類は額に汗を浮かべ、里帆を指さしながら弁解した。「里帆はこの施設の出資者なんだ。今日たまたま会っただけだよ」遥は問い返す。「それが桜の養子縁組と何の関係があるの?」類の表情が険しくなる。「遥がこんな冷血な人間だなんて、今まで気づかなかったよ。桜はあんなに可愛くて可哀想なのに、何も感じないのか?」冷血?裏切られたのは自分なのに、まるで加害者のように扱われる理不尽さに、遥の心は痛んだ。里帆はにこやかに近づき、遥の手を親しげに取る。「遥、類から桜を養子にするって聞いて、本当に嬉しかった。桜はこの施設で一番お利口な子なのよ」遥は思わず尋ねた。「そんなにいい子なら、あなたが引き取ればよかったんじゃない?」里帆は言葉に詰まり、気まずそうに笑った。類は前に出て、里帆を庇うように立つ。「何を言ってるんだ。里帆はまだ結婚してないんだぞ。そんな状態で子どもを養子にするのは無理がある」胸に針を刺されたような痛みが走る。里帆のために考えてるのに、自分の都合は全く眼中にない。結婚して五年。類は「今はキャリアの大事な時期だから」と言って、子どもを持つことを許さなかった。そのせいで、周囲は勝手な憶測をした。「遥は若い頃に遊び過ぎて、何度も中絶したから妊娠できないんだ」とか、「もともと不妊症らしい」とか。姑も皮肉を交えて「卵を産めない鶏ね」などと嘲笑った。そんな悔しさを訴えても、類はブランド物を買い与えるだけで、決して口を開いて自分を庇ってはくれなかった。本当に愛しているなら、彼女が誤解されている時こそ、声を上げてくれるはずでは?もしここで養子を迎えたら、「やはり子どもが産めないんだ」と世間に証明するようなものじゃないか。それでも、遥は最後の望みにすがって尋ねた。「類は......私との子どもが欲しくないの?」類は目を伏せる。「あと数年したら作ろう?今は会社の事業拡大が大事な時期なんだ......」「わたった。類の言う通りにするよ」彼女は言葉を遮った。心はすでに、死んでいた。どうでもよくなっていた。類は喜び、彼女を抱きしめる。「やっぱり遥は一番優しいよ」彼の肩越しに見えた里帆の瞳には、嫉妬の炎が宿っていた。その瞬間、遥は悟った。里帆はもう、「婚姻届上の
「きゃあっ!」里帆が鋭く叫び声を上げた。遥は反射的に手を伸ばしたが、かろうじて彼女の衣の裾に触れただけで、ボタンをひとつ引きちぎってしまった。ちょうど類が角を曲がってきたところで、叫び声に驚いて駆け寄ってくる。目に入ったのは、階段を転げ落ちていく里帆と、手を伸ばしたままの姿勢で立ち尽くす遥だった。類は遥を突き飛ばして里帆の元へ走り寄り、彼女を抱き上げる。「里帆、しっかりして!」里帆は類の腕にすがりつき、苦しそうな表情を浮かべながら言った。「類......遥を責めないで。彼女はただ、桜のことがあまり好きじゃないだけ......私が説得したら、怒らせちゃって......」そう言い残すと、彼女は類の腕の中で意識を失った。類は顔を上げ、自分に突き飛ばされた遥を鋭く睨みつけた。「遥、俺が一番嫌いなのは、嘘をつく人間だ」そして里帆を抱えたまま立ち上がると、怒りを込めた声で言い放った。「里帆に何もなければいいが......そうじゃなかったら、ただじゃ置かないから」階下で車のエンジン音が鳴り響いたとき、遥はふと手のひらを見た。石で擦りむいた掌からは、血が滴っていた。騒ぎを聞きつけた院長が駆け寄り、彼女を抱き起こそうとする。言いたげな表情を浮かべながらも、口は開かない。遥は首に巻いていたスカーフを外し、傷口に当てながら静かに言った。「院長、私、ボランティアを何年もしてきましたよね。あなたとは......もう友達だと思っていたのに」ちょうどその時、施設の昼食時間になり、子どもたちが元気よく飛び出してくる。ぴょんぴょんと跳ねる桜の姿を見て、院長は感慨深く言った。「桜ちゃんは本当に幸運です。片平さんとあれほど相性がいいとは......まるで本当の親子みたい」帰り道、遥は自分のスマホから、五年間一度もかけたことのない番号をタップした。コール音が一度だけ鳴ると、すぐに電話がつながった。「夏目さんからお電話をいただけるなんて、光栄です」赤間結弦(あかま ゆづる)の声は、怠そうでありながら低く魅力的だった。遥は彼の皮肉を受け流し、単刀直入に切り出す。「結弦、あなたと私の婚約、まだ有効なの?」結弦は電話口でくすっと笑った。「冗談はやめてくれよ。君はもう人妻じゃないか。愛人を探すなら
その日の夕食後、遥は自分の部屋に戻って休もうとしていた。だが、玄関から物音が聞こえた。里帆が類の腕にしなだれかかるようにして入ってきた。後ろにはスーツケースを持った使用人たちが続いている。類は使用人に客間に荷物を運ばせながら、遥の方を見た。「里帆は帰国したばかりで、まだ部屋を借りられていない。だからしばらく家に泊まってもらうことにした」里帆が眉をひそめる。「ほんの数日だけよ。片平奥様、気にしないでね?」遥は表情を変えずに言った。「何日でも構わないわ」どうせ三日後には自分が出ていくのだから。類は意外そうに訊いた。「怒らないのか?」遥は首を横に振る。「どうせ私も出ていくし」類は一瞬言葉を失った。「どういう意味だ?」遥は手を振った。「冗談よ」類は彼女の様子がどこかおかしいと感じ、さらに問いただそうとした。だが、里帆が先に口を開いた。「類、桜を遊園地に連れて行くって言ってたじゃない」その動作も言い方も、まるで自分がこの家の女主人であるかのようだった。類は完全にその魅力に囚われたように言った。「そうだな。今すぐ桜を迎えに行こう」そう言って遥の方を見上げたが、何も言わずにそのまま黙っていた。遥は気の利く妻のように微笑んで言った。「行ってらっしゃい。桜の帰宅祝いだと思えばいいわ」里帆が再び類の腕に腕を絡め、「そうだよ。家族三人の感じで」と満足げに言う。遥はその得意げな表情に気づきながらも、にっこりと礼儀正しく笑い、背を向けてその場を離れた。夕食を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。遥が眠りにつこうとしていた矢先、外から声が聞こえた。里帆の甘えるような声だった。「類、今夜は一緒に寝てくれない?」類の声は優しいが、拒絶の意志ははっきりしていた。「里帆、遥は法律上の妻なんだ。そんなことは道義に反する」「結婚届に書いた名前は私よ。あの人の方が偽物。だから類が私と寝るのは当然のことよ」遥は指をわずかに握り、息を殺して耳を澄ませた。しばらくの沈黙の後、類が溜息まじりに言った。「君は桜の母親だ。悪いようにはしない、それだけだ」里帆がすすり泣きながら言った。「じゃあお願い、私がここにいる間は、あの人には触れないで」類は小さく
類は顔を真っ黒にして、「この家の主人として言ってるんだ!早く飲め!」と怒鳴った。里帆はすでに荷物を持って階段を下り、出ていくふりをして玄関へ向かっていた。類は焦って、一歩で遥のもとへ駆け寄った。彼は食器を手に取り、遥の口を無理やりこじ開けて流し込んだ。「味噌汁で死ぬなんて、俺は信じないぞ」遥は抵抗する力もなく、無理やり栗入りの味噌汁を丸一杯飲まされてしまった。類はようやく手を離した。足元がふらつき、遥は椅子に崩れ落ちた。彼女はむせ返り、鼻水も涙も止まらず、咳が止まらなかった。類は彼女を一瞥することもなく、里帆を追いかけていった。類は里帆をなだめ、彼女は涙ぐみながら彼の胸に身を寄せた。遥のそばを通りかかると、類は冷たく言い放った。「ほら、なんともないだろ。大げさなんだから」遥の喉はすでに腫れ上がり、声にならない。かすれた声でやっと、「救急車を......助けて......」とつぶやいた。類は眉をひそめて、「もうすぐ母親になる身だ、少しは大人になれよ」「さっさと里帆に謝れ」遥の意識はもう朦朧としていた。ついには、呼吸困難でそのまま意識を失ってしまった。類は、まさか味噌汁一杯で遥が命の危機に晒されるとは思ってもいなかった。救急車の中で、類の顔は真っ青になり、全身が震えていた。「遥!おい!」遥は緊急処置室へ運ばれ、五時間後、ようやく出てきた。医者はマスクを外しながらため息をついた。「あと数分遅れていたら、手遅れになるかもしれません」「患者にアレルギー歴があるのに、ご家族はご存知なかったのですか?」類は言葉を失った。彼は知っていた、それでも彼女に命を脅かす味噌汁を飲ませたのだ。類はひどく後悔していた。彼はずっとベッドのそばで見守っていた。遥が目を覚ましたときもそこにいた。喉は依然として腫れて痛んだ。類は彼女の手を握りしめた。「こんなに危険なことになるなら、なぜあの時ちゃんと言わなかったんだ?」彼女にどう言えと?ひざまずいて懇願でもしろと?遥がじっと彼を見つめると、類は視線をそらした。そのとき、彼のスマホが鳴った。彼は少し躊躇してから電話に出た。「遥はもう大丈夫だ。自分を責めるな、泣くな......」そう言ってスマホを遥に差し出した
メイドは従って、大小さまざまなアルバムや写真立てをすべて庭の芝生に運び出した。遥は類が大切に保管していた赤ワインを何本か開けて、その上から惜しげもなく注いだ。彼女は自分のグラスにもワインを注ぎ、もう一杯をメイドに渡した。「カチン」とグラスがぶつかり合う音は、五年分の愛情が砕け散る音だった。遥はライターに火をつけ、ゴミの山と化したそれらの贈り物の中へと投げ込んだ。炎が立ち上る中、彼女は首を仰け反らせてグラスの酒を一気に飲み干した。涙が目尻からこぼれ、首元のシャツへと静かに染み込んでいく。残っていたのは、類が過去数年間に贈ってくれたプレゼント。バッグ、ドレス、アクセサリー。遥はそれらすべてをまとめて中古品取引サイトに出品し、入金先の口座を養護施設のものに変更した。類はアシスタントからの電話を受けた。「奥様が、社長が贈ったものをすべてネットで売りに出してしまいました」彼の表情が一変し、慌てて服を着替える。道中、類は何度も遥に電話をかけ続けたが、彼女は一度も出なかった。焦燥と不安に背中を押され、彼は信号無視を何度も繰り返しながら車を飛ばした。ブレーキが止まりきる前に彼は車を飛び降り、門を駆け抜ける。遥はロッキングチェアに腰掛け、グラスを手にしていた。足元には無造作に転がった酒瓶の山。頬は赤く染まり、名前も知らないうたを口ずさんでいた。類の胸の中にあった不安はようやく地に落ち、彼は彼女の前にしゃがみ込む。「遥、どうして電話に出てくれなかったんだ?心臓止まるかと思ったよ」遥はゆっくりと顔を向け、彼をじっと見つめた。「どうして心臓止まるの?」類は熱を帯びた彼女の頬にそっと触れた。「だって、怒ってどこかに消えちゃったのかと思って......」酒の勢いを借りて、遥は心の奥に沈んでいた疑問を口にした。「類は......何か私に隠してること、ある?」類の心臓が沈む。うつむいたまま、しばらく沈黙した。そして顔を上げたときには、無垢でやましさのない表情に切り替わっていた。「もちろんないよ。俺たちは夫婦なんだ、何も隠すことなんてない」遥は彼の肩越しに、燃え尽きて灰になったものを見つめた。彼の言葉で、心の奥にかろうじて残っていた熱が、とうとう消えた。類は彼女の手のひら
類は桜の養子縁組の手続きを理由にして、週末の二日間まったく家に帰ってこなかった。遥にとっては、十分すぎる時間だった。この二日間、里帆はずっと彼女にメッセージを送り続けていた。ある時は男女が親密にしているぼやけた写真。ある時は目を背けたくなるような過激な動画。ある時は、彼女の得意げな音声だった。「類がどれだけ愛してるって言ったって、私がちょっと指を動かせば、すぐに私の足元にひれ伏すんだから」「桜の歓迎会を開くんですって?私も参加していいかしら?なにしろ私と桜の関係って......普通じゃないのよね」......これだけあからさまな挑発に、遥はまったく反応を示さなかった。ただ、それらをひとつ残らずセーブしておいた。類が彼女にサプライズを用意しているというなら、礼には礼を返すべきだ。彼女も彼にプレゼントを準備してあげなければ。桜の歓迎会を開くなら、派手にやらないと意味がない。遥は類の親しい友人、会社の大口取引先、そして片平家と何の関係もない遠縁の親戚にまで招待状を送った。もちろん、里帆にも。最初、類は里帆の出席に反対していたが、彼女が「絶対に遥に手を出さない」と何度も約束したため、渋々認めた。「弁護士から連絡あっただろ?月曜日に、まずは離婚の手続きをしよう」里帆の心はズキリと痛んだ。彼女はその言葉に納得がいかなかった。類が仕事で会社に戻った隙をついて、里帆はこっそり養護施設へ向かった。「桜、パパとママと、ずっと一緒にいたい?」桜は目をまん丸にして、「うん!一緒にいたい!」と答えた。だけどすぐにしょんぼりとうつむいた。「でもパパがね、『これは秘密だから夏目おばさんに知られてはダメ』って......だから桜は、おうちに帰れないの」里帆は目を細め、桜の耳元でそっと囁いた。「でも歓迎会の日にね、こんなことをすれば......」「わかった?桜」桜は少し考えたあと、こくりとうなずいた。「ママの言う通りにするね」以前の里帆が片平家の妻という肩書きを欲しがらなかったのは、その頃の類の事業が、他の求婚者に比べて見劣りしていたからだった。彼女には、もっと良い選択肢があった。だが、その後海外で起こったいくつかの出来事......彼女が帰国した目的は、片平奥様の座を取り戻す
類は急いで別荘に戻り、使用人を引き止めて遥の行方を尋ねた。「奥様は朝早くから花を買いに出かけられました」その言葉を聞いて、類はようやく少し安心した。歓迎会はまさに豪華絢爛で、会場の中央には人の背丈ほどもある大きな額縁が吊るされていた。類はそれを覆っている布を取ろうとしたが、使用人に止められた。「奥様が仰ってました。お客様が全員揃ってから開けてほしいと」類は手を引っ込めた。客たちは次々と到着し、類は挨拶で忙しく、遥がなかなか戻らないことには気づかなかった。パーティーが始まり、桜はお姫様のようなドレス姿で、二階の階段をゆっくりと降りてきた。類の顔には慈しみ深い父親の笑みが浮かんでいた。そのとき。「ガタン!」と大きな音を立てて、扉が勢いよく開かれた。高級オーダーメイドのドレスに身を包んだ里帆が、堂々と姿を現したのだ。その場にいた全員の視線が、一斉に彼女に向けられた。類の表情が一変し、足早に里帆のもとへ駆け寄った。声をひそめて言う。「目立たないようにしろって言っただろ?」里帆は無邪気そうに両手を広げた。「だってこれ、類がアシスタントに持たせてくれたドレスじゃない」類は一瞬戸惑ったが、今は問いただしている時間もなかった。彼は咳払いをして話し始めた。「本日は皆さま、お忙しい中お越しくださりありがとうございます。では早速、本日の主役をご紹介いたします。この子が片平桜です」類は桜の手を取り、巨大なケーキの前に立った。ケーキカットの場面では、本来なら養父母と養女が一緒に立つはずだったが、遥の席はぽっかりと空いていた。遥は?「私がやりましょう」優雅な足取りで前へと進み、里帆が使用人からナイフを受け取った。すると誰かが会場の空気を破るように口を開いた。「片平奥様って別の方じゃなかった?」「この女、まるで主人のような格好だな」「気づいた?片平家の養子、この女と結構似てるよね?」......類は慌てて口を挟んだ。「コホン、ご厚意はありがたいのですが、やはり私の妻が務めるべきかと」里帆の表情がわずかに曇り、桜に向かって目配せをした。桜はすぐにその意図を汲み取る。彼女は里帆の手をぎゅっと握り、無邪気に言った。「パパ、ケーキはママに切ってもらってよ。夏目
類の母親は目の前が真っ暗になり、危うく倒れそうになった。里帆が素早く支えた。「お義母さん、大丈夫ですか?」類の母は息を整えると、里帆を鋭い目で睨みつけた。「この淫乱女め......!私の息子を、片平家を滅ぼす気か!」怒りに任せて里帆を突き飛ばし、彼女はよろめきながら巨大なケーキに倒れ込んだ。六歳の桜は突然の騒動に驚いて大声で泣き出した。会場は一瞬にして大混乱に陥った。客に紛れていたパパラッチがここぞとばかりにシャッターを切り、スクープをものにしようとほくそ笑む。本来ならば華やかで祝福に満ちたパーティー会は、類の罵声と客の追い出しで無理やり幕を閉じた。片平家はすぐさま情報を封鎖したが、すでに現場の写真や動画は大量に流出していた。その夜、SNSのホット検索のトップ3はすべて片平家のスキャンダルで占められた。【片平グループ現社長・片平類、婚姻中に不倫か?隠し子の噂も】【養女の歓迎会が修羅場に、豪門の闇が露わに】【信頼筋によれば、類の正妻・夏目遥はすでに帝都を離れ、行方不明とのこと】結弦が興味なさそうにその検索ワードを読み上げたとき、遥は彼の隣に座っていた。「へぇー。片平家ってもっとすごいと思ってたけど、所詮この程度か」「で、夏目さんはどうしてあの遊び人を選んだですか?」遥は彼のからかいに反応したくなかった。婚約を破棄したのは自分だし、立場的に劣勢だと分かっていた。だが、結弦はとことん容赦ない性格だった。遥は窓を少し下げた。「赤間さん、からかうために来たのなら、今すぐ降りるわ。電話したのも忘れて」そう言って車のドアに手をかける。しかしその瞬間、結弦が彼女を抱き寄せ、同時にドアを閉めた。「夏目さんってば、ほんとに俺に対して忍耐力ないな」彼女はふと彼の横顔に目をやる。通った鼻筋、美しい顎のライン。類のような典型的な中国風の端正さとは異なり、結弦の顔立ちにはどこか中性的で妖艶な雰囲気が漂っていた。彼の吐息が耳元をかすめ、遥の背中に戦慄が走る。本物の住民票が彼女の手に渡された。遥は自嘲気味に笑った。「なるほど。ここはこう書くのね」結婚式は来月初め、海原で最も格式高いホテルで執り行われる予定だった。当初、遥は目立つことを避けたがっていた。だが、結弦は「派手にや
「それでは、今日の新婦――夏目さんのご登場です!」パーティー会場の扉がゆっくりと開き、一筋の光が差し込んだ。結婚行進曲が流れる中、遥は花束を手に結弦のもとへと歩みを進めた。これは遥にとって、人生で二度目の華やかな舞台だった。前回は、惨敗だった。今回も、彼女には確信がなかった。果たして幸せになれるのか、自信はなかった。この瞬間、彼女は思わず背を向けて逃げ出したくなった。舞台の上で、結弦は緊張のあまり指先をわずかに曲げていた。「遥!」舞台の下、親族は遥の両親が涙ぐみながら彼女を見つめていた。その隣には、夏目家の親戚や彼女の同級生、親友たちも座っていた。彼らは手を振りながら「おめでとう!」と口々に声をかけた。遥はその場に立ち尽くし、驚きと感動で涙があふれ出した。司会者が促そうとした瞬間、結弦が手で制した。結弦はネクタイを整えると、まっすぐ新婦に向かって歩き出した。「遥、君が不安を抱えていることはわかってる。でも伝えたいんだ。大丈夫だって」遥は顔を上げて、真剣な表情の結弦を見つめた。彼女の脳裏に蘇ったのは、高校時代。毎日放課後、校門で待っていてくれた白い制服の少年の姿。手を握られて、不良に追われながら細い路地に逃げ込んだあのときの、近すぎるほどの彼の息遣い。あの幼い少年の顔が、目の前の結弦と重なってゆく。遥は、その言葉を信じずにはいられなかった。「運命の相手なら、どんなに遠回りしてもまた巡り会う」と。一時は道を踏み外しかけたが、彼が手を引いてくれたからこそ、自分はまた元の道に戻ることができた。「両親も......友達も......」結弦はそっと彼女の涙を指でぬぐった。「叔父さんも叔母さんも、本気で君に怒っていないよ。ずっと君のことを愛してる。そして君の友達も、君が戻ってきたと知って、ものすごく喜んでた」彼は彼女の手を強く握って、共に舞台の中央へと進んだ。そしてマイクを受け取ると、深く一礼した。「今日は、俺と遥の結婚式にお越しくださり、本当にありがとうございます。ここで、妻に一言伝えたいことがあります――」結弦は遥の方に向き直り、両手を取って彼女の瞳を見つめた。「遥と結ばれることができて、俺は本当に幸せだ」「愛するという気持ちを教えてくれてありがとう。
類は得意げに登場し、会場は静まり返った。「本日、招かれずに参りましたのは、赤間さんのご結婚を直接お祝いしたくてです」結弦は変わらず紳士的に振る舞い、類の狂ったような言動にも冷静だった。「数枚の写真を持ってきたので、新婦のご家族やご友人にお見せしたいと思いまして」そう言ってスマホを取り出し、結弦と遥が親密に写っている写真を画面に表示した。すると、結弦は気遣うように提案した。「スマホの画面じゃ少々小さいですね。大画面に投影しましょうか?」類は冷笑を浮かべた。「それはありがたい」スタッフの調整により、類のスマホは背後の巨大なスクリーンと無事接続された。類は自信満々に言った。「写真のこの女性、まさか赤間社長が婚約者に隠れて密会していた愛人では?ご説明してください」結弦は鼻で笑った。「この写真の女性を、片平さんはご存じで?」「もちろん。彼女は私の妻です」結弦は声をあげて笑った。「でも、私の知る限り、片平さんの正式な妻は高宮里帆という名で、この女性とは別人ですが?」類は彼がそこまで把握していたことに動揺し、急いで釈明した。「たしかに里帆と結婚届を出したが、それは彼女が留学したばかりで助けが必要だったからで......私が愛しているのは遥です!」結弦は皮肉を込めて口元をゆがめた。「聞き間違いかな?愛してる相手と結婚した相手が違うって、どういうことですか?」類はつい口が滑ったことを後悔していた。「違う、違うんだ。里帆とはもう離婚手続きに入ってる。いずれ遥と正式に籍を入れるつもりだ。赤間さんにとやかく言われる筋合いはない!」結弦は悠然とした態度でスクリーンを指差した。「では、こちらの動画については説明していただけますか?」そこには、類が里帆を殴打している映像が映し出されていた。類はそれを目にした瞬間、顔面蒼白になった。「誰だ!誰が俺のフォルダにいじってるんだ!」結弦は呆れ果てたように肩をすくめた。自分でスタッフにスマホを渡したのに。「監禁、暴行......片平さん、警察は君のスマホの中身に興味を持つと思わない?」類はようやく事態を理解し、怒りと恐怖に満ちた声で叫んだ。「スマホを返せ!」結弦は数歩後ろに下がりながら、淡々と言った。「もう通報されてますよ。
結婚式の前夜、遥は「新郎新婦は式の前日に会ってはいけない」という理由で、結弦を追い返した。「どうせ明日は一緒に寝るんだから、今夜くらい入れてくれよ......」ドア越しに、結弦はしょんぼりと呟いた。遥は迷わず鍵をかける。「ダメ、これは習わしなの。あなたを中に入れたら縁起が悪いの」「縁起が悪い」と聞いた瞬間、結弦はすぐに納得したように静かになる。「でも、君に会いたくてたまらないんだ。どうしたらいい?」遥は呆れて目を転がす。「私たち離れてからまだ五分も経ってないんだけど......」彼がまさかこんな恋愛脳で、しかも甘えたがりだったとは、遥は夢にも思わなかった。名残惜しそうに去っていった後、彼女はベッドに入ったが、眠気は一向に来なかった。明日、彼と結婚する。確かにこの日々の中で、彼との時間はとても楽しかった。だけど、恋愛と結婚は全くの別物だ。やはり心のどこかで不安は拭えない。しかも、類に裏切られた自分には、今さら両親に顔向けできるわけもなく......明日の結婚式で、実家側の席はきっと空っぽのままだろう。家族や友人から祝福されない結婚式に、彼女の心はほんのりと痛んだ。「これ以上望むのは贅沢だよね......結弦と結婚できるなんて、私は幸せ者よ」そう自分に言い聞かせるようにして、いつしか眠りについていた。夢の中は一面の白銀。少し離れた場所に、花束を持った人影が立っている。「結弦......」ウェディングドレスを着た遥は、その人に向かって駆け出す。だがその影が顔を上げると。それは、類だった。「――っ!」遥は飛び起き、額には冷たい汗。気づけば、外はもう明るい。迎えの車が待機していた。メイクを終え、あのマーメイドドレスに袖を通す。周りから一斉に感嘆の声が上がった。メイク担当者は惜しみなく褒めちぎる。「赤間奥様は、私が今まで見た中で一番美しい花嫁です!」友人はからかうように言った。「そりゃあ、結弦が夜明け前に来ちゃうのもわかるよ。私なら窓から忍び込んでたかも~」結弦の目の前に遥が姿を現すと、彼はまるで金縛りに遭ったかのように動けなくなった。式は午前10時58分から。これもまた、彼が占い師に頼んで決めたという。「良き時に、良き場所で、百年の契り
遥は心の中で思っていた。結弦の事業は類の十倍どころではなく、彼の方がはるかに多くの付き合いや仕事を抱えている。だからこそ、自分との結婚やその準備に彼が期待できるはずもない。「感情のない政略結婚に過ぎないんだから」これは親友に話した時の彼女の言葉だった。しかし、結弦は結婚式の準備のあらゆる場面に現れた。式場の選定はもちろん、装飾一つ一つにまで自ら目を通していた。なにしろ、彼はヨーロッパ最大の芸術大学――ロンドン芸術大学を卒業していて、デザインキュレーションとクリエイティブ産業マネジメントのダブル博士号を持っている。婚約指輪も、彼が特別にデザインを依頼した一点物。ウェディングドレスの選定でも、彼は遥の意見を尊重し、参加を促してくれた。今まさに着ているこのマーメイドドレスも、結弦が修士課程を終えた時の卒業制作だった。低めのソファに腰掛けた結弦は、その長い脚の置き場に困っている様子だった。彼のキツネのような目が、彼女の体を遠慮なく舐めるように見つめてくる。そこには隠しきれない欲望が滲んでいた。遥はその視線に落ち着かなくなり、ウェディングドレスを引き上げながら尋ねた。「似合ってないかな?」結弦は立ち上がって彼女の元へ歩み寄ると、両手を彼女の肩に置いて軽くくるりと回した。鏡の中には、淡く光をまとった遥の姿。白くて長い首、化粧もしていないのにまばゆいほどの顔立ち。「赤間奥様、ご自分の美しさをもっと自覚してください」遥は舌をぺろりと出し、彼に触れられた肌が熱くなっていた。結弦の吐息が耳元をかすめ、頬はみるみるうちに紅潮していく。彼の欲望が背後からはっきりと伝わってきて、遥はあわてて距離を取った。鏡を見ながら話題を変える。「このドレス、あなたがデザインしたって聞いたけど」だが、結弦は止まる気などなかった。一歩、また一歩と彼女に迫ってくる。遥は壁際に追い詰められ、逃げ場を失った。「な、何する気......?」結弦の手が彼女の細い腰を回りこみ、背中の素肌に触れた。熱い掌が彼女と冷たい壁の間にそっと差し込まれる。「俺が何をしたいと思う?赤間奥様」遥は顔を赤くしながらあたりを見回す。「こ、ここはドレスショップだよ?外には......人がいる」彼女のその可愛らし
里帆は慌てて身なりを整え、自分では甘い笑顔だと思い込んでいる笑みを浮かべた。彼女は胸元を半分露出させたまま結弦に近づいた。「助けてくれたのは赤間さんだよね?恩返しとして、私のことも......?」だが、アシスタントが素早く彼女の襟首を掴み、横へと引き離した。結弦は椅子に腰を下ろし、けだるげな声で口を開いた。「お前みたいのが?」里帆の顔色が一気に変わった。確かに彼女は遥ほどの絶世美女ではないが、それでも愛嬌のある可愛い系だと自負していた。それが、結弦の目にはここまで価値のない存在に見えているのか。彼女は食卓に座り直した。「なら、どうすればいいの?」結弦は彼女に1億円を渡すと約束した。その金で里帆は桜を養護施設から連れ出し、母娘で遠くへ逃げることができる。「桜の実の父親は誰だ」結弦は類に対抗するため、不安定な要素である里帆を利用するつもりだった。当然、彼女の弱みを握っておく必要がある。この女がいつどう狂って、何をしでかすか分かったものじゃない。里帆は唇を噛み、答えなかった。結弦は焦ることなく言った。「高宮さんを戻してくれ」ここで言う「戻す」は、帝都の家に帰すことではなかった。類の別荘の地下室へ送り返す、という意味だった。里帆はあの地下室に七日間監禁され、ドッグフードで空腹をしのぎ、さらに類から幾度となく暴力を受けた。もう二度と、あの生き地獄には戻りたくなかった。「待って!話す......話すから!」里帆は海外に渡った当初、現地のホストファミリーの家に身を寄せていた。そこの女主人は非常に厳しく、意地悪だった。「腹いせに、私はその女の夫を誘惑したの。その夜、彼が私の部屋に入ってきて......」話しながら、里帆は泣き出した。「本当に後悔してる。すごく怖かった......追い出されて行き場がなかった私は、類にあなたの子を妊娠したって嘘をついたの」類は、かつての恋人を不憫に思い、彼女と籍を入れた。その結婚届のおかげで、里帆はやっと地に足をつけて生きてこられた。「なら、なぜ帰国した」「類が成功して、金持ちになったって聞いたから。本物の片平奥様になれると思って......」結弦はうなずいた。里帆の話は基本的に事実と一致しており、アシスタントが調べ
類は朝早く目を覚ましたとき、ひとつの朗報を耳にした。結弦の結婚式の招待状が手に入ったのだ。類は純金で作られ、中にはサファイアが一粒埋め込まれた招待状を眺めながら言った。「こんなにあっさり招待状が手に入るとはね。赤間家って外で言われてるほど神秘的でもないな」「それにしても奇妙なのは、招待状に新郎の名前しか載ってなくて、新婦の名前がどこにも書かれていないことだ」もっとも、誰が新婦かなんて彼にとってはどうでもよかった。どうせどこかの名家の令嬢に違いない。彼は振り返ってアシスタントに聞いた。「準備は整ったか?」アシスタントは黙ってうなずいた。かつて、遥は夏目家の両親の激しい反対を押し切って、婚約を解消し、類と結婚した。彼女には類以外、頼れる相手がもうこの世にいなかった。もし仮に「後始末」を引き受ける可能性のある人間がいるとすれば、それは結弦しかいない。「フン、海原の王子様の結婚式なんて、マスコミが黙ってるはずがない。スキャンダルが暴かれれば、あいつももう堂々と彼女にすり寄る顔なんてないだろう」「そうなれば、身寄りのない遥は、俺にすがるしかない」類はほくそ笑んだ。彼はさらに命じる。「今日のオークションで、奥様が好きだったピンクダイヤのセットを競り落とせ。再会の贈り物にする」だがアシスタントは動かなかった。類は眉をひそめた。「どうした」「社長、お金が足りません」「俺の株を20%売って現金化しろ、応急措置だ」アシスタントはため息をつき、そっと忠告する。「株を売ったら、社長は片平グループの筆頭株主じゃなくなります。もしそうなったら......」「遥を取り戻してから買い戻せばいい話だ」類は、取り合わずに手を振った。その株式は市場に出るや否や、すぐに安値で買い取られた。その背後にいたのは、他でもない結弦だった。その後も類は浪費のために株を売り続け、やがて彼の手元にはたった5%しか残らなくなった。片平グループの筆頭株主だった男は、今やいつでも取締役会から追い出される小さな株主にまで落ちぶれた。出発の二日前、里帆が逃げた。地下室の扉は外からこじ開けられ、彼女は助け出されたのだ。類は激怒し、警備を怒鳴りつけた。「何日も飯食ってないやつが、どうやって逃げ出したと
五年間、結弦は誰にも心を許さなかった。次々と近づいてくる女性たちに一切興味を示さず、家族や仲間たちからは性的指向を疑われたほどだった。祖父でさえあからさまに、あるいは遠回しにこう言ったことがある。「孫嫁が男でも女でも構わん。連れてきて見せてみろ」彼も新しい人生を始めようとしたことはあった。別の女性と関係を築こうと努力もした。だが、いざという場面になると、どうしても駄目だった。女性たちが驚いたように目を見開く、その表情が胸に突き刺さった。それで彼は医者に診てもらったこともある。「身体的な異常はありません。精神的なケアをお勧めします」気まずさを避けるため、彼は禁欲を選んだ。一生このまま独りで生きていくのだろうと思っていた。あの電話を、再び遥から受けるまでは。スマホに表示された見慣れた番号を見つめると、息が止まりそうになった。彼は立ち上がり、壁に手をつきながら深呼吸を繰り返し、ようやく震える手で通話ボタンを押した。無理やり声の震えを抑えて、言った。「夏目さんからお電話をいただけるなんて、光栄です」だが遥はその皮肉に反応せず、ただ一言。「結弦、あなたと私の婚約、まだ有効なの?」心臓が跳ね上がるのを押さえつけながら、結弦は答えた。「君はもう人妻じゃないか」遥は焦れたようにもう一度尋ねた。「有効かどうかを聞いてるの」結弦は混乱して、口走った。「俺と不倫でもしたいのか?」遥は無言で電話を切った。その瞬間、結弦は自分の失言を悔いて仕方なかった。すぐに彼女の近況を調べさせると、あの片平類が遥を騙していたことを知った。彼はすぐに電話をかけ直した。「有効だ。ずっと有効のままだ」電話の向こうは数秒の沈黙の後、ふたりは翌週の月曜日に婚姻届を出すことで合意した。彼女が気が変わるのを恐れて、結弦はすぐ付け加えた。「来なかった方がバカな」遥はひと言、「このバカ」と言い捨てた。電話を切った後、結弦はアシスタントに尋ねた。「俺って、バカなのか?」ビジネスの場でしか彼を見たことのなかったアシスタントは、大学生のようにはしゃぐ彼の姿に呆気にとられた。「まあ......」結弦は「しまった」と顔をしかめた。「まずい、彼女に軽く見られたかもしれない。電話で訂正
アシスタントはまだ引き止めようとした。「万が一、相手が詐欺師だったら......」だが類の決意は揺るがなかった。「会社なんてどうでもいい。遥が戻ってくれるなら、すべてを失っても構わない」すぐに金は相手の口座へ振り込まれた。五分後、遥とある男が一緒に食事している鮮明な写真が類のスマホに届いた。類は拳を握りしめ、嫉妬で気が狂いそうだった。「あの女と一緒にいる男は誰だ。今すぐ調べろ」アシスタントが数本の電話をかけ、振り返って報告する。「社長、奥様と一緒にいたのは、彼女の元婚約者の赤間結弦です」類は言葉を失った。赤間結弦?あの赤間家の?噂によれば、代々軍人の家系で、彼の代になって初めて商売に転じたという。ネットで結弦や赤間家についてはほぼ情報がなく、非常に神秘的だ。類は以前から、遥と結弦が幼い頃から婚約していたことを知っていた。自分が途中で現れなければ、きっと二人の子供はもう小学生になっていただろう。「でも、遥は海原を離れる前に彼と婚約を解消したはずだ。なぜ一緒に食事をしているんだ」「本当に間違いないのか?」アシスタントは何度も確認した。「間違いありません。赤間家の御曹司で、何人にも確認を取りました」類はだんだん落ち着かなくなった。相手が無名の男なら、まだ遥を取り戻す希望はある。だが、相手が黒白問わず誰も手出しできない赤間家なら、勝算は低い。それでも、彼は諦めなかった。ほどなくして、アシスタントが衝撃的な情報を持ってきた。「赤間さん、結婚するそうです!結婚式は三日後です!」類はその話を聞いて、大声で笑い出した。「結婚しているのに他人の妻に手を出すなんて、赤間家も名家とは思えないな」「もし婚礼前に元婚約者と浮気してるってスキャンダルが出たら、奴に遥を奪う資格なんてなくなるだろう!」「彼の結婚相手の名前を調べろ!」しかし今回は、アシスタントが十数件も電話をかけても、新婦の名前を突き止めることはできなかった。類は顎に手を当て、「まあいい。とにかく、赤間の結婚式の招待状を手に入れろ。直接お祝いに行ってやるんだ、海原の王子様の新婚をな」「それで奥様はどうしますか?」類は両手を広げた。「慌てるな。赤間のスキャンダルが広まれば、遥も俺の良さを思い出して、必ず俺
類は里帆を地下室に三日間閉じ込め、食事も水も一切与えなかった。四日目の朝、彼は部下に命じて地下室の扉を開けさせた。鼻を突く悪臭が一気に漂ってくる。類は鼻と口を押さえながら言った。「俺と離婚の手続きをしに行くか?」里帆は髪は乱れ、全身汚れた姿でかろうじて体を起こし、目をぎらつかせた。「類、出して......なんでも言うとおりにするから......」類はアシスタントからドッグフードを受け取り、それを地面にばらまいた。「これを全部食べたら、出してやる」里帆は這うようにしてドッグフードを拾い、口に押し込む。アシスタントはその様子をスマホで録画していた。「保存しておけ。遥に見せるんだ、俺がどうやってこのクズ女に報いを受けさせたかを」類は里帆の手を足で踏みつけた。里帆は痛みに体を震わせた。「犬がドッグフードを手で食うか?手を使うな!」里帆は地面に突っ伏して泣き叫び、噛み切る前のドッグフードが口から飛び出した。そして類は、服も乱れ、髪もぼさぼさの里帆を市役所の離婚窓口まで無理やり連れて行った。「こんにちは。こいつと離婚したい」窓口の職員は驚きの表情で里帆に目を向けた。「奥様、ご相談が必要では......?」里帆は怯えて手を振った。「いいえ、必要ありません!早く離婚を!」職員の処理は迅速だったが、類は書類審査のことをすっかり忘れていた。「え?そんなの必要ない、今すぐ離婚したいんだ!」職員はこれはルールだと丁寧に説明する。アシスタントが慌てて類の肩を掴んで引き留めた。「社長、まずは奥様を探すのが先決です。今ここで騒ぎを起こして逮捕されたら、奥様を探せなくなりますよ」類はようやく、窓ガラスを叩き割ろうとしていた拳を下ろした。彼は里帆を憎しみに満ちた目で見ながら後ろのボディーガードに突き出した。「地下室に戻せ。水とドッグフードだけ与えて、生かしておけ」そのまま踵を返して去り、里帆は地面にうずくまって泣き叫ぶ。この一部始終を誰かが動画に撮ってネットに投稿し、瞬く間に炎上した。「動画のあの暴力男、片平類って?この前テレビで優秀若手経営者賞を受賞してたよな?」「妻に逃げられてから今更改心して、愛人を虐めても誰も感動しないんだが」「片平グループは道徳的に問題あり。