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第6話

作者: 黒澤心毒
「ごめん、殴っても罵ってもいいから、泣かないでくれ」

瑞樹は彼女を強く抱きしめた。

「俺がバカだった。何もかも俺が悪い」

早絵はその腕から逃れられず、ただ静かに涙を落とし続けた。

でも彼女はもう分かっていた。

瑞樹は口を滑らせたんじゃない。最初から全部、彼女に責任をなすりつけたかっただけだった。

自分の裏切りを正当化する、都合のいい理由が欲しかっただけ。

瑞樹はさらに低姿勢になっていく。

「母さんにはちゃんと言うよ。いつかあの人が君を尊重できるようになったら、そのときまた、考えてくれないか?」

早絵は泣きながら、うっすら笑った。

瑞樹、もうあなたとのこれからなんて存在しない。

その後の二日間、瑞樹はずっと家にいて彼女のそばにいた。

早絵がほとんど口も利かなくても、彼は自分で台所に立ち、好物をせっせと作っていた。

それでも、千鶴のタイムラインにはまた新しい投稿が増えていた。

瑞樹が注文したベビー用品が届いた。

瑞樹は千鶴のために最高級の産後ケアセンターを予約した。

瑞樹が特別に手配された妊婦用の食事も、千鶴の元に届けられた……

そのすべての投稿に、瑞樹は「いいね」を押していた。

夜、瑞樹が足湯の準備をしてくれているとき、スマホの着信音が鳴った。

「義弟から。大口の契約が取れたって、みんなで祝うから一緒に来てくれってさ」

スピーカーに切り替えると、隼人の声が響いた。

「姉ちゃん、ずっと会ってないし。義兄さんと一緒に来てよ」

出発まで、もう残り二日。次に会えるのがいつになるかもわからない。

唯一の弟。早絵は断れなかった。

「うん、行くよ」

隼人は友人たちを呼び、時家の庭でバーベキューをすることになった。

早絵たちが到着すると、隼人がすぐに駆け寄ってきた。

「姉ちゃん、タバコ嫌いだろ?ちゃんとみんなにしまってもらったよ。俺、気が利くだろ?」

その言葉の直後、周りの誰かがツッコミを入れた。

「いや、それ瑞樹さんが事前にメッセ送ってたんだろ?なんでお前の手柄になってんの?」

「瑞樹さん、早絵さんのことマジで甘やかしてるよな」

隼人も笑った。「そりゃ当然っしょ。じゃなきゃ、俺が義兄さんとして認めるわけないし」

瑞樹は袖をまくって、早絵の好きな食材を手に取り、網の上に並べ始めた。

「いくら手間かけても、俺の嫁なら当然だろ」

「早絵、こっち座れ。煙が来ない場所にしてある」

「食べたいのあったら言って。俺が焼くからな」

早絵は黙ったまま、ひと言も返さず、付き合う気も起きなかった。

隼人が突然声を上げた。「義兄さん、酒切れたから、地下の倉庫から一緒に持ってこようぜ」

瑞樹は早絵の頭を撫でて、「待っててな。すぐ戻るから」

ふたりが出ていった直後、千鶴から現在地の共有が送られてきた。

千鶴もまさか時枝家に来ているなんて。

早絵の胸がぎゅっと締めつけられた。隼人が感情的になったらまずいと、すぐに立ち上がって後を追った。

だが、想像していたような修羅場はなかった。そこにいたのは、三人で仲良く談笑している姿だった。

千鶴は瑞樹の指に自分の指を絡めて、「あなたの息子がさ、さっきからずっと蹴ってるの。パパに会いたいんだって」

「義兄さん、ふたりで話してて。俺、酒運んでくるから」隼人は意味ありげに笑い、場を離れた。

隼人がいなくなると同時に、瑞樹は千鶴を引き寄せた。

「俺に会いたかったの、息子だけかよ?」

「そんなの、わかってて聞いてるくせに」

瑞樹は笑いながら、千鶴にキスを重ねつつ部屋の中へ入っていった。

ふたりが入っていったのは、早絵が嫁ぐまで使っていた、あの部屋だった。

早絵の体から一気に血の気が引き、思わずその場によろめいた。

両親が事故で亡くなったとき、早絵はまだ十三歳だった。

学校に通いながら、弟の隼人を養うためにいくつもバイトを掛け持ちしてきた。どんなに汚れて、どんなにきつい仕事でも、彼女は選ばなかった。

結婚の日、隼人は彼女の手を引いて送り出しながら、息も絶え絶えになるほど泣いていた。

「姉ちゃん、加瀬がもし姉ちゃんを泣かせたら、いつでも帰ってこいよ。姉ちゃんの部屋、ずっと空けて待ってるから」

それなのに今。

一番大切だったふたりに、背中を深く突き刺された。

気づけば、早絵は庭に戻っていた。隼人がちょうど酒を運び出してきたところだった。

視線が交わった瞬間、早絵は口元だけで笑ってみせた。

「彼はどこ?」

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    「嫌だ。だって……」「お前が汚く思えるから」瑞樹はその言葉に飛び起き、取り乱したままバスルームへ駆け込み、何度も何度も身体を洗った。皮膚を削ぎ落とす勢いで、ひたすら擦り続けた。目は充血し、唇からは無意識の独り言が漏れていた。「早絵、もう綺麗になったよ。汚れてない。俺、もう汚くないから」「食ったもんも全部吐いた。だからもう、俺を嫌わないで。ちゃんと言ってくる、もう誰にも近づかせない」三十分以上経って、ようやく瑞樹はバスルームから出てきた。その姿を見た瑞樹母は部屋に入ろうとしたが、彼に止められた。「入らないで。早絵は母さんのこと嫌いなんだ。ここは俺がちゃんと守る。もう彼女を悲しませたくない」瑞樹母は諦めたように、その場に座り込んだ。「もう止められないわね。だったらせめて、ここで一緒にいるよ。あんたがそんな顔してたら、私だってつらいのよ」「瑞樹、そんなふうになるくらいなら、いっそ殺された方がマシよ。どうしたら諦められるの?」瑞樹は長いこと黙り込んだ。「母さん、俺は彼女に会いたい」「もし本当に俺を捨てるとしても、本人の口からそれを聞きたい。それじゃなきゃ、諦められないんだ」瑞樹母は喉がつまって、言葉が出なかった。けど、もし会えたとして、本当に彼は手放せるのだろうか?「……わかった、手伝う。でも、こんなふうに早絵に会いに行くのはやめなさい。下に行って、何か作ってくるから。ね?」早絵の名が出たことで、瑞樹の表情がようやく緩んだ。「……うん」海の向こう側。「こっち」デコボコの小道で、結城が手を差し伸べた。「気をつけて」早絵はほんの数秒ためらったあと、そっとその手を取った。結城と一緒に旅をするようになってから、最初のうちは自分で組んだ旅程通りに動いていた。でもいつの間にか、それもやめて彼に任せるようになった。彼女の計画にあった場所は、まるで全部、結城が既に行ったことがあるかのようだった。ガイドに載っている有名なスポットには、結城が自然と案内してくれる。価値がないと思われる場所は、代わりの候補を結城もちゃんと持っていた。しかも、その代案はいつも、なぜか早絵の好みにぴったり合っていた。路地裏の果実酒専門店に着いたところで、結城はそっと彼女の手を離した。「ここの果実

  • 冬空に燃え尽きた恋   第25話

    「あなた忘れたの?私は何度もチャンスをあげたよね」「それを全部、あなたが自分で逃しただけ」瑞樹の声が震えていた。「早絵、俺本当に悪かった」「だから何?」早絵は鼻で笑った。「二人の子ども、生き返らせられる?芳野と寝たこと、なかったことにできるの?」「出てったあの日から、一度も振り返ったことなんかない」「瑞樹、あなたのこと、汚いって思ってる」早絵は瑞樹母に目を向けた。「五分経った。これで失礼するわ」「やだ……行かないで。早絵ちゃん、俺たちあんなに長く一緒にいたのに、そんな……」早絵はドアの向こうに出ていった。嗚咽まじりの懇願の声だけが、部屋の中に置き去りにされた。瑞樹母はため息をついた。「瑞樹、彼女はもう行っちゃったよ」その言葉は、まるで死刑宣告のように響いた。瑞樹の瞳からは光が消えた。だが次の瞬間、突然ドアへと飛び出した。引きちぎった点滴の針から血が飛び散ったが、痛みすら感じていない様子だった。けれど、すでに限界を越えていた瑞樹の体は、数歩も進まないうちに崩れ落ち、そのまま意識を失った。目を覚ました瑞樹は、周囲の制止を無視して退院し、再び赤ちゃんの部屋に閉じこもった。何も口にせず、ただそこにある物たちをじっと見つめながら。夜になって、部屋のドアが突然開いた。「出てけ……」顔を上げたその瞬間、瑞樹は飛びかかった。失ったものを取り戻せたという歓喜が、すべてを覆い尽くした。彼は女を力いっぱい抱きしめた。「早絵、許してくれたんだよな?知ってる?ずっと君を探してた。毎回ほんの少しの差で、どうしても見つけられなかったんだ」「蒸しエビ餃子買ってきたんだ。一緒に食べよう。な?」女は蒸し餃子を取り出し、彼の口元に差し出した。瑞樹は無意識のまま口を開け、彼女は二つ目を差し出す。「もっと食べて。そんな姿、見てられないよ」瑞樹は呆然と、彼女を見つめた。本当に、そっくりだった。千鶴よりも、もっと早絵に似ていた。「中に入って、一緒に食べてもいい?」彼女が一歩踏み出したその瞬間、瑞樹は狂ったように彼女の腕をつかみ、無理やり外へ引きずり出した。「きゃっ!」女の子は恐怖で何度も悲鳴を上げた。「出てけ!今すぐ出てけ!」「瑞樹、やめなさい!」駆けつけた瑞樹母が慌てて間に入

  • 冬空に燃え尽きた恋   第24話

    電話の向こうは、静まり返っていた。瑞樹の声はどこまでも弱々しく、慎重になっていた。「俺が悪かった。騙すなんて最低だった。芳野とはもう終わってる。あいつの子どももいなくなった」「早絵、頼む、今回だけ許してくれ。本当に君がいないとダメなんだ。戻ってきてくれるなら、なんでもする」それでも返事はなかった。「早絵、やめないで、お願い……」瑞樹の声は震えていた。言い終わる前に、通話は切れた。慌ててかけ直そうとしたが、すでにブロックされていた。底なしの絶望が瑞樹を包み込み、息すらまともにできなかった。ちょうどそのとき、瑞樹母から電話がかかってきた。「母さん……お願いだ。早絵を見つけてくれ。もう……どうしていいかわからない。電話すら出てくれないんだ」瑞樹母は、喉の奥で何かがつかえるように感じていた。あれほどプライドの高い瑞樹が、自分に泣きついてくるなんて。追い詰められてなければ、ありえないことだった。「もう、やめにしない?母さんからもお願い。戻ってきて、新しい人生をやり直そう。全部忘れて」「無理なんだ。どうしても忘れられないんだ」しばらくの間、電話の中には沈黙しかなかった。抑えきれず嗚咽する瑞樹の声を聞きながら、母の目にも涙が滲んだ。あのとき、自分が余計なことさえしなければ、今ごろはどれだけ幸せだったか。瑞樹と早絵は、きっと誰よりも幸せな夫婦になっていたはず。孫も、もう四歳になっていたかもしれない。「母さんがもう一度探してみるね」だけど、人混みの中でたった一人を見つけるのはあまりにも難しい。ましてや、早絵自身が見つかりたくないと思っているのなら。さらに一ヶ月が過ぎた。何度もすれ違いを繰り返し、瑞樹の体調は目に見えて悪化し、ついには入院するまでになった。早絵は「興味なし」の設定を何度も繰り返し、今ではスマホに瑞樹関連のニュースは一切出てこなかった。彼女は旅に没頭し、結城と共にさらに二つの国を巡った。夜になり、次の目的地へ向かうために荷物をまとめていると、ドアがノックされた。そこに立っていたのは、やつれきった表情の瑞樹母だった。早絵の笑みが静かに消えた。「瑞樹、今病院にいるの。あんたがここにいるって知られたら、あの子また無茶するから……」瑞樹母は苦笑いした。「少しだけ

  • 冬空に燃え尽きた恋   第23話

    けれど瑞樹の目に映ったのは、キャリーケースを引く無数の背中だけだった。彼は視線を落とし、スマホの中の写真を見せながら人に声をかけて回った。異国の空港で、彼は周囲の目も気にせず「早絵」と何度も叫び続けた。空港中をほとんど駆け回って、ようやく手がかりを得た。「彼女、三十分前にはここに座ってたよ。もう飛行機、出ちゃった」「あなたが入ってきたとき、彼女こっち見てたよ。ほんとに知り合い?だったら、さっき名前呼ばれてたのに、どうして無視したんだろうね」瑞樹はその場で立ち尽くした。たったの三十分。それだけだったのに。もうすぐ会えるはずだったのに。あとほんの少しだったのに。瑞樹が全身汗だくだったのに、心だけは氷の中に落とされたみたいだった。彼女はきっと見ていた。自分が間抜けみたいに走り回ってる姿を。それでも彼女は、一歩も近づいてこなかった。そのとき瑞樹は、はっきりと悟った。あの手がかりは、彼女がくれたチャンスなんかじゃなかった。彼女はもう、自分なんて必要としていなかった。「ケンカ中?よっぽどのことやらかしたんだね」呆然とする瑞樹の姿を見て、旅人の一人が少し気の毒そうに声をかけた。「でも女の子って意外と優しいよ。もうちょっと頑張れば、戻ってきてくれるかも」けど、彼女はもう甘くない。瑞樹の喉はひどく乾いていた。「ありがとう。彼女は俺の嫁だ。絶対、連れ戻す」翌日。飛行機が着陸し、早絵がスマホの電源を入れた瞬間、またしても瑞樹の名前がトレンド入りしていた。【加瀬瑞樹、千里の果てまで追っても妻に会えず】トップに固定された写真には、早絵の後ろ姿と瑞樹の姿が一緒に写っていた。早絵の目が一瞬冷たくなった。「興味なし」を再設定して、スマホの画面を閉じた。本当にうんざりだった。もうきっぱり終わりにしたはずなのに、彼はしつこく食い下がってくる。スーツケースを引いて空港の出口に向かう途中、早絵はなぜか無意識に振り返ってしまった。そこに結城の姿はなかった。早絵は思わず自分の額を軽く叩いた。何を期待してるんだ、自分。そんなはずないのに。目を逸らし、振り返ることなく、空港をあとにした。ここには七日間滞在するつもりだった。ガイドを見ながらこの街のあちこちを巡っているうちに、あっという

  • 冬空に燃え尽きた恋   第22話

    飛行機が着陸した。あのレストランに向かう道中、瑞樹の胸の高鳴りは、時間とともにどんどん強くなっていった。レストランの入口に立った瞬間、彼は不意に怖くなった。もう三ヶ月も経った。きっと彼女も、自分の謝罪や誓いを見てくれただろう。怒りも少しは収まってるはずだ。今までは曖昧な噂しか手に入らなかった。写真と正確な場所を得たのは、今回が初めてだった。許してくれたから、こうして会うチャンスをくれたんだよな?きっとそうだ。あれだけ長く愛し合ってきたんだ。彼女は誰よりも優しい。自分を見捨てたりなんか、しない。瑞樹は早絵のあの時の冷たく突き放す態度を思い返すのが怖くて、何度も何度も自分に言い聞かせていた。それから、大事そうに海を越えて持ってきたエビ蒸し餃子の箱を抱えたまま中に入り、店主に写真を見せた。早絵は民宿の食事券で昼を済ませたらしい。瑞樹は金でその食事券を買い取り、急いでその民宿へ向かった。その民宿は、地元の雰囲気にあふれていた。入口には手作りのビーズカーテンが揺れ、午後の淡い陽射しの中、床にロマンチックな光の輪を描いていた。瑞樹はようやく思い出した。結婚前、早絵が「いろんな場所を巡ってみたい」と話していたことを。自分も「週末とか休みが取れたら、一緒に行こう」とそう言っていたのに。なのに、一度たりとも、実現してやれなかった。大丈夫。これからの人生で、その分を全部返していけばいい。一度民宿の中に入った瑞樹だったが、すぐに踵を返し、向かいの花屋で紫のバラを一束選んだ。彼は、早絵に伝えたいことが山ほどあった。その中でも一番大事なのは、もう二度と彼女の好きな色を間違えたりしないってこと。階上に上がってから、ようやく瑞樹は抱えていた蒸し餃子を取り出した。ドアは半開きで、彼は抑えきれずに駆け寄った。「早絵、君の好きな蒸しエビ餃子、持ってきた。道中で冷めちゃったけど、帰ったら一緒に温かいやつ食べに行こうな?」返事はなかった。「早絵ちゃん、今すぐ許してなんて言わない。俺のこと、ちゃんと見ててくれたらいい。君がまた一緒にいてくれるまで、ずっと待ってる」それでも、沈黙は続いた。瑞樹は喉がからからになり、震える手でそっとドアを開けた。部屋の中では清掃員が片づけをしていた。誰がどう見ても、す

  • 冬空に燃え尽きた恋   第21話

    早絵には幼い頃から旅に出たいという夢があった。両親の突然の死によって、その夢は十九年間も封印されたままだった。皮肉なことに、それを拾い直せたのは、すべてを捨ててからだった。出発して最初の一ヶ月、彼女はかつて憧れていた街で静かに体を癒やした。そして偶然にも、大学時代の先輩である有澤結城(ありさわ ゆうき)と再会した。土地勘もなく、体調も万全ではなかった彼女にとって、結城の助けは大きかった。早絵は人の感情には敏感だった。結城の視線に友情以上の想いが混じっていることに気づいたとき、彼女は迷わず次の街へ向かった。五年間の結婚生活も、すべてが無駄だったわけじゃない。少なくとも今の早絵は、金銭に悩む必要がなかった。瑞樹が毎日ネットに載せている謝罪の言葉。彼女が見なくても、旅先では必ず誰かが話題にしてくる。食事中、隣の席の二人組の女性がまた彼の話を始めた。「今の加瀬社長、自分の失敗も全部ネットに晒して、批判されるままにしてるよね」「不倫はもちろんダメだけど、なんかちょっとわかる気もするんだよね」「あのとき奥さんが流産して中絶したのは、彼の故意じゃなくて、ただの不運だったんでしょ子どもが欲しいって思うのは普通のことだし、しかも家族のプレッシャーも相当だったみたいだしね。それ以外のところでは、本当に奥さんにすごく優しかったんだよね」「正直バレたのが一番の問題でしょ。バレなきゃ奥さんは今もずっと幸せでいられたかもしれないのに」「私は、奥さんがいずれ許す気がするな。だって加瀬さん以上に彼女を大事にしてくれる人なんて、そうそう見つからないでしょ」……早絵はその会話を最後まで聞きながら、麺の最後の一口を静かに啜った。立ち上がったとき、ちょうどその二人と目が合った。二人は何か言いかけたが、言葉にできなかった。早絵は微笑んで言った。「安心して、私の心はもう十分に強くなってるから」そう言い残して、彼女は会計を済ませて店を出た。別に、瑞樹に完璧な愛を求めていたわけじゃない。ただ、瑞樹が誓った言葉を、彼女はたまたま信じてしまっただけ。それが守れないなら、もういらない。彼女は子どもを諦め、携帯を置き、離婚届まで送った。一切の余地を残さず立ち去ったのに、それでも誰かは「彼女はきっと戻ってくる」と思っている。

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