Share

幸せのリスタート 3

Author: 水守恵蓮
last update Last Updated: 2025-04-04 18:26:36

重い目蓋を持ち上げると、視界に映ったのは見慣れた天井だった。

身体が心地よく沈み込む、夏芽さんのダブルベッド。

ぼんやりした意識下でわかるほど、身体に馴染んでしまった。

「う……」

無意識に、唇から小さな呻き声が漏れる。

すると、すぐ傍らで、ハッとしたような気配がした。

「美雨っ!」

天井から降り注ぐ、眩しい灯りを遮る大きな身体。

私に落ちてくる影。

「あ……」

一瞬、既視感が走った。

だけど、潜在意識が働いて見せる、真っ暗な記憶ではない。

記憶を失った私が、病院で初めて目覚めた時と同じ――。

あの時も、夏芽さんはそばに付き添って、私の覚醒を待ってくれていた。

「なつ、めさん……」

ぼんやりしながら、自分でも確かめるように、彼の名前を口にする。

夏芽さんは声を詰まらせて、身を乗り出してくる。

そして、

「美雨……」

絞り出すような声を漏らして、私をぎゅうっと抱きしめた。

彼の重みに、胸がきゅんと疼く。

私は、広い背中に腕を回しながら、たった今まで見ていた夢――いや、記憶を心に深く繋ぎ留めた。

「ごめんなさい、夏芽さん……」

まだ覚束ない意識の中で、私は彼に謝罪をした。

私を抱く彼の腕が、ビクッと震える。

「どうして。どうして、君が謝る」

か細い声で、聞き返された。

「私が……身の程知らずに、夏芽さんとの恋に有頂天になったりしたから」

「っ……」

「お弁当の卵焼き。つまみ食いされて。『美味しい』って言われて浮かれて、『夏芽さんの分も作って来ましょうか?』なんて恋人気取り……」

独り言みたいに呟きながら、私の脳裏にはその時の光景が浮かび上がっていた。

夏芽さんと出会って、二ヵ月ほどの頃だ。

私は彼にぶつけられる想いに戸惑いながらも、ゆっくり心を通わせるようになっていた。

『絆される』なんてとんでもない。

『恋人にはなれないままだった』なんて、絶対違う。

私は、自分は夏芽さんには相応しくないと思いながらも、彼に愛される悦びに溺れていた。

ちゃんとちゃんと『恋人』として、夏芽さんと一緒に過ごしていた。

でも――。

「私は、多香子さんを傷つけてたんですね……」

私の首筋に顔を埋めた夏芽さんが、耳元でハッと息をのんだ。

「あの時……多香子さんの存在すら知らずに、困惑するだけだった私に、彼女の方が傷ついた顔をしました」

何故だろう。

今まで全然思い出せなかったのに、今、目を閉じただけであの時の多香子さんが網膜に浮かび上がる。「それは……美雨のせいじゃない。許嫁がいることを君に話していなかった、俺のせいだ」

夏芽さんが、声を震わせてそう言って、ゆっくり抱擁を解いた。

「どうして……隠してたんですか」

私の質問に、彼がきゅっと唇を噛む。

「『酷い、大っ嫌い! もう私に近付かないで』……。そう言われて、俺が君を騙したと誤解を招いたこと、思い知ってる」

私の上で顔を伏せ、かぶりを振ってから背を起こした。

「前に言ったけど、互いの意思ではなく交わされた勝手な約束……白紙撤回するのはそう難しいことじゃないと、俺は軽んじていた」

ベッドサイドに立ち上がる彼を、私は目で追った。

「まさか……親族から、あんなに激しい反対を受けるなんて。多香子が首を縦に振らないのにも戸惑って、君に話せずにいるうちに……君の妊娠が発覚した」

深い悔恨を滲ませる声に、私の身体の奥の方で、なにかがきゅうっと締めつけられた。

まるで誘導されるように片手をお腹に当て、緩慢な動作でベッドの上に上体を起こす。

「美雨」

夏芽さんがすぐに手を伸ばし、私を支えてくれた。

「それを理由にして、夏芽さんは鏑木の親族たちの反対を押し切ったんですよね?」

彼は身を屈めたまま、やや強張った顔で一度だけ頷く。

「でもっ……」

私は、両手で顔を覆った。

「私、夏芽さんの赤ちゃん……」

一気に込み上げてきた嗚咽にのまれ、最後までは口にできない。

夏芽さんが腰を下ろしたのか、ベッドがギシッと軋む音がした。

「美雨。もう言うな」

宥めるように言うのを拒んで、私は何度も首を横に振った。

「もう、私のお腹には夏芽さんの赤ちゃん、いません。だから……責任で結婚する必要もありません」

涙混じりにそれだけ言って、声を詰まらせる。

「違う、美雨。責任なんかじゃない!」

私の方に身を捩った夏芽さんが、私の両手首を掴み上げた。

涙でぐしょぐしょの顔を暴かれ、慌てて俯いて逃げる。

「俺は、君を愛してる。こうして何度も、なりふり構わず君の愛を乞うカッコ悪い俺を、美雨は見ているはずだ。誓って言う。君への想いに、なんら嘘はない」

すぐ額の先で、彼が硬い声で激しい想いを綴ってくれる。

私は、涙に濡れた目をそっと上げた。

夏芽さんが、困ったような途方に暮れたような、切なく細めた目で、私を射貫いている。

「夏芽さ……」

「俺は君の心も身体も、この先の未来も……すべてを俺のものにしたい。こんなに狂おしいほど人を欲するのは、君が初めてなんだ」

そう言って、私の額にキスを落とす。

「んっ……」

柔らかくくすぐったい感覚に、私は思わず目を閉じた。

「あの事故の後、美雨の記憶がないと知って、俺は愕然としながら、心のどこかでホッとしてた」

言葉の途中で、彼の唇が頬に移動してくる。

「誤解を解けず、『大っ嫌い』と言わせたまま、終われない。ここからもう一度、俺を好きにさせてみせる。カッコ悪かろうが卑怯だろうが……今度こそ嘘偽りのない俺で、君を手に入れたかった」

唇を、何度も啄まれる。

ああ、そうか。

夏芽さんは、私に『ここから、改めて俺を好きになって』と言った。

それは、私だけじゃない。

彼もまた、愛された記憶を失った私を、また一から愛してくれたんだ。

夏芽さんは、私を強く深く愛してくれた裏で、不誠実な偽りの顔を併せ持っていた。

だけど、今の彼には、なんの嘘もない。

これまでと変わらない、いや、それ以上の溢れそうなほどの愛情で、私を包んでくれる――。

「ん……っ……」

彼の熱い想いに押され、無意識のうちに身体が傾いていく。

再びベッドに背が沈むと同時に、夏芽さんは私をキスから解放した。

そして。

「美雨、離さない。俺は君を、一生離したりしないよ」

ベッドに突いた両腕に私を囲い込み、天井の明かりを背に受けた彼が、目の下を微かに朱に染め、大人の男の色香を匂い立たせる。

「なつ……」

「愛してる、美雨」

呼びかけを愛の言葉で遮って、私の身体にゆっくりと体重を預けた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Related chapters

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 4

    翌朝、私は夏芽さんが目を覚ます前にベッドを抜け出した。自室として借りている客間に降り、退院した時着ていたニットとスカートを手に取る。三月……。真冬の服は、ちょっと重苦しい季節を迎えようとしているけど、早朝であればそうおかしくもない。手早く身に着け、簡単に身支度をする。紙袋に荷物を纏めると、私は夏芽さんの家を出た。早春の早朝、空気はひんやりと冷たい。昨日思い出した記憶で飽和状態の思考回路には、いい刺激になる。あれですべての記憶を取り戻したわけじゃないだろうけど、私の心は十分混乱していた。夏芽さんの愛情も熱情も本物だとわかるからこそ、一度、彼と離れるべきだと考えた。彼といると、まともに考えることができなくなるほど、愛されてしまう。焼き切れそうな思考回路を、一度しっかり冷却して、彼に向き合いたい。だから今は、これ以上、夏芽さんと一緒に暮らしていてはいけない。会社の行き帰りも、送迎してもらってはいけない。仕事も、少しずつでいい、これまでの役員秘書業務に戻してもらえるよう、室長に話してみようと思っていた。夏芽さんもリモートワークをやめて、本来のオフィスに戻ってもらわねば。そう。一度、全部もとに戻そう。まだ取り戻せていない記憶を、のんびりゆっくり自分の中に探す、そんな時間が私には必要だ。始発から間もない駅は人も疎ら。私が一人暮らしをしている街までは、ここから電車で三十分ほどかかる。並びに誰もいない座席に座り、手すりに凭れかかってウトウトしていたら、いつの間にか最寄り駅に運ばれていた。駅からは、徒歩十分。この三週間ほど、夏芽さんのゴージャスなタワーマンションで視覚が麻痺したせいか、私には相応しい小ぢんまりしたワンルームマンションが、なんとも貧相に映る。それでも、気を取り直す。贅沢に慣れてしまった自分を、戒める。まずはここで、本来の生活を取り戻さないことには、なにも始まらない。マンションのエントランスに進もうとして、無意識にバッグに手を突っ込んだ。バッグの中、いつも家の鍵を入れているポケットを手探りして……。「……あ、あれ?」キーリングをつけた鍵が、見つからない。「え? え?」私は通りに立ち尽くしたまま、バッグを顔の高さに持ち上げた。ほとんど顔を突っ込む勢いで、中を覗き込む。だけど、鍵は見当たらない。「ない。……どこ?」最後に手にしたのがいつか、私の頭に記憶はない。入院中も退院し

    Last Updated : 2025-04-04
  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 5

    私は、彼の広い背中を追いかけた。その後――。夏芽さんは一ヵ月ほどうちの会社で執務を続け、三月の年度末をもって本来のオフィスに戻っていった。それに伴い、私も役員秘書業務復帰を果たした。私の記憶は、夏芽さんとのことを除くと、全面的に取り戻せたのか、判断も難しい。でも、自分なりに感覚は戻ったと思うから、復帰できてとても嬉しかった。新年度が始まり、夏芽さんとオフィスで過ごす時間はなくなった。でも、以前と同じように、私が作ったお弁当を一緒に食べながら、ランチタイムを過ごすことはできる。そして、家では、もっと甘い時間を……。週末を迎える金曜日の夜。先にベッドに入った私の肩を、夏芽さんが軽く揺さぶった。「みーう。寝たふり。バレてるけど」くくっとくぐもった笑い声が降ってくる。と、次の瞬間、強引に身体を上に向けられ、唇に熱いキスが落とされた。「んっ……! 夏芽さんっ……」条件反射でバチッと目を開けると、瞳いっぱいに反則なほど綺麗な顔が映り込む。夏芽さんが、薄く半分開けた目で、私の反応を一から十まで観察している。そんな彼に、ドクッと心臓が沸く音がした。「ん、ふうっ……あっ……」彼曰く、『無自覚に煽る声』が、私の耳をも犯す。でも、私に言わせれば、こういう甘いキスをいけしゃあしゃあと仕掛けてくる夏芽さんのせいだ。執拗に絡められる舌。キスだけなのに身体の芯が熱くなり、火照る。解放されても、とろんと潤んだ目で、離れていく唇を追いかけてしまう。夏芽さんは、少しルーズなシャツの襟をたわませているから、私の視界には彼の引きしまった胸がチラチラ覗く。「なつ、めさ……」「美雨。改めて……これ、そろそろ受け取ってくれる?」彼は、胸の小さなポケットから、指先でなにか摘まみ上げた。私の左手を取って、それを薬指に滑らせる。「え? あ……」そこにずっしりと感じる、上品な重み。私は左手を顔の上に掲げ、そこに戻ってきたエンゲージリングを見て、ドキッと胸を弾ませた。「俺と、結婚してください」ストレートなプロポーズに、またしても跳ね上がる鼓動。「ちょ、ちょっと待って」私はベッドに肘をつき、中途半端に上体を起こした。「でも、あの……多香子さんは?」私を腕の中に囲む彼を、上目遣いで探る。夏芽さんが、ふっと目尻を下げて微笑んだ。「新しい縁談が、順調に進んでるらしいよ?」「……えっ!?」私はギョッと目を剥いて、何度も瞬きを

    Last Updated : 2025-04-04
  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   御曹司は雲の上の人 1

    頭の芯、脳の奥深いところで、不快なノイズが走る。テレビでしか見たことのない、遠い昔の活動写真のような不鮮明な映像が、脳裏で再生されていた。途中、何度も白い光に遮断されてシーンが飛ぶせいで、なにかの映画を観ているのか、それとも自分の潜在意識なのか、それすらも曖昧だ。音声は、ひび割れる。女性が声を荒らげているように聞こえるけど、なぜ、誰に対してなのか。そこに割って入った、緊迫した、鋭く低い男性の声には、聞き覚えがある。そのやり取りは、どこか不穏だ。私まで、とても胸が痛い。締めつけられるような苦しみに襲われ……。『……!』なにかを口走った。でも、やっぱり音声は不明瞭で、なにを言ったのか聞き取ることはできない。一瞬、またしても白い光が射し、ノイズと共に映像がぶれた。『……っ……!!』映像が切り替わり、男性が弾かれたように床を蹴って走り出す。それを観ている私の目線は、なんとも奇妙だ。どこか低いところから、仰いでいるような。口と目を大きく開き、切迫して凍りついた表情で、まっすぐ腕を伸ばす男性は、私の視界の中でどんどん遠く、小さくなっていき……。――暗転。なにが起きたんだろう。誰かがすぐそばで、張り裂けるような声で私の名を絶叫している。身体中が痛い、そんな気がする。でも、それを超えた頭と腹部の痛みが、私の意識を遠退かせていく――。

    Last Updated : 2025-04-04
  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   御曹司は雲の上の人 2

    私を覚醒へと導いたのは、ズキズキとした頭痛だった。なんだろう。片頭痛とか、二日酔いの時の痛み方とは違う。頭の芯から沸いてくるのではなく、外側からじんわりと広がる痛みのようだ。私は、不快な頭痛の原因をぼんやり分析しながら、重い目蓋を持ち上げた。途端に、白い光が、視界に射し込んでくる。眩しさのあまり、眉間に皺を寄せて目を細めた。「う……」無意識に唇から零れた呻き声を、自分の耳で拾った。と、同時に。「美雨(みう)……! 気がついたか」すぐ近くで、ガタンと大きな音がした。私は反射的に目を閉じ、びくんと身体を震わせた。それ以上物音がしないのを確認してから、恐る恐る目蓋を開く。今度は、目を眩ませることもなかった。というのも、私を覗き込む人の身体が、天井からの照明を遮断してくれたからだ。「気分は? どこか痛むところはない?」私に影を落とし、重ねて問いかけてくる男性の姿に、何度も瞬きを繰り返した。さらりとした癖のない黒髪。額に下りた前髪の向こうの、形のいい太い眉。眉根を寄せていて、眉尻がクッと上がっている。ちょっと険しく、鋭く細められた切れ長の目。わずかに下がり気味の目尻が、美しい顔立ちに中性的な印象を含ませる。微かに潤んだ黒い瞳が、なにか不安げに揺れている。切迫して強張っているけど、端整な顔立ちのイケメンだ。私は、その顔をよく見知っていて――。「……えっ?」視界いっぱいに映り込むのが誰かを認識できても、意味がわからない。「か、鏑木(かぶらぎ)さんっ……!?」ギョッとして、裏返った声でその名を叫んでしまった。「なんで鏑木さんがここに。って……」どうして彼が、眠っている私のそばにいるのか。それも十分謎だけど、そもそもここはどこだろう。彼の向こうに見える天井。白い光の発光源は、蛍光灯だった。なにやらとても殺風景で、どう見ても私の部屋ではない。「あの、ここはいったい……っ、痛っ!」慌てて起き上がろうとして、とっさに身体の横についた右腕に、なにか引き攣れたような違和感が走った。「あ! こら、ダメだよ」鏑木さんが短い声をあげて、私の肩を両手で押さえつける。「起きるんじゃない。横になってて」「……え?」眉根を寄せて制止され、私は困惑しながら彼を見つめた。きゅっと唇を結んだ彼に見つめ返され、どぎまぎしながら目線を外して、宙に彷徨わせる。右腕に走った痛みの原因がわかった。私の腕には、なにかの針が

    Last Updated : 2025-04-04
  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   御曹司は雲の上の人 3

    出て行ったきり戻ってこない鏑木さんを、どうしたのかなと気にしているうちに、私はうつらうつらとしていたようだ。「黒沢さん」男性の声に呼びかけられ、ハッとして目を覚ます。無意識にドアの方に顔を向けると、そこから白衣姿の長身の男性が入ってきた。その後に続いた鏑木さんが無言でドアを閉め、その場で足を止める。私の方に歩いてくるのは、白衣のドクターだけ。彼はベッドサイドで立ち止まると、もう一度私を「黒沢さん」と呼んだ。「こんばんは。私はこの病院の脳外科医で、箕輪(みのわ)と申します」丁寧に自己紹介してくれるドクターの胸元には、顔写真入りのネームタグが着けてあって、『箕輪昴(すばる)』と読める。「ご気分いかがですか? どこか痛いところや、おかしいところはありますか?」目元を和らげた、優し気な顔立ちのイケメンドクターが、先ほどの鏑木さんと同じ質問を繰り出してくる。改めて問われてみると、どこがというか、身体中が鈍く痛む気がする。エスカレーターから転落したそうだから、打ち身のせいだろう。素直にそう答えると、箕輪先生は顎を撫でながら相槌を打った。「頭の痛みは? それから、外側ではなく、身体の内部も。お腹が痛いとか、気持ち悪いとかは?」質問につられて、なんとなくお腹に手を当ててみる。「大丈夫……です」首を傾げ、自分に確認しながら返事をすると。「そうですか。よかった」箕輪先生は、ニコッと笑った。「でも、頭部を受傷すると、直後は症状がなくても、後になって異常が出てくることもあるので、念のために精密検査を行います。せっかくだから、全身くまなくしちゃいましょうか。一週間、入院してください」「え。全身? 一週間も……」思わず言葉を挟んだ私に、彼は眉尻を下げて苦笑した。「お仕事が気がかりですか? それなら、あちらの鏑木さんが、心配しなくていいと」そう言いながら、肩越しにドア口を見遣る。彼の視線の動きにつられて、私も鏑木さんに目を向けた。私と先生の視線を受け、彼はなにか硬い表情で、黙って頷く。「鏑木さん……は、ご存じですね?」箕輪先生は私の方に目線を戻し、やや低い声で訊ねてきた。それには、「はい」と返事をする。「私が勤めている会社の、親会社の副社長さんです」「すごい方と面識があるんですね」「面識……というか」私は、箕輪先生の語尾を繰り返しながら、少しだけ首を傾げた。「私はこの春に秘書室に異動して、役員

    Last Updated : 2025-04-04
  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   御曹司は雲の上の人 4

    入院から、今日で五日。これまで連日、頭部CTやらMRIといった精密検査を受けてきた。『せっかくだから』と勧められ、脳とは関係ない腹部CTやエコーなどもある。一週間で、詰められるだけ詰め込んでるみたいだ。昨日の午前中に脳血管造影と脳波測定を終え、今日、午後になって、箕輪先生が、結果と詳しい説明をしに病室に来てくれた。最初の日に先生が口にした『可能性』――。私は、この一年ほどの記憶が欠落しているそうだ。逆行性健忘……つまり、記憶喪失の診断を受けた。頭を打ったりした後は、よく見られる症状だと言われたけど、『記憶喪失』なんて、ドラマかなにかだけの世界の話だと思っていた。それが、現実で自分の身に降りかかるなんて、信じられない。私自身は、二十六歳になったばかりという認識でいるのに、箕輪先生は『黒沢さんは二十七歳です』と言う。秘書室に異動してまだやっと半年なのに、鏑木さんは『もうすぐ丸二年になる』と言う。寄ってたかって、『私』を否定してるみたい。なんだか、狐に化かされてるようで、現状をすんなり受け入れられない。でも、テレビや新聞、雑誌などを見ると、私の記憶がおかしいのは、認めざるを得ない。なにせ、齟齬がありすぎる。総理大臣が誰かとか、芸能人の誰と誰が結婚したとか離婚したとか……。上書きしなきゃいけない情報が過多になるばかりで、完全に浦島状態だ。こうなると、記憶を失っているという状況を、受け入れるより他なかった。私一人のことなら、名前も勤め先も覚えているし、日常生活にそれほど支障はないと思うけど、いざ、戻るとなったらどうなるのか……。説明を終えた箕輪先生が出て行ってすぐ、まるで入れ替わるように、外からドアがノックされた。「はい」ベッドに足を投げ出して座っていた私は、その上にスマホを置いて返事をした。「黒沢さん、こんにちは。気分はどう?」ドアがスライドして、鏑木さんが入ってくる。「あ。鏑木さん! こんにちは」私は条件反射でドキッと胸を弾ませながら、挨拶を返した。彼は私にニコッと笑うと、躊躇うことなくベッドサイドに歩み寄ってくる。「はい、これ。お見舞い。君が好きなミックスベリーのパイ」どこか悪戯っぽく目を細め、有名な洋菓子店の小さなギフトボックスを顔の高さに持ち上げた。「わ! ありがとうございます!」思わずはしゃいだ声をあげて、彼の手からボックスを受け取った。早速箱を開け、色合いも華

    Last Updated : 2025-04-04
  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   御曹司は雲の上の人 5

    いただいたミックスベリーパイを食べていた時、ドアの前になにか落ちているのに気付いた。「……?」私は首を捻りながら、そっとベッドから降りた。スリッパを足の爪先に引っかけ、カーディガンを胸元に手繰って掴んで、ドアの前まで歩いていく。なんとも高級感漂う万年筆だ。胴軸はシックなダークブラウンで、拾い上げてみると上品な重みを感じる。もちろん、私の物ではない。午後になってここに来た、箕輪先生か鏑木さんの物に違いない。鏑木さんは帰ってしまったし、まずは箕輪先生に確認してみようと思い、万年筆を手に病室を出た。ちょうど、廊下がT字に交わる位置に、大きな姿見が据えてある。何気なく覗き込んだ私は、鏡に映った自分を確認して、がっくりとこうべを垂れた。今日も鏑木さんが来てくれるかも……と予想して、午前中の検査が終わった後、入院患者として不自然じゃない程度に、薄いメイクを施したけれど……。「もっとしっかりメイクでも、よかったかも……」普段、オフィス仕様の私しか知らないはずの鏑木さんにとって、今の私は相当貧相に映ったはずだ。ベースメイクしかしていないせいで、もともと凹凸に乏しい顔立ちが、ますます地味に見える。ちょっと大きめの丸い目は、普段なら辛うじてチャームポイントだけど、マスカラとアイライン無しだと際立たない。形は悪くないけど高くはない鼻と、下唇の方がやや厚めの小さな唇は、可もなく不可もない。なにを取っても平均すれすれの顔が、ますます冴えない。茶色くカラーリングした髪は、肩甲骨を覆う長さ。パーマっ気はなく、オフィスではダウンスタイルだけど、入院中の今は、頭の後ろ、ちょうど中間くらいの高さで一つに結んでいる。それがまたひっ詰めた印象を強め、女らしさにはほど遠い。それでなくても、病院から貸し出してもらってるツーピースの病衣と、カーディガンという服装……。「明日はちゃんと、身支度しておこう……」肩を落として鏡の前から離れ、先に進んだ。ナースステーションまでの廊下の途中に、病院関係者が『サンルーム』と呼んでいる談話スペースがある。「……ん?」そこから鏑木さんの声を聞こえた気がして、足を止めた。『次の予定が迫っている』と言ってたのに、大丈夫なんだろうか?私は、少しだけ廊下を小走りして……。「鏑木さ……」「美雨になんの用だ。帰ってくれないか」聞いたことがないくらい、冷たく低い鏑木さんの声が耳に飛び込んで

    Last Updated : 2025-04-04
  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   横暴すぎる同居命令 1

    入院から一週間。予定通り退院許可が下り、朝食後、私は身支度を始めた。突然の事故で救急搬送され、そのまま入院した私の荷物は少ない。必要に駆られて売店で購入した下着や洗面、入浴用品に化粧水くらいで、紙袋一つに収まっている。搬送された時身につけていた服は、鏑木さんが持ち帰り、クリーニングに出してくれていた。おかげで、どうってことないニットとロングスカートが、まるで新品のように綺麗に畳まれ、透明な袋に入っている。退院して仕事に復帰して、次に彼が来社されたら、きちんとお礼をしないとな……。ドアの向こうの廊下には、患者さんのケアに回る看護師が行き交っている。賑やかな話し声や物音を聞きながら着替えを済ませ、髪を後ろで一つに纏めた時、「黒沢さん。箕輪です」ノックと同時に、声がした。「はい。どうぞ」私が応答すると、ゆっくりドアがスライドして、箕輪先生が入ってきた。彼は、「あれ」と目を丸くする。「もう出発ですか? 早いですね」「先生、一週間お世話になりました。私の方から、ナースステーションに伺おうと思ってたんですけど」ペコリと頭を下げて挨拶すると、先生は「いいえ」とはにかんでから、人差し指でポリッとこめかみを掻いた。「鏑木さんを、待たなくていいんですか?」「え?」「十時頃、迎えに来ると言ってましたけど……」そう言いながら、白衣の袖からゴツい腕時計を覗かせる。私も、自分の左手首の時計に目を落とした。現在、九時十五分。この後、入院費の精算をして、薬局で薬をもらって……やることを全部済ませても、鏑木さんが来る前に、病院を出るのは可能と計算していた。「ええと……この後、会社の方にも挨拶に行こうと思っているので」私はぎこちなく笑って、コートに袖を通した。「申し訳ありませんが、鏑木さんがいらしたら、私が謝っていたと伝えていただけませんか」「それは構いませんが……」箕輪先生は顎を撫でながら、なにか思案顔をする。「今日会わなくても、業務上、顔を合わせる機会はあります。その時直接、これまでのお礼をするつもりです」私が言葉を重ねると、先生も何度か頷いてくれた。「わかりました。では、お気をつけて」背筋を伸ばし、姿勢を正して言ってくれる先生に、私も「はい」と返事をする。「退院しても、しばらくの間は、指示通りに通院してくださいね。なにか異常があれば、予約がなくても、すぐに来てください」「はい。お世話になりまし

    Last Updated : 2025-04-04

Latest chapter

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 5

    私は、彼の広い背中を追いかけた。その後――。夏芽さんは一ヵ月ほどうちの会社で執務を続け、三月の年度末をもって本来のオフィスに戻っていった。それに伴い、私も役員秘書業務復帰を果たした。私の記憶は、夏芽さんとのことを除くと、全面的に取り戻せたのか、判断も難しい。でも、自分なりに感覚は戻ったと思うから、復帰できてとても嬉しかった。新年度が始まり、夏芽さんとオフィスで過ごす時間はなくなった。でも、以前と同じように、私が作ったお弁当を一緒に食べながら、ランチタイムを過ごすことはできる。そして、家では、もっと甘い時間を……。週末を迎える金曜日の夜。先にベッドに入った私の肩を、夏芽さんが軽く揺さぶった。「みーう。寝たふり。バレてるけど」くくっとくぐもった笑い声が降ってくる。と、次の瞬間、強引に身体を上に向けられ、唇に熱いキスが落とされた。「んっ……! 夏芽さんっ……」条件反射でバチッと目を開けると、瞳いっぱいに反則なほど綺麗な顔が映り込む。夏芽さんが、薄く半分開けた目で、私の反応を一から十まで観察している。そんな彼に、ドクッと心臓が沸く音がした。「ん、ふうっ……あっ……」彼曰く、『無自覚に煽る声』が、私の耳をも犯す。でも、私に言わせれば、こういう甘いキスをいけしゃあしゃあと仕掛けてくる夏芽さんのせいだ。執拗に絡められる舌。キスだけなのに身体の芯が熱くなり、火照る。解放されても、とろんと潤んだ目で、離れていく唇を追いかけてしまう。夏芽さんは、少しルーズなシャツの襟をたわませているから、私の視界には彼の引きしまった胸がチラチラ覗く。「なつ、めさ……」「美雨。改めて……これ、そろそろ受け取ってくれる?」彼は、胸の小さなポケットから、指先でなにか摘まみ上げた。私の左手を取って、それを薬指に滑らせる。「え? あ……」そこにずっしりと感じる、上品な重み。私は左手を顔の上に掲げ、そこに戻ってきたエンゲージリングを見て、ドキッと胸を弾ませた。「俺と、結婚してください」ストレートなプロポーズに、またしても跳ね上がる鼓動。「ちょ、ちょっと待って」私はベッドに肘をつき、中途半端に上体を起こした。「でも、あの……多香子さんは?」私を腕の中に囲む彼を、上目遣いで探る。夏芽さんが、ふっと目尻を下げて微笑んだ。「新しい縁談が、順調に進んでるらしいよ?」「……えっ!?」私はギョッと目を剥いて、何度も瞬きを

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 4

    翌朝、私は夏芽さんが目を覚ます前にベッドを抜け出した。自室として借りている客間に降り、退院した時着ていたニットとスカートを手に取る。三月……。真冬の服は、ちょっと重苦しい季節を迎えようとしているけど、早朝であればそうおかしくもない。手早く身に着け、簡単に身支度をする。紙袋に荷物を纏めると、私は夏芽さんの家を出た。早春の早朝、空気はひんやりと冷たい。昨日思い出した記憶で飽和状態の思考回路には、いい刺激になる。あれですべての記憶を取り戻したわけじゃないだろうけど、私の心は十分混乱していた。夏芽さんの愛情も熱情も本物だとわかるからこそ、一度、彼と離れるべきだと考えた。彼といると、まともに考えることができなくなるほど、愛されてしまう。焼き切れそうな思考回路を、一度しっかり冷却して、彼に向き合いたい。だから今は、これ以上、夏芽さんと一緒に暮らしていてはいけない。会社の行き帰りも、送迎してもらってはいけない。仕事も、少しずつでいい、これまでの役員秘書業務に戻してもらえるよう、室長に話してみようと思っていた。夏芽さんもリモートワークをやめて、本来のオフィスに戻ってもらわねば。そう。一度、全部もとに戻そう。まだ取り戻せていない記憶を、のんびりゆっくり自分の中に探す、そんな時間が私には必要だ。始発から間もない駅は人も疎ら。私が一人暮らしをしている街までは、ここから電車で三十分ほどかかる。並びに誰もいない座席に座り、手すりに凭れかかってウトウトしていたら、いつの間にか最寄り駅に運ばれていた。駅からは、徒歩十分。この三週間ほど、夏芽さんのゴージャスなタワーマンションで視覚が麻痺したせいか、私には相応しい小ぢんまりしたワンルームマンションが、なんとも貧相に映る。それでも、気を取り直す。贅沢に慣れてしまった自分を、戒める。まずはここで、本来の生活を取り戻さないことには、なにも始まらない。マンションのエントランスに進もうとして、無意識にバッグに手を突っ込んだ。バッグの中、いつも家の鍵を入れているポケットを手探りして……。「……あ、あれ?」キーリングをつけた鍵が、見つからない。「え? え?」私は通りに立ち尽くしたまま、バッグを顔の高さに持ち上げた。ほとんど顔を突っ込む勢いで、中を覗き込む。だけど、鍵は見当たらない。「ない。……どこ?」最後に手にしたのがいつか、私の頭に記憶はない。入院中も退院し

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 3

    重い目蓋を持ち上げると、視界に映ったのは見慣れた天井だった。身体が心地よく沈み込む、夏芽さんのダブルベッド。ぼんやりした意識下でわかるほど、身体に馴染んでしまった。「う……」無意識に、唇から小さな呻き声が漏れる。すると、すぐ傍らで、ハッとしたような気配がした。「美雨っ!」天井から降り注ぐ、眩しい灯りを遮る大きな身体。私に落ちてくる影。「あ……」一瞬、既視感が走った。だけど、潜在意識が働いて見せる、真っ暗な記憶ではない。記憶を失った私が、病院で初めて目覚めた時と同じ――。あの時も、夏芽さんはそばに付き添って、私の覚醒を待ってくれていた。「なつ、めさん……」ぼんやりしながら、自分でも確かめるように、彼の名前を口にする。夏芽さんは声を詰まらせて、身を乗り出してくる。そして、「美雨……」絞り出すような声を漏らして、私をぎゅうっと抱きしめた。彼の重みに、胸がきゅんと疼く。私は、広い背中に腕を回しながら、たった今まで見ていた夢――いや、記憶を心に深く繋ぎ留めた。「ごめんなさい、夏芽さん……」まだ覚束ない意識の中で、私は彼に謝罪をした。私を抱く彼の腕が、ビクッと震える。「どうして。どうして、君が謝る」か細い声で、聞き返された。「私が……身の程知らずに、夏芽さんとの恋に有頂天になったりしたから」「っ……」「お弁当の卵焼き。つまみ食いされて。『美味しい』って言われて浮かれて、『夏芽さんの分も作って来ましょうか?』なんて恋人気取り……」独り言みたいに呟きながら、私の脳裏にはその時の光景が浮かび上がっていた。夏芽さんと出会って、二ヵ月ほどの頃だ。私は彼にぶつけられる想いに戸惑いながらも、ゆっくり心を通わせるようになっていた。『絆される』なんてとんでもない。『恋人にはなれないままだった』なんて、絶対違う。私は、自分は夏芽さんには相応しくないと思いながらも、彼に愛される悦びに溺れていた。ちゃんとちゃんと『恋人』として、夏芽さんと一緒に過ごしていた。でも――。「私は、多香子さんを傷つけてたんですね……」私の首筋に顔を埋めた夏芽さんが、耳元でハッと息をのんだ。「あの時……多香子さんの存在すら知らずに、困惑するだけだった私に、彼女の方が傷ついた顔をしました」何故だろう。今まで全然思い出せなかったのに、今、目を閉じただけであの時の多香子さんが網膜に浮かび上がる。「それは……美雨のせいじゃない。許嫁

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 2

    どんよりと濁った意識の中――。夏芽さんの声が、耳をくすぐった。『俺の家のことなら、ちょっと揉めるかもしれないけど、心配いらない』その声に、私はぼんやりと目線を上げる。上半身裸で、私を腕に囲い込んだ体勢で、彼が目元を綻ばせてはにかんだ。『でも……鏑木さん』『大人しく、はいって言って。それとも、俺が君をどれほど愛してるか、もっと激しく刻まれたいの?』『! ……はい』『よろしい。……でも、まだ離さないけどね』じんわりとした幸福感に走る、邪魔なノイズ。砂嵐が、ビジョンを遮る。『夏芽さん。今夜は、報告があるんです』続くのは、私のやや緊張した声だった。『その……実はですね。私、妊娠、したみたいで……』恥ずかしそうに、目を泳がせて『報告』する私。私の前にいるはずの、夏芽さんの表情は映り込まない。『困ります……か? それなら、堕ろした方が……』返事をしてくれないから、不安になってそう続ける。それを聞いて、やっと彼が反応を示してくれた。『ごめん! 突然で、実感湧かなくて』慌てたような返事をしながら、ぎゅうっと抱きしめてくれる。『堕ろすなんて、とんでもない。美雨、愛してる。君が俺の子を産んでくれるなんて、夢みたいだ』夢みたい――。初めてこういう関係に陥った時、彼が私を抱きながら口走った言葉が、脳裏を過ぎる。『結婚しよう、美雨』『は、い……』堪らない幸福感に身を委ね、私は彼の腕に両手をかけて、一言、それだけを返した。再び走る、耳障りなノイズ。そして、暗転――。場面は、切り替わっていた。『婚約者がいるのに、私に結婚しようなんて、どうして言えたんですか!?』一転して、不穏な空気。夏芽さんが切羽詰まった顔で、なにか言葉を挟もうとするのを、私は両手で耳を押さえて拒む。『酷い、大っ嫌い! もう私に近付かないで』私を宥めようと伸びてくる手を払い除けて叫び、なにかを投げつけて踵を返した。『美雨っ……!!』夏芽さんが、弾かれたように床を蹴って走り出す。私は、それを振り切るように駆けて行って――。『あっ……!』エスカレーターを駆け下りる途中で、足を滑らせた。『美雨っ!!』とっさに差し伸ばされた手に縋ろうと、腕を伸ばした。でも、届かない。どんどん遠退いていく。耳に聞こえるのは、ガンガンガンというけたたましい衝撃音。縋る物を見つけられないまま、身体が転がり落ちる。凍りついた顔をした夏芽さんが、小さくなってい

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 1

    病院の正門を出た時、空は夕刻を迎えてオレンジに染まっていた。完全にショートした思考回路が、まだ働き出してくれない。私はぼんやりと足を踏み出した。力を入れたはずの足に、驚くほど神経が通っていない。ふわふわと浮いているみたいで、感覚が覚束ない。それでも、前に進んでいるから、私はちゃんと歩けていたんだろう。そこに、「美雨!」低く鋭い声が、意識に割って入った。私はそれに反応して、緩慢に顔を上げた。「美雨」もう一度、私を呼ぶ声。視界に、こちらに向かって走ってくる夏芽さんが映った。その姿を捉えた途端、なにか熱いものが胸に込み上げてきた。「っ……」せり上がる嗚咽を抑え切れず、私はその場にしゃがみ込んでいた。「美雨……?」夏芽さんの困惑した声が、近付いてくる。「どこか調子悪いか? 病院に行くために早退したって聞いて、驚いて……」そう、彼は室長から私の早退を聞いて、飛んできてくれたのだろう。まだ日の入りを迎えていない空。業務時間中だ。私を支えて立ち上がらせてくれる彼に、私は弾かれたように抱きついた。「っ……美雨?」虚を衝かれた様子で、彼の身体が一瞬強張る。「夏芽さ……私。私……」彼の胸に顔を埋めて、なにを言っているかわからないまま、泣きじゃくった。「どうした? 美雨。ここじゃ人目につくから、早く車に……」肩に置かれた手に力がこもるのを感じながら、私は激しくかぶりを振った。「責任……ですか?」掠れた声で、必死に短い質問を紡ぐ。「え?」「愛してるなんて、嘘。プロポーズを考えてくれたのは……妊娠の責任……?」「……!」くぐもった声でも、ちゃんと彼に届いたのは、頭上で息をのむ気配でわかった。その反応が、私の胸を鋭く貫く。「酷……い。酷い、夏芽さ……」いつかのように、彼を詰った。でも、身体に回る腕を解き、突き放す力はなく、私はがっくりとうなだれた。そして。「……美雨? 美雨っ!」切羽詰まったような声が、何度も私を呼ぶのを聞きながら、意識を失った。

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   乗り越えるべき試練 9

    多香子さんが帰った後、私は居ても立っても居られず、秘書室長に早退を申し出た。もちろん、病院に行くためだ。いくら彼女に言われたからって、体調が悪いわけでもないし、特段急ぐ受診でもない。また二週間後に次の予約を入れているから、その時でも構わない。でも、落ち着かなかった。こんな気持ちでは、仕事に集中できないし、なにより夏芽さんの前で平静を装うことができない。室長から許可を得て、私は夏芽さんが戻ってくる前にオフィスを出た。うちのオフィスビルから、総合病院までは電車で三駅。平日の午後とは言え、わりと混雑している電車で、私はドア横の狭いスペースに背を預けた。車窓を飛ぶように流れていく景色を、ぼんやりと視界に映す。なにも考えられないほど、思考回路は凍りついているのに、心臓だけが速いペースで打ち鳴っていた。電車を降りて改札を抜けると、ついこの間の土曜日に歩いた道を、病院に向かってやや小走りした。病院に着くと、受診を終えて出てくる人に逆行して、外来棟に入った。午後の外来には、中途半端な時間だ。これから受付をする患者さんは少なく、自動受付機付近は閑散としている。私は受診手続きをして、案内表示を頼りに、足を踏み入れたことのない、産婦人科外来の待合ロビーに進んだ。診察の順番を待つ女性たちが、長いベンチ椅子を埋め尽くしている。私は初診だし、予約もしていない。だから、相当待つことになると覚悟した。だけど、他科とは言え、ついこの間まで入院患者だったせいか、ほんの一時間ほどで私の順番が回ってきた。「こんにちは、黒沢美雨さん。調子はどうですか?」狭い診察室に入ると、白衣を着たわりと若い女医さんが電子カルテから目を外し、椅子を回転させて私に向き合った。「え? あ、あの……」自分でも、受診の目的をなんと言えばいいかわからずにいたから、『調子』を問われて口ごもった。「生理、来ましたか?」そう問われて、ますます戸惑う。「え、えと……?」なんだか、『初診患者』に対する質問じゃない気がする。産婦人科といったら、初診患者は妊娠を疑っているか、旅行を控えて生理周期をずらす薬を処方してもらうか……私にはそのくらいしか考えつかないけど、そのどちらにも、質問がそぐわない気がする。「入院中は、脳外科病棟にお任せしてましたが、情報は共有してもらっています。腹痛もなかったようだし、不正出血の報告もなし。腹部エコーやCT画像か

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   乗り越えるべき試練 8

    お昼の休憩中、夏芽さんが座っていたソファを多香子さんに勧めて、私はコーヒーを淹れた。ローテーブルにソーサーとカップ、ティースプーンを置いて、彼女と向かい側のソファに回って腰を下ろす。「ありがとう。いただきます」多香子さんはそう言って、ブラックのままコーヒーを一口飲んだ。綺麗なネイルが施された指を優雅に動かし、カップをソーサーに戻す。そして、ふと目線を上げて私を見据えた。「夏芽から聞いたけど、この一年ほどの記憶を失ってるんだとか……。私と会ったことも覚えていないということね?」細い足を妖艶に組み上げ、早速切り出してくる彼女の前で、私はゴクッと喉を鳴らした。「私がこのビルのエントランスで、エスカレーターから落ちた時……多香子さんと一緒にいたことは知ってます」「え?」「入院中……病院に来てくれましたよね。その時、鏑木さんと話していたのを……聞いてしまいました」私がほんのちょっと言い淀むと、彼女は「あら」と言葉を挟んだ。そして、なにか思い当たった様子で、軽く口角を上げる。「それじゃあ、私と夏芽がキスしたのも、見られた……ってことね」「っ」まさに、あの時の光景が、脳裏を過ぎっていたところだ。私はグッと詰まってから、なんとか虚勢を張って胸を反らした。「鏑木さんは、からかってるだけだと仰いました。多香子さんとは許嫁だったけど、婚約は解消しているし、もともとお互いに恋愛感情もないって」「夏芽の記憶も忘れてるわりに、ムキになるのね。……ああ、それとも、その部分だけは彼から吹き込まれて、また手籠めにされた?」彼女は皮肉気にクスクス笑いながら、そう突っ込んでくる。その言葉に、私は頬にカッと朱を走らせた。「手籠めなんて……! 変な言い方しないでください。そ、それに、夏芽さんは私に、なにも吹き込んだりしてませんっ」そう、彼はむしろ、『嘘しかつけない』と言って、私が自分で思い出すのを待ってくれている。思わず身を乗り出し、唇を戦慄かせながら、多香子さんを睨む。「そう。それじゃ、記憶を失っても、また惹かれ合った……とでも? ロマンティックね」彼女は興醒めといった表情を浮かべて、足を解いた。深くソファに背を預け、胸の前で腕組みをする。私の方は、一瞬にして煽られた興奮を、抑えられない。中途半端に浮かしかけていた腰をソファに戻し、膝の上でスカートを握った。「婚約解消……ね。いったい誰のせいだと思ってる

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   乗り越えるべき試練 7

    夏芽さんが出ていって十分ほど過ぎた時、総合受付から電話が入った。多香子さんの来訪の連絡だ。私は、エレベーターで直接このフロアまで上がってもらうようお願いして、デスクを立った。もちろん、エレベーターホールまで、彼女を迎えに出るためだ。ホールには、六基のエレベーターがある。その内、どのドアが開くのか――。私はさらに緊張感を強めながら、視線を走らせた。やがて、一番奥のドアが開いた。相変わらずシックなスーツ姿の多香子さんが、姿を現す。私の胸が、ドクッと沸くような音を立てた。彼女は、ドアを一歩出たところで、一瞬方向を確かめるように逆側を向いてから、ゆっくりこちらに顔を向ける。その目が、私の上で留まった。私は、胸いっぱいに広がった緊張を必死に抑えて、一度深々と頭を下げた。ゆっくり背を起こしてから、「突然お呼び立てして、申し訳ございません」と謝罪をした。「いいえ。お招きありがとう」多香子さんは余裕たっぷりにそう言って、長い髪を掻き上げた。そのまま、高いヒールをややカーペットに沈ませて、私の方に歩いてくる。距離が狭まるにつれて、一歩後ずさりたくなる衝動と闘う。なんとかその場に踏み止まる私の前まで来て、彼女はピタリと足を止めた。「改めまして。島内(しまうち)多香子と申します」「島内……さんですか。鏑木、ではなく?」わりと丁寧に自己紹介してくれた彼女に、私は反射的にそう訊ねていた。「ええ。私は鏑木の分家筋なの。……って、私の名字に反応するってことは、本当なのね。記憶喪失って」「……っ」真っ向から確認されて、私はほんの一瞬怯んだ。だけど、それを気取られないように、思い切って胸を反らす。「なつ……鏑木さんは、現在不在です。ここではなんですから、執務室にどうぞ」そう言って、多香子さんの前に立って、執務室に誘導すべく廊下を歩き出した。

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   乗り越えるべき試練 6

    そして迎えた水曜日――。私が作ったお弁当を、執務室で二人で食べながら休憩時間を過ごした後、シャツの左袖を摘まんで腕時計で時間を確認した夏芽さんが、ソファから立ち上がった。「さて、と。じゃあ、そろそろ行ってくるよ」頭の後ろで両肘を組み、軽く胸を仰け反らせる。私は、ソファの前のローテーブルでランチボックスを片付けながら、「はい」と返事をした。「行ってらっしゃい。お戻りは、三時頃……ですよね?」私も自分の腕時計に目を落とし、念を押すように確認する。現在、午後一時。一社当たりの滞在時間は、だいたい三十分ほどのはずだ。「ああ」と短い返事が来た。「俺が留守の間は、いつも通り、電子申請書類の承認手続きを頼むよ」夏芽さんが目を通した書類は、『決裁』と『差し戻し』の二つのステータスに分けて、システムに一時保存されている。膨大な書類を審議しなきゃいけない彼に代わって、申請部署への差し戻しや、社長決裁に回付という電子手続きは、私が行っている。彼は私に業務指示を出しながら執務机に回り、椅子にかけていた上着を取り上げ、サッと袖を通す。「はい」「じゃ、留守を頼む」大きなサイズの手帳とスマホを手に、颯爽と執務室を出ていった。ゆっくりとドアが閉まり、その背が見えなくなるまで見送って、私は胸に手を当て、グッと拳を握りしめた。二日前、夏芽さんに内緒で湊さんに依頼した、多香子さんとの面会の約束。彼女はこの後間もなく、ここに来てくれる。会うのは私一人だけど、表向きは夏芽さんを訪問という体になっている。ビルのグランドエントランスの総合受付からは、秘書室を通さず直接ここに連絡が入るはずだ。強い緊張で、胸の拍動がやや速い。落ち着かない気分で自分のデスクに戻り、午後の業務を始めたものの、何度も時間を確認した。

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status