「わかりました、これから気をつけますね」と、警備員は答えた。私は振り返り、先ほど助けてくれた人にお礼を言おうとしたが、いつの間にか彼の姿は見当たらなかった。その後、しばらくの間、裕也の姿を見かけることはなかった。後になって警備員から聞いたのだが、彼は何度か来ていたものの、毎回追い返されていた。学校側はすでに彼の両親に連絡し、学校に戻らなければ退学処分すると警告したらしい。仕方なく裕也の両親は遠方から駆けつけ、彼に付き添っていた。それでも、裕也は多くの単位を落としてしまい、私が卒業する頃には留年していたことがわかった。卒業後、同窓会でその話を聞いたとき、彼はまだ進級できていないと知った。卒業後、私はかつて裕也の為に整理してた人脈を活用し、その人たちを一人ひとり父の会社に招き入れた。そして、父と共に努力した結果、会社は急成長し、上場の準備が進む中で、母の遺品も前倒しで取り戻すことができた。すべてが順調に進んでいると思った矢先、卒業して戻ってきた裕也にまたもや道を塞がれた。その時、彼の隣には深山菫の姿があった。「裕也さん!」深山菫は裕也の後ろにくっついて、まるで彼の身に絡みついている尻尾のようだった。裕也の顔には明らかな嫌悪感が浮かんでいた。「少し離れてくれないか?前にも言ったけど、俺はお前のことが好きじゃないんだ!」そう言いながら、彼は私に気づき、慌ててこちらに走ってきた。「美咲、俺、卒業して戻ってきたよ。会社を立ち上げようと思ってるんだけど、手伝ってくれないか?」私は面白おかしく彼に言った。「父の会社はもうすぐ上場するのに、どうしてそっちを手伝わなきゃいけないの?」裕也の顔は一瞬こわばったが、すぐに持ち直し、こう言った。「君が来なくてもいい。でも俺たち……」「私たちは何の関係もないわ」私は彼の言葉を遮り、彼の背後で必死に彼を見つめている深山菫を指さした。「あなたにはもう新しい相手がいるじゃない?」「違う!彼女とは全然関係ない!」裕也はすぐさま大声で否定した。その時、私は彼の背後で傷ついた表情を浮かべる深山菫を目にした。それを見た瞬間、過去の自分が思い浮かんだ。やはり男は、手に入らないものだけを大事にするのだと。私は背を向けて立ち去ろうとしたが、裕也は突然私の腕をつか
以前、大学の校門前で私を助けてくれた先輩だ。まさかこんな偶然があるなんて、彼は再び私を救ってくれたのだった。その日、私は彼に感謝の気持ちを込めて食事をご馳走した。そこで彼の名前が入江直人だと知った。私たちは連絡先を交換し、急速に親しくなっていった。話を重ねるうちに、私たちは価値観も趣味も驚くほど合っていることに気づいた。さらに驚いたことに、1ヶ月後、近所に住む父の知人が私にお見合い相手を紹介してくれると言い、その相手がなんと直人だったのだ。半年後、私たちは結婚した。結婚式当日、直人は私が高いヒールで疲れることを心配し、化粧室で休んでいるようにと気遣い、一人で招待客を迎えていた。その時、裕也が突然押し入ってきた。彼は髭面で、目は血走り、以前よりも明らかに憔悴した様子だった。私のウェディングドレス姿を見ると、彼の目に一瞬、驚きと深い苦痛がよぎったように見えた。「美咲」彼は一歩ずつ私に近づき、かすれた声で話し始めた。「最近、夢を見たんだ。夢の中で、俺たちは結婚してた。でも、俺は君を裏切って、深山菫を好きになってた。俺は君を傷つけて……子供まで失ったんだ」彼の顔は青ざめ、唇には血の気がまったくなかった。ただ私を見つめて、「これ全部、ただの夢なんだよね?」と言った。私は彼を見つめた。過去を思い出すことは、私にとって苦痛であり、耐えがたいものだと思っていた。でも、今の私は驚くほど冷静だった。静かに、残酷な言葉が口をついて出た。「夢なんかじゃないわ」彼の体がぐらりと揺れた。「そんなはずが……」彼はようやく何かを悟ったかのように言った。「だから、あの時、急に俺に冷たくなったのは、そのせいなのか?」彼は目を真っ赤にして、まるで迷子になった子犬のような顔をしていた。「でも、美咲、それは俺じゃないんだ」彼の声はかすれていて、泣きそうになっていた。「俺は君を裏切ってない!」「それはあなたよ」私は彼の苦しむ顔を見つめながら言った。「もし、もう一度やり直しても、あなたは同じ選択をするでしょうね」「そんなことはない!……」彼は即座に否定したが、私は彼の言葉を遮った。「それは、今あなたが私の苦しみを味わっているからよ!」彼は黙り込んだ。自分がどんな人間か、彼自
江城の年に一度のオークションには、父と一緒に参加した。今日は、私にとっても、父にとっても非常に重要な日だ。母の遺品がこのオークションに出品されているからだ。オークションの主催者は、父の旧友であり、私たちは最前列に席を用意された。しばらくして、母のルビーのネックレスが出品された。「2,000万!」私はいきなり高値をつけた。「1億」数秒後、誰かがその価格を数倍にも引き上げた。その声には聞き覚えがあった。振り返ると、驚くべきことにそれは裕也の秘書だった。彼は私に気づいた途端、戸惑った様子で、すぐに視線をそらした。秘書が1億もの大金を持っているはずがない。間違いなく裕也が出したものに違いない。彼の表情を見て、私は瞬時に悟った。このネックレスが誰の為に買われるものなのか。今、裕也が大切にしている女性、深山菫の為だと。「あれは裕也くんの秘書じゃないか?」父も彼に気づいた。「彼はお前の為に入札しているのか?彼に今日来るって伝えなかったのか?」私は首を振った。最後に裕也が家に帰ってきたのは1ヶ月以上前。私たちは暫く連絡を取っていない。仮に伝えたとしても、彼は気にも留めなかっただろう。私の表情を伺った父は何かを悟ったように、顔を曇らせ、「1億2,000万」と札を上げた。「2億」向こうは全くためらわずに再び札を上げた。「3億」「6億!」父の手は震え、再び札を上げようとしているようにも見えたが、最終的には無力に膝の上に手を下ろした。父は小さな会社を経営していて、そんな大金は持ってない。「バン、バン、バン」ギャベルの音が鳴り響き、落札が決定された。私は父と共に、母の遺品がケースに戻され、裏側に運ばれていくのをただ見つめていた。その後のオークションには、もう身が入らなかった。オークションが終わると同時に、私はすぐに立ち上がり、裕也の秘書の元へと向かった。「田中さん」と私は彼を呼び止めた。彼は一瞬足を止め、振り返った。「なぜオークションに来たんですか?」と私は尋ねた。心の中に、まだごく僅かな希望があった。もしかしたら、裕也の指示ではないのかも知れない。彼が答える前に、上階からイキイキとした女性の声が聞こえてきた。「三好さん、彼は私の連れです
私は冷たい目で彼女を見つめ、「私のことは、『松山さん』と呼ぶべきでしょ?」と言った。「まあ、忘れてたわ」深山菫は口元を手で覆い、その仕草にはあざとさと共に、嘲笑が浮かんでいた。「でも、松山さんはじきに離婚するんだし、今のうちに旧姓で呼んでも問題ないんじゃないかしら?」彼女は夫の会社の社員に過ぎないが、私に対しては一切の恐れを抱いていない。彼女は知っているのだ。私のポジションは、今や名ばかりのものに過ぎず、その肩書きはやがて彼女のものになるのだと。「田中さん、早くネックレスを持って来て」深山菫は秘書に向かって言った。「裕也さんがさっき、飛行機を降りたって連絡があったの。もうすぐ私を迎えに来るわ。私がこのネックレスをつけた姿を楽しみにしてるはずよ!」深山菫の得意げな顔を見つめながら、母の遺品であるそのネックレスが彼女が身につけてると思うと、吐き気を感じた。だが、父の為に耐えた。「深山さん、値段をつけて。そのネックレスを私に売ってほしいの。たとえ分割払いでも、全額お支払いするわ」「でも、今夜はこのネックレスをつけて裕也さんとディナーに行くって約束しちゃったの」深山菫は困ったふりをしながら言った。「じゃあ、あなたも一緒について来て、裕也さんに直接相談してみたら?」「何を言っている!」背後から父の怒りに満ちた声が聞こえた。父は大股でこっちに向かい、私の腕を強く掴んだ。「今すぐ離婚してこい!」「お父さん!」私は急いで父を引き止めた。「ネックレスがまだ彼女の手元にあるわ」「もうネックレスなんてどうでもいい。今すぐ帰るぞ!」と父は私を引っ張った。私はその場を動かなかった。父は浮かない表情で私を見つめ、「彼はお前を、俺たちをここまで侮辱しているのに、それでも彼と一緒にいるつもりか?」と言った。「お父さん……彼ともう少し話をさせて」父の失望した視線を直視することはできなかった。「お前!」父は激しく手を震わせ、私を鋭く睨みつけた。「世の中の男は五万といるのに、なぜあいつじゃないといけないんだ!」私はうつむいた。たしかにこの世の中に男性はいくらだっている。けれど、私が愛しているのはただ一人、松山裕也だけだ。父は怒りに震え、私の手を振り払った。「勝手にしろ!その
それは私と父が母を偲ぶ為の唯一のものだった。裕也の眼差しが一瞬変わったように見えたが、すぐに彼は深山菫の肩を抱き寄せ、冷淡に言った。「そんなに大事なものなら、なぜ自分で落札しなかったんだ?」彼女の肩に置かれたその指には、かつて結婚指輪がはめられていた跡がかすかに残っているが、もうほとんど消えかけている。「そんなにお金は持ってないからよ」「それは君の問題だ」裕也は私を見つめ、「もし君がもっと早く離婚に同意していたら、賠償金でこのネックレスは手に入っただろう」と言った。その言葉はまるで鋭い刃のように、私の心に深く突き刺さった。「つまり、彼女にそのネックレスを落札するのを手助けしたのは、私に離婚を迫る為だったの?」口を開くだけでも、胸が疼く。「裕也、どうしてそんなに酷いことができるの?」「俺たちはもうやり直せない。美咲、なぜ手放そうとしないんだ?」その日、結局私は深山菫からネックレスを取り返すことができなかった。家に戻った私は、裕也が最後に言い放った言葉が頭から離れなかった。ぼんやりとソファに座り、リビングのテーブルや壁にかかっている絵画を見つめた。これらはすべて、裕也と一緒に選んだものだ。私たちはかつて、未来についてのあらゆる理想を抱えていた。なのに、どうして彼は急に心変わりしてしまったのだろうか?私は信じたくなかった。たとえ彼が深山菫と付き合い、私たちの共同の知人に新しい恋人ができたことを知らせても、私は離婚する気にはなれなかった。私は納得がいかなかったのだ。テーブルに置かれたツーショット写真を見つめ、出会った頃のことをふと思い出した。彼と出会ったのは高校時代だった。私は成績優秀で真面目な生徒だったが、彼はイタズラ好きの少年で、後ろの席から私のポニーテールを引っ張っていた。振り返って怒る私に、彼は一枚のメモを差し出してきた。「美咲、好きだ。試しに付き合ってみないか?」その日から、彼は毎朝早起きして、家の前で待っていてくれた。学校までの行き帰りを一緒に過ごす日々が続いた。やがて私の両親も彼の存在を知り、彼の両親にも伝わった。その後、両家は共に食事をする機会を持った。「あなたたちはまだ学生なんだから、恋愛なんてダメよ」彼の母親はそう言い聞かせた。「女の子
彼は私を見つめると、突然私を抱きしめた。「美咲、君が好きだ。君をずっと守りたい」彼の胸に顔を埋め、高校三年のあの日、彼が「君にはまだ俺がいる」と真剣な目で言ってたことを思い出し、私は無意識にうなずいた。大学卒業後、私は裕也と結婚した。結婚して最初の年、私たちは大規模なウイルス感染に直面した。彼はちょうど出張中で、私は一人で家に閉じこもり、治療薬を入手することができず、日に日に増加する死亡者数の報告を見ながら不安に駆られていた。そんな真夜中、突然とドアを叩く音が聞こえた。怯えながらドアスコープを覗くと、そこには驚くべきことに裕也が立っていた。息を切らしながらドアの前に立っている彼は、まるで天から降ってきたかのようだった。「何で戻ってきたの?」その日の午後、彼は数百キロも離れた場所にいるはずだった。「車で帰ってきた」と、彼は厚いマスク越しに息を切らしながら答えた。「外には出るなよ」彼は懐から一箱の薬を取り出し、ドアの前に置いた。「俺が去ったら、外に出て薬を取るんだ」「どこに行くの?」私は訳が分からず尋ねた。せっかく帰ってきたのに、何でまた行ってしまうのだろう?「まだやり残した仕事があるんだ」そう言い残して、彼は足早に去って行った。後になって知ったのは、あの日彼は高熱を出しており、5時間もの間車を走らせ、わざわざ薬を私に届けに来てくれたのだということだった。郵送で送ることもできたのに、道中で薬が盗まれることを恐れ、万が一私が病気になった時に治療薬が手元にないことを心配していたのだ。裕也が私に向ける愛情を疑ったことは一度もなかった。でも、そんな彼が、会社に新しく入って来た若い女性を愛してしまったなんて。裕也曰く、彼女はピュアで、全てを捧げて守りたくなる女性だと言った。私はその女性について調べた。彼女は確かに純粋無垢な顔立ちをしており、実親に捨てられた悲惨な運命を背負っていて、保護欲を掻立てるタイプの女性だった。だけど、彼女はその境遇を利用し、複数の男性を手玉に取っていたことも判明した。その証拠を裕也に突きつけた時、彼は信じなかった。「美咲、お前はビジネス上の駆け引き事に慣れているから、いつも人の悪いところばかりに目が行くんだ」彼は私が、深山菫ほど純粋で善良ではない
それでも、過去の15年間、彼は本当に優しくしてくれた。心から気遣い、守ってくれて、その温もりは確かなものだった。私たちは間違いなく愛し合っていた。だからこそ、今回の出来事を無視してしまえば、きっとまたヨリを戻せると信じてた。そうして私は彼を許した。しかし、一ヶ月後、深山菫は自殺を図った。彼女は自宅で手首を切り、遺したメッセージには「あなたが私に責任を取らなくても、私は恨まない」とだけ残していた。その時、彼は私と一緒に旅行に出かけていたが、そのメッセージを見た瞬間、狂ったように最短の便で飛び立ち、私を見知らぬ場所に一人残して去って行った。彼は3日間姿を消し、戻ってきた頃には、私に離婚届を差し出した。「美咲、離婚しよう。菫には俺が必要なんだ」離婚届を見た瞬間、私の中で募っていた怒りも、誇りも、すべてが消え去った。私は離婚届をむしり取り、粉々に引き裂いた。「私は絶対に離婚なんてしない!」たとえ彼にどう思われても、私は裕也から離れたくなかった。 その後、私たちは冷戦状態に陥った。彼は堂々と深山菫を連れて、さまざまな公式の場に出席するようになった。松山夫人という立場が、もうすぐ誰かに取って代わられることを、彼は世間に知らしめたかったのだ。裕也の両親は激怒し、絶縁するとまで脅したのだが、彼は一切動じなかった。彼は幼い頃から何一つ苦労せず、初めて誰かの為に全世界を敵に回すような感覚を味わっていた。彼女の前で、彼は高潔で、勇敢だった。その感覚を、彼はむしろ楽しんでいたのかも知れない。彼は完全に家出し、深山菫との同居を始めた。月に一度、私の元に届くのは離婚届だけで、音信不通になった。唯一、彼の消息を知る手段は、深山菫のSNSだった。二人が付き合い始めてから、彼女は彼との日常を絶えずシェアするようになった。一緒にお買い物に行ったこと、旅行先でのこと、裕也が彼女に用意した数々のサプライズまで記録されていた。それらのサプライズは、学生時代には贅沢だと感じて、社会に出て裕也が起業してからは、私たちにはもうロマンチックなことをする時間もなくなった。彼はそういうことができない人だと思っていた。でも、彼はすべてできていた。ただ、私にはしなかっただけ。本来なら、深山菫のSNSはブロックすべ
「美咲、この問題、解けるか?」耳元に聞き慣れた声が響き、私はハッと目を開いた。目の前には、制服を着たクラスメイトたちが笑いながら騒ぎ、黒板には数学の問題が書かれている。これは、裕也に離婚を切り出されてから、何度も夢に見た光景だ。高校時代に戻りたい、彼が一番愛してくれた頃に戻りたいと常に思っていた。だから、また夢でも見ているのだろうか?「美咲、何ボーっとしてるんだ?」細長く、綺麗な手が目の前で軽く振られた。振り返ると、裕也の口元には微笑が浮かんでいた。口元が美しい曲線を描き、澄み切った瞳は柔らかな光を湛え、じっと私を見つめている。私は呆然としていた。彼がこんな風に私に微笑みかけるのは、どれくらい前のことだろう? 一年、二年、それとももっと前だろうか。もう思い出せない。最初に浮かんだのは、やけにリアルな夢だということ。でも、何かが違うと直感した。かつては夢の中でも、彼にこんな無邪気で輝かしい笑顔を見せてもらったことはなかった。それに、この顔にはまだ少年のあどけなさが残っている。時間が経ちすぎて、私の記憶の中の裕也は、すでに別人のようになっていた。「今は、いつ?」私は思わず口にした。目の前の裕也は少し驚き、答えた。「金曜日だよ。お前、勉強のしすぎでおかしくなったのか?」「金曜日って、いつの?」「2011年3月25日の金曜だよ」彼はおかしそうに笑いながら私を見た。「明日はお前の誕生日だって言ってたのに、もう忘れたのか?」2011年?私は数秒固まり、すぐに自分の太ももをつねった。痛みが鋭く走り、思わず震え、涙がこぼれそうになった。痛い。これは現実だ。私は、2011年に戻ってきたんだ!この頃の私は、ちょうど母を亡くしたばかりの悲しみから、裕也の支えで学校に戻ってきた時期だ。彼に一番依存していて、一生彼と一緒にいたいと願っていた時期だ。「美咲」裕也の声が私を現実に引き戻した。彼は心配げに言った。「またおばさんのことを考えてるのか?」そう言いながら、彼は私の手を握ろうとする。「どんなに辛くても、おばさんは君がこんな風に悲しむのを望んでないよ」彼の手が私に触れる前に、私は咄嗟に手を引っ込めた。彼の手は空振りし、困惑した表情を浮かべた。