雅彦は翔吾を別の清潔な部屋に運んだ。ちょうどその時、使用人が医薬箱を持ってきた。「君たちは出ていけ、僕がやるから」雅彦は手を振ってそう言った。使用人たちはその言葉を聞いて、恭しく退室した。部屋には二人だけが残った。雅彦は傷口を丁寧に消毒し、消炎薬を塗ってから、しっかりと絆創膏で包み込んだ。翔吾は雅彦の一連の動作をじっと見つめ、しばらくしてから顔を上げて聞いた。「さっき言ったこと、本当なの?」翔吾は、ついさっきまで感情が崩壊しかけていた。生まれてからこれまで、桃とこんなに長い間離れて過ごしたことは一度もなかった。次に会えるのがいつになるかもわからない状況は、彼にとってとても不安だった。さっき、雅彦が「落ち着け、ママの元に戻れるようにする」と言わなければ、翔吾はまだ大暴れしていたかもしれない。「僕が言ったことは、いつだって本気だ」雅彦は真剣な口調で答えた。「君のこと、信じてもいいの?」翔吾は小さくなった声で、弱々しく雅彦を見つめていた。さっきのような激しい勢いはもう感じられなかった。翔吾はまだ五歳の子供だった。こんな事態に直面すれば、誰かに頼りたくなるのは当然だった。「他の人が君を助けられるの?」雅彦は翔吾を見つめ、そう問いかけた。翔吾は唇を噛みしめた。確かに、雅彦以外に自分を助けてくれる人はいなかった。彼はしばらく躊躇した後、手を差し出して言った。「僕はどれくらいでママに会えるの?」雅彦は眉をひそめた。「できるだけ早く君を戻すつもりだ。ただ、その前に、ちゃんと僕に協力してくれ」翔吾は渋々ながら、最終的に頷いて言った。「わかった、約束する。でも、もし君が約束を破ったら、僕は絶対に許さない」雅彦は笑みを浮かべ、小さな翔吾の頭を軽く撫でた。何かを言おうとしたところで、外からドアをノックする音が聞こえ、永名の声が響いた。「どうだ、翔吾の傷はちゃんと処置できたか?」その声を聞いた途端、翔吾は緊張し始めた。雅彦は彼の背中を軽く叩いてなだめた。「彼らが嫌なのはわかってる。でも、彼らは君の祖父母だ。君に危害を加えることはない。この間は、彼らと上手くやって、心を開いてもらうんだ。そうすれば、ママに会えるチャンスも増えるだろう」翔吾は考え込んだ後、ようやく不満げに頷いた。小さな翔吾
永名は翔吾を抱いて美穂の部屋に向かった。すると、ちょうど部屋に入った直後に美穂が目を覚ました。永名は翔吾の背中を軽く叩いた。すると翔吾は理解して「おばあちゃん」と呼んだ。美穂はその声を聞くと、緊張していた表情が少し和らぎ、翔吾の手を握ってベッドのそばに座らせ、しっかりと彼の顔を見つめた。永名はこの光景を見て、心の中に少しばかり安堵の表情が浮かんだ。かつて美穂に負わせた多くの苦しみがあったが、今こうして彼女が幸せそうにしていた姿を見て、彼の心も少し救われた。一方で、父母と翔吾の和やかな様子を見ても、雅彦はどうしても喜べなかった。なぜなら、この一見平穏で幸福そうな場面の裏で、桃がどれほどの苦しみを味わっているか、彼にはよく分かっていたからだ。それでも雅彦は何も言わず、静かに部屋を出ていった。永名はその様子に気づいていたが、何も言わなかった。翔吾が今彼らの手中にある以上、桃がどう思おうと、雅彦の心がどう揺れようと、何の意味もなかった。もしかすると、この出来事を機に、雅彦と桃の絆が完全に断ち切られるかもしれないと、永名は考えていた。その頃、桃は浴室に長い間こもっていた。彼女は頭がまだ混乱していて、お湯が冷たくなるまで湯船に浸かっていた。そのため、皮膚は白くふやけていた。心配した美乃梨が、何かあったのではないかとドアをノックしてくれたおかげで、桃はようやく我に返った。桃は浴槽から立ち上がったが、頭が少しふらついたため、壁に手をついて倒れないようにした。桃はドアを開けて、美乃梨が焦った様子で自分を見つめていたのに気付いた。浴室には湯気すらなく、桃が冷たい水にどれだけ長く浸かっていたのかは分からなかった。美乃梨は心配して、「桃、翔吾のことは本当に心配だと思うけど、体を壊してしまったら、菊池家と戦うどころか何もできなくなるわよ」と言った。そう話すうちに、美乃梨は自責の念にかられ、目が赤くなった。「全部私のせいだよ。もし私が雅彦に翔吾の出生のことを話していなかったら、こんなことにはならなかったかもしれない」美乃梨は桃の最も親しい友人として、彼女のこんなに落ち込んだ姿を見たのは辛くて仕方なかった。桃は美乃梨の自責の言葉を聞き、唇を強く噛みしめ、彼女を抱きしめた。「あなたのせいじゃない。もしそのことを言わなか
桃は頭の中で、いくつかの有効そうな手段を思い浮かべた。どんな方法であれ、挑戦してみる価値があると考えた。そう思うと、桃の気持ちは先ほどより少し落ち着き、すぐにパソコンを取り出し、地元で最も評判の良い弁護士事務所やメディアを調べ始めた。情報を書き留めている最中、桃の携帯電話が鳴った。画面を見ると、発信者は雅彦だったのに気付いた。桃は考える間もなく電話を切った。やっと冷静さを取り戻したばかりの彼女の心は、再び不快感でいっぱいになった。この男、まだ自分に連絡する資格があるの?彼は自分がまだ彼の甘い言葉に騙されると思っているのだろうか?雅彦はすでに車で美乃梨の家の前まで来ていた。桃の性格を考えるなら、今は友人の家にいる可能性が高かった。雅彦はすぐに彼女を訪ねたい衝動に駆られたが、思いとどまった。今の桃は自分に会いたいとは思っていないだろう。彼女の感情をこれ以上刺激するつもりはなかった。そこで、雅彦はまず電話をかけることにした。しかし、案の定、桃は電話に出なかった。雅彦は苦笑した。ようやく築いたわずかな信頼が、またしても崩れてしまったかのようだった。仕方なく、雅彦は桃にメッセージを送った。「今日のことは本当に申し訳ない。でも、翔吾は必ず君に返すことを約束する。絶対に君たち親子を引き離しはしない。もう一度だけ信じてくれ」桃はメッセージを一瞥し、失笑した。雅彦の約束など、まるで無意味に思えた。帰国前、彼はあれほど翔吾を取り戻すと大言壮語を吐いていた。だが、いざ彼に助けが必要な時、雅彦は永名の背後に隠れ、顔すら見せようとしなかった。桃には、雅彦があまりにも偽善的に思えた。彼は美穂の病気のために翔吾を奪おうとしていたくせに、自分の前では「全力を尽くしている」とでも言わんばかりの態度を取っていた。桃はふと、これが菊池家全体の計画なのではないかと疑った。雅彦が彼女を引き止めている間に、翔吾を菊池家に慣れさせ、彼女が息子を取り戻す可能性をどんどん低くしようとしているのではないか、と。本当に卑劣極まりなかった。桃の瞳には憎しみが浮かんだ。彼らがこのままうやむやにしようなどとは絶対に許さなかった。彼女は冷淡に雅彦に返信した。「もう芝居はやめて。もし翔吾を返さないなら、私は破滅覚悟で戦うわ。あなたの思い通りにはさ
雅彦は玄関の前に立ち、インターホンを押してから、心が強く揺れていた。雅彦は桃に会い、彼女が無事かどうか確認したかったが、同時に彼女の憎しみに満ちた目を見るのが怖かった。こんな気持ちは、雅彦にとって初めてのことだった。少し待っていると、内部から足音が聞こえた。雅彦は深く息を吸い込んだ。その瞬間、ドアが開いた。雅彦が何か言おうとした瞬間、桃は手に持っていたグラスいっぱいの熱湯を彼の顔に浴びせた。雅彦は予想外の出来事に驚き、動けなくなった。桃は冷たい目で彼の様子を見つめ、「消えろ」と冷酷に言い放った。そう言うと、桃はドアを閉めようとした。雅彦は、自分の髪や服からまだ水が滴っている状態であるにもかかわらず、急いで手でドアを押さえた。「待ってくれ、桃。君が怒っているのは分かってる。だから、殴ってもいい、罵ってもいい。僕に全部ぶつけてくれ、頼むから」雅彦は本当に心配していた。翔吾を失ったことで、桃が精神的に追い詰められているのではないかと。彼は、桃が彼に怒りをぶつけることで少しでも楽になるなら、それで構わないと思っていた。彼女がすべてを心に溜め込み、無関心を装っていることの方が危険だと感じた。しかし、桃はその言葉に冷笑し、ドアを閉める力をさらに強めた。「あなたを殴るとか、罵るとか、そんな勇気が私にあると思う?菊池家の総裁ともあろう人が、よくそんなことが言えるわね。それとも、また何か裏があるの?」桃の笑みはさらに皮肉を帯び、何かに気づいたかのように言った。「もしかして、誰かにここで写真を撮らせてるんじゃない?もし私が本当に手を出したら、それを理由に私を刑務所送りにするつもりでしょ?そうすれば、翔吾の親権なんて二度と争う資格がなくなるものね、そうでしょ?」雅彦は桃の表情を見て、胸が痛んだ。彼女は笑っていたが、その笑顔は泣いているよりも痛々しかった。まるで傷ついた小動物のように、鋭い言葉を武器にして自分を守っているかのようだった。「違う、桃、聞いてくれ、僕は......」雅彦は焦って説明しようとしたが、その瞬間、手の力を少し緩めた。桃は勢いよくドアを閉めた。雅彦は、ドアが自分の手に挟まるのではないかと反射的に手を引っ込めたため、指を挟まれる危機を免れた。ドアが大きな音を立てて閉まり、その向こうから桃のかす
雅彦はそう言い残して、一歩一歩この場を後にした。桃の先ほどの姿を思い出すと、彼の胸は締めつけられるように痛んだ。彼女が言ったことは、確かに間違っていなかった。彼は彼女の運命における厄災のような存在で、彼と関わることで良いことは何もなく、もたらされるのはただの痛みだった。雅彦は車に戻ったが、すぐに車を発進させることはせず、桃がいた部屋の窓を見上げた。薄暗い明かりの中、彼は桃がカーテンを閉めた姿を目にした。彼女に「出て行け」と言われたものの、心配で離れることができなかった。ここにいれば、少なくとも何かあった時にすぐに対応できる。雅彦はそう思いながら、タオルを取り出して体についた水を拭いた。雅彦の視線はその窓に釘付けになっていた。室内の柔らかな灯りは、この闇夜の中で唯一の光のように感じられ、心にわずかな安らぎをもたらした。翌朝、桃は目覚めて洗面所へ向かい、鏡の前に立った。鏡に映った自分の目の下にくっきりと黒いクマができていたのを見て、思わずため息をついた。昨夜、美乃梨の催促で早めに寝床に入ったものの、翔吾のことを考えるとどうしても眠れず、夜通し悶々と過ごし、ようやく朝を迎えた。夜が明けるとすぐに起き上がり、時間を無駄にしないように急いで準備を済ませた。身支度を終えると、桃は美乃梨に自分の行き先を書き残して、急いで家を出た。朝早かったため、通りにはほとんど人影がなく、桃は急ぎ足で道路脇に向かい、昨日見つけた弁護士事務所へ行くためにタクシーを捕まえようとした。ふと道路脇を見ると、目立つ高級車が停まっていたのが目に入り、桃の胸が一瞬詰まった。この車、もしかして雅彦のものだろうか?もしかして、昨夜彼はずっとここにいたのか?そう思った瞬間、タクシーが目の前に停まった。桃はその車から視線を外した。雅彦の性格を考えれば、昨夜あれだけ酷い目に遭ったのに、まだここにいるとは思えなかった。きっと自分が考えすぎただろう。桃はそれ以上考えることなく、運転手に行き先を伝え、車の中で目を閉じて休んだ。一方、雅彦も車内でほとんど一睡もできず、桃が外に出てきたのを見つけ、彼女がこちらに一瞬目を向けたことで心臓が早鐘を打つように鼓動を速めた。しかし、結局桃は何事もなかったかのようにその場を去っていった。雅彦は複雑な思いを抱えな
桃があまりにも快く費用を払うと言ったので、弁護士の表情は一層親しみを帯びた。「では、詳しい状況をお聞かせください」桃は、菊池家が翔吾を奪い、親権を放棄するよう自分に強制したことを一から十まで説明した。弁護士は最初リラックスした顔をしていたが、桃が「菊池家」と言った瞬間、その顔は一変し、妙に厳しい表情になった。彼は桃を一瞥し、「あなたの言うのは、菊池家があなたの子供を奪い、あなたが菊池家に後継者を産んだということですか?」桃は眉をひそめながら答えた。「その通りです」すると、弁護士の顔に皮肉な笑みが浮かんだ。誰もが知っているように、菊池家の雅彦は女性に興味がないとされ、多くの上流階級の女性たちが彼の子供を産もうと願っても失敗していた。この普通の服を着た女性がそんなことを言うなんて、正気なのか?と彼は疑いを抱いた。もし彼女がそんな力を持っているなら、どうして断るはずがあるだろう。もし彼女の息子が本当に菊池家の後継者になるなら、彼は未来の億万長者だ。弁護士は自分の貴重な時間が無駄にされたと感じた。「どうやって雅彦の子供を産んだのか知りませんが、たとえそれが事実だったとしても、この都市では誰もその裁判を引き受けることはないでしょう」桃は怒って立ち上がった。「どういう意味ですか?いくらでも弁護士費用は払うって言ったでしょう?」「これはお金の問題ではありません。あなたが言った通り、お子さんはすでに5歳です。法律上、母親が無条件に親権を得られるのは授乳期の子供に限られます。明らかにその条件を満たしていません。では、あなたは菊池家と競って、子供に提供できる環境を整えられますか?菊池家が提供できるものを、あなたは与えられますか?」桃は言葉を失った。「確かに菊池家のような贅沢な環境は提供できませんが、私は彼に不自由なく暮らさせ、母親として愛情を注ぎ、幸せに育てることはできます」「ですが、菊池家は父親としての愛情も与えることができます。それに、あなたのお子さんが本当にそちらの生活を嫌っていると確信できますか?」桃は沈黙した。翔吾は菊池家での生活を気に入るだろうか?菊池家のやり方からして、物質的に不足することはなく、彼が望むものはすべて手に入るだろう。桃はそれを与えることはできなかった。彼女は日常的に甘やかすことを避
桃は顔色を悪くしてしばらくその場に座っていたが、最終的には立ち上がり、このビルを後にした。ここにいても何も解決しないことがわかっていたので、他の方法を考えるほうが良いと判断したのだ。桃は街を歩きながら、今度はメディアに電話をかけ始めた。法律的な手段が通じないなら、メディアを通じて菊池家の行動を暴露するしかないと思った。菊池家は名門だから、親権をめぐる家庭内の問題が世間に広まることを嫌がるだろう。桃はある新聞社に電話をかけ、菊池家の子供奪取に関するニュースを公表したいと伝えた。最初、新聞社はその話に興味を示したが、菊池家の名前を聞いた瞬間、態度が一変した。「お嬢さん、あなたそんなに甘く考えているんですか?菊池家を相手にするなんて。菊池家に関連するニュースは、すべて発表前に審査を受ける必要があるんです。手助けはできません」記者はスクープを望んでいたが、自分の身を守ることが何よりも大切だと理解しており、躊躇なく桃を断り、電話を切った。桃はその返答に失望し、菊池家の影響力がここまで広がっているとは思っていなかった。それでも諦めず、桃は他のいくつかのメディアにも連絡を取ったが、結果は同じだった。どのメディアもこの件に関わることはできないと断られた。最後の電話をかけ終えたとき、桃はどのメディアも彼女の話を取り上げてくれないことを知り、深い無力感に襲われた。そして、永名が自信満々に話していた意味がようやく理解できた。彼にはその自信を裏付けるだけの力があった。彼がその気になれば、自分のような普通の人間には抵抗する余地すらないのだ。桃は再び、圧倒的な無力感を感じた。初めてその感情を抱いたのは、母が病気になり、日向家が医療費の援助を拒んだときだった。彼女の目は虚ろになり、重い足を引きずるようにし、目的もなく歩き続けた。頭の中は空っぽで、何も考えることができず、魂が抜けたかのようだった。街をさまよいながら歩いている時、突然、誰かが桃の肩にぶつかった。その衝撃で桃はバランスを崩し、地面に倒れ込んだ。ぶつかった相手は慌てて桃を助け起こし、「ごめんなさい、わざとじゃないんです。大丈夫ですか?」と謝った。桃はぼんやりとしたままで、相手の言葉に反応することができなかった。その様子を見た相手は戸惑いながらも、再び謝ってから急いで
桃は「うん」と答え、翔吾の様子を少し尋ねた後、しばらく話して電話を切った。翔吾が菊池家で特に不自由なく過ごしていたと知り、桃は少し安心した。本来なら喜ぶべきことだったが、桃の心には逆に苦しさが増していった。桃はふと、あの弁護士の言葉を思い出した。菊池家が与えることのできる環境は、自分のような普通の人間では一生かかっても提供できないものだった。翔吾はその生活に慣れ、やがてそれを好きになるかもしれなかった。もしかしたら、いつか翔吾は自分と一緒にいたいとは思わなくなるのだろうか?そう考えると、桃の胸が締め付けられるように痛み、息苦しさに襲われた。彼女は胸元の服をつかんでいたが、その感情をどこにぶつければいいのかわからなかった。桃は頭を垂れ、長い前髪が目を覆った。彼女の表情が誰にも見えなかった。しばらくして、彼女は突然笑い始めた。しかし、その笑顔は泣くよりも見ていられないほど痛々しかった。笑いながらも、涙が止められずに次々とこぼれ落ちた。通りすがりの人々は、憔悴しきった桃の姿を見て驚き、距離を取り、誰も近づこうとはしなかった。そのとき、ひとりの小さな子供が通りかかり、桃を指差して「ママ、あのお姉さん、なんだかすごく悲しそうだよ」と尋ねた。「そんなもの見ちゃダメよ。近づいたら連れて行かれるわよ!」子供の母親は桃をちらりと見て、急いで子供の手を引いてその場を立ち去った。桃はその言葉にようやく我に返り、ふと顔を上げた。遠くのショーウィンドウに映った自分の姿を見て、愕然とした。こんな自分を見て、あの母親の反応も無理はなかった。目は泣き腫らして、髪は乱れて、顔は青白く、目の下には濃いクマができていて、まるで精神病にかかっている人間のように見えた。こんな姿で、どうして翔吾を取り戻す資格があるだろうか?その頃、雅彦はハンドルから顔を上げ、自分が眠り込んでいたことに気がついた。雅彦は桃の乗った車を追ってここまで来たが、彼女がどこに行くのか確認しようと思っていたところで、うっかり眠ってしまったのだ。昨夜、雅彦は車内で一睡もできず、タバコを一箱空けても眠れなかった。どんなに頑丈な彼の体でも限界があったのだ。雅彦は顔をしかめ、桃がもう出て行ったのか、それともまだ中にいるのかを確認するために車から降り、ビルの中に入った。受
雅彦に解放されたのは、一時間経った後のことだった。桃は疲れ果て、両腕すら上がらないほどぐったりしていた。この男が本当に浮気をしているかどうか、今はもう察しがついていた。桃は確信している――この男はあらかじめ罠を仕掛けて、自分がそこへ飛び込むのを待っていたに違いない。なんて狐みたいに狡猾なやつなんだろう。桃は心の中で、雅彦のことをさんざん罵っていた。雅彦は、桃が自分を睨んでいるのに気づき、口元をつり上げた。「どうした?どこか気に入らないところがあるのか?もう一度確かめてみるか?」桃はぎょっとして急いで首を横に振る。すでに身体がバラバラになりそうなほど疲れきっており、これ以上続けられたら本当に気を失いかねない。いったいどうして、この男はこんなに体力が有り余ってるのだろうか……これ以上また暴れられたらたまらないと思った桃は、さっさとベッドを降りようとした。「体がベタベタして気持ち悪い……ちょっとお風呂に入ってくる」そう言ってベッドから下りようとしたものの、足に力が入らず、あやうく転びそうになってしまった。雅彦はそれを見て、呆れたように首を振った。「ここで待ってろ」そう言い残すと、雅彦はバスルームへ行き、湯を張り始めた。準備が全て整うと、彼は戻ってきて桃をひょいと抱き上げた。桃は驚いて何度かもがいたものの、その程度の力では雅彦には効かず、最後には抵抗をやめてしまった。どうせ彼が何をしようと、自分にはどうにもできないのだ。こうして抱えられたまま浴槽へ下ろされると、湯の温かさが全身を包み込み、それまでの不快感が一気に薄れていった。桃は思わず目を細め、束の間の心地よさを堪能した。とはいえ、こんなふうに雅彦に見つめられながら風呂に入るというのは、やはりどこか落ち着かない。桃は目を開けて雅彦を見ると、「一人で大丈夫だから、あなたは出てって」と言った。雅彦は一緒に湯につかりたい気持ちもあったが、桃の白い肌にところどころ散らばる自分の痕跡を見ると、また妙に体が熱くなるのを感じた。もし二人で入れば、再び燃え上がりそうだ。桃は病み上がりで、これ以上ムチャさせるわけにはいかない。そう考えた雅彦は内心の衝動を押さえ、「いいか、あんまりのんびり浸かって寝ちまうなよ。何かあったらすぐ呼べ」とだけ言って、バスルームを出ていった。桃はこくり
雅彦は手にしていたものをそっと置き、真っ赤に染まった桃の顔を見つめながら、わざと何も知らないふりをして言った。「なんでそんなに顔が赤いんだ? ここ、別に暑くないよな?俺はただ、事実を説明しただけなんだけど。まさか、おまえ変な想像でもしてるんじゃないのか?」雅彦はゆっくりと身を寄せ、桃の耳元にふっと息を吹きかけた。桃は彼のその仕草に、全身がびくりと震えた。電流が身体の内側を駆け巡るような、甘く痺れるような感覚が一気に広がった。思わず椅子からずり落ちそうになったところを、雅彦がすかさず手を伸ばし、彼女の腰をしっかりと抱きとめた。けれど、この体勢では、ふたりの身体がぴったりと密着してしまい、桃には彼の落ち着いた力強い心音が、はっきりと伝わってきた。彼の身体から漂う匂いが鼻をくすぐり、頭の中では――あのとき電話越しに聞いた、低く荒い息遣いがふたたびよみがえっていた。元々ぐちゃぐちゃだった脳内は、さらに混乱して、もう何も考えられそうになかった。雅彦は目を細め、桃の戸惑うような表情を見て、少し芝居がかった声で言った。「ジュリーの企みには気づいてたけど、あの薬一応、飲まされたんだよな。ま、俺の自制心が強かったから、そうじゃなきゃ、どうなってたことか……」桃はそれを聞いて、思わず息を呑んだ。「えっ薬って、まだ体内に残ってるってこと?それ、大丈夫なの?やっぱり病院、行った方がよくない?」彼女の焦りを感じた雅彦は、優しく笑いながら、桃の手を取り、自分の胸元へそっと当てた。「こういうのって、病院じゃ治らないこともあるんだよ。でも、お前が“解毒”してくれたら、もしかしたら治るかもしれない」桃は唇を噛んだまま、何も言えずに下を向いた。雅彦が「冗談だよ」と言いかけた瞬間、彼女が小さな声でぽつりと呟いた。「あなたの身体のためなら、別にいいよ」雅彦は一瞬、自分の耳を疑った。雅彦が呆然としている間、桃はさっきの勢いで思わず言ってしまった自分の言葉を思い出し、今すぐ地面に穴を掘ってでも隠れたくなるような気分だった。私は一体なにを口走ってるの?雅彦はようやく状況を理解して、思わず笑みがこぼれた。もうその時には、食事どころじゃなかった。彼は桃の手を取り、そのまま車へ乗せると、一気に滞在中のホテルへと向かった。こんなに急いで動く雅彦を、桃は初めて見た。気づ
桃があっさりと沐のことを「いい人だけど、それだけ」と割り切っている様子を見て、雅彦はようやくそのわずかなもやもやを拭い去った。「安心しろ、俺が止めなかったってことは、もう作戦があるってことだ。だから、待っててくれ」「え、どういう作戦?教えてよ」雅彦が余裕たっぷりの表情をしているのを見て、桃は好奇心に駆られ、食い下がるように問いかけた。「今はまだ内緒」雅彦はさらりとそう言うだけで、詳しく話す気配は全くない。桃は少しがっかりした様子を見せたが、ふと何かを思い出したように言った。「まさかとは思うけどジュリーに色仕掛けとか使うつもりじゃないよね?今日みたいなこと、もう二度とごめんだから」彼が浮気まがいのことをしたわけではないとわかってはいても、あの妖しげな声を電話越しに聞かされたときの衝撃は相当なものだった。桃は想像することすらできなかった。もし本当に、自分の目の前で雅彦の裏切りを目にしてしまったとしたら、自分は、果たしてどうなってしまうのだろう。彼との日々は、ようやく手に入れたかけがえのない幸せ。けれどそれは、まるで石けんの泡のように脆く、少しの衝撃にも耐えられないほど儚いものだった。そんな桃の不機嫌そうな顔を見て、雅彦はひょうきんな態度をやめた。「さすがにそこまで落ちぶれちゃいない。俺が総裁の立場にいて、女性相手に色仕掛けなんてするわけないだろ。そんなことするくらいなら、最初から商売人失格だろ」雅彦の説明を、桃は無表情のまま黙って聞いていた。その表情を見た雅彦は、思わず焦りを感じた。いつもなら、桃が嫉妬してくれる姿をかわいらしいとさえ思っていた。だが、もしふたりの間に、信頼の綻びが生まれてしまうのだとしたら、それは決して笑いごとでは済まされない。「誓って言う。もし俺が少しでもおまえを裏切ろうなんて思ったら、すぐに雷に打たれて、車に轢かれても構わない」雅彦が勢いづいて誓いかけたところで、桃は慌てて口を塞いた。「ばか言わないでよ!この前だって車のトラブルがあったばかりじゃない。そんな縁起でもない誓いしないで」桃がようやく怒りを収めたのを見て、雅彦はほっと息をついた。彼女の手をそっと握ると、軽くキスを落として、穏やかに言った。「俺は、何もやましいことなんてしてない。だから、怖がる理由なんてないだろ?」そのまっすぐな視線を
沐は昔のことを思い出して、ぎゅっとカップを握りしめた。あの日――婚約式の前夜、なぜか見ず知らずの女と同じベッドで目を覚まし、翌朝になって現場を押さえられてしまったのだ。そのときジュリーはひどく傷ついたフリをしてみせた。まだ彼女の正体を知らなかった沐は、自分の過ちを償うために、手持ちの株を譲り渡した。「今後は裏切ることはない」と証明するつもりだったのだ。けれど、実はジュリーはずっと前から計画を練り、会社の株を買い集めていた。そこに沐が譲った株が上乗せされ、一気に大株主の座へ。トップに就任するや否や、ジュリーは早瀬家の役員を一掃して自分の腹心を入れ、さらに様々な手段で早瀬家の残りの株も売らせるよう仕向けていく。百年続いた一族の会社は見る間に崩壊し、沐が事態の異変に気づいたときには、すでに手遅れだった。会社は乗っ取られ、父親は続けざまのショックで脳出血を起こし、亡くなってしまった。沐は何もかも失い、悲惨な状態でこの地を去るしかなかった。それから久々に戻ってきたのが数日前。たまたま参加したパーティーで、雅彦とジュリーの間に何かあると気づいた沐は、昔の自分のようにならないように、と忠告したのだ。沐の話を聞き終えた桃と雅彦は、思わず重苦しい表情になった。会社や財産は、ひょっとすると取り返すチャンスがあるかもしれない。けれど、一度失った家族は、決して戻ってこない。その事実を、二人ともよくわかっていた。ジュリーの罪は、まさに数えきれない。「だから、今度は絶対に彼女の罪を暴いて、こんな悲劇を繰り返させるわけにはいかないんです」桃はまっすぐ沐を見つめ、強い口調でそう言った。「君たちが手伝ってくれるなら助かりますよ」沐はほっとしたように微笑む。今回わざわざ戻ってきたのも、当時の出来事を調べ直すため。とはいえ、今の彼には何も残っていない。すでに大きな財力と影響力を持つジュリーに立ち向かうのは、決して簡単なことではなかった。けれど今は、雅彦と桃という力強い味方がいる。もしかすると、本当にジュリーを倒すことができるかもしれない。そして何より、失われた名誉を取り戻すチャンスになるかもしれなかった。桃と沐が楽しそうに話し込んでいるのを見て、雅彦はわざとらしく咳払いをした。この二人、もしかして俺の存在を完全に忘れてるんじゃないか?沐
彼女の話を聞き終えると、三人の顔つきは一様に険しくなった。誰もが、見た目は華やかで堂々としていたジュリーが、裏ではそんなにも汚らしいことをしていたとは思いもよらなかったのだ。となれば、一刻も早く彼女の弟を救い出さなければならない。そうでなければ、取り返しのつかない事態になりかねない。雅彦はすぐに海を呼び、少女を連れて弟のもとへ向かわせた。また、二人を安全な場所へ移し、治療も受けさせるよう手配をした。その指示を聞いた少女は、感激したように二人を見つめ、最後に頭を下げて言った。「ごめんなさい。自分を守るためとはいえ、最初はあなたたちを陥れようとしたのも事実です。でも、それでもこうして助けてくれて本当にありがとうございます」桃は彼女を見つめながら、心の中で思った。おそらく、この子はまだ十五、六歳くらいだろう。ジュリーに利用され、悪事に手を染めてしまったとはいえ、責める気にはなれなかった。ましてや、その裏には救いたい家族がいたのだから。桃自身も、かつて母の治療費のために多くの代償を払ってきた。だからこそ、彼女の辛さがよく分かった。「あなたは、本当は悪い子じゃない。ただ、間違った方向に導かれてしまっただけ。そんなに謝らなくていいから、早く弟さんに会いに行ってあげて」そう言いながら桃は、そっと彼女の肩に手を置いた。少女はしっかりとうなずくと、もう一度頭を下げて言った。「ありがとうございます。もし今後、私にできることがあればそのときは、必ず力になります」そう言い残して、彼女は海とともにその場を後にした。彼女の背を見送ったあと、桃はようやく雅彦に目を向け、さらに沐にも視線を移した。「この件……あなたたちはどうするつもり? ジュリーの名誉を傷つけるだけで済ませるわけにはいかない。こんな手口で、どれだけの女の子たちが犠牲になってきたか分からない。もう、これ以上は放っておけないわ」桃の目に浮かんだのは、かつて彼女自身が苦しんでいた頃の記憶だった。それに気づいた雅彦は、桃の手をそっと取り、静かに言った。「どうせ、すでに敵同士だ。だったら、一気に潰すしかない。二度と悪事ができないようにな」ただ、そうなると沐が撮影したあの動画は、すぐに公表してしまうのではなく、もっと決定的な証拠が揃ってから、ジュリーを一網打尽にするタイミングで公開した方がいいだろう
「怖いですね」男は気にするそぶりも見せず、そのまま雅彦へと視線を移した。「雅彦さん、どうやら彼女、私を口封じしようとしているようです。そこで一つ、取引をしていただけませんか?この中身をすべてお渡ししますので、代わりに私の身の安全を守っていただきたいのです」雅彦は目を細めた。悪くない取引だ。あのジュリーという女は、絶対にここで大人しく引き下がるようなタイプじゃない。だったら、この機会に徹底的に潰してしまい、二度と他人を陥れる暇すら与えない方がいい。「いいだろう」そう即答してから少し経つと、海が屈強な男たちを数人連れてやって来た。彼らは一目で只者ではないとわかる風格で、腰には最新式の武器まで装備していた。ジュリーはそれを見た途端青ざめた表情を浮かべ、悔しそうに舌打ちしたあと、その場を去った。ジュリーがいなくなると、男はホッとしたように息をつき、携帯を雅彦に差し出した。「この中に動画が入っています。きっと、そちらでご活用いただけるはずです。私はもう、これ以上面倒なことには関わりたくありませんので」雅彦が中身を確認すると、それは確かに有力な証拠だった。彼は海を呼び、データを複製させると、ジュリーの家系と関わりのないメディアへ直接送るよう指示した。一方、桃はその見知らぬ男を興味深そうに見つめながら話しかけた。「今回、あなたが証拠を残してくださって本当に助かりました。もしそれがなければ、彼女はまったく懲りずに、また同じことを繰り返していたかもしれません」桃の言葉に、男は苦笑いを浮かべた。「やはり、お二人とも私のことを覚えていらっしゃらないようですね。改めて自己紹介させていただきます。私は早瀬沐(はやせ もく)と申します。以前、駐車場で一度だけお目にかかったことがあるかと思いますが……」雅彦と桃はハッとして顔を見合わせた。そういえば、あの日ジュリーに気をつけろと忠告してくれた男がいた。まさか目の前の彼だとは……「あなたがあのときの!助かりました、本当にありがとうございます」桃は感謝の気持ちを込めて手を差し出し、「私、日向桃と申します。初めまして、よろしくお願いいたします」と挨拶する。沐もそれに応えようと手を出した瞬間、雅彦がさりげなく割り込んできて、男同士で握手する形になった。桃は呆れながらも、心の中で「この人、いちいち何なの……」とため息をつ
その女の子は話すにつれて、恥ずかしさと怒りが込み上げてきた。彼女は元々、普通に学校に通っていた。しかし、弟が病気になり、お金が足りなくなったため、こんな道に進むことになったのだ。ジュリーが裏切り者なことは、彼女自身が一番よく知っていた。だから、今回は桃が自分を裏切らないことを願うしかなかった。「あなた……」突然、自分がしてきたことが暴露され、ジュリーは少し慌てた。その時、ジュリーが呼んだ記者たちは状況を察し、雅彦の顔色を見てすぐにまずいと思った。この件で、有益なニュースを得るどころか、雅彦を敵に回してしまったかもしれない。そうなると、ここにいる意味がなかった。記者たちはお互いに目を合わせ、ジュリーをこれ以上怒らせたくないと思い、すぐにその場を離れることにした。桃はその様子を見て、拳を握りしめた。「もう帰るの?さっきまで正義感いっぱいで、悪党の正体を暴こうとしてたんじゃなかったの?こんなに職業倫理が低いなんて、これが記者なの?」皮肉を言われた記者たちは顔を曇らせたが、何も言うことができなかった。彼らはジュリーと長年の付き合いがあり、何をするべきかを分かっていたので、自分を恥じたものの、結局黙って退散した。記者たちが去った後、賑やかだった部屋は静かになった。ジュリーも次第に冷静さを取り戻し、雅彦を見て言った。「雅彦、確かに腕がいいわ。今回は私の負けよ。でも、次はそんなにうまくいかないわよ」言い終わると、ジュリーは背を向けて立ち去ろうとしたが、桃に道を塞がれた。「もう行くの?」「どうしたの?」ジュリーは冷笑を浮かべ、この女は本当に愚かだと思った。まさか自分の前に立ち塞がるなんて。「あの記者たちは、元々私の手の内にある人たちだから、勝手に口を滑らせることはないわ。そもそも、この事件は実際には何も起きていないわ。警察を呼んで、私に何の罪をかぶせられるっていうの?」雅彦はその言葉を聞いて、眉をひそめた。確かに、警察に通報しても、ジュリーが呼ばれて少し叱られるだけだろう。しかし、このまま彼女を行かせるのには、どうしても納得がいかなかった。ジュリーが得意げにしていたその時、後ろから冷たい声が聞こえてきた。「それはどうだか」桃はその声に少し聞き覚えがあったが、どこで聞いたのか思い出せなかった。彼女が考え込んでいた時、
「なるほど」雅彦は冷たく言った。その時、ジュリーは大勢の記者の中からようやく抜け出して、目の前の光景を見ると、呆然として立ち尽くした。何これ、予想していたことと全然違うじゃない。「雅彦、あなたは一体何をしているの?この子に薬を盛り、こんなふうに縛り上げるなんて」ジュリーは世間をよく知る人間だった。彼女はすぐに冷静さを取り戻し、雅彦に責任を押し付けた。「もういい加減にして」桃は我慢の限界を迎えた。ジュリーは毒蛇のような本性を持ちながら、その女の子のために正義を貫くふりをしていた。見ているだけで吐き気がした。「桃、まさかあなたもそんなに正義感がない人間だとは思わなかった。あなたの男は浮気をして、他の女性を傷つけた。あなたはそれを隠すために手を貸している。正直、すごく失望したわ」ジュリーは桃が雅彦をかばう様子を見て、自分が逆に罠にかけられていたことに気づいた。しかし、今さら引き下がることはできなかった。ここまで来てしまった以上、最後まで突き通すしかなかった。幸い、その女の子はすでに彼女によってうまく手配されていた。その子の病気の弟もまだ彼女の手中にあった。だから、その子が雅彦に無理やり襲われたと主張し続けさえすれば、たとえ実際には何も起こっていなかったとしても、全ての責任をうまく逃れる自信があった。「とにかく、まず当事者に話をさせるべきだわ。雅彦の言い分だけを聞くわけにはいかない」ジュリーはその子に目を向け、少し脅しの意味を込めて言った。縛られていた女性は絶望的な目をしていた。病気の弟を思うと、彼女には他に選択肢がないように感じ、嘘をつき続けるしかないと思った。桃は異常を感じ取った。彼女は眉をひそめ、歩み寄り、女性の体に巻かれたシーツを解きながら、低い声で言った。「今、雅彦を陥れるようなことをしたら、どうなるか分かっているでしょう?たとえあなたが彼を非難し続けても、私たちは警察を呼んで調査させることができる。真実は隠せないわ。もし彼女があなたを脅しているなら、私は助けることができる」その言葉を聞いて、女性は体を震わせ、一瞬桃の目を見つめた。彼女の目は穏やかで、そして何か決意を感じさせるものがあり、ほんの少し同情を見せていた。 女性は心の中で葛藤していたが、シーツは解け、口に詰められていたタオルも桃によって取り除かれた。
桃の動作は素早く、雅彦ですら反応できないほどだった。彼は急いで二歩後ろに下がり、桃の攻撃を避けようとした。まさか彼女、本気なの?桃は演技をするなら疑われないように完璧に演じることが大切だと思っていた。そう思いながら、彼女は雅彦を鋭く睨みつけた。「言いなさいよ、どうしてこんなことをしたの?一言も説明しないつもりなの?」雅彦は一瞬、言葉に詰まった。雅彦はしばらく黙って考えた後、急いで口を開いた。「桃、落ち着いてくれ、説明させてくれ、これは君が思っているようなことじゃないんだ!」「私が目の前で見たことがすべてでしょう、このクズ男!」ドアの外にいたジュリーの仲間たちは、部屋から聞こえる激しい争いの声にほっと息をつき、急いで出て行って、長い間待っていた記者たちを呼び寄せた。しばらくして、たくさんのカメラがドアに向けられ、ウェイターはあたかも仲裁しようとする様子でドアをノックした。「雅彦さん、何が起こったんですか?ドアを開けてください!」そう言い終わるやいなや、ウェイターはカードキーを使ってドアを開けた。ドアが開くと、記者たちは次々と部屋に押し寄せ、フラッシュの音が鳴り響いた。誰もがビッグニュースの一部を見逃したくなかった。しかし、しばらくすると、最初の興奮は冷め、記者たちは目の前の光景を見て、何かが違うと気づいた。彼らが見たかったのは、服を乱した雅彦が不倫相手と隠れ、桃が狂ったように怒鳴り散らすというエキサイティングなシーンだった。しかし、目の前にはまったく違う状況が広がっていた。雅彦はきちんと服を着て立っており、ボタンはすべてしっかりと留められ、髪も乱れていなかった。桃は冷静な表情で彼のそばに立っていて、床には手足をベッドシーツで縛られた女性が横たわっており、彼女もきちんと服を着ていた。一体どういうことだ?記者たちは皆、呆然としてお互いを見つめ合い、何が起こったのか全く分からなかった。雅彦は冷淡に記者たちを一瞥した。これらの記者たちは間違いなくジュリーが呼んだものだ。今後、彼らには一切手加減しないつもりだった。ジュリーは記者たちが中に入るのを見て、まるで自分が初めて知ったかのように部屋に駆け込んできた。彼女は予め準備していたセリフを言いながら部屋に入って来た。「雅彦さん、あなたの背後にある菊池グルー