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第480話

Penulis: 夏目八月
梁田老夫人は目の前が真っ暗になり、怒りで気を失いそうになった。体が揺らぎ、しばらくして漸く正気を取り戻すと、震える手で皇太妃を指さした。「私は......必ず、必ず太后様に上奏いたします。皇太妃様の横暴を」

「どうぞ上奏なさい、妖婦め!」恵子皇太妃は高慢に顎を上げた。「太后様は私の姉。しかし道理をわきまえた方。あなたの家が蘭をこのように虐げていると知れば、怒りのあまり、この伯爵の爵位さえ剥奪されかねない。その時は貴婦人どころか、庶民に成り下がるがいい」

「爵位を剥奪する権限が、あなたにあるというの?あなたなど何者だと?」

梁田老夫人は完全に激昂し、杖を投げ捨てて皇太妃を突き飛ばした。皇太妃はその勢いで床に倒れ、大声で叫んだ。「私に手を上げるとは!伯爵家の者が目上の者に暴力を!私に手を上げるとは!」

この言葉に、伯爵邸の全員が凍りついた。先ほどまで痛烈な罵倒を浴びせていた皇太妃が、今や虐げられた若妻のように、二筋の涙まで絞り出していた。

その半時刻ほど前、さくらと玄武は既に馬車で承恩伯爵邸へ向かっていた。さくらには直接介入しづらい事柄もあったが、母上が虐げられるとなれば、出て行く口実になる。

これこそが、さくらが紫乃に馬車の中で皇太妃に伝えるよう頼んだ内容だった。まず罵倒し、殴打し、相手の怒りを買った後で倒れる。そうすれば、彼らには正当な理由ができる。

また、篭は皇太妃が紫乃に煙柳を引きずらせ始めた時、淡嶋親王邸へ走り、恵子皇太妃が承恩伯爵邸で騒動を起こしていると伝えた。

淡嶋親王夫婦はこの知らせに驚愕した。恵子皇太妃の性格では、この騒動で両家が敵対関係になりかねない。

加えて淡嶋親王妃は以前から娘に会いたがっていたが、淡嶋親王が許可しなかった。今や両家の敵対を恐れた淡嶋親王は、直ちに承恩伯爵邸へ向かう馬車を用意させた。

二台の馬車はほぼ同時に承恩伯爵邸の門前に到着した。

馬車から降りると、玄武はさくらの手を取り、淡嶋親王は先に降りて振り返り、淡嶋親王妃を助け下ろした。

四つの目が出会い、玄武は淡々と声をかけた。「叔父上、叔母上」

「玄武」淡嶋親王は彼らの来訪を予期していなかったため、少し気まずそうだった。「どうして来たのだ?」

「叔父上こそ、なぜいらしたのです?」玄武が尋ねた。

淡嶋親王は本来、皇太妃の騒動を止めるために来たのだが、玄武
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    さくらは驚きの表情を浮かべた。「賢一くんは学問の才能に恵まれていると伺っておりましたが、なぜ私に武芸を学ばせたいのでしょうか?私は良い師になれるとは思えません。それに、将来爵位を継ぐお立場なのですから、学問を修めて官位に就くのが最善の道ではありませんか?」さくらには弟子を取る気はなかった。公務がある身で、まともな指導などできるはずもない。特に賢一はまだ若く、十代の少年には武芸だけでなく、人としての道や正しい人生観を教え導く必要がある。紫乃の弟子たちとは違う。彼女の弟子たちは皆年上で、それぞれに職も持っている。「爵位、ですか?」三姫子は苦笑を浮かべ、諦めの色を瞳に滲ませた。「王妃様、この爵位が守れるかどうかも分かりませんし、むしろ危険な重荷になるかもしれません……私は必ずしも正式な弟子入りを望んでいるわけではありません。どなたかに教えていただければ……ただ、自分の身を守る術を身につけてほしいのです。もし何かあった時、少なくとも丈夫な体で立ち向かえるように。数日の拷問で命を落とすようなことだけは……」さくらは胸が締め付けられる思いだった。「何かあったのですか?なぜそのような……」三姫子は鬢の簪に手をやった。その冷たい感触が、自分の凍えた心を映すようだった。「むろん、何事もなく平穏に過ごせることを願っております。ただ、先々のことも考えておきたいだけです」さくらは多くの疑問を抱えていたが、これ以上の追及は控えた。三姫子はいつも十手先を読んで行動する人だった。一歩進むごとに十歩先まで考え、ただ子供たちの安寧だけを願っているのだと、さくらには分かっていた。「では、こういうのはどうでしょう」さくらは少し考えてから提案した。「私自身が教えるのは難しいのですが、村上教官が時間のある時に指導してもらえるよう手配します。お礼の金額はお任せします。今、どちらで学んでいらっしゃるのですか?書院ですか?」三姫子は喜びに顔を輝かせた。「親房家の私塾に通っております。夕方なら来られます。あの子は取り柄といえば素直さだけですが、学ぶ意欲が強く、努力を惜しみません。お礼の件は幾らでも構いません」「分かりました。まず村上教官の意向を確認させていただき、承諾いただければ、明日から賢一くんに来ていただけます。ただし、村上教官は厳格な方で、簡単には弟子を取らないので、正

  • 桜華、戦場に舞う   第1125話

    北條守は長い間黙って座り続けていた。涙を流すかと思われたが、目元は乾いたままで、ただ虚ろな表情で沈黙を保っていた。哉年は相手の胸中を推し量りかね、酒を差し出した。守は一気に飲み干すと、そのまま酔い潰れてしまった。哉年は彼を送り返すこともせず、別邸に一晩泊めることにした。翌朝、執事の話では夜明け前に帰っていったという。その後も守は何度か訪れた。二人の間に取り立てて話すことはなかったが、酒を共にする相手として心地よい関係が築かれていった。哉年は守の妻が実家に戻り、離縁を望んでいることを知っていた。ある夜、守は酔った勢いで告白した。妻に関する秘密を知ってしまったのだと。それは心に刺さった針のように抜き難く、かといって、自分のような男なら、抜こうが抜くまいが生きていける。ただ、彼女はもう戻ってこないのだと。哉年が秘密の中身を尋ねると、守は苦笑いを浮かべて首を振った。「話せば彼女の身が危うくなる。離縁しても、西平大名家の娘なら再婚できるだろう」それ以上は問わなかった。奥方の秘密で、話せば危険とあれば、人命に関わることか、男女の仲か。結局、二人は飲み友達として付き合うことになった。守は貧しく、酒も食事も哉年の金で賄われたが、かまわなかった。誰かと酒を酌み交わせるだけでも、充分だった。三姫子は最近、工房に顔を出していなかった。山積みになった問題に頭を抱えていたのだ。一つは邪馬台からの知らせだった。夫に同行した二人の側室が病に倒れ、亡くなったという。今や夫の傍らには一人の妾しかいないが、その妾は二人の側室が病に伏した際、献身的に看病し、軍務で多忙な夫の身の回りの世話や元帥邸の采配まで一手に引き受けているという。そのため夫は手紙で、この妾を平妻に昇格させたいと相談してきたのだ。手紙には妾の名前すら記されていなかった。おそらく書くのを躊躇したのだろう。椎名青舞の素性を知っている夫は、以前から彼女に新しい身分を与えていた。今度は平妻となれば、その身分では不相応となる。西平大名の平妻にふさわしい新たな家柄を探さねばならないというわけだ。もう一つは、親房夕美が実家に戻り、離縁を騒ぎ立てていることだった。とはいえ、本気で離縁を望んでいるわけではないようだ。老夫人に諭されると涙を流し、夫の北條守が一兵卒として従軍すると言い出したため、もう生

  • 桜華、戦場に舞う   第1124話

    無相は数日間熟考の末、燕良親王に進言した。「親王様は当分の間、傷の養生で都を離れられぬでしょう。しかし、燕良州を長く留守にしており、淡嶋親王様が実権を握っておられます。このままでは燕良州を乗っ取られかねません。私めが先に燕良州へ戻る必要がございます」その言葉に燕良親王は一瞬驚きの表情を見せた後、怒りを露わにした。「何だと?このような有様で私を置き去りにして燕良州へ戻るというのか。この混乱を誰が収めろというのだ」無相は予想通りの主君の怒りに、平静を装って説明を続けた。「親王様、現状は如何様にも好転し難い状況です。ですが、親王様は養生に専念なさってください。世間の噂も数日すれば収まるでしょう。都に留まられている間、私めが淡嶋親王様と今後の対策を協議して参ります。我々の死士の半数が敵の手中に落ちた今、新たな策を練り直さねばなりません。それに」無相は声を落として続けた。「燕良州を淡嶋親王様に任せきりで、本当によろしいのでしょうか」燕良親王は確かに不安だった。だが、この窮地を一人で乗り切る自信もない。そのもどかしさが更なる怒りとなって表れた。「それに」無相は更に続けた。「沢村家から破門された王妃様のことも考慮せねばなりません。もはや沢村家との姻戚関係は途絶えました。彼らの軍馬も、武器も、資金援助も望めません。別の手立てを考えねばなりませんが、時間との戦いです。これだけの兵を養うには日々莫大な出費がかかります。大長公主様からの資金提供も途絶えた今、私めが燕良州に戻り、何としても打開策を見出さねばなりません」不能な体になってしまった現実は、燕良親王の誇りと自信を完全に打ち砕いていた。無相の提案に即座には首を縦に振らず、数日の猶予を求めた。清和天皇からの新たな詔が下されるかもしれないと様子を見たかったのだ。本当の懸念は別にあった。もし誰かが適当な娘を連れてきて、自分に汚されたと言い出したらどうする。そんな時、無相がいなければ誰が知恵を貸してくれるというのか。無相は王の不安を察すると、心中で深い溜息をつきながら諭した。「親王様、そのようなことは決してございません。あの事件の被害者は沢村紫乃。彼らは必死になってこの事実を隠そうとしております。女学校や工房を設立し、女性の権利を守ると標榜している彼らが、どうして無実の娘を世間の噂の的にするでしょうか。それは

  • 桜華、戦場に舞う   第1123話

    この数日間、街中で持ち切りになっているのは燕良親王家の醜聞ばかり。沢村家の娘のことは、誰一人として口にする者はいなかった。紫乃の弟子たちも黙ってはいなかった。師匠の名誉を貶めようとする者などいなかったが、紫乃と沢村氏が従姉妹という話題が出ただけでも、彼らは即座に反論に出向いた。「姉妹だからって?とんでもない。別の親から生まれた従姉妹であって、しかも既に他家に嫁いでいるのだ。沢村家とも沢村紫乃とも何の関係もありはしない」西山口での一件について、天方十一郎も調査を進めていた。確かに目撃証言によると、意識朦朧とした様子の娘が何人かの男たちに連れ去られるところを見たという。農具を手に取って助けようとした村人もいたそうだが、いずれも娘の顔ははっきりと見えなかったと証言している。日が暮れかけていた上、娘は激しく抵抗したらしく、髪が乱れて顔が隠れていたという。娘の素性が特定できなかったことに、十一郎はかえって安堵の胸を撫で下ろした。一方、燕良親王家は民衆の怒りを真っ向から受けることとなった。天皇自らが譴責の詔を下したことからも、事の重大さは明らかだった。これにより、民衆は権力者への不満を吐き出し、その怒りを鎮めることができた。同時に、皇叔である燕良親王であっても擁護することなく裁いた天皇の英明さを、人々は賞賛したのである。燕良親王の股間の傷は日増しに悪化の一途を辿っていた。その原因の一つは、彼の強情な性格にあった。自分の不能が本当なのかと疑い、艶本を広げては確かめようとする度に、傷は深刻さを増していった。都の名医をことごとく呼び寄せようとしたものの、実際に診察に訪れる者は少なかった。御典医だけは幾人か来てくれたが、これもひとえに燕良親王という身分と、榮乃皇太妃が事態を知って太后様に取り成しを頼んだからこそであった。御典医たちの診立ては一様で、現状では回復は極めて難しく、わずかな望みがあるとすれば、丹治先生の診察を仰ぐことだけだという。燕良親王は苛立ちながら、無相と金森側妃に丹治先生を呼びに行かせた。もし失敗したら榮乃皇太妃に頼むしかないと言い放った。しかし、運の悪いことに丹治先生は昨日、百年に一度しか咲かないという薬草を採りに都を離れたところだった。薬王堂の者の話では、戻るまでには半月ほどかかるという。半月後?その頃には手の施しよう

  • 桜華、戦場に舞う   第1122話

    天皇は興奮のあまり、その後の影響を考えていなかった。菅原陽雲の先祖である菅原義信は確かに異姓王であったが、その世襲はすでに終わっていた。新たに王位を授けるとなれば、天下に示せるほどの功績が必要となる。六眼銃の量産体制も整っていない上、神火器部隊もまだ設立されていない今、王位を授けるのは時期尚早だ。梅月山へ余計な目が向けられては厄介なことになる。「そうだ、その通りだ。王位の件は今は見送ることにしよう」清和天皇の目は輝きを増した。玄武にとって、陛下の即位以来、これほどまでに目が輝いているのを見たことがなかった。天皇は六眼銃の威力を自らの目で確かめようと、玄鉄衛に冷宮の封鎖を命じ、人の出入りを厳禁とした。広大な冷宮には、今は誰も住んでいなかった。先帝が崩御の際、慈悲深くも冷宮の女性たちを皇家の尼寺へ移させたのだ。冷宮の壁が六眼銃の一撃でほぼ貫通したのを目の当たりにし、天皇は言葉を失った。「鋼球を使うことは可能か?」天皇が尋ねた。「可能でございます」清家は答えた。「ですが、まだ最大の威力を把握しきれておりません。兵庫の主事と武器匠に詳しく研究させます」清家は帳面の内容をある程度理解していた。最も威力があるのは火薬弾で、敵に命中すれば炸裂し、より大きな損傷を与えられるという。「よかろう。この重責を汝に託す。だが、信頼できる者のみを用いよ」天皇も緊張した面持ちだった。この至宝を最大限活用したいという思いと、他者の垂涎を恐れる不安が交錯していた。「御意」清家は厳かに命を受けた。天皇は再び帳面を繰り、その内容に目を通した。書き記された文字には混乱した部分もあれば、修正された跡もある。思考の過程が随所に表れており、菅原陽雲が何一つ隠さず、大砲の構造まで含めて全てを明かしたことは明白だった。ただ、設計図だけが惜しくも欠けていた。天皇は思い巡らせた。陽雲は愛弟子の上原さくらを何より大切にしている。玄武も万華宗の出身だ。夫婦とはいえ、二人とも朝廷に仕える身でありながら、その本質は武将なのだろう。戦が起これば、必ずや戦場に赴くことになる。少なくとも、陽雲はそう考えているに違いない。だからこそ何も隠す必要はなく、むしろ研究に励むのも、さくらと玄武が戦場で傷つくことなく、勝利を収められるようにという思いからなのだろう。退出後、清家は浮き

  • 桜華、戦場に舞う   第1121話

    しかし清家は一つの懸念を抱いていた。この六眼銃はまだ十分な実験を経ていないため、大々的に宣伝するわけにはいかない。北冥親王が試し撃ちをしたと言っても、一度の実験では確実性に欠ける。銃身が裂ける危険を最小限に抑えるため、さらなる試験が必要だと考えたのだ。まるで夢でも見ているかのように、清家は銃を丹念に観察し、何度も手で触れた。「導火線なしで発射できるとは、なんという利便性だ。神弓営や伏兵営を編成できる。この神器があれば、もはや恐れるものなどない」銃を抱きしめながら、清家は喜びと感動で涙を流した。「お堅い話で恐縮ですが、我が妻と比べてもこちらが正室でしょうな。どうして側室を迎えぬと?家内を恐れているなどと思われては困る。私の心には常に一つの座が空いている。それはこの正室のためにね」玄武は微笑んで言った。「それが正室なら、十眼銃は?大砲は?」「なっ……何と?」清家は震える唇で尋ねた。「大砲とおっしゃいました?北森のあの大砲のことですか?」玄武は音無楽章のような物腰で、ゆっくりと懐から帳面を取り出した。「ほら、全部ここにある。まずはご覧になってください」清家は帳面を奪うように受け取ると、貪るような目で一枚一枚めくっていった。最後まで確認したものの設計図は見当たらず、少々落胆の色を見せた。だが、それも束の間のことだった。製造方法の記載があれば、じっくりと研究することができるのだから。「おお、これは先祖の御加護!」清家は帳面を握りしめ、思わず玄武に抱きついて泣き出した。「平和は絵空事ではなくなる。戦がなければ、我が大和国が栄えぬはずがない!」玄武も清家の感激を理解していた。六眼銃が五十丈先まで届いた時は、自分も飛び上がるほど興奮したのだから。無論、砲車が完成すれば、さらに強大な力となるだろう。玄武は師匠の言葉を思い出していた。師伯が火薬と花火の実験に没頭するあまり、自身の院を爆破してしまったという話だ。おそらく六眼銃の開発中に、砲車の試作も行っていたのだろう。帳面には確かに大砲の製造法が記されているものの、完成された技術とは言い難い。師伯も試行錯誤の最中だったに違いない。だが、今は六眼銃だけでも十分だった。「厳秘中の厳秘です」清家は涙を拭いながら、凛とした眼差しで言った。「実験と量産体制が整うまでは、絶対に漏らしてはなりません

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