「本当に誰にも言わないでね。家に帰ったら……わたしたちの寝室で宣人と岡路留奈が抱き合ってたの。それで後先考えずに飛び出してきてしまって……」浅野くんが小さく息を飲んだのがわかった。 そして吐き捨てるように言った。「なんだよ、それ」思いがけなく強い口調だった。思わず振り返ると、彼はまるで自分がひどい目にあったように眉を|しかめていた。嬉しかった。この苦しさを理解してくれる人がいる、今のわたしに一番必要なのはそのことだと気づいた。「……本当に酷すぎますね。それで、伊川さんは梶原さんに見られたこと、気づいたんですか」「うん。ベッドにいたふたりに鍋で水ぶっかけて飛び出してきたから」浅野くんは目を見張り、そしてさっきまでのけわしい表情をちょっとゆるめた。「水を? やるな。さすが梶原さん」「そんなことで感心しないでよ。だから今から、今晩、泊まるところを探さなきゃいけないんだ」 わたしは大きなため息をついた。また情けなさと悔しさと一緒に涙がこみあげてきた。 もう隠す必要はないので、わたしは手で顔を覆って泣きじゃくった。「もうほんとに……信じられない……よ、こんなの」「梶原さん……」 ひくひくとしゃくりあげるわたしの両肩に、浅野くんはそっと手をかけてきた。それでも下を向いたまま泣き続けるわたしの耳元にそっと囁いた。
「あの……抱きしめてもいいですか。今それしか、梶原さんを慰める方法が思いつかない」 答える前に彼はわたしを引き寄せた。コートを隔てていても彼の体温が伝わり、わたしを優しく包み込む。「あ……さの……くん」 彼はわたしの頭に手をおいて、優しく撫でてくれる。「ひどい目に合いましたね。かわいそうに」心地よすぎて、また涙が溢れ出す。 まずい……涙と一緒に鼻も出る。 「コート、汚しちゃう」鼻をすすりながら、わたしは言った。「そんなの、どうでもいいですよ。梶原さん、行くところがなくて困ってるんですよね。じゃあ俺の家に来ます?」「えっ?」驚いたわたしは、思わず彼を見上げていた。 彼は腕をほどき、身体を離した。 「下心はないですよ。この状況につけこもうなんて、まったく思ってない」 わたしは即座に答えた。 「ううん、それはぜんぜん心配してないけど」その言葉に彼は苦笑を漏らす。 「そこまではっきり肯定されるのも、男としてはどうなんだろうと思いますけどね」「違うよ。そういう意味じゃなくて、浅野くんはモテるから、わたしみたいなアラサーは範疇外だろうと思っただけで」 彼は肩をすくめた。 「まあ、遠慮せずにシェルターだと思ってくれればいいですよ」
熱心に誘ってくれる彼を見つめながら、わたしは首をかしげた。「どうしてそこまで言ってくれるの?」「うーん。一人にするのが心配だから、かな」「一人にするのが心配って……えっ? わたし、自殺でもしそうな顔してる?」「そんなことないですよ、今は。でも一人になったら衝動にかられるかも知れないでしょう。ね、お願いだから俺の言うことを聞いてください」お願いまでされてしまった。これ以上、押し問答を続けること自体が迷惑か。結局、わたしは彼の好意に甘えることにして、「わかった。じゃあ、お願いします」と頭を下げた。彼は顔をほころばせて、頷いた。 「家、大崎なんでちょっと遠いけど。この時間なら渋滞もないし、時間そんなにかからないと思いますよ。車、あっちに停めてるんで」彼はわたしのキャリーバッグを手にすると、駐車場を目指して歩きだした。それから20分ほどで、目的地に到着した。 「ここです」 浅野くんは、そびえ立つ高層マンションの駐車場に車を進めた。 え、ここってもしかして、最近できたばかりの話題のタワマンじゃない。まさか、自分でここ、借りてるんじゃないよね!?「驚いた。すごいところに住んでるんだね」 「もちろん親名義ですよ。節税対策とかで。俺としては早く親がかりから卒業したいんだけど」やっぱり。でも節税で都心の新築タワマンって。 彼の家、どれほどの金持ちなんだろう。
地下駐車場から直接、エレベーターで彼の部屋のある23階まで上がった。内廊下を進んで一番奥の部屋の前で、彼は足を止めた。 ドアを開け先に上がり「どうぞ、上がってください」とスリッパを出してくれた。廊下にドアが3か所ある。間取りは2LDKか3LDK、ワンルームでないことは確か。そして、突き当りのドアを開けると、ドラマの主人公が住んでいるような、広くておしゃれなリビングが眼前に現れた。男の一人暮らしとは思えないほどスッキリ片付いている。「きれいに暮らしてるんだね」「ほとんど寝るために帰るようなもんだから」白い壁の前には紺地のカウチソファーが置かれ、その上にはフレームに入ったモノクロの夜景写真が飾られている。工場なのだろうか。まるでSF映画に出てくるような近未来的な建物が映っている。「この写真も、浅野くんが撮ったの?」「ええ。それ、結構気に入ってて」「すごく素敵。プロが撮った写真みたい」 彼は口角を引き上げ、嬉しそうに微笑んだ。「あ、ソファーに座っててくださいね」と言い残してキッチンに向かい、しばらくして湯気の立っているマグカップを二つ持ってきた。そしてサイドテーブルを引き寄せ、わたしの前に置く。ふわっと、甘い花の香りがあたりに漂った。
「カモミールなんだけど、飲めます? 蜂蜜も入れたけど」「うん、大丈夫。好きだよ。ありがとう」その暖かくて、ほんのり甘い飲み物は身体だけでなく、心も温めてくれた。わたしは両手で飲み終わったカップを抱えたまま、彼を見た。「浅野くん、本当にありがとう。助かったよ」「いや、俺が無理矢理誘ったんだから、そんなに気を使わないでくださいって」「でも……」「さ、話は明日。それ飲んだんなら、もう寝ましょう。来てください。寝室、案内しますから」浅野くんは話を遮り、リビングを出て行こうとする。わたしは慌てて彼の後を追った。「ねえ、ほんとに、どうやってお礼すればいい? こんなに良くしてもらって」すると彼は振りむき、前髪をかき上げながら、悩ましげな流し目でわたしを見つめてきた。「じゃあ……キス、してくれます?」「えっ?」急変した彼の表情に驚いて、思わず凝視してしまった。切れ長で明るい茶色の瞳。すっきり通った鼻筋。シャープな顎のライン。みんなが騒ぐだけある。麗しすぎる。国民的イケメンタレントたちと比べてもまったく遜色ない。 驚きに対する身体の反応は後からやってきた。ドキドキと心臓が高鳴る。顔が紅潮してきたのもわかる。「わ、わたしのキスなんてお礼にならないでしょう?」 慌てるわたしに、浅野くんは耐えきれなくなったように笑い出した。
あ、からかわれたのか。もう。「よかった。少しだけど顔色、戻りましたね。さっきは真っ青で倒れるんじゃないかって心配になったけど」「も、もう、年上をからかわないでよ」彼は何も言わず、微笑んでわたしの額を指先でつんとつついた。つ、つん? つんって……「今の梶原さん、可愛すぎるんです。会社にいるときとまるで違うから反応が面白くて、つい」「何、それ。そっちこそ、会社にいる時とぜんぜん違うじゃない。すぐからかってくるし」「そう。実は腹黒なんですよ、俺。さ、本当に遅くなるから」そう言って、まず洗面所、そしてゲストルームに案内してくれた。ベッドとサイドテーブルだけの、シンプルな部屋だった。「そうだ。明日の予定とかありますか?」「ないない。その先だってどうなるかわからないんだし」「そうでしたね。じゃあ、お休みなさい」「うん、お休み」洗面を終え、部屋に入り、ベッドに腰をおろす。 浅野くんとのやり取りで、ほんの少しショックが遠のいていたけれど、こうして一人になると数時間前の記憶がまざまざと脳裏に蘇ってくる。よりによって、同じ部の留奈を家に連れ込むなんて。誘惑したのはたぶん彼女だろうけど、もう完全にアウト。あそこはわたしの家でもある。そこであんなことされたら、もう宣人のことは一切、信用できない。正直、会社にも行きたくない。でも、今の会社をやめるつもりはない、というか、やめることなんてできない。失業した娘を養えるほど、うちは裕福じゃないから。
父は昨年、定年退職したので、つましい年金暮らし。加えて、母の通院費や入院費もかかる。転職という手もあるけれど、一介の事務員であるわたしにたいしたスキルはない。年齢を考えれば、今以上の条件、いや正社員で雇ってくれる会社があるかどうか。あーあ、なんでこんな目に合わなければならないんだろう。引っ越し費用のことも頭が痛い。部屋が見つかるまでのマンスリーマンションの賃料、新しい部屋の敷金、礼金……こつこつ貯めてきた貯金をはたくことになりそう。でも、いつまでくよくよしても仕方がない。出ていく以外の選択肢はないのだから。あれこれ悩んでいたから、さすがに眠れないかと思っていたけれど、いろいろな疲れとベッドのあまりの寝心地の良さに引き込まれるように眠りに落ち、目が覚めたときはすでに朝の9時を過ぎていた。(一人にするのが心配なんです)って、浅野くんは言ってくれたけど。こんな図太いわたしを心配してくれたなんて、浅野くん、取り越しく苦労もいいところだ。着替えと洗面を終えて、リビングに向かった。「おはよう」とリビングに入ってゆくと、黒いエプロンをつけた浅野くんがアイランドキッチンに立っていた。「おはよう。眠れました?」そう言って微笑む彼に、一瞬、くらっと眩暈のようなものを感じた。
イケメンがエプロンしてキッチンに立ってるなんて。もう、このシチュエーション、ズルすぎるんだけど。心の態勢をなんとか立て直し、わたしは答えた。「うん、今までぐっすり」「それはよかった」そういう彼は明らかに寝不足の顔をしていた。「浅野くんは眠れなかったの?」「いや、寝る前にゲームをはじめちゃって。休みの時にしかできないから」「そっか。ねえ手伝うよ」彼はガスコンロの火を止め、鍋のなかのものを食器によそいながら言った。「もうできましたから、そこに座っててください」見ると、配膳はすっかり終わっていて、あとは彼が手にしている器を置くだけになっていた。 「もう何から何までお世話になって、本当、感謝しかない」「もう聞き飽きましたって。そのフレーズ」彼は苦笑しながら「どうぞ」と湯気の立っている茶碗をわたしの前に置いた。粉引の大振りな食器の中身はお粥だった。「わざわざ作ってくれたんだ」向かいの椅子を引きながら、彼は肩をすくめた。「わざわざって言うほどのものでも。残りごはんで作っただけだから」「ありがとう。いただきます」手を合わせながら、本当に何から何まで、と言おうとして口をつぐんだ。ついさっき、聞き飽きたと言われたばかりだ。
イケメンがエプロンしてキッチンに立ってるなんて。もう、このシチュエーション、ズルすぎるんだけど。心の態勢をなんとか立て直し、わたしは答えた。「うん、今までぐっすり」「それはよかった」そういう彼は明らかに寝不足の顔をしていた。「浅野くんは眠れなかったの?」「いや、寝る前にゲームをはじめちゃって。休みの時にしかできないから」「そっか。ねえ手伝うよ」彼はガスコンロの火を止め、鍋のなかのものを食器によそいながら言った。「もうできましたから、そこに座っててください」見ると、配膳はすっかり終わっていて、あとは彼が手にしている器を置くだけになっていた。 「もう何から何までお世話になって、本当、感謝しかない」「もう聞き飽きましたって。そのフレーズ」彼は苦笑しながら「どうぞ」と湯気の立っている茶碗をわたしの前に置いた。粉引の大振りな食器の中身はお粥だった。「わざわざ作ってくれたんだ」向かいの椅子を引きながら、彼は肩をすくめた。「わざわざって言うほどのものでも。残りごはんで作っただけだから」「ありがとう。いただきます」手を合わせながら、本当に何から何まで、と言おうとして口をつぐんだ。ついさっき、聞き飽きたと言われたばかりだ。
父は昨年、定年退職したので、つましい年金暮らし。加えて、母の通院費や入院費もかかる。転職という手もあるけれど、一介の事務員であるわたしにたいしたスキルはない。年齢を考えれば、今以上の条件、いや正社員で雇ってくれる会社があるかどうか。あーあ、なんでこんな目に合わなければならないんだろう。引っ越し費用のことも頭が痛い。部屋が見つかるまでのマンスリーマンションの賃料、新しい部屋の敷金、礼金……こつこつ貯めてきた貯金をはたくことになりそう。でも、いつまでくよくよしても仕方がない。出ていく以外の選択肢はないのだから。あれこれ悩んでいたから、さすがに眠れないかと思っていたけれど、いろいろな疲れとベッドのあまりの寝心地の良さに引き込まれるように眠りに落ち、目が覚めたときはすでに朝の9時を過ぎていた。(一人にするのが心配なんです)って、浅野くんは言ってくれたけど。こんな図太いわたしを心配してくれたなんて、浅野くん、取り越しく苦労もいいところだ。着替えと洗面を終えて、リビングに向かった。「おはよう」とリビングに入ってゆくと、黒いエプロンをつけた浅野くんがアイランドキッチンに立っていた。「おはよう。眠れました?」そう言って微笑む彼に、一瞬、くらっと眩暈のようなものを感じた。
あ、からかわれたのか。もう。「よかった。少しだけど顔色、戻りましたね。さっきは真っ青で倒れるんじゃないかって心配になったけど」「も、もう、年上をからかわないでよ」彼は何も言わず、微笑んでわたしの額を指先でつんとつついた。つ、つん? つんって……「今の梶原さん、可愛すぎるんです。会社にいるときとまるで違うから反応が面白くて、つい」「何、それ。そっちこそ、会社にいる時とぜんぜん違うじゃない。すぐからかってくるし」「そう。実は腹黒なんですよ、俺。さ、本当に遅くなるから」そう言って、まず洗面所、そしてゲストルームに案内してくれた。ベッドとサイドテーブルだけの、シンプルな部屋だった。「そうだ。明日の予定とかありますか?」「ないない。その先だってどうなるかわからないんだし」「そうでしたね。じゃあ、お休みなさい」「うん、お休み」洗面を終え、部屋に入り、ベッドに腰をおろす。 浅野くんとのやり取りで、ほんの少しショックが遠のいていたけれど、こうして一人になると数時間前の記憶がまざまざと脳裏に蘇ってくる。よりによって、同じ部の留奈を家に連れ込むなんて。誘惑したのはたぶん彼女だろうけど、もう完全にアウト。あそこはわたしの家でもある。そこであんなことされたら、もう宣人のことは一切、信用できない。正直、会社にも行きたくない。でも、今の会社をやめるつもりはない、というか、やめることなんてできない。失業した娘を養えるほど、うちは裕福じゃないから。
「カモミールなんだけど、飲めます? 蜂蜜も入れたけど」「うん、大丈夫。好きだよ。ありがとう」その暖かくて、ほんのり甘い飲み物は身体だけでなく、心も温めてくれた。わたしは両手で飲み終わったカップを抱えたまま、彼を見た。「浅野くん、本当にありがとう。助かったよ」「いや、俺が無理矢理誘ったんだから、そんなに気を使わないでくださいって」「でも……」「さ、話は明日。それ飲んだんなら、もう寝ましょう。来てください。寝室、案内しますから」浅野くんは話を遮り、リビングを出て行こうとする。わたしは慌てて彼の後を追った。「ねえ、ほんとに、どうやってお礼すればいい? こんなに良くしてもらって」すると彼は振りむき、前髪をかき上げながら、悩ましげな流し目でわたしを見つめてきた。「じゃあ……キス、してくれます?」「えっ?」急変した彼の表情に驚いて、思わず凝視してしまった。切れ長で明るい茶色の瞳。すっきり通った鼻筋。シャープな顎のライン。みんなが騒ぐだけある。麗しすぎる。国民的イケメンタレントたちと比べてもまったく遜色ない。 驚きに対する身体の反応は後からやってきた。ドキドキと心臓が高鳴る。顔が紅潮してきたのもわかる。「わ、わたしのキスなんてお礼にならないでしょう?」 慌てるわたしに、浅野くんは耐えきれなくなったように笑い出した。
地下駐車場から直接、エレベーターで彼の部屋のある23階まで上がった。内廊下を進んで一番奥の部屋の前で、彼は足を止めた。 ドアを開け先に上がり「どうぞ、上がってください」とスリッパを出してくれた。廊下にドアが3か所ある。間取りは2LDKか3LDK、ワンルームでないことは確か。そして、突き当りのドアを開けると、ドラマの主人公が住んでいるような、広くておしゃれなリビングが眼前に現れた。男の一人暮らしとは思えないほどスッキリ片付いている。「きれいに暮らしてるんだね」「ほとんど寝るために帰るようなもんだから」白い壁の前には紺地のカウチソファーが置かれ、その上にはフレームに入ったモノクロの夜景写真が飾られている。工場なのだろうか。まるでSF映画に出てくるような近未来的な建物が映っている。「この写真も、浅野くんが撮ったの?」「ええ。それ、結構気に入ってて」「すごく素敵。プロが撮った写真みたい」 彼は口角を引き上げ、嬉しそうに微笑んだ。「あ、ソファーに座っててくださいね」と言い残してキッチンに向かい、しばらくして湯気の立っているマグカップを二つ持ってきた。そしてサイドテーブルを引き寄せ、わたしの前に置く。ふわっと、甘い花の香りがあたりに漂った。
熱心に誘ってくれる彼を見つめながら、わたしは首をかしげた。「どうしてそこまで言ってくれるの?」「うーん。一人にするのが心配だから、かな」「一人にするのが心配って……えっ? わたし、自殺でもしそうな顔してる?」「そんなことないですよ、今は。でも一人になったら衝動にかられるかも知れないでしょう。ね、お願いだから俺の言うことを聞いてください」お願いまでされてしまった。これ以上、押し問答を続けること自体が迷惑か。結局、わたしは彼の好意に甘えることにして、「わかった。じゃあ、お願いします」と頭を下げた。彼は顔をほころばせて、頷いた。 「家、大崎なんでちょっと遠いけど。この時間なら渋滞もないし、時間そんなにかからないと思いますよ。車、あっちに停めてるんで」彼はわたしのキャリーバッグを手にすると、駐車場を目指して歩きだした。それから20分ほどで、目的地に到着した。 「ここです」 浅野くんは、そびえ立つ高層マンションの駐車場に車を進めた。 え、ここってもしかして、最近できたばかりの話題のタワマンじゃない。まさか、自分でここ、借りてるんじゃないよね!?「驚いた。すごいところに住んでるんだね」 「もちろん親名義ですよ。節税対策とかで。俺としては早く親がかりから卒業したいんだけど」やっぱり。でも節税で都心の新築タワマンって。 彼の家、どれほどの金持ちなんだろう。
「あの……抱きしめてもいいですか。今それしか、梶原さんを慰める方法が思いつかない」 答える前に彼はわたしを引き寄せた。コートを隔てていても彼の体温が伝わり、わたしを優しく包み込む。「あ……さの……くん」 彼はわたしの頭に手をおいて、優しく撫でてくれる。「ひどい目に合いましたね。かわいそうに」心地よすぎて、また涙が溢れ出す。 まずい……涙と一緒に鼻も出る。 「コート、汚しちゃう」鼻をすすりながら、わたしは言った。「そんなの、どうでもいいですよ。梶原さん、行くところがなくて困ってるんですよね。じゃあ俺の家に来ます?」「えっ?」驚いたわたしは、思わず彼を見上げていた。 彼は腕をほどき、身体を離した。 「下心はないですよ。この状況につけこもうなんて、まったく思ってない」 わたしは即座に答えた。 「ううん、それはぜんぜん心配してないけど」その言葉に彼は苦笑を漏らす。 「そこまではっきり肯定されるのも、男としてはどうなんだろうと思いますけどね」「違うよ。そういう意味じゃなくて、浅野くんはモテるから、わたしみたいなアラサーは範疇外だろうと思っただけで」 彼は肩をすくめた。 「まあ、遠慮せずにシェルターだと思ってくれればいいですよ」
「本当に誰にも言わないでね。家に帰ったら……わたしたちの寝室で宣人と岡路留奈が抱き合ってたの。それで後先考えずに飛び出してきてしまって……」浅野くんが小さく息を飲んだのがわかった。 そして吐き捨てるように言った。「なんだよ、それ」思いがけなく強い口調だった。思わず振り返ると、彼はまるで自分がひどい目にあったように眉を|しかめていた。嬉しかった。この苦しさを理解してくれる人がいる、今のわたしに一番必要なのはそのことだと気づいた。「……本当に酷すぎますね。それで、伊川さんは梶原さんに見られたこと、気づいたんですか」「うん。ベッドにいたふたりに鍋で水ぶっかけて飛び出してきたから」浅野くんは目を見張り、そしてさっきまでのけわしい表情をちょっとゆるめた。「水を? やるな。さすが梶原さん」「そんなことで感心しないでよ。だから今から、今晩、泊まるところを探さなきゃいけないんだ」 わたしは大きなため息をついた。また情けなさと悔しさと一緒に涙がこみあげてきた。 もう隠す必要はないので、わたしは手で顔を覆って泣きじゃくった。「もうほんとに……信じられない……よ、こんなの」「梶原さん……」 ひくひくとしゃくりあげるわたしの両肩に、浅野くんはそっと手をかけてきた。それでも下を向いたまま泣き続けるわたしの耳元にそっと囁いた。
「ああ、喧嘩したんですね。宣人さんと」 「そんな自信ありげに」彼はやはり形のいい唇の端を少し持ちあげた。「だって、もろ顔に出てますよ。正直な人なんですね、梶原さんは」わたしはちょっと肩をすくめた。「なんかバカにしてない? まあ、いいけど。喧嘩、ならまだましだったんだけどね」とつい口にしてしまった。しまった。これじゃ話を聞いてくれって言っているようなものだ。案の定、浅野くんは「何かあったんですか? 俺でよければ、話、聞きましょうか」とわたしの顔を見つめてきた。興味本位な口ぶりではなかった。 心から心配してくれているのが伝わってくる真剣な声音だった。「うーん、ありがとう。でも、いいよ」彼も同じ部の同僚。 あまりにも身近すぎて打ち明けるのをためらった。それでも、浅野くんは引き下がらない。「部内一のしっかり者、梶原女史が泣くなんて、よっぽどのことでしょう? 話したほうがすっきりしますよ。心配しなくても誰にも言いませんから」そう言って、柔らかく微笑んだ。そんな彼の優しさが、弱っている心にモロに響いた。また涙がこぼれそうになり、慌てて後ろを向いた。 そして欄干に手をおいて暗い川に目をやった。浅野くんはその後ろで、ただ静かにわたしが口を開くのを待ってくれている。 わたしは、彼の方は見ずに話し始めた。