ログイン「ママ、レラが怒ってる」蓮は話題を切り替えた。「俺がママを連れて帰ると思ってたみたいで。戻ってみたらママがいなかったから、口きいてくれない」とわこの胸がきゅっと痛んだ。「じゃあ、ビデオ通話しよう」「いや、拒否された」蓮が言った。「じゃあ、明日また私からかけるよ。こっちのことは全部レラに話さないでね。心配させたくないから」とわこは念を押した。「分かってる」蓮の声はいつもより落ち着いていた。「ママ、奏は俺をY国から送り出すために殴られた」とわこは絶句した。「服に足跡がついてた。あれは剛にやられたんだと思う。だから、前に俺の首を締めたこと、俺はもう恨んでない」胸の奥がかき乱され、とわこはしばらく言葉を失った。嬉しいのか、悲しいのか、判断できない。親子の確執がやっと途切れたことを喜ぶべきか。それとも奏の今の立場を思って胸を痛めるべきか。「ママ、いつ帰れるの。あいつ、何か言ってた?」蓮が沈黙を気にしたように続けた。「まだ分からない。大貴の葬儀は明後日。たぶん葬儀が終わってから落ち着くはず」とわこは少し明るい調子を装った。「あなたと桜がアメリカに着いたら知らせてね。それと、桜の兄もアメリカにいる。あの人のことはよく知らないから、気をつけて」「了解」蓮は哲也のことなど全く意に介していなかった。時間は流れ、大貴の葬儀当日になった。高橋家はY国でも名高い財閥なので、大貴の葬儀はテレビで生中継されていた。空は暗く、細かい雨がしとしと降っている。ホテルで中継を見ることもできたが、とわこは現場へ向かうことにした。もしかしたら奏を見られるかもしれない。奏が蓮を逃がすために、どんな犠牲を払ったのか。それをこの目で確かめたかった。大貴があの家の唯一の息子だった以上、ただ殴られただけでは済まないはず。とわこは青いワンピースに着替え、一階へ降りてホテルのショップで黒い傘を買った。ボディーガードと俊平には告げずに来た。今日は高橋家の人間が全員葬儀に向かっており、誰も彼女に気を留めないだろう。傘を差して雨の中に踏み出すと、ひんやりした風が頬を撫で、不安で固くなっていた胸が少しだけほぐれた。式は高橋家のホテルで行われている。ホテル前の道路は交通規制され、一般車両は通行禁止だった。タクシーで近くまで行きホ
俊平がとわこに話さないのは、彼女が産みたいという気持ちを抱くのを恐れているからだった。その気持ちは絶対に持ってはいけない。この子は絶対に産んではいけない。もし産むとなれば、とわこは脳の手術を九か月先まで延ばすしかない。九か月後には、脳の腫瘍がどれほど悪化しているか分からない。もしかすると九か月を生き延びることすらできないかもしれない。もちろん、運が良ければ九か月耐えて出産してから手術を受けられる可能性もある。けれど、その成功率はとても低い。俊平は、とわこがこの微かな可能性に賭けてしまうことを恐れている。彼の目から見れば、とわこがどうしても産むと言い出したら、最後は二つの結末しかない。子どもは生まれ、とわこは死ぬ。もう一つは親子二人とも命を落とす。だから彼女の命のためにも、どうしてもこの事実は知らせられない。この二日間、俊平は彼女に気づかれずに胎児を処置する方法を必死に考えていた。だが、いい方法は浮かばない。とわこは普通の女性ではない。医学の天才で、ごまかすのは難しい。幸いまだ妊娠したばかりなので、時間はある。同じ頃、とわこは部屋で蓮からの電話を受けていた。蓮は帰国後、時差の影響で連絡が遅れたらしい。とわこは蓮の行動が軽率だったと責めなかった。蓮があんなことをしたのは、すべて自分のためなのだから。もし大貴があの日とわこを誘拐し、侮辱しなければ、蓮が大貴を殺そうとするはずがなかった。「アメリカに行きなさい。パパとママのことで学業を遅らせちゃだめだよ」とわこは静かに言った。「チャンスがあれば、私はY国を出るから。心配しなくていい」「桜を連れてアメリカに行く」蓮はそう告げた。「どうして?桜を連れて行ってどうするの」とわこは首を傾げた。「日本にいても、彼女を守る人がいない」蓮は言った。「一郎は彼女を避けてる。だから一郎の友達にひどい目に遭わされて、流産した。俺はもう見ていられない。あいつに後悔させる」とわこの額にうっすら汗が浮かんだ。「一郎と桜じゃ、育ってきた環境が違うから性格が合わないだけだよ。一郎が本気で桜を嫌ってるわけじゃない。それに彼女が流産した時、一郎もすごく落ち込んでた。あなたたちに言わなかっただけ」桜が流産したあと、一郎はとわこに何通もメッセージを送ってきた。謝罪
とわこは小さくうなずいた。「とわこ、もし今すぐここを出られるって言われたら、出たいか」俊平は少し顔を上げ、空を自由に飛ぶ鳥を見つめる。とわこはその視線を追い、空を見上げながら慎重に答えた。「前は、みんながここは危ないって言ってもあんまり気にしてなかった。でも今は、本当に危ない場所だって分かった。人が死ぬ場所。私の命はどうなってもいいけど、他の人を巻き込むのは嫌なの」俊平もボディーガードも、呼んだのは自分だ。だから二人を連れてここを出たい。もし今逃げるチャンスがあるなら、もう迷わない。「自分の命も勝手に賭けるな」俊平は言う。「三人で考えれば、必ず抜け出す道はある」「分かってる」街には普段より人が少なく、天気はいいのに不思議な陰りが漂っていた。「誰かが私をつけてたりしないよね」とわこは急に不安になり、周囲を見回す。後ろを歩くボディーガードがのんびりした声で言う。「社長をコントロールしたいなら、剛が空港で待ち伏せるでしょう。Y国を出るには空港を通るしかないんですから」ボディーガードの言葉が、とわこの頭を一気に回らせた。夕方、俊平は部屋に戻り、スマホを開いて真帆の番号を見る。何度も迷った末、その番号を押した。真帆は、何かあれば連絡してと言っていた。その頃、真帆は寝室で休んでいた。深夜三時から昼まで無理して耐え、限界で戻って寝たところだった。俊平の電話が、悪夢の底から彼女を引き戻した。電話を取ると、ズキズキするこめかみを押さえながら言う。「真帆、俊平だ。兄さんのこと、残念だった」俊平は礼儀正しく言う。「何の用?」彼女は鼻声で、喉も枯れていた。「とわこをここから連れ出したい。手を貸してくれないか」俊平は核心を伝える。真帆は冷たく笑った。「この前あれだけ出て行けってお願いしたのに、あなたたちは居座った。今度はお兄ちゃんが死んで、お父さんが発狂してる時に逃げるって?無理に決まってる」「とわこがここに残るのは、君にとっても得じゃない」俊平は冷静に言う。「奏が記憶を取り戻したら、必ずとわこと逃げる。記憶を取り戻さなくても、また彼女を好きになる」「私は奏が誰を好きでもいい。夫でいてくれればそれでいい。奏はお父さんに、この国から一生出ないって約束したの」寝不足と頭痛で、真帆の言葉は勢いだけで口をつい
奏にY国へ腰を据えさせるには、口約束だけでは足りない。剛は利己的で、しかも疑り深い。奏を本当の身内にする方法は、婿にするだけでなく、彼の根をこの国に残すこと。根というのは、彼の子どものことだ。もし奏にY国で子どもができれば、日本に戻る気はなくなる。「大貴の葬儀が終わったら、外に出てゆっくり話そう」四平は周囲を見渡し、声を落とす。「とにかく、お前の息子は俺たちでもできなかったことをやった。将来とんでもない大物になるぞ」「大貴の自業自得だ」奏は灰皿に灰を落とす。「とわこを虐げなければ、こんなことにはならなかった」「それでもお前の息子は優秀だよ。うちの息子なんかお前のとこより五歳も上なのに、一日中ゲームばっかりだ。見るだけで頭が痛い。どうやってそんな良い子に育てたんだ」急に育児談義にすり替わる。「知ってるだろ。蓮は俺が育てたわけじゃない」奏が見てきたのは蒼の誕生だけだ。蒼が一歳になる頃までに、ここでの問題を片付けられるだろうかと思いながら口を開く。「でも四、五歳の頃にはお前のところに戻ってきただろ」「ずっととわこと一緒に暮らしてた。俺はほとんど関わってない」奏は続ける。「マイクの方がよく面倒を見ていた」「ほら。結局いろいろ覚えてるじゃねえか」「とわこ以外は全部覚えてる」奏は薄い唇をわずかに開く。「だからこそ、とわこが剛の言うような悪い女じゃないって思う」「ははは。とわこが悪女だったら、お前が一人目産ませて、また二人目まで作るかよ。そんなバカじゃねえだろ」玲二は笑い飛ばす。「でも昔のお前は確かにとわこを甘やかしすぎて、ちょっと頭悪いくらいだったな。たかが女ひとりに、事業まで賭ける必要ねえよ」「まあな」奏は今回Y国に来て、多くのことを痛感していた。一瞬の感情に任せるのは簡単だ。だけど、衝動が過ぎ去れば、また現実の生活が続いていく。絶対的な権力と富を手にしなければ、自分も家族も守れない。午後、とわこは俊平を誘って外を散歩する。蓮が無事にY国を出たことで、大きな荷が下りていた。「この数日、毎晩夢で蓮が大貴に連れ去られるの。ほんと最悪。でも結果的に無事でよかった」彼女は苦笑する。「息子さんは、子どもに対する俺の常識を全部ひっくり返したよ」俊平は感心して言う。「あの年齢であれだけの度胸と腕前。君は
とわこは食欲がない。けれど、これから持久戦になると思えば食べないわけにもいかない。「サンドイッチと牛乳でいい」「毎日それですね」ボディーガードが文句を言う。「じゃあ適当に持ってきて」電話を切ったあと、とわこは洗面所で身支度を整える。ボディーガードが朝食を運んできた時には、すでに服も着替えていた。ボディーガードと一緒に俊平も来ていた。「ドア閉めて」俊平がドアを閉め、三人は腰を下ろして昨夜の件について意見を交わし始める。「たぶん、結構まずい状況よ。ねえ、あなたたち二人は先に出国した方がいいんじゃない」とわこは朝食を口にしながら言う。「巻き込みたくないの」ボディーガードと俊平は目を合わせ、ボディーガードが口を開く。「こんな時に病人のあなたを置いて逃げたら、俺らが男として終わりですよ」「手術を任されてる以上、俺も一緒に出るのが当然だ」二人の返事を聞き、とわこは胸が熱くなる。「さっき奏にメッセージを送ったけど、まだ返事がないの。感動してても仕方ない。高橋家は葬儀の準備で混乱してる。今のうちに早く行って」ボディーガードはソファにもたれかかる。「行きません。社長に何の危険があるんですか。剛の最後の息子も片付けられたし、残ってるのは娘だけです。その娘は奏さんの嫁だし、つまり高橋家の今後は全部奏さんのもの……」俊平はボディーガードの脇腹を肘で突き、余計なことを言うなと示す。「奏がここに残って真帆と暮らすと思うの?」とわこの食欲が一気に消える。ボディーガードは慌てて説明する。「違います。ただ、社長は心配するなって話です。奏さんがあの家にいる限り、絶対社長を守ります」「でも彼は私のことを覚えてない」「でも社長が自分の子の母親だってことは知ってるでしょう」俊平は二人を軽く一瞥し、口を開く。「まあまあ、言い合っても意味はない。俺たちの手に負えない状況なんだから、成り行きを見るしかない」とわこはサンドイッチをひと口かじる。ボディーガードは毎日サンドイッチだと文句を言うけれど、結局それを買ってくる。他のものを買って嫌がられたら困るからだ。高橋家。大貴の遺体は整えられ、氷の棺に安置されている。剛は占い師に最善の埋葬日を見てもらい、明後日が良いと言われた。葬儀は明後日に行われることになった。剛は深
別荘の中で、蓮は荷物をまとめ終えた後、すっかり眠気が飛んでしまった。リュックを背負ったまま椅子に腰を下ろし、出ていけるタイミングをじっと待つ。今夜はもう奏が来ないと思ったその時、予兆もなく扉が開く。奏の顔が目の前に現れる。「荷物はもう全部まとめたか」「ずっと前に終わってるよ」蓮は椅子から立ち上がり、奏の前まで歩き寄って軽く見上げる。「もう行けるの?」「うん」奏は少し躊躇してから言う。「今夜はお前だけ先に行け」「ママは一緒に行かないの?」蓮の足が止まる。「もう話はしたよ。帰国するって約束してくれたのに」「今はまだ無理なんだ」奏は腹を割って話す。「お前が先に行け。あとで何とかして彼女も送り出す」蓮はその落ち着いた表情を見て、すぐに理由を察する。「大貴を殺したせいで、迷惑をかけたんだよね」奏は首を横に振る。「俺が同じ立場でも同じことをする。だから、お前は間違ってない」「でもママが今すぐ出られないなんて」蓮は悔しそうに眉を寄せる。「俺が何とかする」奏は彼の腕をつかみ、階下へ連れて行く。「帰国したら、もう二度と戻るな。ひとりを助ける方が、ふたりを助けるよりずっと簡単だ」蓮はうつむき、返事をしない。奏は責めていないと言ったが、言外の意味はとても明確だった。今夜蓮が出国できるのは、奏が動いてくれたからだ。母の仇を取れたのは胸がすくけれど、残された面倒を考えなかったのは浅はかだった。「絶対にママを守って」蓮は車に乗り込む前、奏に真剣に言い渡す。「もしママに何かあったら、もうあなたをパパと思わない」奏の胸が一気に締めつけられる。「努力する」声がかすれる。蓮がこれほど長く彼を見つめたのは初めてだ。息子の顔を見ながら、奏の感情は複雑に揺れる。状況が切迫しているのを考えると、奏はすぐにドアを閉める。三郎がエリアの外で待っていた。蓮を日本まで送り届けるように頼んであり、三郎も了承している。……夜が明け、太陽がいつも通りに昇る。とわこは伸びをしてから目を開く。窓の外の金色の光がカーテン越しに差し込んでくる。とわこはすぐにベッドを降り、カーテンを開け、窓を開けて空気を入れ替える。ふと何かが頭に浮かび、ベッド脇に戻ってスマホを手に取る。いくつも通知が飛び込んでくる。奏「蓮