佑さんの過保護も俺が慎さんに対して感じてしまう守護対象的なものと同じなのだとしたら……佑さんと慎さんの関係って何なんだ?
違和感から滲んだその疑惑は、義理の兄弟だとさらりと言いのけた慎さんによって半分は晴れた。慎さんは少なくとも、そう思っているらしい。佑さんは、どうだかわかんねぇな。だが「昼ドラみたいな如何わしい妄想に僕を巻き込むな」と慎さんに釘を刺されたことだし、それ以上は考えないことにした。佑さんが慎さんを案じていることに嘘はなかったと思うし、ならば俺がどうこう言えることでもないのだ。そんなことよりも、今は。佑さんにもくれぐれも頼むと言われたミッションをこなさなければならない。一緒に飯食って、店までちゃんと連れ帰る。それだけだが、慎さんは確かに細い。昼飯も殆ど手を付けていなかった。これはなんとしても、何か食べさせないと。
道場で稽古した後ならば、少しは腹も減るだろうし。洋食が好きなのか和食が好きなのか、好き嫌いはあるのか、とか。知らないことが多すぎて、これから知ることが楽しみだった。見学すらさせてもらえなかった空手だったが、何度も御伴すればその内見せてもらえるだろうか。無理にくっついて行って嫌われても意味ないし、と周辺を散策して店を探すことにしたが。「……あ。そういや、携帯も聞いてねぇや」
聞いたら、教えてくれるんだろうか。
なんか店の名刺とか渡されそうだよな、店の番号だけ書いたやつ。なんとか言い包めて、番号くらいは聞き出したいところだ。慎さんにはダメ出し拒否を食らってばかりなのに、何故だか心は浮足立っていた。ビル周辺では、慎さんの好みもわからないので結局大した店も見つけられず、和食洋食どちらでもいけるよう
「なんで浩平?!」当然心の声はストレートに口から飛び出す。「あ、でも人伝に聞き出すわけにもいかないですし僕の携帯を」ショックのあまり前のめりに身体を乗り出す俺には素知らぬ顔で、不意に店内を見渡すと通りがかったウェイトレスを呼び止めた。「申し訳ありません、ペンを貸していただけますか」なんつって、王子さまスマイルをキラッキラ振り撒いているが、その美貌の犠牲者を増やすのはやめてくれ!と叫びたい。慎さんはテーブルの隅にあった紙ナプキンの束から一枚抜き出しそれにペンを走らせて、ウェイトレスに向かってペンと一緒にまた笑顔を差し向けた。「ありがとうございました」案の定ウェイトレスは顔を真っ赤に染め、受け取ったペンをぎゅっと胸元にそれはそれは大切そうに握り締めて、ぺこりとお辞儀すると走り去る。ああ、なにこれ。浩平やらウェイトレスやらこの人と一緒にいるとずっとこんなハラハラしていなければならんのか。慎さんを相手にする場合、男も女も関係なくライバルになるということか。これはかなり気合いをいれていかねばならない、とテーブルの上で拳を握っていると、そこへぱたんと二つに折られた紙ナプキンが差し出された。「え、」「僕の携帯。あなたがまた酔い潰れたら、引き取りにきてもらわなければいけないので」「もう二度と潰れませんよ!」「そうしてください。僕から浩平さんに連絡する必要がないように」ふわりと、まるで薔薇の花が咲いたような笑顔でそう言われた。そんな顔で言われたら逆らえるはずもなく、渡された紙ナプキンをじっと見下ろす。ちくしょう!もう絶対潰れねえ!「ちゃんと浩平さんにも教えといてくださいよ」折りたたまれた紙ナプキンの内側を、見たくて見たくて仕方ないのを堪えていたが。続いた言葉に、一瞬「んっ?」と首を傾げた。「……え。俺も見ていいんすか」「……いらないならいいですけど」「いりますめっちゃいります!」「……ちょっと、声でかいですから」眉を顰めて俺を諫めてから、カフェオレのカップに口を付ける。その時の慎さんが少し照れたような顔に見えたのは気のせいじゃない。と、思いたい。――――――――――――――――――――――――――――――――慎さんの店のあるこの通りは、夜になると随分イメージが変わるなと改めて思う。もう深夜近い時間帯なのに未だにカッ
「……なんだよ美味しい思いって」訝しく眉根を寄せる佑さんに、ふふんと得意顔で鼻を鳴らす。「電車の中で結構混んでて、俺がいないと慎さん押されて大変だったかもしれないし」実際には邪魔だと言わんばかりに睨まれた挙句、気持ち悪いと胸を殴られたが。「パン好きで焼き立てホカホカに弱いってわかったし、携帯番号も教えてもらえたし」携帯はほんとは浩平の次いでだが、そんなことよりもほかほか発言はマジで可愛かった……! 今思い出しても顔がにやけてくるのが止められない。「……お前、哀れなやつだな」それのどこが美味しいんだよ、と佑さんが頬を引き攣らせていたが、その中に微かに安堵が混じっているのを確かに見た。ような、気がする。む……と眉根を寄せているとくつくつと肩を揺らしながら「で、何を飲むんだ」と尋ねてくる。「コロナで」「拗ねんなよ」手際よく栓が抜かれた瓶に、櫛切りのライムが押し込まれて目の前に置かれた。「佑さんはなんでそんなに心配するんですか」「あ?」馬鹿にされて拗ねていると思っていたらしい佑さんは、胡乱な目で俺を見てぽかんと口を開けた。「慎さんだって男ですよ? いくらなんでもちょっと過保護なんじゃ」昼間からずっと持っていた疑念を取っ払おうと、本人に直接聞くことにした……って別に考えてたわけじゃないけど口から飛び出た。 暫く呆気にとられていた佑さんは、数秒経って漸く俺の疑念に気付いたらしい。 「お前なあ」と呆れた声を出しながら、がしっと片手で俺の頭を掴んだ。頭の天辺を握られたまま、佑さんがカウンター
なんだ?と首を傾げる。だが慎さんも此方を見たことに気が付いて、俺はこれ幸いと片手を上げた。「慎さん」客と話してるとこ、急に声かけんのもどうかと思ったけど。目が合ったんだから、許されるだろう。相変わらず接客モードの固い微笑みだが、それでも笑ってくれたことに気を良くしていると、慎さんが男に軽く会釈をして此方に近づくような素振りを見せた。だがすぐに足が止まって、また男を振り向く。男の手が慎さんの腕を、捉えたのだ。引き留めた、ただそれだけなのはわかるけど。その瞬間、いらっと了見の狭い感情が湧いて出た。慎さんがもう一度言葉を交わし、一時離れることを告げたような素振りだった。男の手は、掴んでいた肘の辺りから手首、指、と名残惜しむように滑り。まるで口づけでも落とすように、その掴んだ指を掲げた。「っ!」がた、と椅子から立ち上がりかけて止まったのは、ここが店内で今が営業中であるということと。慎さんがそれを慣れた様子でするりと躱して手を引き抜き、実際に口づけが落とされることはなかったからだ。「陽介、お前顔に出し過ぎ」横から苦笑いの茶茶が入るが、いや、仕方ない。これは仕方ない。なんなんだあいつ、しかも他の客もいるのにお構いなしか。佑さんが、見ればわかると言っていたのはこういうことかと合点がいく。俺の方へ近づいた慎さんまで俺の顔を見て苦笑いをした。「なんて顔してるんですか」「あ……いや」本当なら今すぐ大丈夫だったか気持ち悪くなかったか(例え自分のことは棚上げだろうと)心配で聞き出したいとこなのに、慎さんの見事な躱し方を目にして俺に今できることなどないと知らされ、情けなく言葉に詰まる。ちくしょう、不甲斐ない俺。そんな俺に彼は何を思ったのか、ぱちぱちと瞬きをして言った。「耳と尻尾が垂れてますよ」「は?」「いえ別に。で、何かご用ですか?」「え、あ、用っつーか……」にこりと艶やかな微笑でころりと話しが変わる。慎さんと目が合って嬉しかったから声をかけただけ、だったのだが。またあのおっさんのとこにすぐ戻られるのも癪なので、ちょうど聞きたいと思ってたことを聞くことにした。「慎さん、何か欲しいものはないですか!」「欲しいもの?」「ほら、昨日誕生日だったなんて知らなかったもんで」「ああ……別にそんなの」「要らないとか言わないでくだ
「火曜と木曜……すか」いわずもがな、仕事だ。だが当然、外に出ていることもあるから立ち寄るのくらいは問題ない。……しかし長時間並んで、というわけにはいかないな、と思案していると。「陽介さんも、普段はお仕事ですよね。祝日とかはお休みですか?」「はい、祝日は休みっすよ」そこではたと気が付いて、スマホを取り出してカレンダーを開いた。「そっか、祝日!」「はい、今度の祝日、火曜なんですよ」祝日なら確実に休みだし、何時間前からだって並ぶことができる。よっしゃ、と弾んだ声の俺につられてか、慎さんの声も落ち着いてはいたけれど少しそわそわとしたもので。「……行けそうですか?」スマホから顔をあげると、やっぱり期待して表情もそわそわしていた。「行きますよ勿論。ってか三週間も先なんですけど」「今までずっと食べられなかったんだし、三週間くらい待ちます」ぱっと輝いた表情は営業でもなんでもない……ように俺には見えてそれだけでまた手やら……まあ色んなとこがウズウズする。ああ、抱きしめたい触りたい、って。こうしてバーテンダー姿を見ると改めてこの人男なんだよなーと思うけど、それ以上に触れてみたいという欲求が強い。いやいや。ダメだってお触り禁止だし。怖がらせたらダメだし、そこは佑さんに言われるまでもなく。と、自分の中で欲求不満と格闘を交えていると、目の前の慎さんが変なものでも見るような胡乱な瞳を俺に向けていた。「&hellip
【高見陽介】 帰国子女らしいって話。 何か国語だ? ぺらっぺらで。 取ってくる契約は桁違いの大口だったり、それでいて会話もスマートで偉ぶらない。ビジュアルも完璧、男の俺から見たら怪物みたいな存在の上司。まだ若いからって課長職に甘んじていたけど、将来約束された本物のエリートだった。 普段なら争う対象でもなく、同期じゃなくて良かったと思うくらいだ。仕事でなんか敵うわけもねーから成績を比べたことすらなかったけど。「ごめんね、陽ちゃん。私、真田さんに着いて行きたいの」独立した鉄人上司に、彼女を取られた。 この時ばかりは、流石に腸煮えくり返ったとも。「おい陽介……もう帰ろうって」 同僚に自棄酒に付き合わせて、半分は酔ったフリの蛇行歩きだ。浩平がさりげなくタクシー乗り場に誘導していることに、気付かないわけがない。「嫌だ! 俺はまだまだ飲むぞまだ日付変わったばっかだろ!」 「日付変わったから帰ろうっつってんだろうがしばくぞこら」 あー、明日の朝、酒抜けねえかも。 残った理性がそう冷静に判断するけど、入社した頃から二年付き合った彼女を掻っ攫われた心の痛手は、酒で誤魔化そうとする程度には、ダメージはでかかった。 秋を迎えて夜は少々肌寒い。酒効果で妙にチカチカする視界で空に浮かぶ月を見ると、尚更感傷に浸りたくなる。 ってか、翔子。 お前結構いい女だったけど、所詮一般の部類だ。 あれはさすがに格が違いすぎるって。 雲の上の存在過ぎてまさかのノーマークだったわ。 そのうちポイっと捨てられるに決まってる。 本気で心配したけれど、それは言わなかった。 余りにも惨めだろ。 可哀想だろ、俺が。 「唯一勝てそうなのって背の高さしかねぇな……」 「あー、人混みでも難なく見つけられる立派な長所だ誇りに思え」 夜風同様、浩平の態度が冷たい。愚痴を垂れ流し過ぎたのか、受け流しもぞんざいになってきた。これ以上面倒がられないようにそろそろ帰るか、とさっき通り過ぎたタクシー乗り場を振り返ろうとしたが、浩平の言葉に引き留められた。「そうだ。そんなに飲みたきゃ、いいとこ連れてってやる」 何かを思いついたようにそう言って、突然すぐ傍の角で左に曲がる。「なんだよいいとこって」 風俗とか言うなよ。 俺は今は女より酒が欲しい。「ショットバーだよ」
石畳の洒落た通りは、街灯もアンティーク感を漂わせて全体のイメージを敢えて統一しているのがわかる。夜は尚更異国の雰囲気を感じさせ、それに倣った店構えが並ぶ中、その店はひっそりとそこにあった。 今はもう照明の落とされたガラス張りの大きな店舗と店舗の間、半畳ほどの狭いステップから地下に繋がる階段を降りていく。暗がりをランプの灯りが照らす中、重厚そうな扉を押し開くと、クラシック音楽と店内の灯りが漏れてきた。「いらっしゃいませ」 耳に心地よいテノールで迎え入れられる。浩平が先に店へと足を踏み入れたが、俺の方が背が高い為店の中をすぐに見渡せた。 それほど広くはない、廊下にカウンターが添えられたような細長い空間で、しかし奥には僅かながらにテーブル席があるようだった。 カウンターの中に、先ほどの声の持ち主が居るのも見える。 が……しかし。 彼が、浩平の言っていた『美人』なのだろうか?「連れがあるなんて珍しいね」 「コイツがどうしても飲みたいって、こんな時間までつき合わされてたんすよ」 カウンターの男と視線が合って「どうも」と会釈をしながら浩平に続いて店内に滑り込む。「マスター、目が冷めそうなの作ってやってください」 「ははは。酒飲みに来てるのに、冷めそうなやつって」 カウンターに座るとマスターはすぐにオシボリを二つ、トントンと並べて、浩平の無茶振りに「難しいな」と笑った。 年は多分、三十後半か四十くらい。 確かにイケメンではあるけれど……顎に少し髭を残した、どちらかというと男くさい男前だった。「同じ会社の?」 「同期なんすよ。浩平がこんな洒落た店に出入りしてるとは知りませんでしたよ」 「いつもは一人で来てんだよ、今日は特別に教えてやったの!」 ジンベースの……なんだっけ? マスターが言ってたけど忘れた。どちらかというと辛口のカクテルはライムが効いてて酔いはあっても目は冴えそうだった。 浩平とマスターが会話しているのを聞きながら、噂の『美人』は一体誰のことなのかと、ちらりと店内を見渡したけど他に誰も見当たらない。 なんだ。 じゃあやっぱ、このおっさんが浩平の言う美人なのか。 釈然としない気分でグラスを空けた時だった。カウンターの中にある恐らくは食糧庫だとか従業員用のスペースの扉が開く。「あ、いらっしゃいませ」 飲ん
すらりとした立ち姿だが、然程高くはない。多分、170と少しくらいだろうが、小さな顔と長い手足が実際よりも長身に見せている。 「佑さん、これ。モンヴィーゾ」 「サンキュ。#慎__まこと__#、ここ頼むな」 マスターが真空パックされた何かを受け取り目の前からカウンターの隅へと移動する。代わりにそのマコトと呼ばれた男が正面に立った。 すっと通った鼻筋に、ふたつの目は恐ろしいほどに均整がとれていた。これが黄金比というやつだろうか。地毛なのか染めているのか、明るい髪色は日本人離れした顔立ちによく似合っている。緩くウェーブのかかった長めの前髪の間から、切れ長のアーモンド形をした目がたっぷりの色気を湛えてこちらを見ていた。 店内の少しオレンジ色を滲ませた灯りの中でもよくわかるほどに白い肌と、ビスクドールのように整った双眸は、確かに『美人』だ。 「いらっしゃい浩平さん。珍しい時間帯ですね」 「ちょっとね、今日は散々コイツに振り回されてんの」 浩平と話す穏やかでしっとりと柔らかいアルトを聞きながら、思わずじっと凝視していると、その薄茶色の瞳がこちらを向いた。 「こちらは初めての方ですよね。いらっしゃいませ、ようこそbarプレジスへ」 「どうも。高見です」 澄ました顔で答えたものの、ちょっとびびった。 いやいや落ち着け俺。 いくら綺麗でも男だから! っつかなんで苗字名乗ったの俺。 俺も名前で呼ばれたかった! 「何澄ましてんだよ陽介」 「たっ」 ばしん、と後頭部を叩かれて頭が前方に垂れる。 「何すんだよ」 「気取ってるからだろ」 「んなことないだろいつもこんなんだろ」 浩平と馬鹿なやり取りをしていたら結局化けの皮は剥がれてしまった。 くそ、ちょっとくらい気取らせろ。 普段居酒屋ばっかりだから、微妙に緊張するんだよ。 妙に小慣れた感じの浩平に敗北感を抱かされ横眼で睨んだら、目の前からくすりと含み笑いが聞こえた。 「何かお作りしますか?」 その声に視線を向けると、男の目がすっと下に落ちて空のグラスを示している。 「あー、じゃあ、同じもので」 「かしこまりました」 カクテルなんてそれほど詳しくもないし、咄嗟に思い浮かばなくて結局そう答えた。 慣れてないのなんてきっとバレバレなんだろうな。いくら気取っても隣から
「どうぞ」と新しいグラスを置いて入れ違いで空のそれを引き上げていく。グラスの中には半分絞られたライムがそのまま沈められていて、マドラーで軽くかき混ぜた。 「はいおまたせ」 マスターが俺と浩平の間に四角い白い皿を置く。そこには数種類の得体のしれないものがバランスよく並べられていて、その一つ一つを凝視して固まった。 ……これ、食えんの? いや、得体はわかる。 チーズなんだろうけど、俺が今まで食ったことのあるチーズとは全く様相が違う。恐らくはブルーチーズだとか多分そんな類の……。 「お前顔に出過ぎ」 「いてっ」 またしても後頭部に衝撃を受けた。 「いちいち叩くな。だってしょうがねーだろ俺が食ったことのあるのはせいぜいカマンベールとかそんなもんなんだよ」 「嘘つけスライスとか三角チーズとかそんなもんだろ」 「俺だってカマンベールくらい食ったことあるわ!」 チーズだと思うにはグロテスクな色合いのそれを目の前に、浩平と馬鹿丸出しの会話をしていると、美人な男がくっと喉を鳴らして肩を震わせているのに気が付いた。 いや、堪えるのとかやめて。 寧ろ笑い飛ばしてネタにしてくれる方が傷つかないから。 「とりあえず食ってみ。俺もここで初めて食ってから癖になって必ず頼むんだよ」 「へー……」 皿の上には比較的手を出しやすい白いチーズと、もうこれ半分はカビだろってくらい黒いものがマーブル状に混じり合ったものまであり、恐る恐る指を伸ばして迷った挙句、俺がつまんだのは、その黒い物体だった。 「うわ、なんだこれ。美味い」 黒の物体は思っていた以上に美味くて、その外観とのギャップに手の中のチーズと見つめ合う。 「言ったろ癖になるって」 何がどう普通のチーズと違うのかというとよくわからないから俺には食レポは務まらない。確かに少し匂いはあるが、気になったのは最初くらいで一口含めばその味に夢中になった。 「おい、全部食うなよ」 「あ、わり。黒いのなくなった」「おまえええ」 「浩平はもう何度も食ってんだろ」 チーズの盛り合わせを挟んで男二人で食い意地の張った言い合いを繰り返していると。 「……っ。ぶふっ……っくくっ、あははは」 ……遂に笑いを取ってしまったらしい。 「最悪、お前のせいで慎さんに笑われた」 「なんでだよお前がケチ
「火曜と木曜……すか」いわずもがな、仕事だ。だが当然、外に出ていることもあるから立ち寄るのくらいは問題ない。……しかし長時間並んで、というわけにはいかないな、と思案していると。「陽介さんも、普段はお仕事ですよね。祝日とかはお休みですか?」「はい、祝日は休みっすよ」そこではたと気が付いて、スマホを取り出してカレンダーを開いた。「そっか、祝日!」「はい、今度の祝日、火曜なんですよ」祝日なら確実に休みだし、何時間前からだって並ぶことができる。よっしゃ、と弾んだ声の俺につられてか、慎さんの声も落ち着いてはいたけれど少しそわそわとしたもので。「……行けそうですか?」スマホから顔をあげると、やっぱり期待して表情もそわそわしていた。「行きますよ勿論。ってか三週間も先なんですけど」「今までずっと食べられなかったんだし、三週間くらい待ちます」ぱっと輝いた表情は営業でもなんでもない……ように俺には見えてそれだけでまた手やら……まあ色んなとこがウズウズする。ああ、抱きしめたい触りたい、って。こうしてバーテンダー姿を見ると改めてこの人男なんだよなーと思うけど、それ以上に触れてみたいという欲求が強い。いやいや。ダメだってお触り禁止だし。怖がらせたらダメだし、そこは佑さんに言われるまでもなく。と、自分の中で欲求不満と格闘を交えていると、目の前の慎さんが変なものでも見るような胡乱な瞳を俺に向けていた。「&hellip
なんだ?と首を傾げる。だが慎さんも此方を見たことに気が付いて、俺はこれ幸いと片手を上げた。「慎さん」客と話してるとこ、急に声かけんのもどうかと思ったけど。目が合ったんだから、許されるだろう。相変わらず接客モードの固い微笑みだが、それでも笑ってくれたことに気を良くしていると、慎さんが男に軽く会釈をして此方に近づくような素振りを見せた。だがすぐに足が止まって、また男を振り向く。男の手が慎さんの腕を、捉えたのだ。引き留めた、ただそれだけなのはわかるけど。その瞬間、いらっと了見の狭い感情が湧いて出た。慎さんがもう一度言葉を交わし、一時離れることを告げたような素振りだった。男の手は、掴んでいた肘の辺りから手首、指、と名残惜しむように滑り。まるで口づけでも落とすように、その掴んだ指を掲げた。「っ!」がた、と椅子から立ち上がりかけて止まったのは、ここが店内で今が営業中であるということと。慎さんがそれを慣れた様子でするりと躱して手を引き抜き、実際に口づけが落とされることはなかったからだ。「陽介、お前顔に出し過ぎ」横から苦笑いの茶茶が入るが、いや、仕方ない。これは仕方ない。なんなんだあいつ、しかも他の客もいるのにお構いなしか。佑さんが、見ればわかると言っていたのはこういうことかと合点がいく。俺の方へ近づいた慎さんまで俺の顔を見て苦笑いをした。「なんて顔してるんですか」「あ……いや」本当なら今すぐ大丈夫だったか気持ち悪くなかったか(例え自分のことは棚上げだろうと)心配で聞き出したいとこなのに、慎さんの見事な躱し方を目にして俺に今できることなどないと知らされ、情けなく言葉に詰まる。ちくしょう、不甲斐ない俺。そんな俺に彼は何を思ったのか、ぱちぱちと瞬きをして言った。「耳と尻尾が垂れてますよ」「は?」「いえ別に。で、何かご用ですか?」「え、あ、用っつーか……」にこりと艶やかな微笑でころりと話しが変わる。慎さんと目が合って嬉しかったから声をかけただけ、だったのだが。またあのおっさんのとこにすぐ戻られるのも癪なので、ちょうど聞きたいと思ってたことを聞くことにした。「慎さん、何か欲しいものはないですか!」「欲しいもの?」「ほら、昨日誕生日だったなんて知らなかったもんで」「ああ……別にそんなの」「要らないとか言わないでくだ
「……なんだよ美味しい思いって」訝しく眉根を寄せる佑さんに、ふふんと得意顔で鼻を鳴らす。「電車の中で結構混んでて、俺がいないと慎さん押されて大変だったかもしれないし」実際には邪魔だと言わんばかりに睨まれた挙句、気持ち悪いと胸を殴られたが。「パン好きで焼き立てホカホカに弱いってわかったし、携帯番号も教えてもらえたし」携帯はほんとは浩平の次いでだが、そんなことよりもほかほか発言はマジで可愛かった……! 今思い出しても顔がにやけてくるのが止められない。「……お前、哀れなやつだな」それのどこが美味しいんだよ、と佑さんが頬を引き攣らせていたが、その中に微かに安堵が混じっているのを確かに見た。ような、気がする。む……と眉根を寄せているとくつくつと肩を揺らしながら「で、何を飲むんだ」と尋ねてくる。「コロナで」「拗ねんなよ」手際よく栓が抜かれた瓶に、櫛切りのライムが押し込まれて目の前に置かれた。「佑さんはなんでそんなに心配するんですか」「あ?」馬鹿にされて拗ねていると思っていたらしい佑さんは、胡乱な目で俺を見てぽかんと口を開けた。「慎さんだって男ですよ? いくらなんでもちょっと過保護なんじゃ」昼間からずっと持っていた疑念を取っ払おうと、本人に直接聞くことにした……って別に考えてたわけじゃないけど口から飛び出た。 暫く呆気にとられていた佑さんは、数秒経って漸く俺の疑念に気付いたらしい。 「お前なあ」と呆れた声を出しながら、がしっと片手で俺の頭を掴んだ。頭の天辺を握られたまま、佑さんがカウンター
「なんで浩平?!」当然心の声はストレートに口から飛び出す。「あ、でも人伝に聞き出すわけにもいかないですし僕の携帯を」ショックのあまり前のめりに身体を乗り出す俺には素知らぬ顔で、不意に店内を見渡すと通りがかったウェイトレスを呼び止めた。「申し訳ありません、ペンを貸していただけますか」なんつって、王子さまスマイルをキラッキラ振り撒いているが、その美貌の犠牲者を増やすのはやめてくれ!と叫びたい。慎さんはテーブルの隅にあった紙ナプキンの束から一枚抜き出しそれにペンを走らせて、ウェイトレスに向かってペンと一緒にまた笑顔を差し向けた。「ありがとうございました」案の定ウェイトレスは顔を真っ赤に染め、受け取ったペンをぎゅっと胸元にそれはそれは大切そうに握り締めて、ぺこりとお辞儀すると走り去る。ああ、なにこれ。浩平やらウェイトレスやらこの人と一緒にいるとずっとこんなハラハラしていなければならんのか。慎さんを相手にする場合、男も女も関係なくライバルになるということか。これはかなり気合いをいれていかねばならない、とテーブルの上で拳を握っていると、そこへぱたんと二つに折られた紙ナプキンが差し出された。「え、」「僕の携帯。あなたがまた酔い潰れたら、引き取りにきてもらわなければいけないので」「もう二度と潰れませんよ!」「そうしてください。僕から浩平さんに連絡する必要がないように」ふわりと、まるで薔薇の花が咲いたような笑顔でそう言われた。そんな顔で言われたら逆らえるはずもなく、渡された紙ナプキンをじっと見下ろす。ちくしょう!もう絶対潰れねえ!「ちゃんと浩平さんにも教えといてくださいよ」折りたたまれた紙ナプキンの内側を、見たくて見たくて仕方ないのを堪えていたが。続いた言葉に、一瞬「んっ?」と首を傾げた。「……え。俺も見ていいんすか」「……いらないならいいですけど」「いりますめっちゃいります!」「……ちょっと、声でかいですから」眉を顰めて俺を諫めてから、カフェオレのカップに口を付ける。その時の慎さんが少し照れたような顔に見えたのは気のせいじゃない。と、思いたい。――――――――――――――――――――――――――――――――慎さんの店のあるこの通りは、夜になると随分イメージが変わるなと改めて思う。もう深夜近い時間帯なのに未だにカッ
佑さんの過保護も俺が慎さんに対して感じてしまう守護対象的なものと同じなのだとしたら……佑さんと慎さんの関係って何なんだ?違和感から滲んだその疑惑は、義理の兄弟だとさらりと言いのけた慎さんによって半分は晴れた。慎さんは少なくとも、そう思っているらしい。佑さんは、どうだかわかんねぇな。だが「昼ドラみたいな如何わしい妄想に僕を巻き込むな」と慎さんに釘を刺されたことだし、それ以上は考えないことにした。佑さんが慎さんを案じていることに嘘はなかったと思うし、ならば俺がどうこう言えることでもないのだ。そんなことよりも、今は。佑さんにもくれぐれも頼むと言われたミッションをこなさなければならない。一緒に飯食って、店までちゃんと連れ帰る。それだけだが、慎さんは確かに細い。昼飯も殆ど手を付けていなかった。これはなんとしても、何か食べさせないと。道場で稽古した後ならば、少しは腹も減るだろうし。洋食が好きなのか和食が好きなのか、好き嫌いはあるのか、とか。知らないことが多すぎて、これから知ることが楽しみだった。見学すらさせてもらえなかった空手だったが、何度も御伴すればその内見せてもらえるだろうか。無理にくっついて行って嫌われても意味ないし、と周辺を散策して店を探すことにしたが。「……あ。そういや、携帯も聞いてねぇや」聞いたら、教えてくれるんだろうか。なんか店の名刺とか渡されそうだよな、店の番号だけ書いたやつ。なんとか言い包めて、番号くらいは聞き出したいところだ。慎さんにはダメ出し拒否を食らってばかりなのに、何故だか心は浮足立っていた。ビル周辺では、慎さんの好みもわからないので結局大した店も見つけられず、和食洋食どちらでもいけるよう
【高見陽介】※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※◎番犬の心得1.お触り禁止 2.必要以上の接近は禁止注:どちらも下心がある場合に限る(つまりエロ目的で触るな近寄るな)3.怖がらせない4.傷つけない仲良くなりたいなら、3,4項目は特に必須事項である。◎番犬の役目木曜以降、週末は出来る限り店に顔を出す。特に閉店後の時間帯は要注意人物の出没に細心の注意を払うべし。⇒要注意人物梶 孝弘 (35)独身、ゲイであることは本人から確認済み百貨店のバイヤーらしい。買付の為世界各地を飛び回っている、らしい。金は持っている。らしい。※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※……と、箇条書きにしてみた。慎さんが出かける用意をしに部屋に戻った時、佑さんが俺に出した注意事項は、仮にも男である慎さんに関することにしては随分と過保護な内容だった。まあ、それも全部、梶っておっさんがいるからなんだろうけど。「半年くらい前からかな、梶さんっていう客が慎目当てに来るようになったのは」「慎さん目当てってのは、確かなんすか」「見りゃわかる。お前も近々会えると思うけどな」何をどう見りゃわかるんだと首を捻ったが、佑さんがそう言うなら余程わかりやすいオーラかなんかが出てるんだろうか。と、とりあえずそれは男に会った時に確かめてみるとして、話の続きを黙って聞くことにした。「よく見るんだよ、営業時間以外にも店の周りうろついててさ」「は? それってストーカー行為なんじゃ」「わからん。家が近いから前の道はよく通るんだと本人は言ってる。その時も話しかけたら普通に会話に応じるから、ただの思い過ごしだといいんだけどな」その時の佑さんの表情は、真剣だった。この店の周辺でその男を見かける頻度がかなり高くなっている、そのことを慎さんは知らないらしい。俺はそれなら身を守るためにも知らせるべきなんじゃないかと思うのだが、そこで出てくるのが、3と4の項目だ。怖がらせない。傷つけない。「あいつ。ああ見えて蚤の心臓なんだよ。そんなこと知ったら店に閉じ籠っちまう、今だって精々週に一度出かけるだけなのに」その時は『そういうもんか』となんとなく聞き流していたが、よくよく考えれば違和感が拭えない。傷つけない、とは。現実的に身体につく傷のこと
フロア奥にある、カーテンで遮られているだけの更衣室でロッカーを開けると、手にしていたトートバッグの中から白い道着を取り出した。 ボタンを外してシャツを脱ぐと、骨張った細い肩が露わになる。 ロッカーの内側にある小さなミラーに、鎖骨や肩の骨が映ってその華奢さに溜息が落ちた。「……もう少し、肉をつけたらがっしりして見えるかな」肉がついたら、ここもデカくなったりするんだろうか、と胸元を覗き込んだ。 朝起きた時は陽介さんのこともありさらしを巻いていたけれど、どうも息苦しくて結局またチューブトップ一枚で隠してある。 もともと、豊な方ではない。 どちらかというとささやかだ、かなり。 まあ、デカければ隠すのに苦労するわけだから、小さくて良かったと思うべきなのだろうけれど。家族以外の場所でここは唯一『女』として居られる場所で、ここではほんの少し、楽に呼吸ができる。 だが、外では男として働いているなんてことは当然先生も他の生徒も知らない。 男のような格好は、僕の単なる趣味だと皆思っている。 決して僕は、男になりたいわけではなかった。 ただ、自分が『女』であることが怖い。 チューブトップを着たまま道着を羽織り、ぎゅっと前を合わせて両手で握りこむ。”あんくらい勢いあるやつなら、お前もぶっ壊れるかな、と思って”今朝の佑さんの言葉が、頭を過る。 僕は、必死で守り続けているというのに。 佑さんは、壊したい、と言う。「他人事だと、思って」ぼそりと悪態をつくと、下唇を噛みしめた。――――――――――――――稽古を終えて、女性陣は暫くの間雑談しながらのんびりと着替え
僕がそう言うと、彼はきょとんとした顔をした。まるで、僕の言った意味がわからないようだった。「なんでですか?」「いや、なんでって。普通、気分悪いでしょう」「俺としては、慎さんをもっと知るのに都合がいいし。あんなに心配性の佑さんが番犬に任命するくらいには、信用されてるのかと思って」「……」嬉しそうに破顔する、その邪気の無さに返す言葉が見つからない。がたんごとん、と電車が揺れる。降車駅が近づいて、車掌のアナウンスが流れた。「ここです。降りますよ」とん、と腕を叩いて一緒に降りるように促すと、やはり彼は嬉しそうだった。駅を降りると、目的地はすぐ近くだ。こじんまりとしたビルの二階のフロアを貸し切っていて、下から眺めると窓に空手道場の看板が掲げてあるのが見える。「え、慎さん空手なんかやるんすか」「まあ、ちょっとだけ。護身術程度に。昔っからこんな形ですから色々とありまして」「かっけえ……ってか、空手やってんなら番犬なんて必要ないんじゃ」言いながら、陽介さんがなぜかするすると自分の鳩尾辺りを撫でていた。「そうですね。辞めますか?」にや、と口角を上げて笑うとぶるぶると顔を横に振った。「辞めませんよ、絶対」ふん、と意気込んで鼻息を鳴らした彼に、ほんの少しほっとしたのはなぜなのか自分でもよくわからない。「それじゃ、ここまでついてきてくださってありがとうございました」ビルの入り口手前で、深々と頭を下げた。この中まで、着いて来られるわけにはいかないのだ。「えっ? 待ちますよ俺。ってか見学してみたいなって」「見学禁止です、すみません。それに貴方、着替えた方がいいんじゃないですか。昨日のままでしょう」指摘すると、彼は俯いて少しよれたワイシャツの襟元を指で引っ張って匂いを嗅ぐような仕草をする。「終わるまで一時間以上かかりますし、お待たせするのも悪いですから」「あっ、ちょっ」「上がって来たら怒りますよ!」まだ何か言いたげな陽介さんを置き去りにして、階段を駆け上がる。踊り場で一度立ち止まり、後ろの様子を暫くうかがってみたけれど、追ってくるような様子はなくてほっと溜息を落とした。念のためそこで、数分浪費する。ここから先はどうしたって、見つかるわけにはいかない。それにしても、佑さんがあれほど陽介さんに注意事項を言い聞かせてまで、番犬などと
「佑さんと慎さんって……どういう関係なんっすか」「は?」複雑そうな顔してる割には聞き方がストレートだ。 いや、聞き方がっていうか、その表情も合わさって何が聞きたいのか察することができてしまう。 何考えてんだ。 ぞわっと鳥肌が立ち怒鳴ってやりたいのを、懸命に声を抑えた。「何って……義理の兄だけど。元」「元?」「姉の元旦那。頼むからどろどろいかがわしい昼ドラみたいな妄想に僕を巻き込むなよ」 こんな話をしたら、それこそ僕と佑さんがどうにかなって姉と別れただとか思われそうだ。 だから余り人には話さないのだが、それこそ今まさに勘違いしてそうな男にはきちんと話しておかねばなるまい。「別れた今の方が仲良くしてるみたいだし、いい関係のようですよ。僕はただあの店で働かせてもらってるだけ。姉も知ってますしね」ぽかん、と口を開けた顔は、恐らく僕の答えが思っていたものと違ったからなのだろう。 耳が垂れてしょぼくれた犬を彷彿とさせる表情で、それが存外可愛らしくて思わず噴き出した。「僕はそういう趣味はないって言ったでしょう。一体何を言われてそういう発想になったんですか」僕が出かける準備を済ませて店に戻った時、何やら二人で話しを済ませたような雰囲気があった。 その時は特に気にも留めていなかったが、もしかすればその時何かを言われていたのかもしれない。 佑さんのことだから、面白がって陽介さんをからかったに決まってるけど、余計なことまで話していないか、急に心配になった。「何をっていうか……佑さんがやけに慎さんのこと心配してて」「心配?」「そう。番犬をするにあたり注意事項をこんこんと。まずはお触り禁止令と……」「さっき触ったじゃないですか」「そういうお触りじゃなくって……」