京都奉行所の役人たちが現場に到着すると、北條剛は彼らと迅速に連携し、禁衛でもある山田鉄男と協議の上、刺客の遺体を京都奉行所の者たちに引き渡すことにした。公の機関に委ねられた以上、尋問は極めて重要だ。山田鉄男が先に尋問を行っているとはいえ、京都奉行所側でも改めて詳細を確認する必要があった。琴音は尋問を避けるため、重傷を装って意識を失い、侍たちに運ばれて自室へと運び込まれた。周囲の者たちは彼女の手当てに追われていた。北條守も、延々と続いた尋問の末、遂に疲労困憊して意識を失った。夕美の指示により、彼は文月館の寝床へと運ばれ、静かに休むことになった。北條次男家の老夫人は、今夜のさくらの救出劇を知るや否や、普段は長男家の内情に関わることを潔しとしない性格にもかかわらず、北條老夫人の前に堂々と歩み出た。鋭い眼差しで、厳しい声で詰問した。「あなたたちは、かつて彼女をどのように扱ってきたの?今夜、彼女は将軍家全体の命を救ったではないか。恥ずかしくないの?これからも彼女を悪く言うつもり?」北條老夫人は、初めてこの義妹の前で言葉を失った。今夜の危機は、彼女の僅かに残された命さえも震え上がらせるほどのものだった。それでも、かつての高慢な性格を捨てきれない彼女は、顔を数度歪めた後、かろうじて言葉を絞り出した。「彼女はどうやって将軍家への襲撃を知ったの? 刺客は彼女が送り込んだものかもしれない。まだ役所できちんと調べていないのに、どうしてそんなことを言えるの?」次男家老夫人は怒りと皮肉を込めて笑った。「そう、さくらが刺客を呼んで、あなたがたを殺そうとして、そして救いに来る。それであなたがたに恩を売り、将軍家に恩義を感じさせる。将軍家はどんなに大きな面子を持っているか。将軍家が彼女の恩を認めれば、彼女は将来、将軍家の恩顧によって栄華を極められるというわけね」次男家老夫人は言い終わるや否や、その場を立ち去った。歩きながら涙を拭う。悔しさが込み上げる。上原さくらへの同情と、長男家との分家を考えずにはいられない気持ちが胸中を掻き乱した美奈子は臆病で物事を恐れ、北條守の二人の妻は、一人は残虐で一人は愚かだった。まともな者は一人もいない。先祖代々の家を台無しにしてしまったのだ。しかし今、分家したところで将軍家に何が残っているというのか?以前から所有していた
さくらは薩摩城外で会った第三皇子、現在の平安京皇太子のことを思い出した。彼は大和国の人々に対して深い憎しみを抱いていた。彼が即位すれば、鹿背田城の一件は更に厄介な問題となるだろう。さくらは外祖父を案じていた。還暦を過ぎた今も関ヶ原を守り続け、京での安らかな暮らしを送ることができないでいる。普通の武将なら、この年齢ではとうに引退しているはずだった。さくらには、天皇が若い武将を登用したいという意図は理解できた。しかし、ここ数年、本当に重責を任せられる人物は極めて少なかった。天皇は影森玄武からも兵権を取り上げてしまった。平安京と羅刹国が恐れる将帥である彼が兵権を持っていれば、四方を震撼させることができたはずだ。今は太平の世だから、親房甲虎に代えても差し支えない。だが、もし再び戦が始まれば、甲虎では重責を担えないだろう。「もう休みましょう。事件は京都奉行所が引き継ぐでしょうね。明日、彼らが事情聴取に来るはず。陛下にも召し出されるかもしれないわ」さくらは将軍家から戻って以来、何か心に引っかかるものがあり、これ以上話したくなかった。特に、北條守が「あなたの心にはまだ俺がいる」と言ったことが、滑稽で言葉も出なかった。玄武が京を離れていてよかった。もしこの言葉を聞いていたら、さぞかし激怒されただろう。翌朝は良い天気だった。日の出が空を錦を織りなすように美しく染め上げていた。さくらが装いを整え終わり、どうして潤がまだ来ないのかと思った矢先、お珠が朝餉を運んできた。「沢村お嬢様が潤坊ちゃまを書院にお送りになりました」「こんなに早くに?」「沢村お嬢様は早朝から武芸の稽古をなさっていて、潤坊ちゃまが昨日の学課でよく分からないところがあるから、先生に早めに質問したいとおっしゃって」「まあ。初日からそんなに難しい内容だったの?」さくらは座りながら言った。昨日は先生が何を教えたのか聞くのを忘れていた。「私にはわかりかねますが」お珠は笑みを浮かべて答えた。「ただ、若様がそれほど熱心に学ばれるお姿を拝見し、胸が熱くなりました」「あの子は分かっているのね。自分が将来何を担うべきかを」さくらは誇らしく思う一方で、胸が痛んだ。しかし、この世では華族であれ庶民であれ、真に確かな地位を築くには自らの努力を欠かすことはできない。先祖や父の庇護にばか
しばらく世間話をした後、さくらが尋ねた。「耳飾りの修理は可能でしょうか?」「お義母様が金鳳屋に持って行かせてくださいました。おそらく直せるかと」木幡青女が答えた。「そのような大切なお品でしたら、やはりお手元に置いておいた方がよろしいかと。お付けになって外出されるのは少し危険がございますわ」さくらは青女が一つの耳飾りのためにすべてを顧みなかった様子から、その品が彼女にとってどれほど大切なものかを察していた。「普段はつけておりません」青女は微笑んだが、その瞳には涙が滲んでいた。「ただ昨日、国光くんを学堂へ送る時に、この耳飾りをつければ、まるで彼も一緒に国光くんを送っているような気がして......」彼女の声はわずかに震えていた。「これは私たち夫婦が結婚した時に、人生でしたいことの目録に書き込んだことの一つなんです。自分を騙しているだけだと分かっています。でも、時には自分を欺かなければ、この日々を生きていけないのです」さくらの目に深い同情の色が浮かんだ。その半分は青女へのもの、そして残りの半分は自分自身へのものだった。「王妃様のような強い方は、私のようにこんな愚かな自己欺瞞などなさらないでしょう」青女は長い間誰にも心の内を明かさなかったのか、あるいは夫が上原太政大臣の配下として邪馬台の戦場で上原家一族の英雄七人と共に散った縁から、誰かに話したい気持ちがあったのだろう。「私には大きな志もなく、才能も容姿も並の者です。性格は鈍く、何をするにも決断力に欠けておりました。でも夫は違いました。若くして英雄と呼ばれ、容姿も優れ、侯爵家という名門の出。どんな素晴らしい方とも結婚できたはずなのに、私のような取り立てて何もない者を選んでくれたのです」「十七で嫁ぎ、今年で二十五になります。八年の結婚生活でしたが、ほとんど離れ離れで、そのために子にも恵まれませんでした。でも今は国光くんがおります。実の子ではありませんが、きっと夫も喜んでくれると思います。私にはもう二つの願いしかありません。一つは国光くんが夫のような清廉な人になることです。もう一つは、いつの日か国光くんを連れて、夫が命を落とした場所を訪れ、夫への拝礼と焼香をさせることです」彼女はさくらを見つめながら話した。瞳には涙が光っていたが、決意に満ちていた。「その日が来ましたら、どうか王妃様、私たち母子
薩摩城。親房甲虎はすでに我慢の限界に達していた。四度の交渉を重ねても、ビクターは一歩も譲らず、七瀬四郎との交換条件として薩摩城の割譲を要求し続けていた。他の捕虜たちはすでに交換済みだったが、それすら不利な取引だった。両国の捕虜の数は不均衡で、羅刹国軍の捕虜は上原軍の二倍にも及んでいたのだ。捕虜の数が合わないということは、彼らがどれほど多くの捕虜を殺害したかを物語っている。そして今、七瀬四郎の命と薩摩城を交換しろとは、何を考えているのか。もし二日前に北冥親王の影森玄武が来て交渉を引き延ばすよう要請していなければ、今すぐにでもビクターの要求を突っぱねていただろう。天方許夫と斉藤鹿之佑も邪馬台回復における七瀬四郎の重要性を説き続けているが、甲虎にはそうは思えなかった。名簿を確認したが、上原軍には七瀬四郎という人物は存在しない。たとえ兵籍に漏れがあったとしても、一人の人間だけで、どうやってあれほどの重要な情報を送り続けられたというのか。そのため甲虎は、七瀬四郎が送ってきた情報など、前線の斥候でも集められる程度のものだと考えていた。交渉はすでに長引きすぎている。もう引き延ばす気はない。どうせ他の捕虜たちは帰還済みだ。七瀬四郎が忠義の士なら、自分一人の命と引き換えに一つの城を失うことなど望まないはずだ。しかし問題は、天皇が影森玄武を交渉に参加させたことにある。玄武は到着後、交渉引き延ばしの命令を下しただけで姿を消した。これが何を意味するか分かっていたからだ。七瀬四郎を見捨てることへの非難を恐れて、身を隠したのだ。影森玄武が姿を隠し、交渉の采配を全て甲虎に任せたということは、七瀬四郎を見捨てるにせよ、城を明け渡すにせよ、民衆から非難の声を浴びるのは甲虎であって、影森玄武ではないということだ。そこで甲虎は、影森玄武の捜索を命じると同時に、朝廷に上奏した。影森玄武が薩摩到着後に姿を消したことを告発する内容だった。この上奏があれば、今後どのような決定を下そうと、影森玄武も無関係ではいられまい。姿を隠したのは彼自身なのだから。上奏を送り出した後、甲虎は斉藤鹿之佑と天方許夫を呼び寄せ、協議を行った。総帥の陣営に座る彼の周りには、かつての粗末な陣屋とは比べものにならない豪華さが広がっていた。広々とした明るい大広間、快適な長椅子、そして冬でも
京都。将軍家に刺客が侵入してから四日目、さくらは宮中に召された。それまで京都奉行所からの事情聴取も、禁衛府や御城番からの問い合わせもなかった。しかしさくらは特に不思議には思わなかった。結局のところ、京都奉行所も御城番も将軍家からの情報を基に調査を進めるのだから、調査に筋道が立ってから天皇に報告し、その後で自分が召されるのは当然の流れだった。さくらが宮中に向かうのと同じ時刻、数日間傷の養生をしていた北條守は、ついに床から這い出るようにして起き上がり、葉月琴音の部屋へと向かった。この怒りは数日間抑え込んでいたものだった。傷は確かに表面的なものではあったが、十数か所も刀を受けた以上、床に伏して養生せざるを得なかった。武将である彼が後遺症を残すようなことになれば、完全にその価値を失うことになる。禁衛府の職すら危うくなりかねない。琴音も数日間寝込んでいた。彼女の傷は比較的軽く、実際にはとうに起き上がれたはずだった。しかし彼女には動く気が起きなかった。屋敷の人々は皆、彼女を敵のように見ており、下人たちの目にも恐れと嫌悪が混ざっていた。一日三度の食事と薬の世話は欠かさずにされていた。彼女と守の結婚は天皇の御意志であり、誰も彼女を離縁する勇気などなかったのだ。この一件で、守の心が完全に自分から離れてしまったことを、彼女は悟っていた。これまでのわずかな情も、もはや存在しない。だから、守が怒りに任せて部屋に踏み込んできた時も、彼女の心は既に覚悟ができていた。守は琴音を寝床から引きずり起こした。鉄のように青ざめた顔に陰鬱と怒りを滲ませ、怒鳴った。「なぜ俺を突き出して刀の盾にした?死地に追い込まれた時、お前は俺を死なせることしか考えなかったのか?これがお前の言う、私たちの未来を考えてのことか?」琴音は冷ややかな目で彼を見つめた。「刺客はあなたを殺すつもりがなかったから、私はあなたを突き出したのよ。あなたを私の盾にして死なせるつもりだったと思うの?あの夜の刺客は私を狙っていた。でもあなたには手加減していた。どうしてだか、考えたことはある?」守は琴音を乱暴に寝床に突き飛ばした。「言い訳はもういい。お前の嘘にはうんざりだ。あの夜、たとえ刺客に殺意がなかったとしても、俺には避ける術がなかった。お前は俺を突き出す時、両腕を掴んでいた。身を守ることすらで
守は琴音の嘲笑的な言葉を聞きながら、少しも心を動かされる様子もなく彼女を見つめていた。「もしお前があの『成功は私たちの未来のため』という偽善的な言葉を吐かなければ、今でもお前を信じられたかもしれない。だが葉月琴音、今となっては一匹の野良犬の方がお前より信用できる。最初から俺を騙していた。鹿背田城の件も何度尋ねても、真実を語ろうとはしなかった。事が露見した後も隠し続けた。そして今度は上原に疑いの目を向けさせようというのか?」彼は身を屈めて琴音に近づき、冷たく軽蔑的な声で言った。「お前の言葉を信じると思うのか?あの夜の醜態を覚えているか?自分の命だけを守ろうとして文月館に逃げ込み、夕美と二人の侍女を門の外に置き去りにした。どれだけ扉を叩かれても開けようとしなかった。いや、醜態というより、お前の自己中心的で冷酷な本性だな。夕美に言い訳めいた言葉を並べれば、皆が信じると思ったのか?俺は一言も信じない。沙布と喜咲、そして護衛たちは死ぬ必要などなかった。お前が文月館に逃げ込まず、俺と共に戦っていれば......たとえ俺たち二人が刺客に殺されたとしても、お前と共に死ねることを喜んだはずだ」守はゆっくりと背筋を伸ばした。「だがお前はそうしなかった。文月館に逃げ込むことを選び、屋敷の者たちを巻き添えにすることを選んだ。お前の命は命でも、他人の命はお前にとって草葉同然なのだな。沙布も喜咲も女だったことを忘れるな。女性への思いやりを説く時は声高に叫び、実際の行動では冷酷非道。これがお前の正体だ。利己的で蛇蝎のように毒々しい」琴音の表情が一瞬凍りついた。もはや彼を誤魔化せなくなったことが信じられないといった様子だった。彼女は鼻で笑い、取り繕うように言った。「好きなように言えばいいわ。でも少しでも頭のある人間なら考えるはず。なぜ上原さくらは将軍家の危険を知っていたの?なぜ救いに来たの?武芸の心得があって、情に厚いから、過去の怨みを捨てて、危険を顧みずにあなたたち一族を救おうとしたなどと、私に言わないでちょうだい」「危険を顧みず、だと?」守は軽蔑的な目で琴音を見た。「お前にとっては危険かもしれんが、彼女にとって?あの刺客たちを倒すのに何手使ったと思う?見えたか、第一女将軍よ。お前の地位は揺るがないとか言っていたな。お前が恥ずかしく思わないなら、俺が代わりに顔から火が出る思い
守は夕美を見つめながら、彼女が失った二人の侍女のことを思い出し、胸が締め付けられた。「沙布と喜咲のことは、申し訳ない。俺が守れなかった」「私はあなたの心の中で、どんな位置にいるのか聞いているの」夕美は拳を握りしめ、執着的に問いただした。「話をそらさないで」守は傍らの木に寄りかかり、深く息を吸って、先ほどの怒りを鎮めようとした。静かな声で言った。「話をそらすつもりはない。ただ......二人の死を深く悔やみ、惜しむばかりだ。お前が俺の心の中でどんな位置かと言えば、それは当然、正妻としての位置だ」「ただの正妻の位置だけなの?」夕美は諦めきれない様子で追及した。腫れぼったい目に涙が溜まっている。「私に少しの愛情もないの?一度も心が動いたことはなかったの?」その問いに守は一瞬言葉を失った。夕美を見つめながら口を開きかけた。本当は言いたかった。彼らの結婚は穂村夫人の取り持ちで、天皇の意向もあっての両家の縁組みだと。互いを敬い合える関係であれば十分なはずだと。しかし、今にも零れ落ちそうな夕美の涙を前に、その言葉を口にすることはできなかった。彼は親房夕美がこのような愛について問うとは、これまで一度も考えたことがなかった。夕美は彼が長い間何も言えずにいるのを見て、全てを悟ったかのように、悲しげな笑みを浮かべた。「つまり、愛情は微塵もなく、ただの夫婦の情だけなのね」守は苦しげな目で言った。「俺はお前の夫として、必ずお前を敬い、守る......」「刺客が沙布と喜咲を殺し、私を狙った時、あなたが命がけで守ってくれたのは、ただの責任から?」夕美は一歩後ずさり、目に深い悲しみの色を浮かべた。「ただそれだけなの?」「俺は......お前は俺の妻だ。守るのは当然のことだ」守は以前の上原さくらへの態度を思い出し、自信なさげにその言葉を口にした。清如は極限まで失望し、手で涙を拭いながら言った。「この家に嫁いでから、家事を切り盛りし、姑様に仕え、義妹を我慢し、あの醜く邪悪な平妻さえも耐えてきた。なのに今、あなたは私への愛情など微塵もないと仰る。それなのに、どうして私があなたにここまで尽くす価値があるというの?」守は答えようがなく、ただ茫然と彼女を見つめ、しばらくしてようやく尋ねた。「では、俺にどうしろと?」「どうしろですって?よくもそんなことを」夕美
さくらには分かっていた。夜間に武器を携帯し、しかも将軍家への刺客の襲撃を事前に知っていたことは、必ず天皇の疑念を招くだろうと。たとえ玄甲軍の副将とはいえ、それは名目上の職に過ぎず、夜間に武器を携帯して外出することは許されない。まして刺客の動向を知っているなど、なおさらだ。陛下は彼女が密偵を配置していることを疑うだろう。そして彼女を疑うということは、北冥親王家を疑うということになる。さくらは目を上げ、率直に言った。「陛下、上原家が一族の惨禍を経験したことはご存知かと存じます。潤くんが戻って参りましてから、妾は日夜、彼に不測の事態が降りかかることを案じておりました。そのため、姉弟子に依頼し、京に入る怪しい者たちを見張る者を何人か配置させていただきました。果たして先日、数名の者が京に入り、万丸旅館に投宿いたしました。彼らは武芸の心得が深く、宿に籠もったまま外出もせず、何かを企んでいるように見受けられました。潤を狙っているのではと懸念し、密かに監視を続けておりました」「その夜、彼らが夜忍びの装束姿で万丸旅館の二階から飛び降り、親王家ではなく青雀通りへ向かうように見えました。その付近には穂村宰相や左大臣の邸もございますゆえ、朝廷の重臣を狙うのではと危惧し、すぐさま追跡いたしました。しかし思いがけず、彼らは青雀通りではなく将軍家へと向かったのです」清和天皇はその説明を聞き、笑みを浮かべながらも鋭い眼差しを失わなかった。「お前と将軍家との確執を考えれば、なぜ進んで救いの手を差し伸べたのだ?」「人命が関わることでございます。また、妾と将軍家の間に生死を分けるほどの深い怨みがあるわけでもございません。そして何より、臣は玄甲軍の副将。見殺しにすることなどできません」天皇は軽く頷いた。「うむ、その説明も理にかなっておる。だが、あの夜の刺客が葉月琴音を狙っていたことは知っておったか?」「その時は存じませんでした。妾が刺客の手足の筋を切った後、北條剛様が彼らを縛り上げ、その時、山田鉄男殿も禁衛を率いて到着されましたので、妾はその場を離れました」天皇はゆっくりと溜息をついた。「そうか。残念ながら刺客は皆死んでしまい、誰の差し金かを問いただすことはできなくなってしまった。お前が彼らと戦った際、何か手掛かりは掴めなかったか?」さくらは少し考えてから首を振った
しかし青葉はその件について詳しくなかった。「親房展が爵位を継いでいないだって?師匠の調査が間違っていたということか?」「有田先生に聞けば分かるはずだ」玄武は即座に提案した。書斎に呼ばれた有田先生は、確かにその当時の事情を知っていた。諸侯の家系のことなら、三代前まではある程度把握しているのだ。まあ、ある程度だが。「親房展が爵位を継いだことは確かにございません」有田先生は丁寧に説明を始めた。「当時の大名様はご病気で、世子を定めていなかった。展様が戦功を立てて帰京された際、世子に推挙されましたが、その後、大名様の容態が回復に向かい、結局お元気になられた。そのため爵位継承は先送りになり……その後、何があったのかは存じませんが、大名様は突然、長孫の甲虎様を世孫に推挙なさった。そこには何か事情があったに違いありませんが、部外者には分かりません。私にも分かりません。恐らく西平大名家の長老方と、現在の老夫人様だけがご存じなのでしょう」この話は、突然謎めいたものとなった。親房展が爵位を継いでいないのなら、単に世子に封じられただけで楽章が家に福をもたらすと断言できたのだろうか。しかも楽章が生まれた年に世子となり、五歳で送り出されるまで爵位を継承していない。むしろ楽章は当時の大名様には利があったが、親房展にはさほど福をもたらしていないように聞こえる。確実に、この中に何か重要な謎が隠されている。そして恐らく、長老たちでさえ真相は知らないだろう。本当のことを知っているのは、現在の西平大名老夫人だけなのだ。「もう調べるのはやめましょう」さくらは静かに言った。「五郎師兄の判断に任せましょう。私たちは知っているだけでいい。どんな決断をしても、支持するだけです」確かにこれは楽章自身の問題だ。どうするかを決めるのは彼の権利であり、彼が心地よいと感じる方法で進めればいい。さくらは胸が痛んだ。実は以前、五郎師兄とはそれほど親しくなかった。その理由の一つは、彼の放蕩な性格で、いつも遊郭に入り浸っていたからだ。もう一つは、彼が何事にも不真面目で、何も真剣に捉えなかったこと。みんなで遊んでいる時も、両手を後ろに組んで傍観し、「子供じみてるな」と言い残して立ち去ってしまうのだ。さくらは今でも覚えている。梅月山に来て二年目の冬、後山で雪だるまを三つ作った。父と
深水青葉は残りの話を続けた。萌虎が追い出された後、妖術使いは彼が生きられまいと踏んでいた。死のうが生きようが、最後は狼の餌食となり、骨すら残らないだろうと。だが思いがけず菅原陽雲がその辺りを通りかかった。夜になって赤子のような弱々しい泣き声を耳にした陽雲は、何か妖怪に出会えるのではと興味を持ち、その声を頼りに進んでいった。しかし、萌虎を見つけた時の陽雲は落胆した。第一に、赤子ではなく五、六歳ほどの子供だった。第二に、妖怪でもなく、死にかけの病児だった。しかも、どれほどの間ここに放置されていたのか、片方の足の指はネズミに食いちぎられ、血を流していた。近くには毒蛇も出没していたが、萌虎があまりにも衰弱して動かなかったため、蛇も襲わなかったのだ。この子の福運の強さを疑う者があろうか。息も絶え絶えだったのに、陽雲に助けられ、数日間の重湯と二服の薬膳で、まるで奇跡のように命を取り戻した。都では名医たちが束手をこまねいていたというのに、たった二服の薬膳と数碗の重湯で回復したのだ。まさに不思議としか言いようがない。陽雲は眉をひそめた。痩せこけた猿のような男の子は、全身合わせても三両の肉もないだろう。しかも聞けば、もう六歳だという。三、四歳にしか見えない体つきの子供を育て上げるのは、並大抵の苦労ではないだろう。陽雲は最初、この子を元の場所に戻そうと考えた。だが、毒蛇に囲まれていた時でさえ叫び声一つ上げなかったことを思い出した。人として最も大切な胆力を持っているなら、引き取ってみるのも悪くはない。あとは運命次第だろう。五、六歳ともなれば、記憶は残る。師匠を信頼するようになった楽章は、自分の生い立ちを打ち明けた。陽雲が調査を命じ、真相が明らかになった。寺の火災で萌虎が死んだと西平大名家が思い込んだ後、陽雲は剣を携え、妖術使いを梅月山まで連れて行った。折しも秋晴れの良い季節で、陽雲は「干し肉作りには持って来いの天気だ」と言った。そして長い竿を立て、妖術使いを縛り付けた。舌は美味しくないからと、最初にそこだけ切り落とした。妖術使いがいつ息絶えたかは定かではない。ただ、三ヶ月後に下ろされた時、埋葬する価値もなく、むしろ筵を無駄にするのも、穴を掘って大地を穢すのも惜しいということで、狼の餌食にされた。しかし狼でさえ、冬を越
夕食後、さくらと玄武は青葉を書斎へと連れ込んだ。二人は左右から挟むように立ち、青葉が逃げ出せないよう、そのまま部屋の中へ押し込んだ。「なんと無作法な」塾の教師となった青葉は、学者らしい口調で嘆いた。「そんな乱暴な真似は」それでも結局、肘掛け椅子に座らされた青葉は、好奇心に満ちた目で見つめる師弟たちに向かい、少々むっとした様子で言った。「聞きたいことがあるなら、はっきり言うがいい」玄武が最初に切り出した。「一つ目の質問だが、五郎師兄が最近、西平大名邸の周辺を頻繁に訪れているのは、師叔か師匠の指示なのか?親房甲虎に何か動きでもあったのか?」さくらはより深刻な表情で続けた。「二つ目。今夜の五郎師兄の様子が気になるの。紫乃を見る目つきが普段と違うし、いつもみたいに反発しなくなった。何か心当たりはある?」青葉には一つの取り柄があった。話すべきことと、そうでないことの線引きが明確だったのだ。楽章の出自について、他人には隠すべきだろうが、親しい師弟に対して秘密にする必要はないと考えていた。師匠は早くから楽章の身の上を青葉に明かし、時折諭すように言っていた。人生は長いようで短い。いつ何が起こるか分からない。執着しすぎるのは良くないと。青葉も楽章にそう伝えたことがあった。だが楽章は、万華宗の皆が自分の家族だ、他人のことは気にならないと答えるだけだった。「楽章は親房甲虎と親房鉄将の末弟だ。親房夕美が姉で、三姫子夫人は兄嫁にあたる。最近、西平大名邸を頻繁に訪れているのは、おそらく屋敷で起きた騒動と関係があるのだろう。老夫人が病で寝込み、雪心丸が必要なのだ。楽章は雪心丸を持っているから、どうやって渡すか考えているのだろう」青葉の言葉に、玄武とさくらは目を丸くして言葉を失った。二人はありとあらゆる可能性を考えていたが、まさかこんな事実があったとは。さくらは両手を口に当てたまま、しばらくして下ろすと「どうやって万華宗に?お父様が送られたの?西平大名老夫人が実のお母様?どうして一度も会いに来なかったの?」と矢継ぎ早に尋ねた。「長い話だが、かいつまんで話そう」青葉は姿勢を正した。「父親の先代西平大名・親房展は道術に執着していた。楽章が生まれた時、戦功を立てて帰朝し、爵位を継いだ。満月の祝いの時に道士を招いて占いをしてもらったところ、楽章は両親に大
だが楽章は黙ったまま、ただ黙々と酒を飲み続けた。一壺を空けると、今度は紫乃の分まで奪おうとする。紫乃は彼が酔いすぎだと判断し、必死で守った。二人は都景楼の屋上で追いかけっこを始め、先ほどまでの重苦しい空気は、夜風と共に吹き散らされていった。紫乃は結局、この件をさくらに打ち明けなかった。約束はしていなかったものの、楽章が誰にも知られたくない胸の内を吐露したのだから、武家の誇りにかけても、軽々しく噂話にするわけにはいかなかった。しかし、ここ数日、楽章が西平大名邸の周辺を徘徊している姿が、御城番の目に留まっていた。村松碧がさくらに報告すると、さくらは不審に思った。五郎師兄は、あそこで何をしているのだろう?知り合いでもいるのだろうか。その夜の夕食時、さくらは尋ねてみた。「五郎師兄、最近何かお忙しいの?」楽章は顔を上げた。「別に。ぶらぶらしているだけだ」「西平大名邸の近くを?」楽章は紫乃を鋭く見つめた。紫乃は驚いて即座に弁明した。「私、何も言ってないわよ」さくらは二人の様子を窺った。一方は怒りを、もう一方は無実を主張する表情。まるで何か秘密を抱えているようだ。さらに問おうとした時、玄武が箸で料理を取り分けながら「さあ、食事にしよう」と促した。さくらは疑わしげに二人を見やった。二人は同時に俯いて食事を始め、箸を運ぶ動作まで同じように揃っていた。「ある夜のこと」深水青葉は悠然と言葉を紡いだ。「あの二人が都景楼で酒を酌み交わしていたのを見かけたよ。追いかけっこをしたかと思えば、悲鳴や笑い声が聞こえてきてね。実に賑やかなものだった」「あの日のこと?」さくらは驚いて二人を見た。「五郎師兄が『空を飛ぼう』って誘った日?」「騒いでなんかいないわ。悲鳴も上げてないし、はしゃぎもしてない。ただ私の酒を奪おうとしただけよ」紫乃は弁解した。「大師兄」楽章は青葉を睨みつけた。「どうしてそれを?私たちを尾行でもしたんですか?盗み聞きしてたんですか?」突然立ち上がり、声を荒げる。「なんてことを!人の後をつけるなんて!」「誰が尾行なんかするものか」青葉は怪訝な表情で楽章を見つめた。「そんな大きな騒ぎを立てておいて、下の者が気付かないとでも?それにしても随分と取り乱しているな。後ろめたいことでもあったのか?まさか二人は……」「やめろ!」楽章
楽章は黙したまま、酒壺を傾け、大きく喉を鳴らして飲み干した。それから夜光珠を丁寧に箱に収めた。光が消えると、三日月と星々だけが残された。紫乃は楽章がこんな身の上だったとは思いもよらなかった。さくらからも聞いたことがない。遊郭に入り浸って、芸者の唄を聴いたり、自ら笛を吹いて聴かせたり。そんな放蕩な振る舞いをする男が、まさか大名家の息子だったとは。楽章の沈黙の中、紫乃の頭には後宮争いの物語が浮かんでいた。父親に利をもたらした誕生なら、きっと溺愛されただろう。側室の息子が寵愛を受ければ、それは当然、正室とその子への挑戦となる。母親がどんな人物だったかは分からないが、手腕のある女性ではなかったのだろう。でなければ、楽章がこうして家に帰れない身となることもなかったはず。「西平大名家の老夫人が、お戻りになるのを許さないの?家督を争うことを恐れて?」紫乃は慎重に探りを入れた。「誰も、俺が生きていることを知らないんだ」楽章は空虚な笑みを浮かべた。「それでいい。親房家は表面は華やかだが、内部は危機だらけだ。俺の存在を知らない方が都合がいい。あの混乱に巻き込まれずに済む。ただ、都に戻って三姫子さんの苦労を知ってしまった以上、黙ってはいられない。家の当主の妻とはいえ、所詮は他家の人間だ。背負わされている責任が重すぎる」「じゃあ……三姫子夫人を助けたいの?」紫乃は彼の取り留めのない話を整理しようとした。「助けられない。だからこそ、気が滅入るんだ」「でも、どうやって助けるの?それに、お義母様だって、あなたを認めないでしょう。手を差し伸べれば、何か企んでいると警戒されるだけじゃない?」「大名家なんて、どうでもいい」楽章は冷たく言い放った。「欲しいものは何もない。ただ、三姫子さんが賢明なら、今のうちに逃げ道を作るべきだ。都に執着する必要なんてない。子どもたちを連れて、どこか安全な場所へ……俺たち武家ならそうする。でも、そんな助言を聞く耳を持たないだろうから、黙っているさ」「でも気になるわ」紫乃は首を傾げた。「親房夕美は、あなたの妹?それとも姉?少なくとも血のつながりはあるはずなのに、どうして心配しないの?」楽章は冷笑を浮かべた。「彼女は年上だ。私は末っ子さ。なぜ彼女のことに首を突っ込む必要がある?すべて自分で選んだ道だ。三姫子さんとは違う。彼女は巻
「おや、紫乃が弱気になるなんて、珍しいじゃないか」突然、背後から声が聞こえた。振り向くと、そこには音無楽章が颯爽と立っていた。「お前より辛い思いをしている人だって、前を向いて頑張っているというのに。財も力も美貌も、世の女性が望むものは全て持っているお前が、一度の失敗くらいで落ち込むなんて。お前にこんな恵まれた生まれを与えた閻魔様に申し訳が立つのか?」紫乃が振り返ると、楽章の背の高い姿が彼女を覆い隠すように立ちはだかっていた。整った顔立ちには、どこか束縛を嫌う自由な魂が宿っているような表情。廊下の行灯に照らされた小麦色の肌が柔らかな光を放っている。漆黒の瞳は、真面目な諭しなのか、からかいの色を含んでいるのか、読み取れなかった。「さあ、空を飛ぼう」楽章は紫乃の手首を掴むと、軽やかに跳躍した。まるで風を操るかのような身のこなしで空中を滑るように進む。紫乃は目を見開いた。まさか楽章の軽身功がここまで巧みだとは。これまで彼の技は、どれも中途半端なものだと思い込んでいた。さくらは首を傾げた。五郎師兄は、私がここにいることに気付かなかったの?一瞥すらくれず、挨拶もなしか。楽章は紫乃を都景楼の最上階へと連れて行った。足は宙に浮かび、都の灯りが一面に広がっている。上る前に、都景楼から酒を二壺持ち出していた。一つを紫乃に渡し、もう一つは自分のものとした。夜風が心地よく、昼間の蒸し暑さを払い除けていく。漆黒の闇の中では互いの顔も見えず、このまま酒を飲むのも味気ない。そこで楽章は袖から夜光珠を取り出した。その光は都景楼の屋上全体を、まるで月明かりで照らすかのように包み込んだ。「見てごらん、この灯りの海を。一つ一つの明かりが、一つの家族を表している。どの家にもそれぞれの悩みがある。皇族であろうと庶民であろうと、人生には様々な苦労が付きまとう。お前の悩みなど、たいしたことじゃない」「ふん」紫乃は口の端を歪めた。「ちょっとぼやいただけよ。わざわざここまで連れてきて慰める必要なんてないし、付き合って飲む必要もないわ」そんな慰めが必要なほど落ち込んでいるわけじゃない。元気なのに。楽章は深い眼差しで紫乃を見つめながら、静かな声で言った。「誰がお前を慰めに来たって?俺を慰めに来てもらったんだ、俺の酒の相手に」紫乃は命の恩人への感謝もあり、怒る代わりに尋
三姫子は相手にする気力も失せていた。「答えたくないのなら、結構よ。離縁を望むのなら、私から村松家の奥方に頭を下げる必要もないでしょう」「お義姉さん」夕美は涙ながらに懇願した。「でも、やはり村松家には行ってください。誤解を解いていただかないと……あの時、光世さんはまだ独身でしたし、私だけが悪いわけではありません。それに、姪たちの縁談もお心配でしょう?この騒動が収まらなければ、良い縁談など叶うはずもありません」三姫子は血を呑むような思いで、それでも冷静さを保って言った。「運命ね。あなたは恵まれた家に生まれたとおっしゃる。でも私の娘たちは不運だったのね。同じ親房家に生まれたばかりに、我慢を強いられる。自分のことを考えるのは悪くない。でも、他人を巻き込まないで」「そんな……私に北條家へ戻れとおっしゃるの?」三姫子は最早言葉を継ぐ気力もなく、背を向けて部屋を出た。もう関わるまい。夕美が離縁を望むなら、村松家の奥方に謝罪したところで意味がない。このような汚名は、まるで入れ墨のよう。肉ごと削ぎ落とさない限り、一生消えることはない。北冥親王邸では、紫乃がさくらの話に耳を傾けていた。話が終わると、紫乃は唖然として、しばらく言葉が見つからなかった。「どうして」しばらくして紫乃は呟いた。「大それた悪人でもないのに、あんなに反感を買う人がいるのかしら。実際、北條守とは相性が良さそうなものなのに」「私が薬王堂にいたことも、誰かに見られていたでしょうね」さくらは静かに言った。「あの二人が出て行ってから、私も店を出たけど、まだ大勢の人がいたから」「大丈夫よ」紫乃は慰めるように言った。「少し噂になるくらいで、たいしたことないわ」傍観者なら噂の種にはならないはずだが、さくらの立場は違う。かつての北條守の妻なのだから。夕美の不義密通、そして北條守との再婚。この一件で、前妻のさくらまでもが世間の好奇の目にさらされ、噂話の的となるのは避けられない。「大したことないけど」さくらは首を傾げた。「あの時は、二人が取っ組み合いを始めて、私も呆然としてしまって」「へえ、村松家の奥方って相当な戦闘力だったの?」「きっと長い間心に溜め込んでいたのね。一気に爆発して、体面も何もかも忘れて、ただひたすら怒鳴り散らしていたわ」「あー、見たかったなぁ」紫乃は残念そ
事件以来、三姫子は初めて夕美の元を訪れた。夕美は薄い掛け布で顔を覆い、誰とも会いたくないという様子で横たわっていた。老女が黒檀の円椅子を運んできて、寝台の傍らに置いた。布団の下の人影が、かすかに震えている。「もう逃げても始まらないわ」三姫子は単刀直入に切り出した。「事態を収めなければならない。お義母様の意向では、村松家の奥方に謝罪して、誤解を解いていただくつもりよ。ただ、承知いただけるかどうか……それと守さんのことだけど、今日、将軍邸を訪ねたの。あなたのことは、ずっと前から知っていたそうよ。ただ、敢えて言い出さなかっただけ。もしあなたが離縁を望まないなら、今回の件は水に流して、これまで通り暮らしていけるとおっしゃっていた。ただし、一つ条件があるわ。彼、どうしても従軍するつもりみたい」薄い掛け布がめくれ、夕美の腫れぼったい哀れな顔が現れた。桃のように腫れた目は、さらに大きく見開かれ、瞳が震えている。「知っているはずないわ……どうして……離縁しないかわりに、何を求めているの?」「言ったでしょう。従軍すると」「ただの下級兵士として?」夕美の目に再び涙が溢れた。「それなら実家に戻った方がまし。母上は私のことを大切にしてくれると約束してくださった。どんなことがあっても、私は西平大名家の三女よ。持参金だけでも一生食べていける。どうして彼と貧乏暮らしを強いられなければならないの?」夕美は寝台に横たわったまま、首筋の赤い痕を見せている。両目から涙が零れ落ち、鼻声で訴えかけた。「私のことを軽蔑なさっているのは分かっています。でも、よくよく考えてみたの。私のどこが間違っていたのかしら?自分のことを第一に考えただけ。それがあなたたちの目には利己的に映るのね。でも、誰だって利己的じゃないの?自分を大切にして、不遇は嫌だと思うのは、そんなに悪いことなの?親房家に生まれた私は、多くの人より恵まれている。実家という後ろ盾もある。なのに、どうして自分を卑しめなければならないの?」息を継ぎ、さらに言葉を重ねた。「あなたたちは言わないけれど、私が上原さくらや木幡青女と比べることを笑っているでしょう?でも、人は誰でも比較するものよ。虚栄心のない人なんているの?私も上原さくらも再婚よ。比べて何が悪いの?」「それに、北條守との結婚だって……私が幸せな結婚生活を望まなかった
北條守は涼子を叱りつけ、退出を命じた。続いて孫橋ばあやに使用人たちを下がらせ、父と兄だけを残した。最近、酒を飲み過ぎているのか、守の顔色は青白く、憔悴しきっていた。乱れた髪は雑草のように伸び放題で、数日前に剃ったであろう髭が青々と生え始め、荒れた唇の周りを縁取っていた。まるで野良犬のような見苦しさだった。着物は皺だらけで、体からは酒の臭いが染み付いていた。三姫子は夕美との結婚当時の彼を思い出していた。特別颯爽とはいかなくとも、立派な青年武将だった。それが今や、こうも見る影もない姿になってしまうとは。まるで時季外れに萎れた花のように、その顔には深い疲弊の色が刻まれていた。守が黙り込む中、父の義久が口を開いた。「三姫子夫人、噂はもう都中に広まっております。夕美は天方家にいた頃から不義を重ねていたとか。これほどの醜聞では、わが将軍家も以前ほどの家格はございませぬが、そのような不徳の輩を置いておくわけにはまいりませぬ」三姫子はこうなることは予想していた。離縁を思いとどまるよう懇願するつもりもなく、ただ一言だけ口にした。「無理を承知で申し上げます。来年まで、離縁を延ばすことは叶いませぬでしょうか」「よくもそこまで計算なさいましたな」義久は珍しく父親らしい威厳を見せた。「来年まで待てというのか。我が将軍家の面目は、それまでにどれほど汚されることか。そもそも彼女自身が離縁を望んでいたではありませんか。結婚以来、二人は絶え間なく言い争い、やっと授かった子までも失った。これは縁がないということ。何故そこまで強いるのです?」義久は普段、優柔不断で面倒事を避けがちだったが、他人の道徳に関する問題となると、必ず厳しい態度で臨んだ。息子がここまで憔悴し切っているというのに、このような不義理な嫁をこれ以上置いておいては、どうして普通の暮らしが営めようか。「離縁とはいえ、持参金は一切没収せず、すべて返還いたします。持ってきた分はそのまま持ち帰れるようにしましょう」義久は断固として告げた。一見、寛大な処置に思えた。もし西平大名家の立場でなければ、三姫子は問いただしたいところだった――どうしてさくらを離縁する時は持参金の半分を没収すると言っていたのか、と。だが、そんなことは言えるはずもない。「来年が無理なら、せめて数ヶ月後では?年末まででしたら