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第1110話

Author: 夏目八月
つまり、この一件は大きく騒ぎ立てることはできても、あまり大事にはできない。彼らを燕良州へ帰還させねばならないのだから。

紫乃は一時の怒りを晴らしたが、本懐を遂げるのはまだ先のことだろう。

御城番と禁衛府が先に到着した。親房虎鉄は禁軍を率いて来たかったが、禁軍は勅命なしには都を離れられない。そのため密かに変装して駆けつけたのだ。

事の全容は知らずとも、おおよその察しはついていた。これほどの怒りを覚えたのは生まれて初めてだった。沢村紫乃とは何者か?彼らの師である。

師を侮辱することは、親を辱めるに等しい。これ以上の侮辱があろうか!

紅羽から事の次第と、王妃夫婦の計略を聞かされた彼らは、今は怒りを抑えて燕良親王に手を出すことは控えたものの、御城番と禁衛府の玄甲軍に命じて一行を包囲させた。

特に黒装束の死士たちには細心の注意を払った。人殺しに長けた下衆どもを、ようやく一部とはいえ捕らえたのだ。

最後に清張文之進が到着した。彼は出世に執着する男だったが、事の次第を聞くや否や、歯を剥き出しにして怒りを爆発させた。燕良親王に飛びかかると、「誘拐された娘は俺の義理の妹だ!助け出されたとはいえ、お前に辱められかけたんだぞ。この野郎、妹の仇を取ってやる!」

さすがに分別はあった。親王の体には手を出さず、両足を的確に狙い、ついでに股間めがけて拳を叩き込んだ。

これは紫乃がやりたかったことだが、汚らわしくて手を下せなかったのだ。

文之進が自分の代わりに怒りをぶつける姿を見て、紫乃は思わず目が潤み、鼻の奥がツンとした。

師匠であることがこんなにも素晴らしいものだとは。かつては面倒な存在だと思っていたのに。

金森側妃は泣き叫びながら、沢村氏と共に親王の盾となろうとした。

女性相手には手出しできないだろうと計算してのことだ。しかし沢村氏は既に紫乃に怯えきっており、ただ身を縮めて震えるばかり。結果、金森側妃は数発の拳を受け、沢村氏は隅で震え続けた。

ようやく二人の姫君が馬車から出てきて父を守ろうとした。三人の女性が親王の前に立ちはだかり、さすがの文之進も手が出せなくなった。もっとも、既にある程度気が晴れていたらしく、ゆっくりと後ろに下がっていった。

護衛と死士たちは手出しができなかった。影森玄武と玄甲軍に刃向かうことは、正当な公務執行への妨害となる。勝敗以前に、後々大
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    天皇は興奮のあまり、その後の影響を考えていなかった。菅原陽雲の先祖である菅原義信は確かに異姓王であったが、その世襲はすでに終わっていた。新たに王位を授けるとなれば、天下に示せるほどの功績が必要となる。六眼銃の量産体制も整っていない上、神火器部隊もまだ設立されていない今、王位を授けるのは時期尚早だ。梅月山へ余計な目が向けられては厄介なことになる。「そうだ、その通りだ。王位の件は今は見送ることにしよう」清和天皇の目は輝きを増した。玄武にとって、陛下の即位以来、これほどまでに目が輝いているのを見たことがなかった。天皇は六眼銃の威力を自らの目で確かめようと、玄鉄衛に冷宮の封鎖を命じ、人の出入りを厳禁とした。広大な冷宮には、今は誰も住んでいなかった。先帝が崩御の際、慈悲深くも冷宮の女性たちを皇家の尼寺へ移させたのだ。冷宮の壁が六眼銃の一撃でほぼ貫通したのを目の当たりにし、天皇は言葉を失った。「鋼球を使うことは可能か?」天皇が尋ねた。「可能でございます」清家は答えた。「ですが、まだ最大の威力を把握しきれておりません。兵庫の主事と武器匠に詳しく研究させます」清家は帳面の内容をある程度理解していた。最も威力があるのは火薬弾で、敵に命中すれば炸裂し、より大きな損傷を与えられるという。「よかろう。この重責を汝に託す。だが、信頼できる者のみを用いよ」天皇も緊張した面持ちだった。この至宝を最大限活用したいという思いと、他者の垂涎を恐れる不安が交錯していた。「御意」清家は厳かに命を受けた。天皇は再び帳面を繰り、その内容に目を通した。書き記された文字には混乱した部分もあれば、修正された跡もある。思考の過程が随所に表れており、菅原陽雲が何一つ隠さず、大砲の構造まで含めて全てを明かしたことは明白だった。ただ、設計図だけが惜しくも欠けていた。天皇は思い巡らせた。陽雲は愛弟子の上原さくらを何より大切にしている。玄武も万華宗の出身だ。夫婦とはいえ、二人とも朝廷に仕える身でありながら、その本質は武将なのだろう。戦が起これば、必ずや戦場に赴くことになる。少なくとも、陽雲はそう考えているに違いない。だからこそ何も隠す必要はなく、むしろ研究に励むのも、さくらと玄武が戦場で傷つくことなく、勝利を収められるようにという思いからなのだろう。退出後、清家は浮き

  • 桜華、戦場に舞う   第1121話

    しかし清家は一つの懸念を抱いていた。この六眼銃はまだ十分な実験を経ていないため、大々的に宣伝するわけにはいかない。北冥親王が試し撃ちをしたと言っても、一度の実験では確実性に欠ける。銃身が裂ける危険を最小限に抑えるため、さらなる試験が必要だと考えたのだ。まるで夢でも見ているかのように、清家は銃を丹念に観察し、何度も手で触れた。「導火線なしで発射できるとは、なんという利便性だ。神弓営や伏兵営を編成できる。この神器があれば、もはや恐れるものなどない」銃を抱きしめながら、清家は喜びと感動で涙を流した。「お堅い話で恐縮ですが、我が妻と比べてもこちらが正室でしょうな。どうして側室を迎えぬと?家内を恐れているなどと思われては困る。私の心には常に一つの座が空いている。それはこの正室のためにね」玄武は微笑んで言った。「それが正室なら、十眼銃は?大砲は?」「なっ……何と?」清家は震える唇で尋ねた。「大砲とおっしゃいました?北森のあの大砲のことですか?」玄武は音無楽章のような物腰で、ゆっくりと懐から帳面を取り出した。「ほら、全部ここにある。まずはご覧になってください」清家は帳面を奪うように受け取ると、貪るような目で一枚一枚めくっていった。最後まで確認したものの設計図は見当たらず、少々落胆の色を見せた。だが、それも束の間のことだった。製造方法の記載があれば、じっくりと研究することができるのだから。「おお、これは先祖の御加護!」清家は帳面を握りしめ、思わず玄武に抱きついて泣き出した。「平和は絵空事ではなくなる。戦がなければ、我が大和国が栄えぬはずがない!」玄武も清家の感激を理解していた。六眼銃が五十丈先まで届いた時は、自分も飛び上がるほど興奮したのだから。無論、砲車が完成すれば、さらに強大な力となるだろう。玄武は師匠の言葉を思い出していた。師伯が火薬と花火の実験に没頭するあまり、自身の院を爆破してしまったという話だ。おそらく六眼銃の開発中に、砲車の試作も行っていたのだろう。帳面には確かに大砲の製造法が記されているものの、完成された技術とは言い難い。師伯も試行錯誤の最中だったに違いない。だが、今は六眼銃だけでも十分だった。「厳秘中の厳秘です」清家は涙を拭いながら、凛とした眼差しで言った。「実験と量産体制が整うまでは、絶対に漏らしてはなりません

  • 桜華、戦場に舞う   第1120話

    一同が目を丸くして驚愕する中、楽章はさほど感慨深くもない様子だった。梅月山では既に散々見てきたし、破壊も数知れず。もはやこの道具に好奇心は抱かない。ただ、師匠が玄武とさくらの役に立つと言い、命を守る術になると聞いたから、持ってきただけだった。玄武が自ら試してみたいと言うと、楽章は快く指南した。今度は的ではなく、三十丈の先、さらに二十丈ほど先にある岩を狙った。玄武は弓術の心得があり、目も確かだったため、照準器は却って邪魔だった。そのまま構えて発射する。衆人環視の中、弾は外れ、大岩から一丈ほど手前の草地に着弾した。しかし玄武の興奮は収まらない。五十丈だ。五十丈まで届くのだ!これは何を意味するのか?敵将が五十丈先にいても、一発で首を吹き飛ばせるということだ。興奮が収まると、ある疑問が浮かんだ。火薬弾を撃ち尽くしたら、その後はどうするのか?楽章は玄武の心を見透かしたように、悠然と一冊の帳面を取り出した。「全部ここに書いてある。配合通りに作ればいい」玄武は帳面を受け取るなり、さっと開いた。一目見ただけでは内容が理解できなかったが、問題ない。兵部には武器の専門家がいくらでもいる。この六眼銃を兵部大臣の清家本宗に見せてやろう。あの老狐に新しい玩具を見せてやるのだ。一同が見守る中、玄武は馬に飛び乗り、誰にも一言も告げずに颯爽と駆け去った。有田先生は行き先を察していたのか、追いもせず問いもしなかった。代わりに拓磨と共に草むらを調べ始めた。焼け焦げた芒を見つけては、「素晴らしい、本当に素晴らしい」と感嘆の声を上げていた。兵部の役所では――清家本宗の目の前に玄武が旋風のように現れた。清家は目の前が光ったかと思うと、よろめきながら引っ張られていた。北冥親王とも分からず、誘拐されたかと思ったほどだ。役所の中庭に着くと、玄武は興奮気味に火銃を差し出した。「これを見てください、これを!」清家は引きずられて目が回っていた上に、胸に鉄の棒を突きつけられ、肋骨が折れるかと思った。深い息を何度か吸って、「お静かに。これではいかにも品位に欠けますな」しかし火銃を手に取ると、一瞬の戸惑いの後、目が輝きだした。そして三度の呼吸も待たずに、見事に分解してみせた。さすがは兵部大臣、徒な役職ではない。武器庫の全てを知り尽くした者の手際であった。

  • 桜華、戦場に舞う   第1119話

    楽章はひじ掛け椅子に腰を下ろし、片足を立てて肘を膝に載せながら、二人を怪訝そうに眺めた。「本当にそんなに疲れているのか?元気がないようだが。帰ってきたなら、まず何か食べるべきだろう?」玄武とさくらは互いに顔を背け、それぞれ咳払いをした。「食事は済ませた」玄武は幾度か咳き込んでから答えた。「確かに疲れが……ええと、そう、一晩中の騒ぎで、それに参内もあって、戻ってきて湯浴みまでして……や、やはり、疲れが出たようだ」楽章は眉をひそめてさくらを見た。どうしたことか。この師弟がどもりでもしたか?「あの、五郎師兄はお食事はもう?」さくらは彼の奇妙な視線を避けながら尋ねた。「ああ、昨夜から今まで三度な」途端に楽章の表情が明るくなった。「それにしても梅田ばあやの水餃子は絶品だった。どんな珍味よりも美味いな」「ええ、本当に美味しかったわ」さくらは頷きながら、彼の手にある銅のような物に目を向けた。「それは火銃?」「その通り。師匠の新作でな。師弟に届けてほしいと。兵部で量産の可能性を検討してもらうためだ」玄武の目が一気にその物に釘付けになった。この火銃は今までと違う。延長部分が付き、何やら機関のような引き金もある。それに、導火線も見当たらない。「この火銃はどう改良したんだ?二発、三発と連続して撃てるのか?」玄武が食い入るように尋ねた。「六発だ。火薬式で、導火線も要らない。引き金を引くだけで……」楽章は火銃を分解しながら説明した。「発火装置が組み込まれている。普通のは三発だが、これは六発撃てる。三発式は師匠が何年か前に完成させたんだが、三発じゃ足りないと。六発が丁度いいってな。だから六眼銃と呼んでる。師匠は十眼銃まで作りたいらしいが、まだ研究中だ」「六発だと?」玄武の疲れも眠気も一気に吹き飛んだ。急いで近寄り、手に取って見入った。これまで火銃にはあまり興味を示さなかった。使いづらく、銃身が破裂する危険もあり、緊急時に導火線に火をつける手間も要る。伏兵ならまだしも、実戦では役に立たなかったのだ。「射程はどのくらいある?」「かなり遠くまで届くそうだ。ただ、具体的な距離は師匠も測ってない。親王家で測ってくれと言っていた」「五郎師兄、試してみませんか」玄武は組み立て方が分からず、輝く瞳で楽章を見つめた。楽章は再び組み立て始めた。「あの林で一度

  • 桜華、戦場に舞う   第1118話

    湯気が立ち込める湯船で、二人を包み込む。湯加減は熱すぎず、心地よい温度だった。さくらは自分なりに反省していた。玄武の怒りは、紫乃を追って都を出た自分の無謀な行動にあるのだろう。彼の胸に両手を当て、静かに言葉を紡いだ。「あの時は急いでいて、紫乃が危険な目に遭うかもしれないから、つい……あの子は私のために都に来てくれたのよ。いつも私のことを支えてくれる。傷つけられるなんて、見過ごせなかったの」優しい声音に謝意が滲み、湯気で紅潮した顔には、申し訳なさと恥じらいが混ざっていた。少しかすれた声は、まるで柔らかな羽が心を撫でるよう。玄武は思った。深水師兄は本当に厄介な存在だ。自身独り身で、何が恋愛か、何が夫婦の絆か分かるというのか。人の縁を取り持とうなどと、随分と手前勝手な話だ。そんなことは些末な問題だ。目の前の現実こそが大切なのだ。さくらは自分の妻であり、その心も体も、全てが自分のものなのだ。二人は夫婦として共に暮らし、北冥親王家を我が家とし、同じ門をくぐり、同じ寝所で眠る。死後は同じ陵に葬られ、生々世々に渡って共にある。そんな二人なのに、何を拗ねているのか。些細な嫉妬など意味がない。自分を苦しめ、彼女を不安にさせるだけではないか。玄武は彼女の柔らかな腰に両手を回し、身体を寄せた。「怒ってなんかいないよ。紫乃を助けに行ったのは正しい判断だった。よく考えてみれば、お前の対応に一点の非もない。禁衛府の指揮官として、部下も動かせる立場だし、周到な手筈も整えていた。私の助けが必要なら、部下が声をかけてくれたはずさ。実際、城門を封鎖する時も、禁衛府が私を探し出したじゃないか。私が早く知ろうが遅く知ろうが、大した違いはない。私が行かなくたって、お前は解決できた。禁衛府も動くし、十一郎も呼べた。だから謝る必要なんてないんだ」「それに、私が着く前から、すでに芝居は整っていた。私が加わったのは錦上花を添えただけさ。私がいなくても、同じように事は運んでいただろう」さくらは濡れた睫毛を上げた。「違うわ。あなたが来てくれて、やっと安心できた。あんなに大勢の前で、紅羽と緋雲が人質に取られて……私一人じゃ、もしかしたら長く持ちこたえられなかったかも。来てくれて良かった」玄武は彼女の愛らしい頬をそっと撫で、目に笑みを湛えた。「私が行かなくても、禁衛府が来ただろう

  • 桜華、戦場に舞う   第1117話

    玄武は十一郎を伴って北冥親王家に戻った。十一郎は紫乃が相変わらず明るく振る舞う様子を目の当たりにし、少し安堵の息をついた。昨夜、棒太郎が衛所に駆け込んできた時は本当に肝を潰した。すぐさま部下を召集し、馬を飛ばすように現場へ向かった。最初は叱りつけるつもりだったが、笑顔の下に潜む充血した瞳を見て、彼女も相当な恐怖を味わったのだと悟り、言葉を飲み込んだ。ただ、燕良親王の現状について説明した。怪我の他に、文之進の激しい制裁により、もはや男としての機能を失ったことも。紫乃は昨夜の一件で、弟子たちが城外まで駆けつけてくれたこと、特に文之進が実力行使に及んだことを知った。胸に込み上げる感動と切なさ。弟子の中で最も出世に執着していたはずの文之進が、その時は全てを投げ打って、自分の恨みを晴らそうとしてくれたのだ。叱責は控えめにしつつも、十一郎は優しく諭した。「どんな相手と出会っても、どんな事態に直面しても、冷静さを失うな。特に、下心があると分かっている相手には要注意だ。何を言われても、何をされても、安易に信じてはいけない。判断に迷ったら、義兄の私でも、親王様や王妃様、有田先生でも相談するんだ」「はい、義兄様」紫乃は素直に頷いた。十一郎は彼女を見つめ、心からの賛辞を送った。「今回は危うい所だったが、無事で何よりだ。最近の工房設立に向けての奔走ぶり、お前の功績は大きい。義兄として、本当に誇りに思うよ」十一郎は紫乃の義侠心と忠義の精神をよく知っていた。だが、そういう人間は大抵、大きな理想を語るばかりで世を変えようとし、身近な人々の苦しみには目を向けないものだった。紫乃も王妃も実践的だった。遠い理想は置いておき、目の前の人と事に向き合い、できることから始める。それは日々理想を語るよりもずっと価値があった。以前なら、紫乃はこのような褒め言葉に有頂天になっていただろう。しかし今回の出来事を経て、自分の力を過信していたこと、何でも対処できると傲慢に構えていたことを痛感していた。さくらには言えなかったことがある。かつて燕良親王邸に乗り込んで、燕良親王を懲らしめてやろうと考えていたことだ。行かなくて本当に良かった。今でも背筋が寒くなる。さくらが何度も止めてくれなければ、きっと行動に移していただろう。梅の館では、さくらが玄武に冷やした梅干

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