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第8話

Author: 年々
メイドは従って、大小さまざまなアルバムや写真立てをすべて庭の芝生に運び出した。

遥は類が大切に保管していた赤ワインを何本か開けて、その上から惜しげもなく注いだ。

彼女は自分のグラスにもワインを注ぎ、もう一杯をメイドに渡した。

「カチン」とグラスがぶつかり合う音は、五年分の愛情が砕け散る音だった。

遥はライターに火をつけ、ゴミの山と化したそれらの贈り物の中へと投げ込んだ。

炎が立ち上る中、彼女は首を仰け反らせてグラスの酒を一気に飲み干した。

涙が目尻からこぼれ、首元のシャツへと静かに染み込んでいく。

残っていたのは、類が過去数年間に贈ってくれたプレゼント。

バッグ、ドレス、アクセサリー。

遥はそれらすべてをまとめて中古品取引サイトに出品し、入金先の口座を養護施設のものに変更した。

類はアシスタントからの電話を受けた。

「奥様が、社長が贈ったものをすべてネットで売りに出してしまいました」

彼の表情が一変し、慌てて服を着替える。

道中、類は何度も遥に電話をかけ続けたが、彼女は一度も出なかった。

焦燥と不安に背中を押され、彼は信号無視を何度も繰り返しながら車を飛ばした。

ブレーキが止まりきる前に彼は車を飛び降り、門を駆け抜ける。

遥はロッキングチェアに腰掛け、グラスを手にしていた。

足元には無造作に転がった酒瓶の山。

頬は赤く染まり、名前も知らないうたを口ずさんでいた。

類の胸の中にあった不安はようやく地に落ち、彼は彼女の前にしゃがみ込む。

「遥、どうして電話に出てくれなかったんだ?心臓止まるかと思ったよ」

遥はゆっくりと顔を向け、彼をじっと見つめた。

「どうして心臓止まるの?」

類は熱を帯びた彼女の頬にそっと触れた。

「だって、怒ってどこかに消えちゃったのかと思って......」

酒の勢いを借りて、遥は心の奥に沈んでいた疑問を口にした。

「類は......何か私に隠してること、ある?」

類の心臓が沈む。

うつむいたまま、しばらく沈黙した。

そして顔を上げたときには、無垢でやましさのない表情に切り替わっていた。

「もちろんないよ。俺たちは夫婦なんだ、何も隠すことなんてない」

遥は彼の肩越しに、燃え尽きて灰になったものを見つめた。

彼の言葉で、心の奥にかろうじて残っていた熱が、とうとう消えた。

類は彼女の手のひらにあるかさぶたに気づいた。

「遥......その手はどうしたの?」

遥は一瞬、類のせいと答えたくなったが、言葉を飲み込んだ。

「犬に噛まれた」

類は痛ましげな表情を浮かべ、救急箱を持ってきて彼女の前にひざまずく。

消毒し、丁寧に包帯を巻いていく。

「まったく......君はいつもこうやってドジで。俺がいなかったら、どうするつもりなんだよ?」

遥は心の中で冷たく笑った。

かつては彼が嵐から守ってくれる傘だと思っていた。

でも実際には、その嵐を運んできたのも、彼だった。

「そうだ。アシスタントから聞いたんだけど、俺があげたプレゼントを全部売ったって?」

遥は視線を逸らした。

「うん。全部新しいのに買い替えようと思って」

類は慎重に包帯を結びながら微笑んだ。

「気に入らないなら捨てていいよ。また新しいのを買ってあげる」

立ち上がると、彼は遥を優しく抱きしめ、耳元で囁いた。

「遥、月曜日に桜のための歓迎会を開こうと思ってるんだ」

遥が何も答えないのを見て、彼はさらに続けた。

「南西アジアのオマーンで星空を見たいって、ずっと言っていたよね?歓迎会が終わったら、家族三人で行こう?」

オマーンのグリーンマウンテンは標高2000メートル以上の高地にあり、星空観測に最適の場所だ。

遥はずっとそこに行きたがっていた。

だが、ちょうど昨日。

彼女の元にイギリスから一通のメールが届いていた。

「残念ながら、天文台の観測によると、夏目様に属する青い星は三日後に墜ちる予定です」

かつては決して壊れないと思っていた愛情は、すでにぼろぼろだった。

決して落ちないと思っていた星も、ついに墜ちようとしている。

類が彼女を抱きしめたまま、言葉を継いだ。

「遥......もし嫌なら、歓迎会は無理にやらなくても......」

酒が抜けた遥は、静かに言った。

「何言ってるの、歓迎会はやるに決まってる。私が手配するよ」

類の顔がパッと明るくなり、再び彼女を強く抱きしめた。

「わかった。それと、他にも君のためのサプライズを用意してるんだ」

類は、その日、法的効力を持つ正式な住民票を遥に手渡すつもりだった。

そしてようやく、名実ともに夫婦になれるはずだった。

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    遥は心の中で思っていた。結弦の事業は類の十倍どころではなく、彼の方がはるかに多くの付き合いや仕事を抱えている。だからこそ、自分との結婚やその準備に彼が期待できるはずもない。「感情のない政略結婚に過ぎないんだから」これは親友に話した時の彼女の言葉だった。しかし、結弦は結婚式の準備のあらゆる場面に現れた。式場の選定はもちろん、装飾一つ一つにまで自ら目を通していた。なにしろ、彼はヨーロッパ最大の芸術大学――ロンドン芸術大学を卒業していて、デザインキュレーションとクリエイティブ産業マネジメントのダブル博士号を持っている。婚約指輪も、彼が特別にデザインを依頼した一点物。ウェディングドレスの選定でも、彼は遥の意見を尊重し、参加を促してくれた。今まさに着ているこのマーメイドドレスも、結弦が修士課程を終えた時の卒業制作だった。低めのソファに腰掛けた結弦は、その長い脚の置き場に困っている様子だった。彼のキツネのような目が、彼女の体を遠慮なく舐めるように見つめてくる。そこには隠しきれない欲望が滲んでいた。遥はその視線に落ち着かなくなり、ウェディングドレスを引き上げながら尋ねた。「似合ってないかな?」結弦は立ち上がって彼女の元へ歩み寄ると、両手を彼女の肩に置いて軽くくるりと回した。鏡の中には、淡く光をまとった遥の姿。白くて長い首、化粧もしていないのにまばゆいほどの顔立ち。「赤間奥様、ご自分の美しさをもっと自覚してください」遥は舌をぺろりと出し、彼に触れられた肌が熱くなっていた。結弦の吐息が耳元をかすめ、頬はみるみるうちに紅潮していく。彼の欲望が背後からはっきりと伝わってきて、遥はあわてて距離を取った。鏡を見ながら話題を変える。「このドレス、あなたがデザインしたって聞いたけど」だが、結弦は止まる気などなかった。一歩、また一歩と彼女に迫ってくる。遥は壁際に追い詰められ、逃げ場を失った。「な、何する気......?」結弦の手が彼女の細い腰を回りこみ、背中の素肌に触れた。熱い掌が彼女と冷たい壁の間にそっと差し込まれる。「俺が何をしたいと思う?赤間奥様」遥は顔を赤くしながらあたりを見回す。「こ、ここはドレスショップだよ?外には......人がいる」彼女のその可愛らし

  • 思いだけが留まる   第22話

    里帆は慌てて身なりを整え、自分では甘い笑顔だと思い込んでいる笑みを浮かべた。彼女は胸元を半分露出させたまま結弦に近づいた。「助けてくれたのは赤間さんだよね?恩返しとして、私のことも......?」だが、アシスタントが素早く彼女の襟首を掴み、横へと引き離した。結弦は椅子に腰を下ろし、けだるげな声で口を開いた。「お前みたいのが?」里帆の顔色が一気に変わった。確かに彼女は遥ほどの絶世美女ではないが、それでも愛嬌のある可愛い系だと自負していた。それが、結弦の目にはここまで価値のない存在に見えているのか。彼女は食卓に座り直した。「なら、どうすればいいの?」結弦は彼女に1億円を渡すと約束した。その金で里帆は桜を養護施設から連れ出し、母娘で遠くへ逃げることができる。「桜の実の父親は誰だ」結弦は類に対抗するため、不安定な要素である里帆を利用するつもりだった。当然、彼女の弱みを握っておく必要がある。この女がいつどう狂って、何をしでかすか分かったものじゃない。里帆は唇を噛み、答えなかった。結弦は焦ることなく言った。「高宮さんを戻してくれ」ここで言う「戻す」は、帝都の家に帰すことではなかった。類の別荘の地下室へ送り返す、という意味だった。里帆はあの地下室に七日間監禁され、ドッグフードで空腹をしのぎ、さらに類から幾度となく暴力を受けた。もう二度と、あの生き地獄には戻りたくなかった。「待って!話す......話すから!」里帆は海外に渡った当初、現地のホストファミリーの家に身を寄せていた。そこの女主人は非常に厳しく、意地悪だった。「腹いせに、私はその女の夫を誘惑したの。その夜、彼が私の部屋に入ってきて......」話しながら、里帆は泣き出した。「本当に後悔してる。すごく怖かった......追い出されて行き場がなかった私は、類にあなたの子を妊娠したって嘘をついたの」類は、かつての恋人を不憫に思い、彼女と籍を入れた。その結婚届のおかげで、里帆はやっと地に足をつけて生きてこられた。「なら、なぜ帰国した」「類が成功して、金持ちになったって聞いたから。本物の片平奥様になれると思って......」結弦はうなずいた。里帆の話は基本的に事実と一致しており、アシスタントが調べ

  • 思いだけが留まる   第21話

    類は朝早く目を覚ましたとき、ひとつの朗報を耳にした。結弦の結婚式の招待状が手に入ったのだ。類は純金で作られ、中にはサファイアが一粒埋め込まれた招待状を眺めながら言った。「こんなにあっさり招待状が手に入るとはね。赤間家って外で言われてるほど神秘的でもないな」「それにしても奇妙なのは、招待状に新郎の名前しか載ってなくて、新婦の名前がどこにも書かれていないことだ」もっとも、誰が新婦かなんて彼にとってはどうでもよかった。どうせどこかの名家の令嬢に違いない。彼は振り返ってアシスタントに聞いた。「準備は整ったか?」アシスタントは黙ってうなずいた。かつて、遥は夏目家の両親の激しい反対を押し切って、婚約を解消し、類と結婚した。彼女には類以外、頼れる相手がもうこの世にいなかった。もし仮に「後始末」を引き受ける可能性のある人間がいるとすれば、それは結弦しかいない。「フン、海原の王子様の結婚式なんて、マスコミが黙ってるはずがない。スキャンダルが暴かれれば、あいつももう堂々と彼女にすり寄る顔なんてないだろう」「そうなれば、身寄りのない遥は、俺にすがるしかない」類はほくそ笑んだ。彼はさらに命じる。「今日のオークションで、奥様が好きだったピンクダイヤのセットを競り落とせ。再会の贈り物にする」だがアシスタントは動かなかった。類は眉をひそめた。「どうした」「社長、お金が足りません」「俺の株を20%売って現金化しろ、応急措置だ」アシスタントはため息をつき、そっと忠告する。「株を売ったら、社長は片平グループの筆頭株主じゃなくなります。もしそうなったら......」「遥を取り戻してから買い戻せばいい話だ」類は、取り合わずに手を振った。その株式は市場に出るや否や、すぐに安値で買い取られた。その背後にいたのは、他でもない結弦だった。その後も類は浪費のために株を売り続け、やがて彼の手元にはたった5%しか残らなくなった。片平グループの筆頭株主だった男は、今やいつでも取締役会から追い出される小さな株主にまで落ちぶれた。出発の二日前、里帆が逃げた。地下室の扉は外からこじ開けられ、彼女は助け出されたのだ。類は激怒し、警備を怒鳴りつけた。「何日も飯食ってないやつが、どうやって逃げ出したと

  • 思いだけが留まる   第20話

    五年間、結弦は誰にも心を許さなかった。次々と近づいてくる女性たちに一切興味を示さず、家族や仲間たちからは性的指向を疑われたほどだった。祖父でさえあからさまに、あるいは遠回しにこう言ったことがある。「孫嫁が男でも女でも構わん。連れてきて見せてみろ」彼も新しい人生を始めようとしたことはあった。別の女性と関係を築こうと努力もした。だが、いざという場面になると、どうしても駄目だった。女性たちが驚いたように目を見開く、その表情が胸に突き刺さった。それで彼は医者に診てもらったこともある。「身体的な異常はありません。精神的なケアをお勧めします」気まずさを避けるため、彼は禁欲を選んだ。一生このまま独りで生きていくのだろうと思っていた。あの電話を、再び遥から受けるまでは。スマホに表示された見慣れた番号を見つめると、息が止まりそうになった。彼は立ち上がり、壁に手をつきながら深呼吸を繰り返し、ようやく震える手で通話ボタンを押した。無理やり声の震えを抑えて、言った。「夏目さんからお電話をいただけるなんて、光栄です」だが遥はその皮肉に反応せず、ただ一言。「結弦、あなたと私の婚約、まだ有効なの?」心臓が跳ね上がるのを押さえつけながら、結弦は答えた。「君はもう人妻じゃないか」遥は焦れたようにもう一度尋ねた。「有効かどうかを聞いてるの」結弦は混乱して、口走った。「俺と不倫でもしたいのか?」遥は無言で電話を切った。その瞬間、結弦は自分の失言を悔いて仕方なかった。すぐに彼女の近況を調べさせると、あの片平類が遥を騙していたことを知った。彼はすぐに電話をかけ直した。「有効だ。ずっと有効のままだ」電話の向こうは数秒の沈黙の後、ふたりは翌週の月曜日に婚姻届を出すことで合意した。彼女が気が変わるのを恐れて、結弦はすぐ付け加えた。「来なかった方がバカな」遥はひと言、「このバカ」と言い捨てた。電話を切った後、結弦はアシスタントに尋ねた。「俺って、バカなのか?」ビジネスの場でしか彼を見たことのなかったアシスタントは、大学生のようにはしゃぐ彼の姿に呆気にとられた。「まあ......」結弦は「しまった」と顔をしかめた。「まずい、彼女に軽く見られたかもしれない。電話で訂正

  • 思いだけが留まる   第19話

    アシスタントはまだ引き止めようとした。「万が一、相手が詐欺師だったら......」だが類の決意は揺るがなかった。「会社なんてどうでもいい。遥が戻ってくれるなら、すべてを失っても構わない」すぐに金は相手の口座へ振り込まれた。五分後、遥とある男が一緒に食事している鮮明な写真が類のスマホに届いた。類は拳を握りしめ、嫉妬で気が狂いそうだった。「あの女と一緒にいる男は誰だ。今すぐ調べろ」アシスタントが数本の電話をかけ、振り返って報告する。「社長、奥様と一緒にいたのは、彼女の元婚約者の赤間結弦です」類は言葉を失った。赤間結弦?あの赤間家の?噂によれば、代々軍人の家系で、彼の代になって初めて商売に転じたという。ネットで結弦や赤間家についてはほぼ情報がなく、非常に神秘的だ。類は以前から、遥と結弦が幼い頃から婚約していたことを知っていた。自分が途中で現れなければ、きっと二人の子供はもう小学生になっていただろう。「でも、遥は海原を離れる前に彼と婚約を解消したはずだ。なぜ一緒に食事をしているんだ」「本当に間違いないのか?」アシスタントは何度も確認した。「間違いありません。赤間家の御曹司で、何人にも確認を取りました」類はだんだん落ち着かなくなった。相手が無名の男なら、まだ遥を取り戻す希望はある。だが、相手が黒白問わず誰も手出しできない赤間家なら、勝算は低い。それでも、彼は諦めなかった。ほどなくして、アシスタントが衝撃的な情報を持ってきた。「赤間さん、結婚するそうです!結婚式は三日後です!」類はその話を聞いて、大声で笑い出した。「結婚しているのに他人の妻に手を出すなんて、赤間家も名家とは思えないな」「もし婚礼前に元婚約者と浮気してるってスキャンダルが出たら、奴に遥を奪う資格なんてなくなるだろう!」「彼の結婚相手の名前を調べろ!」しかし今回は、アシスタントが十数件も電話をかけても、新婦の名前を突き止めることはできなかった。類は顎に手を当て、「まあいい。とにかく、赤間の結婚式の招待状を手に入れろ。直接お祝いに行ってやるんだ、海原の王子様の新婚をな」「それで奥様はどうしますか?」類は両手を広げた。「慌てるな。赤間のスキャンダルが広まれば、遥も俺の良さを思い出して、必ず俺

  • 思いだけが留まる   第18話

    類は里帆を地下室に三日間閉じ込め、食事も水も一切与えなかった。四日目の朝、彼は部下に命じて地下室の扉を開けさせた。鼻を突く悪臭が一気に漂ってくる。類は鼻と口を押さえながら言った。「俺と離婚の手続きをしに行くか?」里帆は髪は乱れ、全身汚れた姿でかろうじて体を起こし、目をぎらつかせた。「類、出して......なんでも言うとおりにするから......」類はアシスタントからドッグフードを受け取り、それを地面にばらまいた。「これを全部食べたら、出してやる」里帆は這うようにしてドッグフードを拾い、口に押し込む。アシスタントはその様子をスマホで録画していた。「保存しておけ。遥に見せるんだ、俺がどうやってこのクズ女に報いを受けさせたかを」類は里帆の手を足で踏みつけた。里帆は痛みに体を震わせた。「犬がドッグフードを手で食うか?手を使うな!」里帆は地面に突っ伏して泣き叫び、噛み切る前のドッグフードが口から飛び出した。そして類は、服も乱れ、髪もぼさぼさの里帆を市役所の離婚窓口まで無理やり連れて行った。「こんにちは。こいつと離婚したい」窓口の職員は驚きの表情で里帆に目を向けた。「奥様、ご相談が必要では......?」里帆は怯えて手を振った。「いいえ、必要ありません!早く離婚を!」職員の処理は迅速だったが、類は書類審査のことをすっかり忘れていた。「え?そんなの必要ない、今すぐ離婚したいんだ!」職員はこれはルールだと丁寧に説明する。アシスタントが慌てて類の肩を掴んで引き留めた。「社長、まずは奥様を探すのが先決です。今ここで騒ぎを起こして逮捕されたら、奥様を探せなくなりますよ」類はようやく、窓ガラスを叩き割ろうとしていた拳を下ろした。彼は里帆を憎しみに満ちた目で見ながら後ろのボディーガードに突き出した。「地下室に戻せ。水とドッグフードだけ与えて、生かしておけ」そのまま踵を返して去り、里帆は地面にうずくまって泣き叫ぶ。この一部始終を誰かが動画に撮ってネットに投稿し、瞬く間に炎上した。「動画のあの暴力男、片平類って?この前テレビで優秀若手経営者賞を受賞してたよな?」「妻に逃げられてから今更改心して、愛人を虐めても誰も感動しないんだが」「片平グループは道徳的に問題あり。

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