さくらのおかげで、刑部は俄然忙しくなった。その間、さくらは献身的に玄武の面倒を見て、刑部まで食事や温かい汁物を運び、至れり尽くせりの世話を焼いていた。証拠は既に揃っており、刑部は確認作業と容疑者の逮捕、取り調べを進めるだけだった。本来なら玄武が深く関わる必要もない案件だったが、容疑者たちには後ろ盾となる有力者がいた。ならばさくらに恨みを買わせるより、自分が矢面に立つ方がいい——そう考えていた。貴族たちの恨みなど、全て自分に向けさせればいい。最も喜んでいたのは村松碧だった。最近は武術の稽古にも一層熱が入り、粛正後の御城番は都を守る盾となるはずだと確信していた。しかし、その喜びも束の間だった。刑部の調査が始まると、御城番と禁衛府の職務が重複しているとして、御城番の撤廃を求める上申が相次いだ。これは事実であり、さくらは両者の職務を明確に区分する上奏を行った。清和天皇は朝議での即答を避け、議後、さくらを御書院に呼び寄せた。「昨日、太后様に御機嫌伺いに参上した折、女学校のことを尋ねられた。近頃の進捗はどうなっている?」さくらは答えた。「女学校の修繕は完了し、机や椅子、文具なども既に揃えました。講師の人選も進めております」「太后様が女学校を重視されておる。そちらに力を入れよ。御城番の件は後回しでよい」さくらは特に驚きもせず、恭しく応じた。「かしこまりました」朝議での天皇の態度から、この案件が通らないことは予測していた。おそらく天皇の真意は、御城番を解体し、一部を禁衛府に編入、残りは不要な者を解任し、有用な人材は玄鉄衛に移すつもりなのだろう。彼女の素直な対応に、清和天皇は満足げだった。あの生意気な玄武と違って、扱いやすい。今は玄武の力も必要だが、いずれ過ちを見つけて、思う存分叱責してやろう。表情を和らげ、天皇は続けた。「太后様があなたを気にかけておられる。時間を作って御機嫌伺いに行くように」「はい。次の休暇日に、母妃と共に参上いたします」天皇は軽く頷き、さくらを見つめた。官服姿でありながら、その美しい面差しは隠しようもない。かつての思いが一瞬よぎったが、すぐに押し殺した。帝王には、手に入れられないものもある。「うむ、下がってよい」天皇は雑念を振り払うように手を振った。「失礼いたします」さくらは退出
葉月琴音が平安京の使者に連れ去られて以来、北條守の夜は悪夢に支配されていた。夢の中では、琴音が平安京の者たちに千切りにされ、その肉が一片一片削ぎ落とされていく。鮮血が大波のように湧き上がり、彼を飲み込んでいくのだった。昼間の勤務中さえ、時折、琴音の声が聞こえてきた。助けを求める声であったり、薄情者と罵る声であったり、時には凄まじい悲鳴。もはや正気を失いかけているのではないかと、守は自らを疑うようになっていた。琴音への後ろめたさと、自分の選択は正しかったのだという思いが心の中で相克し、疲れ果てた心身は限界を迎えようとしていた。副指揮官という役職も、名ばかりのものだと彼にはわかっていた。陛下からは一切の任務も与えられず、毎日をただ空しく過ごすばかり。屋敷に戻っても安らぎはなく、親房夕美の騒ぎ立てるか、妹の涼子が侯爵家に談判に行けと焚きつけるかの日々。どこにいても落ち着かず、胸の内を打ち明けられる相手を求めていたが、もはや友はなく、付き合いを持とうとする者さえいなかった。さくらは実のところ、琴音がまだ生きていることを知っていた。雲羽流派からの情報によれば、レイギョク長公主はまだ鹿背田城に囚われたままだという。スーランキーは鹿背田城に戻ると将帥の座に就いたものの、すぐには攻撃を仕掛けず、撤退もせずに軍を駐屯させていた。彼もまた利害得失を慎重に見極めようとしていた。大和国との会談を経て、事態が当初の想定よりも複雑であることを悟っていたのだ。攻め込めば兵糧も、武器も、軍馬も不足する。かといって攻めなければ、陛下の密旨に背くことになる。だが彼は、攻めるか否かの決断を自らの手では下すまいとしていた。レイギョク長公主に武将たちとの調整を任せ、その成り行きに従うつもりでいた。レイギョク長公主は今、琴音のことまで気に掛ける余裕などなく、ただ彼女を牢に入れるよう命じただけだった。葉月天明たちは既に処刑され、その首級は鹿背田城へと持ち帰られていた。夕暮れ時、さくらが村松碧との協議を終え、禁衛府を出ると、玄武の馬車が門前で待っていた。「明日は休みだから、潤くんを迎えに行こう。また沖田さまに横取りされる前にね」と、玄武は簾を上げ、にっこりと微笑んだ。さくらは潤くんに会っていない日々が続いており、恋しさが募っていた。すぐさま馬車に乗り込む。暑
それは嫉妬からではなく、北條守の不躾さへの苛立ちだった。御書院から出てきたばかりのさくらに声をかけるなど、まるで分別がない。あの場所には宮人だけでなく、召し出しを待つ大臣たちもいるというのに。「特に取り合わなかったけど、まだ葉月のことを気にかけているみたいで、少し意外だったわ」「気にするな」玄武は腕を伸ばし、さくらを抱き寄せた。「潤くんを迎えに行こう」馬車がゆっくりと進む中、夕陽の柔らかな光が簾の隙間から差し込み、二人の横顔を優しく金色に染めていった。書院に着くと、尾張拓磨が馬車を停め、潤を迎えに入っていった。程なくして、潤の小さな手を引いて戻ってきた。以前ならさくらと玄武に会えば、跳び跳ねて飛び出してきた潤だったが、今では随分と落ち着いてきていた。確かに瞳は喜びに輝いているものの、きちんとした足取りで歩いてくる。馬車に乗り込んでから玄武に挨拶を済ませると、やっとさくらの懐に飛び込んできた。「叔母さま!今日は先生に褒められたんです。作文が上手だって!」さくらは手巾を取り出して潤の頬を拭いながら、笑顔で「まあ、もう作文が書けるようになったの?」「はい!」潤は嬉しそうに鞄から数枚の紙を取り出し、さくらに差し出した。「ほら、潤が書いた作文です」さくらは文字を見ただけで、胸が温かくなった。まだ習い始めて間もないため、流麗な筆さばきとまではいかないものの、一文字一文字がしっかりと書かれており、墨の載りも見事だった。まずは字の上手さを褒めてから、ゆっくりと内容に目を通す。文章こそ幼さが残るものの、言葉の選び方や文の組み立て方、そして主張の明確さから、潤の頭の良さと思考の明晰さが窺えた。読み終えるとさくらは玄武にも見せた。玄武も当然のように褒め、明日は宮中で食事をしようと約束した。「わあい!」潤は飛び上がらんばかりに喜んだ。「太后さまにお会いできる。いつもお優しくしてくださるんです」さくらは潤の髷に優しく手を当てながら、「どれどれ、やせてないかな?」と覗き込んだ。潤は輝く瞳をぱちくりさせながら顔を上げ、「大丈夫です!書院のお食事、とってもおいしいんですよ」と元気よく答えた。二番目の兄によく似たその顔を見つめていると、さくらの胸が少し締め付けられた。潤の小さな鼻先を軽くつつきながら、「叔父さまが芋頭酥を買ってきてく
その言葉に、座に居合わせた者たちの表情が一瞬で凍りついた。叔母のさくらの傍らに立つ潤は、着物の裾を不安げに握りしめた。確かに自分の体からは薬の香りがする。毎晩、丹治先生の処方した薬湯に浸かっているせいだ。慣れてしまって気にならなくなっていたが。心の奥底で、かつての記憶が蘇る。物乞いをしていた頃、よく投げかけられた言葉だった。「臭い、消えろ」と。さくらは潤の小さな手を握り、もう片方の手で頬を優しくつついた。「私は潤くんの薬の香り、好きよ」潤は顔を上げ、叔母の温かな眼差しに救われた。そうだ、こんな言葉くらいで、めげていてどうする。小さな唇に笑みを浮かべ、潤は叔母に向かって頷いた。もう気にしない、と決意が込められていた。太后の不機嫌な様子に気づいた斎藤皇后は、急いで立ち上がり大皇子の腕を掴んだ。「誰にそんな口の利き方を習ったの?早く上原潤くんに謝りなさい」厳しい声で叱った。「乞食なんかに謝るもんですか」大皇子が顎を上げて言い放った途端、体が宙に浮く感覚を味わった。次の瞬間、尻に鋭い痛みが走った。玄武の平手が二度、容赦なく下された。大皇子は驚きと痛みで声を張り上げ、泣き叫んだ。「その涙、今すぐ止めなさい」玄武は大皇子の襟首を掴んだまま、凍てつくような声で命じた。いかに横暴な性格とはいえ、所詮は七歳の子供。玄武の威圧的な態度に、大皇子の泣き声は急に収まった。今度は震える声で啜り泣きながら、涙で潤んだ大きな瞳で斎藤皇后に助けを求めるように見つめた。皇后の瞳が暗く沈んだ。「謝りなさい。でないと、お父上にお知らせするように叔父さまにお願いしますよ」厳しい表情でそう言うと、素早く太后の様子を窺った。太后は静かに茶を啜っていた。その表情からは何も読み取れない。大皇子は不承不承、謝罪の言葉を絞り出した。潤が「気にしていません」と返すと、歯を食いしばって踵を返し、太后への挨拶も省いたまま走り去った。「申し訳ございません」斎藤皇后は慌てて立ち上がった。「しっかりと躾け直して参ります」「うむ」太后は僅かに頷いた。「行くがよい」「お気をつけて」さくらが立ち上がって見送ると、皇后は彼女に淡い視線を向け、無理やりに作った笑みを浮かべた。「ごゆっくり。また改めて参上なさい」「かしこまりました」去り際、皇后は玄武を一瞥したが
「不届き者め!」御前に控えた吉田内侍からの報告に、清和天皇の御顔から血の気が引いた。「太后さまは恵子皇太妃さま、玄武さま、王妃さまを既にお帰しになられました。潤お坊ちゃまだけを残して、お食事をご一緒にされるとのこと。門限までにはお送りするとおっしゃっています」「大膳職のところに行って、太后の好物を用意させよ。私も参上する」天皇は低い声で命じた。「かしこまりました」「それから春長殿にも伝えよ。北條守に大皇子を連れて祖先の廟に参らせ、上原家の戦歴をすべて教えるように。後ほど私から試すつもりだ」吉田内侍は内心で天皇の采配を称賛した。特に北條守を選ばれたのは慧眼だと感じた。退出した後、清和天皇は机上に積み上げられた奏章を見つめたが、もはや精を出す気にもなれなかった。この二年、朝廷では皇太子冊立を求める声が日増しに高まっていた。歴代どの王朝でも、皇太子の座を巡る争いは凄まじいものだった。朝廷、後宮、勲貴、外戚、それぞれが覇を競い合うのが常だった。しかし、今の王朝では異論の余地がないはずだった。皇太子の選定には「嫡子」と「長子」が重視される。大皇子は両方を兼ね備え、その身分の尊さは他の皇子たちの追随を許さない。皇太子の座は、疑いもなく大皇子のものとなるはずだった。皇后と斎藤家が幾度となく探りを入れてきたものの、清和天皇は決断を下せずにいた。理由はただ一つ、大皇子には才覚も気質も、皇太子としての器が備わっていないことだった。大和国の行く末を彼の手に委ねることなど、到底安心してはできなかった。幸い、まだ若いがために立太子の決断を先延ばしにできた。しかし帝王として考えるべきは目先のことだけではない。千年の未来を見据えねばならない。折角の嫡男でありながら、その器量の足りなさに、清和天皇の胸は暗澹たるものとなっていた。昼餉には、珠玉の料理が卓を埋め尽くした。太后は侍従を全て下がらせ、扉の外で待機するように命じた。太后の傍らに給仕する者がいない以上、清和天皇も席に着くことは憚られた。御側に立ち、取り皿に料理を盛る。潤も立ち上がろうとしたが、太后に制され、むしろ自ら料理を取り分けてもらう。太后の優しい声に、緊張も徐々に解けていった。「母上、この筍の先端がお好みかと」天皇は静かに申し上げた。太后は黙したまま、差し出される料理に箸を
「申し訳ございません。私の不明でございました」清和天皇の目に深い後悔の色が浮かんだ。「昔のことを持ち出すこともできたわ。あなたと上原家の若殿たちとの付き合い、往時の思い出を語って、帝王としてではなく、叔父として潤くんに接するよう促すことも。でも、そうはしなかった」太后は静かに続けた。「思い出を促されてようやく蘇る感情なんて、所詮偽りものよ。だから私は率直に言うわ。潤くんを大切にしなさい。誰にも虐げさせてはいけない」太后の言葉が、天皇の心に眠る数々の記憶を呼び覚ました。かつて親友がいたことを、この時になってようやく思い出したかのようだった。上原家との交際には、確かに打算もあった。しかし、その友情に注いだ真心まで偽りではなかった。上原家の父子が命を落とした時、即位間もない自分は前朝の安定と人心の掌握、そして功業を立てることに心を奪われていた。邪馬台奪還の功績を重視するあまり、上原家父子の訃報を受けた時、悲しみよりも焦燥に駆られた。玄武を邪馬台に遣わしてからも、勝利の報せばかりを待ち望んでいた。その待機の中で、上原家父子の死の悲しみは次第に薄れ、大勝の喜びだけが心を満たしていた。今、太后の言葉に導かれ、記憶の淵に沈んでいった。後悔と哀しみが少しずつ胸を蝕んでいく。立ち上がった時には、目に涙が溢れていた。深々と頭を下げ、声を震わせて言った。「誓って申し上げます。このような事態を二度と起こしません。この命ある限り、上原潤を誰一人として侮ることはできぬよう守り通します」太后の表情がようやく和らいだ。「その言葉、しっかりと覚えておきなさい」日も暮れ近くなり、清和天皇は潤を宮外まで送らせ、二台分の褒美の品々も併せて賜った。潤を見送った後、天皇は春長殿へと足を向けた。斉藤皇后は床に額をつけて平伏していた。今日、北條守が大皇子を廟に連れて行った時の恐怖が、まだ体から抜けきっていなかった。玄武が大皇子を叱った時は、心中穏やかではなかった。だが太后の前とあっては、その感情を表すことなどできなかった。春長殿に戻ってからも、叱る気にはなれず、むしろ慰めに慰めて、ようやく機嫌を直させたところだった。息子を甘やかしすぎだと、斉藤皇后にも分かっていた。しかし自制することができない。皇太子の座は、生まれながらにして約束されたものなのだ。特別な努力など
その言葉に天皇の怒りが爆発した。手にした茶碗を払い落とし、皇后の前で砕けた。「がちゃん」という音に皇后は身を縮めた。「たかが子供の軽率な言葉です」皇后は震えながらも言い返した。「潤くんに怪我をさせたわけでもないのに、なぜこれほどまでに……」「ならば、ただの子供として育てることもできよう」天皇の声は冷気を帯びていた。「そのようなことを……」皇后は慌てて身を乗り出した。「もしこの言葉が漏れれば、朝臣たちの心に……」「それも良かろう」天皇は冷笑を漏らした。「皇后がさしたる期待も寄せていないのなら、玄武の庇護の下で暮らす閑職の王子という道もある」その言葉に、皇后の目の前が暗くなった。全身から血の気が引き、恐怖が背筋を這い上がる。長年の安逸な生活で忘れていた。皇権の道が茨の道であることを。生まれた身分だけで、何もせずに手に入るものなどない。「私の不明でございます」震える声で言葉を紡ぐ。「教育の至らなさゆえ、息子は傲慢になってしまいました。もし将来、重責を担えぬほどの者になりましたら、それはすべて私の責任。これからは厳しく躾け、慈悲深い心を……」「空約束は聞きたくない」天皇は皇后の言葉を遮った。「一年を期限とする。このような軽挙妄動、傲慢な態度、学業の遅れが改まらぬのであれば、考慮の対象にすらならぬ」一年という猶予に、皇后は僅かに安堵の吐息を漏らした。「かしこまりました」「よろしい」天皇は皇后の思惑を見透かしたように冷ややかに告げた。「明日、朝の挨拶に参るように。手のひらを確認させてもらおう」斉藤皇后の胸に、二十回の手打ちの痛みが突き刺さった。生まれた時から玉のように大切に育ててきた我が子に、どうしてこのような仕打ちを……心の中で、上原さくらと上原潤への恨みが膨れ上がった。先祖の功績がどれほど偉大であろうと、今は一介の子供に過ぎない。たかが言葉の失態で、このような仕打ちを受けるとは、天地が逆さまになったようなものではないか。一方、廟では北條守が大皇子と共に跪いていた。事の次第も知らされぬまま、休暇日に樋口信也の使いに呼び戻され、ただ大皇子を連れて廟に参り、上原太政大臣の戦歴を語れと命じられた。太政大臣・上原洋平。その名は守の心の中で聖山のごとく聳え立っていた。一つ一つの戦いを、まるで自分の手の中の宝物のように、克明に覚えて
北冥親王邸では、夜遅くまで灯りが煌々と灯されていた。有田先生は陛下からの賜り物を丁寧に記録し、保管している。いずれ潤お坊ちゃまが太政大臣の爵位を継ぐ際に返還するためだ。月明かりの下、さくらは潤の手を取り、庭園を歩いていた。今日の出来事が幼い心に傷を残さないか気がかりで、散歩をしながら様子を窺っていた。しかし、その心配は杞憂に終わった。「大したことないよ」潤は澄んだ瞳でさくらを見上げた。「ただの言葉じゃない。太后様も陛下も、こんなにたくさんの素敵な物を下さったのに。それに」少年は微笑んで付け加えた。「大皇子様はまだ小さいから。大きくなれば、きっと分かってくれると思う」「まあ」さくらは潤の鼻先を軽くつついた。「大皇子様がまだ小さいって。じゃあ、あなたは大人なの?」「まあ、大皇子様よりは年上ですからね」潤は小声で言った。叔母や叔父が心配しているのが分かっていた。今も叔父が後ろをこっそり付いてきているのも気づいていた。「大したことじゃないんです」明るい声で続けた。「太后様がおっしゃったんです。これからの僕は、毎日楽しく、幸せに過ごさなきゃいけないって。おじいさまも、おばあさまも、お父様もお母様も、上原家の子孫のために辛い思いを全部引き受けてくださった。だから私たちに幸せを残してくれたんです。僕たちが幸せなら、きっと喜んでくださるはずです」さくらの胸に、鋭い痛みが走った。慰めの言葉かもしれない。でも、もう彼らのために何もできない。ただ幸せに、楽しく生きること。それだけが、残された道であり、彼らの望みだったのかもしれない。手を繋いで庭を一周すると、潤は皇太妃のところへ行きたいと言い出した。「今日はお宮で、皇太妃様とゆっくりお話できませんでした。明日は早く書院に戻らないといけないから、もう少し一緒に過ごしたいんです」その大人びた物言いに、さくらは思わず笑みを浮かべた。「そうね、送っていってあげましょう」皇太妃は屋敷に戻ってから、ずっと憂鬱な様子だった。高松ばあやが何度慰めても気分は晴れなかった。だが潤が嬉しそうに駆け寄ってくるのを見た途端、突然込み上げるものがあった。思わず涙が滲みそうになり、急いで潤を抱きしめた。「可愛い子……辛かったわね」潤は皇太妃の胸に顔を埋めながら、後ろ手でさくらに「もう大丈夫」と手を振った。「皇太妃様、少しも辛
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一
さくらは使いを出し、薬王堂から紅雀を呼び寄せた。三姫子の額の傷は幸い浅く、出血もすぐに止まったため大事には至らなかった。だが、数日前からの発熱で体力を消耗していた上に、激しい動揺が重なり、今や心火が上って血を吐き、意識も朦朧としていた。目尻から絶え間なく涙が零れ落ちる。さくらが何度拭っても、まるで尽きることを知らないかのように流れ続けた。「どうですか、様子は?」紅雀が脈を取り終えると、さくらは尋ねた。紅雀は深いため息をつきながら答えた。「奥方様は数日来の高熱に加え、先ほど背中を叩いてみたところ、肺に異常が見られます。また、肝気の鬱結が著しく、気血が滞っております。これまでの投薬では力不足でした。まずは強い薬で肝気を清め、火を取り、肺気を整える必要があります。その後、徐々に養生していただきますが、これ以上の心労は厳禁です」そう言うと、紅雀はさくらを部屋の外に呼び出し、声を落として続けた。「肝血の鬱結が深刻です。これは明らかに心の悩みが原因かと。何か言えない事情を抱え込んでいらっしゃるのでしょう。自らを追い詰めているような……」さくらには察しがついた。親房甲虎の謀反事件に家族が連座するのではないかという不安だろう。賢一を棒太郎に武術の稽古をさせた時、玄武は「最悪の事態を想定しているんじゃないかな」と言った。最悪の事態を想定しているということは、きっと昼夜問わずその心配に苛まれているのだろう。「まずは薬を数服……」紅雀はそれ以上何も言わず、部屋に戻っていった。さくらは御城番の部下たちに、今日の出来事について一切口外無用と厳命した。他人が噂を流すのは別だが、御城番からの漏洩は絶対に避けねばならない。指示を終え、部下たちが立ち去った後、振り返ると夕美が柱に寄りかかっているのが目に入った。その目は泣き腫らして真っ赤だった。夕美は琉璃のように儚げな様子で、今にも砕け散りそうにさくらを見つめていた。「北冥王妃様、一つ伺ってもよろしいでしょうか」鼻声で、完全に詰まった声だった。「どうぞ」さくらは応じた。夕美は嘲るような笑みを浮かべた。「伊織屋を開いて、女性の自立を謳っているそうですね。では伺いますが、私がしたことを男がしたとして……同じように非難されるでしょうか?むしろ、多くの女性に好かれる手腕があると褒められるのではありま
その言葉に、その場にいた全員が凍りついた。千代子に付き添ってきた親族たちも、香月自身も、その「子供」のことは知らなかった。特に香月は大きな衝撃を受け、よろめきながら二歩後ずさり、まるで磁器が砕けるように、その場に崩れ落ちそうになった。実は千代子も確信があったわけではなかった。薬王堂での一件の後、親房夕美の素性を探らせた際、ある医師と接触した。その医師は夫と親交があった。北條家での子供を何故失ったのかと尋ねると、医師は一つの推測を語った。以前の堕胎が原因で子宝に恵まれない体質になった可能性があるというのだ。医師は事情を知らず、婦人が子を失うのは珍しい事ではなく、堕胎後の養生が不十分だと不妊の原因になり得ると考えただけだった。千代子には、夕美と十一郎との間に子供がいたのかどうかを確かめる術がなかった。天方家への調査は及びもしなかった。全ては推測に過ぎなかった。しかし夕美の傲慢な態度に堪忍袋の緒が切れ、推測を事実のように突きつけた。事の真相を明らかにさせるための強烈な一撃のつもりだった。だが、その言葉を発した瞬間、三姫子と夕美の血の気が引いた表情を目にして、千代子は自分の推測が的中していたことを悟った。夕美は全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。千代子の言葉が探りだったとは知らず、すべてが露見したと思い込んでいた。「やっぱり……」香月の頬を涙が伝う。「私の疑いは的中していた。ただの思い過ごしではなかった。あなたは夫に会いたかった。それだけの関係じゃなかった。子供まで……夫を探し出した理由は明らかよ。なのに夫も慎むことなく、あなたの愚痴を聞いていた。一番避けるべき立場なのに。そして破廉恥な二人が、私を非難した。私の取り乱しのせいで評判を落としたなんて……」夕美は溺れる者のように、死の淵に追い詰められたような絶望感に襲われた。村松光世の子を宿したと知った時と同じような……もう逃げ場はないと感じていた。あの時は三姫子が救ってくれた。夕美が三姫子を見つめた時、蒼白な顔をした三姫子は前のめりに倒れ込んだ。気を失ったのだ。さくらは咄嗟に駆け寄って支えようとしたが、間に合わなかった。三姫子は床に倒れ込み、額を打った。さくらが触れると、手は血に染まった。額と頬は異常な熱を帯び、全身が火照っていた。「医者を!早く医者を!」蒼月も三姫
夕美は目を泳がせ、座って話し合うことを頑なに拒んだ。冷ややかな声で言った。「あの時は、酒に酔って起きた過ちよ。私はあの人を十一郎さんだと思い込んでいただけ。でもあの人は正気だった。私が誰なのか分かっていたはず。だから、私にも非はあるけど、彼の方がずっと重い」「でも、夫は違うことを言っていました」香月は必死に涙をこらえながら、震える声で続けた。「あなたは酔っていたけど、正気だったと。彼が誰か分かっていて、名前も呼んだって」「嘘つき!」夕美は顔を赤らめ、一瞬さくらの方をちらりと見てから、大声で言い返した。「嘘よ!あの人に直接対質する勇気があるの?私が呼んだのは十一郎さんだわ!」さくらには裁きの経験こそなかったが、あれだけの時が経っても、夕美が十一郎の名を呼んでいたことを覚えていた。それは、彼女が村松光世と区別がつかないほど泥酔していなかった証だった。香月は一時、言葉を失った。しかし、その母である千代子は冷静さを保っていた。冷笑して言った。「泥酔していたはずなのに、誰の名を呼んだか覚えているのですか?酔っていても三分の意識があったということは、その人が十一郎さんでないことも分かっていたはず」「戯言を!」夕美は再び立ち去ろうとした。大勢の前でこの恥ずかしい話を蒸し返されて面目が立たなかった。織世が再び制止しようとすると、平手打ちを食らわせた。「生意気な!私を止める気!?」織世は頬を押さえながらも、一歩も退かなかった。「夕美お嬢様、話をはっきりさせてからお帰りになって」夕美の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。「私に何を言えというの?この件で一番傷ついたのは私よ。光世さんは得をしただけ。私がどれほどの代償を払ったか分かって?全て私が悪いというの?なぜ私ばかりを追及するの?彼を問い詰めに行けばいいでしょう」香月は次第に冷静さを取り戻してきた。「夫への問い詰めは当然やります。それはさておき、正直に答えてください。あの日、薬王堂に行ったのは彼に会うためだったのでしょう?私も調べましたよ。薬王堂に行く前から、北條守さんとの離縁を騒ぎ立てていた。もう一緒に暮らせないと思ったから、彼を頼ろうとしたのでは?」「雪心丸を買いに行っただけよ!」夕美は恥ずかしさと怒りで声を荒げた。「余計な詮索はやめて!」「彼は薬箪笥係ではなく、仕入れ係でしょう?雪心丸を買
三姫子は香月の絶望的な泣き様を見つめ、同じ女として胸が締め付けられた。追い詰められなければ、こんな体面を失うようなことはしなかっただろう。「夕美を連れて参れ」三姫子は表情を引き締めた。「どんな手を使ってでも」織世が数人の老女を従えて部屋を出ると、三姫子は香月に向き直った。「あなたは自分への答えを求めてここに来たのでしょう。だから彼女が何を言おうと、真実であれ嘘であれ、ご自身の感覚を信じなさい。そうすれば、自分の中で決着がつき、次にすべきことも見えてくるはず」香月は涙を拭い、蒼白な顔を上げた。際立って美しい容姿ではなかったが、凛とした気品が漂っていた。「ご親切に感謝いたします」千代子もまた三姫子とさくらに説明を続けた。娘を案じる気持ちと、これだけの親族が集まったのも、ただ真相を明らかにしたいがためだと。光世と夕美の過去の関係は知らなかったという。後に香月が知って実家に話したとき、家族は「昔の一時の迷いに過ぎない、今の夫婦仲を壊すことはない」と諭したのだった。そうして平穏な日々が戻り、確かに光世は結婚後、女道楽も控えめになり、側室一人すら置かなかった。「あの日、娘が泣きながら帰ってきて、二人がまだ関係を持っていると……薬王堂で親密な様子だったと聞かされては、親として黙っているわけにはまいりません」さくらには、この家庭内の揉め事が複雑に絡み合った糸のように感じられた。「ご心情はよく分かります」高熱に喘ぎながらも、三姫子は冷静に言葉を紡いだ。「確かに過去の出来事とはいえ、あれは表沙汰にできない不義密通。人倫に背く行為でした。風紀を乱すと非難されても仕方ありません。だからこそ香月様の胸に棘が残っているのでしょう。ただし、この件は夕美だけを責められません。光世さんにも相応の過失がある」「ええ、重々承知しております」千代子は慌てて言った。「そのため息子たちも婿殿を諭しに参りました。ですが婿殿が離縁を持ち出し……私どもは反対なのです。どうしても続けられないのなら、和解離縁という形を……今日このような騒動を起こしましたのも、やむを得ずのことで、どうかお許しください」三姫子は苦笑を浮かべた。「お許しも何も。ただ事態が収まることを願うばかりです」もはやどうでもいい。これほど腐り切った状況なのだ。さらに腐るのも構わない。いずれもっと腐り果
家の恥を外に晒すまいという配慮など、香月にはもはやなかった。だがさくらの威厳の前に、涙をこらえながら、母や義姉、叔母たちと共に西平大名家の正庁へと入っていった。西平大名家側は、親房鉄将がまだ勤務中で不在。蒼月が女中たちを従えているだけで、これほどの大勢に対峙するのは初めての経験だった。夕美を呼びに人を走らせたが、さくらが来ていると聞いた夕美は、なおさら姿を見せようとしなかった。結局、事態を知った三姫子が、高熱を押して事態の収拾に現れた。さくらは三姫子の姿を見て胸が痛んだ。わずか数日の間に一回り痩せ、蝋のように黄ばんだ顔は血の気を失い、唇だけが熱に焼かれて赤く染まっていた。歩くにも人の手を借りねばならぬほど、弱々しい様子だった。普段から親しかった三姫子が楽章の義姉と知り、さらに親近感を覚えたさくらは、こんな状態で夕美の尻拭いをさせるのが忍びなく、「夕美さんが出てこられないのなら、老夫人にお願いしましょう。病人を立たせておくわけにはまいりません」と声を上げた。「申し訳ございません。母上も体調を崩されておりまして……」蒼月が答えた。香月は理不尽な要求をするつもりはなかった。ただ、これまで抑えてきた思いを、今ここで夕美にぶつけたかった。たった一つの質問に答えてもらえれば、それで良かった。目を真っ赤に腫らしながら、香月は切々と訴えた。「私は誰かを責めたいわけではございません。ただ夕美さんに一つだけお聞きしたい。あの日、薬王堂へ行かれたのは、意図的に夫を探されたのでしょうか、それとも本当に薬を買いに……ただそれだけを、正直にお答えいただきたいのです。もし本当に偶然の出会いだったのなら、私の思い過ごしとして謝罪いたします。夫が職を失い、天方総兵官様にまでご迷惑をおかけしたこと、すべて私の責任……私が家から追い出されても甘んじて受けます」その言葉には明確な意図が込められていた。この数日間、きっと一睡もできぬほど考え抜いた末の言葉なのだろう。香月の目は泣き腫らして赤く、涙の跡が生々しかった。その心の張り裂けそうな表情に、見ている者まで胸が締め付けられた。三姫子は香月の母・千代子の方を向き、疲れた声で言った。「千代子様、私たちも長年の知り合いです。お付き合いは浅くとも、私がどんな人間かはご存知のはず。率直に申し上げますが、この件で夕美に問いた
光世の妻が押しかけてきたのには、それなりの理由があった。まず、世間の噂が収まらないことだ。村松光世が薬王堂で薬材を管理していたことは広く知れ渡り、連日、患者ではない野次馬が押し寄せては罵声を浴びせる始末だった。薬王堂は患者すら入れない有様となり、ついに採薬から戻った丹治先生が自ら、村松光世の解雇を宣言せざるを得なくなった。もはや薬王堂とは無関係だと。もう一つの理由は、天方家の縁談だった。やっと見つけた娘を天方十一郎の母、村松裕子は気に入り、先方も同意していた。あとは十一郎の承諾を得て、生年月日を取り交わすばかりだった。ところが一件が発覚すると、先方は仲人を寄越し、縁談を白紙に戻すと言い出した。これまでの付き合いは、ただのお茶飲み話だったということにしたいと。激怒した裕子は実家に戻り、村松家の長老たちに裁定を仰いだ。長老たちは村松光世を呼び寄せ、痛烈に叱責した。従兄弟の情を踏みにじったことはまだしも、何年経っても尻の拭い方も知らぬ馬鹿者が、世間の笑い者になるどころか、村松家の面目を潰し、おまけに十一郎と天方家の名誉まで台無しにしたと。光世は薬王堂の職を失い、すでに癪に障っていたところへ、村松家の長老からの叱責で名誉も失墜し、怒りのあまり離縁を口にした。それが一時の感情に任せた言葉だったのか、本気だったのかは定かではない。だが、一度口に出したその言葉は、光世の妻・白雲香月の怒りに油を注ぐ結果となった。実家は六位官に過ぎず、大きな権勢はないものの、娘が侮辱されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。兄たちは即座に光世の元へ押しかけ、暴力を振るった後、女性親族を引き連れて夕美のもとへ向かった。香月が夕美を追及する理由は明確だった。あの日、夕美がわざわざ薬王堂まで出向いて光世に愚痴をこぼしたのは、計算づくの行動だと。下心があっての仕業だと確信していた。白雲家の一族は予想以上に大人数だった。叔母や伯母など十数人に、さらに下女や老女を加えた二、三十人が、浩々としたぞろぞろと西平大名邸へ押し寄せた。最初は騒ぎ立てることもなく、ただ夕美に出てきて香月と話をつけるよう要求した。だが夕美は恐れて姿を見せず、屋敷の奥に隠れたまま、早く別邸へ移っていれば良かったと後悔するばかり。三姫子は高熱で寝込み、老夫人は体調を崩しており、このような事
有田先生と道枝執事は持てる人脈を駆使して、この古い事件の調査を始めた。西平大名家の傍系の長老たちに話を聞くと、みな口を揃えて「あの子は火事で亡くなった」と言い、親房展夫妻が長く嘆き悲しんでいたという。明らかに真相を知らない者たちの証言で、陽雲が以前調べた時と同じく、表面的な情報に過ぎなかった。調査が進む一方で、北條守と親房夕美の離縁は円満に成立した。双方の同意を得て、争いもなく、持参金も返された。嫁入りの時は都中の注目を集めたというのに、今は目立たないようにと願うばかり。夕美は三姫子に、「将軍家が困窮しているのは承知している。大きな家具や寝具、箱は要らない。細々とした物と絹織物、装飾品だけで十分です」と伝え、ただし嫁資の不動産だけは真っ先に取り戻した。三姫子は自ら采配を振るわず、家の執事に任せきりだった。姑と夕美は三姫子に、光世の妻に会って誤解を解くよう懇願し、千金を用意するとまで言い出した。しかし三姫子も蒼月も反対した。千金で夕美の名誉を買い戻すなど、割に合わないと。この一件が片付いた途端、三姫子は病に倒れた。夜中に突然の高熱で意識が朦朧となり、急いで医者を呼んだ。診断によれば心火が強く、五臓が焦り、秋風に当たって冷えを引き、それが熱となったのだという。嫡子嫡女に庶子庶女まで、皆が看病に集まり、側室たちも次々と姿を見せた。庶子たちは雅君書院には通えなかったものの、三姫子は決して冷遇することなく、専任の乳母を付けて教育を施した。男児たちは同じく私塾で学んでいた。この結婚生活において、三姫子は持てる限りの心力を注ぎ込んだ。普通の人間ができること、できないことを問わず、すべてを成し遂げようとしてきた。西平大名老夫人は三姫子の病を知り、自分が追い詰めすぎたと後悔した。怒りに任せて夕美を叱りつけ、別邸で暮らすよう命じた。「甥や姪に迷惑をかけるな」と。夕美が当然のように騒ぎ立てると、老夫人は激怒し、平手打ちを食らわせた。「この不埒者め!三姫子がどれほどあんたのために尽くしてきたというのだ。いつまで家に迷惑をかけ続ける?あんたを育てたからといって、一生面倒を見なければならないとでも?」三姫子の病が重かったからこそ、老夫人も慈しみの心を見せたのだろう。それに、体面を重んじる老夫人にとって、娘が二度も実家に戻ってく
しかし青葉はその件について詳しくなかった。「親房展が爵位を継いでいないだって?師匠の調査が間違っていたということか?」「有田先生に聞けば分かるはずだ」玄武は即座に提案した。書斎に呼ばれた有田先生は、確かにその当時の事情を知っていた。諸侯の家系のことなら、三代前まではある程度把握しているのだ。まあ、ある程度だが。「親房展が爵位を継いだことは確かにございません」有田先生は丁寧に説明を始めた。「当時の大名様はご病気で、世子を定めていなかった。展様が戦功を立てて帰京された際、世子に推挙されましたが、その後、大名様の容態が回復に向かい、結局お元気になられた。そのため爵位継承は先送りになり……その後、何があったのかは存じませんが、大名様は突然、長孫の甲虎様を世孫に推挙なさった。そこには何か事情があったに違いありませんが、部外者には分かりません。私にも分かりません。恐らく西平大名家の長老方と、現在の老夫人様だけがご存じなのでしょう」この話は、突然謎めいたものとなった。親房展が爵位を継いでいないのなら、単に世子に封じられただけで楽章が家に福をもたらすと断言できたのだろうか。しかも楽章が生まれた年に世子となり、五歳で送り出されるまで爵位を継承していない。むしろ楽章は当時の大名様には利があったが、親房展にはさほど福をもたらしていないように聞こえる。確実に、この中に何か重要な謎が隠されている。そして恐らく、長老たちでさえ真相は知らないだろう。本当のことを知っているのは、現在の西平大名老夫人だけなのだ。「もう調べるのはやめましょう」さくらは静かに言った。「五郎師兄の判断に任せましょう。私たちは知っているだけでいい。どんな決断をしても、支持するだけです」確かにこれは楽章自身の問題だ。どうするかを決めるのは彼の権利であり、彼が心地よいと感じる方法で進めればいい。さくらは胸が痛んだ。実は以前、五郎師兄とはそれほど親しくなかった。その理由の一つは、彼の放蕩な性格で、いつも遊郭に入り浸っていたからだ。もう一つは、彼が何事にも不真面目で、何も真剣に捉えなかったこと。みんなで遊んでいる時も、両手を後ろに組んで傍観し、「子供じみてるな」と言い残して立ち去ってしまうのだ。さくらは今でも覚えている。梅月山に来て二年目の冬、後山で雪だるまを三つ作った。父と