【神崎慎】「ほんと、何か変っすよ」陽介さんが、心配そうに僕に向かって手を伸ばす。その手に過剰反応して、思わずびくんと身体が跳ねた。「すみません、つい」驚いて手を引っ込めた陽介さんは、それでも尚、僕の心配をしてくれているのはひしひしと伝わってくる。確かに、僕は今、おかしい。原因の大半は、陽介さんが店に戻ってくるまでの間、佑さんと二人の時に起きた出来事にある。陽介さんたちが店を出てから、暫くして他のお客も居なくなり、普段より早めに店じまいをすることになった。有線で流れていた音楽を止めると、佑さんが何かにやにやと唇を歪ませながら僕を見た。「お前さ、なんか間違ってねえ?」「は? なにが」「気になって仕方ないからって、何女の方を悩殺しようとしてんだよ」くつくつと可笑しそうに肩を揺らす。佑さんに指摘されたことは十分に身に覚えがあって、僕はいっそわかりやすいくらいに狼狽えた。「そ……そんなことない。いつも通りだ」「まあ、お前にしかできない妨害かもしんないけどさー、妨害にしちゃ消極的だ。どうせやるなら結婚詐欺くらいの勢いで落としにかかんねえと」「別にそんなんじゃないってしつこいな!」確かにいつもより若干、女の子が喜びそうな接客をしたかもしれないが。それは、アカリちゃんが僕から見ても可愛らしかったからで。僕は、元々可愛い女の子を見るのは好きだし、ほら、言わばマリちゃんに対して見せるのと同じような。と、脳内で勝手に慌てて誰に対してかわからない言い訳を並べ立てていた。だけど本当は自覚している。合コンという名目で、浩平さんが陽介さんにあてがおうとしているアカリちゃんを見た時、僕は軽くないショックを受けた。陽介さんの隣に並んで店に入って来たのは、小柄で華奢で、清楚な長い黒髪をハーフアップにした、可愛らしい女の子だった。僕とは全く、正反対の。男というのは、一般的にああいう子が好みだろうなと見ていて思った。だけど陽介さんは、僕を好きだと言う。信じてくれと、真摯な言葉で訴えてくれたことを忘れたわけじゃない。その言葉に、僕はまだ一度も応えていないというのに、ショックを受けた自分も嫌だ。独占欲ばかり一人前に成長して、僕は一体何がしたいんだろう。テーブル席とカウンターテーブルをダスターで綺麗に拭いて、カウンターに戻ってくると、流し台に汚れた
【高見陽介】 帰国子女らしいって話。 何か国語だ? ぺらっぺらで。 取ってくる契約は桁違いの大口だったり、それでいて会話もスマートで偉ぶらない。ビジュアルも完璧、男の俺から見たら怪物みたいな存在の上司。まだ若いからって課長職に甘んじていたけど、将来約束された本物のエリートだった。 普段なら争う対象でもなく、同期じゃなくて良かったと思うくらいだ。仕事でなんか敵うわけもねーから成績を比べたことすらなかったけど。「ごめんね、陽ちゃん。私、真田さんに着いて行きたいの」独立した鉄人上司に、彼女を取られた。 この時ばかりは、流石に腸煮えくり返ったとも。「おい陽介……もう帰ろうって」 同僚に自棄酒に付き合わせて、半分は酔ったフリの蛇行歩きだ。浩平がさりげなくタクシー乗り場に誘導していることに、気付かないわけがない。「嫌だ! 俺はまだまだ飲むぞまだ日付変わったばっかだろ!」 「日付変わったから帰ろうっつってんだろうがしばくぞこら」 あー、明日の朝、酒抜けねえかも。 残った理性がそう冷静に判断するけど、入社した頃から二年付き合った彼女を掻っ攫われた心の痛手は、酒で誤魔化そうとする程度には、ダメージはでかかった。 秋を迎えて夜は少々肌寒い。酒効果で妙にチカチカする視界で空に浮かぶ月を見ると、尚更感傷に浸りたくなる。 ってか、翔子。 お前結構いい女だったけど、所詮一般の部類だ。 あれはさすがに格が違いすぎるって。 雲の上の存在過ぎてまさかのノーマークだったわ。 そのうちポイっと捨てられるに決まってる。 本気で心配したけれど、それは言わなかった。 余りにも惨めだろ。 可哀想だろ、俺が。 「唯一勝てそうなのって背の高さしかねぇな……」 「あー、人混みでも難なく見つけられる立派な長所だ誇りに思え」 夜風同様、浩平の態度が冷たい。愚痴を垂れ流し過ぎたのか、受け流しもぞんざいになってきた。これ以上面倒がられないようにそろそろ帰るか、とさっき通り過ぎたタクシー乗り場を振り返ろうとしたが、浩平の言葉に引き留められた。「そうだ。そんなに飲みたきゃ、いいとこ連れてってやる」 何かを思いついたようにそう言って、突然すぐ傍の角で左に曲がる。「なんだよいいとこって」 風俗とか言うなよ。 俺は今は女より酒が欲しい。「ショットバーだよ」
石畳の洒落た通りは、街灯もアンティーク感を漂わせて全体のイメージを敢えて統一しているのがわかる。夜は尚更異国の雰囲気を感じさせ、それに倣った店構えが並ぶ中、その店はひっそりとそこにあった。 今はもう照明の落とされたガラス張りの大きな店舗と店舗の間、半畳ほどの狭いステップから地下に繋がる階段を降りていく。暗がりをランプの灯りが照らす中、重厚そうな扉を押し開くと、クラシック音楽と店内の灯りが漏れてきた。「いらっしゃいませ」 耳に心地よいテノールで迎え入れられる。浩平が先に店へと足を踏み入れたが、俺の方が背が高い為店の中をすぐに見渡せた。 それほど広くはない、廊下にカウンターが添えられたような細長い空間で、しかし奥には僅かながらにテーブル席があるようだった。 カウンターの中に、先ほどの声の持ち主が居るのも見える。 が……しかし。 彼が、浩平の言っていた『美人』なのだろうか?「連れがあるなんて珍しいね」 「コイツがどうしても飲みたいって、こんな時間までつき合わされてたんすよ」 カウンターの男と視線が合って「どうも」と会釈をしながら浩平に続いて店内に滑り込む。「マスター、目が冷めそうなの作ってやってください」 「ははは。酒飲みに来てるのに、冷めそうなやつって」 カウンターに座るとマスターはすぐにオシボリを二つ、トントンと並べて、浩平の無茶振りに「難しいな」と笑った。 年は多分、三十後半か四十くらい。 確かにイケメンではあるけれど……顎に少し髭を残した、どちらかというと男くさい男前だった。「同じ会社の?」 「同期なんすよ。浩平がこんな洒落た店に出入りしてるとは知りませんでしたよ」 「いつもは一人で来てんだよ、今日は特別に教えてやったの!」 ジンベースの……なんだっけ? マスターが言ってたけど忘れた。どちらかというと辛口のカクテルはライムが効いてて酔いはあっても目は冴えそうだった。 浩平とマスターが会話しているのを聞きながら、噂の『美人』は一体誰のことなのかと、ちらりと店内を見渡したけど他に誰も見当たらない。 なんだ。 じゃあやっぱ、このおっさんが浩平の言う美人なのか。 釈然としない気分でグラスを空けた時だった。カウンターの中にある恐らくは食糧庫だとか従業員用のスペースの扉が開く。「あ、いらっしゃいませ」 飲ん
すらりとした立ち姿だが、然程高くはない。多分、170と少しくらいだろうが、小さな顔と長い手足が実際よりも長身に見せている。 「佑さん、これ。モンヴィーゾ」 「サンキュ。#慎__まこと__#、ここ頼むな」 マスターが真空パックされた何かを受け取り目の前からカウンターの隅へと移動する。代わりにそのマコトと呼ばれた男が正面に立った。 すっと通った鼻筋に、ふたつの目は恐ろしいほどに均整がとれていた。これが黄金比というやつだろうか。地毛なのか染めているのか、明るい髪色は日本人離れした顔立ちによく似合っている。緩くウェーブのかかった長めの前髪の間から、切れ長のアーモンド形をした目がたっぷりの色気を湛えてこちらを見ていた。 店内の少しオレンジ色を滲ませた灯りの中でもよくわかるほどに白い肌と、ビスクドールのように整った双眸は、確かに『美人』だ。 「いらっしゃい浩平さん。珍しい時間帯ですね」 「ちょっとね、今日は散々コイツに振り回されてんの」 浩平と話す穏やかでしっとりと柔らかいアルトを聞きながら、思わずじっと凝視していると、その薄茶色の瞳がこちらを向いた。 「こちらは初めての方ですよね。いらっしゃいませ、ようこそbarプレジスへ」 「どうも。高見です」 澄ました顔で答えたものの、ちょっとびびった。 いやいや落ち着け俺。 いくら綺麗でも男だから! っつかなんで苗字名乗ったの俺。 俺も名前で呼ばれたかった! 「何澄ましてんだよ陽介」 「たっ」 ばしん、と後頭部を叩かれて頭が前方に垂れる。 「何すんだよ」 「気取ってるからだろ」 「んなことないだろいつもこんなんだろ」 浩平と馬鹿なやり取りをしていたら結局化けの皮は剥がれてしまった。 くそ、ちょっとくらい気取らせろ。 普段居酒屋ばっかりだから、微妙に緊張するんだよ。 妙に小慣れた感じの浩平に敗北感を抱かされ横眼で睨んだら、目の前からくすりと含み笑いが聞こえた。 「何かお作りしますか?」 その声に視線を向けると、男の目がすっと下に落ちて空のグラスを示している。 「あー、じゃあ、同じもので」 「かしこまりました」 カクテルなんてそれほど詳しくもないし、咄嗟に思い浮かばなくて結局そう答えた。 慣れてないのなんてきっとバレバレなんだろうな。いくら気取っても隣から
「どうぞ」と新しいグラスを置いて入れ違いで空のそれを引き上げていく。グラスの中には半分絞られたライムがそのまま沈められていて、マドラーで軽くかき混ぜた。 「はいおまたせ」 マスターが俺と浩平の間に四角い白い皿を置く。そこには数種類の得体のしれないものがバランスよく並べられていて、その一つ一つを凝視して固まった。 ……これ、食えんの? いや、得体はわかる。 チーズなんだろうけど、俺が今まで食ったことのあるチーズとは全く様相が違う。恐らくはブルーチーズだとか多分そんな類の……。 「お前顔に出過ぎ」 「いてっ」 またしても後頭部に衝撃を受けた。 「いちいち叩くな。だってしょうがねーだろ俺が食ったことのあるのはせいぜいカマンベールとかそんなもんなんだよ」 「嘘つけスライスとか三角チーズとかそんなもんだろ」 「俺だってカマンベールくらい食ったことあるわ!」 チーズだと思うにはグロテスクな色合いのそれを目の前に、浩平と馬鹿丸出しの会話をしていると、美人な男がくっと喉を鳴らして肩を震わせているのに気が付いた。 いや、堪えるのとかやめて。 寧ろ笑い飛ばしてネタにしてくれる方が傷つかないから。 「とりあえず食ってみ。俺もここで初めて食ってから癖になって必ず頼むんだよ」 「へー……」 皿の上には比較的手を出しやすい白いチーズと、もうこれ半分はカビだろってくらい黒いものがマーブル状に混じり合ったものまであり、恐る恐る指を伸ばして迷った挙句、俺がつまんだのは、その黒い物体だった。 「うわ、なんだこれ。美味い」 黒の物体は思っていた以上に美味くて、その外観とのギャップに手の中のチーズと見つめ合う。 「言ったろ癖になるって」 何がどう普通のチーズと違うのかというとよくわからないから俺には食レポは務まらない。確かに少し匂いはあるが、気になったのは最初くらいで一口含めばその味に夢中になった。 「おい、全部食うなよ」 「あ、わり。黒いのなくなった」「おまえええ」 「浩平はもう何度も食ってんだろ」 チーズの盛り合わせを挟んで男二人で食い意地の張った言い合いを繰り返していると。 「……っ。ぶふっ……っくくっ、あははは」 ……遂に笑いを取ってしまったらしい。 「最悪、お前のせいで慎さんに笑われた」 「なんでだよお前がケチ
―――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――― 無駄に日当たりのいいこの席が、今日ほど鬱陶しいと思ったことはない。体調が悪いというのに、サンサンと降り注ぎやがって誰だカーテン開けたヤツ。画面が見づらいだろうが。 布団に包まって惰眠を貪って気持ち悪さをやり過ごしたいというのに、当然ながら今日は仕事で、勿論昨日もちゃんとわかっていて飲んだわけだが。 「……ダメだ胃がむかむかする」 あれから慎さんの笑顔に乗せられて何杯飲んだか思い出せない。 どれだけ飲んでも記憶を飛ばすことはないが、かなり調子に乗せられた。 「飲み過ぎだ馬鹿め」 「あの悪魔の微笑に唆されたんだよ」 隣の席で浩平が呆れた声を出す。 コイツは適度にセーブしていたらしく、寝不足のみですんだらしい。 浩平の席からはキーボードを叩く音が途切れることなく続いているが、俺の方は途切れっぱなしだ。 「悪魔ってより天使だろ」 「いや、悪魔だ。一体あの笑みで何人客を掴んでいるのやら」「あそこの女性客の大半は慎さん狙いかマスター狙い、半々ってとこだよな」 「へー……」 やっぱりか、と納得する。 あの店にいる間に、何度も女の甘えた声で『慎さぁん』と彼が呼ばれるシーンを目にする。勿論それが仕事なんだから当たり前っちゃそうなんだけど。 テーブル席に呼ばれては、その足元に跪き。 カウンターで呼ばれては、すらりと高い上半身を屈めて女性の顔を覗き込むようにしてオーダーを聞く。 時には全く関係ない、プライベートギリギリの質問にも嫌な顔一つ見せることなく答えた。 恐らくは、あたりさわりない程度なんだろうが。 ホストクラブかここは! と言いたくなるほど、客の女の表情は恍惚としたものだった。 「あの人目当てで来るの、女だけじゃないって話」 浩平がパソコンから目を離さないまま、衝撃的な言葉を吐いた。 「男にまでモテてんの、あの人」 「所謂あっちの人? そん中でも特に熱心なのが一人いるとかなんとか」 「げー……まじか」 男に好かれるのは勘弁だけどあのモテっぷりは腹立つくらいに羨ましい。 しかもあの環境、ようはただの接客だとわかってても夢中になって通い詰めるくらいのものがあの男にはあるということだ。 「浩平……お前なんであの店連れてった
【慎視点】 コンコン、と部屋の扉をノックする音が二回。 一度は起きたものの、うつらうつらとベッドの中で惰眠を貪っていたのがそのノックで漸く脳が覚醒を始める。「まこと! もう昼回ってるぞ」「はいはいはい」「はいは一回」「ふぁーい」 扉越しに佑さんと会話して、仕方なくうつ伏せのまま腰を上げる。 眠い。 頭がまだ枕とくっついていたいと言って離れない。いつもは昼前には目が覚めてるんだけど……なんで今日はこんなに眠いんだっけと昨夜のことを思い返す。 ああ、そうだ。 夕べ初めて来た客が朝方近くまで店に居座って、結局後片付けを終えたのが朝の六時を回ったからだ。 週末でもないのに、あの会社員二人組は無事に出社したんだろうか。 いつもの客に連れられてきた、デカい図体の若い会社員を思い出してくすりと笑った。思ったことが言葉以上に全部顔に出ていて、きっと隠し事なんか元々できないタイプだろう。 しかも不慣れなのをちょっと気にしている癖に気取り切れてないところとかが、わざと笑いを取ろうとしていたとしか思えない。 それにしても、よく飲む男だった。随分飲んでたけど、女に振られたとか話してたな。気分転換に今後もうちを使ってくれるなら万々歳だ。 欠伸を一つかみ殺してからなんとか枕と頭を切り離し、胡坐をかいたまま大きく伸びをすると、ベッドから降りて部屋備え付けの浴室に向かった。 此処は以前佑さんが住んでいたbarプレジスの奥にある住居スペースだ。 つまり半地下にある。その為、窓は天井に近いくらい高いところに明り取り程度の横長のものがあるだけだ。だから昼夜の区別をいまいち感じにくい。人間、朝日を浴びなきゃ体が目覚めない、という話はきっと本当だろうと思う。 シャワーで無理やり覚醒させて、シャツとスラックスで簡単に身支度を整えると、部屋を後にした。 ほんの2メートルほどの短い廊下があり、右側に食糧庫の扉、そして廊下の先の扉を開けると、店舗のカウンター内に出る。「おはよー、佑さん」 佑さんは今は近くにマンションを借りていて、そこから店に通ってくれていた。「はよ。すぐできるから座ってろよ」 ガスレンジの前に立つ佑さんの手元から、じゅわ、という音をさせて、油と何かを焼く匂いがする。「佑さん、何作ってんの」「お前の朝飯」 そうだと思った、と顔を顰めた。「起き
青白いのは別に、朝を食べないからではなく貧血のせいだ。 朝方頃から感じる下腹部の鈍痛に、気分も最悪に落ち込んでいく。「ほらよ」「げ……朝からこんなに食えないって」 皿に盛られた油の滲んだソーセージと目玉焼きに、顔を顰めて舌を出すと佑さんがトースターから食パンを一枚別の皿に乗せてきた。トーストならまだ何とか胃に収まりそうだと、そちらから手を出してのろのろと咀嚼する。 佑さんも食べるのかと思ったら、どうやら僕の分だけらしい。 丸椅子に座って珈琲を飲みながら新聞を読み始めていた。「あ、そうだ。マリちゃんから、今週末に僕の誕生日のお祝いをやりたいって相談されたんだけど」「って、祝われる本人に相談するってどうよ」 佑さんが呆れた声でそう言った。 まあ、マリちゃんが僕に敢えてそう連絡してきたのは、暗に二人でお祝いをしたいって意味なんだろう。「デートしたいって意味なんだろうけど。ありがとうお店で待ってるね、って返信しといた」「……お前、鬼だな」「だって週末だよ? 子供じゃあるまいし自分の誕生日のお祝いするからって店休むとかありえないよ」「まー……マリちゃんはちょっと、ネジ飛んでるよな」「可愛いんだけどね」 そう、マリちゃんは小さくて華奢で顔も好みだし、一生懸命距離を縮めようとするとことか見てて可愛らしいな、と思うけど。 僕にとったら通ってくれる大事なお客様の中の一人で、それ以上でも以下でもない。誰かを特別に扱うつもりもないから、こういう時にちょっと困る。「まこと。もうちょい、客との接し方考えろよ」「何が」「接客とかさ、近すぎんだよ。本気で勘違いする奴出てくるぞ」 ばさり、と音を立てて新聞を捲りながら佑さんの目がちらりとだけこちらを向いた。「別に僕は、店にいる間は気分よくお酒を飲んで楽しんでもらいたいだけだよ」 僕は食べる気の起きないソーセージをフォークで転がして、軽く突き刺すと、がじりと少しだけ、噛みついて咀嚼する。「その距離が近いっての。スマホの番号だって簡単に教えんなよ」「客に使わなかったら何に使うんだよ」 そういやスマホどこ行った、と記憶を掘り起こして思い出したのはこのカウンターの隅。ちょっと前屈みになって首を伸ばすと、思った通り水のデキャンタの陰にほったらかしになっていた。 昨日、そのマリちゃんからの連絡に返信し
【神崎慎】「ほんと、何か変っすよ」陽介さんが、心配そうに僕に向かって手を伸ばす。その手に過剰反応して、思わずびくんと身体が跳ねた。「すみません、つい」驚いて手を引っ込めた陽介さんは、それでも尚、僕の心配をしてくれているのはひしひしと伝わってくる。確かに、僕は今、おかしい。原因の大半は、陽介さんが店に戻ってくるまでの間、佑さんと二人の時に起きた出来事にある。陽介さんたちが店を出てから、暫くして他のお客も居なくなり、普段より早めに店じまいをすることになった。有線で流れていた音楽を止めると、佑さんが何かにやにやと唇を歪ませながら僕を見た。「お前さ、なんか間違ってねえ?」「は? なにが」「気になって仕方ないからって、何女の方を悩殺しようとしてんだよ」くつくつと可笑しそうに肩を揺らす。佑さんに指摘されたことは十分に身に覚えがあって、僕はいっそわかりやすいくらいに狼狽えた。「そ……そんなことない。いつも通りだ」「まあ、お前にしかできない妨害かもしんないけどさー、妨害にしちゃ消極的だ。どうせやるなら結婚詐欺くらいの勢いで落としにかかんねえと」「別にそんなんじゃないってしつこいな!」確かにいつもより若干、女の子が喜びそうな接客をしたかもしれないが。それは、アカリちゃんが僕から見ても可愛らしかったからで。僕は、元々可愛い女の子を見るのは好きだし、ほら、言わばマリちゃんに対して見せるのと同じような。と、脳内で勝手に慌てて誰に対してかわからない言い訳を並べ立てていた。だけど本当は自覚している。合コンという名目で、浩平さんが陽介さんにあてがおうとしているアカリちゃんを見た時、僕は軽くないショックを受けた。陽介さんの隣に並んで店に入って来たのは、小柄で華奢で、清楚な長い黒髪をハーフアップにした、可愛らしい女の子だった。僕とは全く、正反対の。男というのは、一般的にああいう子が好みだろうなと見ていて思った。だけど陽介さんは、僕を好きだと言う。信じてくれと、真摯な言葉で訴えてくれたことを忘れたわけじゃない。その言葉に、僕はまだ一度も応えていないというのに、ショックを受けた自分も嫌だ。独占欲ばかり一人前に成長して、僕は一体何がしたいんだろう。テーブル席とカウンターテーブルをダスターで綺麗に拭いて、カウンターに戻ってくると、流し台に汚れた
緊張で固くなった唇は、何度も重ねて舐めるたびに柔らかく熱を持った。抵抗しないのをいいことに、唇を貪ることに夢中になって、苦しそうな彼女の息遣いも扇情的なものにしか感じられなかった。「……ん、も……やめっ……」「もう少し……すんません」最初は片手で支えていただけだったのに、いつのまにか両手でがっちり彼女の首筋を捕まえていて、よくもまあ、あの慎さんが大人しくしていてくれたものだと、気付くのは後になってからだが。「……くるしっ……」「もう、ちょい」止まんないんだよ、仕方ない。声を遮るように角度を変えて深く口づけると、咄嗟に閉じようとした歯の間に舌をねじ込んで絡みつく。唾液にまみれて滑りのよくなった唇がこすれ合って、心地よさに恍惚とする。柔かくてあたたかくて、気持ちよい。舌を絡めることに慣れてない様子に、益々身体が熱くなった。無理だ。止めろって言われても、無理。ほんとに嫌なら、噛みつくなりなんなりしてくださ……。「いっ!!」突如、口の中でガリッという音がして同時に鉄のような味が広がり、陶酔しきっていた意識が現実に引き戻される。舌先に走った激痛に、慌てて彼女の唇と首筋を解放した。いってぇえええええ!噛まれた!おもっきし噛まれた!口を片手で押さえて前屈みになる。声も出せないくらいの痛みを地団駄を踏んで逃がしていると、息も絶え絶えといった様子の慎さんの声が聞こえた。「くっ、苦しいって、言ってるだろう、いいかげんにしろ!」見上げると、涙目で顔も真っ赤な慎さんが般若のような表情を浮かべて肩で息をしていた。やべえ。調子に乗りすぎた。「す、すんませ……気持ちよくてつい」「き、きもちよいって……」かああ、と一層赤く染めながら、慎さんが一度言葉に詰まる。照れてるのか恥ずかしがってるのか、でも間違いなく怒ってもいる。やばい、嫌われてたらどうしよう、と、散々貪っておきながら今更不安になってきた。「いくらなんでも、苦しい! 息継ぎくらいさせろ!」「い、息継ぎ?」そんなん……どうやったっけ?無意識にやってるから、あんまり考えたことがない。キスの最中のことを思い出しながら、ふと、気が付いたことを言ってみた。「……鼻、息止めてました? 合間に口でするのもありますけど……苦しかったら多分、鼻?」「鼻……」恐らく今、慎さんの中で
中途半端な位置で留まったままの拳と俺の顔とを、綺麗な榛色の瞳が行き来して、少し肩の力を抜いたのがわかった。スツールが極々小さな、「キィ」という音をさせる。慎さんが椅子ごと俺の方を向いたからだ。すぐ間近からまっすぐに見つめられて、ますます手と目のやり場に困ってしまう。見つめてくる目はやっぱりどこか不安げに揺れていて、そのくせ潤んで艶っぽく……思わず生唾を、飲みこんでしまった。やばい。もうちょい、いつもみたくガード固くしてくれないと、今の俺はホントにヤバイ。「ちょ……っと、」トイレ、と言ってその場を逃げ出そうとしたのに。「……なんで、止めたんですか」慎さんが俺の手を見ながら、呟いた。何を尋ねているのかは明白だった。「……すんません、その……ちょっと」「僕が、怖がったから?」「俺が悪いんす。ちょっとだけ、のつもりで……あ、頭! 頭、撫でようとしただけで!」いや、ほんとは。頬に手は向かってたけど、怒られそうな気がしてつい控えめに言ってしまった。「……」「……すんません」そんな、まっすぐ見つめられたら。些細な嘘だけど、なんかめっちゃ悪いことをした気になってしまうからほんとに止めて、ごめんなさい。これは、なんだ。拷問か、それとも試練か。俺の忍耐力の限界を誰かが測っているのだろうか。やっぱりトイレに逃げよう、と立ち上がろうとしたら。「……いいよ」と、慎さんの声がして、一瞬何がいいのかぴんと来なかった。「え……」「いいよ、触れば。……別に、陽介さんが怖かったわけじゃない」ぶっきら棒で、ちょっと早口なのは照れ隠しなのだとすぐにわかった。視線が斜め下に逃げて、眉間に皺を寄せてはいるものの頬は触れたら熱そうなくらいに赤い。触っていいよ、というよりも、触って欲しい、と表情はそう言ってるように見えるのは、俺が調子に乗ってるからか?「い、いいんすか、ほんとに」「嫌ならい」「触ります!」……触ります、って宣言はどうなんだ。と自分でも思いつつ、じゃあ……と右手をゆっくり髪に触れさせた。緩くウェーブのかかった髪は、思っていたより艶やかで、想像するよりずっと柔らかく指に絡む。……細。絹糸みたいな細い髪を、最初は手のひらで撫でる。慎さんは恥ずかしそうに目線は背けたままだけれど逃げる様子もなかったから……髪の中に指を差しいれ
「……あの?」「何か?」余りない、距離間だった。いや、慎さんを空手道場に送る時だとか、食事に連れ出す時だとか、俺から近寄っていくことはあっても、慎さんの方からここまで近づくことは余りない。ましてや、店内で。「いや……そうだ。佑さんは?」「今夜はもう帰ってもらいました。後片付けもそれほど残ってなかったし」「あ、そう……っすか」しかも、二人きり。何がどうしてこうなった、と理解ができないままに自然と鼓動は早くなる。男としては、大変美味しいシチュエーションだ。だからといって、簡単に手が出せる相手ではないのだが。スツール同士はあまり離れていないから、すぐ隣だと肩が触れそうなくらいに近くなる。手を伸ばせば触れられるくらいに、抱き寄せられるくらいに、近い。かといって全力で近づいてくるわけでもなくて……なんだろう。この感覚、どこかで覚えがあるぞと思いめぐらすと、すぐに思い当たった。実家で飼ってる猫だ。不愛想でこちらから構ってやろうとすれば、つんと澄まして見向きもしないくせに、たまにソファでテレビを見ているとそろっと近づいてきて隣に座る。それと、似ている。慎さんは例えるならシャム猫みたいで、実家の雑種猫とはずいぶんと雰囲気は違うけど。「あ。えっと、あの子なら、ちゃんと家まで送って来ましたから」「ああ、アカリちゃん。小さくて可愛らしい子ですね」「……送っただけで、何もないっすよ?」「そうですか」いつもと違う空気のわけを、思い当たる節から確かめようと敢えてアカリちゃんのことを口に出してみたが、手ごたえがない……ような、あるような。「……てっきり告白でもされたかと思いました」はは、と笑った顔が平静を装っているだけのようにも見えた。「……されました」「えっ」「俺は会うつもりないんすけど……ここに多分、ちょくちょく来ると思います」こんな雰囲気で、何か不安そうな慎さんに言いたくはなかったけれど、アカリちゃんが本当に来るなら話しておいた方がややこしくならない、気がした。俺が居ない間に来られてアカリちゃんの口から喋られるよりは、ずっといい。『だから―――また、会いたいな。あの店に行けば会えるよね?』最後に言われた言葉を思い出して、溜息を付く。アカリちゃんに毎度毎度来られたら、慎さんと話す機会が絶対に減る。ましてや、その度送れとか
―――――――――――――――――――――――――急いで駅まで走ったものの、やっぱり終電には間に合わなくて慌ててタクシー乗り場を探す。ところが、俺と同じように終電を逃した連中か、とっくに営業を終えてるバスの利用者かで長蛇の列となっていた。しかも見ていると回転率が悪い。中々タクシーが戻ってこないのだ。「……くそ」どうしようか。携帯から連絡しようかと思ったけれど、タクシーに乗るくらいなら家に帰れと言われそうで、結局止めた。この駅から店までは、線路上で言えば三駅分。でも、直線距離で結べば三駅もない……はず。走るか。いや、それならタクシー待つ方が早いか。悩んでいても答えはでないと、結局じっとしていられないのが性格ってやつで。店の方角を確かめながら、適当な道を選んで車も人通りも少ない暗がりを行く。走る必要もないのに走るのは、一分一秒でも早く会いたいからで。案外ヤキモチ妬きのあのひとを、不安にさせたくないからで。あ、いや。不安に思ってくれるならちょっとは嬉しいけど、不安にさせたいわけじゃない。応えてくれない人を好きで居続けるという恋愛を、今までしたことがなかったから、俺にとっては複雑で初めての心境だった。「くっそ、あつ……」半分くらい走ったところで、一度足を止めて呼吸を整える。バスケ現役で走っていた頃なら、もうちょい走ることができたのに。再び走り出してすぐ、流しのタクシーを捕まえることができて、それからは店まではものの数分だった。タクシーを店の前で降りると、ぶるりと寒さが身体に堪えた。散々走ったおかげでシャツが汗で濡れていて、今度はそれが逆に身体を冷やしている。当然だ、来週には十二月だ。慎さんに出会ったのは、まだ秋のはじめの頃だった。ふと、風の温度に季節の移り変わりを感じて、あれからまだ二か月ほどしか経っていないのだと気が付いた。随分長い間、この店に通っているような気がしていたけれど……それほどの回数、ここに訪れているということだろう。「……はあ」階段を降り切った踊り場、店の扉にかけられたプレートの「close」の文字に溜息をつく。今夜は最後の客が早く帰ってしまったのかもしれない。場合によっては、週末は特に明け方近くまで開けていることが多いのに、今夜に限って早々に閉めてしまったようだった。素っ気ないけど律儀な
「……何言ってるんですか。もう終電もなくなりますよ」「大丈夫です、走れば間に合うし。それに週末はあのオッサンまた来るかもしれないじゃないですか」「梶さんなら、最近は来ても別に僕に絡まないし、佑さんがお相手してるから特に困ってませんよ」呆れたと言わんばかりの顔で慎さんは言うけれど。確かに、近頃来店してもそれほどしつこく絡んでいる様子はないし、佑さんと話していることが多い。だが、それを認めてしまうともう番犬は必要ないから来なくていいと言われてしまいそうだ。っていうか、ちょっと……今。イヤなものを想像して、寒気が。「……あのオッサン、まさか佑さんに鞍替えっすか?」「は? いや、まさか……そんな」ぽかん、とした表情の慎さんと顔を見合わせる。恐らくは今、脳内で似たような絡みを想像しているのではないだろうか。次の瞬間、血の気が引いた青い顔色で思いっきり口と鼻を歪ませた。「……んなわけないでしょう。変なもの想像させないでください」「すんません……俺も鳥肌立った……」おえっ。オッサン二人の絡みなんか。当然美しいわけがない。当の佑さんは流し台で洗い物をしていて、こちらの話は全く聞こえていないようだが、もしも聞いていたら面白がって悪ふざけを考えたに違いない。「…っと、とにかく。戻ってきますから。閉店までには」「そんな、無理をしなくても」「無理じゃなくて、俺がそうしたいだけですから!」そうと決まれば、早く行かなければ。出来れば終電があるうちに戻って来たいところだ。急いで背を向けた一瞬、複雑な表情を浮かべながらもほんの少し、嬉しそうに見えたのは……希望的観測が過ぎるだろうか。三人の元に戻れば、まだ二回目だというのにまるで決まり事の如く俺がアカリちゃんを送る形で解散した。そこからの俺は気もそぞろで、電車の中でアカリちゃんと話はしたものの内容はさっぱり覚えていない。彼女の家の最寄り駅で降りてからも、つい早足になる歩調に気付いては、後ろを振り向いて慌てて緩める、の繰り返し。しまった。大した距離じゃないんだし、電車を降りたらすぐにタクシーに乗れば良かったのだ。一生懸命俺の後ろを着いてくる彼女に、罪悪感が沸いて少し気を落ち着かせようと深呼吸をする。「なんか、ごめんな」「ううん、こっちこそごめんね。またこんなとこまで送らせちゃって……」
浩平は、とにかく俺とアカリちゃんをどうにかしたいらしい。っつか、馬鹿め。この店に来た時点でそんな目論見は破綻している。慎さんがバーテンダーをしているこの店で、彼(彼女)以上に女を引き付けられるわけがないのだ。自分で言っててかなり虚しいが、俺の好きな人は俺なんか足元にも及ばないくらい女にもモテモテなのだから仕方ない。「ヤバイ、あのひとなに?! モデルとかじゃないの?!」「めちゃくちゃ綺麗だったね、男の人にしとくの勿体ない……」慎さんがカウンターの方へと下がっても、視線で後を追うように身体ごと振り向かせ、ほう、とピンクの溜息をつく。彼女たちの前には、慎さんが作った色合いの可愛らしいカクテルが並んでいる。赤い液体に、ミントの葉と白いパウダー状のものが雪みたいに散っているイチゴマティーニと、薄いピンク色のピンキーサワーはどうやらマンゴーらしい。『お二人のアクセサリーの色に合わせてみたんです。こういう楽しみ方もいいでしょう?』そう言って微笑んだ慎さんは、確かに誰よりもかっこよく麗しい、バーテンダーだった。「……馬鹿だろ浩平。ここに来たらこうなるに決まってんだろ」「いや、確かにちょっとは思ったけど……なんかあのひと、今日は特に接客気合入ってねえ?」そうだろうか?いつだって慎さんは女の人にはめちゃくちゃ優しいし、飛び切りの王子様スマイルだけど。「あああ、どうしよう。本気で暫く通っちゃおうかな」「やめとけやめとけ。お前なんか相手にされるわけないだろ」「うっさいわね、そんなのわかんないじゃないの!」浩平とミキちゃんが、喧嘩腰の軽口を叩き合う。大学時代から、これが二人の雰囲気らしい。付き合っている、というわけではないそうだが。「男だって見た目は大事よ! アカリもそう思うよねー」「あはは。そうねえ……すごく綺麗だから、目の保養にはなりそうだけど、緊張しそう」「そう?」「うん、私はもうちょっと、身近な感じの人の方がいいかな」そう言って、アカリちゃんがちらりとこちらを見て視線が合った。同意して欲しいのだろうか。確かに、慎さんが綺麗な人だということには何の異論もないが。「話してみると、結構面白い人だよ。人間味あるし」緊張する、という言葉が、なんとなく「自分たちとは違う人」と一線を引いたものに聞こえて、ついそんなことを言ってしまった。
別に、ほんのちょっと妬いてくれたくらいでそれがイコール「好き」という感情に直結するとは思ってない。だけど、そのほんのちょっとの嫉妬と同じくらいに、希望があるって思っていいんだよな?胸の奥が苦しいくらいにきゅんきゅんと鳴っている。この人は、良くも悪くも俺の心拍数を上げてくれるから、そこんとこをもうちょっと自覚してほしい。すみませんでした、と小さく頭を下げた彼女に首を傾げると、少しもじもじとしながらもう一度謝罪の言葉が聞こえた。「……陽介さんの気持ちを、疑ったことです。すみませんでした」「ま、慎さん……!」と、またしてもカウンターを乗り越えたい衝動に襲われて、カウンターに阻まれる。いらないだろ。邪魔でしかないだろカウンター。しかし、遮られてなかったら本気で抱き着いて殴られてたに違いない。「受け入れたわけじゃないですよ! し、信じただけですから!」俺の気持ちを信じると言ってくれた。それだけで十分だった。俺はすっかり舞い上がって、その後俺の居ないところで、浩平と慎さんが話をしていたなんて、随分後になるまで全く知らなかった。―――――――――――――――――――――あれから、半月程。今夜のbarプレジスは賑やかだ。カウンターが俺の特等席だが、今は一番奥のテーブル席にいる。なぜなら今夜は、ものすごく不本意ながら……一人ではないからだ。「こんな素敵なバーがあるなんて、浩平ったら全然教えてくれなくて」「本当、こんなお洒落なバー、初めて来ました……なんかそわそわしちゃう」浩平の大学の頃の女友達、ミキちゃんと、その隣で、ほんのり頬を染めて小さな身体をさらに縮こませてモジモジしているアカリちゃん。そして俺の隣で若干白けた表情の浩平の四人という、俺としては何とも複雑な面子での来店だった。「ありがとうございます。ここは女性のお客様も良くいらっしゃいますよ。気楽に楽しんでくださいね」こんな状況にも拘らず、慎さんは今日も変わらず妖艶な微笑を浮かべ、ピンと伸びた綺麗な姿勢で立っている。ミキちゃんとアカリちゃんは、すっかり慎さんの王子様スマイルの虜のようで、ハートがキラキラ飛び散ってる幻影まで見えそうだ。慎さんがオーダーを聞こうとしているのに、何かと脱線してさっきから無駄話しかしていない。それでも、慎さんは嫌な顔一つ見せないのだから……やっぱ
どくどくどくと早鐘を打つ鼓動に焦燥感も煽られる。「アカリちゃんって子が明らかに陽介狙いだったんで、送ってやれって二人きりにさせてみたんすけどね」「だから俺は」焦って説明しようとする俺の言葉に被せるようにして、慎さんが言った。「恥ずかしがることないじゃないですか。陽介さんにも春が来たんですね」「……」ぷつん。と何かが切れた音が頭の中でした気がする。目の前には、慎さんがいれてくれたシャンディガフ。薄黄色の透明な液体で埋められたグラスの中、きらきらと小さな粒のような泡がくるくる昇るのを見乍ら、苛立ちを抑えようとしたけれど。我慢できずに、グラスを掴みひと息に飲み干した。冷えた液体が身体の中心を通ったけれど、頭は冷えてくれなかった。春が来た、って何。俺はずっと春だけど。慎さんと出会ってから、頭ン中ずっと春爛漫だけど?!なんで今更他の女と春を迎えなきゃならないんだ。好きだって言ったのに、なんで信じてくれてないんだ。だん!と勢いよくグラスを置いた衝撃で、会話を続けていた二人の声がぴたりと止まった。「陽介さん?」「俺は!」椅子から立ち上がり張り上げた声に、慎さんが目を見張る。今漸く、ずっと逸らされたままだった視線が合った。「俺は、慎さんが好きだって言いました!」信じてもらえない苛立ちそのまま言葉をぶつけてしまったけど、それでいいやと抑止は全く働かない。驚いた慎さんの手から、ダスターがぽとりと落ちた。「ちょっ、陽介さん……」「拒否されててもわかってはくれてるものと思ってました! もっと口に出した方がいいっすか、もっと態度で示さないとわからないですか」「ちょ、ちょっ……馬鹿かお前!」「どうせ俺は馬鹿ですよ!」嘘つきだとか節操無しだとか思われるより、馬鹿の方がなんぼかましだ。完全に頭に血が上った俺に、慎さんが動揺したのか目線がちらちらと他所を向く。なんだよ、俺に集中しろよ!子供染みた独占欲みたいなものが沸いてでて。その視線の先に、慎さんの動揺の理由に気付いた。「浩平ならもう知ってます。俺、言ったから」「は?」ぽかん、と口が開いたままおかしなものでも見つけたような、表情だった。「ば……馬鹿じゃないか、本当に」「なんとでも。男も女も関係なく、慎さんが好きです。何回でも言いますし誰に知られても、俺はいいです」そう