LOGIN彼は目覚めるのが少し遅れたが、一度覚醒してからは回復が順調だ。本来なら数日間は病院に入院して経過観察を受けるはずだったが、どうしても病院に留まる気になれず、今日退院してきた。「奏、医者はこう言っていた。今は何も思い出せなくても心配しなくていい。数日経てば、徐々に昔の記憶が戻るはずだと」剛はそう言いながら彼を支え、ベッドに横にならせようとする。しかし彼はベッドの端に腰を下ろすと、その手を振り払った。「昔の記憶が戻る?」乾いた声で言葉をこぼし、鋭い眼差しを暗く光らせる。「つまり俺は記憶を失ったということか」その冷ややかで隙のない雰囲気に、剛の心は不安にざわついた。彼が今どこまで覚えていて、何を失っているのか、まるで見当がつかない。手術後に目覚めてから、彼はほとんど言葉を発していない。医者が問いかけても、答えはほとんど返さなかった。だが脳の検査結果は正常で、異常は一切なかった。医者たちはひそかに推測した。「過去の記憶は残っているが、一部は失われている可能性がある」結局、何の断定にもならない曖昧な意見だった。「お前は小さな手術を受けたんだ」剛は椅子を持ってきて彼の前に座った。「これはお前が望んで受けた手術だ。手術同意書にはお前自身の署名がある」「どんな手術だ」頭に鈍痛が広がり、奏は思考を無理に働かせることはできない。「記憶の一部を消す手術だ」剛は同意書を差し出した。「これは最先端の手術で、まだ広くは行われていない。でもお前はあまりに苦しんでいたから、この手術を選んだ」「俺が苦しんでいた?」彼は紙を受け取り、ちらりと目を落とす。「三千院とわこ、この名前を覚えてるか?」剛は彼の表情を逃さず観察した。手術の成否は、この一言にかかっている。「覚えていない。誰だ、それは」奏はすぐに答えた。剛の胸から大きな安堵の息がもれる。手術は、見事に成功した。あれほど愛していたはずのとわこを、彼はもう覚えていない。「その女はお前の敵だ」剛は噛みしめるように言った。「お前を破滅させた人間」「ありえない!」奏の指が強く握り込まれ、手術同意書をぐしゃりと握りつぶした。女一人に自分が破滅させられるはずがない。「奏、お前が常盤グループの社長だったことは覚えてるか?」剛が彼の腕を掴む。奏はうなずいた。覚えて
検査結果を見た瞬間、彼女の身体から力が一気に抜け落ち、まるで今にも崩れ落ちそうだった。顔色が真っ青になったのを見て、ボディーガードの心臓に警鐘が鳴り響く。「社長、まさか不治の病にかかって、もうすぐ死んじゃうんじゃ?」彼は口にする前に少しはオブラートに包もうかと考えた。だが、言葉は考えるより先に飛び出してしまった。それほどまでに彼女の表情は重く、まるでこの世が崩れ落ちる前触れのように見えたからだ。「不治の病じゃない。心配はいらない。仮に私が死んでも、給料はマイクがちゃんと振り込んでくれる」彼女ははっきりと言い切る。ボディーガードは思わず苦笑する。「社長、俺は給料の心配してるんじゃなくて……いや、まぁちょっとはしてるけど。でも本気で心配してるんです。社長は俺が仕えてきた中で一番の人です。死んでほしくない。生きてさえいてくれれば、一生ついていきます!」「できるだけ長生きするようにするわ」「ありがとう!」ボディーガードは彼女を支えながら慎重に言った。「社長、医者に診てもらわなくていいんですか?意見を聞いた方が……」「必要ないわ。ここの医者なんて、私の後輩にも及ばない」「じゃあ、これからどうするつもりです?自分で自分の手術なんてできないでしょ?誰かに頼まないと……」ボディーガードは今すぐ彼女を入院させ、治療を受けさせたい気持ちでいっぱいだった。彼女の顔には血の気がなく、声にも力がない。誰が見ても、重い病を抱えていることは一目瞭然だった。「医者は自分で探すわ。今はホテルに戻りましょう」彼女はボディーガードの腕を押しのける。「まだ歩けるから」「で、病名は?本当に言ってくれないんですか?」ボディーガードは不安で仕方ない。「話したって理解できないわ」「そ、そうですか。じゃあマイクには?」「話したって理解できないもの」ボディーガードは絶句した。「病気の程度を軽度、中度、重度で分けるなら、私のは中度ね」彼女は心配でたまらないボディーガードのため、分かりやすく伝えた。ボディーガードは大きくうなずくが、気分は重く沈んだ。「つまり死ぬ可能性はあるってことか」「どんな病気でも死ぬ可能性はあるわよ。普通の風邪だって死に至ることはある」彼女は諭すように言う。「うわ、ちょっとやめてくださいよ、怖い……」
桜「……」蓮「!!!」恥ずかしさと怒りで飛び出そうとした蓮を、桜は慌てて腕をつかんで引き止めた。「先生、この子は私の甥なんです。まだ十歳にもなってません。私、初めて婦人科に来るから不安で、付き添ってもらっただけで……」医師は沈黙する。気まずい空気が一分ほど流れた後、医師が取り繕うように口を開いた。「最近の子は栄養状態がいいですから、発育も早いんですよ」「この子は遺伝なんです。両親が揃って背が高いから」桜が説明する。「そうですか。では今日はどうされました?」「中絶をお願いしたいんです」桜は先日のエコー写真を差し出した。「妊娠一か月目です」「ご結婚は?」「していません」「本当に決心はついているんですね?」「はい。お金がなくて子どもを育てられません。産んでも苦労させるだけ。だから早めに終わらせたいんです」桜が淡々と口にした苦しみは、蓮を大きく揺さぶった。彼は、彼女が子どもを望まないのは一郎との関係が悪いからだと思っていた。まさか、経済的な理由だとは。蓮は数秒黙り込み、そのまま桜の腕をつかんで診察室から連れ出した。Y国。とわこは自分の脳のCTフィルムを手にし、長い沈黙に沈んでいた。医師に見せる必要はなかった。彼女自身が神経内科の医師だからだ。画像には、原因不明の頭蓋内出血が映し出されていた。CT室前のベンチに座り込み、とわこはこのところ頭部を打った覚えがあるか必死に考えた。けれど答えは出ない。最近、暴力を受けたことは一度もなかったからだ。まずMRIで病巣をはっきりさせる必要がある。「どうして先生に見せないんですか?もうすぐ退社の時間ですよ」ボディーガードが不思議そうに聞く。とわこは立ち上がり、携帯を一瞥して淡々と答えた。「お腹が空いたの。まずご飯にしましょう」「じゃあホテルに戻って、午後また来ましょうか」「私が医者だって知ってる?」とわこは口元に笑みを浮かべて問う。ボディーガードは一瞬きょとんとし、すぐに頷いた。「もちろんです!すごく腕のいいお医者さんですし!」「じゃあ、どんな分野かも知ってる?」ボディーガードは頭をかき、やっと気づいたように目を見開いた。「そうだ!脳の専門ですよね!」「ええ。私は手術が必要かもしれない」笑みを消したとわこは静か
こんなドロドロした話は、蓮の年齢では理解の範囲を超えていた。「この子は堕ろすことにする。もう二度と彼には会わない」桜は固い決意を口にした。蓮の表情は固まり、すぐには言葉が出てこなかった。「君、蓮でしょ?」桜は彼の顔をじっと見つめ、見れば見るほど奏に似ている気がしてきた。「うん」蓮が短く答える。「今は夏休みでしょ?明日、一緒に病院へ来てくれない?一人じゃ少し怖いから」桜は躊躇いながら言った。もしとわこが国内にいたら、迷わず彼女を頼っていたに違いない。「……」蓮は黙り込む。初めて会ったこの女性はおばさんだが、二人の間には親しさなどまったくなかった。しかも彼女は中絶を受けようとしているのに、子どもがそばにいたところで何の助けになるのか。彼は本能的に断ろうとした。けれどふと、母が自分と妹を身ごもっていた頃、父がそばにいなかったことを思い出す。妊娠した女性が孤独でいるのは、あまりに辛い。桜の今の状況は、そのときの母と重なって見えた。一郎もなんて最低な男だ、と彼は心の中で吐き捨てた。「嫌ならいいのよ」桜は弱々しく言った。「もし手術の後で帰れなかったら、先生に頼んで看護師さんをつけてもらうから……」「明日考える」蓮は真剣な顔で答えた。「そう。ところで妹は?」桜は少し緊張気味に聞いた。年下の蓮なのに、彼からは年齢以上の落ち着きと大人びた気配が漂っている。桜は奏に会ったことがなかったが、もしかしたら彼も同じ雰囲気を持っているのではないかと感じた。「彼女には彼女の用事がある」蓮は何気なく桜の腹に視線を落とした。「まだ妊娠したばかりで、お腹は出てないのよ」その一言で、蓮の顔は一気に赤くなった。「君、いくつ?なんだか妙に大人びてる。一郎の前でもこんなに緊張しなかったのに、あなたの前だと落ち着かなくなる……」桜は居心地悪そうに言った。「ゲストルームを使えばいい。右に曲がって二番目の部屋だ」蓮は無表情に告げた。桜はスーツケースを引きずり、ゲストルームへと向かった。その頃、三浦のスマホが鳴る。一郎からの電話だ。「はい、桜さんはこちらに来ています。あなたに追い出されたと話していましたよ」三浦が答える。一郎は大きく息を吐いた。「いや、事情は複雑で。あなたが想像するようなことじゃないんで
とわこは鋭く感じ取った。自分の体に本当に何か異常があるのではないかと。最近は生理中でもなく、怪我をして出血したこともないのに、数値がこんなふうに出るのはおかしい。ここ最近ひどい頭痛が続いている。病院で脳のCTを受けた方がいいかもしれない。神経内科の医師である彼女は、脳の病気に対して特に敏感だ。もし脳に異常があるのなら、大変なことになる。日本。一郎は空港を出ると、そのまま家へ向かった。帰国のことを事前に両親へ伝えていなかったため、父親は彼を見てとても驚いた。「一郎、ちょうどよかった。奏の件はどうなっている?」父が尋ねた。「母さんは?桜は?二人はどこだ」一郎は怒りをあらわにした。「母さんは桜を連れて服を買いに出かけたぞ」父は息子の険しい顔に気づき、慌てて言葉を添える。「おい、その顔は何だ、人でも食いそうじゃないか」「僕が人を食う?食おうとしてるのはあんたたちだろ!桜がどういう人間か、分かってないんだ。彼女の腹の子は僕の子じゃない!そんな相手を僕に娶らせるなんて、冗談にもほどがある!」一郎は父のそばに腰を下ろした。「桜は自分でお前の子だと言っていたぞ」「彼女と寝たことすらない。どうやって僕の子ができるんだ」一郎は頭痛に襲われ、八つの口があれば同時に叫びたいくらいの気持ちで訴えた。「今すぐ呼び戻して、本人に直接問いただす!」「待て」父はきょとんとした顔になり、「そういえば桜は子どもの父親が誰かはっきり言ってなかった。ただ母さんが勝手にそう思い込んだんだ。桜が否定しなかったから」と言った。「なんて馬鹿な。もし本当に僕の子なら、気づかないはずがない。もし僕の子なら、とっくに……」一郎はそこで言葉を飲み込んだ。頭の中が真っ白になり、自分が何を言おうとしたのかさえ分からなくなる。父は眉を上げた。「とっくにどうした?結婚でもしたか?この何年も母さんがどれだけ急かしたと思っている。お前はずっと『合う相手がいない』と突っぱねてきたじゃないか」「そうだ。今でもその気持ちだ。たとえ桜の腹の子が本当に僕の子だったとしても、彼女と結婚しない。あいつは計算高くて腹黒い。自分の子じゃないのに否定もせず、わざと誤解させて、僕を追い詰めようとしてる。僕たち一家を馬鹿にしてるんだ」一郎の怒鳴り声は外にまで響いた。買い物から戻っ
護衛の数は多く、しかも歩く速度が速すぎて、とわこには車椅子の人物が誰なのかまったく見えなかった。背中すら見えない。屈強な体格の護衛たちが、車椅子を完全に覆い隠していたのだ。あの中にいるのは、奏に違いない。強烈な予感に胸が締めつけられる。心臓が早鐘のように打ち、息すら乱れた。彼の気配を嗅ぎ取ったような錯覚さえある。気がつけば足が勝手に動き、エスカレーターへと駆けだしていた。確かめなければならない。あの車椅子の人物が誰なのか。だが二階から降りてきた時には、すでに車椅子の人物は護衛に押され、黒塗りのワゴン車へと乗り込んでいた。「バンッ」と車のドアが閉まる。結局、何も見えなかった。護衛たちは一斉にそれぞれの車に飛び乗り、次の瞬間には鋭い矢のように病院を後にする。とわこは、まるで一時停止ボタンを押されたようにその場に立ち尽くし、声も出せず、ただ彼らが消えていくのを見送るしかなかった。数秒間の茫然の後、頭に閃く。車の向かった先は剛の屋敷だ。もしあの車椅子の男が奏なら、必ずあそこにいるはず。ならば剛の家に行けば答えが出る。一方その頃、病院では。護衛がしばらく待ってから、とわこの検査結果を受け取った。数値のいくつかが赤字で印字されている。つまり異常値だ。だが、それがどれほど深刻なのか、護衛には判断できない。用紙を持ってとわこを探しに行く。とわこは「胸部CTを撮る」と言っていた。だがCT室の前でどれだけ待っても彼女は現れない。不安になり、すぐさま電話をかける。彼女は電話に出て、軽い調子で答えた。「今、外にいるの。病院で待ってて、すぐ戻るから」「外?どうして外にいるんですか!今どこです?迎えに行きます!」「剛の家の近くよ。すぐ病院に戻るつもり」実際には屋敷の門の前で張り込みをしていたが、例の車両を見かけることはなかった。やっぱり思い込みだったのかもしれない。あの車椅子の人物は、奏ではなかったのか。「何かするなら先に言ってくださいよ!勝手に動かれると守りようがないんです!あなたに何かあったら、マイクに責められるのは俺なんですから!」「私はあなたのボスよ。なんでいちいち自分の行動を報告しなきゃいけないの」「だって俺は護衛ですよ!居場所が分からなければ、どうやって守