佳奈が服を整えて部屋を出ると、智哉がひいお爺さんとこたつの上で対局しているのが目に入った。黒のタートルネックセーターに、シルエットの美しいスラックス。背筋は伸び、長い脚が端正な姿勢を際立たせている。腕まくりされたセーターの袖からは、引き締まった前腕が覗き、端正で気品に満ちた佇まいが、この素朴な空間とはまるで別世界のもののように感じられた。佳奈が部屋に入ると、ひいお爺さんがすぐに声をかけた。「佳奈、ちょっとこっちへ来て、手伝ってくれ。この若造、なかなかやるぞ。もう三回も負けちまった」佳奈は笑いながら近づき、ひいお爺さんの隣に座ると、少し不満そうに智哉を見た。「ちょっとは手加減したら?お年寄り相手に本気出すなんて、空気読めないの?」智哉は唇の端を持ち上げて笑う。「ひいお爺さんはこの町の棋王なんだろ?俺が手を抜いたら、逆に失礼ってもんだろ?」ひいお爺さんは大笑いした。「ははは、さすがは私の曾孫婿だ!こいつ、見れば見るほど気に入るな。家の連中よりずっといい」和やかな空気の中、突然、門口から嫌味たっぷりの女の声が響いた。「自分の家族をけなして、他人を持ち上げるなんて、どういう了見なんでしょうねぇ?曾孫婿がそんなに立派なら、もっと良いものでも持ってくればいいのに。毎回手ぶらじゃないですか」言葉とともに、女が軽蔑の眼差しを向けながら入ってきた。その後ろには、ひいお爺さんの親族が何人も続いていた。智哉はゆっくりと目を上げ、無表情のまま微笑を浮かべる。だが、その目は先ほどまでの柔らかな光を失い、鋭い氷のような冷たさを宿していた。その威圧感に、入口に立つ者たちは一瞬息をのむ。彼は何気なく黒い碁石を一つ置き、淡々とした口調で言った。「俺のことを笑いに来たのか?」先頭に立つのは佳奈の伯母だった。彼女は服についた埃を払うと、嘲るように言う。「佳奈がいい男を見つけたって聞いて来てみたけど、なんだ、見た目だけで中身のない貧乏人じゃないの。うちの次男の足元にも及ばないね」周りの者たちも佳奈を指さしながら、嘲笑を投げかける。「そもそも、あの母親じゃねぇ……良い家が見向きもしないだろ。結局、どこかのヒモ男に引っかかっただけじゃねぇの?」「豪門の坊ちゃんだって聞いたけど、どうせ顔だけのヒモだろ?」
言い終えると、彼はさっとのれんを持ち上げて中へ入った。目に飛び込んできたのは、こたつに座る男の姿だった。全身黒の装いで、背筋をぴんと伸ばしている。漆黒の髪が額にかかり、その端正な顔立ちをさらに際立たせていた。深い瞳には薄く笑みが浮かび、その余裕のある佇まいが、ただならぬ雰囲気を醸し出している。さっきまで得意げだった藤崎圭吾(ふじさきけいご)の表情が一変し、顔の筋肉が引きつる。膝が震え、足元が定まらない。しかし、伯母は息子の異変に気づかず、すぐに彼の腕を引っ張って言った。「圭吾、お前の目でひいお爺さんに見せてやれ。これが本物の品かどうか、ちゃんと確認しなさいよ」圭吾は高橋グループ傘下の小さな会社の部長にすぎず、本物の智哉を目の前にしたことなど一度もなかった。テレビで見たことがあるだけだった。彼は以前、高橋社長の秘書が美人だという噂を耳にしていた。だが、その秘書が自分の従妹だったとは夢にも思わなかった。しかも、彼女と社長が結婚間近とは。この途方もない富が、自分の身内に降りかかるとは思いもしなかった。圭吾はすぐに態度を変え、まるで忠実な部下のように智哉のそばへと駆け寄る。煙草を差し出し、何度も頭を下げて愛想を振りまいた。「まさか高橋社長が、私の未来の義弟だったとは……。知らずに失礼しました。どうかご容赦ください」この言葉に、部屋の中の人々は唖然とした。伯母は慌てて駆け寄り、疑わしげに尋ねる。「圭吾、お前何を言ってるの?高橋社長だって?まさか人違いじゃないでしょうね?」圭吾は彼女に鋭い視線を送り、低い声で言い切る。「この方は間違いなく高橋グループの総裁、俺の直属の上司だよ。母さん、すぐに家の魚を捌いてくれ。今日は高橋社長のために特製の焼き魚を用意する!」この一言で、さっきまで佳奈を見下していた人々の態度が一変した。皆がこぞって愛想を振りまき始める。「佳奈、鶏の煮込みが好きだったよね?伯母さんがすぐに二羽捌いて煮込むわ」「佳奈が小さい頃、伯母さんが作るあんまんが好きだったでしょ?今すぐ作ってくるわね」その場にいる全員が、まるで手のひらを返したように媚びへつらう。しかし、佳奈の表情はまったく変わらない。静かに智哉へと視線を送り、淡々とした声で言った。「ひいお爺
智哉は泣き崩れる佳奈の頭を優しく撫でながら、静かに慰めた。「佳奈、今すぐ専門医を手配して、ひいお爺さんを診てもらおう。市内に戻るぞ」すると、入口にいた親戚たちがすかさず声を上げた。「こんな病気、治療したって無駄だろう?金の無駄遣いだ。お前たちは金持ちだからいいけど、俺たちにはそんな余裕はないぞ」「そうだそうだ。うちには息子が三人いて、これから嫁を迎えるのに精一杯なんだ。ひいお爺さんに使う金なんて一銭もない」身勝手な言葉が次々と飛び交い、佳奈は怒りで冷たく言い放つ。「誰にも頼らない。これからひいお爺さんのことは、私と父で面倒を見ます」伯母はそれを聞くと不満げに声を張り上げた。「なるほどね、老人の病気を治すなんて口実で、本当はひいお爺さんが持ってる宝物が目当てなんでしょ?そんなの認めないわ。どうしても連れて行きたいなら宝物を置いていきなさい」「そうだそうだ、宝物を置いてけ!」佳奈は彼らが金のことしか頭にないことは知っていたが、まさかここまでひどいとは思わなかった。ひいお爺さんは彼らの実の祖父なのに。昔は皆を可愛がり、美味しいお菓子を買ってあげていた人なのに。この人たちの良心はどこへ消えたのだろう?佳奈が何か言おうとした瞬間、智哉は彼女をそっと抱き寄せ、その額に優しく口づけを落として囁いた。「ひいお爺さんの荷物をまとめてきて。こいつらの相手は俺がする」智哉は高木に目を向け、静かに指示を出した。「この連中をすぐに追い出せ。もし騒ぎを起こしたら足を折ってやれ」怒気を含んだその声音に、親戚たちは震え上がり、一気に後ずさりして去っていった。ようやく部屋は静けさを取り戻した。ひいお爺さんはため息をつき、申し訳なさそうに口を開いた。「すまないね、情けない孫たちで……。あいつらをちゃんと教育できなかった私の責任だな」智哉は静かな声で応える。「子の教育は親の責任です。あなたは祖父なんだから気に病むことはありませんよ。何も考えずに、私たちと市内で治療を受けましょう」「でも、お前たちの世話になるのは心苦しい。お前さんたちは自分の仕事があるし、お義父さんも体が弱い。それに私は年寄りだ、もう長くないよ」智哉はちらりと佳奈を見て、淡々と返した。「行かないと言ったら、佳奈が納得すると思いますか?」
ひいお爺さんはずっと以前から、佳奈が結婚するのを楽しみにしていた。 それがきっと、彼の余生における最大の願いなのだろう。佳奈は彼が旅立つ前に、この願いを叶えてあげたいと思った。智哉にその気持ちがわからないはずがない。 彼は穏やかな声で彼女を安心させた。「わかった。籍を入れたらすぐに結婚式の準備をしよう。ひいお爺さんを安心させてあげような」佳奈の頬を涙が伝い落ちる。「でも、あなたのお母さんは私たちが一緒になることにずっと反対してるし、私もまだ子供ができてないから、不安で……」彼女の言葉は途中で途切れた。智哉が唇を重ねたからだ。 優しい口づけの後、彼の低く掠れた声が耳元で響いた。「バカだな、君を娶るのは俺だ。他人は関係ないだろ? 子供なんていれば嬉しいが、いなくても俺たちは一生幸せに暮らせる」智哉は佳奈の目尻の涙をそっと拭い、優しく囁いた。「君は何も心配しなくていい。ただ安心して俺の妻になればいい。全部俺に任せてくれ。必ず盛大な結婚式をあげてみせるから」七年も愛し続けてきた人とついに結婚する――。 佳奈の胸には興奮と緊張、そして幸福な未来への期待が溢れていた。二人はこれほどまでに愛し合っているのだから、結婚生活はきっと幸せになるに違いない。佳奈はすぐに気持ちを落ち着かせ、智哉の首に腕を絡ませ、甘えるように呟いた。「ありがとう、旦那様」その甘えた「旦那様」に、智哉の体が一瞬で硬直した。 佳奈の鼻にかかった甘い声は、まるで散々いじめられた後に口から零れたかのようだった。智哉の体中の細胞が一瞬にして熱を帯びる。 彼は佳奈を勢いよく抱き寄せ、再び唇を奪った。さっきよりも控えめで、どこか甘く優しいキスだった。明日には正式に夫婦になる。そしてまもなく結婚式を挙げる。 そう考えるだけで、智哉の心は興奮で満たされていく。 できることなら今すぐ、目の前の小さな身体を思い切り可愛がりたいところだ。だが、彼は自分を抑えた。キスを終えると佳奈を解放し、甘く囁いた。「佳奈、ひいお爺さんの相手をしておいで。旦那は結婚式の手配をしないといけないからな」佳奈は彼の腕の中から抜け出し、一人で階下へ降りて行った。——高橋家本邸。高橋お婆さんは、この知らせを聞いて喜びの
智哉は電動歯ブラシに歯磨き粉を少しつけて、佳奈の口に入れた。二人が階下に降りると、ひいお爺さんが着物を着て、車椅子に座って待っていた。佳奈は微笑んで近づき、ひいお爺さんを上から下まで眺めた。「今日は籍を入れるだけなのに、結婚式みたいですよ。ひいお爺さん、ちょっと張り切りすぎじゃないですか?」ひいお爺さんは嬉しそうに笑って口を開く。「うちの佳奈がようやく嫁に行くんだ、もちろんしっかり着飾らないとな。籍を入れ終えたら家に戻るんだろ?高橋家の皆さんが、お前の父さんのところに結納を納めに来るらしいからな。ひいお爺さんがお前の顔を潰すわけにはいかんよ」それを聞いた佳奈は驚いて智哉を見上げた。「え……そんなに急なの?」智哉は眉を上げて答えた。「ばあちゃんが俺たちの結婚を聞いて興奮しちゃって、急いで日取りを見てもらったんだ。今日が婚姻には吉日だっていうから、俺たちは今から役所に行って籍を入れて、それからひいお爺さんを迎えに戻り、一緒に君の家に行く予定だよ」佳奈は気づいた。この結婚に関して、自分はただ参加するだけでいい。全てのことは智哉が整えてくれる。こんな風に誰かに大切にされる感覚は悪くない。スタイリストやヘアメイクが手際よく準備を済ませ、佳奈には今年の最新作の白いワンピースが選ばれ、完璧なメイクが施された。二人は車に乗り込み、興奮を胸に役所へと向かった。智哉は特別な手配をせず、あえて普通の夫婦と同じように、順番を待って番号札を取った。機械音声が自分たちの番号を呼んだとき、佳奈は思わず緊張して智哉の手を強く握り締めた。「智哉、私たちの番よ」智哉は笑って佳奈の鼻先を軽くつついた。「高橋夫人、今度は逃げられないぞ」二人は窓口に座り、書類を書き込んだ後、写真撮影をした。智哉はその写真を見て、口元が緩みっぱなしになり、すぐに携帯で写真を撮りSNSにアップした。【証明写真だけでもこんなに美しい妻をもつ俺の気分はどんなものか?】すぐにSNSには友人たちからの祝福のコメントがあふれた。佳奈の携帯にも知里からの電話がかかってきた。「佳奈、本当に智哉と籍入れたの?」「うん、今写真を撮り終わって、証明書を待ってるところ」「誠健が年内に結婚式をするって言ってたけど、どうしてそんなに急いでるの?ま
智哉はその言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられるような苦しさを感じた。「一体どうした?」おばさんは泣きながら続けた。「さっきお母様が来られて、ひいお爺さんと何か話されたみたいなんです。それで私が部屋に戻った時には、もう口から泡を吹いていて、顔色も真っ青で、今にもダメそうなんです」智哉はすぐに電話を切り、佳奈の手を掴んだ。冷たい手が強く佳奈の手を握りしめている。智哉は胸騒ぎがした。佳奈は突然手を引かれて、何か起きたと直感し、すぐさま尋ねた。「どうしたの?ひいお爺さんに何かあったの?」智哉は複雑な表情で佳奈を見つめ、言った。「佳奈、どんなことがあっても俺を信じてくれ、いいな?」佳奈の目はすぐに潤んだ。「一体何があったのよ!」「ひいお爺さんの容態が良くないんだ。すぐ帰ろう」智哉は佳奈の手を引きながら車に急ぎ、救急センターに電話を入れた。二人が自宅に戻った時には、すでに救急隊が到着していた。医者は申し訳なさそうに首を横に振った。「高橋社長、申し訳ありませんが、脳出血で、もう脈がありません」その言葉を聞いた佳奈は、よろめいて後ろに数歩下がった。涙が頬を伝って落ちる。「ありえない、ひいお爺さんはさっきまで元気だったのに、どうして脳出血になんて……」佳奈は狂ったようにひいお爺さんの部屋に駆け込んだ。そこには顔面蒼白のひいお爺さんが、まだ着物を着て横たわっていた。佳奈の指はドアの枠を強く握り締めて、爪が折れるほどだった。ベッドに横たわっているのがひいお爺さんだとは信じられなかった。さっき家を出るときに、「立派な服を着てお前に恥をかかせないようにする」と笑っていたのに。佳奈は一歩ずつベッドに近づき、震える指でひいお爺さんのしわだらけの頬をそっと撫でた。冷たいその感触で、ひいお爺さんが本当に逝ってしまったことを悟った。佳奈はその場に崩れ落ちるように跪き、ひいお爺さんにすがりついて号泣した。智哉はその悲痛な泣き声を聞き、胸が引き裂かれるような痛みを覚えた。そして、この事態の元凶を思い浮かべ、怒りで拳を固く握りしめた。智哉はすぐさま携帯を取り出し、父の征爾に電話をかけた。征爾はまだ何も知らず、これから佳奈の家へ結納に行くことを楽しみにしていた。「智哉、心配するなよ。
伯母は地面に跪いて冥銭を燃やしている佳奈を指差して罵った。「やっぱりあんたは母親と同じで疫病神だね!どうしてもひいお爺さんを病院になんか連れて行くからこうなるんだ。ほら見な、人を診てもらうどころか、命まで取られちまった!私たちはひいお爺さんの年金を当てにして暮らしてるんだよ!」「佳奈がきっとひいお爺さんを殺したんだ。あの宝を独り占めしたかったに違いない!」「子孫がこれだけたくさんいるのに、あれを佳奈一人のものになんかできるわけないよ!それに佳奈なんか女の子でどうせ出ていくんだ、宝を売ってみんなで分けたほうがよっぽどいい!」「そうだ!売ってみんなで分けよう!」一瞬にして、ひいお爺さんの葬儀は財産分けの修羅場になった。佳奈はずっと下を向いて黙り込み、頭の中にはひいお爺さんがあの着物姿ばかりが浮かんでいた。彼女は深く自分を責めていた。もし自分がひいお爺さんを連れ出さなければ、今も元気に生きていたかもしれないのにと。耳元には罵声と叱責が次々と浴びせられ、佳奈をすっぽりと覆い尽くしていた。その時、智哉が歩み寄り、ポケットから一枚の証明書を取り出し、その人たちに手渡した。「ひいお爺さんはあなたたちがこんなことをするのを分かっていたんだ。だから半年前に、あの宝を国家博物館に寄贈している。これがその証明だ」伯母は急いで証明書を奪い取った。証明書には宝物の写真と、ひいお爺さん直筆の署名があり、国家博物館の印も押されていた。これまで一滴の涙も流さなかった伯母が、その瞬間いきなり大声で泣き出した。「このじいさん、ずっと私たちを騙してたんだ!最初から寄贈してたのに、わざと言わずに私らに世話をさせてたんだよ。ああ、宝がなくなって、これまで全部無駄だったじゃないか!」その知らせを聞いて、周囲の親戚は怒り狂った。当初は各家が金を出して葬式をやる約束だったのに、結局葬儀費用は全て清司と佳奈が負担した。出棺の時でさえ、何人かの孫は姿を見せなかった。佳奈はひいお爺さんの墓の前に立ち、泣くことも騒ぐこともなく、まるでこの数日間で涙を流し尽くしたかのようだった。智哉はそんな佳奈のそばに立ち、そっと彼女の肩を抱き寄せた。「佳奈、帰ろう。また何日か経ってから、ひいお爺さんのお墓参りに来よう」佳奈は目を上げ、赤く腫れた瞳で智哉を見つ
玲子は申し訳なさそうに佳奈を見つめ、ためらいながら口を開いた。「どうしても私のせいにしたいのなら、確かに私がうっかりあなたが子供を産めないことを言ってしまったわ。でも同時に、うちの高橋家はそのことを全く気にしてないし、智哉が好きならそれで十分だとも伝えたの。それ以外のことは、本当に何も言っていないのよ」その言葉を聞いた瞬間、高橋お婆さんは怒りでテーブルを激しく叩いた。「ひいお爺さんは元々体調が悪いって分かっているだろう!そんなことを話すなんて、わざと彼を苦しめるようなものじゃないか!玲子、今回のことはあんたが原因だよ。しっかり説明して謝罪しなさい!そうでなければ私が許さない! 征爾、玲子はあんたの妻だ。どう処分するかはあんたが決めなさい!」征爾は冷ややかな表情だった。彼も玲子がなぜこんなことをしたのか、その目的はよく分かっていた。彼は佳奈に視線を移すと、低くかすれた声で言った。「佳奈、玲子のせいでひいお爺さんがこんなことになってしまった。全て玲子が悪い。必ず彼女をひいお爺さんの墓前で跪かせて謝罪させる。それから、藤崎家の人々にも誠意ある補償をする。君に責任を押し付けさせるようなことは決してない。これで許してくれないか?もし他にも望みがあれば、遠慮なく言ってください」普段高圧的で誰に対しても威圧的な征爾が、これほどまでに低姿勢になるのは初めてだった。しかし、彼はこうせざるを得なかった。この一件がうまく処理されなければ、二人の関係にも影響が出るだろうとよく理解していた。息子がやっと見つけた大切な相手との結婚を、絶対に潰させるわけにはいかなかったのだ。玲子への恨みは募るばかりだったが、高橋お婆さんや征爾の前で佳奈は決して不敬なことは言えなかった。二人とも彼女にとてもよくしてくれていたからだ。しかし玲子が二人の間に存在する限り、自分たちは絶対に穏やかには過ごせないだろう。佳奈は無力感に指をぎゅっと握りしめると、震える声で言った。「高橋お婆さん、高橋叔父さん、この件がどんなに処理されたとしても、ひいお爺さんはもう戻ってきません。玲子さんがどうしてこんなことをしたのか、私たちはみんな分かっています。 前回は父が誘拐され、今回はひいお爺さんです。私のせいで周りの大切な人が次々と傷ついている。 自分の幸せ
智哉がC市から戻ってきたのは、もう旧正月の五日目だった。車に乗り込むと、すぐに高木から報告を受けた。「高橋社長、気になることがあります。ここ数日、清司さんがビジネス関係の友人に頻繁に連絡を取っているそうです。体調不良を理由に、新しく設立した会社を手放そうとしているとか。しかも、かなり安い価格で」智哉の目が一瞬凝った。何かがおかしいと感じた。清司が新しく設立した会社は、彼がずっと好きだった太陽光発電産業だった。この業界はまだ始まったばかりで、将来性は非常に良い。さらに彼の専門分野と一致しており、運営もスムーズだった。会社が設立されてまだ半年も経っていないのに、生産額はすでに数十億に達していた。このまま発展を続ければ、5年もかからずに年間利益が既存の大手企業を超えるだろう。たとえ体調が悪くても、こんなに急いで手放すことはないはずだ。ただし……ここを離れようとしているのなら別だ。この理由を思いつくと、智哉の呼吸が止まった。すぐに命じた。「藤崎家へ行け」30分後、車は藤崎家の屋敷に入った。智哉は長い脚で急いで大広間に入った。清司がエプロンを着けて台所から出てくるのを見たとき、彼の張り詰めた心がようやく緩んだ。しかし声には抑えきれない焦りが残っていた。「お父さん、佳奈はどこ?」清司は階上を指さして、笑いながら言った。「上にいるよ。いつ帰ってきたの?」「今着いたところです。お父さんと佳奈にC市からお土産を買ってきたので、直接来ました」高木が抱えている大小の贈り物の箱を見て、清司の目に言い表せない表情が浮かんだ。しかしすぐに普段の様子に戻った。「もうすぐ食事だから、階上に行って佳奈を呼んでおいで」「はい」智哉は待ちきれずに階段を上った。部屋のドアを開けると、佳奈が荷物をまとめているところだった。特大のスーツケースは彼女によってぎっしりと詰め込まれていた。彼女はケースを押さえながら、ジッパーを閉めようとしていた。この光景を見て、智哉は両手を強く握りしめた。心臓が何かに打たれたようで、鋭い痛みが走った。彼は急いで近づき、大きな手でケースをしっかりと押さえた。声には隠しきれない冷たさが滲んでいた。「どこに行くつもり?」その声を聞いて、佳奈は急に顔を上げた。
このような言葉を聞いて、橘お爺さんはさらに怒りを募らせた。「美智子がお前をあれほど愛して、お前と一緒にいるためにC市からB市まで一人で来たというのに、お前は何をしたんだ。風俗嬢のために、彼女を非業の死に追いやり、私の孫娘も今だに行方不明だ。聖人、お前は美智子の魂をどうやって安らかに眠らせるつもりなんだ」聖人はドサッと床に膝をついた。額の血が涙と混ざり、頬を伝って流れ落ちた。「お父さん、お母さん、すみません、私が間違っていました。必ず娘を見つけ、美智子の死因を突き止めます」湊は彼の腹を蹴り、歯を食いしばって言った。「聖人、もし子供が見つからなければ、地獄へ落ちて美智子に土下座して謝れ!」この一蹴りで聖人は血を吐き、何メートルも後ろに倒れた。腰が強くコーヒーテーブルにぶつかった。彼は体の激痛を気にせず、すぐに起き上がって床に跪いた。結翔はどれほど彼を恨んでいても、やはり実の父親だった。彼は聖人のそばに行き、タオルを渡して、沈んだ声で尋ねた。「あの女性には何か特徴はなかったのか?あるいは、付き合っていた時、彼女は何と名乗っていた?」「木香(きか)と名乗っていました。バナナイトクラブのダンサーで、それ以外は何も知りません」バナナイトクラブは20年以上前の最大の娯楽施設だった。しかし今は国の政策により強制的に閉鎖されている。この女性を見つけるのは天に登るより難しい。橘お爺さんは怒りで体を震わせ、少し濁った目には涙が光っていた。「私の美智子はあんなに良い子だったのに、ダンサーに騙されるとは。結翔、湊、必ずこの女を見つけ出せ。娘の仇を取らねばならん」湊はすぐに老人を慰めた。「お父さん、お母さん、ご安心ください。必ずこの女を見つけ出します。聖人と美桜については、どうなするおつもりですか?」橘お婆さんはすでに涙にくれていた。彼女は涙を拭いて言った。「もう二度と私の前に現れないでほしい。あの二人を見ると、可哀想そうな娘と孫娘を思い出してしまう。あの子がまだ生きているかどうかも分からないのに」外祖母がこれほど悲しんでいるのを見て、結翔は真実を話しそうになった。しかし智哉の言葉を思い出し、言葉を飲み込んだ。彼は優しく慰めた。「お婆さん、お母さんの魂がきっと妹を守っていると信じてください。少し時間をくださ
智哉は少し沈黙した後、尋ねた。「お前は調べ出したのか?」結翔は歯を食いしばり怒りを露わにした。「智哉、俺はお前を親友だと思って、このことが分かった後、真っ先にお前に打ち明けたんだ。家族にも言ってない。そんなに信頼してたのに、なぜ嘘をついた?佳奈が俺の探していた人だと知っていながら、なぜ俺に言わなかったんだ!」結翔の声はほとんど叫び声になっていた。彼はずっと智哉が妹を探すのを手伝ってくれていると思っていた。しかし、この男が真実を隠していたなんて、夢にも思わなかった。智哉の声はいつもと変わらず冷たかった。「教えた後はどうする?自分を抑えて彼女に身元を明かさないでいられるのか?それが彼女にどれだけの傷を与えるか分かっているのか?」「教えなかったからって傷がないと思うのか?彼女は美桜にあと少しで殺されるところだった」「それはお前が愚かだからだ。秘密が知られていることに気づかないとは。でなければ佳奈もあんな危険な目に遭うことはなかった」「智哉、調子に乗るな。佳奈は俺の妹だ。彼女と結婚したいなら、遠山家と橘家、この二つの関門を突破しなければならないぞ!」智哉は全く引かずに言い返した。「佳奈を取り戻したいなら、まず美桜をしっかり管理しろ。もし彼女がまた佳奈を傷つけようとしたら、俺が殺してやる!」幼い頃から一緒に育った幼なじみが、初めてこれほど激しく言い争った。周囲の空気までもが濃厚な火薬の匂いを帯びていた。真実に直面したその瞬間、結翔は苦痛に目を閉じた。彼は智哉が必ず佳奈のDNA鑑定をしたことを知っていた。つまり、佳奈は母親の美智子の娘であり、彼が長い間探し求めていた妹だったのだ。二人は数十秒間黙り込み、ようやく智哉が冷静に口を開いた。「ひいお爺さんが亡くなった時、佳奈はひどく落ち込んでいた。もし自分が最も愛している父親が実の父親ではないと知ったら、彼女がどれほど苦しむか考えたことがあるのか?お前の気持ちは理解できるが、彼女の気持ちも考えるべきだ。親子関係を明かすことは軽々しく決められない。よく考えてから決めるべきだ」この言葉に結翔も次第に冷静さを取り戻した。彼はまだ母親の事故の背後にいる人物を突き止められていなかった。このまま佳奈に本当の身元を明かし、美桜を遠山家から追い出せば、必ず彼女にさ
耳元でそっと囁くように言った。「まだお年賀の挨拶してなかったね。叔父さん、あけましておめでとう!たくさん儲かりますように!」幼いその声が、結翔の耳の奥に優しく染み渡る。思わずぷっと吹き出して笑ってしまった。すぐにポケットからぽち袋を取り出し、悠人の小さな手にぎゅっと握らせた。「叔父さんからも、悠人が元気で楽しい一年を過ごせますように!」悠人はにこっと笑って、元気にお礼を言った。「ありがとう、叔父さん!」そのとき、彼の目にテーブルの上に置かれていた梅の花の背中のイラストが映り込んだ。彼は目をまんまるに見開いて、無邪気に口を開いた。「それ、佳奈おばちゃんの写真だ!叔父さんも知ってるの?」その一言に、結翔の心臓がドクンと大きく跳ねた。呆然としたまま、悠人をじっと見つめながら問い返す。「今、なんて言った?」「だからね、この背中は佳奈おばちゃんだよ。背中にこんな梅の花の模様があるの。パパのアルバムに載ってたんだ。大学のときに撮った写真で、すごく綺麗だったよ」一瞬、呼吸が止まった。抱きしめていた悠人の身体を、思わずぎゅっと強く抱きしめる。佳奈の背中に梅の模様。どうして先日、高橋お婆さんの誕生日会の時には気づかなかったのか。見間違いなのか、それとも……。すぐに結翔は悠人を抱き上げ、あの絵を手に持ち、階下へと急いだ。キッチンでは雅浩が朝食の準備をしていた。 結翔が悠人を抱いて現れると、少し眉をひそめて言った。「叔父さんに抱かれるなんて、甘えすぎだぞ。自分で歩け」結翔はすぐに悠人を下ろし、手にしていた絵を差し出した。「この梅の花、佳奈の背中で見たことあるか?」雅浩はちらりと絵を見て、何気なく頷いた。「あるよ。一度、彼女が踊ってる時に偶然見えた。どうした?」「それって、タトゥー?それとも……」「たぶん、あれは生まれつきの痣だな。大学では舞踊サークルに入ってて、よく舞台に立ってたからさ。背中を出す衣装の時は、毎回この模様が見えてた」結翔はその場で膝が崩れそうになるのをこらえた。その事実を前にして、呼吸さえ苦しいほどだった。必死に感情を抑えながら、次の質問を投げかけた。「その背中、怪我したことないか?」雅浩は不思議そうに眉をひそめて答えた。「前に美桜
その瞬間の智哉は、まるですべての鋭さを脱ぎ捨てた子犬のように、従順で切なげな目で佳奈を見つめていた。その姿を見た佳奈の胸が、まるで何かに刺されたようにチクチクと痛んだ。彼女はそっと膝をつき、智哉の頭を撫でながら、優しく囁いた。「智哉、家まで送るね」智哉は目を潤ませながら彼女を見つめ、低く呟いた。「行かないって約束してくれるなら、一緒に帰る」「うん、約束する」その言葉を聞いた途端、智哉はようやく立ち上がり、ふらふらとしながらも佳奈の手を離すことなく、一緒にその場をあとにした。まるで、その手を離した瞬間に彼女が消えてしまうのではないかと、怯えるように。白川家に着いた後、佳奈は智哉の体を簡単に拭いて、毛布をかけてあげた。眠っている彼の眉間はまだ苦しげに寄っていて、佳奈は胸が締めつけられるようだった。彼女はそっと手を伸ばし、その眉間をなでて、少しでも彼の心が安らぐようにと願った。その指先は無意識に、智哉の整った顔立ちをなぞっていた。眉から目へ、鼻から口元へと、触れるたびに胸がきしんだ。きっと、自分がいなくなったら彼はしばらく辛い時間を過ごすだろう。その時間が、少しでも短くあってほしいと、彼女は心の底から願った。冷たい指が彼の唇に触れると、かつての甘い思い出が次々と蘇ってくる。そして佳奈は、耐えきれずに顔を近づけて、彼の唇にそっと呟いた。「智哉……ごめんね」大粒の涙が、ぽたぽたと彼の頬へ落ちた。そしてついに、彼女はその唇に静かに口づけを落とした。翌朝。智哉が目を覚ました時、自分が夢を見ていたような感覚にとらわれた。夢の中で、佳奈が泣いていた。「ごめんね」と言いながら、彼にキスをしてくれた。その記憶があまりに鮮明だったせいか、智哉は急いでスマホを手に取り、佳奈に電話をかけた。「佳奈、どこにいる?」佳奈は空港のロビーを歩きながら、少し涙ぐんだ声で答えた。「ちょっと用事があって……先にB市に戻ったの」その言葉を聞いた瞬間、智哉はベッドから飛び起きた。「なんで言ってくれなかったんだよ!待ってて、すぐ空港に行く!」「大丈夫よ、斗真くんと知里が一緒に来てくれてるし……あなたはお婆ちゃんたちと楽しく過ごして。私は父と一緒に親戚回りでもするから」智哉は何かがおかしいと感
彼女が背を向けて立ち去ろうとした瞬間、智哉が彼女を強く抱き寄せた。男の瞳は深く沈み、低く掠れた声で囁く。 「何が食べたい?俺が取ってくるよ。ガニ、美味しかったぞ。二つ剥いてあげようか?」その声は限りなく優しくて、どこか懇願するような響きも含まれていた。 少しでも強引に出れば、佳奈に拒まれてしまう気がして、慎重に、穏やかに言葉を選んでいるのがわかった。こんな智哉を見ると、佳奈はいつも心が揺れてしまう。彼女は無力に目を閉じて、かすかに囁いた。「いらないわ」「じゃあザリガニは?ここの味は本格的で、君が好きな料理全部揃ってるんだ。食べに行こうよ」「食べたくないの」佳奈はすぐさま首を振った。今は妊娠初期で、そんな刺激物は避ける必要がある。万が一智哉に気づかれたら、面倒なことになる。智哉は戸惑いながら佳奈を見つめた。「たった数日離れてただけで、そんなに好みが変わるもん?前はこれ見ただけで涎垂らしてたのに……体調悪いんじゃないのか?病院連れて行こうか」そう言いながら、彼の冷たい掌が佳奈の額に触れた。もう片方の手は自分の額へ。二人の体温がほぼ同じとわかり、少しだけ安堵の表情を浮かべた。「熱はないみたいだけど、じゃあまた胃の調子が悪いんじゃないの?専門医に診てもらったほうがいい」 「違うの。ただ最近ちょっと太っちゃって……ダイエット中で、夕飯控えてるだけ」「どこが太ったの?むしろ痩せたように見えるけど。佳奈、君……何か隠してる?」智哉の目にはどんどん疑念が浮かび、佳奈の身体をじっと観察し始めた。まさにそのとき、高橋お婆さんが歩み寄ってきて、佳奈の危機を救ってくれた。彼女は佳奈の手を引き、用意させた栄養たっぷりであっさりとした妊婦向け料理を運ばせた。「佳奈、最近食欲ないって聞いたから、体にいいものを作らせたの。さあ、食べて」智哉は驚いた顔でお婆さんを見た。「食欲がないって……それ、どうして知ってるんですか?それに佳奈って、いつも味の濃いものしか食べなかったのに、こんな薄味なんて食べられるはずがない」お婆さんは少し不満げに智哉を睨んだ。 「みんながあなたを探してるわよ。乾杯するのを待ってる。ほら、早く行ってらっしゃい。佳奈とは私が一緒にいるから」「でも、俺が一緒じゃないと心配なので、連れて
佳奈はかすれた声で言った。 「私が本当のことを話したら、彼は私を手放すと思う?」 「たとえ彼が手放したとしても、きっとあなたを探しにいくよ。その時、お腹が大きくなっていたら、隠し通せると思う?」 「私はすでに手を回して、自分の足取りを完全に消した。誰にも見つからないし、それに、もうあなたたちとも連絡を取らない。子供が生まれるまでね」 その言葉を聞いた瞬間、知里は呆然とした。 涙ぐみながら佳奈を見つめる。 「じゃあ、行ったら、もう連絡できないの? 佳奈、そんなのひどすぎるよ……私、会いたくなったらどうすればいいの?」 佳奈の瞳にも涙が滲む。唇を噛みしめながら言った。 「これしか方法がないの。智哉が探せる場所なら、玲子や美桜だって探せる。彼らはきっとあなたたちをつけ回して、そこから私の居場所を突き止めようとするわ……だから、仕方ないの」 それが、彼女が父親を連れて行く理由でもあった。 父の体調は良くない。彼を一人ここに残すなんて、到底できなかった。 子供を守るために、彼女はこの場所の全てと、一時的に決別するしかなかった。 知里は切なそうに佳奈を見つめた。 彼女の瞳から、どれほど未練があるのかが、痛いほど伝わってくる。 それと同時に、その奥底にある強い決意も、はっきりと見えた。 この子供が佳奈にとってどれほど大切なのか、知里は誰よりもよく分かっていた。 知里は涙を必死にこらえ、佳奈を抱きしめた。 「安心して行って。こっちは私に任せて。智哉がもしあなたを裏切って他の女に手を出したら、その子に他の男を『パパ』って呼ばせてやるから」 佳奈は苦笑し、唇の端をわずかに上げた。 ちょうどその時、ふと顔を上げると、智哉がこちらへ向かってくるのが見えた。 彼女はすぐに感情を押し殺し、小声で知里に何かを囁く。 そして、二人はそっと離れた。 智哉は佳奈のそばまで来ると、落ち込んでいる知里を一瞥し、低い声で言った。 「もし子供の父親が要らないって言うなら……誠健が代わりにパパになってもいいってさ。試しにチャンスをやってみたら?」 知里の思考が一瞬停止した。 しばらくして、ようやく智哉の言葉の意味を理解すると、怒りで歯を食いしばった。 「ふざ
結翔が迷いを見せたその瞬間、背後から橘のお婆さんの声が聞こえた。「結翔、それは本当なの?」その声を聞いた二人は同時に振り返った。そこには、涙に濡れた顔でこちらに向かってくる橘のお婆さんの姿があった。彼女は結翔の手をぐっと握りしめ、震える声で問いかけた。 「結翔……美智子の子が美桜じゃないのなら、本当の子は今どこにいるの?」お婆様は嗚咽を堪えきれず、泣き崩れた。 愛する娘を奪われただけでなく、その娘の子どもまでもすり替えられていたと知り、胸が張り裂けそうだった。結翔はすぐに落ち着いた声で慰めた。 「お婆さん、心配しないでください。すでに調査は始めています。ようやく手がかりが掴めたところだったんですが、美桜がその痕跡を断ち切りました。今、別の手段で探しているところです」その言葉を聞いて、橘のお婆さんは涙をぴたりと止めた。 だが、表情は氷のように冷たくなっていく。「湊、聖人を連れてきて。今すぐ聞きたい。うちの美智子が一体彼に何をしたっていうの?外に女を作っただけでなく、私の外孫まで取り替えたなんて、許せることじゃない!」湊は母親をなだめながら答えた。 「母さん、落ち着いて。この件は俺がきっちり聖人に問いただします。まずは家に戻りましょう」一方そのころ。美桜が大恥をかいて、結翔に連れ出されるのを見届けた斗真は、得意げに口元を上げた。「佳奈姉さん、スッとした?」佳奈は淡く微笑みながらも、どこか複雑な表情で言った。 「スッとはしたけど……橘お婆さんまで巻き込んで、美桜のせいで一緒に恥をかかされたと思うと、なんだか気が重いわ」彼女自身も不思議に思っていた。 橘お婆さんが悲しそうにしている姿を見ただけで、胸が締め付けられるほど痛んだのだ。知里は全く気に留めず、軽く鼻を鳴らした。 「橘家が変なのよ、なんでもかんでも引き取っちゃってさ。あの女、今日私が機転利かせなかったら、絶対あなたの妊娠バレてたよ。 あのクソ女、性格が毒蛇よりもヤバいわ。あなたを潰せないなら、代わりに私の妊娠を暴露するなんて……ちゃんと痛い目見せてやらないと、気が済まない!」佳奈が何かを言おうとしたその時、彼女のスマホが鳴った。画面を見ると、海外の番号が表示されていた。佳奈はすぐに応答ボタンを押した。
結翔はグレーのカシミヤコートを羽織り、長い脚を踏み出して外から入ってきた。 いつも温厚で紳士的な彼の顔には、今日は凍りつくような鋭い冷たさが浮かんでいた。彼は美桜の前まで来ると、彼女を無情に地面から引き起こした。冷ややかな声で言った。 「橘家の顔はお前に潰された。よくもまだ母さんのことを口にできるな。家に帰ってじっくり反省しろ!」結翔は容赦なく美桜を引きずるようにして外へ連れて行った。橘お婆さんは事態の異常さを察した。彼女の孫息子は昔から優しく温厚で、妹を溺愛していたのに、今日はなぜこんなにも冷淡で無情なのか。 そして、先ほどのあの言葉はどういう意味なのか。お婆様はすぐさま湊の手を引き、小声で伝えた。 「湊、帰ろう。結翔には何か隠してることがありそうよ」湊もうなずいた。 「分かった。挨拶だけ済ませたらすぐ行くよ」二人が急いで宴会ホールを出たところ、ちょうど結翔が美桜を車に押し込む場面に遭遇した。結翔は何かを激しく問い詰めている。彼の首筋は怒りで青筋が浮かび、眼には激しい赤みが差し、声も震えるほどだった。 「あのダンスの先生が突然失踪したのは、お前がやったことなのか?」美桜は無実を装って彼を見上げ、涙を流しながら必死に首を振った。 「兄さん、何の話?私には何のことか分からない。ダンスの先生って何のこと?」「とぼけるな!あの梅の花の痣がある女の子の写真はお前しか見ていない。お前は俺が探してる梅花模様の痣を持つ妹のことを知っていたから、意図的に手がかりを断ち切ったんだ。 俺の家に来て書斎に入り、DNA鑑定の書類まで見ただろう?お前はとっくに自分が母さんの娘じゃないことを知っていて、俺が本当の妹を見つける手がかりを潰したんだろう!」事態が完全に暴露されたと知った美桜は、泣き顔で必死に訴えた。 「でも私だって兄さんの妹でしょう?小さい頃から一緒に育ってきたのに、どうして私が美智子さんの娘じゃないと分かった途端、私に冷たくするの? 私は二十年以上も兄さんを兄さんと呼んできた。あの人はずっと現れなかったじゃない。なのになぜ兄さんの愛情を全部その人に移すの? そんなの、不公平だと思わないの?」結翔は怒りのあまり拳を固く握った。 「お前は24年間も遠山家のお