出て行ったきり戻ってこない鏑木さんを、どうしたのかなと気にしているうちに、私はうつらうつらとしていたようだ。「黒沢さん」男性の声に呼びかけられ、ハッとして目を覚ます。無意識にドアの方に顔を向けると、そこから白衣姿の長身の男性が入ってきた。その後に続いた鏑木さんが無言でドアを閉め、その場で足を止める。私の方に歩いてくるのは、白衣のドクターだけ。彼はベッドサイドで立ち止まると、もう一度私を「黒沢さん」と呼んだ。「こんばんは。私はこの病院の脳外科医で、箕輪(みのわ)と申します」丁寧に自己紹介してくれるドクターの胸元には、顔写真入りのネームタグが着けてあって、『箕輪昴(すばる)』と読める。「ご気分いかがですか? どこか痛いところや、おかしいところはありますか?」目元を和らげた、優し気な顔立ちのイケメンドクターが、先ほどの鏑木さんと同じ質問を繰り出してくる。改めて問われてみると、どこがというか、身体中が鈍く痛む気がする。エスカレーターから転落したそうだから、打ち身のせいだろう。素直にそう答えると、箕輪先生は顎を撫でながら相槌を打った。「頭の痛みは? それから、外側ではなく、身体の内部も。お腹が痛いとか、気持ち悪いとかは?」質問につられて、なんとなくお腹に手を当ててみる。「大丈夫……です」首を傾げ、自分に確認しながら返事をすると。「そうですか。よかった」箕輪先生は、ニコッと笑った。「でも、頭部を受傷すると、直後は症状がなくても、後になって異常が出てくることもあるので、念のために精密検査を行います。せっかくだから、全身くまなくしちゃいましょうか。一週間、入院してください」「え。全身? 一週間も……」思わず言葉を挟んだ私に、彼は眉尻を下げて苦笑した。「お仕事が気がかりですか? それなら、あちらの鏑木さんが、心配しなくていいと」そう言いながら、肩越しにドア口を見遣る。彼の視線の動きにつられて、私も鏑木さんに目を向けた。私と先生の視線を受け、彼はなにか硬い表情で、黙って頷く。「鏑木さん……は、ご存じですね?」箕輪先生は私の方に目線を戻し、やや低い声で訊ねてきた。それには、「はい」と返事をする。「私が勤めている会社の、親会社の副社長さんです」「すごい方と面識があるんですね」「面識……というか」私は、箕輪先生の語尾を繰り返しながら、少しだけ首を傾げた。「私はこの春に秘書室に異動して、役員
入院から、今日で五日。これまで連日、頭部CTやらMRIといった精密検査を受けてきた。『せっかくだから』と勧められ、脳とは関係ない腹部CTやエコーなどもある。一週間で、詰められるだけ詰め込んでるみたいだ。昨日の午前中に脳血管造影と脳波測定を終え、今日、午後になって、箕輪先生が、結果と詳しい説明をしに病室に来てくれた。最初の日に先生が口にした『可能性』――。私は、この一年ほどの記憶が欠落しているそうだ。逆行性健忘……つまり、記憶喪失の診断を受けた。頭を打ったりした後は、よく見られる症状だと言われたけど、『記憶喪失』なんて、ドラマかなにかだけの世界の話だと思っていた。それが、現実で自分の身に降りかかるなんて、信じられない。私自身は、二十六歳になったばかりという認識でいるのに、箕輪先生は『黒沢さんは二十七歳です』と言う。秘書室に異動してまだやっと半年なのに、鏑木さんは『もうすぐ丸二年になる』と言う。寄ってたかって、『私』を否定してるみたい。なんだか、狐に化かされてるようで、現状をすんなり受け入れられない。でも、テレビや新聞、雑誌などを見ると、私の記憶がおかしいのは、認めざるを得ない。なにせ、齟齬がありすぎる。総理大臣が誰かとか、芸能人の誰と誰が結婚したとか離婚したとか……。上書きしなきゃいけない情報が過多になるばかりで、完全に浦島状態だ。こうなると、記憶を失っているという状況を、受け入れるより他なかった。私一人のことなら、名前も勤め先も覚えているし、日常生活にそれほど支障はないと思うけど、いざ、戻るとなったらどうなるのか……。説明を終えた箕輪先生が出て行ってすぐ、まるで入れ替わるように、外からドアがノックされた。「はい」ベッドに足を投げ出して座っていた私は、その上にスマホを置いて返事をした。「黒沢さん、こんにちは。気分はどう?」ドアがスライドして、鏑木さんが入ってくる。「あ。鏑木さん! こんにちは」私は条件反射でドキッと胸を弾ませながら、挨拶を返した。彼は私にニコッと笑うと、躊躇うことなくベッドサイドに歩み寄ってくる。「はい、これ。お見舞い。君が好きなミックスベリーのパイ」どこか悪戯っぽく目を細め、有名な洋菓子店の小さなギフトボックスを顔の高さに持ち上げた。「わ! ありがとうございます!」思わずはしゃいだ声をあげて、彼の手からボックスを受け取った。早速箱を開け、色合いも華
いただいたミックスベリーパイを食べていた時、ドアの前になにか落ちているのに気付いた。「……?」私は首を捻りながら、そっとベッドから降りた。スリッパを足の爪先に引っかけ、カーディガンを胸元に手繰って掴んで、ドアの前まで歩いていく。なんとも高級感漂う万年筆だ。胴軸はシックなダークブラウンで、拾い上げてみると上品な重みを感じる。もちろん、私の物ではない。午後になってここに来た、箕輪先生か鏑木さんの物に違いない。鏑木さんは帰ってしまったし、まずは箕輪先生に確認してみようと思い、万年筆を手に病室を出た。ちょうど、廊下がT字に交わる位置に、大きな姿見が据えてある。何気なく覗き込んだ私は、鏡に映った自分を確認して、がっくりとこうべを垂れた。今日も鏑木さんが来てくれるかも……と予想して、午前中の検査が終わった後、入院患者として不自然じゃない程度に、薄いメイクを施したけれど……。「もっとしっかりメイクでも、よかったかも……」普段、オフィス仕様の私しか知らないはずの鏑木さんにとって、今の私は相当貧相に映ったはずだ。ベースメイクしかしていないせいで、もともと凹凸に乏しい顔立ちが、ますます地味に見える。ちょっと大きめの丸い目は、普段なら辛うじてチャームポイントだけど、マスカラとアイライン無しだと際立たない。形は悪くないけど高くはない鼻と、下唇の方がやや厚めの小さな唇は、可もなく不可もない。なにを取っても平均すれすれの顔が、ますます冴えない。茶色くカラーリングした髪は、肩甲骨を覆う長さ。パーマっ気はなく、オフィスではダウンスタイルだけど、入院中の今は、頭の後ろ、ちょうど中間くらいの高さで一つに結んでいる。それがまたひっ詰めた印象を強め、女らしさにはほど遠い。それでなくても、病院から貸し出してもらってるツーピースの病衣と、カーディガンという服装……。「明日はちゃんと、身支度しておこう……」肩を落として鏡の前から離れ、先に進んだ。ナースステーションまでの廊下の途中に、病院関係者が『サンルーム』と呼んでいる談話スペースがある。「……ん?」そこから鏑木さんの声を聞こえた気がして、足を止めた。『次の予定が迫っている』と言ってたのに、大丈夫なんだろうか?私は、少しだけ廊下を小走りして……。「鏑木さ……」「美雨になんの用だ。帰ってくれないか」聞いたことがないくらい、冷たく低い鏑木さんの声が耳に飛び込んで
入院から一週間。予定通り退院許可が下り、朝食後、私は身支度を始めた。突然の事故で救急搬送され、そのまま入院した私の荷物は少ない。必要に駆られて売店で購入した下着や洗面、入浴用品に化粧水くらいで、紙袋一つに収まっている。搬送された時身につけていた服は、鏑木さんが持ち帰り、クリーニングに出してくれていた。おかげで、どうってことないニットとロングスカートが、まるで新品のように綺麗に畳まれ、透明な袋に入っている。退院して仕事に復帰して、次に彼が来社されたら、きちんとお礼をしないとな……。ドアの向こうの廊下には、患者さんのケアに回る看護師が行き交っている。賑やかな話し声や物音を聞きながら着替えを済ませ、髪を後ろで一つに纏めた時、「黒沢さん。箕輪です」ノックと同時に、声がした。「はい。どうぞ」私が応答すると、ゆっくりドアがスライドして、箕輪先生が入ってきた。彼は、「あれ」と目を丸くする。「もう出発ですか? 早いですね」「先生、一週間お世話になりました。私の方から、ナースステーションに伺おうと思ってたんですけど」ペコリと頭を下げて挨拶すると、先生は「いいえ」とはにかんでから、人差し指でポリッとこめかみを掻いた。「鏑木さんを、待たなくていいんですか?」「え?」「十時頃、迎えに来ると言ってましたけど……」そう言いながら、白衣の袖からゴツい腕時計を覗かせる。私も、自分の左手首の時計に目を落とした。現在、九時十五分。この後、入院費の精算をして、薬局で薬をもらって……やることを全部済ませても、鏑木さんが来る前に、病院を出るのは可能と計算していた。「ええと……この後、会社の方にも挨拶に行こうと思っているので」私はぎこちなく笑って、コートに袖を通した。「申し訳ありませんが、鏑木さんがいらしたら、私が謝っていたと伝えていただけませんか」「それは構いませんが……」箕輪先生は顎を撫でながら、なにか思案顔をする。「今日会わなくても、業務上、顔を合わせる機会はあります。その時直接、これまでのお礼をするつもりです」私が言葉を重ねると、先生も何度か頷いてくれた。「わかりました。では、お気をつけて」背筋を伸ばし、姿勢を正して言ってくれる先生に、私も「はい」と返事をする。「退院しても、しばらくの間は、指示通りに通院してくださいね。なにか異常があれば、予約がなくても、すぐに来てください」「はい。お世話になりまし
駐車場に入ると、鏑木さんは出入口近くに停めてあった黒いベンツのドアを開けた。右の座席。国産車なら運転席だけど、外車だから助手席だ。「どうぞ。乗って」なんとも優雅な仕草でエスコートされて、否が応でも胸が弾んでしまう。「あ、ありがとう、ございます……」なにに気圧されたのか、私はすっかり抵抗を忘れて、シートに腰を下ろした。鏑木さんは私が乗るのを確認して、静かにドアを閉めると、車のフロントを回って、左側、運転席に乗り込む。助手席との間から後部座席に軽く身を乗り出し、私の荷物をそこに置くと、シートベルトを締めてエンジンをかけた。「黒沢さん。君も、シートベルト締めて」なんとなく彼を目で追っていて、当たり前のことを失念していた私を、短く促す。「! は、はい」焦ってシートベルトを締める私の隣で、鏑木さんはブレーキを解除してアクセルを踏み込んでいた。駐車場内は徐行運転して、やがて広い公道に出ると、車はグンと加速する。シートに背を吸い寄せられる感覚に身を委ね、私はそっと彼の横顔を窺った。――本当に、意味がわからない。私が思う以上に、彼は強い責任を感じているのかもしれないけど、それにしたって。いつも忙しい鏑木ホールディングスの副社長が、私の退院に合わせて、わざわざ休暇を取ってまで迎えに来てくれるもの……?無意識に唇を結び、首を傾げながら、私はハッと我に返った。いや……わざわざ、とかじゃなくて、ただの偶然に決まってるじゃない。きっと鏑木さんは、もともと休暇を取っていて、それにたまたま私の退院が重なっただけ。勘違いも甚だしい。なにを自惚れてるんだ、私は。――でも。私を『美雨』と名前で呼んだ、薄い男らしい唇に目が行ってしまう。思わずきゅんとした次の瞬間、脳裏を過ぎったのは、網膜に焼きついている、『多香子さん』と鏑木さんがキスをしていた光景……。「っ!」私は反射的に目を逸らし、彼に向けていた視線を正面に戻した。すると。「くっ……」小さくくぐもった笑い声に耳をくすぐられ、「え?」今度は窺うんじゃなくて、しっかりと運転席の彼に顔を向けた。「いや、ごめん」鏑木さんはまっすぐ進行方向を見据えたまま、ハンドルから離した右手で口元を覆い、小気味よく肩を動かしている。「さっきから、俺のなにを観察してるのかって、気になってね」くっくっと声を漏らして笑いながら、どこか意地悪に横目を流してくる。「そうかと思うと、
鏑木さんが運転するベンツは、国際色豊かな赤坂の街をひた走っていた。車窓を流れるのは、世界中で展開しているホテルグループの大型ホテルや、スタイリッシュな高層ビル。フロントガラスの向こうに、東京タワーのてっぺんが見える。三車線の広い国道は、観光バスや大型トラックも多く走行している。時折派手なクラクションが響き、なんとも騒々しい。ところが、一本逸れて脇道に入ると、意外にも緑豊かな住宅街だった。大通りの喧騒が嘘みたいな、閑静な街並み。赤坂周辺には、世界各国の大使館が建ち並んでいるため、外交官など、ハイソサエティな外国人居住者が多い。文化、著名人の家も多数あり、セレブ感漂う高級住宅街。一際高く聳えるタワーマンションの横で再び道を曲がり、鏑木さんは地下に向かうスロープに車を滑り込ませた。地下に広がる駐車場で車を停め、居住フロア直結のエレベーターに乗り込む。彼の部屋がある三十階まで、もちろんノンストップ。降り立ったエレベーターホールは、どこかのランドマークタワーの展望デッキのようだった。全面ガラス張りになっていて、東京の街並みを一望できる。予想通り、ではあるけど、あまりにもゴージャスなマンション。ここまでですでに度肝を抜かれ、ポカンとしていた私を、「黒沢さん、こっち。どうぞ」鏑木さんが、一つのドアの前で、手招きした。「あ、はいっ……」スマートにカードキーで開錠してドアを開け、私を玄関先に誘ってくれる。ここでもジェントルマンなエスコートにドキドキして、私は変な汗を掻きそうになりながら、玄関に入った。鏑木さんは私の背中で施錠すると、スリッパを勧めてくれた。自分は先に廊下に上がり、ズンズン奥に進んでいく。玄関先とは思えないほど広い廊下を、私は妙に縮こまって、彼の背を追った。そして、辿り着いた先、視界いっぱいに飛び込んできたのは――。「……っ」開放感溢れる、広々としたリビングだった。壁一面窓ガラスになっていて、エレベーターホールと同じく、東京の街が広がる。『TOP OF THE WORLD』という言葉が、頭にポッと浮かんだ。「うわあ……」無意識に一歩踏み出し、そこで足を止めて、大きく見渡す。絶対上質で一級品に違いない家具は、ダークブラウンと白を基調に統一されていて、なんとも言えずシックで落ち着いた空間。リビングの片隅に六畳ほどの和室があるのも、和風モダンでセンスがある。その逆サイドに、
「すみません。この間、お二人が病院のサンルームでお話してたところを、見てしまいました」何故だか後ろめたい気分になって、今度は私が目を逸らした。「話も聞きました。でも、いったいなんのことだかわからず……」言い訳みたいに続ける途中で、鏑木さんは口元に手を遣って顔を背けていた。きっと、私が、二人のキスシーンを見たことに、合点したのだろう。だけど私は、構わず畳みかける。「余計な情報、でしょうか。彼女は、私のことを……私がエスカレーターから転落した経緯も、ご存じのようでした。だったらむしろ、お会いしたいです」「っ……」鏑木さんが、弾かれたように顔を上げた。彼の強張った表情に、私も一瞬怯む。だけど……。「ダメだ」鏑木さんが、私の肩をぎゅっと掴んだ。「痛っ……」指が食い込むほどの強い力に、私は片目を瞑って顔を歪めてしまう。「ダメだ。多香子には、絶対に会わせられない」鏑木さんは、苦い口調で繰り返す。そんな彼を、私は上目遣いに見据えた。「だったら、鏑木さんが教えてください」なんとか虚勢を張って言葉を重ねると、鏑木さんは息をのんだ。「一番詳しく知っているのは、きっと鏑木さんです。だから……」勢いに任せて口走る私の肩を、グイと引き寄せる。私に落ちる彼の影が色濃くなった、次の瞬間……。「!?」鏑木さんが背を屈め、私の唇を奪った。唇に強引に重ねられる温もりに、大きく目を見開く。ひゅっと喉の奥を鳴らし、そのまま息を止めた。近すぎて輪郭がぼやける鏑木さんの顔が、私の視界を覆い尽くしている。言いかけた言葉の先はのみ込まれ、代わりに、私と彼の舌が絡まる、くちゅっという淫らな水音が零れた。「っ……やめてっ……!」抗いようもなく吸い込まれる……そんな感覚に怯え、私は必死に首を捩じって、彼の唇から逃げた。無我夢中で両手で厚い胸板を押して、身体の間隔を開く。「い、いきなり、なにを……」無意識に手の甲を唇に当てた私に、「俺は、嘘しかつけない」鏑木さんは、苦しげに顔を歪めた。「っ、え?」想像もしていなかった返事で、私は言葉に詰まった。「君が忘れているのをいいことに、事実を捻じ曲げたことしか教えられない。それは、俺にとっても本意じゃない」「え……」私から顔を背け、睫毛を伏せる横顔が切なげで、それ以上問うことができない。「知りたければ、自分で思い出して。他人の言葉に導かれることなく、自分で」どこか突き放した言い方
リビングで鏑木さんを見つけられず、私は闇雲に走り回った。まだ、どこになんの部屋があるかもわからないから、彼の名を呼びながら、片っ端からドアをノックして回っていると。「黒沢さん、こっち」リビングの奥、螺旋階段の中ほどまで降りてきた鏑木さんが、ひょいと身を乗り出していた。私は反射的に大きく顔を上げて、彼を仰ぐ。「どうしたの。賑やかだね」きょとんとした顔で首を傾げるのを見て、急いで螺旋階段を上った。「か、鏑木さんっ……!」「俺の書斎とメインベッドルーム、この上にあるんだ。在宅中はリビングにいなければ上にいるから、そんなに捜し回らなくていいよ」「あのっ! 服。し、下着……!」鏑木さんの説明に反応する余裕もなく、私は息を切らして、自分の言いたいことだけ口にした。「え?」「服はともかく……どうして下着のサイズまで完璧なんですか!?」息を乱し、慌てふためいて質問をぶつける私に、彼はパチパチと瞬きをして……。「完璧だった? それならよかった」「よかった、じゃなくて、意味不明です!」私は真っ赤な顔で言い募る。さすがに鏑木さんも、私の勢いの前で、わずかに背を仰け反らせた。そして。「……くっ」小さく吹き出し、肩を揺すって笑い出す。「俺が君の下着のサイズを知ってたら、そんなに不思議?」からかい混じりに言われて、私はさらに顔を火照らせた。「当たり前です! だって、どうして……」「服のサイズと、目測からの判断。それ以外、答えようがないかな」口元に手を遣って、愉快気にくっくっと声を漏らす彼に、私は呆気に取られてしまった。それだけで、ブラのサイズまで見抜けるもの?私はまだ不信感を拭えず、無意識に自分の胸元を見下ろした。だけど、鏑木さんまで同じところに視線を向けているのに気付き、「……っ!」反射的に両腕で胸を抱きしめ、彼の視線から隠した。「そ、そういうことなら、納得します。えっと……ありがとうございました!」なんだか、私のすべてを透視されているような、妙な感覚に陥る。私は慌てて彼に背を向け、中ほどまで上ってきた螺旋階段を駆け下りようとして……。「っ……美雨っ」弾かれたような、鋭い声。同時に強く肘を引かれて、一段下りただけで振り返った。「鏑木さん……?」見上げた彼が、顔を強張らせているのに怯み、おずおずと呼びかける。鏑木さんは、ハッとしたように息をのみ、私から手を離した。「っ、ごめん。つい……」大き
私は、彼の広い背中を追いかけた。その後――。夏芽さんは一ヵ月ほどうちの会社で執務を続け、三月の年度末をもって本来のオフィスに戻っていった。それに伴い、私も役員秘書業務復帰を果たした。私の記憶は、夏芽さんとのことを除くと、全面的に取り戻せたのか、判断も難しい。でも、自分なりに感覚は戻ったと思うから、復帰できてとても嬉しかった。新年度が始まり、夏芽さんとオフィスで過ごす時間はなくなった。でも、以前と同じように、私が作ったお弁当を一緒に食べながら、ランチタイムを過ごすことはできる。そして、家では、もっと甘い時間を……。週末を迎える金曜日の夜。先にベッドに入った私の肩を、夏芽さんが軽く揺さぶった。「みーう。寝たふり。バレてるけど」くくっとくぐもった笑い声が降ってくる。と、次の瞬間、強引に身体を上に向けられ、唇に熱いキスが落とされた。「んっ……! 夏芽さんっ……」条件反射でバチッと目を開けると、瞳いっぱいに反則なほど綺麗な顔が映り込む。夏芽さんが、薄く半分開けた目で、私の反応を一から十まで観察している。そんな彼に、ドクッと心臓が沸く音がした。「ん、ふうっ……あっ……」彼曰く、『無自覚に煽る声』が、私の耳をも犯す。でも、私に言わせれば、こういう甘いキスをいけしゃあしゃあと仕掛けてくる夏芽さんのせいだ。執拗に絡められる舌。キスだけなのに身体の芯が熱くなり、火照る。解放されても、とろんと潤んだ目で、離れていく唇を追いかけてしまう。夏芽さんは、少しルーズなシャツの襟をたわませているから、私の視界には彼の引きしまった胸がチラチラ覗く。「なつ、めさ……」「美雨。改めて……これ、そろそろ受け取ってくれる?」彼は、胸の小さなポケットから、指先でなにか摘まみ上げた。私の左手を取って、それを薬指に滑らせる。「え? あ……」そこにずっしりと感じる、上品な重み。私は左手を顔の上に掲げ、そこに戻ってきたエンゲージリングを見て、ドキッと胸を弾ませた。「俺と、結婚してください」ストレートなプロポーズに、またしても跳ね上がる鼓動。「ちょ、ちょっと待って」私はベッドに肘をつき、中途半端に上体を起こした。「でも、あの……多香子さんは?」私を腕の中に囲む彼を、上目遣いで探る。夏芽さんが、ふっと目尻を下げて微笑んだ。「新しい縁談が、順調に進んでるらしいよ?」「……えっ!?」私はギョッと目を剥いて、何度も瞬きを
翌朝、私は夏芽さんが目を覚ます前にベッドを抜け出した。自室として借りている客間に降り、退院した時着ていたニットとスカートを手に取る。三月……。真冬の服は、ちょっと重苦しい季節を迎えようとしているけど、早朝であればそうおかしくもない。手早く身に着け、簡単に身支度をする。紙袋に荷物を纏めると、私は夏芽さんの家を出た。早春の早朝、空気はひんやりと冷たい。昨日思い出した記憶で飽和状態の思考回路には、いい刺激になる。あれですべての記憶を取り戻したわけじゃないだろうけど、私の心は十分混乱していた。夏芽さんの愛情も熱情も本物だとわかるからこそ、一度、彼と離れるべきだと考えた。彼といると、まともに考えることができなくなるほど、愛されてしまう。焼き切れそうな思考回路を、一度しっかり冷却して、彼に向き合いたい。だから今は、これ以上、夏芽さんと一緒に暮らしていてはいけない。会社の行き帰りも、送迎してもらってはいけない。仕事も、少しずつでいい、これまでの役員秘書業務に戻してもらえるよう、室長に話してみようと思っていた。夏芽さんもリモートワークをやめて、本来のオフィスに戻ってもらわねば。そう。一度、全部もとに戻そう。まだ取り戻せていない記憶を、のんびりゆっくり自分の中に探す、そんな時間が私には必要だ。始発から間もない駅は人も疎ら。私が一人暮らしをしている街までは、ここから電車で三十分ほどかかる。並びに誰もいない座席に座り、手すりに凭れかかってウトウトしていたら、いつの間にか最寄り駅に運ばれていた。駅からは、徒歩十分。この三週間ほど、夏芽さんのゴージャスなタワーマンションで視覚が麻痺したせいか、私には相応しい小ぢんまりしたワンルームマンションが、なんとも貧相に映る。それでも、気を取り直す。贅沢に慣れてしまった自分を、戒める。まずはここで、本来の生活を取り戻さないことには、なにも始まらない。マンションのエントランスに進もうとして、無意識にバッグに手を突っ込んだ。バッグの中、いつも家の鍵を入れているポケットを手探りして……。「……あ、あれ?」キーリングをつけた鍵が、見つからない。「え? え?」私は通りに立ち尽くしたまま、バッグを顔の高さに持ち上げた。ほとんど顔を突っ込む勢いで、中を覗き込む。だけど、鍵は見当たらない。「ない。……どこ?」最後に手にしたのがいつか、私の頭に記憶はない。入院中も退院し
重い目蓋を持ち上げると、視界に映ったのは見慣れた天井だった。身体が心地よく沈み込む、夏芽さんのダブルベッド。ぼんやりした意識下でわかるほど、身体に馴染んでしまった。「う……」無意識に、唇から小さな呻き声が漏れる。すると、すぐ傍らで、ハッとしたような気配がした。「美雨っ!」天井から降り注ぐ、眩しい灯りを遮る大きな身体。私に落ちてくる影。「あ……」一瞬、既視感が走った。だけど、潜在意識が働いて見せる、真っ暗な記憶ではない。記憶を失った私が、病院で初めて目覚めた時と同じ――。あの時も、夏芽さんはそばに付き添って、私の覚醒を待ってくれていた。「なつ、めさん……」ぼんやりしながら、自分でも確かめるように、彼の名前を口にする。夏芽さんは声を詰まらせて、身を乗り出してくる。そして、「美雨……」絞り出すような声を漏らして、私をぎゅうっと抱きしめた。彼の重みに、胸がきゅんと疼く。私は、広い背中に腕を回しながら、たった今まで見ていた夢――いや、記憶を心に深く繋ぎ留めた。「ごめんなさい、夏芽さん……」まだ覚束ない意識の中で、私は彼に謝罪をした。私を抱く彼の腕が、ビクッと震える。「どうして。どうして、君が謝る」か細い声で、聞き返された。「私が……身の程知らずに、夏芽さんとの恋に有頂天になったりしたから」「っ……」「お弁当の卵焼き。つまみ食いされて。『美味しい』って言われて浮かれて、『夏芽さんの分も作って来ましょうか?』なんて恋人気取り……」独り言みたいに呟きながら、私の脳裏にはその時の光景が浮かび上がっていた。夏芽さんと出会って、二ヵ月ほどの頃だ。私は彼にぶつけられる想いに戸惑いながらも、ゆっくり心を通わせるようになっていた。『絆される』なんてとんでもない。『恋人にはなれないままだった』なんて、絶対違う。私は、自分は夏芽さんには相応しくないと思いながらも、彼に愛される悦びに溺れていた。ちゃんとちゃんと『恋人』として、夏芽さんと一緒に過ごしていた。でも――。「私は、多香子さんを傷つけてたんですね……」私の首筋に顔を埋めた夏芽さんが、耳元でハッと息をのんだ。「あの時……多香子さんの存在すら知らずに、困惑するだけだった私に、彼女の方が傷ついた顔をしました」何故だろう。今まで全然思い出せなかったのに、今、目を閉じただけであの時の多香子さんが網膜に浮かび上がる。「それは……美雨のせいじゃない。許嫁
どんよりと濁った意識の中――。夏芽さんの声が、耳をくすぐった。『俺の家のことなら、ちょっと揉めるかもしれないけど、心配いらない』その声に、私はぼんやりと目線を上げる。上半身裸で、私を腕に囲い込んだ体勢で、彼が目元を綻ばせてはにかんだ。『でも……鏑木さん』『大人しく、はいって言って。それとも、俺が君をどれほど愛してるか、もっと激しく刻まれたいの?』『! ……はい』『よろしい。……でも、まだ離さないけどね』じんわりとした幸福感に走る、邪魔なノイズ。砂嵐が、ビジョンを遮る。『夏芽さん。今夜は、報告があるんです』続くのは、私のやや緊張した声だった。『その……実はですね。私、妊娠、したみたいで……』恥ずかしそうに、目を泳がせて『報告』する私。私の前にいるはずの、夏芽さんの表情は映り込まない。『困ります……か? それなら、堕ろした方が……』返事をしてくれないから、不安になってそう続ける。それを聞いて、やっと彼が反応を示してくれた。『ごめん! 突然で、実感湧かなくて』慌てたような返事をしながら、ぎゅうっと抱きしめてくれる。『堕ろすなんて、とんでもない。美雨、愛してる。君が俺の子を産んでくれるなんて、夢みたいだ』夢みたい――。初めてこういう関係に陥った時、彼が私を抱きながら口走った言葉が、脳裏を過ぎる。『結婚しよう、美雨』『は、い……』堪らない幸福感に身を委ね、私は彼の腕に両手をかけて、一言、それだけを返した。再び走る、耳障りなノイズ。そして、暗転――。場面は、切り替わっていた。『婚約者がいるのに、私に結婚しようなんて、どうして言えたんですか!?』一転して、不穏な空気。夏芽さんが切羽詰まった顔で、なにか言葉を挟もうとするのを、私は両手で耳を押さえて拒む。『酷い、大っ嫌い! もう私に近付かないで』私を宥めようと伸びてくる手を払い除けて叫び、なにかを投げつけて踵を返した。『美雨っ……!!』夏芽さんが、弾かれたように床を蹴って走り出す。私は、それを振り切るように駆けて行って――。『あっ……!』エスカレーターを駆け下りる途中で、足を滑らせた。『美雨っ!!』とっさに差し伸ばされた手に縋ろうと、腕を伸ばした。でも、届かない。どんどん遠退いていく。耳に聞こえるのは、ガンガンガンというけたたましい衝撃音。縋る物を見つけられないまま、身体が転がり落ちる。凍りついた顔をした夏芽さんが、小さくなってい
病院の正門を出た時、空は夕刻を迎えてオレンジに染まっていた。完全にショートした思考回路が、まだ働き出してくれない。私はぼんやりと足を踏み出した。力を入れたはずの足に、驚くほど神経が通っていない。ふわふわと浮いているみたいで、感覚が覚束ない。それでも、前に進んでいるから、私はちゃんと歩けていたんだろう。そこに、「美雨!」低く鋭い声が、意識に割って入った。私はそれに反応して、緩慢に顔を上げた。「美雨」もう一度、私を呼ぶ声。視界に、こちらに向かって走ってくる夏芽さんが映った。その姿を捉えた途端、なにか熱いものが胸に込み上げてきた。「っ……」せり上がる嗚咽を抑え切れず、私はその場にしゃがみ込んでいた。「美雨……?」夏芽さんの困惑した声が、近付いてくる。「どこか調子悪いか? 病院に行くために早退したって聞いて、驚いて……」そう、彼は室長から私の早退を聞いて、飛んできてくれたのだろう。まだ日の入りを迎えていない空。業務時間中だ。私を支えて立ち上がらせてくれる彼に、私は弾かれたように抱きついた。「っ……美雨?」虚を衝かれた様子で、彼の身体が一瞬強張る。「夏芽さ……私。私……」彼の胸に顔を埋めて、なにを言っているかわからないまま、泣きじゃくった。「どうした? 美雨。ここじゃ人目につくから、早く車に……」肩に置かれた手に力がこもるのを感じながら、私は激しくかぶりを振った。「責任……ですか?」掠れた声で、必死に短い質問を紡ぐ。「え?」「愛してるなんて、嘘。プロポーズを考えてくれたのは……妊娠の責任……?」「……!」くぐもった声でも、ちゃんと彼に届いたのは、頭上で息をのむ気配でわかった。その反応が、私の胸を鋭く貫く。「酷……い。酷い、夏芽さ……」いつかのように、彼を詰った。でも、身体に回る腕を解き、突き放す力はなく、私はがっくりとうなだれた。そして。「……美雨? 美雨っ!」切羽詰まったような声が、何度も私を呼ぶのを聞きながら、意識を失った。
多香子さんが帰った後、私は居ても立っても居られず、秘書室長に早退を申し出た。もちろん、病院に行くためだ。いくら彼女に言われたからって、体調が悪いわけでもないし、特段急ぐ受診でもない。また二週間後に次の予約を入れているから、その時でも構わない。でも、落ち着かなかった。こんな気持ちでは、仕事に集中できないし、なにより夏芽さんの前で平静を装うことができない。室長から許可を得て、私は夏芽さんが戻ってくる前にオフィスを出た。うちのオフィスビルから、総合病院までは電車で三駅。平日の午後とは言え、わりと混雑している電車で、私はドア横の狭いスペースに背を預けた。車窓を飛ぶように流れていく景色を、ぼんやりと視界に映す。なにも考えられないほど、思考回路は凍りついているのに、心臓だけが速いペースで打ち鳴っていた。電車を降りて改札を抜けると、ついこの間の土曜日に歩いた道を、病院に向かってやや小走りした。病院に着くと、受診を終えて出てくる人に逆行して、外来棟に入った。午後の外来には、中途半端な時間だ。これから受付をする患者さんは少なく、自動受付機付近は閑散としている。私は受診手続きをして、案内表示を頼りに、足を踏み入れたことのない、産婦人科外来の待合ロビーに進んだ。診察の順番を待つ女性たちが、長いベンチ椅子を埋め尽くしている。私は初診だし、予約もしていない。だから、相当待つことになると覚悟した。だけど、他科とは言え、ついこの間まで入院患者だったせいか、ほんの一時間ほどで私の順番が回ってきた。「こんにちは、黒沢美雨さん。調子はどうですか?」狭い診察室に入ると、白衣を着たわりと若い女医さんが電子カルテから目を外し、椅子を回転させて私に向き合った。「え? あ、あの……」自分でも、受診の目的をなんと言えばいいかわからずにいたから、『調子』を問われて口ごもった。「生理、来ましたか?」そう問われて、ますます戸惑う。「え、えと……?」なんだか、『初診患者』に対する質問じゃない気がする。産婦人科といったら、初診患者は妊娠を疑っているか、旅行を控えて生理周期をずらす薬を処方してもらうか……私にはそのくらいしか考えつかないけど、そのどちらにも、質問がそぐわない気がする。「入院中は、脳外科病棟にお任せしてましたが、情報は共有してもらっています。腹痛もなかったようだし、不正出血の報告もなし。腹部エコーやCT画像か
お昼の休憩中、夏芽さんが座っていたソファを多香子さんに勧めて、私はコーヒーを淹れた。ローテーブルにソーサーとカップ、ティースプーンを置いて、彼女と向かい側のソファに回って腰を下ろす。「ありがとう。いただきます」多香子さんはそう言って、ブラックのままコーヒーを一口飲んだ。綺麗なネイルが施された指を優雅に動かし、カップをソーサーに戻す。そして、ふと目線を上げて私を見据えた。「夏芽から聞いたけど、この一年ほどの記憶を失ってるんだとか……。私と会ったことも覚えていないということね?」細い足を妖艶に組み上げ、早速切り出してくる彼女の前で、私はゴクッと喉を鳴らした。「私がこのビルのエントランスで、エスカレーターから落ちた時……多香子さんと一緒にいたことは知ってます」「え?」「入院中……病院に来てくれましたよね。その時、鏑木さんと話していたのを……聞いてしまいました」私がほんのちょっと言い淀むと、彼女は「あら」と言葉を挟んだ。そして、なにか思い当たった様子で、軽く口角を上げる。「それじゃあ、私と夏芽がキスしたのも、見られた……ってことね」「っ」まさに、あの時の光景が、脳裏を過ぎっていたところだ。私はグッと詰まってから、なんとか虚勢を張って胸を反らした。「鏑木さんは、からかってるだけだと仰いました。多香子さんとは許嫁だったけど、婚約は解消しているし、もともとお互いに恋愛感情もないって」「夏芽の記憶も忘れてるわりに、ムキになるのね。……ああ、それとも、その部分だけは彼から吹き込まれて、また手籠めにされた?」彼女は皮肉気にクスクス笑いながら、そう突っ込んでくる。その言葉に、私は頬にカッと朱を走らせた。「手籠めなんて……! 変な言い方しないでください。そ、それに、夏芽さんは私に、なにも吹き込んだりしてませんっ」そう、彼はむしろ、『嘘しかつけない』と言って、私が自分で思い出すのを待ってくれている。思わず身を乗り出し、唇を戦慄かせながら、多香子さんを睨む。「そう。それじゃ、記憶を失っても、また惹かれ合った……とでも? ロマンティックね」彼女は興醒めといった表情を浮かべて、足を解いた。深くソファに背を預け、胸の前で腕組みをする。私の方は、一瞬にして煽られた興奮を、抑えられない。中途半端に浮かしかけていた腰をソファに戻し、膝の上でスカートを握った。「婚約解消……ね。いったい誰のせいだと思ってる
夏芽さんが出ていって十分ほど過ぎた時、総合受付から電話が入った。多香子さんの来訪の連絡だ。私は、エレベーターで直接このフロアまで上がってもらうようお願いして、デスクを立った。もちろん、エレベーターホールまで、彼女を迎えに出るためだ。ホールには、六基のエレベーターがある。その内、どのドアが開くのか――。私はさらに緊張感を強めながら、視線を走らせた。やがて、一番奥のドアが開いた。相変わらずシックなスーツ姿の多香子さんが、姿を現す。私の胸が、ドクッと沸くような音を立てた。彼女は、ドアを一歩出たところで、一瞬方向を確かめるように逆側を向いてから、ゆっくりこちらに顔を向ける。その目が、私の上で留まった。私は、胸いっぱいに広がった緊張を必死に抑えて、一度深々と頭を下げた。ゆっくり背を起こしてから、「突然お呼び立てして、申し訳ございません」と謝罪をした。「いいえ。お招きありがとう」多香子さんは余裕たっぷりにそう言って、長い髪を掻き上げた。そのまま、高いヒールをややカーペットに沈ませて、私の方に歩いてくる。距離が狭まるにつれて、一歩後ずさりたくなる衝動と闘う。なんとかその場に踏み止まる私の前まで来て、彼女はピタリと足を止めた。「改めまして。島内(しまうち)多香子と申します」「島内……さんですか。鏑木、ではなく?」わりと丁寧に自己紹介してくれた彼女に、私は反射的にそう訊ねていた。「ええ。私は鏑木の分家筋なの。……って、私の名字に反応するってことは、本当なのね。記憶喪失って」「……っ」真っ向から確認されて、私はほんの一瞬怯んだ。だけど、それを気取られないように、思い切って胸を反らす。「なつ……鏑木さんは、現在不在です。ここではなんですから、執務室にどうぞ」そう言って、多香子さんの前に立って、執務室に誘導すべく廊下を歩き出した。
そして迎えた水曜日――。私が作ったお弁当を、執務室で二人で食べながら休憩時間を過ごした後、シャツの左袖を摘まんで腕時計で時間を確認した夏芽さんが、ソファから立ち上がった。「さて、と。じゃあ、そろそろ行ってくるよ」頭の後ろで両肘を組み、軽く胸を仰け反らせる。私は、ソファの前のローテーブルでランチボックスを片付けながら、「はい」と返事をした。「行ってらっしゃい。お戻りは、三時頃……ですよね?」私も自分の腕時計に目を落とし、念を押すように確認する。現在、午後一時。一社当たりの滞在時間は、だいたい三十分ほどのはずだ。「ああ」と短い返事が来た。「俺が留守の間は、いつも通り、電子申請書類の承認手続きを頼むよ」夏芽さんが目を通した書類は、『決裁』と『差し戻し』の二つのステータスに分けて、システムに一時保存されている。膨大な書類を審議しなきゃいけない彼に代わって、申請部署への差し戻しや、社長決裁に回付という電子手続きは、私が行っている。彼は私に業務指示を出しながら執務机に回り、椅子にかけていた上着を取り上げ、サッと袖を通す。「はい」「じゃ、留守を頼む」大きなサイズの手帳とスマホを手に、颯爽と執務室を出ていった。ゆっくりとドアが閉まり、その背が見えなくなるまで見送って、私は胸に手を当て、グッと拳を握りしめた。二日前、夏芽さんに内緒で湊さんに依頼した、多香子さんとの面会の約束。彼女はこの後間もなく、ここに来てくれる。会うのは私一人だけど、表向きは夏芽さんを訪問という体になっている。ビルのグランドエントランスの総合受付からは、秘書室を通さず直接ここに連絡が入るはずだ。強い緊張で、胸の拍動がやや速い。落ち着かない気分で自分のデスクに戻り、午後の業務を始めたものの、何度も時間を確認した。