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第二十四話

Author: 夏目若葉
last update Last Updated: 2025-04-05 09:55:21

 買い物デートという名のリハビリから、十日が経った。

 昼間に楽しく過ごして、そのまま別れる。

 そんな健全なデートの良さを思い出した私と斗夜は、三日前の日曜にも会い、一緒に映画を観て過ごした。

 映画館を出たあと、カフェでその映画の感想を語りあって帰るだけで、お酒も飲まず、夜の危うい雰囲気もなかった。

 会話だけで心が弾んだことが、私たちにはとても新鮮に思えた。

 どこか遠くに置いてきてしまった懐かしい感情を、私は斗夜に感じずにはいられなかった。

 その感情の名は、もしかしたら“ときめき”なのかもしれない。

 私の心の中は、やわらかく温かで色めき立つような感覚を覚え始めていたけれど、次の日であるおとといの月曜日、それが早くも粉々に砕けそうな予感が走った。

「八木沢さんは今日も一日中、時枝(ときえだ)さんと一緒なのね」

 仕事中、隣のデスクの史香が何気なく放った言葉が、私の心にグサリと刺さる。

 時枝さんは本社の営業の女性社員で、うちとの合同プロジェクトの案件で、今週一週間だけこちらに来ている人だ。

 彼女が本社の営業部にいた斗夜と面識があるのは当然なのだが、同僚という関係以上に仲が良く見えるのは、気のせいではないと思う。

 おとといから今日までの三日間、ふたりは片時も離れずにいると感じてしまうほどだ。

 社外に出るときも一緒ならば、社内に居るときもふたりでミーティングをしていて、他を寄せ付けない空気を醸し出している。

 時枝さんが斗夜に向ける視線には、特別な色を含んでいるのは明白なのだけれど、斗夜はそれにきちんと気づけているのだろうか。

「時枝さんは本社でも優秀らしいよ。見るからにデキる女って感じだもんね。八木沢さんと良いコンビだわ」

 史香の言葉に私は軽く顔が引きつるが、悟られてはいけないと思い、パソコンの画面を見つめてキーボードを叩いた。

 斗夜は彼氏でもなんでもないのだから、行動をいちいち気に留めても仕方がない。

 考えるのはやめようと試みたけれど、この三日間は斗夜の仕事が忙しいせいで、私とは同じ部署にいながら視線すら合っておらず、私の気分は沈んだまま浮上できないでいた。

 今日は私が出社した頃には、既にふたりで得意先へと外出していたので、朝の挨拶すらしていない。

 仕事とプライベートは別だと重々承知はしているが、会社での斗夜を見る
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     戸羽さんはにっこりと笑い、ポケットからスマホを取り出して操作し始める。  戸羽さんも普通の男だから、こうして普通に女性に連絡先を聞くこともあるのだと、なぜか少し残念な気持ちになった。  ゆったりと牧草しか食べない完全な草食動物なイメージを抱いていたのだけれど、なぜそんな思考だったのかと、この状況の自分をあざわらいたくなる。「ごめん。嫌だった?」 意外な戸羽さんの行動に私が固まってしまい、その様子に気づいた戸羽さんが申し訳なさそうにスマホを持つ手を引っ込めた。「あ、いえ。そういうわけではないんですよ」 戸羽さんが嫌いなのではなく、単にイメージと合わなくて驚いただけだ。 それに、ほんの少しだけ本城のケースが咄嗟に頭に浮かんだ。  あのときも安易に連絡先を教えてしまったから、その後も会おうと都合よく連絡されてしまったので、あれは失敗だったと私の中で後悔の念が拭えないのだ。「軽い男だと思われたかな? 俺、いつもは違うんだよ。縁があるから今日咲羅ちゃんとまた会えたんだし、なのに連絡先を聞かないのもなんとなく失礼な気がして……」 照れが含まれた屈託の無い笑顔を見ていると、この人は本城とは根本的に違う種類の人間だと感じた。  彼は本城がしていたような上辺だけ取り繕うこともしない。「今ちょっと、ぼうっとしちゃっただけなんです。……連絡先ですよね」バッグからスマホを取り出す私を目にし、戸羽さんは驚いていたものの、すぐにうれしそうな表情になった。「いいの?」 「はい」 「良かった。今度食事でもご馳走させてよ」 スマホを付き合わせて連絡先の交換をしていると、穏やかな笑みを浮かべる戸羽さんと目が合った。  彼の瞳にはとくに下心はなさそうで、社交辞令かもしれないと、そんな考えが頭をよぎる。  私と食事に行く気はないのかもしれないけれど、それならそれで全然いい。「何が好きなの?」 「え?」 「食事。いい店をリサーチしとかないとね」 自然な流れで問われ、私はぼんやりと前方を見つめて考え込んだ。  とくに希望はないけれど、なにがいいだろう?  呑気に食べ物のことを考えていたところに、マスターの顔が私の真正面に来ていることに気づき、ビクっと肩を揺らした。「咲羅ちゃん……」 「な、なんですか?」 「リハビリ中のはずだよね?」 マスターはクイ

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    「そうですね。戸羽さんは人気だったから……」 史香の友達が真っ先に照準を合わせたのが戸羽さんだった。  職業が医師なのに堅苦しさを感じさせない戸羽さんに、史香の友達は最初から狙い撃ちをしていた。  人数合わせのただの付き合いとしてその合コンに参加した私は、空気を読んで別の男性とたわいない話をし、なんとなく時間だけが過ぎて終わった記憶がある。  連絡先も交換していなければ、一夜限りという空気だって微塵もなかった。  私の中で、とても記憶に薄い合コンだ。「このバーにはよく来るの?」 「えぇ、まぁ……」 「そっか。俺もたまに来るんだ。病院からわりと近いから」 そういえば、うちの会社から彼らが勤務する病院まで、直線距離でわりと近いとかなんとか、男性たちがそんな話をしていた気がする。そうなると、このバーも近所のはずだ。「朋美(ともみ)ちゃんとは、その後どうなったんですか?」 あの夜は史香の友達である朋美ちゃんが、戸羽さんをずっと独占していた。  それをふと思い出し、何気なく話題を振ってみる。「気になる?」 綺麗な指先をグラスに添え、戸羽さんは注文したウイスキーに口を付ける。  横目でチラリと私に視線を送り、その答えを促してきた。  彼の態度は余裕たっぷりで、ガツガツしていない大人の男性は素敵だと思わせる瞬間だった。「気になりますよ。仲良さそうでしたから」 それは決して戸羽さんだから聞いたのではなく、単にあの合コンで交際に発展したのかどうか結果が気になったまでだ。  付き合っていようがいまいが、私には関係ないのでどうでもいい。  どちらの結果でも、私の反応は「へぇ」だろう。「連絡先を交換して、ふたりで一度だけ食事に行った。だけどそれっきり。どうやら俺を気に入らなかったみたいだよ」 「へぇ」 食事のあとにホテルに誘って撃沈したのかと一瞬想像したけれど、合コンでは朋美ちゃんのほうがアプローチしていたのだから、それはなんとなく考えにくい。  もしかすると、戸羽さんは草食だから誘わなかったのかもしれない。  朋美ちゃんは彼のその態度が物足りないと感じ、脈なしだと判断したのかも……と、推測してしまった。「だから今も俺は“空き家”なんだ」 戸羽さんがふわっと笑えば、温かい空気が漂い、私の気持ちもゆったりと落ち着く。「勿体無いですね、

  • 純愛リハビリ中   第二十七話

     昨日はここでどんな話をしていたのか知らないけれど、少なからずふたりは楽しそうに笑いあっていたと、容易に想像がついた。  そんなことが頭をよぎると、名前のわからない感情が私をまたモヤモヤさせる。「今度、斗夜を叱っとくから」 「……え?」 「かわいい咲羅ちゃんにそんな顔をさせるなんて、俺がアイツを説教する」 マスターの言葉で、私は今ひどい顔になっていたと自覚して恥ずかしくなった。  やさしさと労わりが混じったマスターの声で、目に涙が浮かんできたけれど、私は必死でそれをこらえる。  なぜ泣きそうになっているのかわからなくて、だんだんと自分自身に腹が立ってきた。「咲羅ちゃんも覚悟を決めて、斗夜にちゃんと言ったほうがいいよ」 「……なにをですか?」 「まさか気づいてないわけじゃないよね?」 そう言われても、最初に飲んだお酒がまわってきたのもあって、頭がぼうっとしてマスターの発言内容がよく理解できない。  言いたいことを言え、ということだろうか。  だけど今の私はよくわからない感情に圧倒的に支配されていて、斗夜になにを伝えたいのか、そもそも伝えたいことがあるのかすらも、わからなくなっている。「本気なら、昨日の子から奪っちゃえばいいんだよ」 そんなマスターの言葉の意味も、いまいちよくわからない。  誰の話をしているのだろうとさえ思ってしまった。  自分の今の感情が、マスターの言葉に靄(もや)をかけて不明瞭にしている。 マスターとの話の途中に入り口のドアが開いて、ひとりの男性客が入って来た。  黒縁眼鏡をかけ、センスの良いネイビーのスーツを着こなしている。  もしかして……という私の勘は見事にはずれた。  斗夜がひとりでやって来たのかと思ったけれど違ったので、私は再び前を向き、マスターの作ったピンクのカクテルに口を付ける。  だけどなぜかその男性はゆっくりと私のかたわらまで歩み寄ってきた。「偶然だね、咲羅ちゃん。また会えるなんて思わなかったな。横座っていい?」 名前を呼ばれて驚いていると、男性は返事を待つことなく隣の椅子に座り、私の顔を覗き込むようにしてにっこりと微笑んだ。  この人には若干見覚えがある。  以前会っているはずだけれど、それはどこだったのかと必死に記憶をたどった。「えっと……ごめんなさい、あの……」 向こう

  • 純愛リハビリ中   第二十六話

    「スラリと背の高い、綺麗な人ですよね?」 時枝さんの容姿を思い浮かべ、確認するように口にしてみたけれど、マスターは私の言葉ににっこりと笑って否定も肯定もしない。  ということは肯定なのだ。その女性とやらは、時枝さんで間違いない。「俺は、咲羅ちゃんのほうがかわいいと思うけど」 マスターの慰めるようなやさしさが、私の涙腺を崩壊させそうになる。  今のお世辞は悲しいだけだからやめてほしい。「斗夜は昔からモテるからね。昨日の子も、斗夜に気がある感じだったな」 「積極的にアプローチされてるんでしょうか」 「さぁ? そこまでは知らないけど」 目を閉じると、浮かんだのは時枝さんの顔だった。  彼女が熱を帯びた視線を投げかけ、斗夜の胸に可愛らしく抱きつく姿を私は勝手に想像してしまい、再び胸が痛くなる。「で、このタイミングでリハビリの解除……」 「あ、いや……それは意味が違うと思うよ?」 マスターはあたふたと取り繕っているけれど、リハビリの解除を決定づけたのは、時枝さんの存在が大きく関係しているのではと考えてしまう。  斗夜は時枝さんと付き合うのだろうか。  だとしたら、元カノへの思いはどうしたのかと問いたくなる。  リハビリを終えたら、堂々と純愛だと言える思いを元カノに伝えるのではなかったのか。  そこまで考えて、どちらにせよ私は必要とされていないし、あれこれ言う資格もないと気づいてしまった。「時枝さんとデートすればいい。……私がとやかく言うことじゃないですから」 「咲羅ちゃん……」 このモヤモヤとした、先ほどから私の心臓をギュッと締め付けている感情はなんだろう?  その正体がわからずにイライラがつのる。「マスター、おかわり」 「ピッチが早いよ」 マスターが苦笑いしながらも新しいカクテルを作ってくれたけれど、出されたのは私が頼んだものとはまったく違った。「これ……」 「それは俺からのサービス。さっき、うちの若いのが余計なことを言ったお詫び」 カクテルグラスの液体はピンク色でかわいくて、私はしばらくそれを眺めていた。  だけどひと口舐めてみると、あまりお酒の味がしないような気がする。「おいしいけど、……お酒入ってます?」 「あんまり入ってないかな。でも、今日はそれにしときなさい」 まるで先生が生徒を諭すように、マスターは

  • 純愛リハビリ中   第二十五話

     私はなんとなくこのまま帰るのが嫌で、例のバーへと足を向けた。「いらっしゃい」 いつもと変わらず、イケメンマスターが緩い笑顔で迎えてくれる。  この癒しの空間にいると、私の心に刺さったトゲが抜けていく気がした。「今日は……ひとり?」 マスターの問いかけに、笑顔で「はい」とうなずいた。  あとからよく考えてみると、このときマスターが、そんなふうに尋ねたのは不可解だった。「斗夜がね、リハビリデート楽しかったって言ってたよ」 私が注文したカクテルを差し出しながら、マスターがやさしく微笑む。「マスターに教えていただいたイタリアンレストラン、雰囲気が良くて美味しかったです」 斗夜は良いお店を教えてもらった手前、友達であるマスターに私とのリハビリデートのことをいくらか話しているようだ。「別の日にもショッピングしたり、映画を観たりしたんですけど……私、人混みとかザワついてる場所が苦手だから、あのレストランでの食事が一番落ち着けて、ゆっくり楽しめました」 今のはお世辞ではなく本心で、本当に良いお店を教えてもらったと、マスターに感謝したい。「斗夜も同じことを言ってた。パスタもうまかったし、気に入ったからまた行きたいって」 話しているマスターの顔が本当にやさしそうで、やはりこのバーの雰囲気と気さくなマスターの存在が、私を癒してくれているのだと思えた。 だけど次のマスターの言葉で、私の笑顔が曇ることになる。「それと、もうリハビリは必要ないかもって言ってたよ」 「……え?」 「斗夜はなにか大事なものを見つけられそうなんじゃないかな。心に変化が生じているんだけど、まだ自分でそれに気づけていない気がする」 平然と聞く素振りを見せていたけれど、心臓がギュっと掴まれたように痛い。  私には想定外だったこともあり、衝撃的すぎてしばし固まってしまった。  リハビリが必要ないということは……斗夜にとって私は必要なくなるのだ。  それに、後半マスターが口にした言葉は私には抽象的過ぎて、理解するには難しすぎる。「あ、マスター。これ、斗夜さんに聞いてみてもらえませんか? たぶん、昨日一緒に来ていた女性が忘れて行ったと思うんですよ」 若いバーテンダーの男の子が、無意識に私の心臓にとどめを刺した。 マスターが女性ものの淡いピンクのハンカチを受け取りながら、そのバ

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