LOGINだが今、またあの陰が、じわりと覆い被さってきた。本当に、しつこいったらありゃしない。どうしてあんな奴、外で死んでくれなかったんだろう。車内は、しばらく沈黙に包まれた。やがて、由佳の不安げな声が響く。「ねぇ、この問題、私を助けて解決してほしいの。そうすれば私とお母さんの生活もまた穏やかに戻るし、亜夢の要求に応えて景司さんをあの子に押しつける必要もなくなるから。私じゃ景司さんに釣り合わないって分かってるけど、亜夢なんてもっと釣り合わない。彼は、もっと素敵な人と一緒になるべきなの」その言葉が終わった瞬間、ふいに髪をそっと撫でられた。由佳が顔を上げると、舞子の穏やかでどこか安堵したまなざしと目が合う。由佳は一瞬ぽかんとして、「……その目、なに?」と尋ねた。舞子はふっと微笑んで言った。「よかった。今やっと、由佳が私のことを本当の友達だと思ってくれたんだって、そう感じられたの」「え?」由佳は一瞬、舞子の意図を掴めず、まばたきをした。「この人、そうでしょ?」舞子はスマホを取り出し、画面を少し再生させた。映し出された映像を見た瞬間、由佳の瞳が見開かれる。「そう!こいつだよ!え、まさか……そいつ、舞子のところに行ったの?」「ええ」舞子は淡々と、先日起こった出来事を説明した。「最初はね、由佳が彼のことをどう思ってるのか分からなかったから黙ってた。でも、今ならはっきり分かる。だから教えるわ。安心して。こういう手合いにお灸を据える方法なら、いくらでもあるから」舞子は、由佳が怒るのではないかと一瞬だけためらった。なにしろ、それは彼女の実の父親なのだから。だが、由佳の瞳はたちまち光を宿した。「どうやるの?」舞子は唇の端を上げて言った。「そうね……刑務所二十年コースなんて、どう?」由佳は息をのむように身を乗り出した。「三十年はいける?できれば、刑務所で一生を終えるくらいがいいんだけど」その声には、憎悪が燃え立つような熱がこもっていた。父親への感情は、もう愛でも憎しみでもなく、ただ消えてほしいという祈りにも似た絶望だった。「少し難しいけど、まぁ、大したことじゃないよ」舞子はさらりと言った。「うぅ……」由佳は舞子に思わず飛びつき、強く抱きしめた。「舞子、どうして
「お母さん、大丈夫?」由佳は心配そうに香里を見つめた。香里は小さく首を振った。「私は大丈夫よ。それより、あなたの顔……」娘を気遣おうとしたものの、その頬に残る痕がどうしてできたのかを思い出した途端、言葉が喉に詰まった。胸の奥を占めるのは、自己嫌悪と罪悪感ばかりだった。「とにかく、今は帰りましょう」由佳の声には、疲れと決意が混じっていた。「亜夢ちゃんは、許してくれたの?」香里の問いに、由佳は短くうなずいた。「うん」その一言を聞いて、香里はようやくほっと息をついた。「それならよかった。あなたたちはいとこ同士なんだから、誤解さえ解ければそれでいいのよ」由佳は何も答えなかった。ただ、その沈黙がすべてを物語っていた。香里が振り返って海斗に頭を下げると、彼は何も言わず、見送りの素振りすら見せなかった。来たときは不安でいっぱいだったのに、帰り道はただ惨めさだけが胸に広がっていく。夜風は湿った重みを帯び、肌に触れるたびに心の奥まで冷たさが染みた。息をするたび、世界がじわじわと遠のいていくようだった。母娘は無言で夜道を歩いた。闇が降り、空の光が少しずつ飲み込まれていく。まるで、二人が奈落の底へと続く道を進んでいるかのようだった。「お母さん、どうしてもここにいなきゃだめなの?」由佳の声は震えていた。香里は長く息を吐いた。「由佳……お母さんが悪かったわ。辛い思いをさせてごめんなさい」由佳の鼻の奥がツンと痛んだ。「おじさんが確かにお金を貸してくれたけど、私たち、ちゃんと返したじゃない。もうこんなに卑屈になる必要なんてないよ。家を売って、この街を出よう。あの人が見つけられない場所で暮らそうよ。きっとうまくいくし、幸せになれる」どうして母がここに留まろうとするのか、由佳には理解できなかった。なぜ、もう消えたはずの血のつながりに縋るのか。けれど、香里は答えなかった。代わりに問い返した。「風早さんとは、どうなってるの?」由佳は少し間を置き、唇を引き結んで言った。「順調だよ」香里は静かに微笑んだ。「それならいいの。今、私が一番心配なのはあなたのことだから。風早さんと仲良くして、将来もし結婚することになれば……耀も、もうあなたをいじめるようなことはできなくなるわ」由佳は返事をしな
亜夢は立ち上がると、無言で階段を上り、二階へと消えていった。香里はその背を見送ったまま、何も言わずに由佳を見つめた。その瞳には、言葉では言い尽くせない懇願が滲んでいた。由佳は唇を噛み、ただ黙って頷くと、亜夢の後を追って階段を上がっていった。二階の亜夢の部屋に足を踏み入れた瞬間、由佳の頬に鋭い音が響いた。パシッ!乾いた衝撃が顔に走る。亜夢は振り下ろした手を払うようにして言い放った。「私を叩くなんて、自分の身の程もわきまえないの?そんな資格があると思ってるの?」由佳は横を向いたまま目を閉じ、ゆっくりと顔を正面に戻した。その瞳は冷たく澄み、静かに問い返す。「……これで気が済んだ?」亜夢は腕を組み、顎を上げて彼女を見下ろした。軽蔑と傲慢が入り混じる眼差しだった。「ひとつ、頼みを聞いてもらうわ。それをうまくやり遂げたら、今回の件は見逃してあげる。だけど断ったら、世間の噂であなたのお母さんを社会的に抹殺してあげる」由佳の胸に冷たいものが落ちた。そんなことになれば、母・香里はきっと耐えられない。結末は目に見えている。彼女の睫毛がかすかに震えた。「……何をすればいいの?」亜夢はソファに腰を下ろし、脚を組んで高慢な笑みを浮かべた。まるで王座に座る女王のようだった。「景司に薬を盛って、私の部屋に連れてきて。それが成功したら、今回のごたごたは全部チャラ。うちも引き続き、あなたたちを『助けて』あげる」「無理よ!」由佳は即座に拒絶した。その声には怒りと絶望が入り混じっていた。「何でもするわ。でも、それだけはできない」亜夢は嘲るように鼻で笑った。「どうして?景司のことが好きなの?あんたに釣り合うと思ってるの?自分の立場をわきまえなさい。あんたなんて、景司の靴を磨くことすらできないくせに」由佳はまっすぐに彼女を見つめて言った。「……私に釣り合わないのは、その通り。でも、あなたも同じ。だから、そんなことはできない」「ふん、口だけは達者ね」亜夢はあざけるように笑った。「男のために自分の母親の命まで捨てるなんて、見上げた根性じゃない。じゃあ、こうしましょうか。今すぐお父さんに言って、あなたのお母さんを追い出させるわ。あのギャンブル狂いの父親が戻ってきたんでしょ?そのとき、お母さんを死ぬまで苦しめても
「海斗、あなたのお姉さん、どういうつもりなの?うちの亜夢ちゃんを由佳に殴らせるようにそそのかしたんじゃないの?今までどれだけ良くしてあげたと思ってるの?お金を借りに来たとき、私たちが断ったことが一度でもあった?それなのに、由佳に亜夢ちゃんを殴らせるなんて!親切心で助けてあげたのに、恩を仇で返すなんて!」由佳の母――小池靖子(こいけ やすこ)の罵声が別荘中に響き渡った。その声は怒りに満ち、どこかで何かが叩きつけられるような破壊音が混じっていた。別荘の玄関前で、香里と由佳は足を止めた。由佳が香里を見ると、その顔は血の気を失い、蒼白だった。由佳は胸の奥がぎゅっと締めつけられるような後悔を覚えた。どうしてあのとき、あんなことをしてしまったのだろう。もし耐えてさえいれば、母が靖子に面と向かって罵られることもなかったのに。由佳は悔しさに震え、垂れた両手を固く握りしめた。香里は深く息を吸い込み、意を決して中へと足を踏み入れる。その背を追うように、由佳も続いた。リビングに入ると、室内は惨憺たる有様だった。コップや花瓶の破片が床に散らばり、家具も乱れている。ソファには亜夢が座り、涙に濡れた顔を歪めながら、憤りと屈辱をないまぜにした泣き声を上げていた。靖子は娘を抱きしめながら、怒りに満ちた眼差しを叔父――小池海斗(こいけ かいと)へと向けていた。一方の海斗は、タバコを指に挟んだまま眉間に皺を寄せ、煙を吐いていた。「今回のことは由佳が悪いの。あの子も自分のしたことを分かってるから、亜夢ちゃんに謝りに来たのよ」香里は無理に笑みを作りながら海斗に言い、そっと歩み寄った。靖子は冷ややかに鼻で笑い、「香里さん、子どものしつけもまともにできないの?『恩を知る』って言葉、知ってる?私たちがいなかったら、あんたたちなんてとっくに路頭に迷ってたでしょうに。それなのに、うちの亜夢ちゃんを殴らせるなんて、どういう神経してるの?」と、鋭く言い放った。「ええ、私が悪いの。由佳、早く亜夢ちゃんに謝りなさい。いとこ同士なんだから、何かあってもちゃんと話し合わないと。分かった?」香里は自分を押し殺すようにして言い、卑屈な笑みを浮かべて娘に視線を送った。由佳は息が詰まるほどの苦しみを覚えた。すべてを壊してしまいたい。けれど、そんなことをする理由
風早は静かに頷いた。「由佳さんを信じるよ」由佳は気づいた。風早は伝統的な考えに縛られた男性ではなく、女性を尊重し、自分の価値観を押し付けるようなことはしない人だということを。例えば今日の件でも、他の男性なら、きっと彼女を見る目には軽蔑の色が浮かんでいたに違いない。結局のところ、人は自分が信じたいものを信じる生き物なのだ。パトロンに囲われているなどという噂は、現代社会ではしばしば耳にする話であり、ましてや亜夢の話は一言二言で片付けられる類のものではなかった。しかし風早は違った。由佳が説明すると、すぐに信じてくれた。そのことが、由佳に大きな安心感を与えた。由佳は微かに笑みを浮かべたが、心に大きな波は立たなかった。彼女が説明したのは、ただ景司が汚されるのを望まなかったからに過ぎない。景司は、誰かを安易に囲うようなパトロンなどではない。食事は、比較的穏やかな雰囲気で進んだ。ただ、食後、由佳は母からの電話を受けた。電話に出ると、香里はまるでこれから何が起こるか分かっているかのように言った。「お母さん、今から帰るね」電話を切り、由佳は風早に向かって言った。「午後は用事があるから、先に帰らないと」「じゃあ、送るよ」「ありがとう」由佳も断らなかった。以前ならただ香里の頼みを受け入れるだけだったが、今はこの人と付き合ってみても、意外と悪くないと思えていた。風早に送られ、家のドアを開けると、香里が心配そうな顔で椅子に座っているのが見えた。「お母さん、ただいま」由佳が声をかけると、香里は深いため息をついた。「由佳、さっき叔母さんから電話があったの。亜夢ちゃんを叩いたんでしょう?どうしてあの子を叩いたりしたの?」由佳は素直に答えた。「あの子が私を罵って、濡れ衣を着せて、泥を塗ってきたの。今までずっと我慢してたけど、どんどん調子に乗るから、もう我慢できなかったの。少し懲らしめてやらないとって思ったの」香里は複雑な眼差しを向けた。「分かってるわ。お父さんのことで、この何年もあなたには辛い思いをさせてきた。でも、叔母さんの言い方がどんなに酷くても、私たちが大変だったときに、お金を出して助けてくれたのはあの一家なのよ。由佳、恩を仇で返すような人間になっちゃだめ」由佳は反論したかったが、香
亜夢は顔を覆い、信じられないという表情で由佳を見つめた。「あんた……」由佳はもう恐れることもなく、亜夢をじっと睨み返した。「いつまでも偉そうな態度取るんじゃないよ。みんな同じ人間、目と口が一つずつあるだけじゃない。あんたが私より何が優れてるって言うの?確かに前はうちがあんたの家からお金を借りてたけど、もう借りはなくなったんだから!もしもう一回私を侮辱したら、あんたが降参するまで叩きのめしてやるから!」由佳は威勢を張り、毛を逆立てた狐のように、自分をいじめた相手に牙を剥いた。亜夢は怒りで顔を真っ青にし、声を震わせた。「このクソ女、まさか私を殴るとは!由佳、あんた覚えてなさいよ。許さないからね。あんたをひざまずかせて、土下座で謝らせてやるんだから!」言い終えるや否や、亜夢は顔を覆ったまま振り返り、走り去った。その取り巻きの二人は呆然と立ち尽くし、事態がこんな方向に進むとは思ってもみなかったため、慌てて後を追った。ふぅ……由佳は淀んだ息を吐き出し、何かを悟ったようにゆっくりと振り返ると、風早が驚いた顔で自分を見つめているのが目に入った。周囲の食事客たちも、奇妙な目で彼女を見ていた。由佳は後になって気づいた。お見合い相手の前で、自分は我を忘れて暴れてしまったのだ、と。でも、暴れないでいられるわけがない。亜夢のあの、汚い口からはどんなことでも飛び出してくるし、自分の評判を傷つけられるなんて、当然許せなかったのだ。由佳は再び席に着き、手を伸ばして長い髪をかき上げると、泰然とした目で風早を見た。「あの女は、私を中傷してるだけだから。小さい頃から私と気が合わなかったのよ。だから、信じないでね」風早はようやく我に返り、手を伸ばして眼鏡を押し上げると、彼女を見る目がいくぶん複雑になった。由佳は心の中で、このお見合い相手とはおそらくもうダメだろうな、と分かっていた。まあ、ご飯は食べないとね。「びっくりさせちゃってごめんね。この食事は私がごちそうするわ」「いや、僕がごちそうするって言ったよね」風早はそう言うと、少し間を置いて尋ねた。「一つ、お聞きしたいことがあるんだけど、言ってもいいものかどうかわからなくて」「どうぞ」「あの……」風早は言葉を選ぶように口ごもった。少し迷った後、意を決







