「ピンポーン——」スマホの画面に、半月もトレンド入りし続けているホットワードがまた浮かび上がった。瑞樹が大金をはたいて豪華な屋敷を買い取り、自ら庭にバラを咲かせて結婚五周年の記念日を準備している。再び世界中に向けて宣言した、瑞樹が心から愛しているのは早絵ただ一人だと。コメントは数えきれないほどで、そのすべてが二人の愛を羨ましがっていた。【年下との恋はうまくいかないって誰が言ったの?加瀬社長の最高の結納品は恋愛脳らしいよ。奥さんは六歳年上で、三年かけてようやく落としたとか】【加瀬社長が奥さんにベタ惚れなの知らない人いる?二年前の地震で奥さんが閉じ込められた時、加瀬社長が命がけで駆け込んで、助け出されたときはボロボロだったのに、逆に怖がってた奥さんをなだめてた。ニュースで奥さんを抱いて泣いてる姿、マジで泣けた】【それに去年、奥さんの年齢と不妊を馬鹿にしたメディアがあって、加瀬社長に訴えられて潰された。子どもがいてもいなくても関係ない、でもそれを理由に彼女を傷つけるのは絶対に許さないって加瀬社長が公の場で言い切ってたの、かっこよすぎ】そのコメントを見て、早絵は思わず苦笑した。誰にも彼女を傷つけさせない。瑞樹はその約束だけは確かに守った。たとえその傷が彼女の肉を抉るものでも、刃を握っていたのは他でもない、彼自身だった。妊娠がわかったばかりの頃、早絵はこの嬉しい知らせを一刻も早く瑞樹に伝えたくて仕方なかった。けれど、その直後に見知らぬ誰かからメッセージが届いた。そこには、妊婦の写真が添付されていた。若い女が甘い笑みを浮かべ、瑞樹は片膝をついて、そのふくらんだお腹にそっと口づけしていた。まるでこの上ない幸せに満たされたような表情で。大粒の涙が、ぼたぼたと落ちた。六回にも及ぶ体外受精の痛みに耐えてようやく手にしたこのエコー写真が、まるで早絵自身を嘲笑っているかのようだった。結婚したあの日、瑞樹は誓った。この人生で愛するのは、彼女だけだと。だけど彼の一生は、たった五年しか続かなかった。そんなものなら、もう瑞樹なんていらない。自分の子どもを、こんな嘘まみれの世界に産むわけにはいかない。部屋のドアが開いた。目を真っ赤にした早絵と目が合った途端、瑞樹は明らかに動揺した。「どうしたの、早絵。何が
翌日の昼、瑞樹は早絵を連れて加瀬家へ食事に行った。瑞樹の母は早絵のことが気に入らず、結婚式の日でさえ顔を見せなかった。結婚後、瑞樹は早絵を連れて家を出て、月末に一度だけ戻るようになった。「早絵、母さんが何言っても気にすんなよ。俺はずっと君の味方だから。飯食ったらすぐ帰ろうな」瑞樹は早絵の手を握りしめながらそう念を押した。玄関に入った瞬間、早絵の耳に瑞樹母の笑い声が飛び込んできた。「赤ちゃんってほんと可愛いねぇ、この小さな手と足、見てるだけで心がとろけそうね」早絵の顔色が一気に青ざめ、その場で足が止まった。瑞樹母の隣に立っていたのは、あのエコー写真に写っていた女だった。「この子は友達の娘、千鶴ちゃんよ」「妊娠中でね、家族が海外にいるから私が面倒を見てるの。今朝も一緒に健診に行ってきたばかりなのよ」瑞樹母は芳野千鶴(よしの ちずる)の腕を取りながら近づき、エコー写真を瑞樹に手渡した。その視線には意味深なものが宿っていた。「ちょっと見てみてよ、この赤ちゃん、父親と母親に似てると思わない?」瑞樹の目に一瞬の動揺が走り、声にはほのかな牽制が滲んでいた。「母さん、冗談やめてよ。俺今日初めて千鶴さんに会ったんだから、わかるわけないだろ」瑞樹母は早絵を一瞥し、千鶴を前に押し出して言った。「じゃあ改めて紹介するわね、千鶴ちゃん、こっちがあなたの瑞樹兄ちゃんよ」千鶴の頬が赤く染まった。「瑞樹兄ちゃん」瑞樹は軽く頷き、片手で早絵を引き寄せた。「こっちはお前の義姉さん、早絵だ」「義姉さん、初めまして」早絵の心は完全に冷えきり、だらりと下ろした両手が止まらず震えていた。千鶴の存在を、加瀬家の人間はみんな知っていた。知らなかったのは、早絵だけだった。「どうした?」瑞樹はすぐさま慌てて、「低血糖か?」彼はポケットから常備していた飴を取り出し、包みを剥いて早絵の口元へ差し出した。早絵は機械的に口を開けた。甘いはずの飴なのに、口の中に広がったのは苦味だけだった。瑞樹は使用人に食事の準備を指示し、早絵の手を握ったまま席に着いた。「朝あんまり食べてなかっただろ 昼はちゃんと食べろよ」早絵が黙って水のグラスを手に取ると、瑞樹はそれに気づき、温かい水に取り替えてやった。「そろそろ生理だろ。冷たいの
スマホの画面が自動で暗くなった。瑞樹は気にも留めず、早絵を腕の中に引き寄せ、背中を優しくぽんぽんと叩いた。「な、泣くなって。俺が辛くなる」「全部俺が悪い。連れてきてごめん。あれは俺の母親だけど、君が我慢する義理なんかない」「殴っても、罵ってもいい。君が少しでも楽になるなら、それでいい」帰り道、瑞樹はずっと早絵を宥めていた。早絵は目を閉じ、寝たふりをすることにした。耳元に時折メッセージの通知音が鳴り、道中の後半、瑞樹はずっと誰かに返信していた。家の前に着くと、瑞樹は早絵の頭をそっと撫でた。「早絵、会社で急ぎの用事ができた。家で待っててくれよ。夜にはちゃんと早く帰るから、な?」早絵は何も言わずに静かに車を降りた。瑞樹が去ったあと、早絵は千鶴の申請を承認した。それから、彼女のタイムラインを開いた。一番上に固定された投稿には、二枚の写真が載っていた。一枚目は、瑞樹がバラを植えている後ろ姿だった。二枚目には、青いバラが一面に咲き誇る花畑。【大好きな青いバラを植えてくれたから、一回だけ許してあげる。早く迎えに来てね】早絵の胸がぎゅっと締めつけられた。青が好きなのは、千鶴の方だったんだ。あのバラさえ、自分のために植えられたものじゃなかった。早絵はタクシーを拾い、迷いなくあの屋敷へ向かった。着いた瞬間、早絵の目に入ったのは、瑞樹の黒いベントレーだった。少し先のバラ畑の前で、瑞樹が背を向けて立っていた。早絵の存在に気づいていない。「早絵が子ども産めないから仕方なくお前を選んだんだ。あの子は俺の一線だ。彼女の前に現れて、文句言うとか、ふざけんな」千鶴は涙を浮かべて言った。「じゃあ私に近づかないでよ。勝手にすれば?」「泣くなよ」瑞樹の声が柔らかくなる。「お前がいい子にしてるなら、俺が一生面倒見るから」千鶴は涙を拭き、笑いながら瑞樹の胸に飛び込んだ。「もっといい子になれるよ、あなたが望むなら」「今日の午後、わざわざ時間空けたんだぜ。俺がどうしたいか、お前ならわかってるだろ?」瑞樹の声は掠れていた。千鶴を抱き上げ、そのまま屋敷の奥へと急いで歩いていく。千鶴は振り返り、早絵に向かって勝ち誇ったように笑った。最初から彼女の存在に気づいていたのだ。窓の向こうでは絡み合う影が揺
早絵の診察カードには瑞樹の番号が登録されていて、彼女が診察や薬を受け取った通知は、すべて彼のスマホに届くようになっていた。「早絵、何か言ってくれよ。マジで焦ったんだから」早絵は無言で薬の袋を差し出した。「医者が薬を変えてみろって。次の体外受精、成功率上がるかもしれないって」「無事ならそれでいいよ。ほんと、心臓止まるかと思った」瑞樹は袋を一瞥することもなく、テーブルの上にぽんと置いた。早絵は冷たく笑った。昔はどんな薬でも、瑞樹が一つ一つ説明書を読んで確認していた。副作用があったら大変だと、必死になっていた。「俺には君の代わりに痛みは背負えない。だからせめて、君が俺のために苦しんでるってことだけは忘れちゃいけない」彼はそう言っていた。今、自分で中絶のケア薬を手渡したというのに。彼はそれに目もくれなかった。見慣れない香水の匂いがバラの香りと混じり合い、早絵は吐き気を催した。腹の奥もじわじわと痛み出す。早絵は苦しげに腹を押さえた。「冷えたんじゃない?生理中だろ」瑞樹が身を屈め、腹を温めようと手を伸ばしてきた。早絵はその手を乱暴に振り払った。「その匂い、気持ち悪い」瑞樹は自分の匂いを嗅いで、笑った。「バラの匂いかな。五周年の記念日、ちゃんと準備したくてさ。毎日何度もバラ園行ってるんだよ。今すぐ風呂入って着替えるから」でも、今日彼が言ってたのは「会社に行く」だった。早絵は真実を指摘する気も起きず、ただ薄く返事をした。「うん」瑞樹が出て行ったあと、早絵はスマホを手に取った。この五年間、早絵の交友関係は瑞樹の世界に縛られていた。自分だけの友達なんて、ひとりもいなかった。この先、離れていくとしても、わざわざ報告する相手もいない。唯一の家族である弟、時枝隼人(ときえだ はやと)を除いては。しかし隼人の連絡先を表示したまま、早絵の指はなかなか発信ボタンを押せなかった。隼人は瑞樹をとても信頼していたからこそ、変に揉め事にならないかが不安だった。どうせなら、出発の直前に伝えよう。夜になり、瑞樹は彼女の隣に横たわりながら、そっと腹をさすっていた。「早絵、明日と明後日の仕事、他に回したから。生理の最初の二日が一番つらいだろ?君を一人にしておけないよ」早絵は適当に「うん」とだけ返
早絵は遅くまで眠り、起きたのも遅かった。部屋を出たところで、ちょうど瑞樹が外からドアを開けて入ってきた。「早絵、君が一番好きな店の蒸しエビ餃子、買ってきたよ」瑞樹は自慢げに懐から包みを取り出し、「ずっと温めながら帰ってきたんだ。熱いうちに食べて」以前、瑞樹は何か失敗して早絵を怒らせるたびに、この蒸しエビ餃子を買って機嫌を取ろうとしていた。早絵は別にそこまで好きなわけじゃなかった。つい許してしまうのは、ただ彼を愛していたから。今日のこれは、今度は何の埋め合わせ?他の女と一晩中いちゃついた罪悪感からか?「早絵、出かけるときにメッセージ送ったの見た?いつ起きた?」理由はわからないが、ここ数日の早絵の様子に、瑞樹は妙な不安を感じていた。「見てない。今起きたとこ」早絵は箸を手に取った。もう瑞樹のせいで、自分を粗末に扱うつもりはなかった。彼女の表情に何の変化も見られず、瑞樹はほっと胸を撫で下ろした。「ちょっと仕事片付けてくる。君が食べ終わったら、一緒に散歩行こう」早絵は食事を続けながら、スマホを開いた。千鶴が新しい投稿を上げていた。【彼って本当に甘やかしてくれる。エビ餃子食べたいって言ったら、すぐに買いに行ってくれた】添付された写真のエビ餃子は、今早絵の目の前にあるものと同じ店のものだった。テーブルの向かいに座る瑞樹が、ふっと笑った。その瞬間、投稿に新しいコメントが付いた。瑞樹【わかってくれたなら、それでいい】少しして、瑞樹母もコメントを残した。【甘やかされて当然よ。欲しいものがあったら遠慮なく言いなさい。あんたは功労者なんだから、あの卵も産めない居座り女とは違うわ】瑞樹も、そのコメントをちゃんと見ているはずだった。早絵は顔を上げて瑞樹の反応をうかがった。けれど彼は、穏やかな笑みを浮かべ、目元には優しさすら漂わせていた。早絵は静かに笑い、スマホを操作して瑞樹母の連絡先をすべてブロックした。ずっと、そうしたかった。朝食を食べ終える前に、瑞樹のスマホに瑞樹母からの電話がかかってきた。甲高い声がスマホ越しに響き、瑞樹は眉をひそめて早絵を見た。「母さんが漢方届けたいって言ってるけど、君ブロックしたのか?」「いらない。飲まないから」瑞樹母は、よく得体の知れない民間薬
「ごめん、殴っても罵ってもいいから、泣かないでくれ」瑞樹は彼女を強く抱きしめた。「俺がバカだった。何もかも俺が悪い」早絵はその腕から逃れられず、ただ静かに涙を落とし続けた。でも彼女はもう分かっていた。瑞樹は口を滑らせたんじゃない。最初から全部、彼女に責任をなすりつけたかっただけだった。自分の裏切りを正当化する、都合のいい理由が欲しかっただけ。瑞樹はさらに低姿勢になっていく。「母さんにはちゃんと言うよ。いつかあの人が君を尊重できるようになったら、そのときまた、考えてくれないか?」早絵は泣きながら、うっすら笑った。瑞樹、もうあなたとのこれからなんて存在しない。その後の二日間、瑞樹はずっと家にいて彼女のそばにいた。早絵がほとんど口も利かなくても、彼は自分で台所に立ち、好物をせっせと作っていた。それでも、千鶴のタイムラインにはまた新しい投稿が増えていた。瑞樹が注文したベビー用品が届いた。瑞樹は千鶴のために最高級の産後ケアセンターを予約した。瑞樹が特別に手配された妊婦用の食事も、千鶴の元に届けられた……そのすべての投稿に、瑞樹は「いいね」を押していた。夜、瑞樹が足湯の準備をしてくれているとき、スマホの着信音が鳴った。「義弟から。大口の契約が取れたって、みんなで祝うから一緒に来てくれってさ」スピーカーに切り替えると、隼人の声が響いた。「姉ちゃん、ずっと会ってないし。義兄さんと一緒に来てよ」出発まで、もう残り二日。次に会えるのがいつになるかもわからない。唯一の弟。早絵は断れなかった。「うん、行くよ」隼人は友人たちを呼び、時家の庭でバーベキューをすることになった。早絵たちが到着すると、隼人がすぐに駆け寄ってきた。「姉ちゃん、タバコ嫌いだろ?ちゃんとみんなにしまってもらったよ。俺、気が利くだろ?」その言葉の直後、周りの誰かがツッコミを入れた。「いや、それ瑞樹さんが事前にメッセ送ってたんだろ?なんでお前の手柄になってんの?」「瑞樹さん、早絵さんのことマジで甘やかしてるよな」隼人も笑った。「そりゃ当然っしょ。じゃなきゃ、俺が義兄さんとして認めるわけないし」瑞樹は袖をまくって、早絵の好きな食材を手に取り、網の上に並べ始めた。「いくら手間かけても、俺の嫁なら当然
「義兄さん、姉ちゃんのために牛乳温めに行ったよ。冷たいのダメだってさ。マジで、こんなに気が利く男、他にいないよな」「酒もまだ全部出してないし、ちょうど呼びに行こうと思ってた」早絵の目は赤く染まり、爪が掌に深く食い込んでいた。一体何度嘘をついてきたら、ここまで平然と演じられるようになるんだろう。もう、一秒だってこの場にいたくなかった。「眠くなったから、先に帰る」「じゃあ、義兄さんに送ってもらえば?」早絵はじっと隼人を見つめて言った。「いいよ。彼の邪魔したくないから」隼人は彼女の表情に気圧され、どこか落ち着かずに言った。「じゃあ俺が車手配するよ」車に乗る前、早絵はもう一度だけ、自分が育てた弟の顔を見た。隼人は目を逸らし気味に、「どうしたの、姉ちゃん?」早絵は視線を外し、無言のままドアを閉めた。家に着いたばかりで、瑞樹から電話がかかってきた。「なんで送らせてくれなかったんだよ。こんな時間に一人とか、心配に決まってんだろ」けれどそのとき、千鶴からのメッセージが届いた。【最初ってこのベッドだったんでしょ?あの人、お姉さんって保守的すぎて全然つまんないって言ってたよ】【そりゃ二日間我慢できたわけだ。私、壊れるかと思ったもん】結婚式の夜、瑞樹は彼女の緊張と不安にすぐ気づいた。彼は新居を出て、彼女を連れて時枝家へ戻り、昔の自室に入った。その夜、瑞樹は自分を必死に抑えてまで、早絵の気持ちを最優先にしてくれた。優しくて、大切にしてくれていた。早絵が泣けば、彼も泣いた。「早絵、俺は君を愛してる。絶対に後悔なんてさせない」でも今、彼女は心から後悔していた。電話越しに、瑞樹がまた遠慮がちに彼女の名前を呼んだ。早絵は口元を押さえ、声にならない嗚咽だけが漏れていた。「電波悪いのかな?大丈夫、車は俺が手配したし、到着確認も出てるよ」隼人の声が続く。「義兄さん、あとは千鶴さんのとこ戻ってて。後で俺から姉ちゃんにLINE入れておくから」「お前な、余計なこと言うなよ。バレたら終わりだぞ」隼人は軽く笑った。「姉ちゃんが俺を疑うわけないだろ。それに妊娠できないのは姉ちゃんだし、誰かが産むしかないじゃん?」「隼人!」瑞樹が激怒した。「姉ちゃんにそんな口きくな!」「はいはい、わかったって」
離婚届は最終ページが開かれていて、瑞樹はそれを受け取ると、そのまま迷わず署名した。「中身、確認しなくていいの?」「試験管のプラン変更でしょ?早絵がいいと思うなら、それでいい。全部、君に任せる」彼の背中を見送りながら、早絵はふっと笑みを漏らした。口では全部自分のためって言いながら、結局、何ひとつ見ていない。彼女はテーブルの上に六日間置きっぱなしだった薬を手に取り、静かに飲み下した。腹にそっと手を当てると、喉の奥がひどく痛んで締めつけられた。赤ちゃん、ごめんね。これだけ何度もチャンスを与えたのに、彼は一度もそれを掴まなかった。早絵は荷物をまとめ、一人で病院へ向かった。「妊娠四週、胎児は心拍もあり、発育も順調ですよ。本当に、諦めていいんですか?」「……はい、大丈夫です」「もったいないですね。前回は間違った漢方のせいで胎児が止まり、あれだけ大変な思いをしてようやく授かったのに。次はもっと難しいかもしれませんよ」医師はため息をついた。「前回、流れたのは……あの漢方のせいだったんですか?」早絵は顔を上げ、喉が張りついたように乾ききって、言葉を絞り出した。医師は眉をひそめ、「えっ、加瀬様から聞いてなかったんですか?」そうか、彼は知ってたんだ。耳の奥が、ぶうんと唸るように響いていた。初めて妊娠したとき、瑞樹母は毎週「安胎薬」と称して漢方を届けてきた。その漢方は苦くて渋くて、毎回瑞樹が甘い言葉で誘って飲ませていた。結局、引産で身体を壊し、体外受精に頼るしかなくなった。早絵はずっと、それはただの不運だと思っていた。五年、六回の試験管。そのうち五回は失敗。瑞樹はその間、彼女が罪悪感に潰されるのを黙って見ていただけだった。赤ちゃんがいなくなったのは、彼女が悪くないと言った。でも、本当に彼女のせいじゃなかったと、一度も口にしなかった。「加瀬さん?大丈夫ですか?」医師から差し出されたティッシュを受け取って、初めて自分が泣いていたことに気づいた。「今はちょっとお辛いようですし、少し時間を置いて、また改めて……」「もう、考えることなんてないです」早絵は涙を拭って、静かに、でも強く言った。「お願いします」麻酔薬が体に回り意識が薄れていく中、早絵はぼんやりと医師を見た。「
まさか、本当に彼がそんなことを?でも、現実はそうだった。早絵には信じられなかった。あの内向的で穏やかな結城が、どうしてこれほど多くの浮気誘導プランを練っていたのか。思わず苦笑しながらページをめくっていたそのとき、目がある一行に止まった。【やっぱりやめよう。彼女が悲しむから】早絵の胸が、ふいに一拍跳ねた。「正直ね、最初にこれ見たときは、あなた以上にびっくりしましたわ」加奈子は肩をすくめた。「人は見かけによらないって言うけど、うちでも結城がちょっと変態なんじゃないかって疑ってたんですよ……」早絵は吹き出してしまった。「でも、もうわかってます。あの子、十二年も前からどっぷりなのですよ。私たちも色々手は尽くしましたけど、本人が決めてるんですもん」「早絵さん、この前の朝に電話したとき、ほんとに一緒にいるなんて知らなかったんですから、ごめんなさいね」「こんな弟に育てちゃって、姉としてちょっと申し訳ないですけど、もしよければ、あの子のことちょっとだけでいいですから、許してやってくださいね。少なくとも、嫌いにならないで」早絵は思わず笑ってしまった。結城の姉も、なかなかに面白い人だった。「このノート、二冊とも持ってってもいいですか?」加奈子がうなずくと、早絵はノートを手に取ってその場を後にした。帰り道、早絵は結城にメッセージを送り、会う約束をした。アパート下の薬局の前を通りかかったとき、彼女はふと中に入った。彼女の生理はいつも正確だった。なのに今回は、もう半月も遅れていた。家に戻ると、早絵は妊娠検査薬を手に持ち、洗面所に入った。三分後、結果が出た。二本線、完全に頭が真っ白になった。まるで神様が、傷ついた彼女への贈り物として、奇跡を与えてくれたようだった。チャイムが鳴り、早絵が我に返ってドアを開けると、やはり結城が立っていた。汗だくになった姿からして、彼が全力で駆けつけてきたのは一目瞭然だった。「早絵、君が何を気にしてるのか、わかってる」早絵が口を開く前に、彼は勝手に語り出した。「うちの家族のことは気にしなくていい。みんな君のこときっと好きになる。子どももいらないって、ちゃんと伝えてある」一枚の手術同意書が、彼女の前に差し出された。帰国して二日目に、結城は去勢手術を受けていた。
何気ない一言だったのに、瑞樹の目が赤くなった。「こんなに長く一緒にいたんだよ。一度だけ、許してくれないか?」「いいよ、許してあげる」思いがけない返事に、瑞樹は呆然とした。しかし次の瞬間、その瞳に光が宿る。「ただし、私がこれから他の男と付き合っても受け入れてね。あなたといる間にも、その人にメッセージを送ったり、SNSにいいねしたりするよ」「あなたが寝たら、こっそりその人のもとへ行って、一晩中一緒に過ごすかも」「もしかしたら、その人の子を妊娠するかもしれないし、それを一緒に育ててってお願いするかも」早絵が言葉を重ねるたびに、瑞樹の顔から血の気が引いていった。言葉を聞くだけで、瑞樹の精神は崩れていった。「受け入れられる?」瑞樹は無意識に首を横に振った。「早絵、無理だ、俺には……」「じゃあ、あなたに許す資格なんてないわよね?」「私に愛されたいなら、同じだけの誠実さを返して。そうじゃないなら、あなたにその価値はない」早絵は冷ややかな目で、涙をこらえながら震える彼を見下ろしていた。「瑞樹、あなたは夫にも父親にもなれなかった。せめて、息子としてだけでも、ちゃんと生き直しなよ」「そうじゃなきゃ、軽蔑する」「私たちは離婚した。私は自分の分を正当に受け取った。それに文句があるなら訴えればいい。でも、それ以外で、まだ人としてのプライドが残ってるなら、もう二度と私の前に現れないで」それだけ言い残して、早絵は席を立った。背後では、瑞樹の嗚咽がこだました。だが早絵の足は、一度も止まらなかった。早絵は瑞樹母の連絡先をブロックした。それと同時に、加瀬家という存在が彼女の人生から完全に消えた。かつて「理想の年の差カップル」として話題をさらった二人も、今やすっかり忘れられ、別のゴシップが世間を騒がせていた。早絵は新しい部屋を買い、すぐに暮らし始めた。ようやく、心から落ち着ける場所を手に入れた。それから一ヶ月後、思いもよらぬ人物が、早絵の部屋のドアをノックした。それは結城の姉、有澤加奈子(ありさわ かなこ)だった。早絵は少し緊張しながら彼女を部屋へ招き入れ、お茶を淹れた。「有澤さん、何か誤解されてるかもしれませんが、結城さんとは、もう一ヶ月連絡を取ってないんです」加奈子は、静かにため息をついた。
早絵は赤い唇をきゅっと引き結んだ。エレベーターが開き、結城が数歩先に出たところで振り返った。「どうした?」早絵はスマホをしまって彼の後を追った。予約していた部屋はちょうど向かい合わせだった。早絵は自分の部屋のドアを開けたが、すぐには中に入らなかった。「結城さん」「ちょっと中で話さない?」早絵は振り返って言った。「つまり、付き合ってみない?」結城が呆然とする中で、早絵の心も少しずつ落ち着きを取り戻していた。何か言おうとしたその瞬間、先に結城が口を開いた。「付き合おう」彼は大股で近づいてきて、背後でドアが閉まった。そのまま早絵を壁と自分の体の間に閉じ込めるようにして、いつも冷静な彼の瞳が熱を帯びていた。「続けてもいいか、早絵?」そのかすれた声に、早絵の耳先がほんのり赤く染まった。動揺を隠せなかったけれど、迷いはなかった。「……うん」結城は小さく笑いながら、彼女の頬を包み、そっと唇を重ねた。触れるだけの軽いキスが、次の瞬間には激しく熱を帯びた。すべてが、もう止まらなかった。翌朝、早絵は結城のスマホの着信音で目を覚ました。結城は寝ぼけ眼のまま電話に出て、次第に意識がはっきりしていった。受話器の向こうの声が、早絵の耳にも少し届いていた。それは、結城にお見合いを勧める内容だった。「姉さん、前に言ったよな。僕、見合いはしないって」結城は慌てて通話を切り、早絵を不安そうに見つめた。「うちの家族が僕の結婚にうるさくてさ。何度も見合い話が来たけど、最初の一回だけだよ、騙されて行ったのは。それ以降は全部断ってる。だから、誤解しないで」けれど早絵は、すっかり冷静さを取り戻していた。結城の言葉を、疑ってはいなかった。結城が無条件に自分を想ってくれていることも、ちゃんと信じていた。ただ、もう一度瑞樹母のような人と向き合う勇気は、早絵にはなかった。それに、自分勝手でもいいから、そういうものから距離を置きたかった。人生にはもっと他にも、大切にできるものがある。愛だけがすべてじゃない。「結城さん、やっぱりやめよう」結城の顔から、血の気が引いていった。「ごめん。でももう帰って」早絵は目を伏せながら言った。「私の旅も、そろそろ終わりにしようと思う」その言葉のあと、部
「嫌だ。だって……」「お前が汚く思えるから」瑞樹はその言葉に飛び起き、取り乱したままバスルームへ駆け込み、何度も何度も身体を洗った。皮膚を削ぎ落とす勢いで、ひたすら擦り続けた。目は充血し、唇からは無意識の独り言が漏れていた。「早絵、もう綺麗になったよ。汚れてない。俺、もう汚くないから」「食ったもんも全部吐いた。だからもう、俺を嫌わないで。ちゃんと言ってくる、もう誰にも近づかせない」三十分以上経って、ようやく瑞樹はバスルームから出てきた。その姿を見た瑞樹母は部屋に入ろうとしたが、彼に止められた。「入らないで。早絵は母さんのこと嫌いなんだ。ここは俺がちゃんと守る。もう彼女を悲しませたくない」瑞樹母は諦めたように、その場に座り込んだ。「もう止められないわね。だったらせめて、ここで一緒にいるよ。あんたがそんな顔してたら、私だってつらいのよ」「瑞樹、そんなふうになるくらいなら、いっそ殺された方がマシよ。どうしたら諦められるの?」瑞樹は長いこと黙り込んだ。「母さん、俺は彼女に会いたい」「もし本当に俺を捨てるとしても、本人の口からそれを聞きたい。それじゃなきゃ、諦められないんだ」瑞樹母は喉がつまって、言葉が出なかった。けど、もし会えたとして、本当に彼は手放せるのだろうか?「……わかった、手伝う。でも、こんなふうに早絵に会いに行くのはやめなさい。下に行って、何か作ってくるから。ね?」早絵の名が出たことで、瑞樹の表情がようやく緩んだ。「……うん」海の向こう側。「こっち」デコボコの小道で、結城が手を差し伸べた。「気をつけて」早絵はほんの数秒ためらったあと、そっとその手を取った。結城と一緒に旅をするようになってから、最初のうちは自分で組んだ旅程通りに動いていた。でもいつの間にか、それもやめて彼に任せるようになった。彼女の計画にあった場所は、まるで全部、結城が既に行ったことがあるかのようだった。ガイドに載っている有名なスポットには、結城が自然と案内してくれる。価値がないと思われる場所は、代わりの候補を結城もちゃんと持っていた。しかも、その代案はいつも、なぜか早絵の好みにぴったり合っていた。路地裏の果実酒専門店に着いたところで、結城はそっと彼女の手を離した。「ここの果実
「あなた忘れたの?私は何度もチャンスをあげたよね」「それを全部、あなたが自分で逃しただけ」瑞樹の声が震えていた。「早絵、俺本当に悪かった」「だから何?」早絵は鼻で笑った。「二人の子ども、生き返らせられる?芳野と寝たこと、なかったことにできるの?」「出てったあの日から、一度も振り返ったことなんかない」「瑞樹、あなたのこと、汚いって思ってる」早絵は瑞樹母に目を向けた。「五分経った。これで失礼するわ」「やだ……行かないで。早絵ちゃん、俺たちあんなに長く一緒にいたのに、そんな……」早絵はドアの向こうに出ていった。嗚咽まじりの懇願の声だけが、部屋の中に置き去りにされた。瑞樹母はため息をついた。「瑞樹、彼女はもう行っちゃったよ」その言葉は、まるで死刑宣告のように響いた。瑞樹の瞳からは光が消えた。だが次の瞬間、突然ドアへと飛び出した。引きちぎった点滴の針から血が飛び散ったが、痛みすら感じていない様子だった。けれど、すでに限界を越えていた瑞樹の体は、数歩も進まないうちに崩れ落ち、そのまま意識を失った。目を覚ました瑞樹は、周囲の制止を無視して退院し、再び赤ちゃんの部屋に閉じこもった。何も口にせず、ただそこにある物たちをじっと見つめながら。夜になって、部屋のドアが突然開いた。「出てけ……」顔を上げたその瞬間、瑞樹は飛びかかった。失ったものを取り戻せたという歓喜が、すべてを覆い尽くした。彼は女を力いっぱい抱きしめた。「早絵、許してくれたんだよな?知ってる?ずっと君を探してた。毎回ほんの少しの差で、どうしても見つけられなかったんだ」「蒸しエビ餃子買ってきたんだ。一緒に食べよう。な?」女は蒸し餃子を取り出し、彼の口元に差し出した。瑞樹は無意識のまま口を開け、彼女は二つ目を差し出す。「もっと食べて。そんな姿、見てられないよ」瑞樹は呆然と、彼女を見つめた。本当に、そっくりだった。千鶴よりも、もっと早絵に似ていた。「中に入って、一緒に食べてもいい?」彼女が一歩踏み出したその瞬間、瑞樹は狂ったように彼女の腕をつかみ、無理やり外へ引きずり出した。「きゃっ!」女の子は恐怖で何度も悲鳴を上げた。「出てけ!今すぐ出てけ!」「瑞樹、やめなさい!」駆けつけた瑞樹母が慌てて間に入
電話の向こうは、静まり返っていた。瑞樹の声はどこまでも弱々しく、慎重になっていた。「俺が悪かった。騙すなんて最低だった。芳野とはもう終わってる。あいつの子どももいなくなった」「早絵、頼む、今回だけ許してくれ。本当に君がいないとダメなんだ。戻ってきてくれるなら、なんでもする」それでも返事はなかった。「早絵、やめないで、お願い……」瑞樹の声は震えていた。言い終わる前に、通話は切れた。慌ててかけ直そうとしたが、すでにブロックされていた。底なしの絶望が瑞樹を包み込み、息すらまともにできなかった。ちょうどそのとき、瑞樹母から電話がかかってきた。「母さん……お願いだ。早絵を見つけてくれ。もう……どうしていいかわからない。電話すら出てくれないんだ」瑞樹母は、喉の奥で何かがつかえるように感じていた。あれほどプライドの高い瑞樹が、自分に泣きついてくるなんて。追い詰められてなければ、ありえないことだった。「もう、やめにしない?母さんからもお願い。戻ってきて、新しい人生をやり直そう。全部忘れて」「無理なんだ。どうしても忘れられないんだ」しばらくの間、電話の中には沈黙しかなかった。抑えきれず嗚咽する瑞樹の声を聞きながら、母の目にも涙が滲んだ。あのとき、自分が余計なことさえしなければ、今ごろはどれだけ幸せだったか。瑞樹と早絵は、きっと誰よりも幸せな夫婦になっていたはず。孫も、もう四歳になっていたかもしれない。「母さんがもう一度探してみるね」だけど、人混みの中でたった一人を見つけるのはあまりにも難しい。ましてや、早絵自身が見つかりたくないと思っているのなら。さらに一ヶ月が過ぎた。何度もすれ違いを繰り返し、瑞樹の体調は目に見えて悪化し、ついには入院するまでになった。早絵は「興味なし」の設定を何度も繰り返し、今ではスマホに瑞樹関連のニュースは一切出てこなかった。彼女は旅に没頭し、結城と共にさらに二つの国を巡った。夜になり、次の目的地へ向かうために荷物をまとめていると、ドアがノックされた。そこに立っていたのは、やつれきった表情の瑞樹母だった。早絵の笑みが静かに消えた。「瑞樹、今病院にいるの。あんたがここにいるって知られたら、あの子また無茶するから……」瑞樹母は苦笑いした。「少しだけ
けれど瑞樹の目に映ったのは、キャリーケースを引く無数の背中だけだった。彼は視線を落とし、スマホの中の写真を見せながら人に声をかけて回った。異国の空港で、彼は周囲の目も気にせず「早絵」と何度も叫び続けた。空港中をほとんど駆け回って、ようやく手がかりを得た。「彼女、三十分前にはここに座ってたよ。もう飛行機、出ちゃった」「あなたが入ってきたとき、彼女こっち見てたよ。ほんとに知り合い?だったら、さっき名前呼ばれてたのに、どうして無視したんだろうね」瑞樹はその場で立ち尽くした。たったの三十分。それだけだったのに。もうすぐ会えるはずだったのに。あとほんの少しだったのに。瑞樹が全身汗だくだったのに、心だけは氷の中に落とされたみたいだった。彼女はきっと見ていた。自分が間抜けみたいに走り回ってる姿を。それでも彼女は、一歩も近づいてこなかった。そのとき瑞樹は、はっきりと悟った。あの手がかりは、彼女がくれたチャンスなんかじゃなかった。彼女はもう、自分なんて必要としていなかった。「ケンカ中?よっぽどのことやらかしたんだね」呆然とする瑞樹の姿を見て、旅人の一人が少し気の毒そうに声をかけた。「でも女の子って意外と優しいよ。もうちょっと頑張れば、戻ってきてくれるかも」けど、彼女はもう甘くない。瑞樹の喉はひどく乾いていた。「ありがとう。彼女は俺の嫁だ。絶対、連れ戻す」翌日。飛行機が着陸し、早絵がスマホの電源を入れた瞬間、またしても瑞樹の名前がトレンド入りしていた。【加瀬瑞樹、千里の果てまで追っても妻に会えず】トップに固定された写真には、早絵の後ろ姿と瑞樹の姿が一緒に写っていた。早絵の目が一瞬冷たくなった。「興味なし」を再設定して、スマホの画面を閉じた。本当にうんざりだった。もうきっぱり終わりにしたはずなのに、彼はしつこく食い下がってくる。スーツケースを引いて空港の出口に向かう途中、早絵はなぜか無意識に振り返ってしまった。そこに結城の姿はなかった。早絵は思わず自分の額を軽く叩いた。何を期待してるんだ、自分。そんなはずないのに。目を逸らし、振り返ることなく、空港をあとにした。ここには七日間滞在するつもりだった。ガイドを見ながらこの街のあちこちを巡っているうちに、あっという
飛行機が着陸した。あのレストランに向かう道中、瑞樹の胸の高鳴りは、時間とともにどんどん強くなっていった。レストランの入口に立った瞬間、彼は不意に怖くなった。もう三ヶ月も経った。きっと彼女も、自分の謝罪や誓いを見てくれただろう。怒りも少しは収まってるはずだ。今までは曖昧な噂しか手に入らなかった。写真と正確な場所を得たのは、今回が初めてだった。許してくれたから、こうして会うチャンスをくれたんだよな?きっとそうだ。あれだけ長く愛し合ってきたんだ。彼女は誰よりも優しい。自分を見捨てたりなんか、しない。瑞樹は早絵のあの時の冷たく突き放す態度を思い返すのが怖くて、何度も何度も自分に言い聞かせていた。それから、大事そうに海を越えて持ってきたエビ蒸し餃子の箱を抱えたまま中に入り、店主に写真を見せた。早絵は民宿の食事券で昼を済ませたらしい。瑞樹は金でその食事券を買い取り、急いでその民宿へ向かった。その民宿は、地元の雰囲気にあふれていた。入口には手作りのビーズカーテンが揺れ、午後の淡い陽射しの中、床にロマンチックな光の輪を描いていた。瑞樹はようやく思い出した。結婚前、早絵が「いろんな場所を巡ってみたい」と話していたことを。自分も「週末とか休みが取れたら、一緒に行こう」とそう言っていたのに。なのに、一度たりとも、実現してやれなかった。大丈夫。これからの人生で、その分を全部返していけばいい。一度民宿の中に入った瑞樹だったが、すぐに踵を返し、向かいの花屋で紫のバラを一束選んだ。彼は、早絵に伝えたいことが山ほどあった。その中でも一番大事なのは、もう二度と彼女の好きな色を間違えたりしないってこと。階上に上がってから、ようやく瑞樹は抱えていた蒸し餃子を取り出した。ドアは半開きで、彼は抑えきれずに駆け寄った。「早絵、君の好きな蒸しエビ餃子、持ってきた。道中で冷めちゃったけど、帰ったら一緒に温かいやつ食べに行こうな?」返事はなかった。「早絵ちゃん、今すぐ許してなんて言わない。俺のこと、ちゃんと見ててくれたらいい。君がまた一緒にいてくれるまで、ずっと待ってる」それでも、沈黙は続いた。瑞樹は喉がからからになり、震える手でそっとドアを開けた。部屋の中では清掃員が片づけをしていた。誰がどう見ても、す
早絵には幼い頃から旅に出たいという夢があった。両親の突然の死によって、その夢は十九年間も封印されたままだった。皮肉なことに、それを拾い直せたのは、すべてを捨ててからだった。出発して最初の一ヶ月、彼女はかつて憧れていた街で静かに体を癒やした。そして偶然にも、大学時代の先輩である有澤結城(ありさわ ゆうき)と再会した。土地勘もなく、体調も万全ではなかった彼女にとって、結城の助けは大きかった。早絵は人の感情には敏感だった。結城の視線に友情以上の想いが混じっていることに気づいたとき、彼女は迷わず次の街へ向かった。五年間の結婚生活も、すべてが無駄だったわけじゃない。少なくとも今の早絵は、金銭に悩む必要がなかった。瑞樹が毎日ネットに載せている謝罪の言葉。彼女が見なくても、旅先では必ず誰かが話題にしてくる。食事中、隣の席の二人組の女性がまた彼の話を始めた。「今の加瀬社長、自分の失敗も全部ネットに晒して、批判されるままにしてるよね」「不倫はもちろんダメだけど、なんかちょっとわかる気もするんだよね」「あのとき奥さんが流産して中絶したのは、彼の故意じゃなくて、ただの不運だったんでしょ子どもが欲しいって思うのは普通のことだし、しかも家族のプレッシャーも相当だったみたいだしね。それ以外のところでは、本当に奥さんにすごく優しかったんだよね」「正直バレたのが一番の問題でしょ。バレなきゃ奥さんは今もずっと幸せでいられたかもしれないのに」「私は、奥さんがいずれ許す気がするな。だって加瀬さん以上に彼女を大事にしてくれる人なんて、そうそう見つからないでしょ」……早絵はその会話を最後まで聞きながら、麺の最後の一口を静かに啜った。立ち上がったとき、ちょうどその二人と目が合った。二人は何か言いかけたが、言葉にできなかった。早絵は微笑んで言った。「安心して、私の心はもう十分に強くなってるから」そう言い残して、彼女は会計を済ませて店を出た。別に、瑞樹に完璧な愛を求めていたわけじゃない。ただ、瑞樹が誓った言葉を、彼女はたまたま信じてしまっただけ。それが守れないなら、もういらない。彼女は子どもを諦め、携帯を置き、離婚届まで送った。一切の余地を残さず立ち去ったのに、それでも誰かは「彼女はきっと戻ってくる」と思っている。