雅之は処置中の正光の様子を見つめた。全身がけいれんし、骨と皮だけのようにやせ細っており、どう見ても長くは持ちそうになかった。すぐに監視映像が再生された。画面に映った人物を見て、雅之の表情が次第に冷たくなっていった。まさか、彼だったとは。二宮みなみ!本当に死んでいなかったのか!雅之はすぐさま人を使って彼の行方を探させた。が、それはさほど時間もかからずに見つかった。みなみはちょうど療養所から出たばかりで、二宮おばあさんのところに顔を出していた。夜の帳が降りた頃、雅之は外に現れた高身長の人影を見つめた。十数年ぶりの対面、お互いにまるで別人のようになっていた。雅之は手にもっていたタバコをもみ消し、そのまま歩み寄った。二人の男が向き合い、じっと見つめ合う。みなみは不意にくすっと笑い、言った。「兄さんを見たら挨拶くらいしろよ、まさくん」雅之は冷たい目で彼を見た。
そう言って手を振ると、沙知子はそのまま中へと押し込まれた。リビングにいた人たちの視線が、一斉に彼女の方へ向いた。沙知子の顔色はみるみるうちに青くなり、次第に真っ白に。何とも形容しがたい、みっともない表情を浮かべていた。秀樹は鋭い視線で彼女を睨みつけ、「どこへ行くつもりだったんだ?」と問いかける。沙知子の隣にはスーツケースがひとつ、ぽつんと置かれていた。彼女は答えず、顔色はさらに悪くなっていく。そんな緊張感の中、桜井が口を開いた。「瀬名様、こちらで調べた結果、当時のホームで起きたゆかりによるなりすまし事件の全容が明らかになりました。こちらをご覧ください」そう言って一枚の資料を差し出し、秀樹の前に置いた。中身に目を通した秀樹は、沙知子が当時、安江のホームを最初に見つけた人物だったことを初めて知った。彼女はずっと前から、里香――つまり本当の娘が誰なのかを知っていた。それにもかかわらず、幸子と手を組んで、ゆかりを娘としてすり替えたのだ。「バン!」資料を読み終えた秀樹は、怒りに満ちた表情で沙知子を睨みつけた。「前から知ってたんだな?なぜそんなことをした?」沙知子は視線を彼に向け、ポツリと言った。「私は長年あなたのそばにいて、自分の子どもを授かることもできなかった。それなのに、あなたはいつも娘のことばかり。私の気持ちなんて、どうでもよかったんでしょ?」そう言って、沙知子はどこか虚しげに笑った。「亡くなった奥さんのことを忘れられないっていうなら、なんで私と結婚したの?最初から私なんか巻き込むべきじゃなかったのよ!」秀樹の表情には、複雑な感情が浮かんでいた。沙知子が長年、瀬名家で抱えてきた想いを思うと、多少は気の毒にも感じた。けれど、彼女がしたことは、決して許されることではない。静かに、しかしはっきりとした口調で彼は言った。「離婚しよう。まとまった金は渡す。どこへでも行けばいい。過去のことも追及しない」沙知子は冷たく笑い、「その方がいいわね」と吐き捨てるように言った。その後、瀬名家は正式に里香の身元を公表し、錦山の上流階級を招いて盛大な宴を開いた。里香は特注のドレスに身を包み、秀樹と腕を組んで優雅に登場した。その美しさに、場にいた誰もが息をのんだ。ふと里香が秀樹を振り返り、その顔に刻
里香は彼の様子を見て少し戸惑いながらも、「それでは、親子鑑定をなさいますか?」と控えめに提案した。「いや、そんな必要はない。君こそが、私の娘だ。見てごらん……お母さんにそっくりじゃないか!」秀樹はすぐさま首を振ると、足早に一枚の写真の前へと歩み寄り、その中の女性を指さした。里香も近づき、じっと写真を見つめる。見覚えのない顔だったが、確かに自分とよく似ているとわかる。特に目元の優しく穏やかな雰囲気が、自分とそっくりだった。里香は軽く唇を噛み、秀樹の方に向き直ると、静かに口を開いた。「やはり一度、きちんと確認しておきましょう。あとで揉め事にならないようにするためにも」するとそのタイミングで、賢司が口を挟んだ。「父さん、やっておいたほうがいいよ。これで今後、誰にも何も言われなくなるんだから」景司は何も言わず、ただ複雑な表情のまま、じっと里香を見ていた。里香とまっすぐ向き合う勇気がなかったのだ。あれほど、何度も雅之との離婚を勧めたのは、自分だった。しかも、その理由は、ゆかりを守るためだった。どれほど愚かだったのか……今になって痛いほど思い知らされる。そんな景司をよそに、里香が賢司の方を見やると、賢司はにこりと笑って言った。「初めまして。賢司だ。俺のことは『お兄さん』って呼んでくれればいいよ」里香は少し戸惑いながらも、小さく唇を動かして「お兄さん」と呼んだ。その瞬間、いつもは厳しい表情の賢司の顔に、初めて柔らかな笑みが浮かんだ。「うん」不思議な感覚だった。ゆかりから十年以上「兄さん」と呼ばれてきたのに、心が動くことは一度もなかった。むしろ、どこかで疎ましく感じていた。けれど、今。里香に「兄さん」と呼ばれた瞬間、煩わしさなんて一切なく、むしろ心地よささえ感じた。これが、血のつながりってやつなんだろう。とはいえ、手続きはやはり必要だった。すでに瀬名家のみんなが里香を家族として受け入れていたとしても。鑑定結果が出るまでには3日かかるということで、里香はその間、瀬名家に滞在することになった。秀樹は里香をひときわ大事にし、細やかな気配りで接してきた。彼女の好みを一つひとつ聞き出して、特別に部屋まで用意したほどだ。賢司も、里香の好きそうな物をたくさん買い揃えて帰ってきた。景司は最後
「じゃあ、本当の妹は、いったいどこにいるんだ?」景司は魂が抜けたように、ぽつりと呟いた。賢司は冷静な表情で言った。「ゆかりは、あの時たしか安江のホームから来たよな。親子鑑定の結果もあって、妹ってことになったけど……今思えば、髪の毛を出してきたのは彼女自身だった。もしかしたら、あれは彼女のものじゃなかったのかもしれない」「ってことは……本物の妹は、まだ安江のホームにいる可能性があるってこと?」景司は兄をまっすぐ見つめた。「ああ、そういうことになるな」賢司は静かに頷いた。ただ、時は流れ、今の安江ホームは当時とはすっかり様変わりしていた。あの頃の子どもたちはみんな成長し、今や全国に散らばっている。探すのは簡単なことじゃなかった。そんな中、なぜか景司の脳裏にふと、里香の顔が浮かんだ。そのときだった。使用人が扉をノックして入ってきた。「賢司様、景司様。二宮雅之と名乗る方が旦那様にお目通りを願っております」雅之?あいつが、なんでここに?景司の表情が固まる。頭に浮かんだのは、ゆかりがしでかした一連のことだった。まさか、詰問しに来たのか?階段を降りてきた秀樹が、「通せ」と静かに命じた。「かしこまりました」5分後、二人の人物が現れた。雅之は背が高く、整った顔立ち。仕草のひとつひとつから気品が漂い、見ただけで只者ではないと分かる男だ。そして彼の隣に立つ女性――上品で美しく、化粧っ気はなくリップグロスだけ。それがかえって、澄んだ印象を際立たせていた。秀樹はその女性――里香の顔を見た瞬間、凍りついたように動きを止めた。似ている!あまりにも似すぎている!この娘、美琴に瓜二つじゃないか!思わず興奮して、里香の前に歩み寄ると、震える声で尋ねた。「あなたは……?」里香は口元に穏やかな笑みを浮かべ、「瀬名さん、初めまして。小松里香と申します」と丁寧に名乗った。「里香!?なんで君がここに?」景司の驚きが部屋に響いた。秀樹が鋭い目で息子を睨んだ。「どういうことだ。お前、彼女と面識があるのか?」「あ、ああ……」景司が答えたその瞬間、賢司が軽くため息をつき、突然弟の頭を掴んでぐいっと向きを変えた。「ちょ、なにすんだよ!」景司は不満そうに身を捩った。賢司は手を離しながら、
「わ、わたしは……」ゆかりは全身を震わせながら、声が出なかった。目の前にこれだけの証拠を突きつけられては、もう言い逃れなどできるはずもない。もはや瀬名家の娘ではなく、お嬢様でもない。こんな状況で、これからどうやって生きていけばいいの?「父さん、この鑑定書の出所がはっきりしていません。もう一度きちんと検査し直すべきです。誰かが細工した可能性もありますから」賢司が冷静な口調で提案した。秀樹はゆかりの顔を見つめたまま、ふいに視線を逸らして「任せる」とだけ答えた。「わかりました」元々、賢司は冷静で厳しい性格だ。景司のようにゆかりを甘やかすようなことはなかった。そんな彼が、ゆかりが偽物であると知り、さらには数々の悪行まで明らかになった今、彼女に対する態度は一層冷たくなるのも当然だった。こうして手配が済むと、ゆかりは監禁されることとなった。景司は放心したようにソファへ崩れ落ちた。「ゆかりが妹じゃないなら、本当の妹は一体どこに……」秀樹はじっと壁にかかった一枚の写真を見つめていた。着物をまとった気品ある女性が、満面の笑みを浮かべてカメラの前に立っている。「美琴……間違った子を連れてきてしまったよ。ゆかりは、僕たちの娘じゃなかった。どうか……本当の娘がどこにいるのか、教えてはくれないか」沙知子はその様子を見つめながら、強く拳を握りしめていた。爪が手のひらに食い込みそうなほど、力を込めて。嫁いできて十年。いまだに秀樹の心には入れず、息子たちからも距離を置かれている。本当に、報われない人生だわ……親子鑑定の再検査には時間がかかる。その間、瀬名家では本物のお嬢様探しが始まっていた。その動きはすぐに、雅之と里香の耳にも入った。「鑑定結果が出るまで三日かかるそうだ。錦山まで行くつもりか?」と雅之が尋ねると、里香は軽く頷いた。「うん、ちょっと見てこようかな」三日あれば、錦山をゆっくり見て回れる。その頃には、瀬名家がどう動くかも見えてくるだろう。錦山へは飛行機で数時間。着いたときには、ちょうど夕暮れどきだった。雅之は里香を連れて、名物料理をいろいろ食べ歩いた。以前は好んでいた焼きくさややドリアンなどには目もくれず、辛いものや甘いものばかりを選ぶ彼女の様子に、雅之は思わず笑いながらからかった。「どうした
秀樹はソファに深く腰を下ろし、目を閉じたまま、何も言わなかった。賢司は沙知子の方をちらりと見た。継母である彼女は、瀬名家の中ではいつも遠慮がちで、小さな声で「それは……」と口を開いた。「黙れ!」その瞬間、秀樹が怒声を上げ、リビングの空気は一気に重く沈んだ。賢司はただ事ではないと直感し、それ以上は何も言わず、そっと隣のソファに腰を下ろして静かに待った。30分後、玄関から再び物音がして、景司とゆかりが前後して部屋に入ってきた。中に足を踏み入れた途端、景司は空気の異様さに気付き、「父さん、兄さん、何があったんだ?」と問いかけた。後ろにいたゆかりは、おどおどと様子を伺い、不安げな表情を浮かべていた。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。秀樹がようやくゆっくりと目を開け、「全員揃ったな。なら、これを見ろ」と低く言った。彼はテーブルの上の書類を指差した。最も近くにいた賢司がそれを手に取り、目を通していくうちに、その表情が次第に険しくなっていく。「……本当に、お前がやったことなのか?」読み終えた賢司は、鋭い視線でゆかりを見据えた。ゆかりは顔面蒼白になり、「え?な、何の話?兄さん、何言ってるのか全然わからない……」と声を震わせた。「これは……一体どういうことだ?」景司が近づき、書類を手に取って見た瞬間、顔つきが凍りついた。ゆかりを振り返り、怒りをにじませて睨みつけた。「放火、誘拐、薬物による冤罪工作……ゆかり、お前、冬木に残ってこんなことしてたのか!」その言葉に、ゆかりはすべてがバレたと悟った。だが、認めたら終わりだ。すべてを失う。「な、何のこと?何かの誤解じゃない?兄さん、いつも私のこと一番可愛がってくれてたじゃない……私がそんなことする人間に見える?」ゆかりは涙をポロポロこぼしながら、すがるように訴えた。景司は、苦しげに言った。「俺も、あの電話を聞いてなければ、もしかしたら信じてたかもしれない。でもな、雅之を陥れようとするお前を見て、もう……何を信じればいいのかわからなくなった」「土下座しろ!」その時、秀樹の怒声がリビングに響き渡った。ゆかりの膝がガクガクと震え、その場に崩れるように跪いた。涙に濡れた顔で秀樹を見上げる。「お父さん、信じて。本当に私じゃないの!誰かが私をハメようと
「もしもし、どうすればいいのよ?全部失敗したじゃない!雅之に指まで折られたのよ!あなたの計画、全然使いものにならなかったわ!」怒りを押し殺して話してはいたが、ゆかりの声は明らかに震えていた。少しの沈黙のあと、相手は冷たく言った。「自分の無能を人のせいにしないでくれる?」「……なにそれ!」ベッドから飛び上がりそうな勢いで声を荒げたゆかりだったが、それでもこの人物に頼るしかないと思い直し、なんとか感情を押さえて訊ねた。「じゃあ、これからどうするつもり?」「ここまで使えないなら、もう協力する意味もないね。あとは勝手にやれば?」それだけ言い残して、相手は一方的に電話を切った。「ちょ、ちょっと!もしもし!?」ゆかりは青ざめた顔で慌ててかけ直したが、すでに電源が切られていた。ひどい。本当に、ひどすぎる!そのとき、不意に背後から声がした。「誰と電話してた?」ドアの方から聞こえてきたのは景司の声だった。「に、兄さん……なんで戻ってきたの?」驚いたゆかりは、思わずスマホを床に落とし、動揺を隠しきれないまま景司を見上げた。景司はゆっくりと部屋に入ってきた。ドアの外で、彼女の会話をすべて聞いていたのだ。雅之に指を折られたという事実も、そこで知った。「お前、雅之を陥れようとしたのか?」ベッドの脇に立ち、不機嫌そうな目で彼女を見下ろしながら、床に落ちたスマホを拾い上げる。そして画面に表示された番号を確認した。記憶力に優れた彼は、その番号をすぐに覚えた。「この相手、誰だ?雅之を罠にかけろって言ったのか?お前が何度もしつこく俺に、雅之と里香を離婚させろって言ってきたのも、この人物の指示か?」畳みかけるように問い詰められ、ゆかりの顔から血の気が引いていった。「そんなこともういいじゃない。ねぇ、錦山に帰ろ?冬木にはもういたくないの。全然楽しくないし……」甘えるような声で、いつもの手を使ってごまかそうとする。けれど、もうそんなやり方は通用しなかった。「雅之を怒らせたから、逃げるように帰りたいんだろ?……ゆかり、本当に自分勝手すぎるよ」景司は失望を隠さず、彼女をまっすぐに見つめた。ちょうどそのとき、彼のスマホが鳴った。画面には「父さん」の文字が表示された。「父さん?」電話を取った景司の声は
雅之は里香にスマホを返し、彼女が電源を入れてメッセージを確認する様子をそっと見守っていた。ちょうどそのとき、かおるから電話がかかってきた。「もしもし、かおる?」「里香! どういうつもり!? 一人で行くなんて! 最初に一緒に行こうって約束してたでしょ!? なんで黙って出て行ったの? 私のこと、本当に友達だと思ってるの?」かおるの怒鳴り声がスマホ越しに響き渡り、どれほど怒っているかが痛いほど伝わってくる。里香はスマホを少し耳から離し、かおるが一通りまくしたてるのを待ってから、慌てて優しく謝った。「ごめんね、確かに行くつもりだったんだけど、結局行けなかったの。今、外で朝ごはん食べてるんだけど……一緒にどう?」「場所送って!」再び怒りの声が飛んできて、電話は一方的に切られた。里香は鼻をこすりながら、困ったように苦笑いを浮かべた。雅之は優しい眼差しを向けながら、頬にかかった彼女の髪をそっと耳にかけて言った。「君がこっそり出ようとしてたって聞いて、なんか……妙に納得しちゃったんだけど、なんでだろうね」里香はじっと彼を見つめて言った。「たぶん、平等に扱ってるって思ってるからでしょ。でもさ、逆に考えてみて? あなたが特別じゃないから、平等に扱ってるのかもしれないよ?」雅之は言葉を失って完全に黙り込んだ。ほどなくして、かおるが到着した。勢いよく店に入ってきて、里香と雅之が並んで座っているのを見るなり、顔をしかめた。「これ……どういう状況?」里香は説明した。「全部誤解なの。ゆかりが仕組んだことだったけど、結局うまくいかなかったの」かおるは状況を理解した様子だったが、雅之への視線は冷たいままだ。「こいつが他の女と一線を越えそうになったからって、何も言わずに街を出ようとして、それで説明されたからってすぐ許して考え直したってわけ? あなた自身の意思は? 最低限の線引きとか、ないの?」かおるはじっと里香を見つめ、怒りを通り越してあきれたような顔をしていた。里香はかおるの手をそっと握り、穏やかに微笑んで言った。「かおる……いろいろあって、本当に疲れちゃったの。だから、自分にもう一度チャンスをあげたいって思ったの。もしかしたら、本当に変われるかもしれないって……ね?」「ふんっ」かおるは鼻で笑ったものの、
朝の街はまだ車もまばらで、里香はしばらく歩いたあと、タクシーを拾った。「空港までお願いします」そう淡々と告げながら、窓の外に目をやる。視線の奥には、どこか生気のない静けさが宿っていた。同じ頃。徹は、遠ざかる里香の背中を見つめながら、雅之に電話をかけた。「小松さん、出て行きました。向かったのは……たぶん空港かと」渋滞に巻き込まれることもなく、里香が空港に到着したのは、まだ午前七時前だった。一番早い便のチケットを買い、そのまま保安検査場へ向かった。「里香!」ちょうどそのとき、背後から聞き覚えのある声が響いた。一瞬だけ動きが止まり、目を閉じてから、何事もなかったかのように振り返った。少し離れた場所に、雅之が立っていた。整った顔立ちには、冷ややかな表情が浮かんでいる。「どこへ行くつもりなんだ?」ゆっくりと彼が近づいてきた。「ずっと、お前のこと探してたんだ。やっと帰ってきたと思ったら……またすぐにいなくなるのか?もう僕なんて、いらないのか?」雅之は、じっと里香の目を見つめながら言葉を重ねた。里香は静かに答えた。「私たち、もう離婚したのよ。そういう誤解を招くような言い方はやめて」「でも、昨日の夜、僕に会いに来ただろ?間違いなく、会いに来てくれた。そうだろ?会いたかったんじゃないのか?」その言葉に、里香のまつ毛がかすかに震えた。気づいていたんだ。里香は深く息を吸い込み、静かに口を開いた。「私が会いに行ったってわかってるなら、私がこの街を出ていく理由も、きっとわかるはず。でもね、そもそも離婚したら出ていくつもりだったのよ」「あの女は、ゆかりだ。僕の飲み物に何か混ぜて、お前そっくりの格好をして、僕をあの個室に誘い込んできた。でも、途中で気づいた。何もしてない。本当に、何もしてないんだ。里香、あのとき、どうして中に入ってきてくれなかった?もし来てくれたら……僕、きっとすごく嬉しかった」雅之は、言葉を一つひとつ噛みしめるように、まっすぐに彼女を見つめながら言った。戸惑いが、里香の顔に滲む。そんな彼女の手を、雅之がそっと握った。「本当に、何もしてない。何もなかったんだ。お願いだ、僕のこと、捨てないで」その瞬間、心の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出すように、里香のまつ毛が震え、こらえていた涙が頬を