Share

第1109話

Author: 夏目八月
側妃は髪を乱し、頬を腫らしながら、蹴られて燕良親王の上に倒れ込んだ。親王は激痛で呼吸も困難になった。

紫乃は躊躇うことなく、次は沢村氏に向かった。

「紫乃、何をするの!私はあなたの姉よ。私があなたを害するわけない……きゃあ!」沢村氏は悲鳴を上げながら後退りした。

紫乃は沢村氏の髪を掴んで持ち上げ、木に叩きつけた。沢村氏は腰が折れるかと思うほどの痛みに、涙を流した。

「最後に会った時の香り……あなたが盛った毒よね」紫乃は沢村氏を掴んだまま、殺気を帯びた目で睨みつけた。「万紅、あの下衆の手助けをして何の得があるの?王妃の座が安泰だとでも思ってるの?愚かで腐った女!」

紫乃は近くの私兵から刀を奪うと、沢村氏の胸に突きつけた。その殺意は隠すことなく剥き出しのままだった。

「違う……違うの!」沢村氏は本気で泣き叫んだ。その悲鳴は金森側妃の芝居じみた泣き声をかき消すほどだった。「紫乃、私だってこんなことしたくなかったの!でも親王様が……側妃が……二人とも狂ってるの!私を強要して……」

追い詰められた沢村氏は全てを吐露した。紫乃の目に宿る殺意が、本物だと悟ったからだ。

無相は密かに溜め息をつく。まさかこのような結末になるとは。

どんな計画も完璧ではない。万全を期したつもりでも。あれほど焦らず、官道の林を越えて山へ向かっていれば、こうも簡単には見つからなかったものを。

少なくとも、計画は成功したはずだった。

燕良親王の二人の息子と二人の娘は馬車の中で震えていた。今夜の出来事は彼らには寝耳に水だった。

親王は子供たちを大切に育て過ぎた。本物の殺気を知らない。影森玄武夫婦や沢村紫乃のような、命を賭けた闘志など見たことがなかった。

無相は沈黙を保ちながら、玄武たちと戦った場合の勝算を計算していた。

そして、禁衛府の到着はいつになるか。

天方十一郎の軍が到着するまでには、まだ半刻以上かかる。つまり、その時間内に玄武たちと、そして到着するかもしれない禁衛府の部隊を片付けなければならない。

彼らさえ倒せば、すぐに逃げ出せる。燕良州まで戻れば安全だ。

これが今唯一の活路だった。無相は燕良親王の方を窺った。合図を待つように。

燕良親王は地面に横たわったまま、無相と同じような計算を巡らせていた。だが玄武への警戒心が強すぎて、軽率な行動は取れなかった。何より、自分の
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 桜華、戦場に舞う   第1110話

    つまり、この一件は大きく騒ぎ立てることはできても、あまり大事にはできない。彼らを燕良州へ帰還させねばならないのだから。紫乃は一時の怒りを晴らしたが、本懐を遂げるのはまだ先のことだろう。御城番と禁衛府が先に到着した。親房虎鉄は禁軍を率いて来たかったが、禁軍は勅命なしには都を離れられない。そのため密かに変装して駆けつけたのだ。事の全容は知らずとも、おおよその察しはついていた。これほどの怒りを覚えたのは生まれて初めてだった。沢村紫乃とは何者か?彼らの師である。師を侮辱することは、親を辱めるに等しい。これ以上の侮辱があろうか!紅羽から事の次第と、王妃夫婦の計略を聞かされた彼らは、今は怒りを抑えて燕良親王に手を出すことは控えたものの、御城番と禁衛府の玄甲軍に命じて一行を包囲させた。特に黒装束の死士たちには細心の注意を払った。人殺しに長けた下衆どもを、ようやく一部とはいえ捕らえたのだ。最後に清張文之進が到着した。彼は出世に執着する男だったが、事の次第を聞くや否や、歯を剥き出しにして怒りを爆発させた。燕良親王に飛びかかると、「誘拐された娘は俺の義理の妹だ!助け出されたとはいえ、お前に辱められかけたんだぞ。この野郎、妹の仇を取ってやる!」さすがに分別はあった。親王の体には手を出さず、両足を的確に狙い、ついでに股間めがけて拳を叩き込んだ。これは紫乃がやりたかったことだが、汚らわしくて手を下せなかったのだ。文之進が自分の代わりに怒りをぶつける姿を見て、紫乃は思わず目が潤み、鼻の奥がツンとした。師匠であることがこんなにも素晴らしいものだとは。かつては面倒な存在だと思っていたのに。金森側妃は泣き叫びながら、沢村氏と共に親王の盾となろうとした。女性相手には手出しできないだろうと計算してのことだ。しかし沢村氏は既に紫乃に怯えきっており、ただ身を縮めて震えるばかり。結果、金森側妃は数発の拳を受け、沢村氏は隅で震え続けた。ようやく二人の姫君が馬車から出てきて父を守ろうとした。三人の女性が親王の前に立ちはだかり、さすがの文之進も手が出せなくなった。もっとも、既にある程度気が晴れていたらしく、ゆっくりと後ろに下がっていった。護衛と死士たちは手出しができなかった。影森玄武と玄甲軍に刃向かうことは、正当な公務執行への妨害となる。勝敗以前に、後々大

  • 桜華、戦場に舞う   第1111話

    親王は名声を失っただけでなく、治療のため都に送り返されることになった。威勢よく都を出た一行は、今や衛所の兵に護送され、みすぼらしく都へ戻っていく。無相は女性目当ての一件だと主張したが、天方十一郎は調査なしには断定できないとして、厳密な取り調べを命じた。死士たちは全員が投降した。以前捕らえた二人の死士は任務中で、気骨があり一言も喋らなかった。だが今回は死士という立場は主張できない。もしそうすれば、衛所付近での発見は軍営襲撃の企てとみなされかねないのだから。そのため彼らは燕良親王家の護衛を名乗り、都への往復の警護が任務だと主張。特殊な身分ゆえ都に入れず、西山口の屋敷に滞在していたと説明した。一応の筋は通っていたが、黒装束という怪しい出で立ちが、玄武と十一郎に追及の糸口を与えてしまった。都への帰路、さくらと紫乃は同じ馬に乗っていた。「さくら、あなたが来てくれなかったら……」紫乃は今でも背筋が凍る思いだった。「感謝するなら五郎師兄よ。私の前に救ってくれたのは彼なの」紫乃は首を傾げた。「でも、天幕に飛び込んできたのはあなたじゃ……」「いいえ、五郎師兄が先よ」紫乃は振り返って、首を伸ばしに伸ばした。隊列の後方に一頭の驢馬がゆっくりと歩いているのが見えた。遠すぎて、まるで犬のような姿に見える。その背に猿でも乗っているかのようだった。紫乃は視線を戻し、思い出した。確かに音無楽章に抱えられて逃げ出し、あの臭い薬で毒を消してもらったのだ。「あの音無五郎が私を助けるなんて……いつも反りが合わなかったのに」「五郎師兄は実は気前がいいのよ」さくらは言いながら、目で玄武を探していた。出発時から姿が見えないが、どこにいるのだろう。「さくら、ごめんなさい。みんなを心配させて」紫乃の声が詰まる。「燕良親王家に近づくべきじゃなかった。みんなを巻き込んでしまって……」「バカね!」さくらは玄武を探す目を戻し、微笑んだ。「これは不慮の事故よ。あなたは十分気を付けていた。燕良親王邸には入らなかったし、飲食物にも手を付けなかった。相手が狡猾すぎたの。手段を選ばないうえ、あなたが従姉を油断していたのを利用したのよ」「でも……」紫乃は自責の念に駆られていた。「あの程度の品なら自分で買えたのに。ただ、断れば工房の評判に響くかと思って……」「私たち

  • 桜華、戦場に舞う   第1112話

    骨の髄まで武将である玄武は、武器への関心が人一倍強く、特にこの分野には労を惜しまなかった。「その話は置いておこう」深水は柔らかく笑みを浮かべた。「先に戻ろう。さくらとの行き違い、彼女はまだ気付いていないんじゃないのか」玄武は胸が詰まるような思いになった。「行き違いなどない。うまくいっているじゃないか」「ああ、そうだな」深水は馬を進めながら、穏やかに言った。「さあ、戻ろう」玄武は数歩馬を引いてから鞍上に跨り、深水を追いかけた。胸の内には確かな寂しさが沈んでいた。なぜさくらは何かあると、真っ先に自分のことを思い出さないのだろう。自分が最後に知らされた一人だった。彼女は誰かに知らせることもせず、たった一人で都を飛び出していった。棒太郎には連絡を入れながら、刑部の自分には一言も告げなかった。禁衛府が城門を封鎖する必要に迫られて、ようやく自分のところへ。もし城門の件がなければ、紫乃を救出した後で、さらりと報告するだけで済ませるつもりだったのか。これまでも、さくらは心の全てを自分に預けているわけではないと感じていた。たしかに、二人の仲睦まじい様子は周りの目にも明らかだったが、それは表面的なものに過ぎなかったのかもしれない。何かが足りない。だが、何が?信頼?さくらが自分を信頼していないはずはない。愛情?口には出さなくとも、さくらは確かに自分を愛していると思う。息が合わない?公私ともに二人の呼吸は完璧に合っていた。有田先生との関係に匹敵するほどだ。「以前知っていた上原さくらと、違って見えるのかな?」深水が風に向かって穏やかに問いかけた。玄武はしばらく考えてから、静かに答えた。「あれだけの経験を経れば、人は変わるものだ。でも、さくらはさくらのままだ。それは変わっていない。ただ……」彼は言葉を選びながら続けた。「私の前では、常に仮面を被っているような気がしてならない」「ふむ」深水は穏やかに問いかけた。「では、君も仮面を被っているのではないか?」「私が?」玄武は驚きに目を見開いた。「まさか。私は心からさくらを……」「君の誠意を疑うものは誰もいない」深水は風に吹かれる髪を払いながら言った。「だが、彼女の過去を知るが故に、君は常に慎重すぎる。夫婦喧嘩一つせず、生活の温もりさえない。怒りも、不満も、些細な願いも、全て抑え込

  • 桜華、戦場に舞う   第1113話

    紫乃は何度も湯浴みを済ませ、やっと体の疲れを洗い流すことができた。部屋に戻るなり、さくらに甘えるように寄り添った。お珠は他の侍女たちと共に夜食を運んできた。紫乃は食事を見るや否や、さくらから離れ、食卓へと駆け寄った。「お珠、五郎師兄のお部屋の手配は?」とさくらが尋ねた。「道枝執事様が直々に威光館へご案内なさいました。先ほど夜食もお届けしましたが、執事様の話では、二椀もの水餃子を召し上がったそうですわ」さくらは微笑んで言った。「あの人ったら、相変わらずの食いしん坊ね。ゆっくり休ませてあげて。私と紫乃で明日お礼を言いに行くわ」「かしこまりました」お珠は一礼して退室した。二人が食事を始めると、瑞香と明子が側で給仕を始めた。紫乃の椀に何度も煮込み汁を注ぎながら、「梅田ばあやが、これを飲めば安眠できるとおっしゃっていました。今夜はお休みになれないかと……」美味しそうに食べていた紫乃は、その言葉を聞いた途端、ポロポロと涙をこぼし始めた。さくらが声をかけようとした矢先、紫乃は袖で涙を拭うと、鼻をすすりながらまた食事を続けた。まるで疾風のように料理を平らげると、箸を置いてさくらを見上げた。その瞳は涙で赤く潤んでいた。「ここ、まるで実家みたい。みんな私にこんなに優しくて……さくら、ずっとここにいてもいい?」さくらは柔らかな笑みを浮かべた。「あら、むしろ願ってもないことよ」紫乃の目に、また涙が浮かびそうになった。「こんな辱めを受けたのは生まれて初めてよ。錦重が辱められた後で死のうとしたの、今ならわかるわ。経験したことのない人には、この恐ろしさは分からない。人を殺すよりも恐ろしいことなの。二度とこんなことが起きないことを……」「もう大丈夫よ。考えすぎないで」さくらは優しく諭した。紫乃は真剣な眼差しでさくらを見つめた。「私のことだけじゃないの。天下の女たちが、誰一人としてこんな目に遭わないように願うの。人を殺すのなら一瞬で済むけど、こうして汚されたら……この世では女が生きていけない。結局は死ぬしかない。だから、人殺しよりも許せないことなの」さくらの瞳に深い哀しみが宿った。「そうね。もう二度と起きないことを願うわ」「さくら、律法ではどういう判決になるの?」さくらは一瞬の沈黙の後、静かに答えた。「最も重い場合は斬首刑。でも……訴え

  • 桜華、戦場に舞う   第1話

    文月館の廊下に据えられた風灯が、障子紙の切り絵に照らされ、その影が大きな獣のように室内の壁に映し出されていた。上原さくらは唐木の丸椅子に腰かけ、両手を膝の上で組んでいた。地味な色の服が彼女の華奢な体を包み込み、彼女は目の前の人物を見つめていた。一年間待ち続けた新婚の夫を。北條守は半ば古びた鎧をまだ身につけたまま、威風堂々とした姿で立っていた。端正な顔には謝罪の色が僅かに混じりつつも、その表情は毅然としていた。「さくら、天子様からの勅命だ。琴音は必ず入籍することになる」さくらは手を組んだまま、瞳の奥に複雑な思いを宿しながら、ただ不思議そうに尋ねた。「上皇后様は琴音将軍を天下の女性の鑑とおっしゃっていましたが、彼女は妾になることを望んでいるのですか?」守の深い瞳に怒りの色が浮かんだ。「違う。妾じゃない。お前と同等の正妻だ」さくらは姿勢を崩さずに言った。「将軍、正妻というのは聞こえがいいだけで、実際は妾のことだとご存じでしょう」守は眉をひそめた。「妾だの何だのと、そんなことを言うな。俺と琴音は戦場で惹かれ合い、心が通じ合った仲だ。それに、俺たちは軍功を立てて天子様に婚姻を願い出たんだ。この縁談は俺たちが血と汗で勝ち取ったものだぞ。本当なら、お前の意見なんて聞く必要もないんだ」さくらの唇の端に、押さえきれない嘲りの色が浮かんだ。「心が通じ合った? 出陣前、私に何と言ったか覚えていますか?」一年前、二人の結婚式の夜。守は援軍を率いて出陣する直前、さくらの花嫁の蓋頭を上げ、こう誓ったのだ。「俺、北條守は、生涯さくら一筋だ。決して側室なんか持たねえ!」守は少し気まずそうに顔を背けた。「あんな言葉は忘れてくれ。お前と結婚した時、俺は恋なんて分かっちゃいなかった。ただ、お前が俺の妻にふさわしいと思っただけだ。琴音に出会うまではな」彼は恋人のことを話し始めると、優しい眼差しになり、深い愛情が瞳の奥に宿った。そして再びさくらの方を向いて言った。「彼女は今まで会った女とは全然違う。俺は彼女を深く愛している。さくら、俺たちのことを認めてくれないか」さくらは喉に何かが詰まったような気分だった。吐き気を覚えながらも、まだ諦めきれずに尋ねた。「では、お父様とお母様は同意なさったのですか?」「ああ、二人とも同意してくれた。これは天子様からの勅命でもある

  • 桜華、戦場に舞う   第2話

    守は諦めたように言った。「無理をしなくてもいいんだ。これは陛下の勅命だ。それに琴音が入籍しても、お前たちは東西別棟に住むんだ。家事権を奪うつもりもない。さくら、お前が大切にしているものなんて、琴音は欲しがりもしないよ」「私が家事権に執着していると思うのですか?」さくらは問い返した。将軍家の家計を切り盛りするのは容易なことではなかった。老夫人が毎月丹治先生の漢方薬を飲むだけでも、数十両の金貨がかかっていた。他の者の衣食住に人付き合いと、何かと出費が絶えなかった。将軍家は見かけ倒れだった。この一年、自分の持参金をかなり注ぎ込んだのに、こんな結果になるとは。守はすっかり我慢の限界に達していた。「もういい。話すだけ無駄だ。本来なら一言伝えるだけで十分なんだ。お前が同意しようがしまいが、結果は変わらない」さくらは彼が冷たく袖を払って去っていく姿を見つめ、心の中でさらに皮肉な思いが募った。「お嬢様」女中のお珠が傍らで涙を拭いていた。「旦那様のやり方はひどすぎます」「そんな呼び方はやめなさい!」さくらは彼女を軽く見遣った。「私たちはまだ夫婦の実を結んでいない。あの人はあなたの旦那様じゃないわ。私の持参金リストを持ってきて」「なぜ持参金リストを?」お珠は尋ねた。さくらは彼女の額をこつんと叩いた。「馬鹿な子ね。こんな家にまだ居続けるつもりなの?」宝珠は額を押さえながら呻いた。「でも、この縁談は奥様が取り持たれたものです。侯爵様も生前、お嬢様に嫁いで子を産んでほしいとおっしゃっていました」母親の話が出て、さくらの目に初めて涙が浮かんだ。父は側室を持たず、母一人だけを妻とし、6男1女を設けた。兄たちは皆父について戦場に赴き、三年前の邪馬台の戦いで誰一人帰ってこなかった。武将の家に生まれた彼女は、女の子でありながら幼い頃から武芸を学んだ。七歳の時、父は彼女を梅月山に送り、師について武芸を学ばせ、兵書や戦略論を熟読させた。十五歳で山を下りた時、父と兄たちが一年前に邪馬台の戦場で命を落としていたことを知った。母は目が見えなくなるほど泣き続け、彼女を抱きしめてこう言った。「あなたはこれからは都の貴族の娘のように、良い夫を見つけて結婚し、子どもを産んで、安らかな人生を送りなさい。私にはもうあなた一人しか娘がいないのだから」さくらの心は抉ら

  • 桜華、戦場に舞う   第3話

    お珠が持参金リストを持ってきて言った。「この一年で、お嬢様が補填なさった現金は六千両以上になります。ですが、店舗や家屋、荘園には手をつけていません。奥様が生前に銀行に預けていた定期預金証書や、不動産の権利書などは全て箱に入れて鍵をかけてあります」「そう」さくらはリストを見つめた。母が用意してくれた持参金はあまりにも多かった。嫁ぎ先で苦労させまいとの思いが伝わってきて、胸が痛んだ。お珠は悲しそうに尋ねた。「お嬢様、私たちはどこへ行けばいいのでしょうか?まさか侯爵邸に戻るわけにもいきませんし...梅月山に戻りますか?」血に染まった屋敷と無残に殺された家族の姿が脳裏をよぎり、さくらの心に鋭い痛みが走った。「どこでもいいわ。ここにいるよりはましよ」「お嬢様が去れば、あの二人の思う壺です」さくらは淡々と言った。「そうさせてあげましょう。ここにいても、二人の愛を見せつけられて一生すり減るだけよ。宝珠、今や侯爵家には私一人しか残っていない。私がしっかり生きていかなければ、両親や兄たちの御霊も安らかではないわ」「お嬢様!」お珠は悲しみに暮れた。彼女は侯爵家で生まれ育った下女で、あの大虐殺で家族も含めて全員が命を落としたのだ。将軍家を出たら、侯爵邸に戻るのだろうか?でも、あそこであれほど多くの人が亡くなり、どこを見ても心が痛むばかりだ。「お嬢様、他に方法はないのでしょうか?」さくらの瞳は深く沈んでいた。「あるわ。父や兄たちの功績を盾に、陛下の御前で勅命の撤回を迫ることもできる。陛下がお許しにならなければ、その場で頭を打ち付けて死んでみせるわ」お珠は驚いて慌てて跪いた。「お嬢様、そんなことはなさらないでください!」さくらの目元に鋭い光が宿ったが、すぐに笑みを浮かべた。「私がそんなに馬鹿だと思う?たとえ御前に出たとしても、離縁の勅許を求めるだけよ」守が琴音を娶るのは勅命による。なら彼女の離縁も勅許で行う。去るにしても堂々と去りたい。こそこそと、まるで追い出されたかのように去るつもりはない。侯爵家の財産があれば、一生食いっぱぐれる心配はない。こんな仕打ちを受ける必要などないのだ。外から声が聞こえた。「奥様、老夫人がお呼びです」お珠が小声で言った。「老夫人の侍女のお緑さんです。老夫人がお説得なさるつもりでしょう」さくらは表情

  • 桜華、戦場に舞う   第4話

    老夫人は無理に笑みを浮かべた。「好き嫌いなんて、初対面でわかるものじゃないわ。でも、陛下のご命令なのよ。これからは琴音と守が一緒に軍功を立て、あなたは屋敷を切り盛りする。二人が戦場で勝ち取った恩賞を享受できるのよ。素晴らしいじゃない」「確かにそうですね」さくらは皮肉っぽく笑った。「琴音将軍が側室になるのは気の毒ですが」老夫人は笑いながら言った。「何を言うの、お馬鹿さん。陛下のお命令よ。側室になるわけがないでしょう。彼女は朝廷の武将で、官位もある。官位のある人が側室になれるわけないわ。正妻よ、身分に差はないの」さくらは問いかけた。「身分に差がない?そんな慣習がありましたか?」老夫人の表情が冷たくなった。「さくら、あなたはいつも分別があったわ。北條家に嫁いだからには、北條家を第一に考えるべきよ。兵部の審査によれば、琴音の今回の功績は守を上回るわ。これから二人が力を合わせ、あなたが内政を支えれば、いつかは守の祖父のような名将になれるわ」さくらは冷ややかに答えた。「二人が仲睦まじくやっていくなら、私の出る幕はありませんね」老夫人は不機嫌そうに言った。「何を言うの?あなたは将軍家の家政を任されているでしょう」さくらは言い返した。「以前は美奈子姉様の体調が優れなかったので、私が一時的に家政を引き受けておりました。今は姉様も回復なさいましたので、これからはは姉様にお任せします。明日に帳簿を確認し、引き継ぎを済ませましょう」美奈子は慌てて言った。「私にはまだ無理よ。体調も完全には戻っていないし、この一年のあなたの采配は皆満足しているわ。このまま続けてちょうだい」さくらは唇の端に皮肉な笑みを浮かべた。皆が満足しているのは、自分がお金を出して補填しているからだろう。補填したのは主に老夫人の薬代だった。丹治先生の薬は高価で、普通の人では頼めない。月に金百両以上もかかり、この一年で老夫人の薬代だけで千両近くになっていた。他の家の出費も時々補填していた。例えば、絹織物などは、さくらの実家の商売だったので、四季折々に皆に送って新しい服を作らせていた。それほど痛手ではなかった。しかし、今は状況が変わった。以前は本気で守と一緒に暮らしたいと思っていたが、今はもう損をするわけにはいかない。さくらは立ち上がって言った。「では、そのように決めましょう。

Latest chapter

  • 桜華、戦場に舞う   第1113話

    紫乃は何度も湯浴みを済ませ、やっと体の疲れを洗い流すことができた。部屋に戻るなり、さくらに甘えるように寄り添った。お珠は他の侍女たちと共に夜食を運んできた。紫乃は食事を見るや否や、さくらから離れ、食卓へと駆け寄った。「お珠、五郎師兄のお部屋の手配は?」とさくらが尋ねた。「道枝執事様が直々に威光館へご案内なさいました。先ほど夜食もお届けしましたが、執事様の話では、二椀もの水餃子を召し上がったそうですわ」さくらは微笑んで言った。「あの人ったら、相変わらずの食いしん坊ね。ゆっくり休ませてあげて。私と紫乃で明日お礼を言いに行くわ」「かしこまりました」お珠は一礼して退室した。二人が食事を始めると、瑞香と明子が側で給仕を始めた。紫乃の椀に何度も煮込み汁を注ぎながら、「梅田ばあやが、これを飲めば安眠できるとおっしゃっていました。今夜はお休みになれないかと……」美味しそうに食べていた紫乃は、その言葉を聞いた途端、ポロポロと涙をこぼし始めた。さくらが声をかけようとした矢先、紫乃は袖で涙を拭うと、鼻をすすりながらまた食事を続けた。まるで疾風のように料理を平らげると、箸を置いてさくらを見上げた。その瞳は涙で赤く潤んでいた。「ここ、まるで実家みたい。みんな私にこんなに優しくて……さくら、ずっとここにいてもいい?」さくらは柔らかな笑みを浮かべた。「あら、むしろ願ってもないことよ」紫乃の目に、また涙が浮かびそうになった。「こんな辱めを受けたのは生まれて初めてよ。錦重が辱められた後で死のうとしたの、今ならわかるわ。経験したことのない人には、この恐ろしさは分からない。人を殺すよりも恐ろしいことなの。二度とこんなことが起きないことを……」「もう大丈夫よ。考えすぎないで」さくらは優しく諭した。紫乃は真剣な眼差しでさくらを見つめた。「私のことだけじゃないの。天下の女たちが、誰一人としてこんな目に遭わないように願うの。人を殺すのなら一瞬で済むけど、こうして汚されたら……この世では女が生きていけない。結局は死ぬしかない。だから、人殺しよりも許せないことなの」さくらの瞳に深い哀しみが宿った。「そうね。もう二度と起きないことを願うわ」「さくら、律法ではどういう判決になるの?」さくらは一瞬の沈黙の後、静かに答えた。「最も重い場合は斬首刑。でも……訴え

  • 桜華、戦場に舞う   第1112話

    骨の髄まで武将である玄武は、武器への関心が人一倍強く、特にこの分野には労を惜しまなかった。「その話は置いておこう」深水は柔らかく笑みを浮かべた。「先に戻ろう。さくらとの行き違い、彼女はまだ気付いていないんじゃないのか」玄武は胸が詰まるような思いになった。「行き違いなどない。うまくいっているじゃないか」「ああ、そうだな」深水は馬を進めながら、穏やかに言った。「さあ、戻ろう」玄武は数歩馬を引いてから鞍上に跨り、深水を追いかけた。胸の内には確かな寂しさが沈んでいた。なぜさくらは何かあると、真っ先に自分のことを思い出さないのだろう。自分が最後に知らされた一人だった。彼女は誰かに知らせることもせず、たった一人で都を飛び出していった。棒太郎には連絡を入れながら、刑部の自分には一言も告げなかった。禁衛府が城門を封鎖する必要に迫られて、ようやく自分のところへ。もし城門の件がなければ、紫乃を救出した後で、さらりと報告するだけで済ませるつもりだったのか。これまでも、さくらは心の全てを自分に預けているわけではないと感じていた。たしかに、二人の仲睦まじい様子は周りの目にも明らかだったが、それは表面的なものに過ぎなかったのかもしれない。何かが足りない。だが、何が?信頼?さくらが自分を信頼していないはずはない。愛情?口には出さなくとも、さくらは確かに自分を愛していると思う。息が合わない?公私ともに二人の呼吸は完璧に合っていた。有田先生との関係に匹敵するほどだ。「以前知っていた上原さくらと、違って見えるのかな?」深水が風に向かって穏やかに問いかけた。玄武はしばらく考えてから、静かに答えた。「あれだけの経験を経れば、人は変わるものだ。でも、さくらはさくらのままだ。それは変わっていない。ただ……」彼は言葉を選びながら続けた。「私の前では、常に仮面を被っているような気がしてならない」「ふむ」深水は穏やかに問いかけた。「では、君も仮面を被っているのではないか?」「私が?」玄武は驚きに目を見開いた。「まさか。私は心からさくらを……」「君の誠意を疑うものは誰もいない」深水は風に吹かれる髪を払いながら言った。「だが、彼女の過去を知るが故に、君は常に慎重すぎる。夫婦喧嘩一つせず、生活の温もりさえない。怒りも、不満も、些細な願いも、全て抑え込

  • 桜華、戦場に舞う   第1111話

    親王は名声を失っただけでなく、治療のため都に送り返されることになった。威勢よく都を出た一行は、今や衛所の兵に護送され、みすぼらしく都へ戻っていく。無相は女性目当ての一件だと主張したが、天方十一郎は調査なしには断定できないとして、厳密な取り調べを命じた。死士たちは全員が投降した。以前捕らえた二人の死士は任務中で、気骨があり一言も喋らなかった。だが今回は死士という立場は主張できない。もしそうすれば、衛所付近での発見は軍営襲撃の企てとみなされかねないのだから。そのため彼らは燕良親王家の護衛を名乗り、都への往復の警護が任務だと主張。特殊な身分ゆえ都に入れず、西山口の屋敷に滞在していたと説明した。一応の筋は通っていたが、黒装束という怪しい出で立ちが、玄武と十一郎に追及の糸口を与えてしまった。都への帰路、さくらと紫乃は同じ馬に乗っていた。「さくら、あなたが来てくれなかったら……」紫乃は今でも背筋が凍る思いだった。「感謝するなら五郎師兄よ。私の前に救ってくれたのは彼なの」紫乃は首を傾げた。「でも、天幕に飛び込んできたのはあなたじゃ……」「いいえ、五郎師兄が先よ」紫乃は振り返って、首を伸ばしに伸ばした。隊列の後方に一頭の驢馬がゆっくりと歩いているのが見えた。遠すぎて、まるで犬のような姿に見える。その背に猿でも乗っているかのようだった。紫乃は視線を戻し、思い出した。確かに音無楽章に抱えられて逃げ出し、あの臭い薬で毒を消してもらったのだ。「あの音無五郎が私を助けるなんて……いつも反りが合わなかったのに」「五郎師兄は実は気前がいいのよ」さくらは言いながら、目で玄武を探していた。出発時から姿が見えないが、どこにいるのだろう。「さくら、ごめんなさい。みんなを心配させて」紫乃の声が詰まる。「燕良親王家に近づくべきじゃなかった。みんなを巻き込んでしまって……」「バカね!」さくらは玄武を探す目を戻し、微笑んだ。「これは不慮の事故よ。あなたは十分気を付けていた。燕良親王邸には入らなかったし、飲食物にも手を付けなかった。相手が狡猾すぎたの。手段を選ばないうえ、あなたが従姉を油断していたのを利用したのよ」「でも……」紫乃は自責の念に駆られていた。「あの程度の品なら自分で買えたのに。ただ、断れば工房の評判に響くかと思って……」「私たち

  • 桜華、戦場に舞う   第1110話

    つまり、この一件は大きく騒ぎ立てることはできても、あまり大事にはできない。彼らを燕良州へ帰還させねばならないのだから。紫乃は一時の怒りを晴らしたが、本懐を遂げるのはまだ先のことだろう。御城番と禁衛府が先に到着した。親房虎鉄は禁軍を率いて来たかったが、禁軍は勅命なしには都を離れられない。そのため密かに変装して駆けつけたのだ。事の全容は知らずとも、おおよその察しはついていた。これほどの怒りを覚えたのは生まれて初めてだった。沢村紫乃とは何者か?彼らの師である。師を侮辱することは、親を辱めるに等しい。これ以上の侮辱があろうか!紅羽から事の次第と、王妃夫婦の計略を聞かされた彼らは、今は怒りを抑えて燕良親王に手を出すことは控えたものの、御城番と禁衛府の玄甲軍に命じて一行を包囲させた。特に黒装束の死士たちには細心の注意を払った。人殺しに長けた下衆どもを、ようやく一部とはいえ捕らえたのだ。最後に清張文之進が到着した。彼は出世に執着する男だったが、事の次第を聞くや否や、歯を剥き出しにして怒りを爆発させた。燕良親王に飛びかかると、「誘拐された娘は俺の義理の妹だ!助け出されたとはいえ、お前に辱められかけたんだぞ。この野郎、妹の仇を取ってやる!」さすがに分別はあった。親王の体には手を出さず、両足を的確に狙い、ついでに股間めがけて拳を叩き込んだ。これは紫乃がやりたかったことだが、汚らわしくて手を下せなかったのだ。文之進が自分の代わりに怒りをぶつける姿を見て、紫乃は思わず目が潤み、鼻の奥がツンとした。師匠であることがこんなにも素晴らしいものだとは。かつては面倒な存在だと思っていたのに。金森側妃は泣き叫びながら、沢村氏と共に親王の盾となろうとした。女性相手には手出しできないだろうと計算してのことだ。しかし沢村氏は既に紫乃に怯えきっており、ただ身を縮めて震えるばかり。結果、金森側妃は数発の拳を受け、沢村氏は隅で震え続けた。ようやく二人の姫君が馬車から出てきて父を守ろうとした。三人の女性が親王の前に立ちはだかり、さすがの文之進も手が出せなくなった。もっとも、既にある程度気が晴れていたらしく、ゆっくりと後ろに下がっていった。護衛と死士たちは手出しができなかった。影森玄武と玄甲軍に刃向かうことは、正当な公務執行への妨害となる。勝敗以前に、後々大

  • 桜華、戦場に舞う   第1109話

    側妃は髪を乱し、頬を腫らしながら、蹴られて燕良親王の上に倒れ込んだ。親王は激痛で呼吸も困難になった。紫乃は躊躇うことなく、次は沢村氏に向かった。「紫乃、何をするの!私はあなたの姉よ。私があなたを害するわけない……きゃあ!」沢村氏は悲鳴を上げながら後退りした。紫乃は沢村氏の髪を掴んで持ち上げ、木に叩きつけた。沢村氏は腰が折れるかと思うほどの痛みに、涙を流した。「最後に会った時の香り……あなたが盛った毒よね」紫乃は沢村氏を掴んだまま、殺気を帯びた目で睨みつけた。「万紅、あの下衆の手助けをして何の得があるの?王妃の座が安泰だとでも思ってるの?愚かで腐った女!」紫乃は近くの私兵から刀を奪うと、沢村氏の胸に突きつけた。その殺意は隠すことなく剥き出しのままだった。「違う……違うの!」沢村氏は本気で泣き叫んだ。その悲鳴は金森側妃の芝居じみた泣き声をかき消すほどだった。「紫乃、私だってこんなことしたくなかったの!でも親王様が……側妃が……二人とも狂ってるの!私を強要して……」追い詰められた沢村氏は全てを吐露した。紫乃の目に宿る殺意が、本物だと悟ったからだ。無相は密かに溜め息をつく。まさかこのような結末になるとは。どんな計画も完璧ではない。万全を期したつもりでも。あれほど焦らず、官道の林を越えて山へ向かっていれば、こうも簡単には見つからなかったものを。少なくとも、計画は成功したはずだった。燕良親王の二人の息子と二人の娘は馬車の中で震えていた。今夜の出来事は彼らには寝耳に水だった。親王は子供たちを大切に育て過ぎた。本物の殺気を知らない。影森玄武夫婦や沢村紫乃のような、命を賭けた闘志など見たことがなかった。無相は沈黙を保ちながら、玄武たちと戦った場合の勝算を計算していた。そして、禁衛府の到着はいつになるか。天方十一郎の軍が到着するまでには、まだ半刻以上かかる。つまり、その時間内に玄武たちと、そして到着するかもしれない禁衛府の部隊を片付けなければならない。彼らさえ倒せば、すぐに逃げ出せる。燕良州まで戻れば安全だ。これが今唯一の活路だった。無相は燕良親王の方を窺った。合図を待つように。燕良親王は地面に横たわったまま、無相と同じような計算を巡らせていた。だが玄武への警戒心が強すぎて、軽率な行動は取れなかった。何より、自分の

  • 桜華、戦場に舞う   第1108話

    その時、官道を影森玄武、深水青葉、棒太郎が北冥親王家の私兵を率いて疾走してきた。松明の灯りが小さな林を昼のように照らし出す中、玄武は軍装こそしていなかったが、駿馬に跨る姿は千里を制する将軍のようだった。一瞥を投げかけた玄武だったが、その時、紫乃の怒号が響き渡った。「この畜生!命を寄越せ!」武器も持たぬまま、怒りに狂った獅子のように、紫乃は燕良親王の胸めがけて突進した。さくらは身を翻して紫乃の邪魔をせず、怒りを爆発させるのを見守った。燕良親王は二丈ほど吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。口から鮮血が迸る。紫乃は躊躇うことなく親王に飛びかかり、顔面を容赦なく平手打ちした。毒が解けたばかりで本来なら力など残っていないはずだったが、激情が潜在力を呼び覚ましたのか、次々と繰り出される平手打ちは鋭く、まもなく燕良親王は意識を失った。「何をぼんやりしている!早く親王様を!」金森側妃が甲高い声で叫んだ。死士たちが動こうとした瞬間、玄武が馬を進め、紫乃の前に立ちはだかった。棒太郎も鉄棒を横に構え、「動くなら、この棒が相手になるぜ」と威嚇する。北冥親王家の私兵たちも即座に陣形を整え、抜刀して相対した。「誤解です!全て誤解です!」無相は慌てて部下たちに命じ、紅羽と緋雲を解放させた。二人の首筋には血が滲んでいたが、かすり傷程度で大事には至っていない。「玄武様」さくらが即座に状況を説明した。「禁衛府が燕良親王の一行が衛所の近くに不審な宿営を張っているのを発見し……」玄武はさくらを一瞥した。その眼差しには僅かな冷たさが宿っていたが、衛所の件に話を持っていこうとする意図は理解できた。「村上教官」玄武は命じた。「衛所に使者を出し、天方総兵官に伝えよ。不穏な動きがあるため、警戒を怠らぬようにとな」芝居なら徹底的にやる。天方十一郎を巻き込まねばなるまい。棒太郎は紫乃を一瞥し、さくらが彼女を抱きしめる姿を確認すると、安堵した様子で馬を走らせた。紫乃はさくらに抱かれながらも、なおも燕良親王を何度も蹴りつけた。顔は怒りで青ざめている。これほどの屈辱を受けたのは生まれて初めてだった。涙が込み上げてきたが、こんな場所で泣くわけにはいかない。「玄武様と紫乃が来てくれて本当に助かったわ」さくらは紫乃を抱きしめたまま言った。「でなければ、私たち三

  • 桜華、戦場に舞う   第1107話

    無相は好機と見て言った。「親王様が傷を負われました。早急に止血しなければ危険です。王妃様、どうか手を緩めていただけませんか。医師を」彼の目はさくらを鋭く見据えていた。さくらが手を緩めた瞬間を狙って、死士たちに一斉攻撃の合図を送るつもりだった。援軍が到着する前に彼女たちを始末し、ここから離れねばならない。だがさくらは燕良親王の首を掴んだまま、ただ僅かに力を緩め、呼吸ができる程度にしただけだった。「たいした傷ではありませんわ。短刀を抜かなければ大事には至りません」親王は荒い息を吐きながら、腹部の痛みに全身を震わせていた。この女は一瞬の躊躇いもなく、実に容赦がない。彼の足元が危うくなり、身体が揺らめいた。「お気をつけになった方がよろしいですわ」さくらは冷たく言った。「少しでも動けば、短刀がさらに深く刺さりますよ。命を落とすことにもなりかねません」「親王に手をかけるとは、どれほどの罪か分かっているのか!」親王は青筋を立てて怒鳴った。さくらは冷笑を浮かべた。「おかしなことをおっしゃいますね。この短刀は私のものではありませんが?」「何が目的だ」額に冷や汗を浮かべながら、親王は追い詰められたように吐き出した。まだ追い詰められてはいないはずなのに、彼の感情は既に限界に達しようとしていた。さくらは燕良親王との駆け引きを続けた。「お教えいただきたいのです。なぜここに陣を張られた?衛所への奇襲でもお考えだったのでは?」さくらには親王を簡単に解放するつもりなど毛頭なかった。今や紫乃との関係を否定したとしても、紫乃が毒が解けて戻ってくるまで待つ。そうでなければ、紫乃の怒りは一生消えることはないだろう。時間を稼ぐ。紫乃と五番目の師兄が戻ってくるまで。音無楽章は紫乃を官道の向かいの山へ連れて行った。そこは先ほどまで休んでいた場所で、まだ敷いてある筵に紫乃を寝かせた。いくつかの経穴を押さえて紫乃の動きを封じ、驢馬から荷物を降ろすと、黒釉の瓶を取り出した。蓋を開けた途端、耐え難い悪臭が立ち込めた。楽章が経穴を開くと、紫乃は蛸のように絡みついてきた。楽章はそれを許しながら、素早く顎を掴んで口を開かせ、薬液を数滴流し込んだ。そして紫乃を突き放した。「さあ、吐き出すんだ!」「うぅ……おぇぇ……」紫乃の胃が激しく収縮し、悪臭で内臓が裏返

  • 桜華、戦場に舞う   第1106話

    その言葉に、無相と金森側妃の表情が一瞬凍りついた。上原さくらが沢村紫乃の存在を否定するとは予想外だったようだ。さくらは金森側妃をじっと見つめ、鋭く切り返した。「それにしても、側妃様のおっしゃることが気になりますわ。なぜ私があなた方に感謝する必要があるのです?あの娘が私と何の関係があるというのです?」金森側妃の表情が強張る。「そ、それは……でしたら なおさら、親王様を取り押さえる理由などございませんわ。皆一族なのですから、このような騒ぎは……」「まあ、申し訳ございません。誤解していたようですわ」さくらは笑みを浮かべながらも、燕良親王の首を握る手を緩めることはなかった。「ですが、気になることが。あの黒装束の者たちが、なぜ西山口の屋敷に?皆、燕良親王家の方々なのですか?」「はい、親王様の護衛として都入りした者たちです。邸内に収容しきれず、城外に」無相が何か言いかけたが、さくらは遮って畳みかけた。「ずっと城外にいたのに、どうして沢村紫乃様を知っているのです?それに、あれほどの武芸の持ち主が私兵とは思えませんが。なぜ黒装束なのでしょう?何か、人目を忍ぶことでもあったのかしら?」金森側妃は言葉に詰まった。不用意な発言が、さくらに突かれたのだ。無相は側妃を責めるような眼差しを向けながら、話題を変えようと試みた。「まずは親王様を」燕良親王の喉は、さくらの手で緩めては締め付けられ、その繰り返しに、既に目が潤み、意識が朦朧としていた。「もちろん解放するつもりですわ」さくらは言いながらも手を緩めず、冷静な眼差しで状況を見据えた。「ですが、これだけの人数が夜更けに集まって、宿も駅舎も使わず、人気のない官道脇に。しかも禁衛府の本隊まで十里と離れていない場所で。何を企んでいらっしゃるのかしら?まさか、あの娘を待ち伏せていたとは言えませんわよね?誘拐された娘を救出するなんて、予知でもしない限り不可能ですもの。刑部と禁衛府の者たちを待って、詳しくお話を伺いましょう。朝廷官員たちの疑念も晴れることでしょう」紫乃の件で追及できないなら、禁衛府の本隊近くでの夜間集会を追及すればいい。女性を同伴しているのに駅舎に入らず、突如として都で見かけたこともない黒装束の護衛たちが衛所の近くに集まるとは。どんな言い訳をしようと、この不審な状況は説明がつくまい。清和天皇も朝廷

  • 桜華、戦場に舞う   第1105話

    無相は頭を抱えながら、親王の色欲に溺れた愚かな行動に内心で舌打ちをした。この件は一旦落着したと思っていたのに、都を離れる直前になって親王がこのような手筈を整え、本来なら都に残すはずだった死士まで動員するとは。沢村紫乃一人のために、周到に練り上げた計画が台無しになってしまった。彼の瞳に殺気が宿る。この深夜に上原さくらを始末して埋めてしまえば誰にもわからなかったものを。まさか二人も逃げおおせるとは。そして今やさくらが親王の命を握っている。事態は思わぬ方向へ転がっていった。幸い、あらゆる事態を想定して対策は講じてあった。元々は事が成就した後、沢村家への言い訳として用意していたものだが……今となっては……これ以上大事には至るまいが、沢村家との縁は切れてしまうだろうな。さくらは胸に怒りと悲しみを募らせながら、馬車に隠れている二人の姫君の姿を目にした。このろくでなしの親王は実の娘たちの前でさえ、紫乃を手篭めにしようとしたのだ。沢村万紅もろくでもない。金森側妃に至っては言わずもがな。まったく腐り切った連中ばかりだ。「王妃様、誤解なさらないで。沢村お嬢様は親王様の妻の妹。どうしてそのような不埒な考えを。これから都を離れるというのに、わざわざこんな面倒を……沢村家との縁も大切にしなければ」金森側妃は取り繕い続けた。その言葉に一片の真実味もないことは明らかだったが、皆で口裏を合わせれば、たとえ清和天皇の耳に入っても、叱責程度で済むだろう。罪に問われることはあるまい。ただ、激怒したさくらが本当に親王の命を取ってしまわないか、それだけが気がかりだった。「いや、いや、さくらよ」燕良親王は必死に弁明した。「誤解だ。信じられないのなら、沢村お嬢様を呼び戻して確かめてはどうだ」金森側妃は素早く死士の一人を引き寄せた。「ほら、事の次第を王妃様にお話しなさい」死士が面具を外すと、無表情で平凡な顔が現れた。まるで暗記した文句を復唱するかのように、淡々と語り始めた。「はっ。私どもは西の山口の屋敷に駐在しておりました。昨日、燕良州への帰還命令を受け、出立の準備を整えておりましたところ……数名の者が沢村お嬢様を山の方へ連れ去ろうとするのを目撃いたしました。沢村お嬢様が王妃様の従妹と存じ上げており、不測の事態を懸念し、救出に向かいました。その際、沢村お嬢様が媚

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status