私はリビングに向かい、ちょうど台所から濃い煙にむせて、咳き込んで出てくる父を目にした。「ゴホッ、ゴホゴホッ!」父は煙を追い払おうとしながら、私を見ると申し訳なさそうな顔をした。「学校から帰ってきたか。あのさ、夕飯をちょっと焦がしちゃったんだ、もう少し待っててくれ」言い終わる前に、思わず父の胸に飛びついた。私は父をしっかりと抱き締め、顔を父の広い肩に埋めた。「どうしたんだ?」父は少し戸惑いながら、私の背中を優しく叩いて慰めた。「ただ夕飯を焦がしただけだろ?作り直せば良いんだよ。それとも、外食しようか?」私は何も言わず、ただ涙が止めどなく流れ続けた。母が亡くなった後、私は悲しみに浸っていて、父を気遣ってあげられなかった。それでも、父は私の受験に影響が出ないよう、多忙な仕事を辞め、料理を学び、家事のすべてをこなすようになった。なのに私は、全てを当然のことのように受け止め、裕也の為に父と口論し、父を傷つけてしまった。もし私が頑なに裕也との結婚を主張しなければ、母の遺品は取り戻せたかもしれない。当時の自分の愚行を、今は心底後悔している。私は部屋に戻った。見慣れた部屋の配置を目にしながらも、まるで別世界にいるかのような感覚を覚えた。裕也と付き合ってから、私は家に帰ることはほとんどなかった。父が特注で作ってくれた書斎机や、十数年も使っていたベッドに手を伸ばし、ゆっくりと腰を下ろした。そして、お腹に手を当てた。ぽっかりと空いているような感覚だった。建物から転落し、体中から血が流れ出した時、自分がすでに妊娠してることに気づいた。実は、兆候はあった。2ヶ月ほど前、裕也が泥酔した際に、彼の友人は決まって私に電話をかけてきた。彼から離婚を切り出されて以来、私たちは初めて顔を合わせた。私は彼を自宅に連れ、ベッドに寝かせた。ベッドに横たわった彼は、私を強引に引き寄せ、無理やり関係を持った。でも、その時の彼が呼んでた名前は、深山菫だった。それから1ヶ月、生理は来なかった。当時の私は裕也の態度に苦しめられているうちに、精神状態が体に影響したのだと思っていた。でも建物から落ちて、血が流れ出した瞬間、妊娠していたと確信した。だけど、その子は私の体に一瞬現れただけで、すぐにいなくなった
もしかしたら、彼は特定のタイプがあったわけではなく、ただ私に対して新鮮さを感じなくなっただけなのかも知れない。たとえ深山菫でなくても、心移りする相手はいくらだっている。「美咲!」裕也は私に気づき、まるで救いの神を見つけたかのように叫んだ。私は彼らの前を真っ直ぐと素通りし、彼の硬直した顔がちらりと見えた。その後の数日間、私は彼を無視し続けた。恐らく私の冷たさに彼は耐えかねたのだろう。ある日の放課後、帰宅途中で彼は私を引き止めた。「美咲、どうして急に冷たくするの?」裕也は真剣な目で私を見つめた。彼の目はわずかに赤く、クマができていて、明らかに寝不足な様子だった。「昨日、後輩が告白してきたから?」と裕也は原因を推測しながら、近づいてきた。「あれは断ったよ!俺は…」「今はただ勉強に集中したいだけよ」と私は彼の言葉を遮った。彼は驚いたように一瞬固まった。すぐに、彼はほっとしたように見えた。「そうか、それなら一緒に勉強しよう。大学に行ったら、また……」「大学のことは、その時にまた考えましょう」と私は言った。裕也の唇は微動し、何かを話そうとしたが、結局は言葉を飲み込んだ。大学入試まで残りの半年間、裕也とは何の接点も持たなかった。彼はいつも通り、毎日の通学や帰宅に付き添ってくれたが、私に干渉することはなかった。入試当日、私は前世よりも高い点数を取り、理想の大学に合格するのには十分だった。その一方、裕也は前世よりは良い成績を収められず、やっと合格ラインに達し、志望校への望みは薄かった。志望校申請の際に、彼は前世と同じように私に尋ねてきた。私は前世と同じく、地方の大学に行くつもりだと告げた。でも実際には、私は地元の大学を志望していた。合格発表の日、裕也は家の前に駆けつけ、ドアを叩いた。「ドン、ドン、ドン!」父も家にいて、心配をかけたくなかった為、私は仕方なくドアを開けた。ドアを開けると、裕也が問い詰めてきた。「君は地方の大学を志望してただろ?どうして先生は、君が地元の大学に合格したと言ってるんだ?」「気が変わったの」私は淡々と答えた。「お父さんと一緒にいたいから」「でも、約束したよな?……」「裕也」私は彼の言葉を遮り、彼を見つめた。「あなたは私にとって何なの?
「大学のことは、大学に入ってからと言ったけど、付き合うとは言ってないわ」と、私は淡々と話した。裕也は身体を軽く揺らし、両手の拳をぎゅっと握りしめた。彼の心の中では、私は間違いなく彼と交際すると信じて疑ってなかったのだろう。彼は無駄な賭けをするような人ではない。これまでも、これからも。彼があんなにも堂々と深山菫と一緒にいられたのは、私が彼を愛しすぎて離れられないと確信していたからにすぎない。でも、誰かに依存しないと生きていけない人はいない。今も、未来の私も、もう誰かに頼るつもりはない。私はそれ以上彼に構うことなく、家の中に入った。だけど、裕也は諦めていなかった。春休みの期間中、彼は毎日家の前に来て、何度も電話をかけてきた。ついには、父も異変に気づき、「裕也くんと何かあったのか?」と私に聞いてきた。父は、私がかつて裕也を好きだったことを知っていたが、今の私の決意も見抜いていた。私は「もう彼のことは好きじゃないの」と答えた。これ以上彼に悩まされない為に、私は夜が明ける前に早々と学校に向かい、入学手続きを済ませた。その後、携帯番号を変えて、親しい友人にだけ新しい番号を教えた。前世で、裕也に執着していた時も、友人たちがそばにいて助けてくれたのに、その時は恋に盲目で聞く耳を持たなかった。結局、彼女たちは一人、また一人と失望して、私の元から去って行った。今世の私は、友情を大切にし、また彼女たちは私のことを一切口外しなかった。裕也は電話が繋がらないと知ると、大学にまで押しかけて来た。校内には簡単には入れない為、彼は校門の前で待ち伏せていた。彼は地方の大学に受かり、地元から新幹線で5時間以上もかかる場所だった。私の大学まで何度も往復するうちに多くの授業を欠席し、すぐに学校から警告されていた。私はただ見て見ぬふりをした。しかし、彼の執着は私が思っていた以上のものだった。ある日、校外から戻ると、校門の前に身を隠していた裕也に突然引き寄せられ、壁に押し付けられた。「美咲、本当に君を忘れられないんだ!」彼はひげ面で、赤く充血している目で私を見つめた。「お願いだ、一度チャンスをくれ!」「裕也、離して!」私は驚きと恐怖に駆られ、必死に抵抗した。彼は狂ったように私の手を掴み、壁に押し付け、無理にキス
「わかりました、これから気をつけますね」と、警備員は答えた。私は振り返り、先ほど助けてくれた人にお礼を言おうとしたが、いつの間にか彼の姿は見当たらなかった。その後、しばらくの間、裕也の姿を見かけることはなかった。後になって警備員から聞いたのだが、彼は何度か来ていたものの、毎回追い返されていた。学校側はすでに彼の両親に連絡し、学校に戻らなければ退学処分すると警告したらしい。仕方なく裕也の両親は遠方から駆けつけ、彼に付き添っていた。それでも、裕也は多くの単位を落としてしまい、私が卒業する頃には留年していたことがわかった。卒業後、同窓会でその話を聞いたとき、彼はまだ進級できていないと知った。卒業後、私はかつて裕也の為に整理してた人脈を活用し、その人たちを一人ひとり父の会社に招き入れた。そして、父と共に努力した結果、会社は急成長し、上場の準備が進む中で、母の遺品も前倒しで取り戻すことができた。すべてが順調に進んでいると思った矢先、卒業して戻ってきた裕也にまたもや道を塞がれた。その時、彼の隣には深山菫の姿があった。「裕也さん!」深山菫は裕也の後ろにくっついて、まるで彼の身に絡みついている尻尾のようだった。裕也の顔には明らかな嫌悪感が浮かんでいた。「少し離れてくれないか?前にも言ったけど、俺はお前のことが好きじゃないんだ!」そう言いながら、彼は私に気づき、慌ててこちらに走ってきた。「美咲、俺、卒業して戻ってきたよ。会社を立ち上げようと思ってるんだけど、手伝ってくれないか?」私は面白おかしく彼に言った。「父の会社はもうすぐ上場するのに、どうしてそっちを手伝わなきゃいけないの?」裕也の顔は一瞬こわばったが、すぐに持ち直し、こう言った。「君が来なくてもいい。でも俺たち……」「私たちは何の関係もないわ」私は彼の言葉を遮り、彼の背後で必死に彼を見つめている深山菫を指さした。「あなたにはもう新しい相手がいるじゃない?」「違う!彼女とは全然関係ない!」裕也はすぐさま大声で否定した。その時、私は彼の背後で傷ついた表情を浮かべる深山菫を目にした。それを見た瞬間、過去の自分が思い浮かんだ。やはり男は、手に入らないものだけを大事にするのだと。私は背を向けて立ち去ろうとしたが、裕也は突然私の腕をつか
以前、大学の校門前で私を助けてくれた先輩だ。まさかこんな偶然があるなんて、彼は再び私を救ってくれたのだった。その日、私は彼に感謝の気持ちを込めて食事をご馳走した。そこで彼の名前が入江直人だと知った。私たちは連絡先を交換し、急速に親しくなっていった。話を重ねるうちに、私たちは価値観も趣味も驚くほど合っていることに気づいた。さらに驚いたことに、1ヶ月後、近所に住む父の知人が私にお見合い相手を紹介してくれると言い、その相手がなんと直人だったのだ。半年後、私たちは結婚した。結婚式当日、直人は私が高いヒールで疲れることを心配し、化粧室で休んでいるようにと気遣い、一人で招待客を迎えていた。その時、裕也が突然押し入ってきた。彼は髭面で、目は血走り、以前よりも明らかに憔悴した様子だった。私のウェディングドレス姿を見ると、彼の目に一瞬、驚きと深い苦痛がよぎったように見えた。「美咲」彼は一歩ずつ私に近づき、かすれた声で話し始めた。「最近、夢を見たんだ。夢の中で、俺たちは結婚してた。でも、俺は君を裏切って、深山菫を好きになってた。俺は君を傷つけて……子供まで失ったんだ」彼の顔は青ざめ、唇には血の気がまったくなかった。ただ私を見つめて、「これ全部、ただの夢なんだよね?」と言った。私は彼を見つめた。過去を思い出すことは、私にとって苦痛であり、耐えがたいものだと思っていた。でも、今の私は驚くほど冷静だった。静かに、残酷な言葉が口をついて出た。「夢なんかじゃないわ」彼の体がぐらりと揺れた。「そんなはずが……」彼はようやく何かを悟ったかのように言った。「だから、あの時、急に俺に冷たくなったのは、そのせいなのか?」彼は目を真っ赤にして、まるで迷子になった子犬のような顔をしていた。「でも、美咲、それは俺じゃないんだ」彼の声はかすれていて、泣きそうになっていた。「俺は君を裏切ってない!」「それはあなたよ」私は彼の苦しむ顔を見つめながら言った。「もし、もう一度やり直しても、あなたは同じ選択をするでしょうね」「そんなことはない!……」彼は即座に否定したが、私は彼の言葉を遮った。「それは、今あなたが私の苦しみを味わっているからよ!」彼は黙り込んだ。自分がどんな人間か、彼自
江城の年に一度のオークションには、父と一緒に参加した。今日は、私にとっても、父にとっても非常に重要な日だ。母の遺品がこのオークションに出品されているからだ。オークションの主催者は、父の旧友であり、私たちは最前列に席を用意された。しばらくして、母のルビーのネックレスが出品された。「2,000万!」私はいきなり高値をつけた。「1億」数秒後、誰かがその価格を数倍にも引き上げた。その声には聞き覚えがあった。振り返ると、驚くべきことにそれは裕也の秘書だった。彼は私に気づいた途端、戸惑った様子で、すぐに視線をそらした。秘書が1億もの大金を持っているはずがない。間違いなく裕也が出したものに違いない。彼の表情を見て、私は瞬時に悟った。このネックレスが誰の為に買われるものなのか。今、裕也が大切にしている女性、深山菫の為だと。「あれは裕也くんの秘書じゃないか?」父も彼に気づいた。「彼はお前の為に入札しているのか?彼に今日来るって伝えなかったのか?」私は首を振った。最後に裕也が家に帰ってきたのは1ヶ月以上前。私たちは暫く連絡を取っていない。仮に伝えたとしても、彼は気にも留めなかっただろう。私の表情を伺った父は何かを悟ったように、顔を曇らせ、「1億2,000万」と札を上げた。「2億」向こうは全くためらわずに再び札を上げた。「3億」「6億!」父の手は震え、再び札を上げようとしているようにも見えたが、最終的には無力に膝の上に手を下ろした。父は小さな会社を経営していて、そんな大金は持ってない。「バン、バン、バン」ギャベルの音が鳴り響き、落札が決定された。私は父と共に、母の遺品がケースに戻され、裏側に運ばれていくのをただ見つめていた。その後のオークションには、もう身が入らなかった。オークションが終わると同時に、私はすぐに立ち上がり、裕也の秘書の元へと向かった。「田中さん」と私は彼を呼び止めた。彼は一瞬足を止め、振り返った。「なぜオークションに来たんですか?」と私は尋ねた。心の中に、まだごく僅かな希望があった。もしかしたら、裕也の指示ではないのかも知れない。彼が答える前に、上階からイキイキとした女性の声が聞こえてきた。「三好さん、彼は私の連れです
私は冷たい目で彼女を見つめ、「私のことは、『松山さん』と呼ぶべきでしょ?」と言った。「まあ、忘れてたわ」深山菫は口元を手で覆い、その仕草にはあざとさと共に、嘲笑が浮かんでいた。「でも、松山さんはじきに離婚するんだし、今のうちに旧姓で呼んでも問題ないんじゃないかしら?」彼女は夫の会社の社員に過ぎないが、私に対しては一切の恐れを抱いていない。彼女は知っているのだ。私のポジションは、今や名ばかりのものに過ぎず、その肩書きはやがて彼女のものになるのだと。「田中さん、早くネックレスを持って来て」深山菫は秘書に向かって言った。「裕也さんがさっき、飛行機を降りたって連絡があったの。もうすぐ私を迎えに来るわ。私がこのネックレスをつけた姿を楽しみにしてるはずよ!」深山菫の得意げな顔を見つめながら、母の遺品であるそのネックレスが彼女が身につけてると思うと、吐き気を感じた。だが、父の為に耐えた。「深山さん、値段をつけて。そのネックレスを私に売ってほしいの。たとえ分割払いでも、全額お支払いするわ」「でも、今夜はこのネックレスをつけて裕也さんとディナーに行くって約束しちゃったの」深山菫は困ったふりをしながら言った。「じゃあ、あなたも一緒について来て、裕也さんに直接相談してみたら?」「何を言っている!」背後から父の怒りに満ちた声が聞こえた。父は大股でこっちに向かい、私の腕を強く掴んだ。「今すぐ離婚してこい!」「お父さん!」私は急いで父を引き止めた。「ネックレスがまだ彼女の手元にあるわ」「もうネックレスなんてどうでもいい。今すぐ帰るぞ!」と父は私を引っ張った。私はその場を動かなかった。父は浮かない表情で私を見つめ、「彼はお前を、俺たちをここまで侮辱しているのに、それでも彼と一緒にいるつもりか?」と言った。「お父さん……彼ともう少し話をさせて」父の失望した視線を直視することはできなかった。「お前!」父は激しく手を震わせ、私を鋭く睨みつけた。「世の中の男は五万といるのに、なぜあいつじゃないといけないんだ!」私はうつむいた。たしかにこの世の中に男性はいくらだっている。けれど、私が愛しているのはただ一人、松山裕也だけだ。父は怒りに震え、私の手を振り払った。「勝手にしろ!その
それは私と父が母を偲ぶ為の唯一のものだった。裕也の眼差しが一瞬変わったように見えたが、すぐに彼は深山菫の肩を抱き寄せ、冷淡に言った。「そんなに大事なものなら、なぜ自分で落札しなかったんだ?」彼女の肩に置かれたその指には、かつて結婚指輪がはめられていた跡がかすかに残っているが、もうほとんど消えかけている。「そんなにお金は持ってないからよ」「それは君の問題だ」裕也は私を見つめ、「もし君がもっと早く離婚に同意していたら、賠償金でこのネックレスは手に入っただろう」と言った。その言葉はまるで鋭い刃のように、私の心に深く突き刺さった。「つまり、彼女にそのネックレスを落札するのを手助けしたのは、私に離婚を迫る為だったの?」口を開くだけでも、胸が疼く。「裕也、どうしてそんなに酷いことができるの?」「俺たちはもうやり直せない。美咲、なぜ手放そうとしないんだ?」その日、結局私は深山菫からネックレスを取り返すことができなかった。家に戻った私は、裕也が最後に言い放った言葉が頭から離れなかった。ぼんやりとソファに座り、リビングのテーブルや壁にかかっている絵画を見つめた。これらはすべて、裕也と一緒に選んだものだ。私たちはかつて、未来についてのあらゆる理想を抱えていた。なのに、どうして彼は急に心変わりしてしまったのだろうか?私は信じたくなかった。たとえ彼が深山菫と付き合い、私たちの共同の知人に新しい恋人ができたことを知らせても、私は離婚する気にはなれなかった。私は納得がいかなかったのだ。テーブルに置かれたツーショット写真を見つめ、出会った頃のことをふと思い出した。彼と出会ったのは高校時代だった。私は成績優秀で真面目な生徒だったが、彼はイタズラ好きの少年で、後ろの席から私のポニーテールを引っ張っていた。振り返って怒る私に、彼は一枚のメモを差し出してきた。「美咲、好きだ。試しに付き合ってみないか?」その日から、彼は毎朝早起きして、家の前で待っていてくれた。学校までの行き帰りを一緒に過ごす日々が続いた。やがて私の両親も彼の存在を知り、彼の両親にも伝わった。その後、両家は共に食事をする機会を持った。「あなたたちはまだ学生なんだから、恋愛なんてダメよ」彼の母親はそう言い聞かせた。「女の子