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第8話

Author: 小春日和
「奈津美、涼はあの白石家の娘に心を奪われているだけよ。安心しなさい。

必ず謝らせますから。あなたは私が選んだ黒川家の嫁、誰にも変えさせません」

会長の声は慈愛に満ちていた。奈津美は微笑んで答えた。

「おばあさま、涼さんの気持ちは固いようですから、私からは何も申し上げることはありません。

お二人のお幸せをお祈りします」

奈津美は立ち上がり、続けた。

「おばあさま、今後もお呼びいただければお伺いいたします。

ただ......涼さんとの婚約は、ここまでにさせていただければと思います」

「奈津美......」

会長がまだ何か言いかけたが、奈津美は首を振った。

「家に用事がございますので、これで失礼させていただきます。

また改めてご挨拶に参ります」

そう言って、奈津美は立ち去った。

会長は奈津美の後ろ姿を見つめながら、深いため息をついた。

以前の奈津美は、こんなに分別のない子ではなかったのに。

玄関を出たところで、突然横から黒い影が現れ、奈津美の口と鼻を押さえた。

奈津美は反射的に袖の中の護身用ナイフに手を伸ばしかけたが、相手の服に黒川家の紋章を見つけた。

黒川家の人間と分かり、奈津美はナイフを収め、誘拐されたふりをすることにした。

たとえ涼が自分を嫌っていても、今この場で危害を加えるはずがない。

案の定、相手は乱暴なことはせず、涼の別の黒い自家用車に彼女を乗せた。

車の中で、奈津美は気絶したふりを続けた。しばらくして、誰かに運ばれる感覚があった。

「ピンポーン」

耳に聞こえたエレベーターの音は、帝国ホテルのものと同じだった。

涼はホテルに連れて来させたのか。

「コンコン」

「失礼します。社長、お連れいたしました」

「入れ」

部屋の中からタバコの強い臭いが漂ってきた。奈津美は息を詰め、柔らかいベッドに投げ出された。

緊張している奈津美の耳に、涼の声が聞こえた。

「目を覚まさせろ」

「はい」

ボディーガードが冷水を奈津美に浴びせかけた。奈津美は即座に目を開けた。

部屋は薄暗く、スタンドの黄色い光が妖しい雰囲気を醸し出していた。

全身濡れた奈津美は、体中が刃物で切られるような痛みを感じながら、怒りを装って言った。

「涼さん、やり過ぎじゃないですか?」

「やり過ぎ?」

涼は冷笑した。

「綾乃は体が弱いうえに、気が強い。

おばあちゃんにあんな屈辱を受けて、今も病院で意識不明だ。

密告した時は、自分がやり過ぎだとは思わなかったのか?」

「黒川、私は密告なんてしていません」

自分の名を呼び捨てにした奈津美に、涼は突然手を伸ばし、彼女の顎を掴んだ。

「信じると思うのか?ん?

そんなに黒川家の奥様になりたいなら、今夜お前の評判を潰してやろうか?

お前の醜聞をネットに流せば、おばあちゃんも黒川家に入れたがらないだろう?」

その言葉を聞いて、奈津美の目が冷たくなった。

評判を潰す?

彼女の評判は、前世であの忌まわしい誘拐犯によってすでに潰されていた。

かつては、名誉や貞操を何より大切にしていた。

涼に清らかな体を捧げたいと思っていた。

しかし前世、誘拐犯に凌辱された瞬間、かつての愚かで純真な奈津美は死んだのだ。

評判?名誉?

生きていけるなら、どちらも捨ててもいい。

涼がこれで脅そうとするなんて、笑止千万だった。

目の前の涼を見つめ、奈津美は突然笑みを浮かべた。

「じゃあ、どうぞ」

いつも自分の評判を気にしていた令嬢がそんな言葉を発するとは思わず、涼は眉をひそめた。

「何だと?」

「どうぞ、と申し上げました」

奈津美は平然と言った。

「浮浪者がいいですか?通りすがりの人?ボディーガードか秘書?

それとも......私を連れてきた誘拐犯?」

「自分が何を言っているのか分かってるのか?」

涼は単に脅すつもりだっただけだった。だが奈津美は少しも怯えていない。

以前の、自分を見ただけで恥ずかしそうに俯いていた奈津美を思い出し、目の前の人物が急に別人のように感じられた。

「あら?涼さん、やめるんですか?なら、私は帰ります」

奈津美が立ち上がろうとした時、涼は突然彼女の体を押さえつけ、動けなくした。

奈津美は眉をひそめ、反射的に涼を平手打ちしようとしたが、今度は涼が先回りして、左手で彼女の手を受け止めた。

「黒川!」

奈津美の体からは水が滴り、薄い服が肌に張り付いて、しなやかな曲線を浮き立たせていた。

涼は奈津美を押さえつけながら、冷ややかに言った。

「いつもは気位が高いと思っていたが、今日はずいぶん積極的じゃないか?私の気を引こうとそんな手を使うな。

自分を差し出したいのか?私の目を引こうとしてそんな手を使うな。吐き気がする」

「吐き気がする?」

奈津美はまるで面白い冗談を聞いたかのように、突然涼の首に腕を回し、体を寄せた。

二人の体が触れ合った瞬間、涼は感電したように手を引き、立ち上がって奈津美を突き放した。目に嫌悪感を隠そうともしない。

「本当に下劣な女だな」

涼の評価を聞いて、奈津美は全くその通りだと思った。

そう、彼女は下劣だ。

前世で涼に心を尽くし、利用されることを甘んじて受け入れた自分は下劣だった。

これほど尽くしても、結局は「吐き気がする」「下劣」という言葉しか返ってこなかった。

奈津美はベッドから立ち上がり、無関心そうに服を整えながら言った。

「涼さん、信じるか信じないかはお任せします。

でも申し上げておきます。以前の私はあなたに気があったかもしれません。

でも今は、少しも興味が持てません。この婚約は破棄させていただきます。

あなたと綾乃さんのために、身を引かせていただきます」

そう言って、奈津美は部屋を出て行った。

田中秘書が入ってきて尋ねた。

「社長、本当に婚約を破棄するつもりでしょうか?」

「きれいごとを言うのは誰でもできる。

本当に破談にしたいなら、おばあちゃんに告げ口なんてしないはずだ」

「では、どうなさいますか?」

「少し痛い目に遭わせてやる。

誰に手を出していいか、誰に手を出してはいけないか、分からせてやる」

「承知いたしました」

奈津美は濡れた体のまま、タクシーで滝川家に戻った時には、すでに深夜だった。

美香が家の中で大声を上げており、奈津美が帰ってくるのを見るや否や、新聞を奈津美の顔に投げつけた。

「奈津美!よく帰ってこられたわね!見なさい、あんたが何をしでかしたか!

私が黒川様に謝れって言ったのに聞かなかったでしょう。

これで黒川様が滝川家を潰そうと思えば、指一本で簡単にできるのよ!」
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    幹部の視察があると聞いて、学生たちは緊張した。試験中に幹部が視察に来るなんて、今まで聞いたことがない。カンニングペーパーを用意していた学生たちは、こっそりとそれをしまった。神崎経済大学でカンニングがバレたら、退学処分になるからだ。「どうして視察の連絡がなかったの?今日は誰が来るの?」「さあ?最近、大学は騒がしいからね」後ろの席で数人の女子学生がヒソヒソ話をしていたが、監督官に睨まれて黙った。奈津美は周りの様子を気にせず、真剣に問題を解いていた。すると、教室から女子学生たちの黄色い歓声が上がった。黄色い歓声が次々と上がり、奈津美は思わず顔を上げた。ドアのところに涼が立っていた。涼は教室の中を見回し、誰かを捜しているようだった。校長は、「私たちの試験は公正に行われています。不正行為は一切ありません」と言った。涼の視線は、真剣に回答用紙に向かっている奈津美にすぐに釘付けになった。奈津美はカジュアルな服装に黒縁眼鏡をかけ、髪を無造作にまとめていた。地味な印象で、涼は最初、彼女に気づかなかった。奈津美の右手には包帯が巻かれ、左手で必死に答えを書いていた。書くのが辛そうで、時々ペンを置いて、固まった手を振っていた。涼はこんな奈津美を見るのは初めてで、思わず目を奪われた。「あれ?黒川社長じゃない?どうしてここに来てるの?」「社長が試験会場に来るなんて初めて見たわ。きっと、綾乃を見に来たのね」「まさか。白石さんは後ろの席に座ってるわよ。なんだか、社長の視線はずっと......」学生が言葉を言い終わらないうちに、監督官が咳払いをして、二人のヒソヒソ話を制止した。奈津美は、涼が誰を見に来たのかなど気にしなかった。自分の手が緊張で震えていることしか頭になかった。ここ数日、左手で字を書く練習をしていたので、うまくコントロールできていたのだが、今日は緊張のせいか、少し書いただけで手が固まってしまう。教壇の横に立っていた涼は、奈津美の震える手に気づき、眉をひそめて尋ねた。「どうして障害者が試験を受けているんだ?」校長は、その言葉を聞いて冷や汗をかいた。障害者?あれは、あなたがずっと庇ってきた元婚約者じゃないか?校長は心の中でそう思ったが、口には出さなかった。「この学生は卒業試験を受けたいとい

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第343話

    涼の顔色が悪くなった。田中秘書が涼に近づき、「社長......滝川さんは......行ってしまいました」と言った。「俺は目が見える」涼はロープを見て苛立ち、「全部片付けろ。見ているとイライラする」と冷たく言った。「......」田中秘書は心の中で、これは社長が指示したことでしょう、と思った。どうしてイライラしているのだろうか?「そういえば、最近、奈津美はどこに住んでいるんだ?調べたか?」「社長は、滝川さんのことにはもう関わらないとおっしゃいましたので......」田中秘書が言葉を濁すと、涼は彼を睨みつけた。「俺が関わらないからと言って、知らなくていいのか?奈津美は俺の元婚約者だ。彼女のことは黒川グループのメンツに関わる!今後、奈津美に関する情報は、どんなに些細なことでもすぐに報告しろ!」「......かしこまりました、社長」田中秘書は返事をした。卒業試験を目前に控え、理沙は退学処分になった。卒業試験を受けることすらできなかった。試験当日、奈津美は試験会場に現れた。周囲の受験生たちは、奈津美を見て驚いた。滝川家のお嬢様は手を怪我していて、卒業試験は受けられないと聞いていたのに。どうして来ているんだ?奈津美は周りの視線を気にせず、試験会場に入り、自分の席に座った。彼女の手首には包帯が巻かれ、足を引きずりながら歩いていた。右手はペンを握ることができない。多くの受験生が奈津美を見て、彼女がどうやって試験を受けるのか不思議がっていた。まもなく、試験問題が配られた。月子も奈津美のことを心配していた。一緒に座りたかったが、試験会場は人でいっぱいで、受験番号順に座席が決められているため、奈津美とは遠く離れていた。試験会場は緊張感に包まれていた。黒川グループで会議中だった涼は、ふと腕時計を見て、眉をひそめて「神崎経済大学の試験は、もう始まっているか?」と尋ねた。田中秘書は事前に神崎経済大学の試験時間を調べていたので、「はい、すでに10分経過しています」と答えた。会議室にいた人たちは顔を見合わせた。社長がなぜ急にそんなことを聞くのか分からなかった。涼は書類を置き、「会議は終わりだ」と言った。突然のことで、皆、ぽかんとした。まだ途中なのに。どうして急に会議が終わるんだ?

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第342話

    神崎経済大学。奈津美は洗面所に行き、赤いビンタの跡を見ながら、「随分と強く殴ったわね。退学になって当然よ」と舌打ちした。理沙の退学は、もう決定事項だ。一発のビンタで理沙を退学に追い込めるなら、安いものだ。奈津美は顔を洗って洗面所を出た。すると、涼と鉢合わせになった。奈津美はギョッとした。どうして女子トイレの前で涼と会うことになるんだ?奈津美は気づかないふりをしようとしたが、涼は逃がすつもりはなかった。「デマを流されたのに、どうして俺に言わなかったんだ?」涼の言葉に、奈津美は足を止めた。入り口には黄色いロープが張られ、「立入禁止」の看板が置かれていた。奈津美は振り返り、愛想笑いしながら、「黒川社長、偶然だね。気づかなかった」って言った。「偶然ではない。君を待っていた」誰にも邪魔されないように、涼は田中秘書に、この階の学生全員を別の教室に移動させるように指示していた。彼は奈津美に一歩近づき、「まだ質問に答えていない」と言った。「黒川社長、私たちは婚約破棄したよね?もう何の関係もないはずよ。私がデマを流されたのは私の問題だ。社長に報告する必要はないよね?」奈津美は涼から距離を取った。彼に近づきたくなかった。「そうか?」「そうよ」奈津美は真剣に頷いた。涼がただ絡んできただけだと思っていた奈津美だったが、彼は突然、彼女に一歩近づいた。奈津美は警戒し、眉をひそめて「何?」と尋ねた。「どうして私俺を避けるんだ?」奈津美は、あの夜、涼に手首を掴まれ、壁に押し付けられてキスされた時のことを思い出した。そして、奈津美は言った。「黒川社長、私は社長を避けてるわけじゃない。ただ、会う必要はないと思ってる」「怪我は治ったのか?」「いえ」「なら、契約通りだ。君の怪我が治るまでは、俺が君の保護者だ」「保護者?あなたが?」奈津美は吹き出しそうになった。保護者?涼が?前世で自分を誘拐犯に売り渡し、自分の死を黙って見ていた涼が、今世では自分の保護者になると?馬鹿げている。「駄目なのか?」涼は静かに言った。「家に帰ってよく考えたんだが、確かに以前の俺は君にひどい態度を取っていた。だから、俺に対して悪い印象を持っているのも無理はない」「だから?」「だから、俺は..

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第341話

    「分かった、君の言うとおりにする」涼は突然、綾乃の要求を受け入れた。綾乃は驚いた。涼は言った。「君を退学処分にはしない。安心して卒業試験を受けろ。ただし、理沙は退学処分になる。そして、君にはもう留学のチャンスはない。後悔しないなら、神崎市に残ればいい。俺はもう君には関わらない」「涼様......」綾乃は呟いた。以前、涼はこんな風に自分を見たことがなかった。綾乃は、涼との距離がどんどん離れていくように感じた。「田中、白石さんを連れて行ってくれ」「白石さん」という言葉が、二人の距離をさらに広げた。「かしこまりました、社長」田中秘書は綾乃の前に歩み寄り、簡単にカッターナイフを取り上げた。綾乃は自殺するつもりなどなかった。以前と同じように、自殺を装って涼を思い通りに操ろうとしただけだ。「白石さん、こちらへどうぞ」田中秘書の口調も冷たかった。男性は、死を盾にした脅迫を嫌う。面倒なだけだ。意味がない。綾乃はオフィスを出て行く間、ずっと涼の表情を窺っていた。しかし、涼は彼女に見向きもしなかった。オフィスで、涼は椅子に座り、藤堂昭(とうどう あき)が亡くなる前に、綾乃のことを頼まれた時のことを思い出していた。涼は疲れたように椅子に深く腰掛けた。今度は、綾乃を庇うことはできない。彼の脳裏には、奈津美が傷つけられる姿が絶えず浮かんできた。もっと早く、彼女が大学でどんな生活を送っていたのかを知ることができていたのならば、今のようにただ見てるだけということはなかっただろう。しばらくして、田中秘書がオフィスに戻ってきた。「奈津美は今、どうしている?」「滝川さんは......まだ大学にいると思います」「こんな時に、よく大学に行けるな」神崎経済大学の学生たちは、強い者には媚びへつらい、弱い者を見下すのが常だ。こんな時に奈津美が大学に行ったら、どんな目に遭うか分かったものではない。「校長に電話しろ。奈津美は黒川グループとは婚約破棄したが、彼女をいじめるということは、黒川グループに恥をかかせるということだと伝えろ」田中秘書は、「社長、それは一時間前に指示されたことです」と言った。「社長、滝川さんのことが本当に心配なら、ご自分で会いに行かれたらどうですか?このまま意地を張り続けて、滝

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第340話

    綾乃が言葉を言い終わらないうちに、涼のパソコンから聞き覚えのある声が聞こえてきた。「綾乃、何するのよ!」理沙が叫んだ。スピーカーから綾乃の声が聞こえてきた。「この傷は見た目ほどひどくないわ。それに、こうしないと、校長先生に会った時に言い訳できないし、滝川さんを退学させることもできないわ。理沙、少し痛い思いをさせるけど、私たちは友達でしょ?きっと分かってくれるわよね?」パソコンから流れる音声録音と防犯カメラの映像を見て、綾乃の顔色はどんどん悪くなっていった。そして、校長と綾乃が昨日夕方に交わした会話の録音も再生された。「白石さん、君たちは学生会の会長だ。今日は奈津美が問題を起こした。図書館の防犯カメラの映像を確認したところ、確かに奈津美が手を出していたんだ。私はすでに教務主任に奈津美を退学させるように指示した。安心してください」「分かりました。ありがとうございます」......録音されている会話を聞き、綾乃の顔は真っ青になった。涼は言った。「綾乃、チャンスは与えたんだ。それを無駄にしたのはお前自身だ」言葉を言い終えると、涼は机の上の電話に手を伸ばした。綾乃はすぐに、涼が校長に電話をかけようとしていることに気づいた。綾乃は涼の腕を掴み、「涼様!そんなことしないで!あなたは私に、誰も私をいじめることはできないって約束したじゃない!」と言った。「俺はお前に、神崎市で誰もお前を傷つけたり、辛い目に遭わせたりしないと約束した。好き放題に振る舞い、他人を傷つけてもいいとは言っていない」涼は冷淡な目で綾乃を見つめ、「綾乃、悪いことをしたら、罰を受けなければならない」と言った。「私はもう留学できないのよ!もし退学になったら、この世界で生きていけないわ!涼様、お願いだから......見て見ぬふりをして......お願い!」綾乃は涼に懇願した。綾乃はプライドが高く、自尊心が強い女性だ。奈津美を陥れるために、こんな卑劣な手段を使ったことが知られたら、優しく寛大な彼女のイメージは崩れてしまう。「離せ」涼の声は冷たく、綾乃を警告しているかのようだった。涼の冷たい視線に、綾乃は思わず手を離した。「涼様、あなたは私を死に追いやろうとしているのね」綾乃は唇を噛みしめ、「そんなこと、どうしてできるの」と言った。

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第339話

    田中秘書にそう聞かれ、涼は明らかに苛立っていた。「もう解決したんだろう?今更、弁明する必要はない」涼が書類を机に放り投げたのとほぼ同時に、綾乃がオフィスに入ってきた。涼の機嫌が悪い様子を見て、綾乃は微笑みながら、「田中秘書の仕事ぶりが気に入らないの?どうしてそんなに怒ってるの?」と言った。綾乃は大学で涼に呼び出されたと聞き、すぐに駆けつけたのだ。しかし、今の涼の様子を見て、綾乃は不安になった。涼は単刀直入に尋ねた。「大学で奈津美の噂が流れているが、あれはお前がやったのか?」涼の口調は詰問するような感じで、以前の彼とはまるで別人だった。「涼様、あなたは奈津美のために私を責めているの?」綾乃の声は寂しそうだった。「あなたは以前、こんな風に私を問い詰めることはなかったのに」涼は思わず眉をひそめた。「私たちは幼馴染でしょ?それなのに、あなたは私を少しも信じてくれないの?私はそんなことをするような女じゃないわ。白だって私を信じているのに、どうしてあなたは信じてくれないの?」綾乃の瞳には、必死にこらえている涙が浮かんでいた。涼は、綾乃の気が強い性格を知っていた。しかし、今日の綾乃の行動は行き過ぎだった。彼は冷たく言った。「この件についてはすでに調査を始めている。校長が直接、お前が奈津美を退学させようとしたと言っていた。校長が俺に嘘をつくはずがない。綾乃、証拠を突きつけられないと、納得しないのか?」綾乃の顔色が悪くなった。「大学中の掲示板や図書館の防犯カメラの映像など、証拠は揃っている。お前が何もしていないと言っても、俺が信じると思うか?」涼は冷淡な口調で言った。「お前をここに呼んだのは、この件について直接聞きたかったからだ。本当にお前がやったのか、どうしてそんなことをしたのか。正直に話せば、退学処分にしないことも考えていた」ここまで聞くと、綾乃は驚き、「私が退学?」と顔を上げた。彼女は信じられないという目で涼を見つめた。「今のお前の行動は、学生会長としてあるまじき行為だ。このことはすでに外部に漏れている。これ以上、お前の評判を落とすわけにはいかない。まさか、理沙一人に責任を負わせられると思っているのか?綾乃、お前は甘すぎるんじゃないか?」涼の言葉を聞きながら、綾乃は平静を装っていたが、顔色は

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第338話

    校長は真剣な表情で奈津美に約束した。奈津美はうなずき、「校長先生がわざとじゃないことは分かっています。退学処分については......」と言った。「退学?何のことだ?」校長はとぼけて言った。「退学処分なんて話は聞いていないぞ。すぐに教務主任に連絡する。成績が悪くても、勉強すればいい。どうして噂だけで学生を退学させるんだ?この大学では、そんなことは絶対にしない!」校長の言葉を聞いて、奈津美は心の中で冷笑した。教務主任に、そんな権限があるはずがない。校長の指示がなければ、教務主任は自分の学科の学生を退学させたくはないだろう。しかし、心の中で分かっていることと、口に出すことは別だ。奈津美はとぼけて、「疑いが晴れて良かったです。ありがとうございます、校長先生」と言った。「どういたしまして!それより、滝川さん、試験は頑張ってくれ。今年の試験問題は難しいぞ」校長は大学の卒業率が下がるのは嫌だった。しかし、涼を怒らせないためには、奈津美を卒業試験を受けさせるしかなかった。せめて、あまり悪い点を取らないようにと願うばかりだった。一方、黒川グループでは。田中秘書は眉をひそめ、「ネット上の書き込みはすべて削除されたのか?誰がやったんだ?」と尋ねた。「分かりません。相手は迅速かつ的確に行動し、一分も経たないうちにすべての書き込みを削除し、さらに投稿者の黒歴史まで暴露しました」この仕事の速さから見て、かなり大きな組織の仕業に違いない。部下も困惑していた。奈津美の無実を証明するための文章を書き上げたばかりなのに、相手の方が先に動いてしまったのだ。「田中秘書、もしかして、誰かが滝川さんを助けたのではないでしょうか?」「単刀直入に言え。誰の仕業だと思っているんだ?」田中秘書は遠回しな言い方が嫌いだった。部下は困った顔をしていた。このことを言うべきかどうか迷っていた。しかし、奈津美が黒川社長だけでなく、礼二や冬馬とも親密な関係にあることは、誰もが知っていた。もしかしたら、礼二か冬馬の仕業かもしれない。部下の目つきから、田中秘書は彼が何を言おうとしているのか察し、冷たく言った。「会社で働き続けたいなら、無駄口を叩くな!」「......かしこまりました、田中秘書」「下がれ」「はい......」部下はす

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