そう言って、楓はため息をついた。「でも残念なことに、凌一さんが星来くんを橘家で育てている以上、彼が橘家にいる限り、あなたは唯一のお孫様ではなくなってしまうわね」楓の言葉に、悠斗は思い出した。確かにおじいちゃまもひいおじいちゃまも、星来くんの方をより気にかけているような気がする。瑛優には許されない自分の個人レッスンに、星来くんだけは参加を認められている。口の利けない子と一緒にレッスンを受けるなんて、まるで侮辱じゃないか!悠斗の胸の中で怒りが膨らみ、小さな拳を握りしめた。「星来くんなんて大嫌い!」昼食が終わると、先生から新しい課題が発表された。パパたちはテント設営に残り、ママたちは子供と一緒に、小さな森でキノコの採取と宝物のコインを探すミッションに向かうことになった。もちろん、これらのキノコは、すべて施設のスタッフが芝生や茂みに事前に配置したものだ。子供たちはスタート地点で、様々な種類のキノコの形を覚える。カードに描かれた図案通りのキノコを森の中で見つければ見つけるほど、高得点が獲得できる仕組みだ。その途中で、先生方が隠しておいた金貨も見つかるはずだった。その金貨はポイントに交換でき、さらに様々な景品と交換できるという。瑛優は他の子供たちと一緒にホワイトボードの前に立ち、みんなでワイワイとキノコの名前と形を覚えていく。「アンズタケに、クロカワ、ヤマドリタケ……」瑛優は目を閉じ、もう一度思い出そうとする。「アンズ……なんだっけ?キノコ鍋、美味しいよね!」キノコ鍋の味を思い出してしまい、さっき覚えたキノコの名前がすっかり頭から抜けてしまった。「星来くん、いくつ覚えた?」星来が両手で数字を示すと、瑛優は思わず息を呑んだ。「え?64個も!?全部覚えちゃったの?!」星来が小さく頷く。瑛優は夕月の方を向いた。「ママ、星来くんと一緒にキノコ探しに行ってきて。私はおじちゃんとテント作りするから」キノコの名前を覚えるより、体を動かす方が瑛優は断然好きだった。夕月は子供がキノコを何種類覚えられるかなんて気にしていなかったが、瑛優が既に決めたことなので、その選択を尊重することにした。夕月は星来に手を差し出した。「星来くん、私と一緒に冒険に行ってくれる?」星来は下唇を軽く噛み、まるで小さな子ウサギの
次の瞬間、楓の笑みは凍りついた。マフラーを掴まれた楓は、夕月の落下する重みに引きずられ、共に転がり落ちる。「くっ……!」楓は叫び声を上げようとしたが、声にならない。夕月の冷徹な眸に射抜かれ、楓の全身が総毛立った。一緒に地獄へ落ちろ!「がっ……!」楓の悲鳴は首に絡まったマフラーに掻き消された。夕月に引きずられ斜面を転がり落ちる楓の体は、地面に叩きつけられ、何度も回転を繰り返した。地面との衝突と摩擦で、楓は皮膚が削り取られるような痛みを感じた。四方八方から襲い掛かる鈍痛よりも、夕月に掴まれたマフラーが首を締め付け、楓は息が出来なくなっていた。口を大きく開いた楓の顔が、肝臓のような紫色に変わっていく。最後に夕月の手からマフラーが滑り落ち、その手のひらには布地との摩擦で皮が剥けていた。夕月は星来を抱きしめたまま、楓の数メートル下の斜面に転がり落ちた。片足で何とか踏ん張りを利かせたものの、土手に這いつくばった体は、まだ不安定に揺れている。顔に付いた土埃など気にする余裕もなく、夕月は星来の様子を確かめた。腕の中の星来は、あまりの恐怖に声一つ出せず、ただ震えている。目を固く閉じ、小さな体が止めどなく震える星来を見つめながら、夕月は声をかけた。「星来くん、大丈夫?」薄絹のように優しい声が星来の頬を撫でる。さらに強く抱きしめながら、「怖くないよ。大丈夫だから。私が守ってあげる」夕月の胸に身を寄せたまま、星来の長い睫毛が微かに震えた。ゆっくりと開かれた瞳には、底知れぬ恐怖と絶望が浮かんでいる。小さな手には、瑛優のために摘んだアンズタケが握りしめられたままだった。唇が微かに動くが、声にはならない。でも夕月には分かった。星来が「ごめんなさい」と言おうとしているのを。この危険な状況で、自分の身の危険よりも、夕月に迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思う星来の心が痛々しかった。土埃にまみれた髪が白い頬に落ちる中、夕月は温かい声で言った。「私が上まで連れて行ってあげるからね」「きゃあああっ!足が!」楓は夕月の上方の斜面で身をよじらせ、全身が痙攣していた。内臓までも引き裂かれるような激痛が走り、全身の骨が砕けそうだった。最も堪えたのは、夕月に引きずり落とされた時に捻ってしまった足首だ
そうして楓は悠斗に星来を誘い寄せるよう仕向けた。自閉症を抱える星来は、ずっと心理療法を受けてきた。今日やっと一歩を踏み出し、野外で他の子供たちや保護者と活動に参加する勇気を見せたのだ。もしここで少しでも事故に遭えば、それだけで星来は二度と外に出ようとはしないだろう。そんな臆病な星来なら、もう悠斗の橘家での立場を脅かすことはない。楓は下を見やった。夕月が星来を抱えて這い上がってくるところだ。手の届く場所に転がっていた石を掴む。「楓兄貴、何するの?」悠斗の声に、夕月が顔を上げる。楓の唇に浮かんだ底意地の悪い笑みが見えた。ここまで転落させたのに、もう一踏みしない手はない。楓は石を振り上げ、夕月の頭めがけて投げつけた。夕月は星来を抱きしめたまま、咄嗟にずれた。斜面の下の茂みの陰に平らな場所を見つけた夕月は、そのまま星来を抱えて茂みの中へ身を投げた。「ザッ」という音と共に茂みが大きく揺れ、すぐに静寂が戻った。「うっ……!」悠斗は思わず身を乗り出し、何かを掴もうとして手を伸ばした。夕月と星来が落ちていくのを、ただ呆然と見つめることしかできない。目の前の光景に悠斗は震え上がった。小さな唇を震わせながら、悠斗は絞り出すような声で言った。「楓兄貴、どうしてそんなことするの?あ、あなた……人殺しちゃったよ!!」悠斗の体が凍りつき、頭の中が真っ白になった。楓は最初、ただのいたずらだと言った。星来を怖がらせて、瑛優や面倒くさい母親の前に二度と現れないようにするだけだと。「悠斗くん、見たでしょう?夕月姉さんが自分から星来を抱えて転がり落ちたのよ!」「でも……」喉に刃物を突き立てられたかのように、悠斗は息も言葉も詰まった。見えない手に引っ張られているような感覚。悠斗の瞳に涙が揺れる。「ねぇ悠斗くん、医者が来たとき、私を見捨てて彼女たちだけを助けたらどうする?」楓の声が追い詰めるように響く。悠斗は固まったまま、どうすればいいのか分からなくなった。楓の声が急に弱々しくなる。「救護所のベッドは一つしかないの。夕月と星来が使っちゃったら、私はどうなるの?」「医者に楓兄貴を放っておかせたりしないよ!」楓は首を振った。「医者は夕月姉さんを見つけたら、真っ先に彼女を助けようとするわ」「だから医者が来る
夕月は激しく胸を上下させていた。呼吸をする度に鼻腔が刃物で切り裂かれるような痛みが走る。鉄錆のような匂いが鼻と喉に広がる。より広い平らな土手に立ちながら、夕月は唇を固く結んだ。声を出せば、楓に位置を悟られ、また石を投げつけられかねない。ゆっくりと星来を下ろす。抱きかかえていた腕は力が抜け、感覚が失われていた。急な斜面の中に、やっと足場の確保できる場所を見つけた星来は、スマートウォッチの緊急通報ボタンを押した。星来は夕月の手を取り、まるで年老いた幹部のように、その手の甲を優しく叩いた。心配しないで、すぐに誰かが助けに来てくれる——そう伝えるように。五分後、先生が医療スタッフ四名を連れて駆けつけた。担架を一つだけ持っているのを見て、悠斗は自分に言い聞かせた。楓のことだけを伝えて、夕月のことは言わなかった自分は、間違っていない。まず楓を診療所に運び、治療が済んでから、夕月と星来を探してもらえばいい。あの面倒くさい母親への、いい教訓になるはずだ。星来が危険な目に遭った時、夕月は我を忘れて斜面を駆け下りていった。いい気になって!二人とも、あの下でじっとしているがいい!中村先生は斜面に横たわる楓を見て声を上げた。「藤宮さん、ここは立入禁止区域ですよ。どうしてここに?」楓は苛立たしげに返した。「知るわけないでしょ。柵も看板もないのに」中村先生は周囲を見回した。昨日の下見の際、立入禁止の場所には全て警告の看板を立てたはずなのに、ここの看板が消えている。冬真が駆けつけると、楓の背後に赤いマフラーが落ちているのが目に入った。その下の斜面には、明らかな転落の跡が長く残されていた。医療スタッフが楓に手を差し伸べると、彼女は悲鳴を上げた。「冬真!」楓は取り乱したような表情で、冬真に向かって手を伸ばす。担任は蔑むような表情を浮かべた。救急隊員がいるというのに、楓は冬真の前でドラマでもやっているのか。しかも冬真は、この手の演技に引っかかる方だった。冬真は楓の手を握り、一気に引き上げた。救急隊員が担架に移そうとして触れた途端、楓は大袈裟な悲鳴を上げた。「冬真に抱っこしてもらいたい」楓は哀願するような声を出す。担任は目を天に向けんばかりに回した。「橘社長は特別な体質でもあるんですか?社長が触れ
楓が処置室に運ばれた後で、パパにあの面倒くさい母さんが斜面の下にいることを伝えよう——担任は怪我人との口論を避け、淡々と言った。「藤宮さんの転落事故については、園で詳しく調査させていただきます」「私が嘘つきだって言うの?」楓は体を起こすと、突然担任の頬を平手打ちした。担任は楓の傍らに屈んでいたが、その衝撃で頭が真っ白になった。口を開けたまま、信じられない目で楓を見つめる。なんて品性の欠如した女だ。「楓!」冬真の声が低く鋭く響いた。地面に座ったまま楓は顔を上げ、怒鳴り返した。「なんで私を怒るの!?私のこと兄弟だと思ってないの!?」担任は口を開きかけたが、楓の言葉を聞いて閉じた。馬鹿と話しても無駄だ。馬鹿は必ず相手の知能を自分のレベルまで引きずり下ろそうとする。楓は苛立たしげに冬真の太腿を叩いた。「親友が侮辱されてるのに、なんで私の味方してくれないの?」冬真は楓の首筋に残る鮮明な赤い痕に目を留めた。「首の傷は何だ?」自分の首に広がる細かな痛みを感じながら、楓は躊躇った。夕月にマフラーで絞められたと告げ口したい。そうすれば冬真は必ず夕月を罰するはず。でも今は、夕月の存在を皆に隠さなければならない。茂みに落ちた夕月と口の聞けない星来は、もう声一つ聞こえない。多分もう……そう考えると、楓の目の奥に浮かぶ冷笑を隠すように俯いた。星来を消せば、凌一を傷つけ、冬真の橘家での発言力を高められる。そして将来、冬真との子供の競争相手を一人減らせる。夕月を消せば、あの眩い輝きも消える。実の姉があんなに輝かしい存在であることに、もう我慢できなかった。「転がり落ちた時に、マフラーが木の枝に引っかかって首を絞めたの。まだ息苦しくて……」楓は咳き込みながら、惨めな表情を浮かべ、冬真に抱きしめてもらおうと手を伸ばす。冬真は眉間に皺を寄せ、冷たい表情のまま屈みこもうとした瞬間、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた。振り返ると、園の制服を着た十数名の男たちが一斉に駆けてくるのが見えた。冬真は細い目を更に細めた。一目で分かる。訓練された動き——明らかに園の職員ではない。私服の警備員だ。ここに私服警備員がいるとすれば、それは一つのことを意味する——星来の野外活動参加に際し、凌一が警備要員を
声を上げなければよかったものを——楓は絶望的な表情で顔を覆った。この馬鹿!楓は罵声を飲み込んだ……悠斗の慌てた否定は、かえって真相を暴露するようなものだった。まるで泥棒が「盗んでません!」と叫ぶようなもの。天野が悠斗に近づくと、その影が小さな体を覆い尽くした。見上げた悠斗には、まるで巨大な山が迫ってくるように感じられた。「なぜ下に誰もいないと思うんだ?」天野の顔も見られず、悠斗の細い肩が震え始める。光に照らされたエビのように身動きが取れず、頭の中が真っ白で、言葉が出てこない。「何か隠しているのか?」天野は悠斗の様子の違和感を鋭く察知した。「パパぁ!」悠斗は恐怖で泣きじゃくりながら、冬真の後ろに逃げ込んだ。冬真は冷たい表情で、息子の嘘を悟った。その時、警備員たちは既に安全ロープを固定し、天野と共に斜面を降り始めていた。彼らは素早く身を翻し、まるでスパイダーマンのように斜面を自在に動き回る。天野が生い茂った茂みを掻き分けると、物音に気付いた夕月が顔を上げた。天野の姿を認め、安堵の表情を浮かべる。「お兄さん!」さっき携帯の振動を感じたものの、両手で岩場にしがみついていて電話に出られなかった。でも夕月は信じていた。天野の危機管理能力なら、自分と星来が戻らないことにすぐに気付いて動いてくれるはずだと。「お坊ちゃま!」私服警備員たちは星来を見つけるや否や、素早く安全ロープを装着しようとする。星来は夕月の袖を掴み、頑固な眼差しで警備員たちに訴える——先に夕月を助けてほしいと。「星来くん、大丈夫よ。こんなに大勢来てくれたんだもの。一緒に上がれるわ」と夕月は諭すように言った。星来を警備員に託すと、天野は夕月に安全ロープを取り付けた。天野に引き上げられた夕月は、斜面の上で地面に座り込み、大きく息を吐いた。危機的状況でアドレナリンが急上昇し、恐怖を乗り越える力を与えてくれていた。だが、その危機が去った今、夕月は生還の安堵と共に、全身から力が抜けていくのを感じていた。土埃まみれの髪が頬に張り付き、服には草の切れ端や小さな棘がこびりついている。「なぜ下にいたんだ」声をかけたのは冬真だった。夕月は彼を無視し、担架に座る楓に視線を向けた。その瞳は氷のように冷たく澄んでいた。地面
冬真は夕月の言葉を最後まで聞く気もない。夕月も斜面の下にいたと知った瞬間から、いらだちを覚えていた。楓に冷ややかな視線を投げかけながら、夕月に問う。「楓が、お前と星来を突き落としたと言いたいのか?」「そうよ」夕月は即答した。「お前も星来も怪我はしていない」冬真の声は水面のように平坦だった。怪我もしていないのに、なぜ楓を責める必要がある?怪我もないなら、何もなかったことにすればいい——そう言わんばかりの態度。陽光が眩しく差し込む中、夕月は目の前の男を見つめていた。わずか数歩の距離なのに、まるで深い峡谷が二人を隔てているかのようだった。これだけの人がいる中で、惨めな姿を晒しているのは彼女と楓だけ。天野に教わった護身術のおかげで、斜面を転がり落ちる時も、必死で自分と星来を守ることができた。それなのに、まるで大怪我をしたかのような素振りを見せる楓。冬真は今や、楓が夕月と星来を突き落とした張本人だと分かっているはずなのに、なお楓を庇う姿勢を崩さない。夕月の口元に、苦い笑みが浮かぶ。「ふぅん」その声には、嘲りと諦めが混ざっていた。「夕月さん!橘家があなたの学費を全額援助してくれることになりました。しっかり勉強するのよ!」かつて、石田書記は興奮した様子で駆け寄ってきて、そう告げた。「橘家……ですか?橘博士が援助してくださるんですか?」彼女は首を傾げて尋ねた。「いいえ、援助してくれるのは橘博士じゃなくて、橘家の後継者の橘冬真さん。博士の甥御さんよ」石田書記は息もつかずに続けた。「冬真さんは博士からあなたのことを聞いて、学校側に申し出てくれたの。四年間の学費と、毎月20万円の生活費も出してくれるそうよ。ただし条件が一つあって——」石田書記は笑みを浮かべながら、「全科目で首席を取ることです。まあ、あなたにとっては当たり前のことでしょうけどね。橘博士があなたを高く評価して、その上、後継者までが援助を申し出てくれたんだから、期待を裏切らないようにね!」彼女は石田書記に頼んで、冬真のビジネスメールアドレスを教えてもらった。感謝の気持ちを込めて、夕月は年末年始などの節目に、挨拶のメールを送るようにしていた。時折、冬真から返信があり、近況を尋ねられることもあった。そんな時は丁寧に、橘家の援助のおかげで順調に過
その後、養父が他界した時、冬真は夕月と共に墓園を訪れた。彼は夕月の手を自分のダウンジャケットのポケットに入れ、大きな手で包み込んだ。顔を上げると、お互いの肩に雪が積もっているのが見えた。あの時の夕月は、今日この雪の下で手を取り合えば、この先ずっと寄り添っていけると信じていた。冬真は確かに彼女の凍えた心を温めてくれた。でも結婚してから気づいたのは、冷徹さと薄情さこそが、この男の本質だということだった。「藤宮楓は何をしたんだ?」天野の声が響いた。彼は夕月に、その場で証言するよう促した。「私と星来くんを突き落としたの!」「そんなことしてない!」楓は即座に否定した。「うぅ!」星来が不満げな声を上げ、眉をひそめながら楓を指差した。手に持ったアンズタケを見せてから、今度は悠斗を指差す。「なんだよ!僕は関係ないでしょ!」悠斗が憤慨して叫んだ。星来は頬を膨らませると、スマートウォッチのボタンを押した。彼の安全のため、スマートウォッチには常に録音・録画機能が作動していたのだ。スマートウォッチから悠斗の声が流れ出した。「このアンズタケ、瑛優が大好きなんだよ。たくさん採ってあげたら、きっと喜ぶと思うな」「危ないわ。早く戻ってきて」夕月の声が響いた直後、二人が斜面を滑り落ちる音が続いた。次の瞬間、楓の悲鳴が録音から漏れ聞こえてきた。スマートウォッチの録音を聞いた楓と悠斗の顔色が一気に変わった。周囲の視線が二人に集中する。悠斗は落ち着かない様子で耳を掻きながら、どうしていいか分からずにいた。「なんでそんな目で見るのよ!たかがこんな録音で、私が突き落としたって証明になるわけ!?」楓が声を荒げた。楓は一転して、優しい声で星来に語りかけた。「私は星来くんと夕月姉さんが危ないのを見て、助けようとしただけ。でも夕月姉さんが突然私のマフラーを掴んで、引っ張り込まれちゃったの。ねえ星来くん、夕月姉さんに何か言われたの?だから私のこと誤解してるの?」私服警備員が周囲を見回している中、楓はその様子を確認すると、得意げに口元を歪めた。バカじゃない、この斜面付近に監視カメラなんてない。だからこそ、立入禁止の看板を外したのだから。星来は喉から軽く「ふん」と声を漏らすと、スマートウォッチの録音を続けて再生し
鹿谷は涼の刺すような視線に気付き、小さな心臓が震えた。誰だろう、この人。どこかで見た顔のような。飛行機を降りたばかりなのに、なぜか敵に出くわしてしまったような。瑛優は軽やかにキャリーバッグを押し、ツルツルした床の上を駆けてくる。涼の鋭い眼差しに怯えた鹿谷は、思わず夕月の後ろに身を隠した。人見知りの激しい鹿谷は人との接触が苦手で、特に異性の視線を避けていた。を短く切り、中性的な服装を好んでからは、異性の視線を感じることも少なくなった。たまに視線を感じても、整った容姿への好意的なものばかりだった。天野は素っ気なく頷いて「久しぶり」と挨拶した。鹿谷も軽く頷き返すだけで、挨拶を済ませた。夕月の兄については、長身で胸板が厚いという印象以外、特に記憶に残っていない。「こちらは桐嶋さん。月光レーシングクラブのオーナーよ」と夕月が紹介する。鹿谷は驚いた様子で、夕月の耳元に顔を寄せ、「てっきりオーナーは、おじさんかと思ってました」と囁いた。涼は奥歯をギリギリと噛みしめ、額に青筋が浮かんだ。生意気な小僧め。目の前で夕月に密着しやがって。「挑発のつもりか」低い声が喉の奥から漏れる。涼は鋭い視線で鹿谷を射抜くように見つめ、手を差し出した。「はじめまして」氷のような声が響く。鹿谷は夕月の腕にしがみついたまま、涼との握手を避け、小さく頷くだけだった。涼の黒い瞳は、厚い氷に覆われた湖面のように冷たく光る。「伶は人見知りで、男性との接触が苦手なの」夕月が説明する。言葉が終わらないうちに、涼の威圧的な雰囲気に怯えた鹿谷は首を縮め、夕月の後ろに隠れるように身を寄せた。自然な仕草で夕月の細い腰に腕を回す。夕月に抱きつくことで、安心感を得られるかのように。涼の目に宿った氷のような冷気が、一瞬にして砕け散った!殺人のプロに相談したいものだ。左手から切り落とすべきか、右手からか。そして夕月は、鹿谷のこんな親密な接触を全く嫌がる様子もない。なるほど、こういうタイプが好みとはな!!涼は深いため息をつく。生まれ変わりたい!か弱くて無力そうな子犬のような態度で、夕月の母性本能を刺激するわけか。涼は心の中で、自分の勝算を計算し直していた。鹿谷は見ていた。涼の敵意と軽蔑に満ちた目が、突如として底意地
涼は侮蔑的に嗤った。「ふん、誰かの心が砕ける音が聞こえたようだが」その冷たく傲慢な声で言い放つと、天野の顔を窺った。てっきり天野も自分と同じように顔を曇らせているだろうと思った。だが意外なことに、腕を組んだまま二人を見つめる天野の深い瞳には、穏やかな光が宿っていた。涼の顔が引きつる。苦い思いをしているのは、この自分だけというのか。地面に落ちて砕けた心は、まさか自分のものだったとは!ふん、さすがは天野少尉、こんな場面でも冷静沈着を装うとはな。「きっと今頃、鹿谷の顔面を殴りつけたい衝動と戦っているんだろう」涼は天野の表情を読み取ろうとする。「夕月のためだけに、必死に理性を保っているのさ」深いため息をつく。天野を見習わなければ。度量がなくては、どうして夕月の心の中で二番目の座を射止められようか!?「私も鹿谷さんにチューしたい!」夕月が美味しそうにキスをするのを見た瑛優が、待ちきれない様子で声を上げた。夕月は瑛優を抱き上げ、瑛優は鹿谷の頬に何度もキスをした。鹿谷の潤んだ瞳は首筋まで真っ赤に染まっていた。恥ずかしそうに「君の娘さん?」と尋ねる。夕月は頷いて「うん、藤宮瑛優よ。瑛優って呼んでね」鹿谷は優しい眼差しで瑛優を抱きしめ、夕月は二人を腕の中に包み込んだ。涼は息が詰まりそうになった。まるで高空から墜落する傷ついた白鶴のように、整った顔が雪のように蒼白になる。「何で飛び出さないんだ?」涼はもう我慢できなかった。「何のために?」天野は首を傾げる。「お前が殺して、俺が死体処理する!」涼は既に天野の獄中生活まで想定していた。まさに一石二鳥、ライバルを二人まとめて片付けられる。天野の目に軽蔑の色が浮かぶ。涼の鹿谷への敵意を感じ取り、諭すように言った。「久しぶりの再会を邪魔するな」「お前、兄貴なのに、人前でイチャつかせるのを放っておくのか?!」涼は目を見開いた。「イチャつくのが何か問題でもあるのか?夕月は随分会えていなかったんだぞ」天野は平然と返す。涼は天野を見つめ直す。まるで初めて会った人を見るかのように。「天野少尉、もうNo.2の座を諦めているとは」天野は眉をひそめた。「は?」涼の口から飛び出したのは一体何だ?涼は鹿谷に暗い視線を向ける。その眼差しは鹿谷を刺し殺さん
「と、冬……」首に巻き付いている細長い生き物の正体に気付いた!目を見開いても、その全容は闇に溶けて見えない。窒息しそうな恐怖に、声を出すことすら困難になっていく。「うっ!」両足から力が抜け、その場に気を失った。斜面の上方には監視カメラが設置されていることに気付いた冬真は、熟考の末、悠斗を連れて斜面の下に戻った。翌朝早く、冬真は悠斗と楓を病院に連れて行った。斜面の下には虫が異常に多く、冬真の顔と首には何カ所も虫刺されの腫れが出来ていた。服の襟元から虫が入り込み、胸元まで刺されていた。悠斗も全身が発疹だらけになっていた。楓の状態は更に酷かった。斜面の下で気を失っている間に、まぶたを虫に刺され腫れ上がり、目を開けることすらできなくなっていた。楓は自分が盲目になったと思い込み、冬真と悠斗の鼓膜が破れそうな悲鳴を上げた。ベッドにうつ伏せになった楓の尻と太腿に、看護師が薬を塗っている。楓が延々と悲鳴を上げ続けるものだから、看護師は何度も目を白黒させていた。「藤宮楓さんでしょうか?」後ろから女性の声がした。楓は振り向いたものの、薬を塗られたまぶたが開かず、誰が来たのかわからなかった。「え?そうですけど、あなたは?」「雲合署の者です。通報を受け、傷害未遂の証拠も掴んでいます。事情聴取にご協力願えますか」数日後、桜都国際空港:夕月は瑛優の小さな手を握り、到着ロビーの柵の後ろで首を長くして待っていた。「ママ、鹿谷さんってどんな人?」「人ごみの中で一番かっこよくて素敵な人よ。ママの親友なの!」天野と涼は母娘の後ろに立っていた。涼は大あくびをする。今は朝の7時、鹿谷を出迎えるため、まだ暗いうちから起きてきたのだ。空港の旅客たちは、二人のイケメンに足を止めて視線を送っていた。天野はマスクをしていた。人目を引くのは好まないが、長身で逞しい体格、生地の下から浮かび上がる筋肉の輪郭は、否が応でも目を引いてしまう。涼に至っては言うまでもない。際立つ容姿に、八十歳のお年寄りから三歳の子供まで、性別関係なく彼の方を振り返った。「元社員のことを随分気にかけているんだな」天野が感慨深げに言った。涼の視線は夕月から離れない。「俺が気にかけているのは、君の妹だけさ」率直に言い放つ。鹿谷がどんな顔をして
食事を終えた夕月は、待ちきれないように凌一の書斎へと足を向けた。というより図書館と呼ぶべき空間だった。この邸宅には三層吹き抜けの図書館があり、絶版本の宝庫であり、その多くのデータは機密扱いで、一流大学の教授ですら容易にアクセスできないものばかりだった。夕月は知識の海原に身を委ねたが、瑛優と天野が待っていることもあり、二時間余り読書を楽しんだ後、名残惜しそうに書斎を後にした。雲上牧場、斜面の下方にて:山風が冷たく吹き抜けていく。「パパ、おしっこ!もう我慢できないよ!!」悠斗の声が今にも泣き出しそうだった。家の至宝として大切に育てられてきた御曹司が、こんな窮地に追い込まれるとは。悠斗は斜面に寄りかかったまま、両手を拘束され身動きが取れない。トイレはおろか、ズボンを下ろすことすらできない状態だった。冬真は悠斗の傍らに横たわっていた。アウトドア用のジャケットを着ていても、夜露に濡れた山林の中で気温は急激に下がり、長時間動けない状態が続いて血行が悪くなり、全身が強張り、手足の感覚が鈍くなっていた。冬真は顔を引き締めて深いため息をつき、これも凌一からの試練だと自分に言い聞かせた。だが悠斗が耳元でずっと唸り声を上げ続けるものだから、冬真はいらだちを覚えていた。普段から子供と過ごす時間など少なかった。悠斗という子は本当に分かっていない。この五年間、夕月は一体どんな教育をしてきたのか。先ほど冬真が斜面の上を呼んでみたが、誰も見張りはいないようだった。冬真は上方を見上げた。時間が経つほど、ここに人が来る可能性は低くなる。思い切って片手で悠斗を抱え上げ、まず悠斗を上に連れて行こうと考えた。その後で人を呼んで楓を助けに来ればいい。結局楓は足首を捻り、尻と太腿まで怪我している。この虚弱な二人を連れて脱出するのを想像すると、冬真は面倒くさく感じた。元々、弱者が大嫌いだった。冬真は片手で体を支え上げた。斜面を這い上がったその時、漆黒の森の中に幾つかの懐中電灯の光が揺らめくのが見えた。急いで身を屈め、斜面の下に身を隠す。「声を出すな」悠斗に小声で言い聞かせた。悠斗は小さな唇を尖らせ、顔を真っ赤にして我慢している。斎藤鳴は凌一の部下に連れられ、斜面の縁まで来ていた。部下が鳴に言い渡す。「今夜は
一介の大学教授に過ぎない斎藤鳴が、オームテックの助成研究者の一人でありながら、幹部陣にこれほどの影響力を持っているとは。凌一は静かにスマートフォンを手に取り、部下に指示を送った。「斎藤鳴の一挙手一投足を監視しろ」電話の向こうで鳴は上機嫌で続けた。「お礼をしたいなら、食事でも御馳走してくださいよ」夕月は応じた。「事が成就した暁には、きちんとお礼をさせていただきます。ただ現時点では、不必要な憶測を避けるため、接触は控えめにした方が良いかと」鳴は理解を示した。「もちろんです。買収案件の責任者就任が公になれば、橘社長も目を光らせてくるでしょうからね。くれぐれも慎重に」そう言いながら鳴は憤りを露わにした。「橘冬真のやつ、本当に最低ですよ!悠斗のガキもそうだ。父子でそんな真似を働くなんて、見てるとぶん殴ってやりたくなります!」「では雲上牧場で待ち伏せでもするか」凌一の冷ややかな声が響いた。「!!!」凌一の声に、鳴は猫を前にしたネズミのように首を縮めた。先ほど夕月が凌一の家にいると言っていたのだから、凌一の声が聞こえても不思議ではない。「冬真親子も楓も、斜面を登ってくる時を狙って、思う存分殴ればいい」鳴の足から力が抜けた。単なる虚勢を張っただけだったのに!実際に冬真と対面したら、おとなしく尻尾を巻くに決まっている。「た、橘博士、今夜はとても重要な資料の整理が……」電話越しの斎藤の声が震えていた。「雲上牧場でやればいい。迎えを手配しておく」「で、でも……」凌一の声が氷柱のように耳に突き刺さる。「『はい』とだけ答えればいい」電話越しにもかかわらず、鳴は見えない大きな手に首を締め付けられているような感覚に襲われた。声が震えて言葉にならない。結局、おとなしく凌一に従うしかなかった。「は、はい」夕月は、今頃の斎藤鳴の惨めな様子が目に浮かんだ。凌一の真意は、鳴への警告だということも分かっていた。通話を切ると、凌一が一言。「三流だな」夕月は低い声で呟いた。「必ず報いを受けさせます」凌一は不審に思い、尋ねた。「何かあったのか?」夕月は深いため息をつき、「私の博士論文を盗用されたんです」凌一の切れ長の瞳に、鋭い光が宿った。天野も初耳だった。「どういうことだ?」夕月は自嘲気味に
「星来くん」夕月は両手を広げた。「私たちの未来は、自分で決められるの。もう二度と同じ過ちは繰り返さない。あなたの気持ちを裏切らないわ」星来は躊躇いながらも、夕月を見る目には深い愛着と憧れが満ちていた。小さな体が夕月に飛び込み、華奢な腕が首に回される。彼は夕月に母親になってほしくはない。ただ、自由であってほしかった。夕月は凌一の方を向いて言った。「先生の想いも、決して無駄にはしません」本当に愛する人は、相手の幸せが少しでも損なわれることを許せない。たとえ自分の想いを押し殺してでも、その人を自由な風のように解き放ちたいと願う。ただその人が幸せに生き、無数の星々のように輝いているのを見られれば、それだけで十分なのだ。夕月は星来の手を握り、ダイニングルームへ戻った。瑛優は星来が食卓に着いたのを見て、自ら星来の取り皿に料理を取り分けてあげた。夕食後、凌一が切り出した。「私との賭けのことは覚えているかな?残り時間はあと3週間を切っているが」「藤宮テックに対して、いつ動くつもりだ?」夕月は唇の端を上げ、少し考えてから「うーん……あと1、2週間くらいかしら」凌一は静かな眼差しで彼女を見つめた。夕月には確かな計画があるのだろう。その自信に満ちた様子からすると、藤宮テックはすでに彼女の掌の上で踊らされているも同然だ。だが、藤宮盛樹との関係は最悪と言っていい。盛樹が自ら藤宮テックを夕月に譲渡するはずがない。「2週間で完全に掌握できると確信しているのか?」夕月が答える前に、彼女のスマートフォンが鳴った。画面を確認した夕月は、凌一にディスプレイを見せた。斎藤鳴からの着信だった。夕月は通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えた。鳴の興奮した声が一同の耳に届いた。「夕月さん、今どちらにいるんですか?素晴らしいニュースがあるんです!」夕月は答えた。「橘凌一博士のお宅にいるわ。斎藤さん、直接会ってお話しする必要があるのかしら?」夕月が橘博士の家にいると聞いた途端、鳴の下心は一気にしぼんでしまった。本来なら夕月を一人で誘い出すつもりだったのだ。「ああ、橘凌一のところですか」鳴の声には隠しきれない残念さが滲んでいた。鳴も凌一に取り入ろうとしなかったわけではない。国家機密プロジェクト
その絵の中で、悲しい表情を浮かべているのは女王だけだった。また一枚の絵が滑り出てきた。クレヨンで描かれた絵には、ピンクのドレスの女王が娘の手を引いて城を出て行く様子が描かれていた。女王の顔には明るい笑顔が溢れている。三枚目の絵を受け取る。そこには娘の手を引く女王が、別の王様と出会う場面が描かれていた。王様の隣には小さな男の子が立ち、王様はダイヤの指輪を手に女王にプロポーズをしている。さらにドアの隙間からサラサラと五枚目の絵が滑り出てきた。新しい王様と家族になった女王と娘。女王の表情には戸惑いの色が浮かんでいる。星来は絵の才能がある。単純な線で描かれた絵なのに、人物の感情が見事に表現されていた。夕月はドアに背を寄せて床に座り込んだ。手には星来が描いた五枚の絵と、『ママになってほしくない』と書かれた紙切れを握っている。夕月の目に熱いものが込み上げ、瞳が潤んでいく。「ママになってほしくない」—— それは新しい家族の中で、また別の子供の母親となり、新たな母としての重荷を背負ってほしくないという願いだった。でも、これだけたくさんの絵を描いてくれたということは、星来が夕月を慕っている証。だからこそ、大切な夕月を傷つけたくないのだ。自分が夕月を困らせる存在になりかねないと気付いた時、星来は真っ先に夕月から距離を置こうとした。この部屋に自分を閉じ込めれば、夕月は同じ轍を踏まずに済むと、そう考えているのだろうか。車椅子の軋む音に振り向くと、凌一が手すりに手を添えて近づいてきていた。「どうして床に座っているんだ?」彼は夕月を見下ろすように問いかけた。夕月は星来から受け取った絵を凌一に差し出した。「星来くん……賢くて、切ない子ですね」凌一は養子の描いた絵に目を落として言った。「好きだからといって、所有する必要はない」夕月を見つめ、率直に語り始めた。「かつて私は間違っていた。君は私の出会った中で最も優秀な学生だった。同時に、一人の女性でもある。温室で大切に育て、夫に守られてこそ、君は輝けると思っていた。しかし現実は、その証明が誤っていたことを教えてくれた。人の心は移ろい易い。誰かに身を委ねる弱者の立場に、自分を置くべきではないのだ」耳に蘇る冬真の怒号。「お前だって下心があったはずだ!
凌一は既に天野から視線を外していた。「ご自由に」そして夕月に向き直り、穏やかな眼差しを向ける。「星来を助けてくれて、ありがとう」「違います。星来くんが私を助けてくれたんです」夕月は首を振った。星来は夕月の手を握り、自分の胸を叩いてから、スマートウォッチを指差した。夕月はすぐに星来の言いたいことを理解した。自分が夕月を守ると、そう言いたかったのだ。「今日の星来くん、とっても勇敢だったわね」夕月は優しく微笑んだ。「星来くん!チューしていい?」瑛優が星来に抱きついた。星来が嫌がる様子を見せなかったので、瑛優は星来の頬にキスをした。夕月も膝をついて、星来の頭に軽くキスを落とした。星来の頬が薔薇色に染まり、漆黒の瞳には無数の星が瞬いているようだった。先ほどキャンプ場に戻った時、夕月は瑛優に星来とキノコ採りをしていた時の出来事を話していた。瑛優は話を聞いて、悠斗と一戦交えたい気持ちでいっぱいになった。でも、悠斗が今夜斜面で野宿すると聞いて、学校で会った時に、拳を見せながらじっくり話し合おうと決めた。天野は凌一の様子を観察していた。氷のような眼鏡の奥で、凌一の瞳が夕月と星来を見つめる時、不思議な優しさを帯びていた。「橘博士、息子さんのお母さんを探してみては?」天野の言葉に、食事の準備をしていた使用人が続けた。「坊ちゃまは藤宮さんと本当に仲が良いですから、藤宮さんがお母様になってくだされば……」この屋敷で働く使用人たちは、夕月が以前凌一の甥の嫁だったことを知っていた。しかし橘家の人々との接点は少なく、ただ夕月が書斎に出入りを許され、星来が彼女との触れ合いを嫌がらない様子を見て、父子にとって特別な存在なのだと感じていた。その言葉が空気を切り裂いた途端、星来の様子が一変した。瑛優に抱きしめられていた星来が突然身をよじり始め、瑛優は慌てて腕を解いた。星来は後ずさりし、夕月を見上げた瞳が一瞬で赤く染まる。そして踵を返すと、自室へと駆け出した。「星来くん!」夕月の呼びかけに、星来の足取りはさらに速くなった。「申し訳ございません」使用人は自分の失言に気付き、深く頭を下げた。「下がれ」凌一の声が冷たく響く。夕月と瑛優が星来の走り去った方を見つめているのを見て、「放っておけ。食事にしよう
その時、天野は緊張した警戒犬のように身を固くしていた。夕月は車内に滑り込むと、優しい声で「星来くん、抱っこしていい?」と囁きかけた。まだ眠そうな星来は、夕月の方へふわりと身を寄せた。彼女の胸元に倒れ込むように身を預け、夕月は慎重に車から抱き出した。星来は夕月の肩に顔を埋めた。柔らかな甘い香りが鼻をくすぐる。半眼を閉じながら、夕月の温もりに甘えるように、小さな腕が自然と彼女の首に回された。出迎えた使用人たちは、星来を抱く夕月の姿に目を見開いた。人見知りの激しい星来は、誰とも身体的な接触を持とうとしない。最も親しい凌一でさえ、時には話しかけても相手にされないほどだった。夕月に抱かれている星来を見て、自閉症が改善に向かっているのだろうかと、使用人たちは驚きを隠せなかった。「坊ちゃまがお眠りのようですが、私が抱かせていただきましょうか?」使用人が一歩前に出て声をかけた。夕月は首を振った。「大丈夫です。頭は少し覚醒してきましたが、体がまだ眠たいみたいなの」星来の背中を優しく撫でながら、「もう少し、このまま抱かせてあげましょう」天野に抱かれてリビングに入った瑛優は、大きくあくびをして完全に目を覚ました。夕月は星来をソファに座らせ、ウェットティッシュで顔と手を丁寧に拭い始めた。かがんだ姿勢で、墨のような黒髪が滝のように垂れ、その仕草は限りなく優しく、指先から手のひらまでが暖かだった。星来の瞳は完璧なアーモンド形で、黒真珠のような漆黒の瞳が目全体の四分の三を占め、白目はほんの僅かしか見えなかった。その瞳で夕月をじっと見つめながら、無意識に手を伸ばし、夕月の髪に触れようとする。「凌一様がいらっしゃいました」使用人の声が響く。星来は夢から覚めたように、慌てて手を引っ込めた。振り返ると、電動車椅子に座った凌一が近づいてきていた。ベージュのカジュアルスーツを着こなし、縁なしメガネの奥の瞳は冷たく光っていた。夕月はずっと思っていた。凌一は白が似合う人だと。まるでこの世の穢れが寄り付かないかのように。まるで聳え立つ雪山のように、清らかで、畏怖の念を抱かずにはいられない存在。凌一は天野を一瞥した。自分の領域に侵入者を見つけたような眼差しだった。黒いコートを纏った天野は、中の黒シャツが逞しい筋肉で起