その夜、私はなかなか寝つけなかった。明日は事故以来一週間ぶりの出社だから、意識して少し早めにベッドに入ったのに、日付が変わっても眠りは訪れてくれない。緊張して気が昂っていたのかもしれない。夜中、意識を持続し続け、何度も寝返りを打ちながら、枕元に置いたスマホで時間を確認していた。五時五十分と示されるのを見て、私はむくっと身体を起こした。熟睡できなかったせいで、嫌な頭重感が残っている。私は緩慢に身体を動かし、ベッドから下りた。窓辺にかかったロールカーテンの隙間から挿す光は弱い。やや覚束ない足取りで仄暗い部屋を横切り、窓辺に立ってカーテンを巻き上げる。東の空が、やっと白みかけたところだった。窓から離れてクローゼットの前に立ち、部屋着に着替えて部屋を出た。視界いっぱいに広がるリビングに、人気はない。しんと静まり返っていて、空気もひんやりしていた。なんとなく、螺旋階段の方に顔を向ける。鏑木さん、いつも何時頃起きるんだろう――。鏑木ホールディングスの副社長として、何万という社員の模範になる、規則正しい生活をしていそうだけど、なにせ超多忙な人だ。帰宅時間は遅いだろうし、もしかしたら朝はわりとゆっくりで、まだ寝ているかもしれない。それで、朝食は?いつも、どうしてるんだろう?昨日は私も、ほとんど客間から出ずに過ごした。鏑木さんの方も、せっかくの休暇なのに、書斎で仕事をしていたらしい。結局一日中、顔を突き合わせてゆっくり話すこともなかったから、一晩明けても、私は彼の生活習慣をなに一つ知らない。と、その時。グウウウウ……。「!」お腹が低く唸る音を耳で拾って、反射的に両手で押さえた。そう言えば、昨日退院前に、病院で朝食を取ったのが最後だ。ここに来てからずっと、いろんな展開についていけず、頭の中は飽和状態。空腹を感じる余裕もなかったけど、丸一日なにも食べていない計算になる。さすがに、お腹が空いて当たり前……。私はリビングに立ったまま、ダイニングキッチンの方に顔を向けた。重厚でシックなダイニングテーブルの向こうに、広い調理台が機能的なアイランドキッチンが見える。最近、特にセレブ層の新婚カップルに、人気のスタイルだ。ファミリー物件と言えば、対面式のカウンターキッチンが主流だったけど、今はうちの会社でも、それを上回る受注数を誇る。この家のなにもかもが、男性の一人暮らしとしては立派すぎる。やっぱり
早朝ジョギングで健康的な汗を流し、シャワーを終えてこざっぱりした鏑木さんと、私はダイニングテーブルで向かい合っている。普段のパリッとしたスーツ姿しか知らなかったから、さっきのトレーニングウェアも、今のラフでルーズ感漂う部屋着姿も新鮮すぎた。知らない人みたい、というか……知ることになると思いもしなかった一面を見ている今、どうしても落ち着かない。むしろ気になって、さっきからチラチラと窺ってしまう自分がいる。その上、私が作った朝食を一緒に食べている、この状況……。――いつか結婚したら、新婚生活ってこんな感じなんだろうか。嫌でも想像してしまう自分を、抑え切れない。そんな思考を働かせている自分が、鏑木さんに対して後ろめたい。それもあって、私はずっと目線を下げ、まるで教本のように美しい箸遣いをする彼の筋張った手ばかり見ていた。それが、かえって不審を招いたようで、「黒沢さん、どうかした?」と、直球で問いかけられてしまう。「っ、はいっ?」ギクッとして顔を上げると、鏑木さんがきょとんとした顔をして、首を傾げていた。私は慌てて背筋を伸ばし、「いえ」とぎこちなく笑ってみせる。「ええと……鏑木さんが食べてくれて、朝食作ってよかったなあって」取ってつけたように答えると、彼もクスッと笑った。「どれも美味しいよ。本当に君は、料理が上手だね」「ありがとうございます。お口に合うか、心配でした」それには本当にホッとして、私は思わず頬の筋肉を緩めた。「君の卵焼き、甘くて好きなんだ」鏑木さんはそう言って、最後の一つに箸を通す。「え?」彼の言葉がなにか引っかかり、私は食事の手を止めて聞き返した。「俺は、卵焼きと言ったら、出汁巻き卵がスタンダードで。出汁を使わず甘く焼いた卵って、結構衝撃で……」どこか懐かし気に目元を綻ばせて言われ、嬉しいのに、ストンと胸に落ちてこない。「あ、あのっ」私は、彼が話す途中で声を挟んだ。鏑木さんが口を閉じ、私に視線を流してくる。「それは、『今』思ったことじゃないですよね?」少し緊張しながら訊ねると、「え?」と聞き返された。「今の言い方……。もっと前からそう思っていた、というように聞こえたんです」「……!」鏑木さんはハッとしたように口元に手を遣った。わかりやすく、つっと目線を横に流し、黙り込む。私は膝の上に両手を置き、改まって背筋を伸ばした。「やっぱり私、鏑木さんとお話したことがあ
鏑木さんの家から彼の車で送り届けられ、仕事復帰第一日目のスタートを切った。いつもより十分ほど早い時間に出勤してオフィスに入ると、まず男性秘書室長のところへ挨拶に行った。彼はどうやら、鏑木さんから事故の報告を受けているようだ。外傷はないけど、この一年ほどの記憶が欠落していることも、秘書室長には伝わっているらしい。この状態で私が仕事に復帰して困ることのないよう、配慮すると言ってくれた。「黒沢さんが秘書室に異動してきた時から、役員陣の顔触れは変わっていません。今回の件については耳に入れてありますが、当面の間、役員秘書業務から外れた方がいいと考えています」ちょっと残念だけど、それが当然だと納得できる。会社の業績、社長や副社長の『今』を知らない私が秘書についても、ご迷惑になるだけだし、失礼なことをしでかしてしまう危険性もある。だから、「はい」と返事をすると、室長も強く頷いてくれた。「始業時間になったら、臨時朝礼をします。その時、黒沢さんの当面の業務についても、皆さんに説明しますので、それまで自席で待機してください」それにも同じ返事を繰り返し、私は室長に一礼して、デスクから離れた。私が室長と話している間に、先輩や後輩たちが続々と出勤してきていた。突然一週間欠勤して、仕事に穴を開けて迷惑をかけたお詫びに回ると、みんな口々に私を心配して気遣ってくれた。「昨日退院したばかりなんでしょう? 無理しないでね」「困ったことがあったら、なんでも言って」温かい言葉には、頭を下げてお礼を言う。私が事故に遭って入院していたのは、みんなも知っている。でも、記憶障害という情報については、今のところ室長止まり。秘書室主任にも伏せられている。そんな中で、当面の間とは言え、私が役員秘書業務から外れることを、室長はどう伝えるんだろう?それ以前に、どんな仕事を与えられるのか……と、ほんの少し不安が過ぎった。やがて午前九時の始業時間を迎えると、室長がみんなに声をかけ、臨時朝礼が始まった。そこで、前もって言われた通り、私の業務について説明された。「社内他部署には口外禁止、この役員フロアと秘書室限りの極秘事項となりますが、鏑木ホールディングスの鏑木副社長が、当面の間当社で執務されることになりました。このため、黒沢さんには、鏑木副社長の専属補佐に就いてもらいます」「!?」私は、ギョッと目を剥いて絶句した。他のみんなは
それから十分後――。「この度、鏑木副社長補佐の任を拝命いたしました。黒沢美雨と申します。若輩ですが、精いっぱい務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願い申し上げます」今日から鏑木さんの執務室として使用される役員応接室で、私は執務机を挟んで彼の前に立ち、無駄に丁寧な口上を述べた。深々と腰を折って頭を下げた私が、再び背を起こして姿勢を正すまで、鏑木さんは無言で見上げていて、「『よろしく』ってわりに、顔が不機嫌だね」やや苦笑混じりに、口角を上げてからかってきた。私はムッと唇を尖らせ、意味もなく胸を反らす。「鏑木さんが、あまりに横暴なので」周りに誰かいたら、とてもこんな刺々しいことを言えないけど、今、私は彼と二人。しかも、役員フロアの執務室や応接室は、どこも完璧な防音室だ。たとえ声を荒らげても、ドアの向こうに漏れる心配は、まったくもってない。私の返しに、鏑木さんは愉快気に肩を揺らした。「記憶を失う前と後。参ったな、君は別人みたいだ」「なにを仰りたいんですか」「俺に対する不満や憤りといった負の感情を併せ持ち、憚らずにぶつけてくる。今の君は前よりエモーショナルで、魅力的だってこと」「!」何故か嬉しそうに目を細めるから、意表を衝かれ、口ごもってしまった。鏑木さんが、執務机に両肘をのせ、顔の前で両手を組み合わせる。その向こうから、私を上目遣いに見据えているのがわかる。私は視線の遣り場に困り、目を泳がせた。「黒沢さん。君を専属補佐に就けるよう、強引に命令した俺が、不満なのはよくわかってる」「じ、自覚があるなら、控えていただけませんか」虚勢を張って、つっけんどんな言い方をする私に、彼はまったく動じない。「それは無理。当面の間はこの任に就くのがベストだと、君自身、理解していると思うけど?」探る瞳の前で、私は返事に窮した。「俺への不満を、腹に溜め込まなくていいよ。言ってくれて構わない。そのための『専属』なんだから」「同居を強いられ、仕事への行き帰りも鏑木さんと一緒。その上オフィスでも専属補佐の任を命じられ、執務室で二人きり……。これじゃ、ほとんど軟禁ですっ」もうすでに腹に溜め込んでいたからこそ、私は彼が言い終わるのを待たず、執務机に両手をついて言い募った。鏑木さんは腕組みをして、長い足を組み上げながら……。「ほとんど、というか。まさにその通りだね」私を見つめて、平然と言って退ける。
「い、いきなりなに……」「これが、からかってるように見える?」弾む呼吸で声が掠れる。それでもなんとか発した抗議は、淡々とした低い声に遮られた。「っ、え?」私は虚を衝かれ、抗議をのみ込んで聞き返していた。「業務時間中にからかってキスするほど、俺は暇じゃない」鏑木さんは不機嫌に目を細め、斜に構えて続ける。「君に、うがった見方をされたくない。からかってるわけないだろ。弁解しようと、衝動に突き動かされた」どこか悔しげに顔を歪めて、わずかに瞳を揺らした。「ついでだから、白状しようか。俺は今、業務中だろうが執務室だろうが構わず、君を押し倒して、キス以上のこともしたい欲情を抑えている」「っ……!」いつも紳士的で物腰柔らかい鏑木さんが、見たことがないくらい獰猛な『男』の顔をしている。私を鋭く射貫く黒い瞳に、激しく狂おしいほどの劣情が滲んでいる気がして、私は両肘を抱えてゾクッと身を震わせた。「なにを……鏑木さん、なにを言って……」ドッドッと、怖いくらい強く拍動する心臓。喉に妙な渇きを覚え、私は声をつっかからせてしまう。鏑木さんは、目力を緩めない。私を射竦めたまま、一度きゅっと唇を結び――。「本気を証明するために、これだけは伝えておくよ。……俺は、ずっと君が好きだった」男らしい薄い唇がそう動くのを、私はちゃんと見ていたのに、耳に届いた言葉を即座にのみ込めない。「え……?」ボーッとして、無意識に聞き返してしまった。鏑木さんが、静かに目を伏せる。「二年ほど前から、時々見かけるようになった新米秘書。最初は、好みの顔立ちだと思っただけ。でも俺は、そうやって一年以上も、君を目で追っていた」芯が通った低い声が、しっかりと鼓膜に刻まれていくのに、私の思考は追いつかない。「ここに来ても、君の姿を見ることができるのは、運がいい時だけ。それでも、君の真面目で真摯な仕事ぶりは伝わってきたし、清楚で女らしい仕草に魅せられていた」そうやって、遠くから眺めるだけの人に憧れるのは、私や他の秘書だけだと思っていたのに……。彼が私を同じように見ていたと言われても、にわかには信じられない。「社長や副社長から、名前を聞き出した。トップを任せる彼らも、君を高く評価するのを聞いて、嬉しくて胸が躍った。……バカだよな。俺は、一言も言葉を交わしたことのない君に、そんなウブな片想いしてたんだよ」そう言って言葉を引き取ると、彼は小さ
一日中、鏑木さんと二人きり。これは、その始まりの一日。意識しすぎて、一週間ぶりの仕事に集中できなかった。子会社の役員応接室に場所を移して、リモートワーク……と簡単に言うけど、それで仕事が回るんだろうか、と思っていた。鏑木さんは、鏑木ホールディングスの副社長だ。副社長というのは、トップである社長と、それ以外の取締役のパイプライン的役職。自分の会社を見ていても、多分一番仕事量が多く多忙な職位だと、私は常々思っている。きっと、親会社でも役割は同じ。本社にある多数の部署や、専務、常務から挙がる企画書、起案書、決裁書類は、恐らく、ほぼ全部副社長に集中するはず。そのすべてに厳しく丁寧に目を通し、社長に通すか棄却して差し戻すか……判断するのは鏑木さんだ。副社長は、社内の全事案を掌握する。企業の業績も収益も、副社長の腕にかかっていると言っていい。その副社長が、会社を不在にして大大夫なんだろうか……?私がそう訊ねると、鏑木さんは特段表情も変えず、説明してくれた。「社内では、決裁書類はすべて電子申請を採用している。目を通すべき書類の八割は、パソコン一台あれば対応できる。外部との契約書や申請書はそういかないけど、毎日午前中、秘書にデリバリーさせることにした」なんでもないようにさらりと言われると、そういうものかと思える。地味に納得していた時、まさに件のデリバリーが到着した。私は、上品な濃紺のスーツ姿の男性秘書を執務室に通し、自分のデスクに戻った。起立したまま、鏑木さんの執務机の前に、彼が両足を揃えて立ち止まるのを見守る。すっきりと短い、清潔なスタイルの黒髪。前髪はやや右寄りで分けてセットしている。黒い細身なフレームの眼鏡の向こうに覗く目元は、鏑木さんと違って、つり上がり気味。鼻筋が通っていて、凛とした涼やかな顔立ち。真面目でクール、ちょっと近寄りがたいというのが、見た目からの第一印象だった。そんな男性秘書が、鏑木さんの前できびきびと一礼する。「おはようございます。こちら、本日朝締め切り分の決裁書類です」そう言いながら、右手に持っていた黒いブリーフケースを、執務机にデンとのせた。チェアに背を預けて座っていた鏑木さんの視線が、わずかにそちらに動く。「至急案件が十五部。他二十五部は、二、三日中にお目通しください」「ご苦労様」鏑木さんも男性秘書も、眉一つ動かさずに淡々とやり取りするけど、もっと少
私の終業時間は、午後六時。退院後初日、私は思った以上に疲れていた。一週間の入院で体力が落ち、通常の生活に戻れるまでに、回復していないのもある。でも、疲労の大半は、予想を超える出来事が重なったところにあった。だから、今日は定時で上がって、まっすぐ帰りたいと思っていた。でも、行き帰りは送迎すると、夏芽さんに宣言されている。今日一日だけで、尋常じゃない業量をこなす姿を目にしてしまったら、『疲れたから帰りたい』なんて、とても言えない。もう少し片付くまで。私も一緒に残って手伝おう……と、残業を覚悟した。ところが。夏芽さんは、時計が午後六時を指すと、率先してパソコンをシャットダウンした。その気配に目線を上げた私を、「さあ、帰ろう」と促す。「も、もうですか?」「もう、って。終業時間だよ」私がひっくり返った声で聞き返すと、むしろ不思議そうに首を傾げる。「でも……」私は自分のパソコンモニターを見遣った。午前中、湊さんが届けてくれた至急の決裁書は処理済みだけど、電子申請された書類の三分の一は、まだ手付かずだ。明日に持ち越したところで、また今日と同じペースで積み増しされたら、大変なことになる。だから、「あの」と改まって背筋を伸ばした。「私も残って、もう少しやります」「却下。昨日まで入院してた人に、残業なんてさせられない」夏芽さんは聞く耳持たず、デスクを片付け始める。それはつまり、仕事を切り上げるのは、私を帰すのが目的……?「だったら、私は一人で先に帰りますから……」「それは、もっとダメ」一応、夏芽さんを心配して重ねた提案も、にっこりと微笑んで遮られてしまう。言い淀んだ私に、彼はふっと眉尻を下げた。「なにも、これ全部明日に回そうなんて思ってない。リモート場所を、自宅に替えるだけだよ」「家で、仕事の続きですか?」ここに残ってやるか、持ち帰るか。パソコン一台あれば可能だから、確かに、夏芽さんにとっては場所を替えるだけ。だから、ここでも、私を気遣ってるんだろうと思った。でも。「心配いらない。俺は普段から、定時を過ぎて書類仕事で残ることはない」「え?」「もちろん、ちゃんといつもと同じ時間に寝るから、大丈夫」そう言われたら、のみ込むしかない。こうして、私は反論の芽を摘み取られ、それからものの五分で、彼と一緒にオフィスを出た。行きと同じく、夏芽さんが運転するベンツの助手席に乗り込む。赤坂のタワーマン
夏芽さんのマンションに帰ってすぐ、私はリクエストを受けた三色丼の調理を始めた。その間に、彼には先にシャワーを浴びてもらう。お麩の清汁の味見をしていた時、リビングのドアが開く音が耳に届いた。なんてグッドタイミング。ちょうど夏芽さんが入浴を終えて出てきたようだ。「ん。いい匂いがする」鼻を利かせていそうな声が聞こえてきて、「夏芽さん! お疲れ様です。タイミング、ばっちりです。今ちょうど夕食の支度が終わって……」広い調理台越しに、弾んだ声をかける。ところが――。「っ!」リビングに入ってきた彼を一目見て、勢いよく目を逸らしてしまった。そうだ、お風呂上がり……。腰穿きのルーズパンツと、ゆったりした長袖Tシャツというかなりラフな格好は今朝も見たけど、濡れ髪をタオルで拭う彼は見慣れない。なんだか妙な色気が漂っていて、とても正視できない。昨夜は私もほとんど部屋で過ごしていたから、こういう事態を想定できなかったけど……。同居するからには、こういうリラックスモードの夏芽さんを、日常的に見ることになるのだ。二日目でこんなに心拍数と血圧が上がりそうなのに、やっていけるのか一気に不安に陥る。「黒沢さん。どうかした?」なのに、夏芽さんはそんな私にお構いなしに、遠慮なく近付いてくる。「あ、あの。すぐ、テーブルに運びますから、そっちで待ってて……」とにかく、一拍置いて深呼吸して、この速い鼓動を落ち着かせたい。なのに。「やっぱり、美味しそう。三色丼」夏芽さんは私のすぐ隣まで来て、盛りつけの済んだ丼を覗き込んだ。彼の濡れ髪から香るシャンプーの匂いに、私の胸は落ち着くどころか、逆にドキンと跳ね上がってしまう。今度は目じゃなく顔を背けた。ついでに一歩飛び退いて、意識して間隔を広げる。逃げられた格好の夏芽さんが、首を傾げるのが視界の端っこに映り込んだ。「?」不思議そうに、私の横顔に目を凝らしていたようだけど。「もしかして……また朝みたいに迫られるって、警戒してる?」私が作った距離を物ともせず、わざわざ身を屈めて耳打ちしてくる。「っ……!」吐息混じりの囁きに耳を直接くすぐられた上、その言葉でまだ新しい記憶に導かれてしまう。今朝もここで、意味深にからかわれたことを思い出し、カッと頬が火照るのをバッチリ見られてしまった。夏芽さんが、ぶぶっと豪快に吹き出す。「学習しないな、君は」愉快げに肩を揺らして笑われ、私はムキ
私は、彼の広い背中を追いかけた。その後――。夏芽さんは一ヵ月ほどうちの会社で執務を続け、三月の年度末をもって本来のオフィスに戻っていった。それに伴い、私も役員秘書業務復帰を果たした。私の記憶は、夏芽さんとのことを除くと、全面的に取り戻せたのか、判断も難しい。でも、自分なりに感覚は戻ったと思うから、復帰できてとても嬉しかった。新年度が始まり、夏芽さんとオフィスで過ごす時間はなくなった。でも、以前と同じように、私が作ったお弁当を一緒に食べながら、ランチタイムを過ごすことはできる。そして、家では、もっと甘い時間を……。週末を迎える金曜日の夜。先にベッドに入った私の肩を、夏芽さんが軽く揺さぶった。「みーう。寝たふり。バレてるけど」くくっとくぐもった笑い声が降ってくる。と、次の瞬間、強引に身体を上に向けられ、唇に熱いキスが落とされた。「んっ……! 夏芽さんっ……」条件反射でバチッと目を開けると、瞳いっぱいに反則なほど綺麗な顔が映り込む。夏芽さんが、薄く半分開けた目で、私の反応を一から十まで観察している。そんな彼に、ドクッと心臓が沸く音がした。「ん、ふうっ……あっ……」彼曰く、『無自覚に煽る声』が、私の耳をも犯す。でも、私に言わせれば、こういう甘いキスをいけしゃあしゃあと仕掛けてくる夏芽さんのせいだ。執拗に絡められる舌。キスだけなのに身体の芯が熱くなり、火照る。解放されても、とろんと潤んだ目で、離れていく唇を追いかけてしまう。夏芽さんは、少しルーズなシャツの襟をたわませているから、私の視界には彼の引きしまった胸がチラチラ覗く。「なつ、めさ……」「美雨。改めて……これ、そろそろ受け取ってくれる?」彼は、胸の小さなポケットから、指先でなにか摘まみ上げた。私の左手を取って、それを薬指に滑らせる。「え? あ……」そこにずっしりと感じる、上品な重み。私は左手を顔の上に掲げ、そこに戻ってきたエンゲージリングを見て、ドキッと胸を弾ませた。「俺と、結婚してください」ストレートなプロポーズに、またしても跳ね上がる鼓動。「ちょ、ちょっと待って」私はベッドに肘をつき、中途半端に上体を起こした。「でも、あの……多香子さんは?」私を腕の中に囲む彼を、上目遣いで探る。夏芽さんが、ふっと目尻を下げて微笑んだ。「新しい縁談が、順調に進んでるらしいよ?」「……えっ!?」私はギョッと目を剥いて、何度も瞬きを
翌朝、私は夏芽さんが目を覚ます前にベッドを抜け出した。自室として借りている客間に降り、退院した時着ていたニットとスカートを手に取る。三月……。真冬の服は、ちょっと重苦しい季節を迎えようとしているけど、早朝であればそうおかしくもない。手早く身に着け、簡単に身支度をする。紙袋に荷物を纏めると、私は夏芽さんの家を出た。早春の早朝、空気はひんやりと冷たい。昨日思い出した記憶で飽和状態の思考回路には、いい刺激になる。あれですべての記憶を取り戻したわけじゃないだろうけど、私の心は十分混乱していた。夏芽さんの愛情も熱情も本物だとわかるからこそ、一度、彼と離れるべきだと考えた。彼といると、まともに考えることができなくなるほど、愛されてしまう。焼き切れそうな思考回路を、一度しっかり冷却して、彼に向き合いたい。だから今は、これ以上、夏芽さんと一緒に暮らしていてはいけない。会社の行き帰りも、送迎してもらってはいけない。仕事も、少しずつでいい、これまでの役員秘書業務に戻してもらえるよう、室長に話してみようと思っていた。夏芽さんもリモートワークをやめて、本来のオフィスに戻ってもらわねば。そう。一度、全部もとに戻そう。まだ取り戻せていない記憶を、のんびりゆっくり自分の中に探す、そんな時間が私には必要だ。始発から間もない駅は人も疎ら。私が一人暮らしをしている街までは、ここから電車で三十分ほどかかる。並びに誰もいない座席に座り、手すりに凭れかかってウトウトしていたら、いつの間にか最寄り駅に運ばれていた。駅からは、徒歩十分。この三週間ほど、夏芽さんのゴージャスなタワーマンションで視覚が麻痺したせいか、私には相応しい小ぢんまりしたワンルームマンションが、なんとも貧相に映る。それでも、気を取り直す。贅沢に慣れてしまった自分を、戒める。まずはここで、本来の生活を取り戻さないことには、なにも始まらない。マンションのエントランスに進もうとして、無意識にバッグに手を突っ込んだ。バッグの中、いつも家の鍵を入れているポケットを手探りして……。「……あ、あれ?」キーリングをつけた鍵が、見つからない。「え? え?」私は通りに立ち尽くしたまま、バッグを顔の高さに持ち上げた。ほとんど顔を突っ込む勢いで、中を覗き込む。だけど、鍵は見当たらない。「ない。……どこ?」最後に手にしたのがいつか、私の頭に記憶はない。入院中も退院し
重い目蓋を持ち上げると、視界に映ったのは見慣れた天井だった。身体が心地よく沈み込む、夏芽さんのダブルベッド。ぼんやりした意識下でわかるほど、身体に馴染んでしまった。「う……」無意識に、唇から小さな呻き声が漏れる。すると、すぐ傍らで、ハッとしたような気配がした。「美雨っ!」天井から降り注ぐ、眩しい灯りを遮る大きな身体。私に落ちてくる影。「あ……」一瞬、既視感が走った。だけど、潜在意識が働いて見せる、真っ暗な記憶ではない。記憶を失った私が、病院で初めて目覚めた時と同じ――。あの時も、夏芽さんはそばに付き添って、私の覚醒を待ってくれていた。「なつ、めさん……」ぼんやりしながら、自分でも確かめるように、彼の名前を口にする。夏芽さんは声を詰まらせて、身を乗り出してくる。そして、「美雨……」絞り出すような声を漏らして、私をぎゅうっと抱きしめた。彼の重みに、胸がきゅんと疼く。私は、広い背中に腕を回しながら、たった今まで見ていた夢――いや、記憶を心に深く繋ぎ留めた。「ごめんなさい、夏芽さん……」まだ覚束ない意識の中で、私は彼に謝罪をした。私を抱く彼の腕が、ビクッと震える。「どうして。どうして、君が謝る」か細い声で、聞き返された。「私が……身の程知らずに、夏芽さんとの恋に有頂天になったりしたから」「っ……」「お弁当の卵焼き。つまみ食いされて。『美味しい』って言われて浮かれて、『夏芽さんの分も作って来ましょうか?』なんて恋人気取り……」独り言みたいに呟きながら、私の脳裏にはその時の光景が浮かび上がっていた。夏芽さんと出会って、二ヵ月ほどの頃だ。私は彼にぶつけられる想いに戸惑いながらも、ゆっくり心を通わせるようになっていた。『絆される』なんてとんでもない。『恋人にはなれないままだった』なんて、絶対違う。私は、自分は夏芽さんには相応しくないと思いながらも、彼に愛される悦びに溺れていた。ちゃんとちゃんと『恋人』として、夏芽さんと一緒に過ごしていた。でも――。「私は、多香子さんを傷つけてたんですね……」私の首筋に顔を埋めた夏芽さんが、耳元でハッと息をのんだ。「あの時……多香子さんの存在すら知らずに、困惑するだけだった私に、彼女の方が傷ついた顔をしました」何故だろう。今まで全然思い出せなかったのに、今、目を閉じただけであの時の多香子さんが網膜に浮かび上がる。「それは……美雨のせいじゃない。許嫁
どんよりと濁った意識の中――。夏芽さんの声が、耳をくすぐった。『俺の家のことなら、ちょっと揉めるかもしれないけど、心配いらない』その声に、私はぼんやりと目線を上げる。上半身裸で、私を腕に囲い込んだ体勢で、彼が目元を綻ばせてはにかんだ。『でも……鏑木さん』『大人しく、はいって言って。それとも、俺が君をどれほど愛してるか、もっと激しく刻まれたいの?』『! ……はい』『よろしい。……でも、まだ離さないけどね』じんわりとした幸福感に走る、邪魔なノイズ。砂嵐が、ビジョンを遮る。『夏芽さん。今夜は、報告があるんです』続くのは、私のやや緊張した声だった。『その……実はですね。私、妊娠、したみたいで……』恥ずかしそうに、目を泳がせて『報告』する私。私の前にいるはずの、夏芽さんの表情は映り込まない。『困ります……か? それなら、堕ろした方が……』返事をしてくれないから、不安になってそう続ける。それを聞いて、やっと彼が反応を示してくれた。『ごめん! 突然で、実感湧かなくて』慌てたような返事をしながら、ぎゅうっと抱きしめてくれる。『堕ろすなんて、とんでもない。美雨、愛してる。君が俺の子を産んでくれるなんて、夢みたいだ』夢みたい――。初めてこういう関係に陥った時、彼が私を抱きながら口走った言葉が、脳裏を過ぎる。『結婚しよう、美雨』『は、い……』堪らない幸福感に身を委ね、私は彼の腕に両手をかけて、一言、それだけを返した。再び走る、耳障りなノイズ。そして、暗転――。場面は、切り替わっていた。『婚約者がいるのに、私に結婚しようなんて、どうして言えたんですか!?』一転して、不穏な空気。夏芽さんが切羽詰まった顔で、なにか言葉を挟もうとするのを、私は両手で耳を押さえて拒む。『酷い、大っ嫌い! もう私に近付かないで』私を宥めようと伸びてくる手を払い除けて叫び、なにかを投げつけて踵を返した。『美雨っ……!!』夏芽さんが、弾かれたように床を蹴って走り出す。私は、それを振り切るように駆けて行って――。『あっ……!』エスカレーターを駆け下りる途中で、足を滑らせた。『美雨っ!!』とっさに差し伸ばされた手に縋ろうと、腕を伸ばした。でも、届かない。どんどん遠退いていく。耳に聞こえるのは、ガンガンガンというけたたましい衝撃音。縋る物を見つけられないまま、身体が転がり落ちる。凍りついた顔をした夏芽さんが、小さくなってい
病院の正門を出た時、空は夕刻を迎えてオレンジに染まっていた。完全にショートした思考回路が、まだ働き出してくれない。私はぼんやりと足を踏み出した。力を入れたはずの足に、驚くほど神経が通っていない。ふわふわと浮いているみたいで、感覚が覚束ない。それでも、前に進んでいるから、私はちゃんと歩けていたんだろう。そこに、「美雨!」低く鋭い声が、意識に割って入った。私はそれに反応して、緩慢に顔を上げた。「美雨」もう一度、私を呼ぶ声。視界に、こちらに向かって走ってくる夏芽さんが映った。その姿を捉えた途端、なにか熱いものが胸に込み上げてきた。「っ……」せり上がる嗚咽を抑え切れず、私はその場にしゃがみ込んでいた。「美雨……?」夏芽さんの困惑した声が、近付いてくる。「どこか調子悪いか? 病院に行くために早退したって聞いて、驚いて……」そう、彼は室長から私の早退を聞いて、飛んできてくれたのだろう。まだ日の入りを迎えていない空。業務時間中だ。私を支えて立ち上がらせてくれる彼に、私は弾かれたように抱きついた。「っ……美雨?」虚を衝かれた様子で、彼の身体が一瞬強張る。「夏芽さ……私。私……」彼の胸に顔を埋めて、なにを言っているかわからないまま、泣きじゃくった。「どうした? 美雨。ここじゃ人目につくから、早く車に……」肩に置かれた手に力がこもるのを感じながら、私は激しくかぶりを振った。「責任……ですか?」掠れた声で、必死に短い質問を紡ぐ。「え?」「愛してるなんて、嘘。プロポーズを考えてくれたのは……妊娠の責任……?」「……!」くぐもった声でも、ちゃんと彼に届いたのは、頭上で息をのむ気配でわかった。その反応が、私の胸を鋭く貫く。「酷……い。酷い、夏芽さ……」いつかのように、彼を詰った。でも、身体に回る腕を解き、突き放す力はなく、私はがっくりとうなだれた。そして。「……美雨? 美雨っ!」切羽詰まったような声が、何度も私を呼ぶのを聞きながら、意識を失った。
多香子さんが帰った後、私は居ても立っても居られず、秘書室長に早退を申し出た。もちろん、病院に行くためだ。いくら彼女に言われたからって、体調が悪いわけでもないし、特段急ぐ受診でもない。また二週間後に次の予約を入れているから、その時でも構わない。でも、落ち着かなかった。こんな気持ちでは、仕事に集中できないし、なにより夏芽さんの前で平静を装うことができない。室長から許可を得て、私は夏芽さんが戻ってくる前にオフィスを出た。うちのオフィスビルから、総合病院までは電車で三駅。平日の午後とは言え、わりと混雑している電車で、私はドア横の狭いスペースに背を預けた。車窓を飛ぶように流れていく景色を、ぼんやりと視界に映す。なにも考えられないほど、思考回路は凍りついているのに、心臓だけが速いペースで打ち鳴っていた。電車を降りて改札を抜けると、ついこの間の土曜日に歩いた道を、病院に向かってやや小走りした。病院に着くと、受診を終えて出てくる人に逆行して、外来棟に入った。午後の外来には、中途半端な時間だ。これから受付をする患者さんは少なく、自動受付機付近は閑散としている。私は受診手続きをして、案内表示を頼りに、足を踏み入れたことのない、産婦人科外来の待合ロビーに進んだ。診察の順番を待つ女性たちが、長いベンチ椅子を埋め尽くしている。私は初診だし、予約もしていない。だから、相当待つことになると覚悟した。だけど、他科とは言え、ついこの間まで入院患者だったせいか、ほんの一時間ほどで私の順番が回ってきた。「こんにちは、黒沢美雨さん。調子はどうですか?」狭い診察室に入ると、白衣を着たわりと若い女医さんが電子カルテから目を外し、椅子を回転させて私に向き合った。「え? あ、あの……」自分でも、受診の目的をなんと言えばいいかわからずにいたから、『調子』を問われて口ごもった。「生理、来ましたか?」そう問われて、ますます戸惑う。「え、えと……?」なんだか、『初診患者』に対する質問じゃない気がする。産婦人科といったら、初診患者は妊娠を疑っているか、旅行を控えて生理周期をずらす薬を処方してもらうか……私にはそのくらいしか考えつかないけど、そのどちらにも、質問がそぐわない気がする。「入院中は、脳外科病棟にお任せしてましたが、情報は共有してもらっています。腹痛もなかったようだし、不正出血の報告もなし。腹部エコーやCT画像か
お昼の休憩中、夏芽さんが座っていたソファを多香子さんに勧めて、私はコーヒーを淹れた。ローテーブルにソーサーとカップ、ティースプーンを置いて、彼女と向かい側のソファに回って腰を下ろす。「ありがとう。いただきます」多香子さんはそう言って、ブラックのままコーヒーを一口飲んだ。綺麗なネイルが施された指を優雅に動かし、カップをソーサーに戻す。そして、ふと目線を上げて私を見据えた。「夏芽から聞いたけど、この一年ほどの記憶を失ってるんだとか……。私と会ったことも覚えていないということね?」細い足を妖艶に組み上げ、早速切り出してくる彼女の前で、私はゴクッと喉を鳴らした。「私がこのビルのエントランスで、エスカレーターから落ちた時……多香子さんと一緒にいたことは知ってます」「え?」「入院中……病院に来てくれましたよね。その時、鏑木さんと話していたのを……聞いてしまいました」私がほんのちょっと言い淀むと、彼女は「あら」と言葉を挟んだ。そして、なにか思い当たった様子で、軽く口角を上げる。「それじゃあ、私と夏芽がキスしたのも、見られた……ってことね」「っ」まさに、あの時の光景が、脳裏を過ぎっていたところだ。私はグッと詰まってから、なんとか虚勢を張って胸を反らした。「鏑木さんは、からかってるだけだと仰いました。多香子さんとは許嫁だったけど、婚約は解消しているし、もともとお互いに恋愛感情もないって」「夏芽の記憶も忘れてるわりに、ムキになるのね。……ああ、それとも、その部分だけは彼から吹き込まれて、また手籠めにされた?」彼女は皮肉気にクスクス笑いながら、そう突っ込んでくる。その言葉に、私は頬にカッと朱を走らせた。「手籠めなんて……! 変な言い方しないでください。そ、それに、夏芽さんは私に、なにも吹き込んだりしてませんっ」そう、彼はむしろ、『嘘しかつけない』と言って、私が自分で思い出すのを待ってくれている。思わず身を乗り出し、唇を戦慄かせながら、多香子さんを睨む。「そう。それじゃ、記憶を失っても、また惹かれ合った……とでも? ロマンティックね」彼女は興醒めといった表情を浮かべて、足を解いた。深くソファに背を預け、胸の前で腕組みをする。私の方は、一瞬にして煽られた興奮を、抑えられない。中途半端に浮かしかけていた腰をソファに戻し、膝の上でスカートを握った。「婚約解消……ね。いったい誰のせいだと思ってる
夏芽さんが出ていって十分ほど過ぎた時、総合受付から電話が入った。多香子さんの来訪の連絡だ。私は、エレベーターで直接このフロアまで上がってもらうようお願いして、デスクを立った。もちろん、エレベーターホールまで、彼女を迎えに出るためだ。ホールには、六基のエレベーターがある。その内、どのドアが開くのか――。私はさらに緊張感を強めながら、視線を走らせた。やがて、一番奥のドアが開いた。相変わらずシックなスーツ姿の多香子さんが、姿を現す。私の胸が、ドクッと沸くような音を立てた。彼女は、ドアを一歩出たところで、一瞬方向を確かめるように逆側を向いてから、ゆっくりこちらに顔を向ける。その目が、私の上で留まった。私は、胸いっぱいに広がった緊張を必死に抑えて、一度深々と頭を下げた。ゆっくり背を起こしてから、「突然お呼び立てして、申し訳ございません」と謝罪をした。「いいえ。お招きありがとう」多香子さんは余裕たっぷりにそう言って、長い髪を掻き上げた。そのまま、高いヒールをややカーペットに沈ませて、私の方に歩いてくる。距離が狭まるにつれて、一歩後ずさりたくなる衝動と闘う。なんとかその場に踏み止まる私の前まで来て、彼女はピタリと足を止めた。「改めまして。島内(しまうち)多香子と申します」「島内……さんですか。鏑木、ではなく?」わりと丁寧に自己紹介してくれた彼女に、私は反射的にそう訊ねていた。「ええ。私は鏑木の分家筋なの。……って、私の名字に反応するってことは、本当なのね。記憶喪失って」「……っ」真っ向から確認されて、私はほんの一瞬怯んだ。だけど、それを気取られないように、思い切って胸を反らす。「なつ……鏑木さんは、現在不在です。ここではなんですから、執務室にどうぞ」そう言って、多香子さんの前に立って、執務室に誘導すべく廊下を歩き出した。
そして迎えた水曜日――。私が作ったお弁当を、執務室で二人で食べながら休憩時間を過ごした後、シャツの左袖を摘まんで腕時計で時間を確認した夏芽さんが、ソファから立ち上がった。「さて、と。じゃあ、そろそろ行ってくるよ」頭の後ろで両肘を組み、軽く胸を仰け反らせる。私は、ソファの前のローテーブルでランチボックスを片付けながら、「はい」と返事をした。「行ってらっしゃい。お戻りは、三時頃……ですよね?」私も自分の腕時計に目を落とし、念を押すように確認する。現在、午後一時。一社当たりの滞在時間は、だいたい三十分ほどのはずだ。「ああ」と短い返事が来た。「俺が留守の間は、いつも通り、電子申請書類の承認手続きを頼むよ」夏芽さんが目を通した書類は、『決裁』と『差し戻し』の二つのステータスに分けて、システムに一時保存されている。膨大な書類を審議しなきゃいけない彼に代わって、申請部署への差し戻しや、社長決裁に回付という電子手続きは、私が行っている。彼は私に業務指示を出しながら執務机に回り、椅子にかけていた上着を取り上げ、サッと袖を通す。「はい」「じゃ、留守を頼む」大きなサイズの手帳とスマホを手に、颯爽と執務室を出ていった。ゆっくりとドアが閉まり、その背が見えなくなるまで見送って、私は胸に手を当て、グッと拳を握りしめた。二日前、夏芽さんに内緒で湊さんに依頼した、多香子さんとの面会の約束。彼女はこの後間もなく、ここに来てくれる。会うのは私一人だけど、表向きは夏芽さんを訪問という体になっている。ビルのグランドエントランスの総合受付からは、秘書室を通さず直接ここに連絡が入るはずだ。強い緊張で、胸の拍動がやや速い。落ち着かない気分で自分のデスクに戻り、午後の業務を始めたものの、何度も時間を確認した。