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第533話

作者: 夏目八月
しばらく世間話をした後、さくらが尋ねた。「耳飾りの修理は可能でしょうか?」

「お義母様が金鳳屋に持って行かせてくださいました。おそらく直せるかと」木幡青女が答えた。

「そのような大切なお品でしたら、やはりお手元に置いておいた方がよろしいかと。お付けになって外出されるのは少し危険がございますわ」さくらは青女が一つの耳飾りのためにすべてを顧みなかった様子から、その品が彼女にとってどれほど大切なものかを察していた。

「普段はつけておりません」青女は微笑んだが、その瞳には涙が滲んでいた。「ただ昨日、国光くんを学堂へ送る時に、この耳飾りをつければ、まるで彼も一緒に国光くんを送っているような気がして......」

彼女の声はわずかに震えていた。「これは私たち夫婦が結婚した時に、人生でしたいことの目録に書き込んだことの一つなんです。自分を騙しているだけだと分かっています。でも、時には自分を欺かなければ、この日々を生きていけないのです」

さくらの目に深い同情の色が浮かんだ。その半分は青女へのもの、そして残りの半分は自分自身へのものだった。

「王妃様のような強い方は、私のようにこんな愚かな自己欺瞞などなさらないでしょう」青女は長い間誰にも心の内を明かさなかったのか、あるいは夫が上原太政大臣の配下として邪馬台の戦場で上原家一族の英雄七人と共に散った縁から、誰かに話したい気持ちがあったのだろう。

「私には大きな志もなく、才能も容姿も並の者です。性格は鈍く、何をするにも決断力に欠けておりました。でも夫は違いました。若くして英雄と呼ばれ、容姿も優れ、侯爵家という名門の出。どんな素晴らしい方とも結婚できたはずなのに、私のような取り立てて何もない者を選んでくれたのです」

「十七で嫁ぎ、今年で二十五になります。八年の結婚生活でしたが、ほとんど離れ離れで、そのために子にも恵まれませんでした。でも今は国光くんがおります。実の子ではありませんが、きっと夫も喜んでくれると思います。私にはもう二つの願いしかありません。一つは国光くんが夫のような清廉な人になることです。もう一つは、いつの日か国光くんを連れて、夫が命を落とした場所を訪れ、夫への拝礼と焼香をさせることです」

彼女はさくらを見つめながら話した。瞳には涙が光っていたが、決意に満ちていた。「その日が来ましたら、どうか王妃様、私たち母子
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    薩摩城。親房甲虎はすでに我慢の限界に達していた。四度の交渉を重ねても、ビクターは一歩も譲らず、七瀬四郎との交換条件として薩摩城の割譲を要求し続けていた。他の捕虜たちはすでに交換済みだったが、それすら不利な取引だった。両国の捕虜の数は不均衡で、羅刹国軍の捕虜は上原軍の二倍にも及んでいたのだ。捕虜の数が合わないということは、彼らがどれほど多くの捕虜を殺害したかを物語っている。そして今、七瀬四郎の命と薩摩城を交換しろとは、何を考えているのか。もし二日前に北冥親王の影森玄武が来て交渉を引き延ばすよう要請していなければ、今すぐにでもビクターの要求を突っぱねていただろう。天方許夫と斉藤鹿之佑も邪馬台回復における七瀬四郎の重要性を説き続けているが、甲虎にはそうは思えなかった。名簿を確認したが、上原軍には七瀬四郎という人物は存在しない。たとえ兵籍に漏れがあったとしても、一人の人間だけで、どうやってあれほどの重要な情報を送り続けられたというのか。そのため甲虎は、七瀬四郎が送ってきた情報など、前線の斥候でも集められる程度のものだと考えていた。交渉はすでに長引きすぎている。もう引き延ばす気はない。どうせ他の捕虜たちは帰還済みだ。七瀬四郎が忠義の士なら、自分一人の命と引き換えに一つの城を失うことなど望まないはずだ。しかし問題は、天皇が影森玄武を交渉に参加させたことにある。玄武は到着後、交渉引き延ばしの命令を下しただけで姿を消した。これが何を意味するか分かっていたからだ。七瀬四郎を見捨てることへの非難を恐れて、身を隠したのだ。影森玄武が姿を隠し、交渉の采配を全て甲虎に任せたということは、七瀬四郎を見捨てるにせよ、城を明け渡すにせよ、民衆から非難の声を浴びるのは甲虎であって、影森玄武ではないということだ。そこで甲虎は、影森玄武の捜索を命じると同時に、朝廷に上奏した。影森玄武が薩摩到着後に姿を消したことを告発する内容だった。この上奏があれば、今後どのような決定を下そうと、影森玄武も無関係ではいられまい。姿を隠したのは彼自身なのだから。上奏を送り出した後、甲虎は斉藤鹿之佑と天方許夫を呼び寄せ、協議を行った。総帥の陣営に座る彼の周りには、かつての粗末な陣屋とは比べものにならない豪華さが広がっていた。広々とした明るい大広間、快適な長椅子、そして冬でも

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    六月十八日の夕暮れ、十人の男たちは粗末な椀を掲げていた。椀の中身は冷たい水だった。この数年、彼らは茶も酒も一滴も口にしていなかった。茶葉はこの辺境では贅沢品で、彼らには手が出なかった。濁り酒は安価ではあったが、一滴たりとも口にする勇気はなかった。一時の酒の勢いで、言ってはならないことを口走れば、それこそ命はないも同然だったからだ。彼らが唯一酒を買ったのは、上原元帥と六人の若き将軍たちの戦死を知った時だった。地面に酒を注ぎ、元帥の御霊を弔った。その夜、布団の中で一晩中涙を流し続けた。しかし悲しみに浸れる時間は一晩だけ。翌日には涙を拭い、再び命懸けの任務に身を投じねばならなかった。邪馬台はまだ奪還されていなかったのだから。その後、邪馬台は奪還され、ビクターは軍を率いてこの地に退き、守備についた。もはや邪馬台への情報伝達は不可能となり、国境の往来も極めて困難になった。以前は糧食や商品を運ぶ隊列に紛れて薩摩へ情報を送っていたが、今はその必要もなく、外に出ることすらままならない。そのため邪馬台奪還後は、どうやって脱出するかばかりを考え、東奔西走していた末に、清張が捕らえられてしまった。清張は捕縛後、おそらく厳しい拷問を受けただろうが、最後まで仲間のことは明かさなかった。さもなければ、羅刹国の兵士たちはとうに彼らを見つけ出していたはずだ。清張の鉄のような意志と不屈の精神を思えば、彼らにも恐れることなどなかった。藁草履を脱ぎ捨て、十人が揃って身を屈め、新しく作った布靴を履いた。ぼろ布同然の衣服を脱ぎ、夜忍びの装束に着替えた。この十着の装束は、黒布を買って自分たちで縫い上げたものだった。かつては刀剣を手に戦場で敵を討った武人たちだ。針仕事など知るはずもなかったが、この数年は既製の衣さえ買えず、布を買って自分で仕立てるしかなかった。近所の老婆に教えを請い、次第に皆が覚えていった。武器すら持っていなかった彼らは、捕虜収容所から出てきた時、何一つ持ち合わせがなく、衣服さえ鞭打たれて布切れ同然だった。数年の歳月をかけ、今では自前の使い慣れた刀剑も手に入れた。情報収集の合間には、天方と清張の指導の下、深山で武芸の鍛錬を重ねた。彼らは砂漠に生える頑強な雑草のように、忠義の信念だけを糧に今日まで生き抜いてきた。六月十八日の月は空に懸かり

  • 桜華、戦場に舞う   第541話

    影森玄武は彼らを目にした瞬間、心臓が喉元まで飛び上がりそうになった。どこからこれほどの人数が現れたのか。しかも、その中には明らかに武芸の心得が浅い者もいる。鉄鉤と縄を使わなければ城壁も登れないほどだ。一体何者なのか。深夜に衛所に忍び込む目的は何なのか。もし彼らが物音を立てでもしたら、今夜の救出計画は水の泡となってしまう。玄武たちは暗がりに身を潜めていたが、城壁に沿って素早く近づいてくる彼らに声をかけることもできない。仕方あるまい。衛兵の交代も終わりに近づいている。一刻も早く潜入を開始せねばならない。天方十一郎たちも前方に潜む三人の気配を察知した。しかし、闇に紛れて黒装束に身を包んだ彼らの姿は、顔こそ隠していないものの、はっきりとは見分けられなかった。敵か味方か判断がつかないまま、その三人は燕のように身軽く、彼らの目指す方向へと瞬く間に消えていった。天方たちは一瞬呆然とした。まさか、自分たちと同じ救出の目的なのだろうか。だが、それはありえないはずだ。本営との連絡は途絶えているとはいえ、元帥が交代して親房甲虎となったことは知っている。親房甲虎といえば、天方にとっては義理の兄だ。武将の出でありながら、長らく戦場から遠ざかり、机上の空論を得意とする男。実力が皆無というわけではないが。ただ、彼は傲慢で自負心が強く、得失を天秤にかけるタイプの男だ。判断を迫られれば、必ず面倒な手段は避けて通る。交渉か救出か、となれば間違いなく前者を選ぶ。両方を試みるような真似はしないだろう。一息ついた天方は、手で潜入の合図を送った。衛所は広大で、十二棟の建物が立ち並ぶ。地牢は第十一棟と第十二棟の間にある独立した小屋の地下に設けられていた。その場所が厳重な警備下にあることは間違いない。各所で警備の交代が行われている中、彼らは東へ西へと身を隠しながら、何とか第十一棟まで辿り着いた。第十一棟の壁に身を寄せながら、そっと地牢入口の警備の様子を窺おうとした矢先、先ほどの三人も同じように壁際に潜んでいるのが見えた。そのうちの一人が首を伸ばして様子を窺っている。地牢に近いため、周囲には明かりが灯されていた。ただ、彼らの潜む場所は、折よく傍らの大木の影が落ちかかり、ほどよい暗がりとなっていた。とはいえ、先ほどよりは明るく、互いの姿も幾分か見分けられるよ

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    両手を後ろに組まれて立ち上がらされた琴音の顔には、地面の小石で擦り傷がつき、血が滲んでいた。まず北條守に一瞥を投げかけ、その目には深い失望の色が宿っていた。それからさくらを恨めしげに睨みつけた。さくらの着ている官服は、琴音が夢見続けたものだった。しかし、それに触れる機会すら与えられなかったのだ。さくらは鞭を巻き取り、琴音の前に立った。二つの目が向き合う。一方には怨毒が、もう一方には露骨な憎しみが宿っていた。ついにさくらは琴音への憎しみを隠すことをやめた。両親の位牌の前でさえ、その感情を抑え込んでいた。両親や兄夫婦の御霊に、憎しみで歪んだ自分の姿を見せたくなかったのだ。しかし今日、ついに清算の時が来た。心の中の憎しみはもはや抑えられない。琴音は彼女の家族を殺し、祖父までも巻き込んだ。この仇は決して許せない。そのような深い憎しみの前では、琴音の嫉妬や無念さは余りにも薄っぺらく、一瞬の睨み合いで、その気迫は完全に押しつぶされた。琴音は目を逸らし、北條守を見つめた。今度こそ、純粋な救いを求める眼差しだった。守の胸中は言いようのない複雑さに満ちていた。先ほど、意図的に親房虎鉄の制止を受け入れたのは、実は虎鉄を制していたのだ。琴音が守を人質に取っても意味はない。しかし、刑部大輔を人質にすれば、刑部の役人たちは全員退かざるを得なくなる。彼は琴音の意図を読み取っていた。二人の間には今でも阿吽の呼吸が残っている。関ヶ原での一年間、二人は鹿背田城の任務だけでなく、それ以前から共に戦ってきた。この暗黙の了解は、当時の心の通い合いから生まれたものだ。鹿背田城の穀倉を焼く任務の前、琴音は彼に尋ねた。もし彼女が危険な目に遭い、命の危機に瀕したら、どうするのかと。その時、彼は答えた。自分の命を犠牲にしてでも、どんな代価を払ってでも彼女を救うと。先ほど琴音に問われた時、彼の心は揺れた。それでも、その約束は守るつもりだった。たとえ官位を失い、罪に問われることになろうとも。さくらの出現に、北條守は顔向けできない思いに駆られた。琴音との約束は、今でも守ろうとしている。だが、なぜ当時、さくらとの約束は守れなかったのか。一瞬にして、様々な感情が胸中を渦巻いた。足の痛みで我に返り、彼を強く踏みつけた親房虎鉄をじっと見つめた。虎鉄は怒りに満ちた表情

  • 桜華、戦場に舞う   第897話

    北條守は慌ただしく将軍家に戻った。周防からの使者の報せを聞いた時から、胸が締め付けられる思いだった。葉月琴音の性格をあまりにも知り尽くしている。矛盾した性格の持ち主で、強がりながらも死を恐れ、行き詰まっても必ず抗おうとする。今回も、おとなしく投降するとは思えなかった。そして今や、二人の間に情は残っていない。生き延びるため、琴音が何をするか、予測もつかない。この時期、彼女は都を離れたがっていた。しかし、安寧館を出れば暗殺者が待ち構えているのではと恐れていた。あの暗殺未遂は、彼女を本当に震え上がらせたのだ。おそらく、事が起きた時の対処法を何度も考えていたのだろう。だからこそ、平安京の使者が来ることを告げなかった。彼女が準備を整えることを警戒してのことだ。吉祥居に着くと、琴音が自らの喉元に剣を当てているのが目に入った。胸が沈んだ。「葉月琴音、剣を下ろせ!」琴音の目が凍てついたように冷たく光り、その視線が剣のように彼を射抜いた。歯を噛みしめるように言う。「北條守!」親房虎鉄も二名の衛士を連れて到着し、すぐさま北條守を制止した。「近づき過ぎないように」北條守は複雑な眼差しで虎鉄を見た。何を懸念しているのか、分かっていた。「葉月、周防殿と共に刑部へ行くんだ」虎鉄を挟んで北條守は諭すように言った。「余計なことはするな。調べるべきことは協力して明らかにすれば良い。刑部も無理な取り調べはしない」「馬鹿な!」琴音の目が炎のように燃えた。「無理な取り調べをしないなら、なぜ将軍家に置いておけないの?北條守、一つだけ聞かせて。今のあなたには、私への情など微塵も残っていないということ?」北條守は居心地の悪そうな表情を浮かべた。「それは俺たち二人の問題だ。まずは刑部の職務に従ってくれ」琴音は冷笑を浮かべた。「従う?いいでしょう。こちらへ来て、あなたの手で私を捕らえて。御前侍衛副将なんでしょう?」北條守は動かない。琴音の目の中の怒りが徐々に消え、深い悲しみだけが残った。声も虚ろだ。「北條守、私たち一緒に関ヶ原の戦場を駆けて、生死を共にしたわね。鹿背田城に向かう時、あなたが私に何を言ったか、覚えてる?」その言葉に、守の瞳孔が収縮した。思わず頷く。「覚えている」「覚えていてくれて良かった」琴音の目に涙が光った。「刑部についていくわ。将

  • 桜華、戦場に舞う   第896話

    刑部大輔が自ら将軍邸に赴き、葉月琴音の逃亡を防ぐため、まず屋敷を包囲した。この事態に親房夕美は震え上がり、文月館に身を隠して外に出られなかった。葉月の逮捕が目的と知って、やっと姿を見せた。騒ぎが起きた時点で、琴音は察していた。安寧館の廊下に立ち、剣を構える。冷たい風が彼女の半ば毀れた顔を撫でていく。死のような静寂が漂っていた。安寧館に踏み込んできた役人たちを見つめ、剣を優雅に舞わせ、先頭の役人に向けた。「葉月琴音、おとなしく投降しろ!」安寧館の外から、刑部大輔の周防光長が怒鳴った。「北條守は?」琴音は冷ややかに問うた。北條守の復職は知っていた。天皇の側近として、すべてを知っていたはずなのに、一度も戻って来て教えてはくれなかった。周防は彼女の問いには答えず、厳しい声で言った。「抵抗しない方がいい。しても無駄だ。将軍邸は完全に包囲されている」しかし琴音は自らの喉元に剣を当て、不気味な冷笑を浮かべた。「北條守を呼べ!」夕美は彼女が投降を拒むのを見て、将軍家に累が及ぶことを懸念し、慌てて叫んだ。「葉月、馬鹿なことはやめて!」琴音は夕美など眼中にない様子で、相変わらず冷たい声で周防に言い放った。「北條守を呼べと言っている。聞きたいことがある。どのみち死ぬのなら、早く死んだ方が苦しまずに済む」周防は眉をひそめた。今、葉月琴音を死なせるわけにはいかない。平安京使者の怒りを受け止めさせねばならない。死ぬにしても、使者の目の前でなければ。「葉月、お前は死んで楽になれるかもしれんが、両親や親族を巻き込むことになるぞ。軽挙妄動は慎むがいい」「両親?親族?」琴音は嘲笑的に冷笑した。「私のことなど、彼らは一度でも気にかけてくれましたか?世間の噂を気にして、さっさと都を離れた。私という娘の存在すら認めない彼らの生死など、どうでもいい」「それでも将軍家に累を及ぼすことはできないでしょう!」夕美は怒りを露わにした。琴音は夕美を、まるで泥を見るような目で睨んだ。「将軍家なんて、私の道連れになればいい」夕美は怒りで指先を震わせながらも、安寧館に踏み込む勇気はなかった。「なんて悪意に満ちた......」琴音は横たえた剣が既に喉元の皮膚を破り、血が滲んでいるのもかまわず、冷たく声を上げた。「くだらない。北條守を連れて来い」周防は眉

  • 桜華、戦場に舞う   第895話

    清和天皇と朝廷の面々に残された選択肢は二つ。一つは、虐殺の事実を完全に否認すること。もう一つは、これまで事態を知らなかったと装い、国書受領後に平安京の調査に協力し、然るべき者を処罰する。後の祭りとはいえ、国の名誉を挽回する機会にはなる。国書には境界線の問題には触れられていなかった。この件は熟慮の上での行動を要する。天皇は大臣たちと三日間に渡って協議を重ねた。第一の選択肢は論外だった。平安京は正式な国書で告発してきた以上、十分な証拠を握っているはずだ。加えて、平安京国内での世論工作も長期に及び、両国の国境では既に騒動が広がっている。責任逃れをすれば、即座に開戦となるだろう。となれば第二の選択肢しかない。責めを負うべき者には、相応の処分を下さねばならない。決断を下した後、清和天皇は穂村宰相と暫し目を交わした。他の者たちは沈黙を保ち、誰も口を開こうとしない。この事態に対処するには、佐藤大将を召還して責任を問わねばならないからだ。しかし、佐藤大将は生涯を戦場で過ごしてきた。文利天皇の治世から反乱の平定や盗賊の討伐に従事し、邪馬台の戦場を踏み、野心的な遊牧民族を撃退し、最後は関ヶ原の守備についた。これほどの年月、佐藤家の息子たちも戦場を転々とし、幾人が命を落としたことか。二月十九日は、この老将の古稀の祝いの日だ。この年齢にして未だ辺境を守る武将は、大和国の建国以来、彼一人のみである。誰が召還を言い出せようか。清和天皇は最後に玄武に視線を向けた。「北冥親王よ、かつて邪馬台の元帥であった汝は、この件をどう処理すべきと考える?」一同は驚きを隠せなかった。なぜ北冥親王に問うのか?北冥親王妃は佐藤大将の孫娘である。彼から召還と問責の進言があれば、夫婦の不和を招くではないか。清家本宗は背筋が凍る思いがした。夫人の逆鱗に触れた際の様々な結末が脳裏をよぎり、同情心が溢れ出て、一歩前に進み出た。「陛下、臣は佐藤大将を召還して事態の調査を行い、関ヶ原の指揮権は一時的に養子の佐藤八郎に委ねることを提案いたします」兵部大臣である彼への諮問は、本来なら宰相の後であるべきだった。両者からの提案が最も適切なはずなのだ。天皇は清家本宗を一瞥した後、「他に異論はあるか?」と問うた。しばしの沈黙の後、次々と大臣たちが「臣も同意見でございます」と声を

  • 桜華、戦場に舞う   第894話

    二日後、深水青葉が水無月清湖からの伝書鳩の便りを携えて玄武を訪ねた。表情は険しい。「平安京の皇帝が使者を大和国に派遣すると。国書も間もなく到着するそうです」玄武の表情が暗くなった。来るべきものが、ついに来たか。正月も明けぬうちに、清和天皇は御前侍衛を玄甲軍から独立させ、上原さくらの管轄外とすることを宣言した。御前侍衛副将には相変わらず北條守が任命された。北條守には信じられない思いだった。あの日、淡嶋親王家の萬木執事との出会いを思い返し、まさか本当に親王家の助力があったのではと胸中で思案を巡らせた。しかし、もし本当に淡嶋親王家の手が働いているのなら、この復職には危険が潜んでいるはずだ。相談できる相手もなく、帰宅して親房夕美に話すと、彼女は言った。「相手が何を企んでいようと、元の職に戻れるなら良いじゃありませんか?しかも今は上原さくらの指揮下にもない。これ以上の好条件はないでしょう」北條守は眉間に深い皺を寄せた。「いや、駄目だ。何か陰謀がある可能性が高い。陛下にお話ししなければ」夕美は信じられないという表情で夫を見つめた。「正気ですか?そんなことを陛下にお話しして、お怒りを買えば職を失うことになります。そうなれば、一生出世の道は断たれる。御前侍衛副将どころか、普通の禁衛にさえなれなくなってしまいます」北條守は黙り込んだ。同じ不安を抱いていた。「言わないで。私の言う通りにして。淡嶋親王家があなたを助けるのは、あの時上原さくらとの離縁を止められなかった後ろめたさから......」北條守は首を振り、妻の言葉を遮った。「それはおかしい。仮に淡嶋親王妃に後ろめたさがあるとしても、それは上原さくらに対してであって、俺に対してのはずがない。俺こそ、上原さくらに対して申し訳が立たないのだ」「あなたって本当に......」夕美は目を丸くして怒りを爆発させた。「もういいわ。彼らがどんな思惑を持っているにせよ、淡嶋親王には野心がないのは確かです。謀反など考えてもいない。あなたを復職させたのは、何かあった時にあなたの力を借りたいからでしょう」「それもおかしい。私の職を守れるほどの力があるということは、これまでの臆病で控えめな態度が演技だったということになる」「そんなことを気にする必要があるの?自分のことだけ考えなさい。御前侍衛副将の職を望んで

  • 桜華、戦場に舞う   第893話

    守は無相の深い瞳に潜む陰謀の色を見て、背筋が凍った。大長公主の謀反事件さえ決着していないというのに、もう天皇の側近を手駒にしようというのか?淡嶋親王は本当に臆病なのか?一体何を企んでいるのか?自分の器量は分かっている。二枚舌を使うような真似は到底できない。特に天皇の側近として......そんなことをすれば、首が十個あっても足りまい。ほとんど反射的に立ち上がり、深々と一礼する。「萬木殿、申し訳ございませんが、家に用事が......これで失礼させていただきます」言い終わるや否や、踵を返して足早に立ち去った。無相は北條守の背を呆然と見送りながら、次第に表情を引き締めていった。自分の目を疑わずにはいられなかった。まさか、この男には少しの大志もないというのか?御前侍衛副将という地位が何を意味するか、本当に分かっているのだろうか?天皇の腹心として、朝廷の二位大臣よりも強い影響力を持ち得る立場なのだ。野心がないはずはない。接触する前に徹底的に調査したはずだ。将軍家の名を輝かせることは、彼の悲願のはずだった。一族の執念とも言えるものだ。三年もの服喪期間を甘んじて受け入れるなど、あり得ないはずだ。それとも......既に誰かが先手を打ったのか?服喪の上申書が留め置かれていることは、ある程度知れ渡っている。先回りされていても不思議ではない。だが、ここ最近も監視は続けていた。年が明けてからは、禁衛府の武術場以外にほとんど足を運んでいない。喪中という事情もあり、人との付き合いもなく、西平大名家を除けば訪問者もいなかったはずだ。西平大名家か?しかし、それも考えにくい。親房甲虎は邪馬台にいる。親房鉄将は役立たず。残りは婦女子ばかり。どうやって北條守を助けられるというのか?無相は考え込んだ。おそらく、北條守は淡嶋親王家の力量を信用していないのだろう。無理もない。この数年、淡嶋親王は縮こまった亀以下の有様だったのだから。とはいえ、燕良親王家の身分を表に出すわけにもいかない。大長公主が手なずけていた大臣たちも、今となっては一人として頼りにならない。全員が尻込みしている状態だ。ため息が漏れる。以前から燕良親王に進言していたのだ。大長公主の人脈は徐々に吸収し、彼女だけに握らせるべきではないと。しかし燕良親王は、大長公主が疑われることはないと過信し続けた。そ

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