「はい。冴木システム開発SS事業部、梶原です。はい……浅野ですね。少々お待ちください」ここは大手家電メーカーSAEKIのグループ企業、冴木システム開発株式会社。主な業務はSAEKIの社内システムの構築や管理だけれど、うちの部は主に中小企業向けのシステムを個々の会社にカスタマイズして提供している。電話を取ったわたしは梶原茉衣(まい)。入社して5年の28歳。この事業部の事務全般に携わっている。「はい、ありがとうございます。では、すぐに手配いたします」浅野くんが電話を置くと同時に、山田課長が声をかけた。「さんざんごねてた社長、とうとう折れたのか」「はい。何度か社長に直接お会いして、説明を重ねて、ご納得いただいたようです」「さすが浅野だな、よくやった」浅野一樹。わたしより3期後輩の25歳。最近、めきめきと頭角を現している営業社員だ。わたしも彼の営業力は相当なものだと、常日頃、感心している。製品に関する知識が豊富で顧客の希望に的確に応えるし、アフターフォローも完璧だし、クレームにも誠心誠意対応して、逆に相手の信頼を勝ち得ている。評判が評判を呼んで、彼を指名してくる新規の顧客もいるぐらい。そして、とびきり美形の彼は、クライアントだけでなく、社内の女子たちの憧れの的だ。「ちっ、顔のいい奴は得だよな」そう言いながら、書類を手にわたしの席にやってきたのは、同期の伊川|宣人(のぶと)。彼も営業だ。
「宣人、また舌打ちしてる」 わたしが小声で注意すると、さらに不満げに眉を顰める。彼は最近、機嫌が悪い。先月、はじめて浅野くんに販売成績を抜かれたからだろう。でも、年間通せば、まだまだ宣人の右に出る者はいない。部内で主任昇任の一番手と目されている。 自信家で態度は尊大だけれど、それが仕事の上では安心感につながるらしい。浅野くんとタイプは違うけれど、取引先からの信頼は厚い。肩幅が広く上背があり、黒髪の短髪できりっとした印象。イケメンの部類に入ると思う。まあ、彼氏なのでひいき目もあるかもしれない。そう、わたしたちは1年前から付き合っている。そして3カ月前からは、彼のマンションで同棲していた。挨拶程度の間柄だったから、告白されたときは驚いた。でも、バリバリ仕事をする姿に憧れていたので、そのときはとても嬉しかった。話が出ている訳ではないけれど、なにせ30歳が目前に迫ってきているし、早く昇進が決まって、それを機にプロポーズしてくれればいいなと、密かに望んでいる。「これ、コピー10部頼む」 「あ、わたし、行ってきます」そう言って、わたしの手から書類をさっと奪ったのは、今年、入社したばかりの岡路留奈(おかじるな)。彼女はパステルカラーのワンピースにレースやリボンをあしらったパンプスで会社にやってくる。
オフィスに似つかわしくないと思うのだけど、若手の男性社員たちには好評で、アイドル的人気を誇っている。実際、アイドルの誰それに似ているともっぱらの評判だ。 仕事ぶりに関しては言わずもがな。新人だからミスは仕方がないけれど、難しい仕事はパス、残業は一切しない、と、かなり自由な勤務態度。でも、誰も叱らない。彼女が、岡路常務が溺愛する末娘だからだ。宣人は「今日は早く帰れそうだから、飯、頼む」と言い残して、自席に戻っていった。「えー、もしかして伊川さんと梶原さんって?」と留奈が興味深々といった様子で聞いてきた。「あれ、知らなかった? 付き合ってるんだよ、ふたりは」そう言ったのはわたしの同期で隣の席の川崎正美(まさみ)だ。彼女は黒髪ショートカットでパンツ・スタイルが多く、ブラウンの長髪、スカートが多いわたしと対照的。でも、入社1日目から意気投合した、わたしの大親友だ。ふと、わたしを見る留奈の目が異様に輝いた気がした。「へえ、そうなんですねぇ。いいなあ、伊川さん、カッコいいし、仕事もできるし。わたしもあんな彼、欲しいなぁ」「ほら早くコピーしてこないと、伊川にどやされるよ」と正美が指摘され、留美は「はーい」とコピーに向かった。そんな感じで、まあ、ちょっと困った後輩に手を焼いてはいたけれど、上司や他の社員との関係は良好だったし、恋人とも問題なく過ごしていたし、おおむね良好な日常を送っていた。その1週間後に、どん底に突き落とされることになるなんて、このときのわたしは知るよしもなかった。
「茉衣、帰ってこられるか。母さんの具合がよくなくてな」父から電話がかかってきたのは、翌週の水曜日の午後のことだった。母は昔から心臓が悪く、わたしが大学を卒業したころから、入退院を繰り返すようになっていた。「わかった。休暇もらえるように頼んでみる」母が病気であることは前から上司に話していた。繁忙期ではなかったので、その日の半休と木曜、金曜の休暇がもらえた。 わたしは急いで部屋に戻り、荷物をまとめ、新幹線で2時間あまりの実家に向かった。外回りに出ていた宣人(のぶと)には「日曜日に帰る」とだけ連絡して。 病院に着いたとき、母の容態は好転していた。早めに処置したことが幸いしたようだ。「お母さん、大丈夫?」と、わたしは母の手を握った。「茉衣、帰ってきてくれたんだね。ごめんね」弱々しいながらも、母はしっかりとわたしの手を握りかえした。父が戻ってきて、スツールを引き寄せて、わたしの横に座った。「会社を休ませて悪かったな。お医者さんの話では今回は問題ないようだ」「ううん、大丈夫。有給がだいぶ溜まってたし。お母さんの顔が見られて安心した」その日から2日間、実家に滞在した。その後も母の具合は良好だったので、わたしは予定を切り上げて1日早く帰ることにした。急な外出で家事もたまっているし、早く宣人の元に帰りたかった。
東京に到着したのは土曜日の午後10時ごろ。 列車に乗ったとき、宣人に連絡を入れたけれど、まだ既読はついていない。この時間だから、もうとっくに食事は終えているだろうと思い、自分も駅で適当に済ませてから、帰宅の途についた。 部屋についたとたん、目に入ってきたのは、見覚えのあるレースをあしらったベビーピンクのパンプスだった。そして…… 寝室のドアの隙間から漏れているのは、光だけではなかった。 女の甘ったるい声も耳に飛び込んできた。「あ、宣人さん、ねぇ……そんなことしたらだめだって……あァんっ!」 「だめなんて思ってないくせに、ほら……もっと脚、開けよ」 「やん、エッチぃ」会話だけではなかった…… 衣擦れ、肌と肌がぶつかり合う音。荒い息遣い。 そんな、あからさまに淫らな物音も、否応なく耳に入ってくる。「肌、すべすべで真っ白だな」 「ねえ、梶原さんとどっちが綺麗?」 「そりゃ……留奈だ。手触りが違う」 「あーん、もお、宣人さん大好き」互いを貪ることに夢中になっている彼らは、玄関ドアが開いたことなど、全く気づいていないらしい。はじめて覚える感覚に卒倒しそうになりながらも、足音を忍ばせてキッチンに行き、ガスコンロに置きっぱなしになっていたパスタ用の大鍋を水で満たした。そして、鍋を両手で持ったまま、足で乱暴に寝室のドアを開け、ベッドで絡み合っているふたりの上に一気にぶっかけた。
どういうこと……いつの間にあの二人……わたしはあの日の留奈の視線を思い出し、ハッとした。横取りを狙ってたってこと?頭に血が上るって、こういうことを言うのか。 「うわっ!」 「キャーッ! やだ、な、何!」驚いてこっちを見た宣人は、ベッドの横で仁王立ちになっているわたしを見て目をむいた。 「茉衣。おまえ、帰るの明日じゃ……」手に持っていた鍋を放り出すと、テーブルに当たって派手な音を立てた。その勢いのまま、わたしは宣人の頬を平手で思いきり打った。 手のひらがじんとするほど強く。「最低!」そう言い捨てたところまではしっかり記憶に残っている。でも、それからあとのことはよく覚えていない。こんなところには、一秒たりともいたくない。頭にあったのは、それだけだったように思う。で、ショルダーとキャリーバッグを手に、勢いで飛び出してきてしまった。戻って、二人を叩き出す?でも、今からあそこに帰って、あの二人とやり合うなんて、考えられない。そこまでの気力は残っていなかった。それにしても、さっき耳にした二人のやりとりが頭にこびりついている。 ふたりの部屋であんなことするなんて、あまりにもひどすぎる。裏切られた悔しさが、ふたたび身の内に溢れかえってくる。 あんな奴らのために泣くなんてもったいないと思うのに、涙が勝手に頬を伝ってしまう。
キャスターをがたがた言わせながら門前仲町のマンションから茫然と歩きつづけ、気づいたときには永代橋まで来ていた。勝ち組の象徴のようなタワマンの明かりが暗い川面を彩っている。 嫌になるほど、ここから見る夜景は美しい。落ち着いて考えれば、わたしが飛び出す必要はまったくなかった。23時近いので、人通りは少ない。たまに通りかかる人も、不審げに視線を向けるだけで声をかけてはこない。当たり前だ。夜更けに橋の上で泣いている女なんて地雷以外の何ものでもない。そのまましばらくそこにたたずんで、走り去る車を見るともなしに眺めていた。でも、今は2月。それも深夜だ。今年は暖冬で、昼間は異常なほど暖かい日もあったけれど、夜は冷え込む。だんだんと指先やつま先の感覚が無くなってきた。ひとまず24時間営業のファストフード店かファミレスを探そう。 ようやくそんな気が起こり、ポケットからスマホを出し、かじかむ手で検索をはじめた。そのときだった。 向こうから足音が近づいてきたのは。「やっぱり、梶原さんだ」親し気に声をかけてきたのは、浅野くんだった。「えっ、浅野くん?」うわ、こんなときに知り合いに会うなんて最悪。まずそのことが頭にのぼってきた。そして、今さら無駄だとは知りつつ、わたしは慌てて手の甲で涙をぬぐった。
「暗いのに、よくわたしだって気づいたね」 鼻をすすりながら、わたしは尋ねた。「まず、遠くから見て、全体のシルエットに見覚えがあるなと思って。それにそのコートも、梶原さん、よく着てるでしょう。あ、でも決め手は、スマホの光で顔が照らされたからですよ。こんな時間に、誤って知らない女性に声をかけるのはさすがにヤバいので」その観察力と冷静な判断、いかにも彼らしい。 ぼんやりとそんなことを思いながら、ふたたび尋ねた。「で、浅野くんは? こんな時間になんでこんなところに?」「これです」と言ってから、彼は肩にかけていたカメラをわたしの前に差しだした。 わたしが首をひねると、彼は言った。「俺、趣味でカメラやってるんです。特に夜景を撮るのが好きで。前から、永代橋からリバーシティを撮りたいと思ってて」「へえ、初耳」 「誰にも言ってないから。夜景撮るのが趣味、ってなんか暗くないですか」「そうかな。そんなことないんじゃない?」その返事が、いかにもおざなりに聞こえたんだろう。 浅野くんは形のいい眉を少しだけしかめた。「どうでもいいって感じの答えですね。俺に興味ないのが見え見え。まあ仕方ないか。宣人さんの彼女ですもんね、梶原さんは」ふいに宣人の名前を出されて、つい表情を歪めてしまった。 そんなわたしの反応に、彼は納得顔で頷いた。
そして……わたしの母は一樹の紹介で、皇室方や政治家なども利用する、日本有数の大病院へ転院することができた。「冴木の祖母も心臓が悪くてね。そのとき、お世話になった先生。心臓病のスペシャリストだよ」数時間に及ぶ手術も成功し、今、母は退院して、父とともに、わたしたちと同じマンションで暮らしている。それからさらに1年後の6月。わたしたちは東京で挙式を終え、ハネムーンでオーストラリアに来ていた。 「茉衣、こっち向いて」夕暮れの海岸で、一樹はカメラを構えている。思えば、ふたりを結びつけてくれたのはカメラだった。 あの夜、一樹が永代橋に写真を撮りに来なければ、今、わたしたちはこうしていなかったかも知れないと思うと、とても不思議な気持ちになる。その場でしばらく待っていたけれど、結局一樹はシャッターを押さず、わたしの方に駆け寄ってきた。 「どうしたの?」「やっぱり撮るのやめた」「どうして?」 一樹は笑みを浮かべて、わたしを抱き寄せた。「こんなに綺麗な茉衣を見るのは俺だけでいい。他の誰にも見せたくない」「一樹……」斜めに傾けた一樹の顔が近づき、わたしは目を閉じる。重なり合った唇から、一樹が好きだと思う気持ちが溢れ出す。「好き」耳元でそう囁くと、手が頭の後ろに回ってきて、彼はより一層甘く激しくわたしの唇を喰んだ。 辺りが暗くなってゆく。夕日はもう水平線の彼方に消えたのだろう。それでもわたしたちは、まだ寄り添って海を眺めていた。 「まるでこの世に二人きりしかいないみたい」寄せては返す波音がまるでわたしたちを祝福してくれているようで……「茉衣、好きだよ」そして、そう囁く一樹の言葉が波音とともに、わたしを覆い尽くし、わたしのすべてを……満たした。 (了)
「俺、兄に頼まれていたんですよ。婚約者である岡路さんの会社での様子を教えてくれって。なので、あなたのこれまでの行状、兄にくわしく報告しておきましたので。近いうちに正式に連絡がいくと思いますよ」留奈はへなへなとその場に座り込んだ。「そんなぁ……せっかくお父様がセッティングしてくれた、最高の玉の輿だったのに」 留奈にちやほやしていた男性社員たちも、さすがに呆れたらしく、全員一斉に、留奈に冷ややかな視線を向けた。一樹は改めてわたしに向き直ると、もう一度抱きしめてきた。「ねえ一樹、もう離して」ともがくわたしを逃さないように腕に力をこめ、耳元でしれっと囁く。 「だって、こうするしか茉衣を慰める手立てが思いつかないからさ」と。見えてはいないけれど、きっと、ちょっと悪い微笑みを浮かべているに違いない。これからも、こうして翻弄されつづけるんだろうな、この年下の恋人に。わたしも彼の腕のなかで笑みをこぼした。 ***それから……宣人は主任昇格を取り消され、さらに1カ月の停職と減俸処分を受けたけれど、会社は辞めさせられずに一樹と同じチームで仕事を続けている。解雇して、結果、ライバル社に行かれでもしたら余計にまずいことになる、と上層部が考えた結果らしい。一介の平社員に逆戻りしたプライドの高い宣人を、一樹は実にうまく使っており、社内での彼の評価は上がる一方だ。 一方、留奈はみんなの前で婚約解消を暴露された翌日から、会社に来なくなった。常務から部長に「娘は辞める」と一言あったらしい。 留奈にとって、ちやほやされない職場には用がないということだろう。 突然の辞職だったけれど、重要な仕事を任せられていなかったので、いなくても、業務上まったく支障はなかった。冴木の御曹司との破談は、ネットニュースでも面白おかしく取り上げられたので、おそらく、もう彼女が望む“玉の輿”は不可能だろう。まあそれは、わたしのあずかり知らぬことだけれど。
「えっ、何? どういうこと?」ずっと固唾を飲んで、二人のやりとりを見守っていた浅野推しの子たちがにわかに騒ぎだす。そんな騒ぎには素知らぬ顔をして、一樹はわたしのそばに歩み寄ってきた。「茉衣、大丈夫? 倒れそうな顔してるけど」わたしは頷きを返した。「あまりにも驚きすぎて、もう脳がパンク状態だよ。だって浅野家って……」「黙っててごめん。でも、茉衣には浅野家のフィルターを通して俺を見て欲しくなかったんだ」一樹の言葉が途中からくぐもって聞こえた。視界も遮られている。なぜかといえば、わたしは一樹に抱きしめられていたから。しかも「よしよし」と頭を撫でられながら。 えっとー。み、みんなの前なんだけど。「か、かずき……ち、ちょっと、だめだよ」そう抗議しても、一樹は一向にわたしを離す気配がない。 ようやくショックから立ち直ったのか、一樹推し女子たちの悲鳴が上がった。「えー、なんで、そんなことになってるんですか? 梶原さんは伊川さんの彼女だったじゃない!」 そして、そのそばにいた留奈はさらに大声を上げた。 「もう、どうしていい男はみんな梶原さんが持ってっちゃうのよ。わたしのほうが若いし、ぜーったい可愛いのに」伊川さんだって、わたしの方が可愛いよって言ってくれてたのに、と歯噛みして悔しがっている。一樹は一瞬、わたしを離すと、留奈に冷たい一瞥をくれ、それから言った。「岡路さん。SAEKIの専務の兄から伝言。『婚約はなかったことにしてほしい』って」「えっ?」留奈はきょとんとした顔で一樹を見上げた。
一樹は正美を見て、ちょっと困った顔で頭をかいた。「えーと、そうです。はい。でも、それを知られるとさらにやりにくいっていうか」と一樹は少し困った声で答えた。でもすぐに、きっぱりと言いそえた。「誰の子どもであろうと、俺は俺なので。今までと変わらずに接していただけるとありがたいです」総合商社の浅野商事は日本で五指に入る大企業だ。驚きすぎたからか、わたしはめまいがして、その場に座り込みそうになった。たしかに、あのタワマンを所有している時点で相当の資産家とは思ったけれど。でもまさか、浅野商事の御曹司だなんて。正美が肘でつついてきた。「知ってたの?」と口が動いている。「知る訳ないでしょう。寝耳に水」とわたしは小声で答えた。そのとき、オフィスのドアが開き、宣人が入ってきた。「おい」とか「あ」とか声にならない声がそこここであがり、それからしんと静まった。 憮然とした顔で自席に着いた宣人のもとに、一樹が歩み寄った。「伊川さん」宣人は横目で一樹を見て、自嘲気味に笑う。「お前、どうせ、いい気味だと思ってるんだろうな。ご丁寧にあざ笑いにきたのか」「ああ、大馬鹿ですよ、あなたは」 一樹はチッと舌打ちする宣人の肩をつかんだ。そして椅子を回転させ、自分の方に向けると宣人を真正面から見据えた。 「もう、いいかげん、その狭い了見、捨ててくれませんか。男の沽券とかプライドとか、そんなのどうでもいいじゃないですか。俺は入社以来ずっと、あなたの背中を追いかけてきた。今もそれは変わりません。今回のプロジェクトだって、あなたなしでは成り立たない。お願いします。俺と一緒にプロジェクトを成功させてください」それだけ言うと、一樹は深く頭を下げた。一樹の言葉に、宣人は苦い表情を浮かべた。そこにいた誰もが、ふたりの器の違いを、そしてどっちがリーダーにふさわしいか痛感した。 さすがの宣人も一言も言い返せなかった。完敗だった。 「頭、上げろよ」 宣人はそう一言だけ残し、そのまま戸口に向かった。 一樹はその背中に声をかけた。「でも、梶原さんは絶対渡しませんから」 宣人は一樹に顔だけ向け、苦笑交じりに言った。「お前なぁ、その一言、余計」
「その件について話すから、みんなちょっと集まってくれるか」と、後から一足遅れて戻ってきた部長が全員に声をかけてきた。「外部に情報を持ち出そうとしたのは伊川だ。未遂に終わったから実害はなかったが」 部長の話はこうだった。一樹のめざましい台頭に、部内トップの座が危ないと考えた宣人は、新製品情報を手土産にライバル社への転職を画策していた。だが、この夏頃、セキュリティを強化していたこともあり、データは得られず、さらに不正アクセスを試みたことがバレそうになった。そんな折、宣人が懸念した通り、一樹が自分を追い越してリーダーに抜擢された。そこで宣人は一樹に不正の濡れ衣を着せ、自己の保身と彼の追い落としの一石二鳥を狙った、というのが事の顛末だった。あまりにもお粗末かつ身勝手すぎる宣人のやり口に、そこら中でため息がもれた。「でも伊川さん、なんで、そんなこと、したんだろう」と女子の一人が言う。「そういえば最近、イラついていたな。会社が自分の実力を認めないってよく愚痴ってた。本当は浅野の台頭に怯えていたんだろうけど。一番じゃなきゃ気が済まない人だから」と同期の島田がまことしやかに口にした。「しかし、伊川もバカなことをしたな。絶対に不正を行うはずのない浅野にぬれぎぬを着せるとは」 部長の言葉に、みんな首を傾げた。「どういうことですか?」「浅野はSAEKI本社の社長のご子息だ。私もさっき知ったばかりだが。だから、うちの会社の不利益になることをするわけがないだろう」「えー、そうだったんだ」と驚きの声が上がった。「冴木社長の意向でこれまでそのことは伏せてきたそうだ。特別扱いされないようにと。ああ、言っておくが今回の昇進は純粋に浅野の実力が認められた結果だぞ。私が査定したんだから間違いない」「でも、なんで苗字が浅野なんだ?」と誰かが疑問を口にした。すると、部長の横に立っていた一樹が口を開いた。「冴木の実子ですが、俺は父方の伯父の養子で。すみません、結果として皆さんを騙すような形になってしまって」「え、って言うことは」と声を上げたのは正美。「伯父さん、浅野茂社長なの? 旧財閥系の浅野商事の」
正美は自販機でカップのレモンティーを買ってくれた。「これ飲んで、落ち着いて」「ありがとう」甘酸っぱいレモンティーは動揺するわたしの心を少しだけ鎮めた。「で、どうした?」「わたしのせいで浅野くんが……辞めさせられるかもしれない」「宣人がなんか、たくらんだってこと?」「たぶん……浅野くん、今、情報漏洩の疑いで社長室に呼ばれているみたいで」「そっか。でも、それなら浅野氏が「白」だってこと、すぐ判明するんじゃない? 社長の目は節穴じゃないよ。とにかく待つしかないよ」 「うん……」冷静な彼女の言葉に頷きながらも、わたしはまだ納得しきれず、ぎゅっと唇を結んだ。午後始業のチャイムが鳴った。彼女はわたしの肩をぽんと叩いて「戻ろ」と立ち上がった。 部屋に戻ると、宣人もいなくなっていた。これで彼が関わっていることも明らかになった。わたしは居ても立ってもいられない気持ちのまま、午後を過ごした。そして、終業間際になって、ようやく一樹が戻ってきた。わたしの姿を認めると、一樹は軽く手を上げた。 「かずき」わたしは小さく呟き、彼の側に行こうと椅子から立ち上がった。 けれど部の一樹推し女子3人の方が早く、一樹に駆け寄っていった。「浅野さん、会社辞めさせられるって、本当ですか?」一樹は目をみはった。「えっ、何? そんな話になってるの?」「浅野さんが会社の機密を漏らして、社長室に呼ばれたって」 それを聞いて、一樹はああ、と頷き、それから頬を緩めた。「それ、完全な誤解」「そうですよね! 誤解ですよね! 浅野さんがそんなことするはずないと思ってたんですけど、でも良かった〜」彼女たちは口々に安堵のため息をもらし、手を取って喜びあった。
宣人が一樹に対して、何かたくらむのではないか。わたしの心配は募る一方だった。「本当に気をつけてね」 夜、夕飯を食べながら、一樹に念を押す。でも、彼はただ微笑みかえすだけ。「心配性だな、茉衣は」なかなか本気にしてくれない一樹に、焦りが募る。ベッドに入り、彼の胸に顔を埋めても、なかなか眠りにつくことができなかった。***翌日の午前10時ごろ、曽根部長が慌てた様子でオフィスに飛び込んできた。「浅野はいるか」 出かける支度をしていた一樹は「なんでしょうか」と答えた。「至急、社長室に来てくれ」それだけ言って、部長は先に出て行った。嫌な予感がして、思わず宣人を見ると、口元にかすかに笑いを浮かべている。ああ、やっぱり。わたしは心配が的中したことを悟った。 一樹はなかなか戻ってこなかった。やきもきした気持ちを抱えたまま、昼の休憩時間になった。食欲がまるで沸かないので、そのまま自席で仕事を続けていた。パーテーションの奥で、女子社員数人が応接ソファーを陣取って、昼食を食べていた。そこに秘書課の子が飛び込んできた。「ねえ、大変だよ。浅野くん、会社、辞めさせられるかもしれない」その言葉に、彼女たちはハチの巣をつついたような大騒ぎになった。「ちょっと、どういうこと?」「社長や副社長が深刻な顔で『浅野が機密情報漏洩』とかなんとか……言ってて」「えーっ! |大事《おおごと》じゃない」「そんなぁ、浅野くんのいない会社なんて、来る意味なくなる!」そんな彼女たちの言葉が耳に入ったとたん、血の気が引いてゆくのを感じた。ランチから戻ってきた正美が、わたしの顔を見て驚いた。「茉衣、どうしたの。顔真っ青だよ」「正美……」「ちょっと休憩室に行こうか」「うん」正美はわたしの肩を抱くように、休憩室に向かった。
それから約2週間、宣人は不気味なほど鳴りを潜めていた。このまま何も起こらなければいい、と思ったのも束の間、人事部から昇進辞令が発令され、事態が急変した。宣人の主任昇任は大方の予想通りだった。けれど、一樹が、宣人に先駆けて係長に相当するプロジェクト・リーダーに大抜擢されたのである。「さすが浅野くん、すごすぎる!」浅野推しの子たちが大騒ぎするなか、わたしの心に不安が広がってゆく。 「おい、浅野、お前も来い!」案の定、血相を変えた宣人が一樹に言った。 「どうして俺を差し置いてお前がリーダーなのか、人事部に問いただす」「かまいませんよ、行きましょう」一樹はあくまでも冷静に答え、踵を返してドアに向かう宣人の後を追った。ほどなくして、ふたりは戻ってきた。いくら査定理由を問いただしたところで、教えてもらえるはずはない。憤懣やるかたない表情の宣人は、乱暴にチェアに腰をおろし、せわしなく片足を動かした。これまで、営業部一の成績を誇る先輩としていばりちらしていた宣人が、後輩の一樹の下で働かなければならない。プライドの高い彼に耐えがたいことは、容易に想像がつく。しかも、一樹に対しては資料室でやりこめられた恨みもある。
土日はタガが外れたように愛し合い、そして、週明けのオフィスでも……わたしは一樹に甘く翻弄されていた。 「だめだよ、こんなところで。誰かに見られたら……」 今も、無人の資料室で彼に抱きすくめられていた。 熱い吐息が耳元をくすぐる。そして、その吐息よりも熱い眼差しを注いでくる。「伊川さんはよくて俺はだめなの?」 「彼とはしてないよ……こんなこと」「嘘だ」耳朶を甘噛みしながら、彼は囁く。「よくふたりでオフィスから抜け出してたじゃない」独占欲を隠そうとしない彼の言葉が本当はとても嬉しくて、身体の芯がとろけてしまいそうになる。でも、ここはオフィス。流されてはいけないと思うのだけれど……彼の唇は耳元から首筋に降りてゆき、ブラウスのボタンを一つ外して、鎖骨のあたりを強く吸った。その思いがけない刺激に喘ぎが漏れてしまいそうになる。「もう……声、出ちゃうって」その言葉に、彼はちょっと悪い笑みを浮かべ「じゃあ、塞がなきゃね」とキスして、すぐに舌を侵入させてくる。こうなるともう、わたしは彼の背に縋りつくことしかできなくなってしまう。「あ、誰か来たかも」 わたしを抱きしめたまま、一樹が言う。たしかに足音が資料室の前で止まったような気がして、鼓動がはねた。 入り口から見えない棚の陰にいたけれど、こっちまできたらどうしようかと焦る。 「離して……」小さな声で訴えても、彼はしーっと唇に指をあてるだけ。そのまま、しばらく息をひそめていたけれど、結局、誰も入ってはこなかった。 ほっと息をついてから、わたしは彼の胸を押して絡みつく腕から逃れた。「もう行かなきゃ」 彼はわたしの口元を見て、ふっと笑みを浮かべる。「俺が先に行く。茉衣は口紅直してからの方がいいんじゃない?」 「あっ……そうする」「それ、俺もか」と言いながら、彼は手の甲で自分の唇をぬぐった。その仕草があまりにもエロティックで目を放せなくなってしまい…… つまりわたしは、もうどうしようもないほど、一樹という沼にはまりきってしまっていた。