第4話

彼女の言い返しに、景一は一言も返せなかった。

しかし、その深い瞳は不満を宿しながら、じっと彼女を見つめ続けていた。智美はこれ以上彼と争う気にはなかった。階段を上ろうと足を踏み出したが、彼のそばを通り過ぎる瞬間、手を強く掴まれた。

「智美、俺のことを気にしているのか？」と男は低くかすれた声で問いかけた。

「ただ、公平であってほしいだけです」

「彼のためにそんなに口が立つのか？普段、俺に見せている優しさや従順さ、それに分かりやすさは、全部演技だったのか？」

彼女は力を込めて手を引き抜こうとしたが、景一の力はあまりにも強く、彼女には反抗の余地がなかった。

彼女がずっともがいているのを気づき、景一はさらに力を込め、一気に引き寄せた。彼女の体はそのまま彼の胸に倒れ込み、冷たい彼の遣いが鼻先をかすめた。智美はは全身が固まり、身動きが取れなくなった。

「答えてくれ、智美、彼のためにそうしているのか？」と彼はさらに追及した。

智美は唇をかみしめ、彼との距離あまりにも近すぎて、そのような姿勢はあまりにも親密に見え、彼女にとって極めて居心地が悪だった。

しかし、沈黙は解決策にならない。この男は自分の目的を達成するまで決して引き下がらないのだ。

「違います。考えすぎですよ。彼はただの友達です」と彼女は静かに答えた。

「本当にただの友達か？」

「信じていないのに、なぜ聞くんですか？」

「智美、君は杉山博と同じ道を歩む人間ではない。だから、彼と距離を取ってくれ」と彼は男の立場から意見を述べた。

だが、智美は怒りを覚えた。「私たちはもう離婚するんですよ。今は私に彼と距離を取れよう言えるかもしれませんが、離婚した後はそれは私の問題です。私が誰と友達になろうと、誰と付き合おうと、あなたには全く関係ないですよ......」と、彼女は冷笑しながら言った。

彼女が止まることなく話し続けるのを見て、景一はただ彼女に黙ってほしかったので、考える間もなく口付けてしまった。

智美は目を見開き、全身が硬直した、男の薄い唇がはっきりと自分の唇に触れるのを感じた。この一年間、二人は何度も親密になったが、こんな風に純粋にキスをしたことは一度もなかった。

それは智美にとって初めての経験であり、どうしていいのか全く分からなかった。

彼女はすぐに手を上げて彼を押しのけようとしたが、このな状況ではむしろ男の興奮と独占欲をさらに掻き立てるだけだった。

互いの息遣いが絡み合い、まるで真夏の暑さのように濃密だった。

彼の強引さに彼女の目には涙が滲み、乱暴に奪われたせいで力が抜け、彼に全て重心を預けるしかなかった。

このキスが手に負えなくなりそうになったその時、景一のポケットの携帯電話が突然鳴り出した。

その瞬間、彼は動き止まった。

彼の唇は彼女の口角を滑るようになぞり、荒い息を抑えながら彼女の額に顔を寄た。携帯が自動的に切断されそうになる直前まで、その深い瞳はじっと彼女を見つめていた。そして、見もせずに手を伸ばして通話を繋いだ。

「森景一です」

「景一......私、怖い......」

柔らかく甘い女性の声がはっきりと聞こえ、その瞬間、智美は自分が何をしたのかに気づいた。

離婚届にサインをしたのに、もう別れるというのに、どうしてこんなことをしてしまったのか？

彼女は顔は冷たくなり、男が電話に出ている隙に、力を振り絞って逃げるように階段を駆け上がった。

景一の視線は、彼女の青ざめた顔と背中をを捉え、その漆黒の瞳には陰りが宿り、表情は極限まで硬直していた。

彼は眉をわずかにひそめ、「梨奈、どうしたんだ？介護士は一緒にいるだろう？」と淡々に返事した。

「景一......本当に怖いの。外でずっと誰かが行き来しているみたいで、また誰かに狙われているんじゃないかと思うの。私と一緒にいてくれない？」

彼は沈黙したままだった。

梨奈は少しパニックになった。「景一、さっき突然あの夜のことを思い出した。あの男の顔が少しだけ思い出せるような......」