Masukしばらくして、ほかの使用人たちが部屋から出てきたが、鼻をつくようなひどい悪臭が漂っていた。どこか鉄のような、生臭い血の匂いも混じっていて、思わず吐き気を催すほどだった。「どうしたの、なんでこんなに臭いの?」メイドの一人が訝しげに声を上げた瞬間、ようやく臭いの元に気づいた。それは麗子だった。彼女はソファに仰向けに倒れており、大きく見開かれた目は天井を虚ろに見つめたまま。唇の端にはうっすらと血が滲み、その顔は苦悶に歪んで、見るも無惨な姿をしていた。「きゃあーっ!」メイドは悲鳴を上げ、思わず後ずさる。逃げようとしたその瞬間、彼女は見てしまった。麗子の遺体の傍らに、血の跡をつけたまま静かに座り込んでいる女を。その顔に怯えの色はなく、ただ淡々とした表情をしていた。その姿を見て、メイドはすべてを悟ったように息を呑む。「あなたが……やったの?」そう問いかけながら、メイドの脳裏にはこの数日の出来事がよぎる。この女が連れてこられてからというもの、麗子は彼女を侮辱し、虐げ、使用人たちも一緒になって面白半分に彼女をからかっていた。――そう、彼女には動機があった。メイドの心臓がどくんと跳ねる。目の前の女が、今にも報復として自分に襲いかかってくるかもしれない。そんな想像が頭をよぎり、恐怖が一気に全身を駆け抜けた。彼女は我を忘れて逃げ出した。あまりの動揺で足をもつれさせ、床に転げる。それでも、痛みなど構っていられない。命の危険を感じた彼女は、ほとんど錯乱したように走り出し、叫んだ。「警察!誰か警察呼んで!人が殺された!」昌代はその様子をただ静かに見つめていた。もとより逃げるつもりなどなかった。ここから逃げ出す術もない。やがて、メイドは泣きながら他の使用人たちに事情を話した。皆、青ざめた顔で震え上がり、慌てて警察に通報する。「殺人事件が起きて、しかも犯人が現場にいる」――その報せを受けた警察はただちに動いた。数十分後、サイレンの音を響かせてパトカーが到着した。銃を手にした警官たちが慎重に室内へ踏み込む。凶器をまだ持っているかもしれない――全員が緊張で息を呑む。そのとき、昌代はふっと肩の力を抜いた。どこか、長い悪夢がようやく終わったような気がした。彼女はゆっくりと立ち上がり、空いた両手を高く掲げた。「もう誰も傷つけるつもりはありません……連れて行
昌代は内心で冷笑した。これから先、あの女がこの日を迎えることは二度とないだろう──そう確信していた。さっき彼女がコーヒーに混ぜた毒は、わずかな量で人を死に至らしめるものだった。しかも彼女は躊躇なく全部入れた。麗子はすでに飲んでしまっている。たった一口でも命を奪うには十分だった。ただ、昌代はあまり興奮を露わにできなかった。もし変に挙動不審になれば、麗子が何かを察して医者に行ってしまうかもしれないからだ。「まだぼーっとしてるの?さっさと床を拭きなさい!」麗子は昌代が自分をぼんやり見ているのを見て、また威張りながら命じた。「はい、はい、すぐ行きます」昌代はそう言うと、慌てて布巾を取り、床にひざまずいて一生懸命に拭き始めた。かつて自分の夫を奪った女が、今こうして卑屈に身を低くしているのを見て、麗子の気分はよくなり、また一口コーヒーを飲んだ。数分後、麗子は突如として激しい腹痛に襲われた。その痛みは食あたりのようなものではなく、内臓の奥で何かがかき回されているかのような烈しい痛みだった。麗子はたちまち動転した。もしかしてこの食べ合わせがまずかったのか?「早く、救急車を……呼んで!」言い終わらないうちに、麗子はソファに伏して起き上がれなくなり、声は弱々しく、さっきまでの威圧的な態度はどこにもない。か細い声は周囲の者たちの注意を引かなかった。唯一、ずっとこの場の様子をうかがっていた昌代だけが異変に気づき、近づいてみると、麗子の顔はひどく歪み、口からは血の混じった嘔吐物が絶え間なく出ていて、その様子は見るに耐えないほど惨めだった。気持ち悪く恐ろしい光景だったが、昌代はじっと見つめ続けた。以前に写真で見た、佐俊が無残に死に、解剖されたときの姿が脳裏に浮かんだからだ。あのとき、息子もこんなふうに恐怖と痛みにのたうっていたのだろう。「佐俊、私はもうあなたの仇を取ったわ!」昌代は拳を握りしめてゆっくりと腰を下ろし、冷たい目で麗子を見据えた。「どう?この感じ、辛いでしょう?私もね、息子がいなくなったと知ったとき、こんなにも苦しかった。すぐにでも一緒に逝きたかった。でも、それはできない。私は彼のために復讐しなければならないの」麗子は意識がもうろうとしながら、前にいる人の服の裾を掴み、救急車を呼んで自分を助けてほしいと必死に願っていた。だ
麗子の考えはまさにその通りだった。彼女はずっと莉子を急かして、早く海に「会社に戻る」と言わせようとしていた。そうすれば、莉子を菊池グループの内側に潜り込ませて、内外から動けるようになるからだ。けれど麗子は知らなかった。莉子はもうとうに、彼女の支配から完全に抜け出すつもりで動いていた。だからずっと、どうすれば麗子を佐俊の母親・昌代の前に引き出せるか、その方法を探っていたのだ。昌代の手には、すでに莉子が仕込んでおいた毒と小さなナイフがある。麗子がそこへ行きさえすれば、二度と帰ることはない――その段取りだった。ただ、最近の麗子は別のことで忙しく、まだその「見せびらかし」に行く時間が取れていなかった。莉子は仕方なく、麗子の話に合わせた。翌日会社に戻り、内側から菊池グループの評判を落とす準備をする――そう口にするしかなかった。その言葉でようやく少しは進展が見えた気がしたのか、麗子の機嫌は上向きになった。そして病院で療養している正成のもとを訪ね、思い切り罵倒したあと、ようやく久しぶりに昌代のところへ足を運んだ。この計画さえ成功すれば、常人には想像もつかないほどの財産が手に入る。さらに雅彦も、自分の足元で踏みにじれる存在に変わる。いつも自分の前では威張り散らしていたあの男を、地面に這わせられる――そう思うだけで、麗子は抑えようのない興奮を覚えた。この興奮を感じたのは、佐和が亡くなって以来、実に久しぶりのことだった。麗子は昌代が閉じ込められている部屋へ行った。酒が少し入っていたのか、足元もおぼつかない。それでも彼女は、昌代に「靴を脱がせろ」と命じた。その顔を見ただけで、昌代の胸には怒りと悔しさがこみ上げた。だが、ここにはほかにも人がいる。一撃で仕留められないなら、次はない。昌代はそう悟り、従順なふりをして汚れた靴を脱がせにかかった。けれど、腰をかがめた瞬間、麗子は容赦なくその胸を蹴り飛ばした。「こんなこともできないの?本当に使えない女ね」「ちゃんとやります……だから、どうか息子には手を出さないでください」昌代は怯えたようにそう言った。その言葉を聞いた瞬間、麗子の胸に歪んだ快感が湧き上がった。自分の息子はもういない。だがこの女狐の息子も、もうすぐ自分の手で消える。彼女が味わった痛みを、世界中の人間に味わわせてやる。Comment
二人の子どもたちが、きらきらとした目で見上げてくるのを見て、桃の胸にじんわりとした感動が広がった。年齢こそまだ幼いのに、あまりにもしっかりしていて、かえって胸が痛むほどだった。「……そんなの、無理よ」桃は小さくつぶやいた。たとえ雅彦がこれまでしてきたひどいことを水に流せたとしても、母がいまだ病床に伏している限り、何事もなかったように振る舞うことなんてできなかった。「でも、あなたたちはどう思ってるの?もしこの先、私たちが離れて暮らすことになっても……彼に会いたいと思う?」桃はふたりの気持ちを大事にしたかった。もし、父親である雅彦に会いたいと思うなら、月に一度くらいの面会なら受け入れてもいい。けれど、それ以上は無理だ。「……」子どもたちは互いに目を見合わせた。雅彦に対する気持ちは複雑だった。彼はかつて、無理やりふたりを連れ去り、母と引き離した張本人だ。けれど同時に、過去には確かに優しくしてくれたこともあった。だから、永名や美穂のように、ただ憎むことしかできない相手とは違って、完全に感情を消すことができなかった。「……わかんない。ママ、僕、あの人がしたことは大嫌いだけど……でも、前に僕の命を助けてくれたことを思い出すと、どうしても憎めないんだ」翔吾は少し迷いの混じった顔でそう言った。その表情を見た瞬間、桃の胸がきゅっと痛んだ。本当は、子どもたちに大人の事情でこんな苦しい思いをさせるつもりなんてなかったのに、結局、翔吾にまでこんなふうに悩ませてしまった。それも無理はない。彼らは雅彦の実の息子たちだし、かつては長い時間を一緒に過ごしてきた。そのすべての感情を一瞬で消せるわけがない。それは、桃自身だって同じことだった。桃は翔吾の頭を優しく撫でた。「そう思うのは当たり前よ。ママはただ、あなたの気持ちを聞きたかっただけ。会いたいと思うなら、たまに顔を見に行くくらいなら構わないわ。少なくとも、私は菊池家みたいな真似はしない」「ありがとう、ママ」翔吾はほっとしたように笑った。「でもね、僕は絶対ママの味方だから。そのことだけは、ずっと変わらないよ」「僕も!」太郎もすぐに頷いた。ふたりの中で、母親の存在は何よりも特別で、誰にも代わることはできなかった。「うん、ありがとう」桃は笑ってふたりを両腕で抱きしめた。小さな温もりが胸に寄り添
桃は、自分でもどうしてこうなったのかと呆れるしかなかった。もともとドアを開けておいたのは、余計な誤解を避けるためだったのに――結果的に、自分で自分の首を絞めることになり、気まずさは倍増してしまった。もう、雅彦に薬を塗ってあげる気分でもなかった。手にしていた軟膏をそのまま彼の胸に放り投げた。「自分でやって。私はもう部屋に戻るから」そう言い捨てて、二人の子どもの手を取ると、そのまま部屋に戻り、勢いよくドアを閉めた。雅彦は、投げつけられた軟膏をちらりと見て脇に置き、細めた目の奥に微かな余韻を宿した。腕の中には、ほんのさっきまで桃がいたときの体温と、ふんわりとした香りがまだ残っている。その余韻に浸っていたところで、不意にスマホが鳴り響き、思考を断ち切られた。永名からだった。雅彦が通話に出ると、永名の声が少し落ち着かない。桃に一喝され、肩を落として家に戻ったあと、冷静になってみれば、今日の自分の行動が誤解を招いたかもしれないと思い直した。それで慌てて雅彦に連絡を入れてきた。永名は今日の出来事を説明したあと、ため息をついた。「まったく……あの子はどうして、ああも容赦がないんだろうな。この年になって、あんなふうに面と向かって言われたのは初めてだよ」雅彦は、そんな永名が愚痴をこぼすのを聞くのも初めてだった。いつもは家の長として威厳を保ち、誰も逆らえない存在の彼が、家庭のこととなると、やはりどうしようもないのだ。「もし立場が逆なら、俺のほうが百倍は感情的になっていただろう。もう彼女には説明した。菊池家に、子どもたちを奪うつもりなんてないって。心配しないで」そう言いながら、雅彦は腫れた頬を軽く押さえた。ただ、その「説明」の代償は、桃の平手打ち。今もまだ、痛みが残っていた。「そうか、それならいい。お前たちのことにはもう口を出さないよ。ただな……できれば、彼女ともう少しうまくやってくれないか。それで、時々でもいい、年に数回で構わないから、子供たちを私や母さんに会わせてやってほしいんだ。それだけでいい」雅彦は苦笑を浮かべた。――年に数回、か。桃がこの先、子どもたちに自分のことを「父親」だと認めさせるかどうかも分からないのに。まして、彼女が最も憎む相手に会わせるなんて、到底望めない。だが、永名の切実な声を聞けば、否定す
雅彦はベッドの上に腰を下ろし、桃は椅子を一つ引き寄せて、少し離れた場所に座った。しばらくのあいだ、二人とも何も言わず、ただ静かに薬が届くのを待っていた。やがて、ドアの外からノックの音がした。「雅彦さん、ご依頼の薬をお持ちしました」ドアは少し開いていたが、スタッフはきちんとした態度で、中に勝手に入ることはせず、薬をドアノブに掛けて去っていった。桃は、もし誰かに雅彦が殴られたことを見られでもしたら、きっと気まずいだろうと思っていた。だが、丁寧なスタッフの対応に少しホッとする。ドアまで行って薬を取ってくると、中には打ち身や腫れに効く軟膏が一本入っていた。桃はふたを開け、そっと匂いをかいでみる。やや刺激のある香りだったが、肌に塗ればひんやりして、痛みも少しは和らぐだろう。そう思いながら、薬を手に雅彦のほうへ歩いていった。塗ってしまえば帰るつもりだった。二人の子どもも、きっと心配して待っているに違いない。ところが、気が抜けていた桃は、雅彦の足がベッドの外に出ていることに気づかず、思い切りつまずいてしまった。そのまま勢いよく雅彦の胸の上に倒れ込む。彼は反射的に腕を回し、桃の細い腰を抱きとめた。部屋の中は、針が落ちても聞こえるほどの静けさに包まれた。桃は彼の胸の上で固まったまま動けず、二人の距離はほとんどゼロ。雅彦の力強い心音が、間近で聞こえてくる。ドクン……ドクン……どちらも動けず、ただ時間が止まったように見つめ合っていた。隣の部屋で待っていた太郎と翔吾が、とうとう我慢できずに様子を見に出てきた。部屋のドアが開いているのを見つけ、そっと足音を忍ばせて近づく。中をのぞくと――ベッドの上で二人が倒れ込んでいる。桃は雅彦の胸に身を預け、彼の手はしっかりと彼女の腰を抱いていた。まるで恋人同士のような光景で、目を奪われる。翔吾は息をのんだ拍子にむせて、ゴホゴホと咳き込んだ。その音に桃はハッと我に返り、慌てて雅彦の胸を押して離れようとした。彼もすぐに腕をほどき、二人の顔が一瞬で真っ赤になる。翔吾は何か言いたそうに口を開いたが、むせたせいで苦しく、顔を真っ赤にして咳き込み続けた。太郎があわてて背中をさすりながら言う。「大丈夫?いきなりどうしたの?そこまで驚いたんだ?」翔吾は反論したかった。ただむせただけで、別に驚いたわけじゃ







