一介の大学教授に過ぎない斎藤鳴が、オームテックの助成研究者の一人でありながら、幹部陣にこれほどの影響力を持っているとは。凌一は静かにスマートフォンを手に取り、部下に指示を送った。「斎藤鳴の一挙手一投足を監視しろ」電話の向こうで鳴は上機嫌で続けた。「お礼をしたいなら、食事でも御馳走してくださいよ」夕月は応じた。「事が成就した暁には、きちんとお礼をさせていただきます。ただ現時点では、不必要な憶測を避けるため、接触は控えめにした方が良いかと」鳴は理解を示した。「もちろんです。買収案件の責任者就任が公になれば、橘社長も目を光らせてくるでしょうからね。くれぐれも慎重に」そう言いながら鳴は憤りを露わにした。「橘冬真のやつ、本当に最低ですよ!悠斗のガキもそうだ。父子でそんな真似を働くなんて、見てるとぶん殴ってやりたくなります!」「では雲上牧場で待ち伏せでもするか」凌一の冷ややかな声が響いた。「!!!」凌一の声に、鳴は猫を前にしたネズミのように首を縮めた。先ほど夕月が凌一の家にいると言っていたのだから、凌一の声が聞こえても不思議ではない。「冬真親子も楓も、斜面を登ってくる時を狙って、思う存分殴ればいい」鳴の足から力が抜けた。単なる虚勢を張っただけだったのに!実際に冬真と対面したら、おとなしく尻尾を巻くに決まっている。「た、橘博士、今夜はとても重要な資料の整理が……」電話越しの斎藤の声が震えていた。「雲上牧場でやればいい。迎えを手配しておく」「で、でも……」凌一の声が氷柱のように耳に突き刺さる。「『はい』とだけ答えればいい」電話越しにもかかわらず、鳴は見えない大きな手に首を締め付けられているような感覚に襲われた。声が震えて言葉にならない。結局、おとなしく凌一に従うしかなかった。「は、はい」夕月は、今頃の斎藤鳴の惨めな様子が目に浮かんだ。凌一の真意は、鳴への警告だということも分かっていた。通話を切ると、凌一が一言。「三流だな」夕月は低い声で呟いた。「必ず報いを受けさせます」凌一は不審に思い、尋ねた。「何かあったのか?」夕月は深いため息をつき、「私の博士論文を盗用されたんです」凌一の切れ長の瞳に、鋭い光が宿った。天野も初耳だった。「どういうことだ?」夕月は自嘲気味に
食事を終えた夕月は、待ちきれないように凌一の書斎へと足を向けた。というより図書館と呼ぶべき空間だった。この邸宅には三層吹き抜けの図書館があり、絶版本の宝庫であり、その多くのデータは機密扱いで、一流大学の教授ですら容易にアクセスできないものばかりだった。夕月は知識の海原に身を委ねたが、瑛優と天野が待っていることもあり、二時間余り読書を楽しんだ後、名残惜しそうに書斎を後にした。雲上牧場、斜面の下方にて:山風が冷たく吹き抜けていく。「パパ、おしっこ!もう我慢できないよ!!」悠斗の声が今にも泣き出しそうだった。家の至宝として大切に育てられてきた御曹司が、こんな窮地に追い込まれるとは。悠斗は斜面に寄りかかったまま、両手を拘束され身動きが取れない。トイレはおろか、ズボンを下ろすことすらできない状態だった。冬真は悠斗の傍らに横たわっていた。アウトドア用のジャケットを着ていても、夜露に濡れた山林の中で気温は急激に下がり、長時間動けない状態が続いて血行が悪くなり、全身が強張り、手足の感覚が鈍くなっていた。冬真は顔を引き締めて深いため息をつき、これも凌一からの試練だと自分に言い聞かせた。だが悠斗が耳元でずっと唸り声を上げ続けるものだから、冬真はいらだちを覚えていた。普段から子供と過ごす時間など少なかった。悠斗という子は本当に分かっていない。この五年間、夕月は一体どんな教育をしてきたのか。先ほど冬真が斜面の上を呼んでみたが、誰も見張りはいないようだった。冬真は上方を見上げた。時間が経つほど、ここに人が来る可能性は低くなる。思い切って片手で悠斗を抱え上げ、まず悠斗を上に連れて行こうと考えた。その後で人を呼んで楓を助けに来ればいい。結局楓は足首を捻り、尻と太腿まで怪我している。この虚弱な二人を連れて脱出するのを想像すると、冬真は面倒くさく感じた。元々、弱者が大嫌いだった。冬真は片手で体を支え上げた。斜面を這い上がったその時、漆黒の森の中に幾つかの懐中電灯の光が揺らめくのが見えた。急いで身を屈め、斜面の下に身を隠す。「声を出すな」悠斗に小声で言い聞かせた。悠斗は小さな唇を尖らせ、顔を真っ赤にして我慢している。斎藤鳴は凌一の部下に連れられ、斜面の縁まで来ていた。部下が鳴に言い渡す。「今夜は
「と、冬……」首に巻き付いている細長い生き物の正体に気付いた!目を見開いても、その全容は闇に溶けて見えない。窒息しそうな恐怖に、声を出すことすら困難になっていく。「うっ!」両足から力が抜け、その場に気を失った。斜面の上方には監視カメラが設置されていることに気付いた冬真は、熟考の末、悠斗を連れて斜面の下に戻った。翌朝早く、冬真は悠斗と楓を病院に連れて行った。斜面の下には虫が異常に多く、冬真の顔と首には何カ所も虫刺されの腫れが出来ていた。服の襟元から虫が入り込み、胸元まで刺されていた。悠斗も全身が発疹だらけになっていた。楓の状態は更に酷かった。斜面の下で気を失っている間に、まぶたを虫に刺され腫れ上がり、目を開けることすらできなくなっていた。楓は自分が盲目になったと思い込み、冬真と悠斗の鼓膜が破れそうな悲鳴を上げた。ベッドにうつ伏せになった楓の尻と太腿に、看護師が薬を塗っている。楓が延々と悲鳴を上げ続けるものだから、看護師は何度も目を白黒させていた。「藤宮楓さんでしょうか?」後ろから女性の声がした。楓は振り向いたものの、薬を塗られたまぶたが開かず、誰が来たのかわからなかった。「え?そうですけど、あなたは?」「雲合署の者です。通報を受け、傷害未遂の証拠も掴んでいます。事情聴取にご協力願えますか」数日後、桜都国際空港:夕月は瑛優の小さな手を握り、到着ロビーの柵の後ろで首を長くして待っていた。「ママ、鹿谷さんってどんな人?」「人ごみの中で一番かっこよくて素敵な人よ。ママの親友なの!」天野と涼は母娘の後ろに立っていた。涼は大あくびをする。今は朝の7時、鹿谷を出迎えるため、まだ暗いうちから起きてきたのだ。空港の旅客たちは、二人のイケメンに足を止めて視線を送っていた。天野はマスクをしていた。人目を引くのは好まないが、長身で逞しい体格、生地の下から浮かび上がる筋肉の輪郭は、否が応でも目を引いてしまう。涼に至っては言うまでもない。際立つ容姿に、八十歳のお年寄りから三歳の子供まで、性別関係なく彼の方を振り返った。「元社員のことを随分気にかけているんだな」天野が感慨深げに言った。涼の視線は夕月から離れない。「俺が気にかけているのは、君の妹だけさ」率直に言い放つ。鹿谷がどんな顔をして
涼は侮蔑的に嗤った。「ふん、誰かの心が砕ける音が聞こえたようだが」その冷たく傲慢な声で言い放つと、天野の顔を窺った。てっきり天野も自分と同じように顔を曇らせているだろうと思った。だが意外なことに、腕を組んだまま二人を見つめる天野の深い瞳には、穏やかな光が宿っていた。涼の顔が引きつる。苦い思いをしているのは、この自分だけというのか。地面に落ちて砕けた心は、まさか自分のものだったとは!ふん、さすがは天野少尉、こんな場面でも冷静沈着を装うとはな。「きっと今頃、鹿谷の顔面を殴りつけたい衝動と戦っているんだろう」涼は天野の表情を読み取ろうとする。「夕月のためだけに、必死に理性を保っているのさ」深いため息をつく。天野を見習わなければ。度量がなくては、どうして夕月の心の中で二番目の座を射止められようか!?「私も鹿谷さんにチューしたい!」夕月が美味しそうにキスをするのを見た瑛優が、待ちきれない様子で声を上げた。夕月は瑛優を抱き上げ、瑛優は鹿谷の頬に何度もキスをした。鹿谷の潤んだ瞳は首筋まで真っ赤に染まっていた。恥ずかしそうに「君の娘さん?」と尋ねる。夕月は頷いて「うん、藤宮瑛優よ。瑛優って呼んでね」鹿谷は優しい眼差しで瑛優を抱きしめ、夕月は二人を腕の中に包み込んだ。涼は息が詰まりそうになった。まるで高空から墜落する傷ついた白鶴のように、整った顔が雪のように蒼白になる。「何で飛び出さないんだ?」涼はもう我慢できなかった。「何のために?」天野は首を傾げる。「お前が殺して、俺が死体処理する!」涼は既に天野の獄中生活まで想定していた。まさに一石二鳥、ライバルを二人まとめて片付けられる。天野の目に軽蔑の色が浮かぶ。涼の鹿谷への敵意を感じ取り、諭すように言った。「久しぶりの再会を邪魔するな」「お前、兄貴なのに、人前でイチャつかせるのを放っておくのか?!」涼は目を見開いた。「イチャつくのが何か問題でもあるのか?夕月は随分会えていなかったんだぞ」天野は平然と返す。涼は天野を見つめ直す。まるで初めて会った人を見るかのように。「天野少尉、もうNo.2の座を諦めているとは」天野は眉をひそめた。「は?」涼の口から飛び出したのは一体何だ?涼は鹿谷に暗い視線を向ける。その眼差しは鹿谷を刺し殺さん
鹿谷は涼の刺すような視線に気付き、小さな心臓が震えた。誰だろう、この人。どこかで見た顔のような。飛行機を降りたばかりなのに、なぜか敵に出くわしてしまったような。瑛優は軽やかにキャリーバッグを押し、ツルツルした床の上を駆けてくる。涼の鋭い眼差しに怯えた鹿谷は、思わず夕月の後ろに身を隠した。人見知りの激しい鹿谷は人との接触が苦手で、特に異性の視線を避けていた。を短く切り、中性的な服装を好んでからは、異性の視線を感じることも少なくなった。たまに視線を感じても、整った容姿への好意的なものばかりだった。天野は素っ気なく頷いて「久しぶり」と挨拶した。鹿谷も軽く頷き返すだけで、挨拶を済ませた。夕月の兄については、長身で胸板が厚いという印象以外、特に記憶に残っていない。「こちらは桐嶋さん。月光レーシングクラブのオーナーよ」と夕月が紹介する。鹿谷は驚いた様子で、夕月の耳元に顔を寄せ、「てっきりオーナーは、おじさんかと思ってました」と囁いた。涼は奥歯をギリギリと噛みしめ、額に青筋が浮かんだ。生意気な小僧め。目の前で夕月に密着しやがって。「挑発のつもりか」低い声が喉の奥から漏れる。涼は鋭い視線で鹿谷を射抜くように見つめ、手を差し出した。「はじめまして」氷のような声が響く。鹿谷は夕月の腕にしがみついたまま、涼との握手を避け、小さく頷くだけだった。涼の黒い瞳は、厚い氷に覆われた湖面のように冷たく光る。「伶は人見知りで、男性との接触が苦手なの」夕月が説明する。言葉が終わらないうちに、涼の威圧的な雰囲気に怯えた鹿谷は首を縮め、夕月の後ろに隠れるように身を寄せた。自然な仕草で夕月の細い腰に腕を回す。夕月に抱きつくことで、安心感を得られるかのように。涼の目に宿った氷のような冷気が、一瞬にして砕け散った!殺人のプロに相談したいものだ。左手から切り落とすべきか、右手からか。そして夕月は、鹿谷のこんな親密な接触を全く嫌がる様子もない。なるほど、こういうタイプが好みとはな!!涼は深いため息をつく。生まれ変わりたい!か弱くて無力そうな子犬のような態度で、夕月の母性本能を刺激するわけか。涼は心の中で、自分の勝算を計算し直していた。鹿谷は見ていた。涼の敵意と軽蔑に満ちた目が、突如として底意地
藤宮夕月(ふじみやゆづき)は娘を連れて、急いでホテルに向かった。すでに息子の5歳の誕生日パーティーは始まっていた。橘冬真(たちばなとうま)は息子のそばに寄り添い、ロウソクの暖かな光が子供の幼い顔を照らしていた。悠斗(ゆうと)は小さな手を合わせ、目を閉じて願い事をした。「僕のお願いはね、藤宮楓(いちのせかえで)お姉ちゃんが僕の新しいママになってくれること!」藤宮夕月(ふじみやゆづき)の体が一瞬震えた。外では激しい雨が降っていた。娘とバースデーケーキを濡らさないようにと傘を差し出したが、そのせいで自分の半身はずぶ濡れになっていた。服は冷たい氷のように張り付き、全身を包み込む。「何度言ったらわかるの?『お姉ちゃん』じゃなくて、『楓兄貴(かえであにき)』って呼びな!」藤宮楓は豪快に笑いながら言った。「だってさ、私とお前のパパは親友だぜ~?だからママにはなれないけど、二番目のパパならアリかもな!」彼女の笑い声は個室に響き渡り、周りの友人たちもつられて笑い出した。だが、この場で橘冬真をこんな風にからかえるのは、藤宮楓だけだった。悠斗はキラキラした瞳を瞬かせながら、藤宮楓に向かって愛嬌たっぷりの笑顔を見せた。「で、悠斗はどうして急に新しいママが欲しくなったんだ?」藤宮楓は悠斗の頬をむぎゅっとつまみながら尋ねた。悠斗は橘冬真をちらりと見て、素早く答えた。「だって、パパは楓兄貴のことが好きなんだもん!」藤宮楓は爆笑した。悠斗をひょいっと膝の上に乗せると、そのまま橘冬真の肩をぐいっと引き寄せて、誇らしげに言った。「悠斗の目はね、ちゃーんと真実を見抜いてるのさ~!」橘冬真は眉をひそめ、周囲の人々に向かって淡々と言った。「子供の言うことだから、気にするな」まるで冗談にすぎないと言わんばかりだった。だが、子供は嘘をつかない。誰もが知っていた。橘冬真と藤宮楓は、幼い頃からの幼馴染だったことを。藤宮楓は昔から男友達の中で育ち、豪快な性格ゆえに橘家の両親からはあまり気に入られていなかった。一方で、藤宮夕月は18歳のとき、藤宮家によって見つけ出され、家の期待を背負って、愛情を胸に抱きながら橘冬真と結婚した。そして、彼の子を産み、育ててきたのだった。個室の中では、みんなが面白がって煽り始
藤宮楓は振り返り、橘冬真にいたずらっぽく舌を出した。「夕月、また勘違いしてるわ、今すぐ説明してくるね!」「説明することなんてないさ。彼女が敏感すぎるだけだ」橘冬真は淡々とした表情で、藤宮夕月が置いていった半分の誕生日ケーキをちらっと見て、眉を少しひそめた。橘冬真の言葉で、周りの人々は皆、安心したように息をついた。藤宮夕月は腹を立てて出て行っただけで、何も大したことじゃない。他の人たちは口々に同調した。「夕月はただ気が立っていただけ、冬真が帰ったらすぐに宥めればいいさ」「そうだよ、夕月が本当に冬真と離婚するなんて、あり得ない。誰でも知ってるよ、夕月は冬真のために命がけで子供を産んだんだから」「もしかしたら、外に出た瞬間に後悔して戻ってくるかもね!」「さあさあ、ケーキを食べよう!冬真が帰ったら、夕月はすぐに家の前で待っているだろうね!」橘冬真は眉を緩め、藤宮夕月が怯えて、何も言わずに自分を気遣って立つ姿を想像できた。悠斗は美味しそうに、藤宮楓が持ってきたケーキを食べている。クリームが口の中に広がり、舌がしびれるような感覚がするが、彼は気にしなかった。ママはもう自分のことを気にしない。なんて素晴らしいことだろう。誕生日の宴が終わり、橘冬真は車の中で目を閉じて休んでいた。窓から差し込む光と影が、彼の顔を明滅させていた。「パパ!体がかゆい!」悠斗は小さな猫のように低い声で訴えた。橘冬真は目を開け、頭上のライトを点けた。そこには悠斗の赤くなった顔があり、彼は体を掻きながら呼吸が荒くなっていた。「悠斗!」橘冬真はすぐに悠斗の手を押さえ、彼の首に赤い発疹が広がっているのを見た。悠斗はアレルギー反応を起こしている。橘冬真の表情は相変わらず冷徹だったが、すぐにスマートフォンを取り出して、藤宮夕月に電話をかけた。電話がつながった瞬間、彼が話そうとしたその時、電話越しに聞こえてきたのは、「おかけになった電話は現在使われておりません」橘冬真の細長い瞳に冷たい怒りが湧き上がった。子供がアレルギーを起こしているのに、藤宮夕月は無視しているのか?「運転手、速くしろ。藤宮家へ戻れ!」彼は悠斗を抱えて家に戻った。玄関を見やると、そこはいつも通りではなく、藤宮夕月が待っているはずの場所に誰もいなかった。佐
橘冬真はスコットランドエッグを食べたいと言ったが、実際は佐藤さんに藤宮夕月に連絡を取らせるためだった。彼はすでに藤宮夕月に逃げ道を作っている。「奥様は、もう帰らないと言ってます」「くっ…くっ…!」橘冬真はコーヒーをむせて、咳き込んだ。抑えきれずに咳が止まらない。佐藤さんは何かを察した。「橘様と奥様、喧嘩でもされたんですか?」「余計なことを言うな!」男は低い声で一喝し、レストランの中の温度が急激に下がった。佐藤さんは首をすくめて、それ以上何も言えなかった。橘冬真は手にしたマグカップをぎゅっと握りしめた。藤宮夕月が帰らないなんてあり得ない。今頃、彼女は会社に送る愛情たっぷりのお弁当を準備しているはずだ。以前は、藤宮夕月が彼を怒らせると、昼食を自分で会社に届けに来て、和解を求めてきたものだ。美優は食卓の前に座り、朝食を見て目を輝かせた。「わぁ!ピータンチキン粥だ!」美優はピータンチキン粥が大好きだが、悠斗はピータンを見ると吐き気を催す。藤宮家では、藤宮夕月が粥を作ることはほとんどない。橘冬真と悠斗は粥が嫌いだからだ。藤宮大奥様も言っていた、それは貧しい人たちが食べるものだと。貧しい家では米が足りないから粥を作るのだ。藤宮家では、三食きちんとした栄養バランスを取ることが重要だ。藤宮夕月が、たとえ彼女が作る粥に栄養があって、子どもたちに食べさせれば消化を助けると思っても、それでもピータン、鶏肉、青菜を入れると、藤宮家の人々からは「ゴミみたいだ」と笑われ、気持ち悪いと言われてしまう。特に悠斗のためにピータンを入れずに鶏肉と青菜だけで粥を作った時、悠斗はそれをゴミ箱に捨て、藤宮夕月は二度と粥を作ることはなくなった。彼女は悠斗に、食べ物を無駄にしてはいけないと教えていた。悠斗は怒って彼女に訴えた。「これは豚に食べさせるものだ!どうして僕に食べさせるの!ママはやっぱり田舎から来たんだな!」藤宮夕月は胸が詰まる思いがし、ふと我に返ると、美優はすでにチキン粥を食べ終えていた。美優は満腹でげっぷをし、きれいに舐めたお椀を見つめながら、まだ少し食べ足りないような表情を浮かべた。「祖母の家に来ると、ピータンチキン粥が食べられるんだね?」藤宮夕月は彼女に言った。「これからは、食べたいものを食べよう。他の人
鹿谷は涼の刺すような視線に気付き、小さな心臓が震えた。誰だろう、この人。どこかで見た顔のような。飛行機を降りたばかりなのに、なぜか敵に出くわしてしまったような。瑛優は軽やかにキャリーバッグを押し、ツルツルした床の上を駆けてくる。涼の鋭い眼差しに怯えた鹿谷は、思わず夕月の後ろに身を隠した。人見知りの激しい鹿谷は人との接触が苦手で、特に異性の視線を避けていた。を短く切り、中性的な服装を好んでからは、異性の視線を感じることも少なくなった。たまに視線を感じても、整った容姿への好意的なものばかりだった。天野は素っ気なく頷いて「久しぶり」と挨拶した。鹿谷も軽く頷き返すだけで、挨拶を済ませた。夕月の兄については、長身で胸板が厚いという印象以外、特に記憶に残っていない。「こちらは桐嶋さん。月光レーシングクラブのオーナーよ」と夕月が紹介する。鹿谷は驚いた様子で、夕月の耳元に顔を寄せ、「てっきりオーナーは、おじさんかと思ってました」と囁いた。涼は奥歯をギリギリと噛みしめ、額に青筋が浮かんだ。生意気な小僧め。目の前で夕月に密着しやがって。「挑発のつもりか」低い声が喉の奥から漏れる。涼は鋭い視線で鹿谷を射抜くように見つめ、手を差し出した。「はじめまして」氷のような声が響く。鹿谷は夕月の腕にしがみついたまま、涼との握手を避け、小さく頷くだけだった。涼の黒い瞳は、厚い氷に覆われた湖面のように冷たく光る。「伶は人見知りで、男性との接触が苦手なの」夕月が説明する。言葉が終わらないうちに、涼の威圧的な雰囲気に怯えた鹿谷は首を縮め、夕月の後ろに隠れるように身を寄せた。自然な仕草で夕月の細い腰に腕を回す。夕月に抱きつくことで、安心感を得られるかのように。涼の目に宿った氷のような冷気が、一瞬にして砕け散った!殺人のプロに相談したいものだ。左手から切り落とすべきか、右手からか。そして夕月は、鹿谷のこんな親密な接触を全く嫌がる様子もない。なるほど、こういうタイプが好みとはな!!涼は深いため息をつく。生まれ変わりたい!か弱くて無力そうな子犬のような態度で、夕月の母性本能を刺激するわけか。涼は心の中で、自分の勝算を計算し直していた。鹿谷は見ていた。涼の敵意と軽蔑に満ちた目が、突如として底意地
涼は侮蔑的に嗤った。「ふん、誰かの心が砕ける音が聞こえたようだが」その冷たく傲慢な声で言い放つと、天野の顔を窺った。てっきり天野も自分と同じように顔を曇らせているだろうと思った。だが意外なことに、腕を組んだまま二人を見つめる天野の深い瞳には、穏やかな光が宿っていた。涼の顔が引きつる。苦い思いをしているのは、この自分だけというのか。地面に落ちて砕けた心は、まさか自分のものだったとは!ふん、さすがは天野少尉、こんな場面でも冷静沈着を装うとはな。「きっと今頃、鹿谷の顔面を殴りつけたい衝動と戦っているんだろう」涼は天野の表情を読み取ろうとする。「夕月のためだけに、必死に理性を保っているのさ」深いため息をつく。天野を見習わなければ。度量がなくては、どうして夕月の心の中で二番目の座を射止められようか!?「私も鹿谷さんにチューしたい!」夕月が美味しそうにキスをするのを見た瑛優が、待ちきれない様子で声を上げた。夕月は瑛優を抱き上げ、瑛優は鹿谷の頬に何度もキスをした。鹿谷の潤んだ瞳は首筋まで真っ赤に染まっていた。恥ずかしそうに「君の娘さん?」と尋ねる。夕月は頷いて「うん、藤宮瑛優よ。瑛優って呼んでね」鹿谷は優しい眼差しで瑛優を抱きしめ、夕月は二人を腕の中に包み込んだ。涼は息が詰まりそうになった。まるで高空から墜落する傷ついた白鶴のように、整った顔が雪のように蒼白になる。「何で飛び出さないんだ?」涼はもう我慢できなかった。「何のために?」天野は首を傾げる。「お前が殺して、俺が死体処理する!」涼は既に天野の獄中生活まで想定していた。まさに一石二鳥、ライバルを二人まとめて片付けられる。天野の目に軽蔑の色が浮かぶ。涼の鹿谷への敵意を感じ取り、諭すように言った。「久しぶりの再会を邪魔するな」「お前、兄貴なのに、人前でイチャつかせるのを放っておくのか?!」涼は目を見開いた。「イチャつくのが何か問題でもあるのか?夕月は随分会えていなかったんだぞ」天野は平然と返す。涼は天野を見つめ直す。まるで初めて会った人を見るかのように。「天野少尉、もうNo.2の座を諦めているとは」天野は眉をひそめた。「は?」涼の口から飛び出したのは一体何だ?涼は鹿谷に暗い視線を向ける。その眼差しは鹿谷を刺し殺さん
「と、冬……」首に巻き付いている細長い生き物の正体に気付いた!目を見開いても、その全容は闇に溶けて見えない。窒息しそうな恐怖に、声を出すことすら困難になっていく。「うっ!」両足から力が抜け、その場に気を失った。斜面の上方には監視カメラが設置されていることに気付いた冬真は、熟考の末、悠斗を連れて斜面の下に戻った。翌朝早く、冬真は悠斗と楓を病院に連れて行った。斜面の下には虫が異常に多く、冬真の顔と首には何カ所も虫刺されの腫れが出来ていた。服の襟元から虫が入り込み、胸元まで刺されていた。悠斗も全身が発疹だらけになっていた。楓の状態は更に酷かった。斜面の下で気を失っている間に、まぶたを虫に刺され腫れ上がり、目を開けることすらできなくなっていた。楓は自分が盲目になったと思い込み、冬真と悠斗の鼓膜が破れそうな悲鳴を上げた。ベッドにうつ伏せになった楓の尻と太腿に、看護師が薬を塗っている。楓が延々と悲鳴を上げ続けるものだから、看護師は何度も目を白黒させていた。「藤宮楓さんでしょうか?」後ろから女性の声がした。楓は振り向いたものの、薬を塗られたまぶたが開かず、誰が来たのかわからなかった。「え?そうですけど、あなたは?」「雲合署の者です。通報を受け、傷害未遂の証拠も掴んでいます。事情聴取にご協力願えますか」数日後、桜都国際空港:夕月は瑛優の小さな手を握り、到着ロビーの柵の後ろで首を長くして待っていた。「ママ、鹿谷さんってどんな人?」「人ごみの中で一番かっこよくて素敵な人よ。ママの親友なの!」天野と涼は母娘の後ろに立っていた。涼は大あくびをする。今は朝の7時、鹿谷を出迎えるため、まだ暗いうちから起きてきたのだ。空港の旅客たちは、二人のイケメンに足を止めて視線を送っていた。天野はマスクをしていた。人目を引くのは好まないが、長身で逞しい体格、生地の下から浮かび上がる筋肉の輪郭は、否が応でも目を引いてしまう。涼に至っては言うまでもない。際立つ容姿に、八十歳のお年寄りから三歳の子供まで、性別関係なく彼の方を振り返った。「元社員のことを随分気にかけているんだな」天野が感慨深げに言った。涼の視線は夕月から離れない。「俺が気にかけているのは、君の妹だけさ」率直に言い放つ。鹿谷がどんな顔をして
食事を終えた夕月は、待ちきれないように凌一の書斎へと足を向けた。というより図書館と呼ぶべき空間だった。この邸宅には三層吹き抜けの図書館があり、絶版本の宝庫であり、その多くのデータは機密扱いで、一流大学の教授ですら容易にアクセスできないものばかりだった。夕月は知識の海原に身を委ねたが、瑛優と天野が待っていることもあり、二時間余り読書を楽しんだ後、名残惜しそうに書斎を後にした。雲上牧場、斜面の下方にて:山風が冷たく吹き抜けていく。「パパ、おしっこ!もう我慢できないよ!!」悠斗の声が今にも泣き出しそうだった。家の至宝として大切に育てられてきた御曹司が、こんな窮地に追い込まれるとは。悠斗は斜面に寄りかかったまま、両手を拘束され身動きが取れない。トイレはおろか、ズボンを下ろすことすらできない状態だった。冬真は悠斗の傍らに横たわっていた。アウトドア用のジャケットを着ていても、夜露に濡れた山林の中で気温は急激に下がり、長時間動けない状態が続いて血行が悪くなり、全身が強張り、手足の感覚が鈍くなっていた。冬真は顔を引き締めて深いため息をつき、これも凌一からの試練だと自分に言い聞かせた。だが悠斗が耳元でずっと唸り声を上げ続けるものだから、冬真はいらだちを覚えていた。普段から子供と過ごす時間など少なかった。悠斗という子は本当に分かっていない。この五年間、夕月は一体どんな教育をしてきたのか。先ほど冬真が斜面の上を呼んでみたが、誰も見張りはいないようだった。冬真は上方を見上げた。時間が経つほど、ここに人が来る可能性は低くなる。思い切って片手で悠斗を抱え上げ、まず悠斗を上に連れて行こうと考えた。その後で人を呼んで楓を助けに来ればいい。結局楓は足首を捻り、尻と太腿まで怪我している。この虚弱な二人を連れて脱出するのを想像すると、冬真は面倒くさく感じた。元々、弱者が大嫌いだった。冬真は片手で体を支え上げた。斜面を這い上がったその時、漆黒の森の中に幾つかの懐中電灯の光が揺らめくのが見えた。急いで身を屈め、斜面の下に身を隠す。「声を出すな」悠斗に小声で言い聞かせた。悠斗は小さな唇を尖らせ、顔を真っ赤にして我慢している。斎藤鳴は凌一の部下に連れられ、斜面の縁まで来ていた。部下が鳴に言い渡す。「今夜は
一介の大学教授に過ぎない斎藤鳴が、オームテックの助成研究者の一人でありながら、幹部陣にこれほどの影響力を持っているとは。凌一は静かにスマートフォンを手に取り、部下に指示を送った。「斎藤鳴の一挙手一投足を監視しろ」電話の向こうで鳴は上機嫌で続けた。「お礼をしたいなら、食事でも御馳走してくださいよ」夕月は応じた。「事が成就した暁には、きちんとお礼をさせていただきます。ただ現時点では、不必要な憶測を避けるため、接触は控えめにした方が良いかと」鳴は理解を示した。「もちろんです。買収案件の責任者就任が公になれば、橘社長も目を光らせてくるでしょうからね。くれぐれも慎重に」そう言いながら鳴は憤りを露わにした。「橘冬真のやつ、本当に最低ですよ!悠斗のガキもそうだ。父子でそんな真似を働くなんて、見てるとぶん殴ってやりたくなります!」「では雲上牧場で待ち伏せでもするか」凌一の冷ややかな声が響いた。「!!!」凌一の声に、鳴は猫を前にしたネズミのように首を縮めた。先ほど夕月が凌一の家にいると言っていたのだから、凌一の声が聞こえても不思議ではない。「冬真親子も楓も、斜面を登ってくる時を狙って、思う存分殴ればいい」鳴の足から力が抜けた。単なる虚勢を張っただけだったのに!実際に冬真と対面したら、おとなしく尻尾を巻くに決まっている。「た、橘博士、今夜はとても重要な資料の整理が……」電話越しの斎藤の声が震えていた。「雲上牧場でやればいい。迎えを手配しておく」「で、でも……」凌一の声が氷柱のように耳に突き刺さる。「『はい』とだけ答えればいい」電話越しにもかかわらず、鳴は見えない大きな手に首を締め付けられているような感覚に襲われた。声が震えて言葉にならない。結局、おとなしく凌一に従うしかなかった。「は、はい」夕月は、今頃の斎藤鳴の惨めな様子が目に浮かんだ。凌一の真意は、鳴への警告だということも分かっていた。通話を切ると、凌一が一言。「三流だな」夕月は低い声で呟いた。「必ず報いを受けさせます」凌一は不審に思い、尋ねた。「何かあったのか?」夕月は深いため息をつき、「私の博士論文を盗用されたんです」凌一の切れ長の瞳に、鋭い光が宿った。天野も初耳だった。「どういうことだ?」夕月は自嘲気味に
「星来くん」夕月は両手を広げた。「私たちの未来は、自分で決められるの。もう二度と同じ過ちは繰り返さない。あなたの気持ちを裏切らないわ」星来は躊躇いながらも、夕月を見る目には深い愛着と憧れが満ちていた。小さな体が夕月に飛び込み、華奢な腕が首に回される。彼は夕月に母親になってほしくはない。ただ、自由であってほしかった。夕月は凌一の方を向いて言った。「先生の想いも、決して無駄にはしません」本当に愛する人は、相手の幸せが少しでも損なわれることを許せない。たとえ自分の想いを押し殺してでも、その人を自由な風のように解き放ちたいと願う。ただその人が幸せに生き、無数の星々のように輝いているのを見られれば、それだけで十分なのだ。夕月は星来の手を握り、ダイニングルームへ戻った。瑛優は星来が食卓に着いたのを見て、自ら星来の取り皿に料理を取り分けてあげた。夕食後、凌一が切り出した。「私との賭けのことは覚えているかな?残り時間はあと3週間を切っているが」「藤宮テックに対して、いつ動くつもりだ?」夕月は唇の端を上げ、少し考えてから「うーん……あと1、2週間くらいかしら」凌一は静かな眼差しで彼女を見つめた。夕月には確かな計画があるのだろう。その自信に満ちた様子からすると、藤宮テックはすでに彼女の掌の上で踊らされているも同然だ。だが、藤宮盛樹との関係は最悪と言っていい。盛樹が自ら藤宮テックを夕月に譲渡するはずがない。「2週間で完全に掌握できると確信しているのか?」夕月が答える前に、彼女のスマートフォンが鳴った。画面を確認した夕月は、凌一にディスプレイを見せた。斎藤鳴からの着信だった。夕月は通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えた。鳴の興奮した声が一同の耳に届いた。「夕月さん、今どちらにいるんですか?素晴らしいニュースがあるんです!」夕月は答えた。「橘凌一博士のお宅にいるわ。斎藤さん、直接会ってお話しする必要があるのかしら?」夕月が橘博士の家にいると聞いた途端、鳴の下心は一気にしぼんでしまった。本来なら夕月を一人で誘い出すつもりだったのだ。「ああ、橘凌一のところですか」鳴の声には隠しきれない残念さが滲んでいた。鳴も凌一に取り入ろうとしなかったわけではない。国家機密プロジェクト
その絵の中で、悲しい表情を浮かべているのは女王だけだった。また一枚の絵が滑り出てきた。クレヨンで描かれた絵には、ピンクのドレスの女王が娘の手を引いて城を出て行く様子が描かれていた。女王の顔には明るい笑顔が溢れている。三枚目の絵を受け取る。そこには娘の手を引く女王が、別の王様と出会う場面が描かれていた。王様の隣には小さな男の子が立ち、王様はダイヤの指輪を手に女王にプロポーズをしている。さらにドアの隙間からサラサラと五枚目の絵が滑り出てきた。新しい王様と家族になった女王と娘。女王の表情には戸惑いの色が浮かんでいる。星来は絵の才能がある。単純な線で描かれた絵なのに、人物の感情が見事に表現されていた。夕月はドアに背を寄せて床に座り込んだ。手には星来が描いた五枚の絵と、『ママになってほしくない』と書かれた紙切れを握っている。夕月の目に熱いものが込み上げ、瞳が潤んでいく。「ママになってほしくない」—— それは新しい家族の中で、また別の子供の母親となり、新たな母としての重荷を背負ってほしくないという願いだった。でも、これだけたくさんの絵を描いてくれたということは、星来が夕月を慕っている証。だからこそ、大切な夕月を傷つけたくないのだ。自分が夕月を困らせる存在になりかねないと気付いた時、星来は真っ先に夕月から距離を置こうとした。この部屋に自分を閉じ込めれば、夕月は同じ轍を踏まずに済むと、そう考えているのだろうか。車椅子の軋む音に振り向くと、凌一が手すりに手を添えて近づいてきていた。「どうして床に座っているんだ?」彼は夕月を見下ろすように問いかけた。夕月は星来から受け取った絵を凌一に差し出した。「星来くん……賢くて、切ない子ですね」凌一は養子の描いた絵に目を落として言った。「好きだからといって、所有する必要はない」夕月を見つめ、率直に語り始めた。「かつて私は間違っていた。君は私の出会った中で最も優秀な学生だった。同時に、一人の女性でもある。温室で大切に育て、夫に守られてこそ、君は輝けると思っていた。しかし現実は、その証明が誤っていたことを教えてくれた。人の心は移ろい易い。誰かに身を委ねる弱者の立場に、自分を置くべきではないのだ」耳に蘇る冬真の怒号。「お前だって下心があったはずだ!
凌一は既に天野から視線を外していた。「ご自由に」そして夕月に向き直り、穏やかな眼差しを向ける。「星来を助けてくれて、ありがとう」「違います。星来くんが私を助けてくれたんです」夕月は首を振った。星来は夕月の手を握り、自分の胸を叩いてから、スマートウォッチを指差した。夕月はすぐに星来の言いたいことを理解した。自分が夕月を守ると、そう言いたかったのだ。「今日の星来くん、とっても勇敢だったわね」夕月は優しく微笑んだ。「星来くん!チューしていい?」瑛優が星来に抱きついた。星来が嫌がる様子を見せなかったので、瑛優は星来の頬にキスをした。夕月も膝をついて、星来の頭に軽くキスを落とした。星来の頬が薔薇色に染まり、漆黒の瞳には無数の星が瞬いているようだった。先ほどキャンプ場に戻った時、夕月は瑛優に星来とキノコ採りをしていた時の出来事を話していた。瑛優は話を聞いて、悠斗と一戦交えたい気持ちでいっぱいになった。でも、悠斗が今夜斜面で野宿すると聞いて、学校で会った時に、拳を見せながらじっくり話し合おうと決めた。天野は凌一の様子を観察していた。氷のような眼鏡の奥で、凌一の瞳が夕月と星来を見つめる時、不思議な優しさを帯びていた。「橘博士、息子さんのお母さんを探してみては?」天野の言葉に、食事の準備をしていた使用人が続けた。「坊ちゃまは藤宮さんと本当に仲が良いですから、藤宮さんがお母様になってくだされば……」この屋敷で働く使用人たちは、夕月が以前凌一の甥の嫁だったことを知っていた。しかし橘家の人々との接点は少なく、ただ夕月が書斎に出入りを許され、星来が彼女との触れ合いを嫌がらない様子を見て、父子にとって特別な存在なのだと感じていた。その言葉が空気を切り裂いた途端、星来の様子が一変した。瑛優に抱きしめられていた星来が突然身をよじり始め、瑛優は慌てて腕を解いた。星来は後ずさりし、夕月を見上げた瞳が一瞬で赤く染まる。そして踵を返すと、自室へと駆け出した。「星来くん!」夕月の呼びかけに、星来の足取りはさらに速くなった。「申し訳ございません」使用人は自分の失言に気付き、深く頭を下げた。「下がれ」凌一の声が冷たく響く。夕月と瑛優が星来の走り去った方を見つめているのを見て、「放っておけ。食事にしよう
その時、天野は緊張した警戒犬のように身を固くしていた。夕月は車内に滑り込むと、優しい声で「星来くん、抱っこしていい?」と囁きかけた。まだ眠そうな星来は、夕月の方へふわりと身を寄せた。彼女の胸元に倒れ込むように身を預け、夕月は慎重に車から抱き出した。星来は夕月の肩に顔を埋めた。柔らかな甘い香りが鼻をくすぐる。半眼を閉じながら、夕月の温もりに甘えるように、小さな腕が自然と彼女の首に回された。出迎えた使用人たちは、星来を抱く夕月の姿に目を見開いた。人見知りの激しい星来は、誰とも身体的な接触を持とうとしない。最も親しい凌一でさえ、時には話しかけても相手にされないほどだった。夕月に抱かれている星来を見て、自閉症が改善に向かっているのだろうかと、使用人たちは驚きを隠せなかった。「坊ちゃまがお眠りのようですが、私が抱かせていただきましょうか?」使用人が一歩前に出て声をかけた。夕月は首を振った。「大丈夫です。頭は少し覚醒してきましたが、体がまだ眠たいみたいなの」星来の背中を優しく撫でながら、「もう少し、このまま抱かせてあげましょう」天野に抱かれてリビングに入った瑛優は、大きくあくびをして完全に目を覚ました。夕月は星来をソファに座らせ、ウェットティッシュで顔と手を丁寧に拭い始めた。かがんだ姿勢で、墨のような黒髪が滝のように垂れ、その仕草は限りなく優しく、指先から手のひらまでが暖かだった。星来の瞳は完璧なアーモンド形で、黒真珠のような漆黒の瞳が目全体の四分の三を占め、白目はほんの僅かしか見えなかった。その瞳で夕月をじっと見つめながら、無意識に手を伸ばし、夕月の髪に触れようとする。「凌一様がいらっしゃいました」使用人の声が響く。星来は夢から覚めたように、慌てて手を引っ込めた。振り返ると、電動車椅子に座った凌一が近づいてきていた。ベージュのカジュアルスーツを着こなし、縁なしメガネの奥の瞳は冷たく光っていた。夕月はずっと思っていた。凌一は白が似合う人だと。まるでこの世の穢れが寄り付かないかのように。まるで聳え立つ雪山のように、清らかで、畏怖の念を抱かずにはいられない存在。凌一は天野を一瞥した。自分の領域に侵入者を見つけたような眼差しだった。黒いコートを纏った天野は、中の黒シャツが逞しい筋肉で起