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2・最悪で最低な夜

Author: 泉南佳那
last update Last Updated: 2025-04-06 09:47:10

どういうこと……いつの間にあの二人……

わたしはあの日の留奈の視線を思い出し、ハッとした。

横取りを狙ってたってこと?

頭に血が上るって、こういうことを言うのか。 

「うわっ!」

「キャーッ! やだ、な、何!」

驚いてこっちを見た宣人は、ベッドの横で仁王立ちになっているわたしを見て目をむいた。

「茉衣。おまえ、帰るの明日じゃ……」

手に持っていた鍋を放り出すと、テーブルに当たって派手な音を立てた。

その勢いのまま、わたしは宣人の頬を平手で思いきり打った。

手のひらがじんとするほど強く。

「最低!」

そう言い捨てたところまではしっかり記憶に残っている。

でも、それからあとのことはよく覚えていない。

こんなところには、一秒たりともいたくない。頭にあったのは、それだけだったように思う。

で、ショルダーとキャリーバッグを手に、勢いで飛び出してきてしまった。

戻って、二人を叩き出す?

でも、今からあそこに帰って、あの二人とやり合うなんて、考えられない。そこまでの気力は残っていなかった。

それにしても、さっき耳にした二人のやりとりが頭にこびりついている。

ふたりの部屋であんなことするなんて、あまりにもひどすぎる。

裏切られた悔しさが、ふたたび身の内に溢れかえってくる。

あんな奴らのために泣くなんてもったいないと思うのに、涙が勝手に頬を伝ってしまう。

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