「俺は彼女たちのこと全員を好きだと思ってたし、一番とか二番とかなく平等だと思ってたけど。そうじゃなかったのかな、って今となっては思うんだ」 水滴の付いたグラスを持ち上げ、クイっと口に含ませる姿がカッコいいなと、目を奪われてしまった。「好きなようでいて、実は全員に本気じゃなかっただけなのかも……って」 せっかくこれだけカッコいいのに、している話の内容は最低だ。 八木沢さんに泣かされてきた女の子たちを気の毒に思った。「だから、ちゃんと本気で恋愛ができるように、その感覚を変えていきたい。こんな俺でもそうなれるようにしたいんだ」 どうして急にそれに気づき、今までの自分を変えようと思ったのか。 その理由はわからないけれど、八木沢さんは緩慢に笑って自分の思いを話してくれた。「咲羅ちゃんも一緒にリハビリしようよ。真剣な恋のやり方を忘れて出来ないって、さっき言っただろ? 一緒にそういうのを思い出そう」 サークルにでも勧誘するように言われても、二つ返事でうなずいたりできない。「テーマは“純愛”」 純愛……今さらだ。 そんな言葉は、私には似合わなくなってしまっている。「……クサいですね」 正直に感想をのべると、私の言葉が聞こえたのか、あははとマスターの笑い声がした。「俺もそれ聞いたときに最初はなにを言ってるんだと思った。けど、斗夜がそれを望むのは良いことだし、進歩だから」 「はぁ……」「大人になるにつれ、純粋だった頃の気持ちをついつい忘れちゃうもんだよね。適当に気の合った相手とくっ付いたり別れたり。もちろんする事だけはして」 マスターは、一般論を言っているのだろう。 八木沢さんや私のことも含まれているとは思うけれど。「だからね、俺も咲羅ちゃんが一緒にリハビリするのは賛成。ていうか、コイツと一緒にいろいろ考えてやってよ」 八木沢さんに視線を移すと、綺麗な顔でやさしく微笑んでいる。 真剣な恋のやり方を思い出すために、一緒にリハビリするもいいかもしれない。「中学生とか高校生のとき、咲羅ちゃんは彼氏とどんなデートした?」 「なんですか、急に……」 「俺はね、帰りに彼女と一緒にファーストフード行ったりしたな。学生だからね、休みの日に映画に行くので精一杯だったな」 「……私もそんな感じでした」 思い出すと懐かしい。 たしかにあの
*****「あ、それと白井さん、今夜リハビリ第一回目ね」 八木沢さんのデスクのそばで仕事の話をしていたら、彼は一番最後になんでもない口調で爆弾投下をしてきた。 私は内心ドキッと驚きつつ、自分の席へと戻って平然を装う。 バーでのリハビリの話については、私にはなにもデメリットがないようなので、面白そうだから少しだけ参加してみることにした。 仕事と、リハビリと言う名のプライベートは、きちんと分けようと私から提案した。 それなのに、今の奇襲爆弾はルール違反だ。 現代ではスマホという便利なツールがあり、彼にはメッセージアプリのIDを教えてあるのに、これではなんのために連絡先を交換したのかわからない。『リハビリの連絡ならメッセージに送ってください』 私は自分のスマホを操作し、愛想のない至極簡潔な文章を彼に送信した。『レストランを予約しておくよ。食事でもしながらリハビリしよう』 するとすぐさま私のスマホが点滅して、返事が来たことを告げた。 当たり前だが、どうやら彼はメッセージアプリを使えるらしい。 そのあと時間と場所を知らせる連絡が入り、私は仕事を終わらせたあと会社を出た。 指定された場所で少し待っていると、八木沢さんが微笑を浮かべながら颯爽と走り寄ってくる。「悪い、待った?」 この人は会社で見るより、外のほうがカッコよさは引き立っている。 手足が長くてスタイルがよく、色気が溢れ出ているので、これなら放っておいても女性が寄ってくるだろう。 そんなふうに思わず冷静に分析してしまった。「そんなに待ってないよ」 バーでの別れ際、八木沢さんが堅苦しいのは嫌だから、プライベートでは敬語はなしでと言ってきた。 そして、ズレた感覚を自覚することが大切なので、意見があるときはお互いに遠慮なくなんでも話し合うことにした。 考えてみると、私には本音で恋愛を語れる異性の友達がいない。 男性目線ならどう感じるのかと疑問を抱いても、今まで相談できる男性がいなかったので、気軽に聞ける相手ができたのは内心うれしい。「じゃあ、食事しに行こう」 「うん。レストラン?」 「ああ。でも俺、この辺りはよく知らないから、彰(あきら)に聞いたんだ。落ち着いた感じで、雰囲気の良い店はないかって」「……彰?」 「アイ
「俺のことも“斗夜”でいいよ」 「突然お互い呼び捨てって……別に付き合ってるわけでもないのに」 「まぁ、そうだけど。友達だと思えばいい」 軽く笑っている彼を見ていると、他意はないのだと悟った。 それにしても、下心のない男性とふたりで食事をするなんて何年ぶりだろうか。本当に気楽だ。「咲羅は、どんな男が好きなの?」 前菜のキッシュが運ばれてきて、その味をゆっくりと堪能しながら他愛のない会話をしていたはずなのに、唐突に斗夜が話題を切り替えた。「どんなって?」 「タイプとかあるだろ」 「そっか……」 好きな男性のタイプをなんとか捻り出そうと考えるものの、上手く思い描けず、言葉にもできない。 というより、あんまり今まで考えたことがなかったのだ。「見た目は……例の暴力男みたいな感じか?」 「は?」 ほんの一瞬、それが誰なのかわからなかったけれど、本城のことだ。 一刻も早く私の記憶から消し去りたい男なので、半分くらい忘れていた。「それは違う。居酒屋で飲んでて気が合ったと思っただけ。……誘われた勢いだよ」 あきれるような発言をしたはずなのに、斗夜は「そうか」と返事をしてワイングラスに口をつけた。「顔は別に……イケメンに越したことはないけど、とくにこういう顔じゃなきゃ嫌だとか、こだわりはないかな」 「性格は?」 「自分と合う人なら、それも別に。でも……軽すぎる人は嫌かも。信用できない」 「なるほど。重森くんはダメってことか。……あ、俺もだ」 やさしそうに目元を下げ、斗夜はキラキラとした笑みを見せた。 色気を含んだその顔は見とれるくらい綺麗で、彼のこういう表情にモテる要素があるのだと思う。「彼氏が軽い男だと、浮気されるから嫌なんだな?」 「いや、それは普通でしょ。……あ、堂々と何股もしてた斗夜にはわからない感覚か」 「あはは。痛いとこを突くね」 好きな相手に浮気されたらショックに決まっている。 なにを言っているのかと斗夜をじっと見つめると、彼はバツ悪そうに苦笑いしていた。「咲羅は俺より感覚がまともだよ。大丈夫。以前の俺なんて、それが最低だってこともわかってなかったから。でも……ひとりだけ、それはおかしいって言ってくれた子がいたんだ」 どこか懐かしむように、ふわりと笑った彼の顔に穏やかさが混じる。 その女性は斗夜
「正直、そんなに泣かれるとは思わなかったんだ。ほかの子は、嫌ならあっさりと去って行く子ばかりだったから。その子に泣かれて、そこで初めてひどく傷つけていたことに気がついて、もうそういう軽い恋愛はやめようと思った」 斗夜が自分の恋愛感を改めようとしたのは、その女性の影響だったのだ。 もしかしたら今でも斗夜の心の中には、その人がいるのかもしれない。「彼女とは……その後は?」 「俺がフラれて、それっきり」 「それでいいの?」 私の問いかけに、斗夜は目を細めてとびきり明るく微笑んだ。「いいもなにも、もう一年以上前の話だから」 「でも……」「今は、ほかの子たちと関係は切れてるけど、俺はまだリハビリ中の身で資格すらないんだ」 だけど斗夜の発言を聞く限り、リハビリを終えて、彼の言う“資格”とやらが出来たとき、もう一度その彼女とよりを戻したいのではないかと感じた。 彼女が今も斗夜を好きかどうかはわからないとしても、斗夜はいずれ会いに行きたいと思ってるに違いない。 これはきっと、彼女のためのリハビリなのだ。 斗夜にとって、彼女はほかの女の子たちとは違って特別で。 本気で好きだという自分自身の気持ちに、もしかしたら別れてから気がついたのかもしれない。 付き合っているときにそれに気づくことができていたなら、彼女を傷つけて別れずに済んだのにと、後悔があるのだろう。「俺の昔話はこれくらいに。恋愛って、お互いを知るところからだと俺は思うんだけど」 「それは私も同感」 「俺たち、相手をよく知りもしないで行動するからダメなんだろうな。いいなと思ったらすぐ付き合ったり、関係を持ったり」 「斗夜と一緒にしないでよ!」 本城のことは棚に上げ、私は即座に反論してしまう。 斗夜と私は似た者同士だとわかっているのに。「私はすぐに付き合ったりしないよ。無職とか、変な性格の人は嫌だし、そういう部分は重要だから」 斗夜は私の言葉に驚いたようで、ポカンとしながらまばたきを繰り返していた。「咲羅はちゃんとした考えを持ってるんだな。でも、付き合うに値しない男とは一夜限りなわけか」 「ひとこと多い!」 どうやら私は図星を突かれると言い返す癖があるようだ。 だけど“一夜限り”は、もう絶対にしないと心に決めている。「普通の仕事ならなんでもいいのよ。きちんと働
私が必死に否定したのがおかしかったのか、斗夜が声に出してあははと笑った。 働かずにフラフラしてる男性と付き合える女性のほうが少数派だろう。 お金はないよりはあったほうがいいし、貧乏すぎるのは困るけれど、“拝金主義”は言いすぎだ。「冗談だよ。咲羅は面白いな。飽きない」 褒められているのかどうかわからないが、「それはどうも」と苦笑いしてワイングラスに口をつける。「話してて楽しいのは重要だよ。そのうち、相手がどんなことに興味があるのか、もっと知りたくなっていくもんだろ。好きになる第一歩だと、俺は思う」 斗夜の意見は至極真っ当で、今言った感覚はズレていないと感じた。 むしろ、良いことを言ったと感心するほどだ。「でも、大人になればなるほど、だんだんそういう新鮮な気持ちが薄らいで、めんどくさくなるんだよね」 「咲羅もリハビリが必要だな。よし! 俺とシンプルなデートして、ピュアな感覚を取り戻すか」 下心のある男性ばかりと関わっていたから、ピュアな感覚なんて擦り切れて無くなった気がする。 果たして私の心の片隅にでもまだ残っているのだろうか。 今、ぼうっと聞いていたけれど、私は斗夜とデートをすることが決まったの? ……いや、それもリハビリのうちだ。「今度の日曜、俺とデートね。もちろん昼間に」 「昼間ね。わかった」 いちいち、そうやって下心がないことを宣言するところが斗夜らしい。「買い物に行こう。俺、引越しでいろいろ買い足したいものがあるから、付き合ってよ」 「うん、わかった」 健全な買い物デートなんて久しぶりだ。 バーで初めて会った日に、斗夜が私の分まで会計を支払ってくれたことにようやくお礼を言えた。 だから今日は私がご馳走すると提案したのだけれど、斗夜は断じてそれを許してくれなかった。 そして、夜道は危ないからと、わざわざ私の住むアパートの前まで送ってくれた。 もちろん、送り狼しようなんて気持ちは微塵もなく、部屋に上がろうとせず帰っていく男性は久しぶりだった。 そして、約束の日曜日がやって来た。「うわ! 絡まった!」 斗夜との待ち合わせの午前十一時が迫る中、私は未だにドレッサーの前でヘアアイロンと格闘していた。『明日はデートなんだから、服装はオシャレに。相手が俺でも手抜き禁止』 昨夜、斗夜から釘を刺すよう
だけど自分磨きもリハビリのうちだ。 たまにはオシャレをしないと女として干からびていくかもと、そんな恐ろしい顛末が頭をよぎり、すごく久しぶりにお気に入りのワンピースを着て、丁寧にメイクを施した。 そして今は、自分の髪と戦っている。 ふんわりとした上品な巻き髪にすれば、メイクとの相乗効果で、普段の私とはガラリとイメージが変わるはず。 斗夜は今日の私を見て、驚いた顔をするだろうか。 なんだかドッキリを仕掛けているみたいで面白い。 髪が綺麗に巻けたところで壁の時計に目を向けると、もう出かけないと間に合わない時間になっていた。 慌ててパンプスに足を突っ込んで玄関を出る。 たまにしか履かないこの靴も、ヒールが高すぎなくて上品だからお気に入りだ。 待ち合わせの場所に赴くと、スラリとスタイルの良い男性がすぐに視界に入った。 深いブラウンの髪は、一番最初に会ったときのようにふんわりと緩くセットされていて、白っぽいシャツと黒のジレにブラックジーンズを合わせた服装だった。 美容師がやるようなモノトーンなスタイルが目を見張るように素敵で、私は数秒間じっと見惚れてしまった。 休日の朝から本気でメイクをして、髪もかわいく巻いて、こちらが驚かせようと思って来たのに、これでは逆だ。 それを少しばかり悔しく思いながらも、まだ私に気づいていない斗夜に声をかける。「お待たせ」 振り返った斗夜が私を目にした途端、ポカンとしたまま固まった。 そのあと我に返ったように、口角を上げて笑顔になる。「見違えた」 「そう? いつもよりかわいい?」 「ああ。かわいすぎてビックリした」 お世辞でも褒められるとうれしいものだ。 『いつもと同じだ』などと言われたら、朝から気合いを入れて頑張った自分が報われない。「ヤバい。俺、咲羅にハマりそう」 斗夜は目を細めて私に近づき、緩く巻いた髪先に触れる。 彼の一連の言葉と動作に、女慣れしているなと感じてしまった。 男性なのに指先まで綺麗で、さらに色気があるなんて反則だ。「あのね、斗夜は誰にでも言うからダメなのよ?」 未だに近くにある斗夜の瞳と視線を合わせ、私は静かな口調でたしなめた。「そういう発言は、女の子はうれしいの」 「だったら問題ないだろう」 「斗夜が言うとお世辞に聞こえないから」 斗夜
「俺、お世辞は言わないけど?」 私と視線を合わせたまま、斗夜は真面目な表情でポツリと言う。「こういうのは殺し文句だから、誰かれ構わずに言ってたら大変なことになる」 どうやらそれはわかっているようだ。 だとしたら、私に対する先ほどの発言も真剣だったと聞こえるけれど、それは考えすぎだろうか。「あ、でも俺……今リハビリ中だった。軽いと思われる言動は慎まなきゃ、誤解されるよな」 斗夜は眉をひそめ、残念そうに一歩あとずさりして私から距離を取った。 慎んでくれるのはありがたい。 斗夜は重症のようだから、リハビリはかなりの時間を要するだろう。『ヤバい。俺、咲羅にハマりそう』 先ほどの斗夜の言葉が頭から離れない。 爆発しそうにドキドキと鼓動している心臓が痛くて、右手でそっと胸を押さえた。 私たちは並んで歩き、ショッピングモールへと向かった。 街は日曜日なので家族連れが多く、どこの店内も混み合っていた。「何を買いたいの?」 おもむろに私が尋ねると、斗夜は「こっち」と私を手招きして一軒の雑貨屋さんへと足を踏み入れた。 お店には様々な洒落た雑貨が並んでいて、見ているだけで私も楽しくなってくる。「こういう置時計、カッコいいよな。アラーム機能も付いてるし、ベッドサイドに置いてもいいか」 斗夜はブツブツと独り言のように言いながら、気に入った時計を手に取って眺めている。「俺、朝弱いんだよ」 斗夜が参った、というような顔を私に向ける。 なんとなくだけど、斗夜の雰囲気からして夜型人間だと私は予想していた。「うん、強そうには見えない。起きる時間になっても、ずっとベッドの上でゴロゴロしてそう」 「当たってるよ。前日、真夜中までがんばりすぎたら全く起きれないんだよな」 「…………」 なにをがんばるの? などと聞かなくてもわかってしまい、溜め息が出た。「でもその時計、すごく良いデザインだよ。カッコいい」 「買おうかな。咲羅も買う?」 「なんで私まで」 「お揃いにしよう」 女子高生か! と心で突っ込みながら、差し出された置時計を「私はいらない」と押し返す。 だけど斗夜自身は購入を決めたようだ。 私たちがフラっと立ち寄ったこの雑貨店は奥行きのある造りで、意外と店内は広かった。「お、弁当箱だ」 斗夜がとある一角で、おもむろに
「弁当男子になろうかな」 男性用の黒っぽいシンプルなお弁当箱を手に取って、斗夜がにこにこしながらそうつぶやく。「斗夜が自分で作るの?」 まさか……適当な女性と付き合って、その子に毎日お弁当を作らせるつもり? 一瞬心配になったが、リハビリ中だと本人が断言しているのだから、それはないだろう。「俺、けっこう料理するんだよ」 「へぇ、意外」 「咲羅は料理しなさそうだな」 「失礼ね!」 私だって少しくらいは料理する。……ほんの少しだけど。 私が視線を逸らせたのを見て、あまり料理をしないことを見抜いたのか、斗夜が疑いの眼差しで微笑んでいる。「まぁ、女の子だからって料理できなくても別に……ね」 「少しは出来るわよ!」 「なんなら俺が教えてやろうか? 初心者用のメニューで」 料理どころか家事をまったくやらない女だと思われるのが嫌で反論してみるけれど、斗夜は私の言葉を聞き入れないので会話がかみ合わない。「あれはなんだろう?」 私はそんな斗夜を放って、小さな機械がブクブクと音を立てている方角へ足を進める。 近づいてみると、それは小さな簡易型のフットバスだった。 風呂桶の中に足の置き場があるような形をしていて、デモ用に水が入れてあり、ブーンと電気の音がして動いていた。「気持ち良さそうだな」 気がつくと、斗夜が私の隣に来て一緒にそれを見ていた。「仕事して一日が終わると、足が疲れてるの。事務でもそうなんだから、外回りの営業はなおさらだよね」 今度は私が独り言のようにつぶやき、フットバスの周辺にあったバスグッズを手に取って眺める。「営業は慣れだから。最初は疲れるけどな」 「そっか。あ! 私はこれ買う。入浴剤が欲しいって思ってたの」 私はかわいらしい入浴剤のシリーズに目を奪われ、斗夜への返事が適当になってしまった。 桃の花、ローズ、レモングラスなど、ほかにもいろんな香りがあって、見ているだけで癒される。 “潤うミルクプロテイン配合”や、“しっとりなめらか天然コラーゲン配合”という謳い文句も、女子にはそそられる文言だ。「楽しそうだな」 私が急ににこにこしながら商品を物色し始めたのを見て、斗夜はうれしそうな表情で私の様子を傍観していた。「どれがいいかなぁ。やっぱり潤いは大切だもんね。すべすべになるなら、やっぱりこれかぁ……」
身体が目的ならば、ここで顔色が変わるはずだけれど、戸羽さんは笑顔を曇らせることなく、「楽しみだな」と返事をした。 ガツガツしたところを見せない戸羽さんのようなタイプの人には、素直に好感が持てる。 何時にどこで待ち合わせをするか決めようと思った矢先に、戸羽さんのスマホが着信を告げた。 「ちょっとごめん」と断ると、戸羽さんはその場で電話に出たのだけど、ものの数秒で通話を終わらせ、あわてたように椅子から立ち上がった。「咲羅ちゃん、ごめん。病院から呼び出しが来たから行かなきゃ。急患なんだ」 お医者様はこういうケースがあるから大変だ。 戸羽さんが頼んだウイスキーは、ほんの少し口を付けた程度だから、中身はほとんど残ったままなのに。 だけど今から診察をするのなら、お酒をたくさん飲んでしまう前で良かったと思う。「また連絡するから」 「わかりました」 戸羽さんがあわただしく店を出て行くと、途端に静寂に包まれた。 だけど元々今日はひとりで飲みに来たのだから、これで普通なのだ。「……土曜、行くの?」 しばらくしてから、マスターが心配そうに声をかけてきた。「行きますよ。向こうから連絡があれば、の話ですけど」 戸羽さんがまた連絡すると言っていても、もしなかったとしたら、土曜日の話は自然と流れるのだろう。 申し訳ないけれど、私にとって戸羽さんは絶対にまた逢いたい相手ではないから、私からわざわざ連絡はしない。「さっきの感じだと、連絡はあるはずだよ」 「そうですかね?」 「そうだよ。それに……昼間のデートでも、立派な狼に変身されるかもよ?」 マスターが意味ありげな顔で悪戯に微笑んだ。油断禁物だと言いたいのだろう。「いやいや、ないでしょ。戸羽さんは見るからに、草ばっかり食べてる草食系な感じがしませんでした?」 「は? まったくしなかった! 咲羅ちゃんは男をわかってないな」 あきれた溜め息と共に、マスターはダメだとばかりにフルフルと首を小刻みに振っている。 マスターの言う通りで、わかってないから私は今まで失敗続きだったのだ。 私に男運がなく、自信を持って恋愛だと呼べるものから遠ざかっているのは、そこに原因があるように思う。「大丈夫ですよ。この前の暴力男みたいな失敗はしません」 本城みたいな男との修羅場は二度とご免だと、それだけは
「リハビリは……どうせ解除だから」 私は堂々と不機嫌な表情で反論したが、マスターはそうではないのだと首を横に振った。 だけど斗夜がそういうつもりでいると話してくれたのはマスター自身だ。「リハビリ? 咲羅ちゃん、どこか悪いの?」 隣の戸羽さんから真面目な声が聞こえてきたので、あわててそちらに視線を戻した。 戸羽さんは医師だから、私の体を心配してくれたのだろう。「違うんです。今のはこっちの話で……」 顔の前で手をブンブンと振り、微妙な笑みを浮かべながらきちんと否定した。 戸羽さんはもちろんなんの話かわからないままだけれど、それ以上追求しないでいてくれた。「だけど咲羅ちゃん、そのへんでやめとかないと、斗夜に告げ口するからね?」 ずっと私に視線を送り続けるマスターが、釘をさすように私に告げる。 凄みのある表情に変わったマスターを前に、私は叱られた子供のようにうなだれた。「……咲羅ちゃん、彼氏いるの?」 当然ながら、戸羽さんがマスターの意味ありげな言葉に反応した。 私は首を横に振り、気合いを入れて正面にいるマスターを見据える。「マスター、私と八木沢さんはただの同僚です。付き合ってませんから」 私が毅然とした態度で言い切ると、マスターが不服だと言わんばかりに、再びクイっと眉を片方だけ引き上げた。「まぁ、恋愛は自由だからね。だけど、なんのためにリハビリしてたのか、咲羅ちゃんにはそれをもう一度思い出してほしいな」 マスターは不満そうな顔を引っ込め、純粋にやさしさがこもった笑顔でそう言った。 やさしく言われたほうが、胸にズシリとくるものがあるのはなぜだろう。「今度の土曜日、なにか予定ある?」 しばらく私は沈黙していたけれど、戸羽さんが不意に話を始める。「いえ。ないです」 「仕事も休みだよね? 俺と食事しない?」 食事の件は社交辞令ではなかったようで、戸羽さんは具体的に会う日取りを土曜日にしないかと言ってきた。 『なんのためにリハビリしてたのか』という先ほどのマスターの言葉が頭をよぎる。 答えるならばそれは、いい加減で軽くふわふわした自分を戒め、真剣な恋ができるように感覚を取り戻すためだ。「昼間ならいいですよ。ランチして、どこかぶらぶらします?」
戸羽さんはにっこりと笑い、ポケットからスマホを取り出して操作し始める。 戸羽さんも普通の男だから、こうして普通に女性に連絡先を聞くこともあるのだと、なぜか少し残念な気持ちになった。 ゆったりと牧草しか食べない完全な草食動物なイメージを抱いていたのだけれど、なぜそんな思考だったのかと、この状況の自分をあざわらいたくなる。「ごめん。嫌だった?」 意外な戸羽さんの行動に私が固まってしまい、その様子に気づいた戸羽さんが申し訳なさそうにスマホを持つ手を引っ込めた。「あ、いえ。そういうわけではないんですよ」 戸羽さんが嫌いなのではなく、単にイメージと合わなくて驚いただけだ。 それに、ほんの少しだけ本城のケースが咄嗟に頭に浮かんだ。 あのときも安易に連絡先を教えてしまったから、その後も会おうと都合よく連絡されてしまったので、あれは失敗だったと私の中で後悔の念が拭えないのだ。「軽い男だと思われたかな? 俺、いつもは違うんだよ。縁があるから今日咲羅ちゃんとまた会えたんだし、なのに連絡先を聞かないのもなんとなく失礼な気がして……」 照れが含まれた屈託の無い笑顔を見ていると、この人は本城とは根本的に違う種類の人間だと感じた。 彼は本城がしていたような上辺だけ取り繕うこともしない。「今ちょっと、ぼうっとしちゃっただけなんです。……連絡先ですよね」バッグからスマホを取り出す私を目にし、戸羽さんは驚いていたものの、すぐにうれしそうな表情になった。「いいの?」 「はい」 「良かった。今度食事でもご馳走させてよ」 スマホを付き合わせて連絡先の交換をしていると、穏やかな笑みを浮かべる戸羽さんと目が合った。 彼の瞳にはとくに下心はなさそうで、社交辞令かもしれないと、そんな考えが頭をよぎる。 私と食事に行く気はないのかもしれないけれど、それならそれで全然いい。「何が好きなの?」 「え?」 「食事。いい店をリサーチしとかないとね」 自然な流れで問われ、私はぼんやりと前方を見つめて考え込んだ。 とくに希望はないけれど、なにがいいだろう? 呑気に食べ物のことを考えていたところに、マスターの顔が私の真正面に来ていることに気づき、ビクっと肩を揺らした。「咲羅ちゃん……」 「な、なんですか?」 「リハビリ中のはずだよね?」 マスターはクイ
「そうですね。戸羽さんは人気だったから……」 史香の友達が真っ先に照準を合わせたのが戸羽さんだった。 職業が医師なのに堅苦しさを感じさせない戸羽さんに、史香の友達は最初から狙い撃ちをしていた。 人数合わせのただの付き合いとしてその合コンに参加した私は、空気を読んで別の男性とたわいない話をし、なんとなく時間だけが過ぎて終わった記憶がある。 連絡先も交換していなければ、一夜限りという空気だって微塵もなかった。 私の中で、とても記憶に薄い合コンだ。「このバーにはよく来るの?」 「えぇ、まぁ……」 「そっか。俺もたまに来るんだ。病院からわりと近いから」 そういえば、うちの会社から彼らが勤務する病院まで、直線距離でわりと近いとかなんとか、男性たちがそんな話をしていた気がする。そうなると、このバーも近所のはずだ。「朋美(ともみ)ちゃんとは、その後どうなったんですか?」 あの夜は史香の友達である朋美ちゃんが、戸羽さんをずっと独占していた。 それをふと思い出し、何気なく話題を振ってみる。「気になる?」 綺麗な指先をグラスに添え、戸羽さんは注文したウイスキーに口を付ける。 横目でチラリと私に視線を送り、その答えを促してきた。 彼の態度は余裕たっぷりで、ガツガツしていない大人の男性は素敵だと思わせる瞬間だった。「気になりますよ。仲良さそうでしたから」 それは決して戸羽さんだから聞いたのではなく、単にあの合コンで交際に発展したのかどうか結果が気になったまでだ。 付き合っていようがいまいが、私には関係ないのでどうでもいい。 どちらの結果でも、私の反応は「へぇ」だろう。「連絡先を交換して、ふたりで一度だけ食事に行った。だけどそれっきり。どうやら俺を気に入らなかったみたいだよ」 「へぇ」 食事のあとにホテルに誘って撃沈したのかと一瞬想像したけれど、合コンでは朋美ちゃんのほうがアプローチしていたのだから、それはなんとなく考えにくい。 もしかすると、戸羽さんは草食だから誘わなかったのかもしれない。 朋美ちゃんは彼のその態度が物足りないと感じ、脈なしだと判断したのかも……と、推測してしまった。「だから今も俺は“空き家”なんだ」 戸羽さんがふわっと笑えば、温かい空気が漂い、私の気持ちもゆったりと落ち着く。「勿体無いですね、
昨日はここでどんな話をしていたのか知らないけれど、少なからずふたりは楽しそうに笑いあっていたと、容易に想像がついた。 そんなことが頭をよぎると、名前のわからない感情が私をまたモヤモヤさせる。「今度、斗夜を叱っとくから」 「……え?」 「かわいい咲羅ちゃんにそんな顔をさせるなんて、俺がアイツを説教する」 マスターの言葉で、私は今ひどい顔になっていたと自覚して恥ずかしくなった。 やさしさと労わりが混じったマスターの声で、目に涙が浮かんできたけれど、私は必死でそれをこらえる。 なぜ泣きそうになっているのかわからなくて、だんだんと自分自身に腹が立ってきた。「咲羅ちゃんも覚悟を決めて、斗夜にちゃんと言ったほうがいいよ」 「……なにをですか?」 「まさか気づいてないわけじゃないよね?」 そう言われても、最初に飲んだお酒がまわってきたのもあって、頭がぼうっとしてマスターの発言内容がよく理解できない。 言いたいことを言え、ということだろうか。 だけど今の私はよくわからない感情に圧倒的に支配されていて、斗夜になにを伝えたいのか、そもそも伝えたいことがあるのかすらも、わからなくなっている。「本気なら、昨日の子から奪っちゃえばいいんだよ」 そんなマスターの言葉の意味も、いまいちよくわからない。 誰の話をしているのだろうとさえ思ってしまった。 自分の今の感情が、マスターの言葉に靄(もや)をかけて不明瞭にしている。 マスターとの話の途中に入り口のドアが開いて、ひとりの男性客が入って来た。 黒縁眼鏡をかけ、センスの良いネイビーのスーツを着こなしている。 もしかして……という私の勘は見事にはずれた。 斗夜がひとりでやって来たのかと思ったけれど違ったので、私は再び前を向き、マスターの作ったピンクのカクテルに口を付ける。 だけどなぜかその男性はゆっくりと私のかたわらまで歩み寄ってきた。「偶然だね、咲羅ちゃん。また会えるなんて思わなかったな。横座っていい?」 名前を呼ばれて驚いていると、男性は返事を待つことなく隣の椅子に座り、私の顔を覗き込むようにしてにっこりと微笑んだ。 この人には若干見覚えがある。 以前会っているはずだけれど、それはどこだったのかと必死に記憶をたどった。「えっと……ごめんなさい、あの……」 向こう
「スラリと背の高い、綺麗な人ですよね?」 時枝さんの容姿を思い浮かべ、確認するように口にしてみたけれど、マスターは私の言葉ににっこりと笑って否定も肯定もしない。 ということは肯定なのだ。その女性とやらは、時枝さんで間違いない。「俺は、咲羅ちゃんのほうがかわいいと思うけど」 マスターの慰めるようなやさしさが、私の涙腺を崩壊させそうになる。 今のお世辞は悲しいだけだからやめてほしい。「斗夜は昔からモテるからね。昨日の子も、斗夜に気がある感じだったな」 「積極的にアプローチされてるんでしょうか」 「さぁ? そこまでは知らないけど」 目を閉じると、浮かんだのは時枝さんの顔だった。 彼女が熱を帯びた視線を投げかけ、斗夜の胸に可愛らしく抱きつく姿を私は勝手に想像してしまい、再び胸が痛くなる。「で、このタイミングでリハビリの解除……」 「あ、いや……それは意味が違うと思うよ?」 マスターはあたふたと取り繕っているけれど、リハビリの解除を決定づけたのは、時枝さんの存在が大きく関係しているのではと考えてしまう。 斗夜は時枝さんと付き合うのだろうか。 だとしたら、元カノへの思いはどうしたのかと問いたくなる。 リハビリを終えたら、堂々と純愛だと言える思いを元カノに伝えるのではなかったのか。 そこまで考えて、どちらにせよ私は必要とされていないし、あれこれ言う資格もないと気づいてしまった。「時枝さんとデートすればいい。……私がとやかく言うことじゃないですから」 「咲羅ちゃん……」 このモヤモヤとした、先ほどから私の心臓をギュッと締め付けている感情はなんだろう? その正体がわからずにイライラがつのる。「マスター、おかわり」 「ピッチが早いよ」 マスターが苦笑いしながらも新しいカクテルを作ってくれたけれど、出されたのは私が頼んだものとはまったく違った。「これ……」 「それは俺からのサービス。さっき、うちの若いのが余計なことを言ったお詫び」 カクテルグラスの液体はピンク色でかわいくて、私はしばらくそれを眺めていた。 だけどひと口舐めてみると、あまりお酒の味がしないような気がする。「おいしいけど、……お酒入ってます?」 「あんまり入ってないかな。でも、今日はそれにしときなさい」 まるで先生が生徒を諭すように、マスターは
私はなんとなくこのまま帰るのが嫌で、例のバーへと足を向けた。「いらっしゃい」 いつもと変わらず、イケメンマスターが緩い笑顔で迎えてくれる。 この癒しの空間にいると、私の心に刺さったトゲが抜けていく気がした。「今日は……ひとり?」 マスターの問いかけに、笑顔で「はい」とうなずいた。 あとからよく考えてみると、このときマスターが、そんなふうに尋ねたのは不可解だった。「斗夜がね、リハビリデート楽しかったって言ってたよ」 私が注文したカクテルを差し出しながら、マスターがやさしく微笑む。「マスターに教えていただいたイタリアンレストラン、雰囲気が良くて美味しかったです」 斗夜は良いお店を教えてもらった手前、友達であるマスターに私とのリハビリデートのことをいくらか話しているようだ。「別の日にもショッピングしたり、映画を観たりしたんですけど……私、人混みとかザワついてる場所が苦手だから、あのレストランでの食事が一番落ち着けて、ゆっくり楽しめました」 今のはお世辞ではなく本心で、本当に良いお店を教えてもらったと、マスターに感謝したい。「斗夜も同じことを言ってた。パスタもうまかったし、気に入ったからまた行きたいって」 話しているマスターの顔が本当にやさしそうで、やはりこのバーの雰囲気と気さくなマスターの存在が、私を癒してくれているのだと思えた。 だけど次のマスターの言葉で、私の笑顔が曇ることになる。「それと、もうリハビリは必要ないかもって言ってたよ」 「……え?」 「斗夜はなにか大事なものを見つけられそうなんじゃないかな。心に変化が生じているんだけど、まだ自分でそれに気づけていない気がする」 平然と聞く素振りを見せていたけれど、心臓がギュっと掴まれたように痛い。 私には想定外だったこともあり、衝撃的すぎてしばし固まってしまった。 リハビリが必要ないということは……斗夜にとって私は必要なくなるのだ。 それに、後半マスターが口にした言葉は私には抽象的過ぎて、理解するには難しすぎる。「あ、マスター。これ、斗夜さんに聞いてみてもらえませんか? たぶん、昨日一緒に来ていた女性が忘れて行ったと思うんですよ」 若いバーテンダーの男の子が、無意識に私の心臓にとどめを刺した。 マスターが女性ものの淡いピンクのハンカチを受け取りながら、そのバ
買い物デートという名のリハビリから、十日が経った。 昼間に楽しく過ごして、そのまま別れる。 そんな健全なデートの良さを思い出した私と斗夜は、三日前の日曜にも会い、一緒に映画を観て過ごした。 映画館を出たあと、カフェでその映画の感想を語りあって帰るだけで、お酒も飲まず、夜の危うい雰囲気もなかった。 会話だけで心が弾んだことが、私たちにはとても新鮮に思えた。 どこか遠くに置いてきてしまった懐かしい感情を、私は斗夜に感じずにはいられなかった。 その感情の名は、もしかしたら“ときめき”なのかもしれない。 私の心の中は、やわらかく温かで色めき立つような感覚を覚え始めていたけれど、次の日であるおとといの月曜日、それが早くも粉々に砕けそうな予感が走った。「八木沢さんは今日も一日中、時枝(ときえだ)さんと一緒なのね」 仕事中、隣のデスクの史香が何気なく放った言葉が、私の心にグサリと刺さる。 時枝さんは本社の営業の女性社員で、うちとの合同プロジェクトの案件で、今週一週間だけこちらに来ている人だ。 彼女が本社の営業部にいた斗夜と面識があるのは当然なのだが、同僚という関係以上に仲が良く見えるのは、気のせいではないと思う。 おとといから今日までの三日間、ふたりは片時も離れずにいると感じてしまうほどだ。 社外に出るときも一緒ならば、社内に居るときもふたりでミーティングをしていて、他を寄せ付けない空気を醸し出している。 時枝さんが斗夜に向ける視線には、特別な色を含んでいるのは明白なのだけれど、斗夜はそれにきちんと気づけているのだろうか。「時枝さんは本社でも優秀らしいよ。見るからにデキる女って感じだもんね。八木沢さんと良いコンビだわ」 史香の言葉に私は軽く顔が引きつるが、悟られてはいけないと思い、パソコンの画面を見つめてキーボードを叩いた。 斗夜は彼氏でもなんでもないのだから、行動をいちいち気に留めても仕方がない。 考えるのはやめようと試みたけれど、この三日間は斗夜の仕事が忙しいせいで、私とは同じ部署にいながら視線すら合っておらず、私の気分は沈んだまま浮上できないでいた。 今日は私が出社した頃には、既にふたりで得意先へと外出していたので、朝の挨拶すらしていない。 仕事とプライベートは別だと重々承知はしているが、会社での斗夜を見る
「すべすべって、いい響き」 「変なこと想像しないで!」 買ってもらっておいて、こんな悪態を言いたくはないが、咄嗟に口から出てしまったので仕方がない。 テーマは“純愛”のはずでしょう? 純粋な気持ちを取り戻そうとどんなにリハビリしても、こういう妄想をしていては治らないと思う。 口を尖らせる私をよそに、斗夜は機嫌良さそうに笑っている。 私をからかっているのだろうか。 私たちはショッピングモール内のレストランで昼食を取ることにした。 ランチタイムとしては遅い時間になってしまったのもあり、待つことなくテーブルに案内される。 ざわざわと混雑した場所での食事は落ち着かないので、店内が空いていてホッとした。 斗夜がカレーを選択したのに影響されて、私も同じものを注文した。 向かい合わせに座った私たちは、ほどなくして運ばれてきたカレーに手を伸ばす。「これ……あんまりおいしくないな」 半分くらい食べ進めた頃、斗夜が今さらのようにつぶやいた。「え……そう?」 私は小首をかしげ、再びカレーを口の中で味わってみる。 私はとくに不味いとは思わなかった。 おいしい! と絶賛するほどの味ではないけれど、普通のカレーだ。 私はあまり食に興味がないので、おいしいものが食べたいという欲がなく、味にも鈍感なのだろう。「俺が作ったカレーのほうが断然うまいよ」 「言い切ったね」 「絶対そうだから」 ちなみに私もカレーくらいなら作れる。 市販のルウを使って、箱に書いてあるレシピ通りに作ればいいだけなので簡単だ。 斗夜が言うのは、どうやらそれとは違うみたいだけれど。「今度試してみる?」 「なにを?」 「俺の作ったカレー、食べに来たら?」 斗夜にとってはなんでもない発言だったとしても、私は驚いて挙動不審になってしまう。 キラキラとした綺麗な笑顔で、ドキッとさせるようなことを言わないでもらいたい。「なんか………楽しいな」 「え?」 「買い物して、こうして飯食って会話するの。純粋にそれだけで楽しい。……あれ? もしかしてそう思ったのは俺だけ?」 私は笑ってゆっくりと首を横に振る。「私も楽しい」 なんだか今日は充実した休日を過ごせたような気持ちになった。 それは間違いなく斗夜のおかげ