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第5話

作者: 小春日和
翌朝、涼が階下に降りると、使用人が荷物を片付けているのを見て眉をひそめ、尋ねた。

「何をしている?」

「旦那様、これは滝川お嬢様のお荷物です。

昨日お電話があり、もうお邪魔することはないので、荷物を送ってほしいとのことでした」

目の前のスーツケースを見つめながら、涼の脳裏に奈津美の姿が一瞬よぎった。

普段なら、この時間には奈津美が朝食を作り終え、期待に満ちた表情で彼を待っているはずだった。

椅子を引いてくれたり、他愛もない話をしてくれたりするのが日課だった。

今日はその姿が見えず、何かが足りないような気がした。

まさか奈津美のことを考えているのかと気づいた涼は、冷たい声で言った

「早く片付けろ。目障りだ」

「はい、かしこまりました」

リビングの椅子に座った涼は、テーブルが空っぽなのを見て不機嫌そうに言った。

「朝食はまだか?」

「申し訳ありません。

いつもはお嬢様が作っていて、新しい家政婦はまだ時間の把握が......」

「急げ。仕事に行かなければならない」

涼は腕時計を見ながら、急に苛立ちを覚えた。

すぐに家政婦がパンと目玉焼き、ソーセージを載せた皿を運んできた。

涼はその質素な朝食を見て、冷ややかな目を向けた。

「これは何だ?」

「朝......朝食でございます」

家政婦は怯えた様子で、自分が何を間違えたのか分からない様子だった。

涼は冷たく言った。

「片面焼きは食べない。朝は肉類も控えている。

月給40万も払って、こんなものを出すために雇ったわけではないだろう」

「申し訳ございません!存じ上げませんでした......」

「新人でございますので、すぐに作り直させます!」

「結構だ」

涼は険しい表情で立ち上がった。

そこへ黒川会長が寝室から出てきて、テーブルの上を見ただけで孫が怒っている理由を理解した。

「普段は奈津美が朝4時から丁寧におかずを作って、蒸籠で蒸して、最低でも16品の栄養たっぷりの朝食を用意してくれていたのに。

奈津美がいなくなって、この家は本当に住めたものじゃないわ」

その言葉を聞いて、涼は眉をひそめた。

破談を切り出したのは彼女だ!行きたければ行けばいい!

たかが3ヶ月一緒に暮らしただけの奈津美がいなくなったからって、自分が生きていけないわけがない。

「おばあちゃん、仕事に行ってきます」

「待ちなさい!」

会長は眉をひそめて言った。

「私の考えはどうでもいいけど、私は奈津美しか孫の嫁として認めないわ。

今すぐ滝川家に行って謝ってきなさい。

奈津美が許してくれないなら、家に帰ってこなくていいわ」

「おばあちゃん......」

「今すぐよ!」

会長の言葉に拒否の余地はなかった。

涼はどれほど気が進まなくても、従うしかなかった。

「分かりました」

一方、滝川家では。

「バン!」

突然の大きな音とともに、奈津美の部屋のドアが破られた。

滝川健一(たきがわ けんいち)が怒りに任せて奈津美の布団をめくり、彼女の手首を掴んだ。

「奈津美!頭がおかしくなったのか?黒川家との婚約を破棄するだって?説明しろ!」

奈津美は健一に掴まれた左手を見て、不快そうに眉をひそめた。

健一は弟とはいえ、父の実子ではない。

美香が父と再婚した時、健一はすでに5歳だった。

父は健一を実子のように可愛がり、滝川家の坊ちゃんとして、美香に甘やかされ放題だった。

前世では、美香は奈津美に黒川家に嫁ぐよう仕向け、滝川グループの経営を健一に任せるよう促した。

その結果、これほど大きな事業が健一の手によって完全に潰されてしまった。

目の前の18歳の反抗期の少年を見て、奈津美は怒りを抑えきれず、思わず平手打ちをした。

この一撃に健一は呆然とした。

「お、お前......俺を殴ったのか?」

今まで弱々しく、いつも優しく接してくれた奈津美が、突然手を上げるなんて。

奈津美は冷たく叱りつけた。

「そうよ、殴ったわ。誰に許可を得て私の部屋に入ってきたの?」

「お嬢様!申し訳ございません!坊ちゃんを止められなくて......」

山下は恐る恐る説明した。

「黙れ!ここは俺の家だ、好きなところに行って何が悪い!」

健一の怒鳴り声に、山下は震え上がった。

奈津美は山下の腕の傷跡を見て、健一の横暴さを悟った。

以前は涼のことばかり考えていて、家が美香母子によって荒らされていることに気付かなかった。

「健一の家?この滝川家はまだあんたのものじゃないわ」

奈津美は立ち上がり、山下を支え起こした。腕には暴力の跡が残っていたが、彼女は何も言えずにいた。

「うちは名家かもしれないけど、法律を無視していい場所じゃないわ。

使用人を殴る権利なんてどこにあるの?」

奈津美の言葉に、山下は涙を流した。

とっくに辞めたかったが、健一が立場を盾に脅し、退職も許さなかった。もうこんな生活には耐えられない!

「お嬢様!どうか私を行かせてください!」

その時、美香も階下から駆け上がってきた。

息子の頬が腫れているのを見て、すぐに状況を理解した。

美香は眉を吊り上げ、奈津美を指差して怒鳴った。

「奈津美!どうして自分の弟を殴るの?本当に頭がおかしくなったんじゃない?

婚約破棄に続いて家族に手を上げるなんて、一体何がしたいの!」

「弟?私にそんな育ちの悪い弟なんていません!」

奈津美は冷たく言い返した。

「お母さん、はっきり言いますけど、健一は父の実子でもありません。

成人した男が私の部屋に無断で入り込み、使用人に暴力を振るう。

これがお母さまの育てた息子なんですよ」

奈津美の言葉に、美香は鼻で笑った。

「健一は幼い頃からこの家で育ち、あなたのお父様も実の息子同然に可愛がってくださったのよ。

姉としてそんな言い方をするなんて、ひどすぎるわ。

それに、たかが使用人じゃない。医療費も給料も払ってるでしょう?」

その言葉を聞いて、奈津美の目はさらに冷たくなった。

「今日は使用人、明日は社員。滝川グループが健一の手に渡ったら、この家は終わりですね」

「そんな極端な!誰だって最初から経営者になれるわけじゃないでしょう。

それに、会社を弟に譲ると約束したはずよ。

黒川様との結婚が駄目になったからって、約束を反故にするの?」

美香の無神経さは想定内だった。奈津美は冷笑し、机から婚約パーティー前に署名した株式譲渡書を取り出した。

「お母さんが言ってるのは、これのことですか?」

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    「そうなんですよ!知らないと思うけど、この滝川さんさっきから本当に横暴で!私たちを警察に突き出すって言うんですよ!」理沙は、面白がって騒ぎ立てた。彼女たちの言い分に、奈津美は冷笑した。「黒川家の婚約者という立場が、そこまで役に立つとは知らなかったな。奈津美、お前は何でも利用するんだな」涼は、何が起こったのか全く知らず、奈津美を嘲笑していた。それを見て、月子は涼に詰め寄った。「黒川社長、何が起こったか知ってるの?どうして奈津美にそんなひどいことを言うのよ!」綾乃は言った。「山田さん、私と涼様は全て聞いていました。何が起こったのか、皆さんも分かっているでしょう?」「そうよ!滝川さんが私たちをいじめたのよ!」めぐみは、すぐに奈津美に濡れ衣を着せ始めた。月子はさらに奈津美をかばおうとしたが、涼は冷たく言った。「奈津美、黒川家の婚約者という立場を私欲のために使うな。さっさと謝れ」「黒川社長!頭がおかしくなったんじゃないの?奈津美こそがあなたの婚約者なのに、どうして他人の味方をするのよ!」涼の言葉に、月子は激怒した。奈津美は涼を見て、彼が綾乃の味方をするつもりだと悟った。綾乃は言った。「涼様、もういいわ。大したことじゃないんだから」「綾乃、そんな優しすぎるのはダメよ!この滝川さんが、今までどれだけあなたをいじめてきたか忘れてるの?昨日の夜だって、みんなの前で恥をかかせて、あなたは泣いていたじゃない。私とめぐみが慰めたのよ!」理沙は、涼の前で自分が綾乃の味方であることをアピールした。「その口、引き裂いてやる!」月子が理沙に掴みかかろうとした瞬間、綾乃が理沙の前に出た。月子の平手打ちは、綾乃の顔に命中した。綾乃の顔が、みるみるうちに赤くなった。それを見て、涼は眉をひそめた。「田中!」田中秘書は前に出て、月子の頬を叩いた。月子が叩かれたのを見て、奈津美の表情が一変した。奈津美も平手打ちを食らわせた。しかし、その相手は田中秘書ではなく、涼だった。会場は凍りついたように静まり返った。「涼様!」綾乃の顔が青ざめた。涼の顔色は、さらに暗くなった。これまで、誰も涼に手を出したことはなかった。ましてや、こんな場所ではなおさらだ。「月子、行こう」奈津美は月子の手を引いて、その場を

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    ニヤニヤしていためぐみと理沙の顔が、急にこわばった。理沙は高慢そうに言った。「どうして私たちがやったって決めつけるの?証拠でもあるの?」「証拠なんてあるわけないでしょ。ただ腹を立てて、私たちに当たり散らしたいだけよ」めぐみは嫌味ったらしく言った。「写真は私たちが貼ったわけじゃないけど、書いてあることは事実でしょ。黒川社長の婚約者なのに、あんなにたくさんの男と抱き合ってるなんて、恥を知らないのは、あなたの方よ!」「そうよ。あんな肌出しで、ちょっと見れる顔を武器に男に媚び売る女、非難されて当然よ!」理沙とめぐみの言葉に、奈津美は笑ってしまった。めぐみは眉をひそめて言った。「何がおかしいの?」「笑えるわ......大学生にもなって、デマを流して、人の名誉を毀損するのが犯罪だって知らないの?」奈津美は言った。「このあたりの監視カメラの映像は残っているわ。ちょっと調べれば、誰がこんなことをしたのかすぐに分かる。証拠を集めて警察に届け出るわ。陰でコソコソやってる人に、私を甘く見ない方がいいってことを教えてあげる」めぐみと理沙の顔が、一瞬にして青ざめた。しかしすぐに理沙は我に返り、「奈津美!自分を何様だと思ってるの?先生が、あなたみたいな恥知らずな女の味方をすると思う?」と言った。「そうよ、大学の監視カメラを勝手に調べられると思ってるの?こんな些細なことで警察に届けるなんて、バカみたい!」めぐみと理沙の言葉に、奈津美は眉を上げて言った。「あなたたちが言った通り、私は涼の婚約者よ。黒川家が毎年、神崎経済大学にどれだけ投資しているか......知っているでしょう?」二人の顔色が変わった。理沙は怒って叫んだ。「滝川さん!それって私情を挟んでるってことじゃない!」「その通りよ、私情を持ち込んで何が悪いの?」奈津美は言った。「私は涼の婚約者という立場を利用して、好き勝手できるのよ。あなたたちには、そんな資格はない」「この!」「そうか?」少し離れたところから、涼の冷ややかな声が聞こえた。その声を聞いて、奈津美は眉をひそめた。涼?何しに大学へ来たの?振り返ると、涼と綾乃が歩いてくるのが見えた。綾乃は涼の腕に抱きついていた。どうやら、涼が彼女を大学まで送ってきたらしい。二人が現れた時、奈津美の表情

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第112話

    「入江社長?」「面白い女だ。だが、それだけだ」冬馬はそう言いながらも、表情には捉えどころのない笑みが浮かんでいた。本来は、神崎で有名な綾乃を見てみようと思っていたのだが。思いがけず、奈津美が現れた。綾乃と比べると、奈津美はずっと魅力的だ。あんな小娘の策略など、子供騙しに過ぎない。涼に可愛がられているだけで、綾乃という女には、特に魅力はない。翌朝。奈津美は、朝早くから大学へ行った。数ヶ月休学していたので、授業がかなり遅れていた。神崎経済大学は金融を学ぶ最高の大学で、ここに集まる学生は皆、神崎市で有名な生徒ばかりだ。数ヶ月休学しただけで、あっという間に置いていかれてしまう。高校は厳しいと言われるが、神崎経済大学はまさに地獄のような厳しさだ。前世の経験から、奈津美は男のために学業を捨てるのが、どれほど愚かなことかを知っていた。何としてでも神崎経済大学を卒業する。前世のように、涼のために中退するようなことは絶対に繰り返さない。前世、どれだけ白い目で見られたかを、彼女は今でも覚えている。この上流社会では、優れた学歴は人の看板のようなものだ。顔が悪くても構わないが、看板がないのは許されない。しかし今日、奈津美が大学に足を踏み入れると、多くの学生が彼女を見ていた。好奇の視線に、奈津美は気分が悪くなった。その時、月子が奈津美に向かって走ってきた。「ねえ!大学に来るなら教えてよ!」月子は、周囲の好奇の視線に全く気づいていなかった。奈津美は眉をひそめて言った。「今日、何かあったの?」「何かあった?別に何もないと思うけど。私も今来たところだし。それに、神崎経済大学で何かあるわけないでしょ」月子が何も知らないようなので、奈津美は周囲を見回した。すぐに、多くの学生が集まっている場所を見つけた。「行ってみよう」奈津美は月子の腕を掴んで、その場所へ向かった。月子は何が起こっているのか分からなかったが、奈津美が近づくと、周囲から小さな声が聞こえてきた。「あの子か......」「こんな人が、この大学にいるなんて......」「よく学校に来られるわね......」......周囲のざわめきは大きかった。奈津美が近づくと、掲示板に何枚かの写真が貼られているのが見えた。

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第111話

    奈津美と礼二の親密な様子は、すぐに涼の目に留まった。「奈津美!」怒気を含んだ低い声が、奈津美の耳に届いた。振り返ると、涼が険しい顔でこちらへ歩いてくるのが見えた。「どうやら、まずいことになりそうだな」礼二が皮肉を言った。奈津美も小声で言った。「望月社長、焦らないで。私がまずいことになったら、あなたも無事では済まないわ」それを聞いて、礼二の口元に笑みが浮かんだ。涼は奈津美の前に来ると、彼女がオークションで落札したネックレスを持っているのを見た。涼は冷ややかに言った。「望月社長も太っ腹だな。30億円も払って、ネックレスをプレゼントするか」「まあね」奈津美はネックレスを手に持ち、「さっき黒川社長も、このネックレスが気に入っているようでしょう?まさか、白石さんにプレゼントするつもりだったの?」と言った。その言葉に、涼の声はさらに冷たくなった。「しらばくれるな!」奈津美は綾乃がこのネックレスを欲しがっていることを知っていて、わざと競り合ったのだ。卑劣なやり方だ!奈津美は言った。「黒川社長、ここはオークション会場よ。当然、高い値段を付けた人が落札するのよ。望月社長が落札して私にプレゼントしただけなのに、なぜそんなに責めるの?」涼の顔が険しくなるのを見て、奈津美は内心で快哉を叫んだ。前世、涼はあらゆる場面で奈津美の尊厳を踏みにじり、恥をかかせてきた。今度は、涼に同じ思いをさせてやる。奈津美はわざと礼二に言った。「礼二、ネックレスをありがとう。とても気に入ったわ。ちょっと用事があるので、これで失礼するわね」そう言って、奈津美は会場の反対側へ歩いて行った。去り際に、奈津美はわざと涼の肩にぶつかった。あからさまな挑発に、涼はさらに怒りを募らせた。「滝、川、奈、津、美!」「送らないで!」奈津美は軽く手を振り、その堂々とした態度と妖艶な姿は、涼の敗北を物語っているようだった。奈津美はすぐに自分の席に戻り、冬馬にネックレスを渡して言った。「入江社長、あなたの欲しいネックレスですよ」冬馬はネックレスを手に取った。30億円という価格が、ネックレスの輝きを一層引き立てている。「悪くない」冬馬は淡々と言った。「滝川さんの誠意は、よく伝わった」「私と手を組む気はありますか?」「近日中

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第110話

    「奈津美にどれだけの金があるか、俺が知らないとでも?」涼は冷たく言った。「さらに値を上げろ」「......かしこまりました」「18億円!」田中秘書が札を上げると、会場がざわめいた。ネックレスの価格が、開始価格の10倍近くまで跳ね上がろうとしている!奈津美は冬馬に言った。「入江社長、わざとでしょう?」冬馬は最初から、涼がこのネックレスを必ず手に入れようとすることを見越していた。だからこそ、奈津美と涼に競り合わさせたのだ。冬馬に綾乃を追い出されたことで、涼は既にメンツを失っている。今更奈津美に負けるわけにはいかない。メンツのためだけでも、涼はこのネックレスを落札するだろう。「俺との約束を忘れるな」冬馬は椅子に深く腰掛けて言った。「このネックレスは、必ず俺が手に入れる」「入江社長......」奈津美は、冬馬がわざと自分を窮地に追い込もうとしているのだと悟った。しかし、奈津美は恐れていなかった。勝負を挑んできたのだな?望むところだ。「20億円!」奈津美が20億円を提示すると、会場は静まり返った。まだオークションが始まったばかりなのに!滝川家のお嬢様は、少し調子に乗りすぎではないか!「30億円」涼と奈津美がどちらも口を開かない中、含み笑いを含んだ声が響いた。皆が驚いて振り返ると、遅れてやってきた礼二が、30億円でこのネックレスを落札しようとしていた。「社長、この価格はあまりにも高すぎます。会長がお知りになったら、お怒りになるでしょう。それに、このネックレスは白石さんに......」田中秘書は涼の耳元で囁いた。礼二が介入してきたので、涼は眉をひそめただけで、それ以上値を上げることはしなかった。礼二が来たのを見て、奈津美は内心ほっとした。彼女は椅子の背にもたれかかり、黙っていた。オークショニアが言った。「30億円、1度!」「30億円、2度!」「30億円、3度!落札!」......冬馬は奈津美をちらりと見て、無表情で言った。「俺は、このネックレスが欲しいと言ったはずだ」「ネックレスは、もう入江社長のものよ」奈津美は椅子の背にもたれかかり、「入江社長はネックレスが欲しいと言っただけで、どうやって手に入れるかは言っていなかったわ」と返した。

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第109話

    奈津美はステージに置かれたダイヤモンドのネックレスを見て、眉をひそめ、「これは、かつてウィルシア王国の王妃が身につけていたネックレス?」と尋ねた。奈津美は、綾乃がこのネックレスを欲しがっていたことを覚えていた。前世、涼が高額で落札し、綾乃に贈ったのだ。しかし、冬馬が綾乃に一目惚れしたことで、競り合いになり、とんでもない価格まで跳ね上がったのだった。今、なぜ冬馬がこのネックレスの話を持ち出したのだろうか?「別に、このネックレスは大したものではない」冬馬は淡々と言った。「だが、気に入った。開始価格は2億円だが、いくら払おうと、お前が落札しろ」奈津美の顔色が曇った。金額に関係なく落札しろとは?今の奈津美の資産では、2億円はとてつもない金額だ!冬馬は、わざと自分を困らせているのだろうか?「どうした?できないのか?」冬馬は面白そうに言った。「もしできなければ、別の方法で返済してもらうこともできるが」その言葉に、奈津美は背筋が凍る思いがした。冬馬が危険な人物であることは、とうにわかっていた。しかし、既に冬馬の興味を引いてしまった以上、何とかしてこの強力な後ろ盾を確保するしかなかった。さもなければ、これまでしてきたことが全て無駄になってしまう。「いいわ、できるわ」奈津美は言った。「それに、数億円で入江社長の助けが得られるなら、安いものよ」奈津美の言葉に、冬馬は眉を上げた。この女は、綾乃よりずっと面白い。まもなく、チャリティオークションが始まった。最初のネックレスの開始価格は2億円だった。さっき綾乃がいじめられたので、涼は彼女のメンツを立てようと、すぐに田中秘書に札を上げさせた。「3億円!1度!」「3億4000万円!」「3億6000万円!」「4億円!」......周囲の入札は、激しいものだった。奈津美は落ち着いた様子で札を上げ、「5億円」と言った。奈津美が1億円の値上げをしたので、周囲は驚いた。奈津美が値を上げたのを見て、涼は眉をひそめた。田中秘書は涼に尋ねた。「社長、まだ続けますか?」「続けろ」涼が短く言うと、田中秘書は再び札を上げた。「6億円!」ネックレスに6億円とは、常軌を逸している。奈津美と涼が同じネックレスを競り合っている

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第108話

    「はい、入江社長」綾乃の顔色が変わった。牙が近づいてくるのを見て、彼女は涼の背後に隠れて、「涼......」と訴えた。涼は綾乃をかばい、冷たく言った。「奈津美!いい加減にしろ!」「黒川社長、私何かしたの?何も言ってないわ」奈津美はそう言いながら、冬馬にさらにすり寄った。この光景を見て、涼は怒りに燃えた。今日は一体どんな場だと思っているんだ?奈津美は、皆の前で自分を侮辱しようとしているのか?冬馬は落ち着いて言った。「牙、俺の言葉が聞こえないのか?」「はい」牙が前に出ようとした時、綾乃は奈津美を見て言った。「滝川さん!私が嫌いなのは分かっているけど、入江社長にこんな仕打ちをさせるなんて酷いわ!私は涼の同伴なのよ。あなたのその行為は、私を貶めようとしているの?それとも、涼を貶めようとしているの?」綾乃は、奈津美が冬馬の前で自分をかばわないことを責めていた。奈津美はそんな愚かなことはしない。今綾乃をかばえば、冬馬のメンツをつぶすことになる。そうなれば、どちらにも良い顔ができなくなる。自分にとって何のメリットもない。奈津美は白を切って綾乃に言った。「白石さん、何を言っているのかさっぱり分からないわ......誰かを貶めるつもりなんてないわ」奈津美の芝居を見て、涼の視線はますます冷たくなった。しかし、主催者の冬馬が客を追い出そうとしているのに、誰が逆らえるだろうか?牙が綾乃の隣に立ち、「どうぞ」と手招きした。綾乃は、その場に居座ることもできず、唇を噛み締めて涼を見た。涼は冷たく言った。「綾乃、入江社長が帰るように言っているんだ、帰りなさい」「涼......」「だが、次に彼が黒川家のパーティーに来るのは難しいだろう」涼の最後の言葉は、綾乃の味方をするものだった。涼の言葉を聞いて、綾乃の青ざめた顔が少し持ち直した。そうだ。ここは神崎市!冬馬が自分を追い出したとしても、涼が彼をこのままにはしないだろう。綾乃は腑に落ちなかったが、涼の言葉に従って会場を後にした。帰る際、綾乃は冬馬の隣にいる奈津美を睨みつけた。「オークションが始まる。黒川社長、もしよければ席におつきください」冬馬は何気なくそう言うと、奈津美をエスコートして席に着いた。周囲の人々は、この光景を見て

  • 前世の虐めに目覚めた花嫁、婚約破棄を決意   第107話

    「涼、落ち着いて」綾乃は涼の腕を押さえ、申し訳なさそうに冬馬に言った。「入江社長、本当に申し訳ございません。滝川さんの身分を知らなかったのでしょう......」そして滝川奈津美を咎めるように視線を向け、「滝川さんったら。涼の婚約者でしょう?こんな大勢の人の前で入江社長とベタベタして、みっともないわ。こっちへ来なさい!」と言った。綾乃はそう言いながら、奈津美を連れ戻そうと前に出た。しかし、牙は綾乃の前に立ちはだかり、彼女を通そうとしなかった。綾乃は伸ばした手を宙ぶらりんにしたまま、顔を強張らせた。奈津美は仲裁役を演じる綾乃を見て、思わず笑った。「白石さん、さっきは涼と仲良くしていたから、てっきり......涼に婚約者がいることを知らないのかと思ってたわ」奈津美の言葉に、綾乃は何も言い返せなかった。そうだ、奈津美が涼の婚約者であることを知らない者などいるだろうか?ただ、涼が好きなのは綾乃だと皆が知っていたので、奈津美は誰からも敬意を払われなかっただけだ。しかし皆、忘れていた。人の婚約者の前で、その相手に寄り添う行為が、そもそも厚かましいことだ。はっきり言って、不倫相手でしかない。「奈津美、こっちへ来い」涼の声は命令口調だった。しかし奈津美は動く気配を見せず、涼は一歩前に出た。すると突然、奈津美は冬馬の背後に隠れて震え始めた。まるで、何かに怯えているようだった。すぐに奈津美の目に涙が浮かび、まるでひどい仕打ちを受けたかのように見えた。誰もが、彼女を可哀そうに思うだろう。冬馬は奈津美の演技を見ながら、少し口角を上げた。周囲の人々は、この光景を見てヒソヒソと話し始めた。「黒川社長がこの婚約者を嫌っているのは聞いていたけど、まさか暴力を振るうなんて......」「そうよ、滝川さんの様子から見ると、普段からしょっちゅう殴られているんじゃないかしら!かわいそうに」「滝川家のお嬢様なのに、黒川家はひどすぎるんじゃないか?」......非難の声はどんどん大きくなった。周囲の言葉に、涼の顔色はますます険しくなった。綾乃は涼をかばおうとしたが、周囲の視線が冷たいことに気づいた。まるで、綾乃が全ての元凶であるかのように。「滝川さんは俺の同伴だ。ここは俺の主催のパーティーだ。黒川社長

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