彼の視線は、最後まで紀香に向けられることはなかった。目線はおろか、視界の端すら掠めなかった。それでも――彼が放つ冷たい気配は、確かに彼女に向けられていた。来依が興奮してしまったのは、自分のせいだと責めているのだ。「来依さん……私、急に思い出したことがあって……先に帰るね」紀香は勢いよく立ち上がった。が、急すぎて、ふらりとめまいがし、またその場に座り込んでしまう。「……」楓の家では、もう熱も下がっていたはずなのに。今は頭が重く、身体がついてこない。「座ってなさい、動かないで!」来依はブランケットを引き寄せ、彼女に掛けた。「海人、早く医者呼んで!」海人はしぶしぶ立ち上がり、スマホを取りに行った。ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴る。彼が扉を開けると、医者が立っていた。「菊池社長、奥様の体調に何か?」「うちのじゃない」海人の声は低く、冷たかった。「中にいる、診てくれ」医者は言われるがまま部屋に入り、見慣れぬ女性の姿を見つけた。菊池夫人は何度も診たことがある、ではこの人が――「どこが不調ですか?」来依が代わりに答えた。「発熱してるの。顔も真っ赤でしょ?」医者は体温計で計測し、いくつか質問をした後、診断を下した。「雨に濡れたことによる急性の風邪ですね。深刻ではありません。ただし風に当たらないようにして、二日間はしっかり安静にしてください。元々体も弱いようですし」「ありがとうございます」紀香は礼を言った。医者は続けた。「手の甲に点滴の痕がありますね。内出血もしてますし、もう点滴は避けましょう。お薬を出しますから、服用してしっかり休めば、すぐ良くなりますよ」紀香の血管は細くて探しにくく、子供の頃から病弱だった。祖父はそのことでずっと心配してくれていた。しかし彼女が成長してからは、祖父の腕ではもう抱きかかえられず――その役目は、清孝が引き継いだ。彼の顔がふと脳裏をよぎり、紀香は目を閉じた。「ありがとうございました」「いえ、当然のことです」医者が帰ろうとしたその時――海人が口を開いた。「うちの妻の方も、ついでに検診してくれ。予防も含めて」来依がすかさず拒否。「そんなビビりすぎないでよ。つい最近検査したばっかりで、全部問題な
「藤屋夫人」一郎の声は丁寧ながらも、どこか事務的だった。「うちの奥様は今、妊娠中でして、体調が不安定なこともあり、医師からも余計な心労を避けるよう言われております。ですので、藤屋さんとのことを我が夫人に話すのは控えていただけると助かります。うちの旦那様も申しておりました。藤屋さんとの離婚手続きについて、必要であれば火に油を注ぐ協力は惜しまないと。どれほどの火力になるかは――あなた次第です」紀香は数秒間、ぽかんとしたままだった。……反応が遅れた。そもそも、清孝とのことを来依に話すつもりはなかった。訴訟まで起こそうという状況に、今さら話すことなど何もない。彼女が来た理由は、楓のことだった。ただ、それでもきちんと返した。「菊池社長に、くれぐれもよろしくお伝えください」――話が早くて助かる。一郎はそれ以上は何も言わず、先を歩いた。……来依はすでにマンションのエントランス前で待っていた。頻繁に時計を見ながら、待ちくたびれた様子だった。「一郎、動き遅すぎない?次回は別の人に迎えさせよう」隣では海人が、来依のために一粒ずつブドウの皮を剥いては口に運んでいた。その手を止めずに、優しく答えた。「お前の指示に従うよ」そう言ったタイミングで、エレベーターが「チン」と音を立てて到着した。来依はすぐに駆け寄ろうとした。海人は慌てて支える。「足元、気をつけて」エレベーターの扉が開くと、そこには紀香の姿があった。来依は即座に彼女を抱きしめた。「会いたかったよ」「私も」紀香も抱き返す。だが、すぐに来依は違和感を覚えた。「……熱、ある?」そう言いながら、自分の額を彼女の額に近づけた、その瞬間――ガッ!彼女の肩が突然引っ張られ、男の胸にぶつかった。「風邪ひいてるんだ。あまり近づくな」海人だった。紀香は慌てて後退した。「そうだった……危なかった、来依さん、近寄らないで。来なきゃよかった……風邪治ったらまた来るから」だが来依は手を離さず、彼女の腕を引き戻した。「何、逃げ腰なの。まずはちゃんと治療しなさい」彼女は海人に向かって指示した。「何ぼーっとしてるの、早く医者呼んで」海人は無言で頷き、使用人に指示を出した。その場にいるだけで、紀香は
清孝の母はまったく遠慮しなかった。「清淮、あんたが私に約束したって意味ないでしょ。取り戻すのは私じゃない」「……」清孝は、一瞬呼吸を詰まらせた。何も言い返す気になれなかった。――言えば言うほど、自分が情けなくなる。だが、母は止まらなかった。「心は鏡よ、鏡が割れたら、元に戻らないの。いくら継ぎはぎしても、ひびは消えない。いくつかのことは、取り返しがつかない。心が傷つき切ったら、それ以上癒えることはないのよ」清孝は、唇を固く閉ざした。「……でも、前に母さんは言ったじゃないか。香りんじゃなきゃ、誰も嫁にしないって」清孝の母は確かにそう言った。紀香は小さい頃から彼女が育ててきたようなものだった。娘を授かることができなかった彼女は、紀香をまるで実の娘のように可愛がっていた。そして彼女が清淮に好意を寄せているのを知ったとき、心の底から嬉しかった。――これで、ずっと家族でいられる、と。だが――息子が肝心なところでバカをやらかした。「誰もあんたたちの年の差を気にしてないし、文句言える人なんかいない。だけど、なんであんた自身が年齢のことばかり気にしてたの?」清孝は、今思い返しても、自分が何を考えていたのかわからなかった。「……思い上がってたんだ」彼女は他の男と接する機会が少なかったし、うちで育ってきたから、俺と過ごす時間も長かった。それに、おじいちゃんの言いつけもあって、あの子に対して特に気を配ってきた。だから、彼女の好意はただの憧れや錯覚なんじゃないかって……まだ若いし、恋が何かも分かってないと思ってた」清孝の母はすぐさま否定した。「何も分かってないって?そんなわけないでしょ。私だってあんたの父さんと出会ったのは十代よ。初めて見たその瞬間に、この人と結婚すると決めた。紀香のあんたへの気持ちは、他の誰にも向けたことのない特別な感情よ。世間知らずな女の子が、感謝や憧れを恋だと勘違いするのとは違う。彼女は――本当に、あんたを好きだった。だからこそ、あんたに傷つけられて、心底絶望したの」清孝は頭が痛かった。もう体中が痛む。とりわけ胸のあたりは、深い風穴が開いたように、息をするたび痛んだ。「でも俺は手放せない。彼女がいないなら……自分がどうなってしまうか分からない」
仕事は一時的に切れており、福岡もまだ土地勘がない。馴染みのある石川には……今は帰りたくなかった。紀香はあてもなく街を歩いた。針谷は一定の距離を保ちながら、黙ってついてきていた。そして適宜、清孝に彼女の動向を報告していた。紀香は少し歩いたあと、小さな食堂に立ち寄って軽く食事を取った。その後、道端でしばらく座って休んでから、ふと決意して大阪へ飛ぶことにした。この季節、撮影できる希少動物はすでに撮り終えており、予定されているのは楓が言っていたレッドカーペットの撮影くらい。他に特に仕事の予定はなかった。しかし撮影の件をグループチャットで聞けば、楓に知られる可能性が高い。今は彼と距離を置きたかった。少し時間を置いて、自分の心を整理したい。ちょうど来依が「南希」ブランドの衣装を撮影する話があり、声をかけてくれていた。ついでに来依と話をすることで、行き詰まった思考もほぐれるかもしれない。針谷は紀香が空港に向かう姿を見て、彼女がどこへ行くかを予想した。――大阪だ。すぐに同じ便のチケットを取り、背後からついていく。案の定、紀香は大阪行きのゲートをくぐっていった。「旦那様、奥様は大阪行きです。おそらく菊池夫人を訪ねるのでは」清孝はすぐに海人に連絡した。「最近、何か手助けが必要なことは?」海人「特にない」清孝「記録しておいてくれ」海人「うちの嫁は俺にも止められない。無理」清孝「親友の情ってもんはないのか?」海人「やっと手に入れた嫁だから、俺は大事にしてる」清孝「……」イラッとした清孝は、打った文字でスマホの画面を割りそうな勢いだった。「殺人犯だって無罪を主張する権利がある。俺が改心しちゃいけないのか?」海人「俺に言うなよ。傷つけられたのはお前の奥さんなんだから」清孝「女に目がくらんだ裏切り者」海人「お前だって女に目くらんでるくせに、相手にチャンスすらもらえてねえ」清孝「……」彼はスマホを放り投げ、由樹が指定した退院時間も無視してウルフを呼びつけた。「家に戻って、着替えを取ってきてくれ。俺、大阪に行く」ウルフが部屋を出ようとしたその時、突然、きちんと頭を下げた。その動きに清孝が顔を上げると、そこにあったのは――見慣れた顔。近づいてきたその人物は
――唇の端の微笑みが、どうしても消えなかった。由樹が術後の経過確認のため、病室を訪れた。清孝の様子を見て、精神療法まではもう必要なさそうだと判断したのだろう。身体の状態を記録し、黙って背を向けた。そのまま立ち去ろうとする彼に、清孝が声をかけた。「……俺に何も聞かないのか?」由樹とは長年の付き合いだが、彼が私生活に立ち入ってくることは滅多にない。心理カウンセリングを通じて、ようやく紀香との話を打ち明けたほどだ。元々、彼はそういった下世話な話に興味を持たない性質だ。「俺は忙しい」由樹は冷たく一言だけ返し、歩き出す。清孝は、その素っ気なさが面白くなくなった。「……そういう性格だから、その義妹もお前のこと好きにならなかったんだよ」由樹の足が止まる。だが背中を向けたまま、沈黙を貫いた。清孝はしばらく待ったが、彼が何も言わないので、そのまま話を続けた。「医者ってのは、毎日死と向き合う仕事だ。性格が冷たくなるのは仕方ない。だが――人にも物事にも、無関心になっていいって意味じゃない。彼女は何年もお前の妹として過ごしてきた。ずっと距離感があったけど、本当の妹じゃないって知って、お前の気持ちに気づいた瞬間、すぐに距離を置いた。大学に入るときは、わざわざ遠く離れた札幌に行った。お前ら親友で昔連れて行ったとき、彼女は風土が合わなくて酷いアレルギー症状まで出たのに、それでもそっちを選んだ。――由樹、お前、俺の心理療法やってたとき、自分の問題は考えたことなかったのか?」由樹は、幼い頃から感情を表に出さない性格だった。双子の兄と見た目はそっくりでも、中身は真逆。兄は誰にでも愛想がよく、あのそっくりな目も、いつも微笑を湛えていた。高杉家の人間関係のほとんどは、兄が築いたものだった。由樹はただ医術を磨き、患者を診るだけでよかった。社交も営業も、必要なかった。彼女は、そんな兄を慕っていた。彼に懐いて、よく後ろをくっついて歩いていた。兄はいつも微笑みを浮かべていて、どこか温もりを感じさせてくれたから。兄は物語もうまく、いつも優しかった。自分といるときは、ただ形式的な会話だけ。二人きりになると、すぐに席を立ちたがった。そして後に、自分たちが本当の兄妹ではないと知ったとき――心の奥底に
楓の体に掛けられたブランケットが半分以上ずり落ちていた。紀香はそっと足音を忍ばせ、近づいてかけ直そうとした。その瞬間――手首が掴まれた。目が合った。楓の瞳はまだ眠たげで、けれど深く満ちた想いが宿っていた。「香りん……夢の中でしか、君に好きだって言えないんだ……」――ブゥゥンッ。突然のバイブ音が、鐘の音のように空気を切り裂いた。楓は一瞬で意識を取り戻し、慌てて手を離した。目をこすりながら起き上がり、彼女の戸惑った表情に気づき、一瞬、後悔の色が浮かんだ。「ごめん……夢を見てると思ってた」紀香はワンテンポ遅れて立ち上がった。どこかがおかしい――直感がそう告げていた。「師匠、電話が鳴ってたよ。向こう、急いでるみたい」楓は慌ててスマホを手に取り、窓辺へ移動して通話を始めた。紀香は水を飲みに行った。口に含んだ冷たい水が、さっきの違和感をよりはっきりとさせていく。清孝――彼が楓に対して持っていた敵意を思い出した。最初はただの独占欲、体裁のためだと思っていた。自分がまだ名義上の妻だから、他の男に近づくなという見栄かと。でも今になって、ようやく分かった。――あの敵意は、まるで動物の本能。まるで、撮影したライオンの映像のように。オスが、メスをめぐって敵対する、あの荒々しい感情そのものだった。師匠は――……そういう感情を自分に?紀香の脳内に浮かんだその可能性に、しばし思考が止まった。反応に困ったまま、手にしていたコップを置こうとして――「ガシャッ!」手が滑り、コップは床に落ちて砕けた。その音を聞いて、楓がすぐに戻ってきた。割れたガラスに手を伸ばそうとした彼女の手を、がっちりと掴む。「触っちゃダメ!」彼の顔には明らかな不安が滲んでいた。手や腕、体に傷がないかをくまなく確認する。「怪我してない?……痛くない?」彼女がちょっとでも傷ついてしまったら、と思うと不安で仕方がない。「そこに立ってて。片付けは俺がやる」昔の自分なら、これは先輩としての配慮、そう思っていた。師匠として、長年の付き合いがあるから――そう思っていた。けれど今はもう違う。その優しさの根底にあったのは――友情でもなく、家族愛でもなく、恋愛だった。その事実に気づいた今、紀香は自然に振る舞えなかった