Chapter: 11・エピローグそして……わたしの母は一樹の紹介で、皇室方や政治家なども利用する、日本有数の大病院へ転院することができた。「冴木の祖母も心臓が悪くてね。そのとき、お世話になった先生。心臓病のスペシャリストだよ」数時間に及ぶ手術も成功し、今、母は退院して、父とともに、わたしたちと同じマンションで暮らしている。それからさらに1年後の6月。わたしたちは東京で挙式を終え、ハネムーンでオーストラリアに来ていた。 「茉衣、こっち向いて」夕暮れの海岸で、一樹はカメラを構えている。思えば、ふたりを結びつけてくれたのはカメラだった。 あの夜、一樹が永代橋に写真を撮りに来なければ、今、わたしたちはこうしていなかったかも知れないと思うと、とても不思議な気持ちになる。その場でしばらく待っていたけれど、結局一樹はシャッターを押さず、わたしの方に駆け寄ってきた。 「どうしたの?」「やっぱり撮るのやめた」「どうして?」 一樹は笑みを浮かべて、わたしを抱き寄せた。「こんなに綺麗な茉衣を見るのは俺だけでいい。他の誰にも見せたくない」「一樹……」斜めに傾けた一樹の顔が近づき、わたしは目を閉じる。重なり合った唇から、一樹が好きだと思う気持ちが溢れ出す。「好き」耳元でそう囁くと、手が頭の後ろに回ってきて、彼はより一層甘く激しくわたしの唇を喰んだ。 辺りが暗くなってゆく。夕日はもう水平線の彼方に消えたのだろう。それでもわたしたちは、まだ寄り添って海を眺めていた。 「まるでこの世に二人きりしかいないみたい」寄せては返す波音がまるでわたしたちを祝福してくれているようで……「茉衣、好きだよ」そして、そう囁く一樹の言葉が波音とともに、わたしを覆い尽くし、わたしのすべてを……満たした。 (了)
Huling Na-update: 2025-04-16
Chapter: 11・エピローグ「俺、兄に頼まれていたんですよ。婚約者である岡路さんの会社での様子を教えてくれって。なので、あなたのこれまでの行状、兄にくわしく報告しておきましたので。近いうちに正式に連絡がいくと思いますよ」留奈はへなへなとその場に座り込んだ。「そんなぁ……せっかくお父様がセッティングしてくれた、最高の玉の輿だったのに」 留奈にちやほやしていた男性社員たちも、さすがに呆れたらしく、全員一斉に、留奈に冷ややかな視線を向けた。一樹は改めてわたしに向き直ると、もう一度抱きしめてきた。「ねえ一樹、もう離して」ともがくわたしを逃さないように腕に力をこめ、耳元でしれっと囁く。 「だって、こうするしか茉衣を慰める手立てが思いつかないからさ」と。見えてはいないけれど、きっと、ちょっと悪い微笑みを浮かべているに違いない。これからも、こうして翻弄されつづけるんだろうな、この年下の恋人に。わたしも彼の腕のなかで笑みをこぼした。 ***それから……宣人は主任昇格を取り消され、さらに1カ月の停職と減俸処分を受けたけれど、会社は辞めさせられずに一樹と同じチームで仕事を続けている。解雇して、結果、ライバル社に行かれでもしたら余計にまずいことになる、と上層部が考えた結果らしい。一介の平社員に逆戻りしたプライドの高い宣人を、一樹は実にうまく使っており、社内での彼の評価は上がる一方だ。 一方、留奈はみんなの前で婚約解消を暴露された翌日から、会社に来なくなった。常務から部長に「娘は辞める」と一言あったらしい。 留奈にとって、ちやほやされない職場には用がないということだろう。 突然の辞職だったけれど、重要な仕事を任せられていなかったので、いなくても、業務上まったく支障はなかった。冴木の御曹司との破談は、ネットニュースでも面白おかしく取り上げられたので、おそらく、もう彼女が望む“玉の輿”は不可能だろう。まあそれは、わたしのあずかり知らぬことだけれど。
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Chapter: 10・伊川のたくらみ「えっ、何? どういうこと?」ずっと固唾を飲んで、二人のやりとりを見守っていた浅野推しの子たちがにわかに騒ぎだす。そんな騒ぎには素知らぬ顔をして、一樹はわたしのそばに歩み寄ってきた。「茉衣、大丈夫? 倒れそうな顔してるけど」わたしは頷きを返した。「あまりにも驚きすぎて、もう脳がパンク状態だよ。だって浅野家って……」「黙っててごめん。でも、茉衣には浅野家のフィルターを通して俺を見て欲しくなかったんだ」一樹の言葉が途中からくぐもって聞こえた。視界も遮られている。なぜかといえば、わたしは一樹に抱きしめられていたから。しかも「よしよし」と頭を撫でられながら。 えっとー。み、みんなの前なんだけど。「か、かずき……ち、ちょっと、だめだよ」そう抗議しても、一樹は一向にわたしを離す気配がない。 ようやくショックから立ち直ったのか、一樹推し女子たちの悲鳴が上がった。「えー、なんで、そんなことになってるんですか? 梶原さんは伊川さんの彼女だったじゃない!」 そして、そのそばにいた留奈はさらに大声を上げた。 「もう、どうしていい男はみんな梶原さんが持ってっちゃうのよ。わたしのほうが若いし、ぜーったい可愛いのに」伊川さんだって、わたしの方が可愛いよって言ってくれてたのに、と歯噛みして悔しがっている。一樹は一瞬、わたしを離すと、留奈に冷たい一瞥をくれ、それから言った。「岡路さん。SAEKIの専務の兄から伝言。『婚約はなかったことにしてほしい』って」「えっ?」留奈はきょとんとした顔で一樹を見上げた。
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Chapter: 10・伊川のたくらみ一樹は正美を見て、ちょっと困った顔で頭をかいた。「えーと、そうです。はい。でも、それを知られるとさらにやりにくいっていうか」と一樹は少し困った声で答えた。でもすぐに、きっぱりと言いそえた。「誰の子どもであろうと、俺は俺なので。今までと変わらずに接していただけるとありがたいです」総合商社の浅野商事は日本で五指に入る大企業だ。驚きすぎたからか、わたしはめまいがして、その場に座り込みそうになった。たしかに、あのタワマンを所有している時点で相当の資産家とは思ったけれど。でもまさか、浅野商事の御曹司だなんて。正美が肘でつついてきた。「知ってたの?」と口が動いている。「知る訳ないでしょう。寝耳に水」とわたしは小声で答えた。そのとき、オフィスのドアが開き、宣人が入ってきた。「おい」とか「あ」とか声にならない声がそこここであがり、それからしんと静まった。 憮然とした顔で自席に着いた宣人のもとに、一樹が歩み寄った。「伊川さん」宣人は横目で一樹を見て、自嘲気味に笑う。「お前、どうせ、いい気味だと思ってるんだろうな。ご丁寧にあざ笑いにきたのか」「ああ、大馬鹿ですよ、あなたは」 一樹はチッと舌打ちする宣人の肩をつかんだ。そして椅子を回転させ、自分の方に向けると宣人を真正面から見据えた。 「もう、いいかげん、その狭い了見、捨ててくれませんか。男の沽券とかプライドとか、そんなのどうでもいいじゃないですか。俺は入社以来ずっと、あなたの背中を追いかけてきた。今もそれは変わりません。今回のプロジェクトだって、あなたなしでは成り立たない。お願いします。俺と一緒にプロジェクトを成功させてください」それだけ言うと、一樹は深く頭を下げた。一樹の言葉に、宣人は苦い表情を浮かべた。そこにいた誰もが、ふたりの器の違いを、そしてどっちがリーダーにふさわしいか痛感した。 さすがの宣人も一言も言い返せなかった。完敗だった。 「頭、上げろよ」 宣人はそう一言だけ残し、そのまま戸口に向かった。 一樹はその背中に声をかけた。「でも、梶原さんは絶対渡しませんから」 宣人は一樹に顔だけ向け、苦笑交じりに言った。「お前なぁ、その一言、余計」
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Chapter: 10・伊川のたくらみ「その件について話すから、みんなちょっと集まってくれるか」と、後から一足遅れて戻ってきた部長が全員に声をかけてきた。「外部に情報を持ち出そうとしたのは伊川だ。未遂に終わったから実害はなかったが」 部長の話はこうだった。一樹のめざましい台頭に、部内トップの座が危ないと考えた宣人は、新製品情報を手土産にライバル社への転職を画策していた。だが、この夏頃、セキュリティを強化していたこともあり、データは得られず、さらに不正アクセスを試みたことがバレそうになった。そんな折、宣人が懸念した通り、一樹が自分を追い越してリーダーに抜擢された。そこで宣人は一樹に不正の濡れ衣を着せ、自己の保身と彼の追い落としの一石二鳥を狙った、というのが事の顛末だった。あまりにもお粗末かつ身勝手すぎる宣人のやり口に、そこら中でため息がもれた。「でも伊川さん、なんで、そんなこと、したんだろう」と女子の一人が言う。「そういえば最近、イラついていたな。会社が自分の実力を認めないってよく愚痴ってた。本当は浅野の台頭に怯えていたんだろうけど。一番じゃなきゃ気が済まない人だから」と同期の島田がまことしやかに口にした。「しかし、伊川もバカなことをしたな。絶対に不正を行うはずのない浅野にぬれぎぬを着せるとは」 部長の言葉に、みんな首を傾げた。「どういうことですか?」「浅野はSAEKI本社の社長のご子息だ。私もさっき知ったばかりだが。だから、うちの会社の不利益になることをするわけがないだろう」「えー、そうだったんだ」と驚きの声が上がった。「冴木社長の意向でこれまでそのことは伏せてきたそうだ。特別扱いされないようにと。ああ、言っておくが今回の昇進は純粋に浅野の実力が認められた結果だぞ。私が査定したんだから間違いない」「でも、なんで苗字が浅野なんだ?」と誰かが疑問を口にした。すると、部長の横に立っていた一樹が口を開いた。「冴木の実子ですが、俺は父方の伯父の養子で。すみません、結果として皆さんを騙すような形になってしまって」「え、って言うことは」と声を上げたのは正美。「伯父さん、浅野茂社長なの? 旧財閥系の浅野商事の」
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Chapter: 10・伊川のたくらみ 正美は自販機でカップのレモンティーを買ってくれた。「これ飲んで、落ち着いて」「ありがとう」甘酸っぱいレモンティーは動揺するわたしの心を少しだけ鎮めた。「で、どうした?」「わたしのせいで浅野くんが……辞めさせられるかもしれない」「宣人がなんか、たくらんだってこと?」「たぶん……浅野くん、今、情報漏洩の疑いで社長室に呼ばれているみたいで」「そっか。でも、それなら浅野氏が「白」だってこと、すぐ判明するんじゃない? 社長の目は節穴じゃないよ。とにかく待つしかないよ」 「うん……」冷静な彼女の言葉に頷きながらも、わたしはまだ納得しきれず、ぎゅっと唇を結んだ。午後始業のチャイムが鳴った。彼女はわたしの肩をぽんと叩いて「戻ろ」と立ち上がった。 部屋に戻ると、宣人もいなくなっていた。これで彼が関わっていることも明らかになった。わたしは居ても立ってもいられない気持ちのまま、午後を過ごした。そして、終業間際になって、ようやく一樹が戻ってきた。わたしの姿を認めると、一樹は軽く手を上げた。 「かずき」わたしは小さく呟き、彼の側に行こうと椅子から立ち上がった。 けれど部の一樹推し女子3人の方が早く、一樹に駆け寄っていった。「浅野さん、会社辞めさせられるって、本当ですか?」一樹は目をみはった。「えっ、何? そんな話になってるの?」「浅野さんが会社の機密を漏らして、社長室に呼ばれたって」 それを聞いて、一樹はああ、と頷き、それから頬を緩めた。「それ、完全な誤解」「そうですよね! 誤解ですよね! 浅野さんがそんなことするはずないと思ってたんですけど、でも良かった〜」彼女たちは口々に安堵のため息をもらし、手を取って喜びあった。
Huling Na-update: 2025-04-15