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思いだけが留まる

思いだけが留まる

By:  年々Completed
Language: Japanese
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結婚して五年目、夏目遥(なつめ はるか)は住民票の再発行に向かった。 しかし告げられたのは、その住民票が偽物であり、夫・片平類(かたひら るい)の正式な妻は別に存在するという残酷な事実だった。 五年間、深く愛し合ってきたと思っていた日々は、すべて偽りだったのだ。 帰宅後、遥は類と弁護士の会話を耳にする。 「もう少し待ってくれ。里帆はまだ海外で頑張っている。片平奥様の肩書きがあれば、ビジネス界で足場を築ける」 「遥のことなら心配いらない。あいつは俺を深く愛しているし、俺のために夏目家とも絶縁した。もう後戻りできないんだ」 その言葉に、遥の心は完全に崩れた。 そして類が本物の住民票を手にしたときには、遥はすでに遠くへと姿を消し、二度と彼の前に現れることはなかった。

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Chapter 1

第1話

「夏目さん、慎重に確認した結果、あなたの住民票には不備があります。印章が偽造されています」

職員の淡々とした一言に、再発行の手続きをしに来ていた遥は呆然とした。

「そんなはずはありません。私は夫の類と五年前にちゃんと婚姻届を出しました。もう一度、調べていただけませんか......」

職員は再度、住民票の情報を検索した。

「システム上では、片平類(かたひら るい)さんは『既婚』と表示されていますが、夏目さんは『未婚』とされています」

夏目遥(なつめ はるか)は声を震わせて尋ねた。

「彼の法律上の妻は誰ですか?」

「高宮里帆(たかみ やりほ)さんです」

遥は椅子の背もたれを必死に掴み、なんとか立っていられた。

手渡された紙、「未婚」の二文字が目に刺さるように痛かった。

最初はシステムのミスかと疑っていた。

しかし「高宮里帆」という名前を聞いた瞬間、その希望は一瞬にして打ち砕かれた。

五年前の盛大な結婚式、五年間仲睦まじく過ごしてきた模範的な夫婦関係。

彼女が誇りに思っていたそのすべてが、虚構だった。

法的効力のない偽の書類を握りしめ、遥は打ちひしがれたまま帰宅した。

ちょうど扉を開けようとしたその時、中から声が聞こえてきた。

片平家の顧問弁護士の声だった。

「片平社長、もう五年ですよ。そろそろ奥様に法律上の地位を与えてはいかがですか?」

遥は動きを止め、息をひそめた。

しばらくして、類の低く落ち着いた声が響いた。

「もう少し待ってくれ。里帆はまだ海外で頑張っている。片平奥様の肩書きがあれば、ビジネス界で足場を築ける」

弁護士は静かに忠告した。

「ですが、社長と奥様は婚姻届を提出していない。もし彼女が心変わりすれば、いつでも離れることができます」

類は視線を落とし、少し考えてから口を開いた。

「里帆は俺に娘を授けてくれた。だから俺は彼女を全力で守るつもりだ」

「遥のことなら心配いらない。あいつは俺を深く愛しているし、俺のために夏目家とも絶縁した。もう後戻りできないんだ」

八月の夏に、遥の心は氷の底に沈んだように冷え切っていた。

かつて、彼と結婚するために親と絶縁してまで選んだ道。

それすら類の計算の内だったなんて。

過去の小さな疑念が、すべて今、はっきりと答えを持って蘇る。

これまで慈善活動に関心を示さなかった片平グループが、突然チャリティー団体を設立したこと。

子ども嫌いだった類が、養護施設の子供・桜(さくら)にやけに優しかったこと。

最近、彼が桜を養子に迎えたいと口にしていた理由も、今なら理解できる。

桜は、類と里帆の娘だったのだ。

遥は太陽のまぶしさに目を細め、ふらついた。

脚の力が抜け、膝を石段に思い切りぶつけた。

その音を聞きつけた類が駆け出してきて、彼女を抱き上げた。

壊れ物を扱うように、遥をソファに優しく寝かせる。

「遥、大丈夫か?どこか痛むのか?」

遥は首を傾けながら彼を見つめた。

この優しさの裏にあるものは、どこまでが本物で、どこまでが嘘なのか。

だが、それが見抜けない自分が悔しかった。

彼女が何も言わないのを見て、類は動揺した。

「遥、もしかして何か聞いた......?」

遥は首を振った。

「日射病かも。頭がくらくらして気分が悪いの」

類はほっと安堵の息を吐き、遥に付き添っていた運転手を怒鳴った。

「お前、奥様も守れないのか。今月の給料を受け取って、さっさと辞めろ」

遥は手を振って止めた。

「今日は天気がよくて、私がどうしても歩いて帰るって言ったの。彼は悪くない」

類はしゃがみこみ、彼女の血がにじんだ膝にそっと息を吹きかけた。

「遥は優しすぎる」

五年もの間、彼女は類の作り出した幻想の中で生きてきた。

遥は突然、彼の手をぎゅっと握った。

どうしても信じたかった。骨の髄まで自分を愛してくれていたはずの類が、騙していたなんて。

もしかしたら、本当に市役所のミスだったのかもしれない。

もしかしたら、類も知らなかったのかもしれない。

最後の希望を込めて、遥は言った。

「類、住民票がココに破られちゃったから、新しく取りに行かない?」

類の瞳に一瞬だけ動揺が走った。だがすぐに平静を取り戻す。

彼は顔をそらし、遥の目を見ようとしなかった。

「そういう細かいことは、弁護士に任せよう。君はまず体を休めるんだ」

遥は目を閉じ、絶望に沈んだ。

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第1話
「夏目さん、慎重に確認した結果、あなたの住民票には不備があります。印章が偽造されています」職員の淡々とした一言に、再発行の手続きをしに来ていた遥は呆然とした。「そんなはずはありません。私は夫の類と五年前にちゃんと婚姻届を出しました。もう一度、調べていただけませんか......」職員は再度、住民票の情報を検索した。「システム上では、片平類(かたひら るい)さんは『既婚』と表示されていますが、夏目さんは『未婚』とされています」夏目遥(なつめ はるか)は声を震わせて尋ねた。「彼の法律上の妻は誰ですか?」「高宮里帆(たかみ やりほ)さんです」遥は椅子の背もたれを必死に掴み、なんとか立っていられた。手渡された紙、「未婚」の二文字が目に刺さるように痛かった。最初はシステムのミスかと疑っていた。しかし「高宮里帆」という名前を聞いた瞬間、その希望は一瞬にして打ち砕かれた。五年前の盛大な結婚式、五年間仲睦まじく過ごしてきた模範的な夫婦関係。彼女が誇りに思っていたそのすべてが、虚構だった。法的効力のない偽の書類を握りしめ、遥は打ちひしがれたまま帰宅した。ちょうど扉を開けようとしたその時、中から声が聞こえてきた。片平家の顧問弁護士の声だった。「片平社長、もう五年ですよ。そろそろ奥様に法律上の地位を与えてはいかがですか?」遥は動きを止め、息をひそめた。しばらくして、類の低く落ち着いた声が響いた。「もう少し待ってくれ。里帆はまだ海外で頑張っている。片平奥様の肩書きがあれば、ビジネス界で足場を築ける」弁護士は静かに忠告した。「ですが、社長と奥様は婚姻届を提出していない。もし彼女が心変わりすれば、いつでも離れることができます」類は視線を落とし、少し考えてから口を開いた。「里帆は俺に娘を授けてくれた。だから俺は彼女を全力で守るつもりだ」「遥のことなら心配いらない。あいつは俺を深く愛しているし、俺のために夏目家とも絶縁した。もう後戻りできないんだ」八月の夏に、遥の心は氷の底に沈んだように冷え切っていた。かつて、彼と結婚するために親と絶縁してまで選んだ道。それすら類の計算の内だったなんて。過去の小さな疑念が、すべて今、はっきりと答えを持って蘇る。これまで慈善活動に関心を示さなかった片
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第2話
その晩、遥は悪夢にうなされた。夢の中で、両親の叱責と類の甘い言葉が交錯する。「類と結婚するなら、お前はもう夏目家の人間じゃない!」「俺は絶対に君を裏切らない。だって遥は俺にとって、この世で一番大切な存在なんだ」......五年前、遥は両親の反対を押し切り、幼い頃から決まっていた婚約を解消し、類との結婚を選んだ。そのせいで父は怒りで心臓発作を起こし、母はこう言い放った。「いつか泣く日が来るわよ」だが遥は愛を信じ、スーツケースを引いて海原を離れ、ひとり帝都へとやって来た。それからの五年間、類の愛は少しも冷めることなく、むしろ日に日に深まっていった。類の友人がからかって言ったことがある。「夏目さんが空の星を指して好きだって言えば、片平は梯子をかけてでも取りに行くだろうな」遥はその話を聞いて、口を押さえて笑い転げた。だって類は、本当に彼女に星を「贈った」のだから。ある日、遥が天文雑誌で青く輝く星を見つけ、「特別だね」と何気なく口にした。そしてその年の記念日に、イギリスの「Star Name Registry」から命名証書が届いた。宇宙に煌めくその青い星は、遥だけのものになった。類は寝室のバルコニーに高倍率の天体望遠鏡を設置し、遥はほぼ毎晩レンズ越しに、その星が瞬くのを見つめていた。彼女はその幸せな結婚生活をもって、両親に「信じてよかった」と証明しようとしていた。もし結婚が賭けだったなら、その偽りの住民票こそが彼女の敗北の証だった。意識が混濁するなか、里帆の姿が現れる。「あんたは偽物。本物の片平奥様はこの私よ!」遥は必死に首を振り、泣き叫ぶように否定する。「違う!私は信じないわ!」すると突然、里帆の背後に類が現れ、冷たい目で彼女を見下ろした。遥は溺れる者が藁を掴むようにすがりつく。「類、言ってあげて。私は片平奥様でしょ?」だが類は無言で里帆の手を取り、そのまま背を向けて去っていった。「類!!」悲鳴と共に目を覚ました遥。「ここにいるよ、遥。怖い夢を見たのか?」類は優しく背中を撫でながら尋ねる。遥の目からは涙があふれ出す。「類、私は......誰なの?」類は一瞬固まり、それから笑って彼女の鼻をつまんだ。「君は遥だ。俺がこの世で一番愛する人
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第3話
里帆が帰国した?「ううっ、類......桜に、他の人をパパやママって呼ばせたくない......」類は彼女の耳元で優しく囁いた。「大丈夫だ。桜はちゃんと片平家の戸籍に入れてやるよ」ようやく里帆は泣き止み、目元に笑みを浮かべた。「類、でもさ......法律的には、私たちのほうが夫婦なんだよ?あの遥なんかより......」類の眉間に深い皺が寄った。「君が海外でいじめられないようにって、それで式の前に籍を入れたんだ」「片平奥様の肩書き以外なら、何でもやれる。でも遥は何も悪くない。だからあの子には手を出すな」里帆の顔に不満が浮かんだが、今は桜のことが優先だ。彼女は気持ちを飲み込んで口元を引き締める。「安心して。片平奥様の座を争うつもりはないし、私にはその資格もない」類はさきほどの言い方が少しきつかったことに気づき、すぐに腰を落として彼女をなだめた。「何を言う。君に資格がないなら誰にあるって?桜を産んでくれた功労者なんだ。母さんも、ずっと君のこと気にしてたよ」遥は思わず立ち止まった。類の母親が、里帆の存在を知っていた?頭に浮かんだのは、あの高圧的で傲慢な義母の顔だった。嫁入り道具がないからと、片平家の人々はずっと彼女を快く思っていなかった。義母も冷たく当たり、優しい言葉など一度もかけてくれなかった。それでも遥は、誠心誠意尽くせば、いつか受け入れてもらえると信じていた。だが今となっては、義母は最初から別の嫁を受け入れていたのだ。自分なんて、最初から眼中になかった。足が鉛のように重く、遥は類と里帆のあとを引きずるように二階へと向かった。類は最初、紳士ぶっていたが、人気のない廊下に入るやいなや、里帆をぐっと引き寄せて壁際に押しつけた。「桜のことは後でいい。今は、俺の問題を片付けないと」彼の体のあるところが、里帆の下腹部を押し上げた。里帆は顔を赤らめた。二人はそのまま無人の物置部屋に入り、やがて壁越しに、男と女の押し殺した喘ぎ声が遥の耳に届いた。壁一枚隔てた場所で、遥は震えながら壁にもたれ、力なくしゃがみ込んだ。類の荒い息遣いが聞こえる。「里帆......君は、子ども産んだとは思えないほど、こんなにきつい......」里帆は甘く喘ぎながら笑った。「ふふ......じゃ
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第4話
類は額に汗を浮かべ、里帆を指さしながら弁解した。「里帆はこの施設の出資者なんだ。今日たまたま会っただけだよ」遥は問い返す。「それが桜の養子縁組と何の関係があるの?」類の表情が険しくなる。「遥がこんな冷血な人間だなんて、今まで気づかなかったよ。桜はあんなに可愛くて可哀想なのに、何も感じないのか?」冷血?裏切られたのは自分なのに、まるで加害者のように扱われる理不尽さに、遥の心は痛んだ。里帆はにこやかに近づき、遥の手を親しげに取る。「遥、類から桜を養子にするって聞いて、本当に嬉しかった。桜はこの施設で一番お利口な子なのよ」遥は思わず尋ねた。「そんなにいい子なら、あなたが引き取ればよかったんじゃない?」里帆は言葉に詰まり、気まずそうに笑った。類は前に出て、里帆を庇うように立つ。「何を言ってるんだ。里帆はまだ結婚してないんだぞ。そんな状態で子どもを養子にするのは無理がある」胸に針を刺されたような痛みが走る。里帆のために考えてるのに、自分の都合は全く眼中にない。結婚して五年。類は「今はキャリアの大事な時期だから」と言って、子どもを持つことを許さなかった。そのせいで、周囲は勝手な憶測をした。「遥は若い頃に遊び過ぎて、何度も中絶したから妊娠できないんだ」とか、「もともと不妊症らしい」とか。姑も皮肉を交えて「卵を産めない鶏ね」などと嘲笑った。そんな悔しさを訴えても、類はブランド物を買い与えるだけで、決して口を開いて自分を庇ってはくれなかった。本当に愛しているなら、彼女が誤解されている時こそ、声を上げてくれるはずでは?もしここで養子を迎えたら、「やはり子どもが産めないんだ」と世間に証明するようなものじゃないか。それでも、遥は最後の望みにすがって尋ねた。「類は......私との子どもが欲しくないの?」類は目を伏せる。「あと数年したら作ろう?今は会社の事業拡大が大事な時期なんだ......」「わたった。類の言う通りにするよ」彼女は言葉を遮った。心はすでに、死んでいた。どうでもよくなっていた。類は喜び、彼女を抱きしめる。「やっぱり遥は一番優しいよ」彼の肩越しに見えた里帆の瞳には、嫉妬の炎が宿っていた。その瞬間、遥は悟った。里帆はもう、「婚姻届上の
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第5話
「きゃあっ!」里帆が鋭く叫び声を上げた。遥は反射的に手を伸ばしたが、かろうじて彼女の衣の裾に触れただけで、ボタンをひとつ引きちぎってしまった。ちょうど類が角を曲がってきたところで、叫び声に驚いて駆け寄ってくる。目に入ったのは、階段を転げ落ちていく里帆と、手を伸ばしたままの姿勢で立ち尽くす遥だった。類は遥を突き飛ばして里帆の元へ走り寄り、彼女を抱き上げる。「里帆、しっかりして!」里帆は類の腕にすがりつき、苦しそうな表情を浮かべながら言った。「類......遥を責めないで。彼女はただ、桜のことがあまり好きじゃないだけ......私が説得したら、怒らせちゃって......」そう言い残すと、彼女は類の腕の中で意識を失った。類は顔を上げ、自分に突き飛ばされた遥を鋭く睨みつけた。「遥、俺が一番嫌いなのは、嘘をつく人間だ」そして里帆を抱えたまま立ち上がると、怒りを込めた声で言い放った。「里帆に何もなければいいが......そうじゃなかったら、ただじゃ置かないから」階下で車のエンジン音が鳴り響いたとき、遥はふと手のひらを見た。石で擦りむいた掌からは、血が滴っていた。騒ぎを聞きつけた院長が駆け寄り、彼女を抱き起こそうとする。言いたげな表情を浮かべながらも、口は開かない。遥は首に巻いていたスカーフを外し、傷口に当てながら静かに言った。「院長、私、ボランティアを何年もしてきましたよね。あなたとは......もう友達だと思っていたのに」ちょうどその時、施設の昼食時間になり、子どもたちが元気よく飛び出してくる。ぴょんぴょんと跳ねる桜の姿を見て、院長は感慨深く言った。「桜ちゃんは本当に幸運です。片平さんとあれほど相性がいいとは......まるで本当の親子みたい」帰り道、遥は自分のスマホから、五年間一度もかけたことのない番号をタップした。コール音が一度だけ鳴ると、すぐに電話がつながった。「夏目さんからお電話をいただけるなんて、光栄です」赤間結弦(あかま ゆづる)の声は、怠そうでありながら低く魅力的だった。遥は彼の皮肉を受け流し、単刀直入に切り出す。「結弦、あなたと私の婚約、まだ有効なの?」結弦は電話口でくすっと笑った。「冗談はやめてくれよ。君はもう人妻じゃないか。愛人を探すなら
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第6話
その日の夕食後、遥は自分の部屋に戻って休もうとしていた。だが、玄関から物音が聞こえた。里帆が類の腕にしなだれかかるようにして入ってきた。後ろにはスーツケースを持った使用人たちが続いている。類は使用人に客間に荷物を運ばせながら、遥の方を見た。「里帆は帰国したばかりで、まだ部屋を借りられていない。だからしばらく家に泊まってもらうことにした」里帆が眉をひそめる。「ほんの数日だけよ。片平奥様、気にしないでね?」遥は表情を変えずに言った。「何日でも構わないわ」どうせ三日後には自分が出ていくのだから。類は意外そうに訊いた。「怒らないのか?」遥は首を横に振る。「どうせ私も出ていくし」類は一瞬言葉を失った。「どういう意味だ?」遥は手を振った。「冗談よ」類は彼女の様子がどこかおかしいと感じ、さらに問いただそうとした。だが、里帆が先に口を開いた。「類、桜を遊園地に連れて行くって言ってたじゃない」その動作も言い方も、まるで自分がこの家の女主人であるかのようだった。類は完全にその魅力に囚われたように言った。「そうだな。今すぐ桜を迎えに行こう」そう言って遥の方を見上げたが、何も言わずにそのまま黙っていた。遥は気の利く妻のように微笑んで言った。「行ってらっしゃい。桜の帰宅祝いだと思えばいいわ」里帆が再び類の腕に腕を絡め、「そうだよ。家族三人の感じで」と満足げに言う。遥はその得意げな表情に気づきながらも、にっこりと礼儀正しく笑い、背を向けてその場を離れた。夕食を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。遥が眠りにつこうとしていた矢先、外から声が聞こえた。里帆の甘えるような声だった。「類、今夜は一緒に寝てくれない?」類の声は優しいが、拒絶の意志ははっきりしていた。「里帆、遥は法律上の妻なんだ。そんなことは道義に反する」「結婚届に書いた名前は私よ。あの人の方が偽物。だから類が私と寝るのは当然のことよ」遥は指をわずかに握り、息を殺して耳を澄ませた。しばらくの沈黙の後、類が溜息まじりに言った。「君は桜の母親だ。悪いようにはしない、それだけだ」里帆がすすり泣きながら言った。「じゃあお願い、私がここにいる間は、あの人には触れないで」類は小さく
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第7話
類は顔を真っ黒にして、「この家の主人として言ってるんだ!早く飲め!」と怒鳴った。里帆はすでに荷物を持って階段を下り、出ていくふりをして玄関へ向かっていた。類は焦って、一歩で遥のもとへ駆け寄った。彼は食器を手に取り、遥の口を無理やりこじ開けて流し込んだ。「味噌汁で死ぬなんて、俺は信じないぞ」遥は抵抗する力もなく、無理やり栗入りの味噌汁を丸一杯飲まされてしまった。類はようやく手を離した。足元がふらつき、遥は椅子に崩れ落ちた。彼女はむせ返り、鼻水も涙も止まらず、咳が止まらなかった。類は彼女を一瞥することもなく、里帆を追いかけていった。類は里帆をなだめ、彼女は涙ぐみながら彼の胸に身を寄せた。遥のそばを通りかかると、類は冷たく言い放った。「ほら、なんともないだろ。大げさなんだから」遥の喉はすでに腫れ上がり、声にならない。かすれた声でやっと、「救急車を......助けて......」とつぶやいた。類は眉をひそめて、「もうすぐ母親になる身だ、少しは大人になれよ」「さっさと里帆に謝れ」遥の意識はもう朦朧としていた。ついには、呼吸困難でそのまま意識を失ってしまった。類は、まさか味噌汁一杯で遥が命の危機に晒されるとは思ってもいなかった。救急車の中で、類の顔は真っ青になり、全身が震えていた。「遥!おい!」遥は緊急処置室へ運ばれ、五時間後、ようやく出てきた。医者はマスクを外しながらため息をついた。「あと数分遅れていたら、手遅れになるかもしれません」「患者にアレルギー歴があるのに、ご家族はご存知なかったのですか?」類は言葉を失った。彼は知っていた、それでも彼女に命を脅かす味噌汁を飲ませたのだ。類はひどく後悔していた。彼はずっとベッドのそばで見守っていた。遥が目を覚ましたときもそこにいた。喉は依然として腫れて痛んだ。類は彼女の手を握りしめた。「こんなに危険なことになるなら、なぜあの時ちゃんと言わなかったんだ?」彼女にどう言えと?ひざまずいて懇願でもしろと?遥がじっと彼を見つめると、類は視線をそらした。そのとき、彼のスマホが鳴った。彼は少し躊躇してから電話に出た。「遥はもう大丈夫だ。自分を責めるな、泣くな......」そう言ってスマホを遥に差し出した
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第8話
メイドは従って、大小さまざまなアルバムや写真立てをすべて庭の芝生に運び出した。遥は類が大切に保管していた赤ワインを何本か開けて、その上から惜しげもなく注いだ。彼女は自分のグラスにもワインを注ぎ、もう一杯をメイドに渡した。「カチン」とグラスがぶつかり合う音は、五年分の愛情が砕け散る音だった。遥はライターに火をつけ、ゴミの山と化したそれらの贈り物の中へと投げ込んだ。炎が立ち上る中、彼女は首を仰け反らせてグラスの酒を一気に飲み干した。涙が目尻からこぼれ、首元のシャツへと静かに染み込んでいく。残っていたのは、類が過去数年間に贈ってくれたプレゼント。バッグ、ドレス、アクセサリー。遥はそれらすべてをまとめて中古品取引サイトに出品し、入金先の口座を養護施設のものに変更した。類はアシスタントからの電話を受けた。「奥様が、社長が贈ったものをすべてネットで売りに出してしまいました」彼の表情が一変し、慌てて服を着替える。道中、類は何度も遥に電話をかけ続けたが、彼女は一度も出なかった。焦燥と不安に背中を押され、彼は信号無視を何度も繰り返しながら車を飛ばした。ブレーキが止まりきる前に彼は車を飛び降り、門を駆け抜ける。遥はロッキングチェアに腰掛け、グラスを手にしていた。足元には無造作に転がった酒瓶の山。頬は赤く染まり、名前も知らないうたを口ずさんでいた。類の胸の中にあった不安はようやく地に落ち、彼は彼女の前にしゃがみ込む。「遥、どうして電話に出てくれなかったんだ?心臓止まるかと思ったよ」遥はゆっくりと顔を向け、彼をじっと見つめた。「どうして心臓止まるの?」類は熱を帯びた彼女の頬にそっと触れた。「だって、怒ってどこかに消えちゃったのかと思って......」酒の勢いを借りて、遥は心の奥に沈んでいた疑問を口にした。「類は......何か私に隠してること、ある?」類の心臓が沈む。うつむいたまま、しばらく沈黙した。そして顔を上げたときには、無垢でやましさのない表情に切り替わっていた。「もちろんないよ。俺たちは夫婦なんだ、何も隠すことなんてない」遥は彼の肩越しに、燃え尽きて灰になったものを見つめた。彼の言葉で、心の奥にかろうじて残っていた熱が、とうとう消えた。類は彼女の手のひら
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第9話
類は桜の養子縁組の手続きを理由にして、週末の二日間まったく家に帰ってこなかった。遥にとっては、十分すぎる時間だった。この二日間、里帆はずっと彼女にメッセージを送り続けていた。ある時は男女が親密にしているぼやけた写真。ある時は目を背けたくなるような過激な動画。ある時は、彼女の得意げな音声だった。「類がどれだけ愛してるって言ったって、私がちょっと指を動かせば、すぐに私の足元にひれ伏すんだから」「桜の歓迎会を開くんですって?私も参加していいかしら?なにしろ私と桜の関係って......普通じゃないのよね」......これだけあからさまな挑発に、遥はまったく反応を示さなかった。ただ、それらをひとつ残らずセーブしておいた。類が彼女にサプライズを用意しているというなら、礼には礼を返すべきだ。彼女も彼にプレゼントを準備してあげなければ。桜の歓迎会を開くなら、派手にやらないと意味がない。遥は類の親しい友人、会社の大口取引先、そして片平家と何の関係もない遠縁の親戚にまで招待状を送った。もちろん、里帆にも。最初、類は里帆の出席に反対していたが、彼女が「絶対に遥に手を出さない」と何度も約束したため、渋々認めた。「弁護士から連絡あっただろ?月曜日に、まずは離婚の手続きをしよう」里帆の心はズキリと痛んだ。彼女はその言葉に納得がいかなかった。類が仕事で会社に戻った隙をついて、里帆はこっそり養護施設へ向かった。「桜、パパとママと、ずっと一緒にいたい?」桜は目をまん丸にして、「うん!一緒にいたい!」と答えた。だけどすぐにしょんぼりとうつむいた。「でもパパがね、『これは秘密だから夏目おばさんに知られてはダメ』って......だから桜は、おうちに帰れないの」里帆は目を細め、桜の耳元でそっと囁いた。「でも歓迎会の日にね、こんなことをすれば......」「わかった?桜」桜は少し考えたあと、こくりとうなずいた。「ママの言う通りにするね」以前の里帆が片平家の妻という肩書きを欲しがらなかったのは、その頃の類の事業が、他の求婚者に比べて見劣りしていたからだった。彼女には、もっと良い選択肢があった。だが、その後海外で起こったいくつかの出来事......彼女が帰国した目的は、片平奥様の座を取り戻す
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第10話
類は急いで別荘に戻り、使用人を引き止めて遥の行方を尋ねた。「奥様は朝早くから花を買いに出かけられました」その言葉を聞いて、類はようやく少し安心した。歓迎会はまさに豪華絢爛で、会場の中央には人の背丈ほどもある大きな額縁が吊るされていた。類はそれを覆っている布を取ろうとしたが、使用人に止められた。「奥様が仰ってました。お客様が全員揃ってから開けてほしいと」類は手を引っ込めた。客たちは次々と到着し、類は挨拶で忙しく、遥がなかなか戻らないことには気づかなかった。パーティーが始まり、桜はお姫様のようなドレス姿で、二階の階段をゆっくりと降りてきた。類の顔には慈しみ深い父親の笑みが浮かんでいた。そのとき。「ガタン!」と大きな音を立てて、扉が勢いよく開かれた。高級オーダーメイドのドレスに身を包んだ里帆が、堂々と姿を現したのだ。その場にいた全員の視線が、一斉に彼女に向けられた。類の表情が一変し、足早に里帆のもとへ駆け寄った。声をひそめて言う。「目立たないようにしろって言っただろ?」里帆は無邪気そうに両手を広げた。「だってこれ、類がアシスタントに持たせてくれたドレスじゃない」類は一瞬戸惑ったが、今は問いただしている時間もなかった。彼は咳払いをして話し始めた。「本日は皆さま、お忙しい中お越しくださりありがとうございます。では早速、本日の主役をご紹介いたします。この子が片平桜です」類は桜の手を取り、巨大なケーキの前に立った。ケーキカットの場面では、本来なら養父母と養女が一緒に立つはずだったが、遥の席はぽっかりと空いていた。遥は?「私がやりましょう」優雅な足取りで前へと進み、里帆が使用人からナイフを受け取った。すると誰かが会場の空気を破るように口を開いた。「片平奥様って別の方じゃなかった?」「この女、まるで主人のような格好だな」「気づいた?片平家の養子、この女と結構似てるよね?」......類は慌てて口を挟んだ。「コホン、ご厚意はありがたいのですが、やはり私の妻が務めるべきかと」里帆の表情がわずかに曇り、桜に向かって目配せをした。桜はすぐにその意図を汲み取る。彼女は里帆の手をぎゅっと握り、無邪気に言った。「パパ、ケーキはママに切ってもらってよ。夏目
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