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第306話

Author: 夏目八月
夫人たちは今日、上原さくらが大いに注目を集めるのを目の当たりにした。嫉妬心はあっても、深水青葉が自身の名声を使ってさくらを守っていることは理解していた。

深水青葉という大師兄の寵愛があれば、他のことは置いておいても、文官や清流派の人々がさくらを特別に高く評価することは間違いない。

例えば、絵画を命より大切にする相良左大臣のような人物も、青葉先生の作品を手に入れたいがために、さくらとの交流を深めようとするだろう。

天皇や宰相、そして兵部大臣の清家本宗が今日示した態度も、皆の目に明らかだった。彼らのさくらに対する評価は高く、それは単に青葉先生との関係だけではないようだった。

皆は認めざるを得なかった。かつては一文の価値もない捨て去られた女と蔑まれていたさくらが、今や京の寵児へと一変したのだ。

絵画の購入が済んだ後、潤も連れ出され、天皇や列席の人々に挨拶をした。

さくらは意図的に、太政大臣家の未来の当主としての潤の存在をアピールしたのだ。

小さな体で背筋をピンと伸ばした潤の姿は、かつての上原家の若者たちを思い起こさせた。

その後、さくらは恵子皇太妃や他の夫人たちを別室に案内し、お茶でもてなした。

夫人たちの話を聞いていると、さくらにはずっと心地よく感じられ、時折お世辞も聞こえてきた。

もちろん、さくらは本音と建前を見分けられた。社交辞令とはそういうものだ。相手を褒めれば、自分も褒められる。要するに、隙のない対応で、誰も非難できるところがなく、むしろ名家の奥方たち以上に適切な振る舞いだった。

恵子皇太妃はしばらくさくらを横目で見ていた。今日のことで、不思議とさくらがそれほど嫌らしく感じなくなっていた。

もし自分の息子の嫁になるのでなければ、さくらを気に入っていたかもしれない。

残念ながら、彼女は自分の息子の嫁なのだ。

姑と嫁の間には自然と反目し合う関係がある。特に自分の息子があれほど優秀で、先帝にも重用された子だ。名門の令嬢でさえ彼に釣り合わないのに、さくらならなおさら釣り合わない。

恵子皇太妃は突然我に返った。皆がさくらは手強いと言っていたが、本当にそうだ。あやうく心を奪われるところだった。

本来なら今日は自分が注目を集めるはずだったのに、さくらに全てを奪われてしまった。怒りを感じるべきなのに。

さくらの無邪気な笑顔の裏には、きっと得意げ
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    湯気が立ち込める湯船で、二人を包み込む。湯加減は熱すぎず、心地よい温度だった。さくらは自分なりに反省していた。玄武の怒りは、紫乃を追って都を出た自分の無謀な行動にあるのだろう。彼の胸に両手を当て、静かに言葉を紡いだ。「あの時は急いでいて、紫乃が危険な目に遭うかもしれないから、つい……あの子は私のために都に来てくれたのよ。いつも私のことを支えてくれる。傷つけられるなんて、見過ごせなかったの」優しい声音に謝意が滲み、湯気で紅潮した顔には、申し訳なさと恥じらいが混ざっていた。少しかすれた声は、まるで柔らかな羽が心を撫でるよう。玄武は思った。深水師兄は本当に厄介な存在だ。自身独り身で、何が恋愛か、何が夫婦の絆か分かるというのか。人の縁を取り持とうなどと、随分と手前勝手な話だ。そんなことは些末な問題だ。目の前の現実こそが大切なのだ。さくらは自分の妻であり、その心も体も、全てが自分のものなのだ。二人は夫婦として共に暮らし、北冥親王家を我が家とし、同じ門をくぐり、同じ寝所で眠る。死後は同じ陵に葬られ、生々世々に渡って共にある。そんな二人なのに、何を拗ねているのか。些細な嫉妬など意味がない。自分を苦しめ、彼女を不安にさせるだけではないか。玄武は彼女の柔らかな腰に両手を回し、身体を寄せた。「怒ってなんかいないよ。紫乃を助けに行ったのは正しい判断だった。よく考えてみれば、お前の対応に一点の非もない。禁衛府の指揮官として、部下も動かせる立場だし、周到な手筈も整えていた。私の助けが必要なら、部下が声をかけてくれたはずさ。実際、城門を封鎖する時も、禁衛府が私を探し出したじゃないか。私が早く知ろうが遅く知ろうが、大した違いはない。私が行かなくたって、お前は解決できた。禁衛府も動くし、十一郎も呼べた。だから謝る必要なんてないんだ」「それに、私が着く前から、すでに芝居は整っていた。私が加わったのは錦上花を添えただけさ。私がいなくても、同じように事は運んでいただろう」さくらは濡れた睫毛を上げた。「違うわ。あなたが来てくれて、やっと安心できた。あんなに大勢の前で、紅羽と緋雲が人質に取られて……私一人じゃ、もしかしたら長く持ちこたえられなかったかも。来てくれて良かった」玄武は彼女の愛らしい頬をそっと撫で、目に笑みを湛えた。「私が行かなくても、禁衛府が来ただろう

  • 桜華、戦場に舞う   第1117話

    玄武は十一郎を伴って北冥親王家に戻った。十一郎は紫乃が相変わらず明るく振る舞う様子を目の当たりにし、少し安堵の息をついた。昨夜、棒太郎が衛所に駆け込んできた時は本当に肝を潰した。すぐさま部下を召集し、馬を飛ばすように現場へ向かった。最初は叱りつけるつもりだったが、笑顔の下に潜む充血した瞳を見て、彼女も相当な恐怖を味わったのだと悟り、言葉を飲み込んだ。ただ、燕良親王の現状について説明した。怪我の他に、文之進の激しい制裁により、もはや男としての機能を失ったことも。紫乃は昨夜の一件で、弟子たちが城外まで駆けつけてくれたこと、特に文之進が実力行使に及んだことを知った。胸に込み上げる感動と切なさ。弟子の中で最も出世に執着していたはずの文之進が、その時は全てを投げ打って、自分の恨みを晴らそうとしてくれたのだ。叱責は控えめにしつつも、十一郎は優しく諭した。「どんな相手と出会っても、どんな事態に直面しても、冷静さを失うな。特に、下心があると分かっている相手には要注意だ。何を言われても、何をされても、安易に信じてはいけない。判断に迷ったら、義兄の私でも、親王様や王妃様、有田先生でも相談するんだ」「はい、義兄様」紫乃は素直に頷いた。十一郎は彼女を見つめ、心からの賛辞を送った。「今回は危うい所だったが、無事で何よりだ。最近の工房設立に向けての奔走ぶり、お前の功績は大きい。義兄として、本当に誇りに思うよ」十一郎は紫乃の義侠心と忠義の精神をよく知っていた。だが、そういう人間は大抵、大きな理想を語るばかりで世を変えようとし、身近な人々の苦しみには目を向けないものだった。紫乃も王妃も実践的だった。遠い理想は置いておき、目の前の人と事に向き合い、できることから始める。それは日々理想を語るよりもずっと価値があった。以前なら、紫乃はこのような褒め言葉に有頂天になっていただろう。しかし今回の出来事を経て、自分の力を過信していたこと、何でも対処できると傲慢に構えていたことを痛感していた。さくらには言えなかったことがある。かつて燕良親王邸に乗り込んで、燕良親王を懲らしめてやろうと考えていたことだ。行かなくて本当に良かった。今でも背筋が寒くなる。さくらが何度も止めてくれなければ、きっと行動に移していただろう。梅の館では、さくらが玄武に冷やした梅干

  • 桜華、戦場に舞う   第1116話

    宮門が開くと、玄武と十一郎は揃って参内し、清和天皇に謁見した。天皇は朝餉の最中で、二人に同席するよう命じた。吉田内侍以外の者たちは外殿で控えることとなった。二人は事前に話を合わせていた。事の次第は包み隠さず話すものの、親房虎鉄と清張文之進が城外に現れた件だけは伏せることにした。虎鉄はまだしも、同行した部下も少なかったが、文之進は昇進したばかりで天皇直属の玄鉄衛。無謀にも出向いて暴力に及んだことが露見すれば、たとえ天皇が咎めなくとも心証を害し、将来の出世に影響するかもしれなかった。二人の報告を聞き終えた天皇は、しばらく沈黙を保ったまま、器の粟茶粥をすすり、餡餅を二口ほど口にしてから、ゆっくりと箸を置いた。無言ではあったが、天皇の頭の中では既に独自の判断が下されていた。餡餅を置くと、目を上げることもなく淡々と尋ねた。「怪我の具合は深刻か?」「他は大した怪我ではございませんが……その、男としての機能は……今後難しいかと」影森玄武が答えた。天皇は微笑み、また餡餅に手を伸ばした。それを平らげてから、やっと口を開いた。「では庶民女性拉致未遂として処理しよう。沢村家の名誉も守られる。女性は救出され、あの人も……侠客に懲らしめられた。相応の報いを受けたというわけだ。申勅の勅旨を下し、形式的な調査で決着としよう」立ち上がりながら、天皇は振り返って柔和な笑みを浮かべ、手を下げて言った。「続けて食事を。たっぷり召し上がれ。苦労であった」玄武と十一郎は遠慮なく食事に手をつけた。徹夜で疲れ果て、確かに腹が減っていた。「陛下の御恩に預かり、恐悦至極に存じます」清和天皇の朝餉は質素なものだったが、すぐさま二人のために新しい料理を用意するよう命じた。吉田内侍に燕良親王への申勅の勅旨を準備するよう指示する。もはや隠しようもない。おそらく二日と経たぬうちに、都中に噂が広まるだろう。燕良親王が庶民女性に乱暴を働こうとして、通りがかりの侠客に痛めつけられ、しかも目的も果たせなかったと。清和天皇が最も満足していたのは、死士の一部を炙り出せたことだった。都に潜む死士たちの目的は暗殺以外にない。これは大きな脅威だった。しかも、これらの死士は自害することもできない。死ねば、以前の死士たちと同じ組織であることが明らかになり、かつての死士たちも燕良親王の配下だっ

  • 桜華、戦場に舞う   第1115話

    「命さえ無事なのが何よりです」玄武は溜め息をつきながら言った。「あの侠客も手加減したということでしょう。他の不便は、命に比べれば取るに足りないことです。この件は私から直接、陛下に申し上げましょう。あの娘が訴えを起こさないのであれば、これで済ませられるはず。叔父上を傷つけた侠客の件も、追及は不要かと。もちろん、叔父上がどうしても追及なさりたいのでしたら、京都奉行所と禁衛府に全面的な協力を要請いたしますが……武芸界の者を見つけるのは容易ではありません。誰一人として正体を見破れなかったのですから。私としては、穏便に済ませるのがよろしいかと」燕良親王の体が震えた。痛みと怒りが入り混じり、その目には今や毒蛇のような憎悪が露わになっていた。歯を食いしばって一言。「出て行け!」「では、お休みの邪魔をこれ以上いたしません」玄武は心配そうな表情を浮かべた。「ゆっくりお養生なさってください。この都は豊かですから、一、二ヶ月の滞在も可能でしょう。ただ、昼間に荷物を全て工房へ運び出してしまいましたが、こう何もない屋敷では住みづらいのでは?荷物をお戻ししましょうか?」燕良親王は目を閉じ、青筋を浮かべたまま、全身の力を痛みに耐えることに注ぎ込んでいた。「出て行け」の一言を吐いた後は、もはや一言も玄武と話す気はないようだった。玄武は相手を気遣うように、無相を脇の間に呼び出して話を続けることにした。金森側妃はそれを見るや、慌てて戸口に立ち、話に耳を傾けた。玄武は上座に座り、穏やかな口調で語り始めた。「今宵の出来事の是非はともかく、因果応報とだけ申しておきましょう。先ほど林中で無相先生がおっしゃった、叔父上が軍営付近に滞在されたのは、あの娘が理由だったとの件。不穏な企てがあったわけではないと。その点は清和天皇にも申し上げますが、陛下がお信じになるかどうかは、私にも保証できかねます」無相は怒りを押し殺しながら答えた。「結局のところ、親王様の色恋沙汰に過ぎません。大げさに取り上げるほどの話ではありますまい」「そうですとも。私も同じ考えです。ただ、人の口に戸は立てられぬもの。噂が広まれば、叔父上の名声に関わりかねません」「親王様は何が言いたいのです?」無相の眼差しは冷静さを取り戻していた。怒りに任せて相手の術中に陥るわけにはいかない。「私の部下たちは口が堅い。もし何か噂

  • 桜華、戦場に舞う   第1114話

    さくらは黙ったまま、少しの後悔を瞳に宿していた。武芸を学ぶ者なら誰しも、一度は夢見るものがある。剣を携え、天下を巡り、不正を見れば剣を抜いて助太刀をする。人々から「正義の仲間」と呼ばれる、そんな夢を。若い頃は誰もがそんな夢を見るものだ。特に武芸の腕が少し上がり始めた頃は、天下無双の剣客になったような夢を見ては傲慢な気持ちに浸っていた。夢の中では悪人たちが自分の剣の前で命乞いをしても、世の正義のためと一蹴していた。しかし、大人になるにつれて現実を知った。そう簡単なものではなかったのだ。任侠の行いは実際には違法行為となる。侠客には法を執行する権限はなく、公儀の人間ではないのだから。人を殺めるにしても、確かな証拠が必要だった。たとえ自分の目の前で悪事を働くのを見たとしても、証拠を揃えて役所に提出しなければならない。そして死罪が言い渡されても、刑部での再審を経なければ刑は執行されない。この煩雑な手続きと幾重もの審査は、冤罪を防ぐためのものだ。だが同時に、権力と金のある者たちに動く余地を与えてもいた。水無月清湖が話してくれたことがある。たとえ罪が明らかになっても、犯人の家が十分な銀子を用意すれば、証拠の一部を消したり、証言を覆したりすることができるのだと。罪が軽くなるか、無罪放免になるかは、積まれた銀子の山の高さ次第だという。その話を聞いた時、本当に幻滅した。世の中がこんなものであってよいはずがない。信じられなくて、清湖と随分と言い争った。法というものは、悪を罰するためにあるのに、どうして銀子で左右されるのか。役人は朝廷から俸禄を受け、その銀子は民の納める税。民の父母として仕える立場なら、なおさら民のために正義を行うべきではないのか。師匠は紫乃の髷を優しく撫でながら言った。「清湖の言う通りだ。だが、今の世は比較的よい時代なのだよ」「これが良い時代だというのですか?それはとても悲しいことではありませんか」紫乃は眉をひそめた。「絶対的に良い世など存在しない」師匠は静かに諭すように続けた。「世というものは人の心で作られているものだ。善も悪も、私利私欲も偽りも、すべて人の心から生まれる。皆が世の中を批判するが、自分自身の行いを振り返ることはしない。この世がこうなったのは、一人一人に責任があるのだよ」「では、師匠。今が比較的良い時代な

  • 桜華、戦場に舞う   第1113話

    紫乃は何度も湯浴みを済ませ、やっと体の疲れを洗い流すことができた。部屋に戻るなり、さくらに甘えるように寄り添った。お珠は他の侍女たちと共に夜食を運んできた。紫乃は食事を見るや否や、さくらから離れ、食卓へと駆け寄った。「お珠、五郎師兄のお部屋の手配は?」とさくらが尋ねた。「道枝執事様が直々に威光館へご案内なさいました。先ほど夜食もお届けしましたが、執事様の話では、二椀もの水餃子を召し上がったそうですわ」さくらは微笑んで言った。「あの人ったら、相変わらずの食いしん坊ね。ゆっくり休ませてあげて。私と紫乃で明日お礼を言いに行くわ」「かしこまりました」お珠は一礼して退室した。二人が食事を始めると、瑞香と明子が側で給仕を始めた。紫乃の椀に何度も煮込み汁を注ぎながら、「梅田ばあやが、これを飲めば安眠できるとおっしゃっていました。今夜はお休みになれないかと……」美味しそうに食べていた紫乃は、その言葉を聞いた途端、ポロポロと涙をこぼし始めた。さくらが声をかけようとした矢先、紫乃は袖で涙を拭うと、鼻をすすりながらまた食事を続けた。まるで疾風のように料理を平らげると、箸を置いてさくらを見上げた。その瞳は涙で赤く潤んでいた。「ここ、まるで実家みたい。みんな私にこんなに優しくて……さくら、ずっとここにいてもいい?」さくらは柔らかな笑みを浮かべた。「あら、むしろ願ってもないことよ」紫乃の目に、また涙が浮かびそうになった。「こんな辱めを受けたのは生まれて初めてよ。錦重が辱められた後で死のうとしたの、今ならわかるわ。経験したことのない人には、この恐ろしさは分からない。人を殺すよりも恐ろしいことなの。二度とこんなことが起きないことを……」「もう大丈夫よ。考えすぎないで」さくらは優しく諭した。紫乃は真剣な眼差しでさくらを見つめた。「私のことだけじゃないの。天下の女たちが、誰一人としてこんな目に遭わないように願うの。人を殺すのなら一瞬で済むけど、こうして汚されたら……この世では女が生きていけない。結局は死ぬしかない。だから、人殺しよりも許せないことなの」さくらの瞳に深い哀しみが宿った。「そうね。もう二度と起きないことを願うわ」「さくら、律法ではどういう判決になるの?」さくらは一瞬の沈黙の後、静かに答えた。「最も重い場合は斬首刑。でも……訴え

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